薄暗い部屋の中。紫色のテーブルクロスのかけられた小さなテーブルを前に、一人の女性が何かを行っていた。テーブルの上には、一個の水晶玉が置かれている。淡い光を放つそれに手をかざし、女性はそれを凝視していた。
「・・・ビジョンが・・・不鮮明だな・・・」
水晶玉を見つめるその美しい顔が曇る。やがて、水晶玉からゆっくりと光が消えていった。
「ふう・・・」
疲れたように天井を見上げ、濃い緑の髪を無造作にかき上げて、女性はため息をついた。しばらくそのままの姿勢で天井を見上げていたが、やがて彼女は席を立ち、黒いケープを羽織ると玄関から廊下へ出ていった。
第2話
〜May〜
和菓子の侵略
「ハァ・・・」
寮の玄関から外へ出て、亜矢は深呼吸をした。スズメの鳴き声、目に染みる木立の緑、少し冷たい早朝の空気。その全てが、心地よく感じる。目を細めて朝日を見つめていた亜矢の背後で声がしたのは、その時だった。
「あっ、亜矢さん。おはようございます」
振り返ると、そこにはランニングウェアに身を包んだ圭介の姿があった。
「やあ・・・おはよう。ジョギングかい?」
「ええ。このぐらいの時間にやった方が、体が目覚めますから」
準備運動をしながら、圭介が答える。
SMS第1小隊の寮は、どういうわけか男女共同になっている。各階5部屋ずつの3階建てで、1階が男子、2階が女子という振り分けになっている。普通なら風紀面で何かと問題にされそうだが、どういうわけかその手の議論は行われず、また、そのような問題も起こってはいない。第1小隊のモットーの一つである「仲良く」そのものである。
「亜矢さんは、こんな朝早くに何してるんです?」
「私は・・・クリスタロマンシーをしていたんだ」
「ク・・・クリスタル・・・?」
「クリスタロマンシー。水晶玉を使った占いだよ。この時間にやると・・・いい結果が出ることが多いんだ」
「ハ、ハハ・・・。そうですか・・・」
相変わらずの亜矢の様子に、ひきつった笑いを浮かべる圭介。
「それで、どんな結果が出たんです?」
一応聞いておいた方がいいと感じ、圭介は尋ねた。普段の行いはともかくとして、亜矢の占いは信じておいた方がいいと、仁木達先輩からは言われていたのだ。
「うん・・・。今日は残念ながら・・・はっきりしたビジョンは得られなかったんだけどね・・・。だけど・・・注意した方がいい・・・。近いうち・・・恐ろしいものが現れるようだ・・・」
真剣な表情になって語る亜矢。その表情と発散される威圧感に、思わず圭介も息を呑む。
「お、恐ろしいものって・・・何ですか?」
「言っただろう・・・はっきりしたビジョンは得られなかったって・・・。でもそうだね・・・例えるならば・・・「恐怖の大王」」
「恐怖の大王?」
オウム返しに言う圭介。その言葉には、聞き覚えがあった。確か、中世のノストラダムスとかいう有名な予言者の、最も有名な予言だ。1999年に地球を襲う大災厄と解釈されていたが、結局何事も起こらなかったのは、今圭介達がこうして何事もなくのんきに話しているとおりである。
「地球を滅ぼしかねない・・・恐ろしい存在・・・ということさ」
「な、なんだか気になりますね・・・」
「気になるかい・・・? 正確さを上げる方法が・・・ないわけでもないけどね。ただそれには・・・少し協力してもらう必要が・・・」
「そ、それじゃ俺、行ってきまーす!!」
亜矢が妖しい微笑を浮かべはじめたので、圭介は風のようにその場から走り去っていった。亜矢はそれを見て少し残念そうな、そして面白がっているような顔をしたが、すぐに元の無表情に戻り、踵を返した。
「さて・・・もう少し・・・眠らせてもらおうかな・・・」
そうつぶやくと、彼女は寮の自分の部屋へと戻り始めた。
「やれやれ・・・」
署の前にある坂道を下り降りて、圭介は一息ついた。普段のルートなら、この交差点を右に曲がる。しかし、彼は今朝からは別のルートをたどろうと考えていた。交差点をまっすぐ進めば、海沿いの道路に出ることになる。あとはその道路に沿って、海上区を海沿いに一周するルートをたどれば、これまでよりもずっと長い距離を走ることになる。SMSに配属され、海上区で暮らし始めるようになって、早くも1ヶ月が過ぎていた。これまでは肩慣らし程度に比較的短いルートを走ってきたが、今日からは本格的にトレーニングを視野に入れた長距離ランニングを始めようと考えていたのである。
