ポケットの中の喧噪・外伝9 のび太の野望


 「ドラえもん」を読んでいて、たまにやりきれなさを感じてしまうことがある。それは、のび太のあやとりにまつわる話を読んだ時だ。よく知られているように、のび太の三大特技は昼寝、射撃、そしてあやとりである。そしてのび太はドラえもんの道具を使って自らの才能を有効利用しようとしたことが何度かある。「あやとり世界」という話では「もしもボックス」を使い、あやとりができる奴ほど偉い、という世界をつくりだし、「家元かんばん」を使って「野比流あやとり」の創始者にもなった。

 ところがである。自らの才能を有効利用しようと努力する彼に対して、世間は冷ややかそのものである。彼が苦労して編み出した新技を披露されても、しずかちゃん達は「お上手」などと言ってそっけない。「野比流あやとり」の門下生達は、スネ夫が家元かんばんをはずし、かんばんの効果がなくなるや、「あやとりなんて、ばからしい」などと言ってやめてしまった。看板などの力抜きで、この新しい芸術に参加しようという骨のある奴は一人もいないのか! 私はそんな彼らの態度に、激しい憤りを感じる。「ばからしい」とはなにごとだ! あやとりができることだって、れっきとした才能のひとつじゃないか! 世の中にはあやとりのように、他の人にとっては遊びとしか見えないようなことを極め、その才能を活かして活躍している人がいくらでもいる。プロスピナー(ハイパーヨーヨーのプロ)やプロスケートボーダーなどがその代表例だし、特撮関係のライターだってそうだ。これらの人が華々しく活躍できるのに、あやとりの天才が活躍できないというのはあまりにも不公平である。日本は表向きでは個性の重視などと言っているが、これではそのスローガンは全く守られていないことになってしまう。

 それに、のび太のあやとりは彼自身によるあくなき研究により、もはや芸術レベルにまで達している。茶道や華道と同じで、「あやとり道」と呼んでも差し支えないはずだ。なにより、あやとりのような伝統的な遊びは現在衰退の一途をたどっている。伝統文化の保全という意味でも、彼の構想を指示する価値は十分にある。
 新しい芸術・文化の創造、伝統文化の保全、そして社会的矛盾の追及。これだけの意義がそろえば、のび太を擁護し、彼の崇高な理想を理解せぬ愚民共を糾弾することの正しさは理解してもらえるはずだ。こうして私は、のび太を、そしてあやとりの未来を守るために立ち上がる決心をした。あやとりを文化のレベルにまで押し上げ、のび太の野望を実現するための方法。今回はそれについて、他の同士達と考えてゆくことにする。

1.なぜあやとりはダメなのか?


 なにかについて問題があるときは、その原因を探るのが定石というものである。というわけで、まずはなぜあやとりが流行らないのかについて考えよう。

(1)地味だから

 この特徴は言うまでもない。あやとりにとって致命的な欠点である。先ほど「ハイパーヨーヨーはよくて、なぜあやとりはダメなのか」などと言ったが、それについてもこのあたりに原因がある。この二つは「動」と「静」という対称関係にある。プロスピナーともなれば、ハイパーヨーヨー一個で次々とめまぐるしく技を繰り出す。アクロバティックな技の連続で、見ているほうは感嘆の声をあげてしまう。こんなすごいことを苦もなくやってのけるので、プロスピナーに憧れ、ハイパーヨーヨーをはじめる男の子も多い。それに比べてあやとりは、あきらかに「静」の世界の遊びである。ヨーヨーとは手先だけを動かすところは同じだが、あきらかに動きに欠け、結果としてだされる技も「さかずき」「はしご」など、名前からしてヨーヨーの技に負けているものばかり。のび太自身あやとりが好きな理由を聞かれ、「腹も減らず、金もかからない遊びといったらこれくらいしかないから」などと言っている。あきらかにネガティブで、動きにも華がないのである。これでは子供から爆発的な支持を得られるわけがない。くやしいが、これは認めざるをえない。

(2)社会の役にたたない

 言うまでもないことだが、あやとりは社会的になんの利益ももたらさないと思われている。まあそこのところをなんとか役に立つところを見つけ出し、改善しようとしているのだが。あやとりが茶道や華道のように芸事として成立しているならば話は別だろう。しかし、かなしいかな、あやとりはそれらよりはるか以前に起源をもつにもかかわらず、芸術として大成されていない。カルチャーとして立場を築くためには、人気か伝統をもっていなければならないようだ。

 芸術へと昇華できず、遊びにすぎないが遊びとしてもあまり人気がない。このことがあやとりメジャー化を妨げているのだ。このような位置にあるものを文化や芸術として認められるレベルまでもっていくには、予想以上の困難が待ち受けているようだ。まさか、ここまで難しいとは・・・。

2.メジャー化をはかる


 あやとりがなぜメジャーになれないか。その原因はわかった。では、どうすればあやとりを派手なものにできるか。

 最初に思いついたのが、スカイダイビングをしながらあやとりをする、という我ながらふざけた案だった。しかし、これはたしかに派手だが、スカイダイビングのほうに重点がおかれてしまっている。それに、スカイあやとりが流行るとは思えないし、なにより高所恐怖症ののび太にこれは無理だ。

