ポケットの中の喧噪・外伝6 哀・脇役


「ドラえもん」は人気漫画だけあって、じつに個性的なキャラクターが数々登場する。主役の5人はもちろんその代表だ。だが、脇役達も忘れてはならない。唯一ジャイアンが恐れる存在、母ちゃん。ジャイアンのかわいい妹、才能あふれるジャイ子。はっきりした名前はないけれどたまにいつもの5人とからんでくる帽子とデブの2人の友人。そして、のび太の心の励みとなっている、今は亡き彼のおばあちゃん・・・。縁の下の力持ちである彼らがいるからこそ、我々は「ドラえもん」を見て笑い、そしてある時は感動できるのだともいえる。
 だが、そんな目立たぬながらも存在感を発している脇役達の影に、人知れず現れ、そして消えていった哀しき脇役達がいた。彼らのうち、あるものは他のキャラに吸収され、あるものは忽然と姿を消していった。彼らはどのようなキャラだったのか? そしてどのように消え、なぜ消えなければならなかったのか? ポケットの中の喧噪・外伝6では、そんな哀しき脇役達の生き様を描いていく。哀・脇役達、それは別れ唄・・・。

1.戸手茂できる 〜プロトタイプの悲哀〜



 第11巻「テレビ局をはじめたよ」という話には、のび太の友人達が数多く登場した。ジャイアン、しずかちゃんといったレギュラーに混じって、他の話には登場しない、数話限りの名もなきキャラクター達があまた登場したのだ。そのなかに「戸手茂できる」という名のキャラクターがいた。この話はテレビに出たいというのび太達のために、ドラミちゃんがテレビ局を始める、というものだった。ドラミちゃんはテレビの上にアンテナを乗せると、それがテレビカメラとなって周囲一帯のテレビにそのテレビの前の映像が映される、という不思議なアンテナをもっているのだ。さて、このアンテナを使って放映を始めたのび太達だったが、始めてみればハプニング(放送事故?)続き。思わぬところで時間があいたので、のび太がドラミちゃんに頼んで次の番組のゲストとして呼び寄せたのがこの「戸手茂できる」という少年だった。彼は唄を歌いたくてしょうがないらしく、「はりきって歌うからね」と興奮して意気込みを見せた。が、彼にのび太が出演依頼をしたのは「今日の宿題」という今日の宿題の答えをといて教える、という教育番組(?)だった。もちろん彼はおこったが、「いやなら出なくていいんだよ」というプロデューサーのび太の鶴の一声に負け、しぶしぶひきうけることにした。彼がこの番組に抜擢されたのは、彼がその名の通り勉強が「とてもできる」からであった。しかしこの名前、頭がいいという特徴といい、どこかで聞いたことはないだろうか? そう、同じ特徴と似たような名前をもつ「出来杉君」というキャラがいるではないか。

 ここで、出来杉君のキャラクター性について詳しく述べよう。これについては「野比家の真実」を参考文献とする。彼の本名は出来杉英才(ひでとし)。よく知られているように、彼は本当に「できすぎ」といえるほどよくできた人物である。まじめに宿題をこなすのはおろか、次の日の予習までやってのける。当然テストはいつも高得点。知識欲は旺盛で、部屋の本棚にはズラリと本が並んでいるし、図書館にもよく通う。料理や手品、美術にも関心が高い。「のび太のスペースシャトル」という話で、「ロケットストロー」という高圧ガス並の圧力で空気を噴射できるストローを利用して空を飛ぶ手作りのスペースシャトルの設計図をあっという間に書き上げたことから、創造性にも富む人間だというのがわかる。さらに勉強だけでなく運動能力も高く、リーダーシップもある・・・、まさに非の打ち所のないパーフェクトな人間なのだ。しかし、あまりにも完璧な人間というのは嫉妬の対象となる。しずかちゃんとなかよくしている彼を見てのび太がジェラシーを抱くのはしょっちゅうだし、彼がいるためにいつもクラスで2番目の成績しかとれないクラスメートからの陰湿ないたずら電話を受けたこともある。また、完璧すぎる人間は近寄りがたく、また親しみにくい、ということもある。彼がしずかちゃん以外の友人と一緒にいるところをめったに見ない。そのためか、彼は決して登場回数は少なくないにも関わらず、いつまでもあの5人と同じレギュラーキャラにはなれずにいる。天才の悲劇・・・といったところか。