「恐怖の大王ねえ・・・」
走りながら、先ほどの亜矢の占いの話を考える。彼女の占いはよく当たるらしいが、恐怖の大王などと言われれば、容易に信じられないのも無理はない。半信半疑どころか、七、八割方は疑である。
そんなことを考えながら走っているうちに、圭介は海沿いの幹線道路に出た。そして、海に平行するかたちで走り出す。早朝の道路には車も少なく、静かだ。なおかつ、美しい日の出を見ながら走ることができる。ランニングのルートとしては、とても恵まれたものと言えるだろう。圭介は爽快感を味わいながら、海岸の道を走り続けた。
そして、しばらく走り続けた時である。
「あれ・・・?」
前方を走っているランニングウェアの人物を見たとき、圭介は思わずそう口に出していた。自分以外にもランニングをしている人がいることは、もちろん不思議でもなんでもない。しかし、その後姿に見覚えがあったのだ。圭介はその疑問を確かめるべく、少しピッチを上げ、その人に追いついていった。
「やっぱり、隊長でしたか・・・」
その人物に並んで走りながら、圭介は少し驚いたような顔で言った。
「お前か。感心だな」
対照的に、声をかけられた小隈は、いたって平静な声を返した。しかし、ランニングをしている人としては、彼の姿は少し奇妙なものだった。なぜなら、口をガスマスクのようなもので覆っていたからだ。
「隊長、大丈夫なんですか? そんなものまで使って走ったりして・・・」
それが小型の酸素ボンベであることを知っていた圭介は、心配そうにそう言った。
「消防士だった頃から、この日課は欠かしたことがないんだよ。たしかに気管支をやられてはいるが、それ以外のところは元気なんだ。それなのにやめるってのは、悔しいだろ?」
そう答えながら、二人は並走する。圭介は、小隈のペースの速さに驚いていた。圭介にとってはなんということもないペースだが、小隈くらいの年の人間にとっては、かなりこたえるはずのものである。しかし、小隈は汗ひとつかいていない。酸素ボンベをつけていることを抜きにしても、かなりの体力であることは間違いない。これが、命の重みを知った男の鍛え方かと、圭介は内心で思った。
「走り出してどれくらいですか?」
「海沿いを一周と四分の一ってところだな。つきあうか?」
「はい!」
「ほら」
ベンチに座って一息ついていた圭介に、青い缶が投げ渡された。その直後、同じ缶を持った小隈が、彼の隣に腰掛ける。
「いいんですか?」
「上司だからな。ちょっとはきっぷのいいところを見せないと」
そう言って、スポーツドリンクのプルタブを開ける小隈。一個105円のスポーツドリンクを振舞おうが振舞わなかろうが、隊長としての人徳の評価にはたいした影響はない。小隈も、そんなことはわかっているだろう。とりあえず、圭介はその好意を受け取ることにした。
「・・・こうして二人きりで話すのは、初めてですよね」
少し遠慮がちに、圭介が切り出した。SMSに配属となって、一ヶ月。しかし今のように、小隈と二人きりで話すような状況は今までなかった。他の職場よりは親密とはいえ、これまでの二人の会話は、上司と部下という関係を超えるものではなかった。
「実を言うとな、俺のほうも、こういうのを待ってたんだよ」
ニヤリと笑いながら、小隈が圭介の顔を見た。
「え?」
「一応、長いこと部下をもつ仕事をしてるから、普段の仕事振りとかからそいつがどんな奴かを理解するのは得意なつもりだ。けどな。やっぱり、腹を割って話し合ったほうが、知ることのできる深さはぐんと広がる。そんなチャンスを、待ってたんだよ」
「言ってくれれば、時間を用意しましたのに・・・」
「自然な空気が大事なんだよ。でもって、今がその時だ」
二人の間に、少しの沈黙が流れる。
「・・・仕事には、慣れてきたか?」
「ええ・・・。消防士だったころとは、ちょっと勝手が違いますけど、ここは働きがいがありますし、居心地もいいですしね。何より、憧れの人の下で働けるんですから」
「憧れの人?」
「隊長のことですよ」
「・・・」
「失礼ですけど、隊長はもう少し、自分の評判を誇りにしてもいいと思いますよ。伝説の消防士、小隈秀一。消防士で知らない奴はいませんよ」