 次に思いついたのが、ハイパーヨーヨーのように様々な技を次々と繰り出す方法。視覚的にはスピーディーだし、のび太の技量をもってすれば可能なはずだ。だが、この方法で子供をひきつけられるかどうかについてはまったく自信がない。何が子供にうけるかという問題はまったく予想がつかないことだ。のび太の華麗な指さばきに子供たちが魅了されればよいが。

 このあやとりメジャー化計画のために、様々なドラサイト管理人や友人の皆さんにメールを送って意見を伺った。しかし、聡明なる彼らの頭脳にとっても、やはりこの問題は難しかったらしく、決定的な打開策を彼らから得ることはついにできなかった。ドレンの野望さんの「あやとり本出版計画」ぐらいである。しかしこの方法も、残念ながらあまり決定的とは言えない。あやとり関係の本というのは、すでに子供向けに出ているはずである。あやとりを爆発的にヒットさせるためには、これまでのあやとり本の常識を覆す革新的な本を出さねばならないだろうが、あやとりをどうやってメジャー化しよう、と四苦八苦している我々にそんな本は書けそうにないし、ましてやのび太には絶対に無理だろう。

 大学の友人K・H氏からは、「あやとりドラマ計画」という案をいただいた。要するに、あやとりがドラマの重要なファクターとなっているドラマを作り、その効果であやとりを流行らせようというものである。氏は具体的な筋書きなどもっていなかったので、これは誰か有名な脚本家の先生にお願いするしかないだろう。あやとりでしか自分の心を表現できない美少女と、彼女をやさしくいたわる青年の恋・・・。「気持ちわりい!! ムズムズする!!」ヘッポコな筋書きだが、私にはこんなものしか思い浮かばなかった。とにかく、そんなコンセプトでそれなりにいい脚本を書き、月9で放送すればそれなりに影響がでるだろう。

 こうなったら、爆発的ヒットを狙うのはやめよう。ある時期ものすごく流行ったものは、その後急速に下火になって消えていくものと相場が決まっている。あやとりをそんな形で終わらせたくはない。やはりあやとりには文化や芸術として、安定した地位を確立してもらいたいのだ。

 老子Mの意見だが、あやとりをすることは創造力の育成に役立つのではないだろうか。のび太のように、一本の紐から様々な技を作り出すには、かなりの創造力が必要なはずである。それに、指先を使った動作は、特に脳を刺激するらしい。手先仕事をすることで痴呆を食い止められるというのは、よく知られていることである。これらの効果を認識したうえで、社会が教育や老人介護にあやとりを導入していってはくれないだろうか。かなり現実的な案だと思うのだが。

 芸術としてあやとりを大成することはできるだろうか。これについても、私は有望だと考えている。なにしろ、現代は価値観が非常に多様化した時代である。なにをもって芸術とするかもまた然りで、それは現代美術の多様さを見ればわかることだ。少し古い例になるが、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンを使った作品などその代表だろう。こんな時代の芸術界に、あやとりを受け入れるぐらいの余地があってもいいのではないかと私は思う。そういえばいつだったか、のび太は何か歴史に名を残したいと考え、その方法の一つとして「大仏の手であやとりをする」ということを候補にあげていた。巨大建造物を白い巨大な布で包んでしまい、それを自らの作品とする芸術家の話を聞いたことがある。ならば、大仏の手であやとりというのもあながちばかげた話ではないのではなかろうか。さすがに国宝を使ってそんなことはできないだろうが、それならこういうのはどうだろう。都心に並ぶ高層ビル。そのうち10件を巨大な指に見立て、その間に綱をはりわたしてあやとりをする。ビルとビルの間に赤や青の綱がはりわたされ、不思議な空間が生まれる。そんな様を想像すると、けっこう芸術的色彩のある眺めに思える。あとはこの芸術を社会が認めてくれるかだが、こればっかりはやってみないとわからない。だが、少なくとも現代芸術としてあやとりは成立できそうだ。のび太よ、お前の努力は決してムダにはならないぞ!!

3.さらに完璧に


 こうしてのび太のあやとりは芸術としても、教育の手段としても成立する可能性が十分にあることがわかった。これまでの苦労は無駄ではなかった。さて、これでひとまず安心、とは言えるが、私の挙げた可能性にはいまだ不確定要素の多いこともまた事実である。だが、現実の世界で考えられる方法では、これ以上のサポートはできそうにない。もしさらに完璧にのび太の後押しをするとしたら、それには「非日常の存在」、すなわちドラえもんの協力が必要となるであろう。というわけで、ここから先は仮にこの世界にドラえもんが実在したら・・・という話になる。現実的ではないが、あやとりをよりダイナミックなかたちでこの世界に広められるだろう。