 さて、話を戸手茂できる君に戻そう。しばしば出てくる出来杉君と違って、彼は一度しかでてこないのでそのキャラクターはあまりよくはわからない。ただ、出来杉英才と戸手茂できる、この両名の共通項はある。頭がいい、ということだけでなく顔もよく似ている。できる君の顔は出来杉君のわりとハンサムな顔をよりマンガチックにしたという感じだ。ただ、性格の違いはある。やたら歌いたがっていたところからみて、できる君はわりと目立ちたがり屋だということが推測される。このあたりは、決して自分から意識して目立とうとすることはない出来杉君には見られない特徴であり、その分できる君の方がいくぶん親しみやすい感じがする。

 にもかかわらず、出来杉君はその後も登場し続けたに対し、できる君は一話限りで消えてしまった。なぜだろう? これは仮説であるが、彼は藤子・F・不二雄先生によって出来杉君のプロトタイプとして作られたのではないか? 考えてみれば、主人公であるのび太が出来杉君に近づくのは宿題を教えてもらおうとするか、しずかちゃんと仲良くしているのを見て嫉妬するかの2つのパターンがほとんどだ。のび太にそのような行動をとらせる対象となる人物は、のび太よりも頭がいい、そしてより魅力的な人物の方がいい。のび太のダメさ加減を考えると、この条件にはほとんどの人が当てはまってしまうが、「宿題を教えてもらう」からにはかなり頭のよい人物でなければならない。そこでできる君をさらに人間として完成された人物として発展させたキャラクターが、出来杉君だったのではないだろうか? こう考えると、一部の恐竜が鳥に進化したように、できる君は出来杉君に進化したのだと考えられる。自らの特徴をより強化された出来杉君を見て、そのプロトタイプである戸手茂できるは今何をおもうのだろうか。

2.ズル木、あるいは木鳥高夫 〜生存競争の残酷〜



 「テレビ局をはじめたよ」には、もう一人無名のキャラが登場した。木鳥高夫という、のび太のクラスメートである。そもそもこの話でのび太や彼の友達がやたらテレビに出たがったのは、この木鳥が「ジャリっこのど自慢」というテレビ番組に出演し、テレビに映る自分の姿を前にしつこいぐらい自慢話を並べたからだった。それもわざわざ、放送時間に友達を自分の家に呼び寄せて、である。番組が始まり、友達にこの番組にでるのかと聞かれれば「イエース、そうなの」と答え、友達に「まあ、あまりうらやましがるなよ。諸君にもそのうちチャンスがあるかもね」と言い放つなど、彼はその名の通り、むかつくぐらいの気取りたがり屋なのだ。

 彼もまた登場回数が少ないが、戸手茂できるよりは多く3回の登場が確認されている。一回はこの話、もう2回は「とうめい人間目薬」と「ネッシーが来た」という話である。「とうめい人間目薬」のときは、彼の名前は語られていないが、あきらかに木鳥高夫そのひとである。この時の彼はメンコ3枚を条件に自分の持っている「透明人間」という本を貸すという取引をのび太としていたが、結局その途中でジャイアンに本を取り上げられてしまった。その後、その本をジャイアンから返してもらおうと交渉をしたが、透明人間になったのび太がジャイアンの悪口を言い、それを木鳥が言ったと勘違いした彼によってあわれ木鳥はのされてしまった。

 もう一つの「ネッシーが来た」のときは、彼はその狡猾さを発揮していた。この話ではネッシーの存在を信じるのび太と、はなからその存在を否定する彼とのディベートが描かれていた。のび太のこのディベートに対する意気込みはすさまじいものがあり、ドラミちゃんの力を借りてネッシーの目撃例などの資料を熱心に集めていた。が、その資料に対して木鳥はそれが何かの見間違いであることの可能性が高いことを示した。その意見には説得力があり、結局このディベートは審査員である友達によって木鳥に軍配が上がった。ただの気取りたがりではなく、それなりに口のたつ奴らしい。私も推薦入試のときなどにディベートを経験したことがあるが、こいつのような奴とやり合うのはやっかいである。さて、気になるのはこの回での彼の名前だ。この回、彼はのび太によって「木鳥」ではなく「ズル木」と呼ばれていた。彼には2つの名前があるというのか? たぶん、これはあだ名だろう。木鳥のイメージからして、彼は「ズルい」人間といえる。「ズルい木鳥」が縮まって「ズル木」というあだ名ができたのではないだろうか?