「まぁ、憧れるのは勝手だけどね。俺は自分の精一杯以上の力は出すことはできないし、そんなイメージに自分を追いつかせようとも思っていないから。それでもいいなら、憧れの人でも別にかまわんが」
のんきにタバコに火をつけながら、小隈は答えた。圭介はその様子に苦笑する。最初の頃はイメージと実物との違いに戸惑ったものだが、今ではその違いにも、親しみを感じている。憧れはいくらか薄らいだが、その代わり、別のところで生まれた隊長への信頼がそれを補って余りある状態である。
「隊長、前から思ってたんですけど、どうしてタバコを・・・?」
たまりかねたように、圭介が言った。
「隊長が現役を退かなければならなくなった理由は、みんな知っています。最後の現場で、お年寄りを助けるために炎の中に飛び込んで、全身に大やけどを負った上に気管支をやられたから・・・」
「その通りだ。それに俺はもともと、タバコは嫌いだ。爺さんも親父も、肺ガンでいなくなってるからな。どうやら、ガンになりやすい家系らしい」
圭介の目には、タバコを吹かしながらそうつぶやく小隈の姿が、「メチャクチャ」そのものとして映った。
「じゃあ・・・それは一体何だって言うんです?」
もちろん、圭介はその矛盾だらけの姿を指摘した。
「生ガキは嫌いだけど、カキフライは食べられるって奴、いるだろう? それと似たようなもんだ。世の中にはな、俺と同じように、健康に悪いからタバコは嫌いだけど、タバコを吸う仕草に憧れてる男ってのがけっこういるんだ。今は便利な時代だよな。そんな奴らのために、こうして無害な煙を出す「イミテーション・シガレット」なんてものが売られてるんだから。まあ、タバコの形をしたアクセサリーみたいなものだ」
そう言って、タバコの箱を見せる小隈。なるほど、タバコの箱にはそんな名前が書いてある。こんなものが売られているのかと、圭介は驚いた。
「・・・嫌な匂いがしないから、普通のタバコじゃないと思ってましたけど・・・。しかしそれでも、なぜそうまでしてタバコを吸っているのかがわかりません」
「だから言ったろ? そういうのに憧れてるからさ。刑事ドラマに出てくる捜査一課のボスなんか、大体タバコを渋くふかしてるじゃないか。俺も隊長になるからには、やっぱりこうしたほうが「らしい」んじゃないかって思ってね。実際SMSの隊長になるまでは、タバコなんて手もつけなかった」
「そんな理由ですか・・・」
圭介は愕然としながら、この人の全てを理解するのは、一生かかっても難しいのではないかと思った。
「そんな理由だ。さて、俺についての疑問が一つ溶けたところで、俺からも質問させてもらおうか」
そんな圭介にかまわず、小隈は淡々と続ける。
「・・・経歴、見せてもらったよ。正直、意外だな。お父さん、有名な技術者なんだって?」
「産業用ロボット開発では、結構名が知られてるみたいですね。詳しくは知りませんけど」
「お前自身も名門、城南大附属高校出身。将来を技術者として期待されていたらしいな。それがどうして、消防士の道を選んだんだ?」
「隊長のタバコの理由と同じで、単純なものですよ」
笑いを浮かべながら、圭介が答えた。
「家の近くに高層マンションがあって、高校3年の時、そこが火事にあったんです。その時、必死に救助作業をする消防士を見て、これしかないな、って・・・。それだけです」
「俺がその時その場にいたら、そんな軽はずみな考えは改めさせてただろうがな」
小隈が笑いながら言った。
「軽はずみなつもりは、まったくありませんでしたよ。もともと、人を助ける仕事がしたかったんです。人を助けることになるなら、技術者として便利な機械を作るっていう道にも、抵抗はありませんでした。でも消防士を見て思ったんです。人を助けたいっていう俺には、一番この仕事が向いているって」
「やっぱり、軽はずみだな」
「そうですか? でも例え軽はずみだろうとなんだろうと、俺は事実消防士として3年働いて、こうして今SMSにいるわけなんですから、その判断に少なくとも間違いはなかったと思ってますが」
「そりゃあまあ、そうだな・・・」
その後も、二人の会話は進んだ。上司と部下という関係を越えて、二人は腹を割って話をすることができたようである。やがて、小隈が立ち上がった。
「うん・・・これで大体、お前がどんな奴か完璧にわかったな」
「そうですか。ところで・・・こういうこと、ひかるとはもう話したんですか?」