(1)ドラえもんを味方につける

 ドラえもんの力を借りるためには、彼を味方につけるところからはじめなければならない。実を言うと残念なことに、我らのドラえもんまでのび太のあやとりをたいした才能ではないと思っているのだ。過去にのび太が「もしもボックス」で作ったあやとり世界が失敗したのも、彼が「自分のゴムマリのような手ではあやとりができない」というくだらない理由で元の世界に戻してしまったことにある。我らの愛するドラえもんが、あやとりを軽視する憎むべき愚民共と同じ考えをしていることは残念でならない。彼には我々が燃える心で説得し、すぐに考えを改め、のび太の幸福を守るために我々に協力してもらいたい。ここから始めなければならないとは、あやとりメジャー化の前途にはなんと壁の多いことか。

 幸い、ドラえもんを口車に乗せる、いや、説得することはできるだろう。それには、彼がのび太の未来を救うためにやってきたことに目をつけることだ。「のび太の未来を明るいものにするためには、やはりのび太の才能を活かし、伸ばしてゆくことが望ましい。のび太にとっての才能は数少ないのだから、どんなものでもばからしいなどと言って無視せず、有効利用していかねばならない。あやとりができなくてくやしいという君の気持ちはわかるが、本気でのび太のことを考えているのならば、自分の都合など顧みている場合ではないだろう。」 このようにドラえもんを説得するのだ。ドラえもんは(たぶん)本気でのび太のことを考えているだろうから、こう説得すればきっと理解してくれるはずだ。これでダメだったとしても、まだ手はある。あまり使いたくないが、目の前にどら焼きを山ほど積んで、「ま、これでご勘弁を・・・」 これでなんとかなるだろう。

(2)伝統をつくろう

 これからはドラえもんが味方にいる。なんと心強いことか。なぜ最初からこうしなかったのかと言う人もいるかもしれないが、できる限りドラえもんには頼りたくなかったのだ。現実的にあやとりをメジャー化する方法を考えたかったし、なによりドラえもんの最終回、「さようならドラえもん」で描かれているように、藤子先生がのび太に求めていたことはドラえもんからの自立である。それは、我々一人一人にも求められていることでもある。だから、これから紹介するドラえもんの力を借りたあやとりメジャー化計画は、あくまでおまけ程度に考えてほしい。

 さて、ドラえもんの力さえあればほとんどなんでもできるのだが、まずは伝統を作るところからはじめてみよう。言うまでもなく、人間は伝統というものに弱い。老舗の和菓子屋、江戸時代からの寿司屋など、その代表例だ。日本の古典芸能である能は室町時代に大成されたものだし、茶道も安土桃山時代にかの有名な千利休によって大成された。こういう伝統が権威を生む。ここはそれにならって、あやとりにも伝統をもたせてしまおう。タイムマシンを使って、ちょこっと歴史をいじってしまうのだ。それも、千利休なんかよりもっと歴史的にメジャーな人が始めた、ということにしてしまえば・・・。古いほうがいいというわけでもないが、「実はあやとりは遣隋使の小野妹子が隋から持ち帰ったもので、それを聖徳太子が・・・」というのはどうだろうか。起源が飛鳥時代にまでさかのぼり、さらにあの聖徳太子がはじめたとあれば、だれも伝統にけちなどつけられないだろう。あとは順調に発展し、どこかでそれなりに権威のある人が芸能として大成してくれれば、立派な古典芸能のできあがりである。

(3)トップにのぼりつめろ!

 あやとりが権威ある芸能となってしまえば、あとはもうこちらのものだ。「家元かんばん」や「流行性ネコシャクシビールス」を使ってもいいのだが、こうなればのび太のテクニックだけでも十分である。どこかの流派に入門し、「ほうき星」や「ギャラクシー」といったオリジナル技でのしあがっていくのび太。あやとり界の若き貴公子となり、家元となるのもそう遠くはあるまい。野比流あやとり家元として風格もついたのび太を見れば、ドラえもんも安心して未来に帰れるというものだ。理想的なハッピーエンドではないか。これで我々の、あやとりを芸術として大成するという願いは達成された。野望を達成したのび太がこれからどんな道を歩んでいくのか。それは彼自身にまかせるとしよう。

 かくして、あやとりメジャー化という目的はその前途に幾多の困難が待ち構えてはいるが、現実的にも十分成功しうるものだという結論に達した。この困難な試みに成功の可能性を見出せたことを、私はとても喜ばしく思う。これは言うなれば、人間の可能性の勝利である。人間の社会の一つの理想形として、人が自分の好きな仕事、自分に向いた仕事に自由につける社会というものが挙げられるだろう。だが残念なことに、いまだその社会は実現されてはいない。100%今の自分に満足している、という人は決して多くはないはずだ。個性の重視というスローガンが達成されないのも、一人一人の個性を見極めるだけの余裕がこの社会にないからだとも言える。今は、いつかそのような社会が実現されることを願うしかない。互いが互いの個性を認め合い、あやとりができることを立派な才能と認められるようになれば、それは本当に理想的な社会ではないだろうか。本章で行われた考察は、その一つの可能性であった。あやとりが決してバカげたことではないということを発見できた以上に、そんな社会の可能性を見出せたことが、私にとっては今は最大の喜びである。

 今回の企画に協力してくださったみなさん

・老師Mさん
・ドレンの野望さん
・逢雲逮雲さん
・Dai−chanさん
・K・H氏

 みなさんどうもありがとうございました。

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