 都合3回登場した木鳥、あるいはズル木だったが、結局その後登場することはなかった。その足跡は完全に消えてしまったのである。いったい彼はどこへ行ってしまったのだろう? それを探る手がかりは、スネ夫の存在にある。木鳥とスネ夫が一緒に登場する話は存在しない。ジャイアンやしずかちゃんはでてくるのに、である。その理由は、自慢したがりの気取りたがり屋という彼のキャラクターがスネ夫とかぶるからだと思われる。同じようなキャラクターが2人もいたら、それこそしつこいものである。できる君のように、彼がスネ夫のプロトタイプだったという可能性もあるが、私としては別の考え方、彼がスネ夫との生存競争に敗れたという考え方を提示したい。

 進化の歴史は常に熾烈な生存競争の舞台となってきた。動物学の世界には生態的空白(ニッチ)という言葉がある。これをわかりやすく説明すると、生態系をマンションと考えると、ニッチはその空き部屋にあたる。その空白にいち早く入り込み、そこに適した進化を遂げてこそ、その空白を自分の世界として確固たる地位を作れるのだ。それに失敗した動物たちは、絶滅するのみである。生態系に自分の居場所をつくれずに消えていった動物たちは、進化の歴史上あまた存在する。実はこれと同じことが、「ドラえもん」の初期の頃には起こっていたのではないか? よく考えてみれば、藤子・F・不二雄作品のいくつかでは、主役キャラクターの構成というものが決まっている。つまり、こういうものだ。

1.ロボットやお化けなど、非日常の存在。

2.それとともに暮らす少年。

3.ガキ大将

4.自慢したがりの金持ちの子供

5.かわいい女の子

 「ドラえもん」で言えば、3はいうまでもなくジャイアンのポストである。しかし、これが「キテレツ大百科」だとブタゴリラ、「オバケのQ太郎」だとゴジラとなる。藤子作品の主役となるには、この5つのキャラクターのうちどれかに合致していなければならないのだ・・・と断言はできないが、少なくともいくつかの作品についてはこれがいえる。木鳥は4のキャラに分類される。「キテレツ」ならトンガリ、「オバQ」ならキザオのポジションである。しかし彼は、たしかに自慢したがりというキャラクターはもっていたが、金持ちではなく普通の中流家庭だった。やたらと自慢をするキャラクターは、当然自慢のタネをたくさんもっていたほうがいい。そしてもっとも手っ取り早くそれを実現する方法は、そいつが金持ちで珍しいものや新しいものをすぐに手に入れることのできる人間であることだ。それは金や親の力でやたらとものを買い、海外旅行に行ってはそれを自慢するスネ夫自身がその代表選手だ。こうしてこの条件にあてはまらない木鳥は、それにあてはまるスネ夫との生存競争に敗れ、主役になり損なったのである。主役として華々しく活躍するスネ夫の影には、彼に敗れ消えていった一人の哀しい少年がいたのである。

 余談ながら、一つ気になることがある。戸手茂できるや木鳥高夫の登場した話では皆ドラえもんは登場せず、かわりにドラミちゃんがのび太の世話をしているのだ。おそらくドラミちゃんの登場する話は作品世界の本流から離れたサイドストーリーなのだろう。そしておそらく、これが彼女の登場する話にキャラのプロトタイプや別バージョンが登場する大きな理由なのだろう。本流とは違うのだから、そこをカンブリア紀の海のような新キャラ達の実験場にしてもかまわないわけだ。そしてそこで生まれた戸手茂できるは出来杉君へと進化し、木鳥高夫はスネ夫との生存競争に敗れた。こうしたドラミちゃんが主役の話は、初期の頃にはよく見かけたが後期の作品では見かけることはなくなった。「ドラえもん」の世界はもう試行錯誤の必要のない、いわば安定した生態系となっているようだ。もしこれから先再びドラミちゃんが登場し、なおかつそこに見知らぬキャラが現れたとしたら、それは作品世界のなんらかの変化の前兆なのかも知れない。藤子先生亡き今、そんなことがあるのかどうか。確率の低い話である。