「ああ。三日前、時間を見つけてな」
「どんな話を?」
「新座。たしかにうちのモットーの一つは「仲良く」だが、そういうのはプライベートなものだ。俺には自分の胸の内にしまっておく義務と責任がある」
「そうでしたね。すいませんでした」
「・・・気になるか?」
「! そ、そんなことは・・・」
「どうしても知りたいなら、お前の口から直接聞いたらどうだ? 念のために言っておくけど、うちは仕事に支障のでない範囲の職場内恋愛については、特にうるさいことは言わないが」
「茶化さないでくださいよ、隊長・・・」
どんな顔をしたらいいのかわからないでいる圭介を、小隈は面白そうに眺めた。その時、ふと腕時計に目をやる。
「そういえばお前、今日は早番だったな」
「はい」
「だったらもう寮に戻って、支度をしろ」
「わかりました。隊長はどうするんです?」
「俺はもう少しばかり走ってから戻る。それじゃ、早番よろしく」
「了解しました。失礼します」
走り去っていく圭介の後ろ姿を見送りつつ、小隈はつぶやいた。
「今度の新人も、正解だったようだな・・・」
それから一時間後。SMSの建物の前に、正面玄関の鍵を手にした圭介の姿があった。一週間に一度の割合で回ってくる早番の業務にも、もう慣れた。彼が手にした鍵で玄関の扉を開けていると、後ろから声がした。
「よう。早番かい、ご苦労さん」
振り返ってみると、そこには整備班長の楢崎がいた。右手には工具箱をもち、左肩にその他雑多なものを詰め込んだバッグをかけている。
「おはようございます。たしかおとといから休んでましたよね?」
「ああ。遅いゴールデンウィークだよ。といっても、二日だけだったがな。俺のいない間、整備班の連中はどうだった?」
「変わったことはありませんでしたよ。大きな事件もなかったし」
「そうか、それならいいんだ・・・。おおそうだ。これをやろう」
そう言って楢崎は、なにやらバッグをゴソゴソと探ると、紫色の包装紙で丁寧に包まれた箱を取り出して圭介に手渡した。
「なんですか、これ?」
「羊羹だよ」
「羊羹?」
「昨日は久しぶりに昔の仲間と一緒に、宇佐見まで釣りに行ってたんだ。で、そのうちの一人に京都で働いてる奴がいてな。みやげに持ってきたんだよ。二つあるんだけど、うちは俺もかみさんもあんまり甘いもの好きじゃないからな。一つで十分だから、あげようと思って持ってきたんだ。お茶の時間にでもみんなで食べてくれ」
「わかりました。ありがたくいただきますよ」
「なあに。なんでも、結構有名な店のものらしいぜ。それじゃあな」
そう言って、楢崎はガレージに向かって歩いていった。
「羊羹ね・・・。とりあえず、3時が楽しみだな」
圭介は羊羹の包みを小脇に抱えると、玄関の鍵を開けた。思えば、その時からこれから起こることになる想像を絶するような事件の前兆らしきものは、迫っていたと言えるかも知れない。しかし、もちろんその時の圭介はそんなことは知る由もなかった。
ここ数日と同じく、その日の時も、平穏に過ぎていった。午前もお昼も、何事もなく過ぎていく。緊急出動のないときの第1小隊には、おおむね大した仕事というものはない。時たま報告書の類を作成することもあるが、暇な時間は訓練に費やされることの方が多い。この日も午前中はヴァーチャルシミュレーターを使った、市街戦を想定した訓練を行った。SMSは治安維持組織ということになっているので、任務には災害救助活動だけでなく、武装した犯罪者との銃撃戦も含まれているのだ。このような訓練を通して、実働員も管制員も、それぞれの状況下での対処法を学んでいく。
お昼を挟んで、午後も再び訓練。こちらはシミュレーターではなく、施設内の武道場を使った柔道の稽古である。特に強いのは仁木と聡美で、柔道にかけてもそれなりの自信のある圭介にとってさえ、この二人は強敵だった。
そして、現在。時計の時刻は3時を回っている。オフィス内には、柔道着から制服に着替えた隊員達が、思い思いにくつろいでいた。小島は音楽を聴きながら、片手でリズムをとっている。仁木と亜矢は、どちらも本を読んでいた。亜矢が読んでいるのはギリシア語で書かれた古い古文書で、それをながめながらなぜか時々薄笑いを浮かべている。その笑いが気になるのか、仁木は推理小説に集中できない様子だった。一方、聡美は最新のスポーツ用品を紹介している雑誌を前に、むずかしい表情をしていた。それらの商品の大半は、彼女にとってリーズナブルとは言えない値段らしい。そんな中で、小隈はタバコをふかしながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
一方、そこから少し離れたキッチンには、圭介とひかるの姿があった。そう、二人がやって来たときには、完全に眠っていた場所である。意外なことだったが、ひかるは調理師免許を持つほどの料理の腕前の持ち主で、彼女のたっての希望で、キッチンは永い眠りから目覚めたのである。今では、緊急出動がないときに振る舞われる彼女の作った昼食は、第1小隊の大きな楽しみの一つとなっていた。
「恐怖の大王?」
圭介から朝の亜矢の言葉を聞かされたひかるは、急須にお茶を注ぎながらそう聞き返した。
「ああ。とにかく、何か恐ろしいものが現れるって言うんだ。どう思う?」
お盆の上に全員分の湯飲みを置きながら、圭介は意見を求めた。今日のお茶の当番は、この二人である。
「そうですね・・・。たしかに簡単には信じられませんけど・・・亜矢さんの占いって、当たりますから・・・」
「やっぱり、そうなのか?」
「この間イヤリングをなくしたんですけど・・・亜矢さんに相談したら、すぐに見つかったんですよ」
「へえ・・・」
別にそれまで仁木達から聞かされていた話を疑っていたわけではないが、ひかるまでがそういう体験をしたというならば、亜矢の能力は本物らしい。圭介は緊張感が高まるのを感じた。
「でも、何だろうな? その「恐怖の大王」って・・・」
「わかりませんね・・・。大地震とか、隕石とか・・・でしょうか」
「そんなものだったら、俺達に防ぎようはないな。被害後の救助作業には出るだろうけど。いずれにせよ、用心しておいた方がいいかもしれない」
「そうですね・・・はい、終わりました。あとは、お茶菓子ですね・・・」
お盆の上の湯飲みには、全てお茶が注がれた。その時、圭介は思いだした。
「あ、そうだ。これをもらったんだ」
そう言って、戸棚にしまっておいた羊羹を取り出す圭介。
「何ですか? それ」
「羊羹だ。おやっさんからのおみやげだよ。今日のお茶菓子はこれだな」
「はい」
そう言って包み紙をはがし、羊羹を切って小皿に乗せていく。
「おいしそうな羊羹ですね」
ひかるの言うとおり、黒光りする羊羹は、なんだか高級そうな印象を与えた。
「そう言えば、結構有名な店のらしい。さて、持っていこう」
そうして、圭介はお茶を、ひかるは羊羹を乗せたお盆を持って、キッチンを出ていった。
「お茶と羊羹、持ってきました」
「羊羹は、おやっさんのおみやげです」
オフィスに入ってきた二人は、そう言ってそれぞれの机の上にお茶と羊羹を並べていった。
「へえ。あのおやっさんにしては、ずいぶん気が利いてるな」
「雨でも降らなきゃいいけど」
軽口を叩く小島と聡美。しかし、二人ともおいしそうな羊羹にうれしそうな表情である。
「おや・・・?」
目の前に置かれた羊羹を見て、亜矢が小さな声を出した。
「亜矢さん、どうかしました?」
「もしかしてこれは・・・「金瓶」の羊羹じゃ・・・」
「金瓶・・・?」
「和菓子屋の名前だよ・・・」
「ああ。そういえば、包みにそんな名前が書いてあったような・・・」
圭介の記憶によれば、紫色の包み紙には、たしかそんな屋号が書かれていたようだった。
「やっぱり・・・。そうなら・・・ありがたく思ったほうがいいね・・・。京都でも特に高級な和菓子屋だから・・・」
そう言って、目の前の羊羹を大切そうに見つめる亜矢。
「へえ、そうなんだ。それじゃますます、おやっさんに感謝しないとね」
羊羹に手を合わせてみせる聡美。
「でも・・・亜矢さんすごいですね。見ただけでどこの店の羊羹か、わかるなんて・・・」
「そう言えば、亜矢さんのお家って、京都にありましたよね?」
「和菓子には詳しいのよ、亜矢さんは」
仁木の誉め言葉に亜矢は少し照れるような表情をしたが、すぐに元の無表情に戻った。
「それじゃ・・・いただきましょうか。おやっさんへの感謝を忘れずに。それじゃ、いただきます」
隊長のその声をきっかけに、第1小隊のお茶の時間は始まった。誰もがまず、羊羹に手をつける。
「うん。おいしいわね」
「今まで食べた羊羹とは段違いだね」