3.骨川スネツグ 〜故郷は日本〜



 「ドラえもん」に登場するキャラクターは、基本的に一人っ子である。唯一の例外は妹・ジャイ子をもつジャイアンのみである。しかし、ご存じだろうか? かつてはジャイアン以外にも、兄弟をもつキャラがいたことを。それはなんと、スネ夫なのである。意外なことに、かつてスネ夫には「スネツグ」という名の弟がいたのである。ファンの間では有名な話で、その謎を扱った本やサイトはよく見かけるが、一般にはあまり知られていない。私もまだずっと小さい頃、彼の姿を単行本で見たことがある。彼はまさに、骨川の一族だった。彼の顔はもちろん、スネ夫やその両親はおろかいとこまで同じのあの顔。さらにのび太にけん玉の玉をぶつけたり、びっくり箱で脅かしたりと、性格の悪さも同じ。背格好は幼稚園か小学校へ入り立てといったかんじだった。

 しかし、なぜスネ夫の弟という重要なキャラの存在があまり知られていないのか。ジャイ子は有名なのに。理由は簡単である。彼もまた、連載初期に数度登場した後は忽然と姿を消してしまったからである。ところが、ここからがスネツグのできる君や木鳥との違いなのである。彼がその姿を消してから久しく、もはや誰もが彼の存在など忘れてしまったかに見えた第40巻、スネツグはいまだ健在であることをアピールしたのである。その再登場は実に意外なところからだった。「アメリカにいる」スネツグがスネ夫の元へ久しぶりに里帰りにきたのである。ア、アメリカ!? いつのまにそんな所へ!? どうやらスネツグが一度姿を消したのは、アメリカ・ニューヨークに住む親戚の所へ養子に出されていたかららしい。アメリカに行ってしまっていたのでは、姿を消したのも無理はない。しかし、彼がアメリカに行ってからも兄・スネ夫は頻繁に弟と手紙のやりとりをしていたらしい。あのスネ夫にしては兄らしい行動だ。だが、あの自慢したがりのスネ夫がありのままの自分をスネツグにさらけ出すわけがない。この話は、スネ夫がそれまで自分のことを勉強もスポーツもでき、女の子にもモテるとした虚飾の内容の手紙をスネツグに送り続けていたために、彼が里帰りすることになってあわてる、という話なのだ。それにしても、実の弟にさえ見栄を張るというのは、なんだか悲しくなってくる。私にも妹がいるので、兄としての威厳を保ちたいという気持ちは分からないでもない。ましてやスポーツや勉強はのび太よりはできる程度、力や身長にいたってはのび太にも劣り、金持ちであることと口が達者なこと以外はとりえのない彼である。自分を必要以上に誇張してしまったのは、その反動もあるのだろう。女子から人気を得ていたこともあったが、それは彼女達に安物のアクセサリーなどのプレゼントをあげて人気を取っていただけで、決して彼の容姿や内面にひかれたわけではない。勉強もスポーツもダメ、背が低く女にもモテない。もし彼の家が貧乏になりでもしたら、彼はのび太と同じかそれ以下のとりえのない人間になってしまう。金の力で物を手に入れ、それを自慢することで自らのアイデンティティーを支えている。彼もまた、哀れな存在なのかもしれない。

 話がスネ夫の方へそれてしまった。話をスネツグに戻し、ここからは彼がなぜアメリカに養子に行かなければならなかったかを推測する。ドラえもんの謎本として有名な「野比家の真実」では、次のような推測を立てている。金持ちである骨川家が口減らしのためにスネツグを養子に出すはずがない。それはおそらく、スネツグを骨川家以上に金持ちであるアメリカの親戚のところに養子に出して恩を売り、なんらかの利益を得ようとした、という政略養子説である。その後スネ夫がたびたび海外旅行に行っているのにスネツグに会った様子を見せないのは、おそらく骨川家と養子先との間でトラブルが生じ、関係にひびが入ったのではないか・・・と。とにかく利益を重視する骨川家なら考えられることだ。しかし、もしこの話が本当なら、スネ夫の両親は鬼である。今でも十分に金持ちのくせに、かわいい息子を売るようなまねをしてまで利益を得ようとする・・・信じられない。