「小島さん、そんなことわかるんですか?」
「あのなあ。俺だって味の良し悪しぐらいわかるんだよ」
「フ・・・さすが、いい小豆を使ってるね・・・」
口々に感想をもらす、仁木、小島、聡美、亜矢。小隈や圭介、ひかるも、同様の笑顔を見せる。やがてオフィス内にはお茶をすする音も聞こえ始め、このまま何もなく穏やかな時間が過ぎていくことに、疑念を持つ者はほとんどいなかった。
そんな時である。聡美の机の上の電話が、突然けたたましく鳴り始めた。
「うぐっ!?」
少し大きめに切った羊羹を食べていた聡美は、突然のことに羊羹を喉に詰まらせた。慌てて隣の仁木が背中を叩きつつ、お茶を飲ませる。それによってなんとか持ち直した聡美は、受話器をとった。
「はい、特機保安隊第1小隊・・・はい。えっ!? 落ち着いて下さい! 何ですって?・・・もういいです。とにかく行きますから、どこですか?」
聡美の様子に、全員が緊張した顔になる。
「・・・わかりました。すぐに出動します」
電話を切った聡美は、すぐに小隈に報告する。
「隊長、目黒区の福田ケミカル新製品研究所で、新製品の暴走事故が起こっているそうです」
「暴走事故か。それは、どんな製品なんだ?」
「それが、なんだかよく分からないんです。通報してきた警官は、とにかく増え続けてるとか、よくわからないことしか言ってなくって・・・。たぶん、かなりパニックになっていたみたいで、とにかく来てくれとばっかり・・・」
「それは困ったな・・・。よく状況がわからない」
「すみません・・・」
「まあいい。とにかく、出動だ。行ってみなければ、状況の分析もできない。第1小隊、出動!!」
「了解!!」
それから8分後。第1小隊を乗せた指揮車は、目黒区内にある(株)福田ケミカルの新製品研究所の駐車場に停まっていた。
特機保安隊、通称SMSが出動するケースは、大きく三つに分けられる。一つは、大事故や大災害時における救難支援。圭介とひかるが初日に経験した仕事は、その典型だった。この場合は、消防隊やレスキュー隊から出動要請が行われる。二つ目は、凶悪犯罪解決のための出動要請。あらゆる状況に対応できるVJを擁するSMSは、時には銃撃戦のような場所にまで派遣されることがある。この場合は、警察から出動要請が出される。そして三つ目が、今回のようなケース。すなわち、民間企業などで開発が行われている新製品が暴走した場合に鎮圧に出される場合である。大まかに言えばこれも事故の一種と言えるのだが、状況が多様かつ複雑な場合がほとんどであるため、他の二つとは区別して扱われる。今回の出動の場合、この三つ目のケースにあたるだろう。
「VJ−1、VJ−2。オペレーションスタート」
「VJ−3、オペレーションスタート」
指揮車の後部ハッチが開き、三体のVJが姿を現す。一方、その後ろからゆっくりと、小隈も外へ出てきた。
一応、研究所の入り口などには警官が配置されており、入ってくるものがいないように警備を行っている。何故か彼らは、皆防毒マスクをつけている。警備していた警官達の中から、年輩の刑事らしき男が進み出てきた。
「警視庁目黒警察署の近藤です」
「第1小隊の小隈です。早速ですけど、状況を詳しく聞かせて下さい。通報では、いまいちよくわからなかったもので」
「こちらは化学産業の会社ですよね? 新製品が暴走したということですが、もしかして、新開発の化学物質が漏れ出たというようなものですか?」
「新製品の暴走・・・たしかに、その通りではあるんですが・・・」
どう説明したらよいのかわからない、といったような様子で、近藤が言った。
「通報したのは、この近くの交番の巡査でして。ここからの通報で駆けつけてみたんですが、あまりの状況の異常さに驚いて、そちらに通報をしたんです」
「異常な状況・・・?」
「通報ではよく状況が伝わらなかったとおっしゃってましたが、無理もないでしょうな。とにかく、奇妙な状況なんですよ。我々もどうしたらよいかと思いまして・・・とにかく、百聞は一見にしかず。見てもらうのが、一番早いでしょう。ついてきてください。おい、小隈小隊長に防毒マスクを。念のため、これをつけて下さい」
そう言って近藤は、先導するように研究所に向かって歩き出した。小隈達は顔を見合わせたが、すぐにそのあとを追って歩き出した。
「この部屋です」
そう言って近藤が示したのは、何の変哲もない白いドアだった。ドアには「第2大型研究室」と書かれている。
「研究室・・・。何かを研究中に、事故が起こったとか?」
「そういうことでもないんですけど・・・。まあ、とにかく見て下さい。たぶん、驚かれると思いますけど」
そう言って近藤は、ドアのノブに手を掛けた。別にもったいぶっているわけではないようだったが、隊員達はVJのヘルメットの下で、緊張の表情を浮かべた。
ガチャ・・・
近藤がドアを開けた。そして、三体のVJと小隈が、その中に踏み込んでいく。そしてその直後、4人は凍りついたようにその場に立ちすくんだ。
「な・・・」
「「何だこりゃああああっ!!」」
圭介と小島の叫び声が、指揮車内でモニターを見ていたひかると亜矢のヘルメットの中にうるさく響き渡る。しかし、二人の管制員はそんなことはかまうことなく、VJのデュアルカメラから送られてくる映像に、呆気にとられていた。そしてそれは、現場にいる小隈と仁木も同じだった。
第2大型研究室の中で、彼らが見たもの。それは、大きな会議室ほどもある研究室の床を埋め尽くさんばかりに転がっている、大量の「まんじゅう」だった・・・。
それから間もなく、第1小隊が近藤も交え、この研究所の代表から聞いたこの異常事態の原因は、次のようなものだった。
この事件の直接の「犯人」は、この研究室内で新薬の研究を行っていた福田ケミカル所属の研究員、A氏だった。この研究室では他にもこの新薬の研究を行っている研究員が数人いたが、この日は彼らはいずれも私用で研究所には出勤しておらず、研究室にはA氏のみがいた。
本来何人かのメンバーが研究の推進には必要不可欠であったため、この日のA氏はヒマであった。とりあえずこれまでの研究データの整理などを行ったが、それも午前中で終了。午後は一人で行える範囲の、ごく限られた実験などを行うに止まっていた。
そして、事件の発端となったのが、午後2時15分にA氏がとった行動だった。この時A氏は少し早い休憩時間をとり、好物である栗まんじゅうを食べていた。ちなみに、この栗まんじゅうは都内にある有名な和菓子店の名物で、その前日、A氏が行列に並んで買ってきたものだった。購入時は5個だった栗まんじゅうも、その時には残り一個であった。これを食べてしまえば、しばらく栗まんじゅうもお預けである。そう残念に思ったA氏の行動が、今回の事件の引き金となった。その時のA氏の頭に、先日開発されたばかりの新薬のことが浮かんだ。その新薬の名前は「バイバイン」。液状の薬品で、かけた物体が5分ごとに2乗倍ずつ増えていくという、すさまじい新薬だった。そして、そのサンプルはこの研究室内の保管庫に保存されていたのである。栗まんじゅうをたくさん食べたいという誘惑に負けたA氏は、独断で保管庫からサンプルを取り出し、栗まんじゅうにそれを使用したのである。午後2時15分のことであった。
5分後。一回目の分裂が起こる。これによって、栗まんじゅうは二つになった。大喜びで一個を食べたA氏は、2回目の分裂をそのまま待った。しかしその直後、A氏を突然の腹痛が襲う(A氏本人によれば、朝食で食べた賞味期限切れの疑いのある明太子が原因らしい)。慌てて研究室から出て、A氏は男子トイレに駆け込む。時刻は、2時30分。
結局、青い顔でA氏がトイレから出てきたのは、15分後のことであった。この時点で、栗まんじゅうは8個に増えていたことになる。とりかえしのつかない事態となることを恐れたA氏は、すぐに研究室へ戻ろうとした。しかしその途中、上司である開発部長と廊下で遭遇。開発が遅れている新薬の開発状況についての報告を急遽求められ、断るヒマもなく部長の事務室へ連れていかれた。そしてなんとか報告を済ませ、急いで研究室に戻ってきたときには、A氏が研究室を出てから40分が経過。栗まんじゅうは256個に増殖していた。恐れていた事態を引き起こしてしまったA氏は、血相を変えて開発部長にこのことを報告。すぐさま付近の交番に通報がされた。そして、駆けつけた警官が現場の状況を知り、第1小隊と目黒警察署に出動を要請したのが今から10分前。栗まんじゅうは、その時既に1024個に増殖していた。
以上が、第1小隊が現場に到着するまでの1時間弱の間に起こった、この異常事態の顛末である。