 今でもスネツグは、ニューヨークの街で何不自由ない生活を送っているのだろう。しかし、本来ならばジャイ子のように主役キャラの兄弟としてそれなりに活躍することが期待されたかもしれないのに、何の因果か遠いアメリカに養子に出され、作品世界の本流から飛ばされてしまった彼の心はそれでも空虚であろう。彼はある意味では、戸手茂できるや木鳥高夫よりも非業のキャラなのかもしれない。私は思う。もしスネツグが養子先でクリスチャンになり、なおかつ彼の両親の欲深さを知っていたとしたら、彼は里帰りのおみやげとして両親に「新約聖書」をプレゼントしただろう。「マタイの福音書」第4章にはこんな言葉が書かれている。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」忘れてはいけない。「強欲」は七つの大罪の一つだということを。

4.源家のペット達 〜もの言わぬ動物たち〜



 漫画やアニメにおいて、動物が名バイプレーヤーとしてしばしば重要な役割を果たすのは「ウルトラR」でも述べたことである。「ハウス名作劇場」では特にそれが強く、パトラッシュやラスカルといった動物たちが主役と並ぶほどの存在感を出していたこともある。

 では、「ドラえもん」ではどうなのか? パトラッシュと並ぶような名動物キャラクターは存在したのか? 実は、これがないのである。パトラッシュどころか、サザエさんちのタマにまで及ぶキャラもいない。もっとも、これはほぼ全ての藤子作品に言えることだ。例外は「パーマン」のパーマン2号ことチンパンジーのブービーだが、こいつはあまりにも人間くさかった。パトラッシュのような意味で名動物キャラとは言い難い。他には「エスパー魔美」のコンポコなどがいるが、マイナーすぎるしインパクトもない。

 それでも「野比家の真実」で語られているように、ドラえもんには主役キャラのペットや他の家のペット、あるいは野良猫、野良犬として多くの動物たちが登場している。中でも最も多く登場した動物は、しずかちゃんのペット達だった。彼女の家では、小鳥や犬がペットとして飼われていたのである。ところが、不思議なことがある。しずかちゃんの家のペットはやたら交代劇が激しく、様々な動物たちが現れては消えていったのだ。最後の章となるここでは、消えたペット達の謎に迫る。

 最初に登場したペットは、ペロと言う名前のかなり大きな犬だった。もっともこのペロは登場していきなり病死してしまっている。思えばここから、源家のペットの不運な歴史は始まっている。しずかちゃんはこのペロを相当かわいがっていたらしく、のび太がドラえもんの力を借りてペロを生き返らせると約束すると、ペロを埋葬しようとする両親の前でペロの遺体にすがりつき、のび太がペロを生き返らせるまでゆずらなかった。その後ペロはドラえもんとのび太がタイムマシンで過去に戻り、病死する前のペロになんでもなおる薬を与えることによって死を免れた。

 次に登場したのは第8巻で、出てきたのはカナリヤだった。しかしこれは「登場」とは言えない。なにしろ「わらってくらそう」というこの話で、しずかちゃんが登場していきなり、「うちのカナリヤが死んじゃったのよ」と涙を浮かべて語っているのだ。登場する前から死んじゃっているのである。続く12巻「ミサイルが追ってくる」の1コマ目は、いきなり「ノラネコのクロがうちのカナリヤを食べちゃったの」と泣きながら語るしずかちゃんの姿から始まっている。なんだこれは!? 登場する前から死んでばっかりじゃないか! すでに2羽もカナリヤを飼っていることが確認されているのに、元気にさえずっている姿が全く見られない。しずかちゃんはそんなに小鳥の世話が下手なのだろうか? 確かに「のび太航空」や「現実中継絵本」などの話では、小鳥を逃がして網を片手に追っかけるしずかちゃんの姿を見ることができる。さて、過去にしずかちゃんによって飼われていた二羽のカナリヤは、我々の前に姿を現すことなく消えていった。そして、やっと我々の前に生きたしずかちゃんの小鳥が現れるのは、前のカナリヤが猫に喰われたことが明らかにされた第12巻に収録された「ペットそっくりまんじゅう」に登場したチッチという名の小鳥だった。この話の中でしずかちゃんはチッチのことを「きりょうよしでとっても声がいい」とほめていた。小学生が「きりょうよし」っていう表現もなぁ・・・。それはともかく、やっと生きた小鳥を見られたと思ったら、このチッチもこの話一話限りで消えていくことになる。そしてその後も、様々な小鳥たちが現れては消えていくことになるのである。

 犬の方はどうなったのだろう。3巻でペロがドラえもん達の手によって死を免れたことはすでにとりあげた。この後彼女の飼い犬が登場するのは12巻のことになる。ところが、その犬はペロではなくチロという名前だった。名前だけでなく、姿形もまるで違う。間違いなくペロとは別の犬だ。ペロはどこへいったというのだろう? 死んだとしたら気の毒だ。せっかくドラえもん達が救ったというのに。ところが14巻「ヨンダラ首輪」には、またしてもペロという名の犬が登場した。よかった、ペロはまだ健在だ、と思ったら大間違い。このペロ、3巻のペロとは別の犬であることが明らかなうえに、子犬だった。やはりペロは死んでしまい、その死を惜しんだしずかちゃんが新しく飼うことにした子犬にペロの名を与えたのだろうか。だとしたらチロはどこへいったのだろう。その疑問も解決しないうちに、今度は16巻に「シロ」という名前の犬が登場する。このシロは、さきほどのチロによく似ている。しかし、もし同じ犬だとしても、犬を改名させる人などいるのだろうか? チロという名前がそんなにセンスのないものとも思えない。どういう事情なのだろう? 結局、確認しただけでも初代ペロ、チロ、二代目ペロ、そしてシロと、4匹もの犬が源家のペットとしてあらわれたことになる。4匹ともいまだ健在だとするのも、ちょっと無理がある。たしかにしずかちゃんがピアノやバイオリンをたしなむところからみても、彼女の家はそれなりに裕福なのであろう。しかし、それでもムツゴロウさんのように4匹の犬を同時に飼っているとは考えにくい。やはり、犬は鳥と同様に次々と死に、しずかちゃんはそのたびに新しい犬を飼っていったのだろう。呪いのようなものを感じる。

 実際の所、この頻繁なペットの入れ替わりは呪いだとかしずかちゃんがペットの世話が下手だとか、そういうことではないと私は考える。原因は藤子・F・不二雄先生にあるのかもしれない。しずかちゃんのペットが登場した回をみると、彼らの多くはドラえもんが道具を出すきっかけとなって、でてきたり死んだり病気になったりしている。彼らはあくまでもストーリーを構成するネタの一つとして扱われていたにすぎないかもしれない。もちろん、だからといって藤子先生が冷淡な人物だなどというつもりは毛頭ない。しずかちゃんのペット達は、特撮ものの怪獣と同じ様な位置づけなのだ。バルタン星人やレッドキングのような人気のある怪獣達以外の大多数の怪獣達は、一話限りで消えていく。ペット達はそんな存在なのだろう。以前にも述べたとおり、「ドラえもん」の中でレギュラーや準レギュラーとしての地位を確立することは難しい。その地位を手に入れるためには、やたらできがよかったりわるかったり、乱暴者だったり金持ちだったりと、なんらかの突出したキャラクター性が必要だったのだ。それがないために消えていったキャラは数多くいる。人間でさえそうなのだから、人間ほどの個性をもたない動物たちにとって、これはさらに難しいことなのだ。かくしてしずかちゃんのペットを含め、すすきヶ原の町内で暮らす野良猫や野良犬、他の家のペット達は一回限りのネタとして使われ、そして消えていく運命にあるのである。ものいわぬ動物たちは、それに対して為す術もない。

 幾多のキャラクター達が現れ。そして消えていく・・・。「ドラえもん」の世界でのキャラ達の興亡は、まるで進化や文明の歴史をみているようである。しかし、私は彼らを落伍者とはよびたくない。最初にいったとおり、彼らが登場し、ドラえもんやのび太達に関わってくることによって、「ドラえもん」のストーリーは形作られているのだから。それはいうなれば、建物を形作る土台や柱、釘である。彼らにはそう思って、自らの役目を誇りに思い、マイナーでも「ドラえもん」のキャラの一人として、胸を張って歩いて欲しい。そして我々も、時には顧みよう。哀しく、はかなくも強く生きる脇役達のことを・・・。

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