5分ごとに倍加し続ける栗まんじゅう。この異常な事態に対しても、すぐに小隈小隊長は冷静さを取り戻した。そして、この事件を解決する上で鍵となるものが「時間」であるということは、彼でなくともすぐに理解できることであった。駐車場に駐車されていた指揮車から小隈が呼び出した桐生亜矢管制員が現場である第2大型研究室に到着したのは、圭介と小島が声をあげた2分後のことだった。
「・・・」
ハンディアナライザーを栗まんじゅうに当て、分析を行う亜矢。やがて、彼女は顔にはめていた防毒マスクを取り、顔を上げた。
「・・・問題ありません。その薬が使われている以外は、ただの栗まんじゅうです」
「そりゃあそうだろうな。いくら数が増えるからって、毒を食べ物にかける奴はいないだろう」
いち早くVJのヘルメットを外しながら、小島が言った。
「当たり前です。バイバインはすでに製造ラインの用意まで進んでるんです。毒性があるわけないじゃありませんか」
福田ケミカルの代表者が言った。しかし小隈が
「毒性はないかもしれませんがね。危険性は十分にあると思いますよ。現にそれを証明しているのが、この栗まんじゅうの山だ。我々はそちらの経営にまで口を出す権利はありませんが、商品化に当たってはそのあたりをしっかりとしておいてくださいよ」
と言ったので、黙り込んでしまった。
「さて・・・俺達が考えるべき事は、これが商品化される時のことじゃなく、今これをどうするかということだ。5分ごとに倍々になっていくんじゃ、放っておけばおくほど大変なことになる」
「一時間で栗まんじゅうは4096個・・・。単純計算では・・・その一時間後には16777216個。その15分後には、一億個を越えますね・・・」
淡々とした口調で、具体的な数字によってこの状況を説明する亜矢。それはその場にいる者達の背筋を寒くさせるに十分だった。
「一日で地球は栗まんじゅうの星になるな・・・。何かいい考えはないか、聞かせてもらえないか?」
「そう言われましても・・・」
さすがに圭介達も戸惑った。たしかに時間が経てば経つほど、一回の分裂で増える栗まんじゅうの数は増えていく。放っておけば、大変なことになるだろう。一刻も早く解決策を出してなんとかしなければならないが、こんな事態にどう対処すべきかの考えなど、簡単に出てくるはずもない。実働員達は頭を抱えていた。
「私に・・・考えがあります」
その時、亜矢が手を上げた。
「聞かせてくれ」
「その前に・・・この分裂する栗まんじゅうは・・・食べれば効果はなくなるんですね・・・?」
亜矢が福田ケミカルの代表者に尋ねる。
「ええ。胃の中に入っても分裂し続けるようでは、商品にならないどころか命を落とします」
「それならば・・・話は簡単です。一番原始的で簡単な・・・「食べる」というのが最も効果的な対処法ではないでしょうか?」
その提案に、小隈以外の全員が驚いた。
「た、食べる!?」
「この栗まんじゅう全部をですか!?」
「・・・やっぱり、それしかないか・・・」
小隈が淡々と言った。「やっぱり」と言うからには、彼も同じ事を考えていたらしい。
「隊長、本気ですか?」
「それしかあるまい。まさか焼き尽くすわけにもいかんし、それに食べ物を粗末にするのはよくないだろう?」
「そんなこと言ってる場合じゃ・・・」
「もちろん、俺達だけで食べるわけじゃない。警察の方や、ここの人達にも協力してもらいますよ」
近藤と代表者の顔を交互に見ながら、小隈が言った。
「我々もですか・・・?」
「これも市民を守るためです。今はまだそれほどでもありませんが、これからも放っておけば、さっきも言った世界が栗まんじゅうの底に沈むなんていうとんでもないことが現実味を帯びてくるんですよ?」
小隈の言うことはなんとも緊迫感のない世界の危機だったが、世界の危機であることには変わりはない。近藤は、やがて黙ってうなずいた。
「・・・わかりました。必要なら、署から応援も呼びましょう」
「ご協力感謝します。福田ケミカルさんも、ここの人全員出して下さい。いくらかは責任をとってもらわないと」
「仕方ありませんな。我々の不祥事ですから・・・」
渋々といった様子で、担当者もうなずく。
「いっそのこと、大食い大会の常連なんかも呼んだ方がいいんじゃないですか?」
小島が半ば冗談の提案をする。
「いい考えだが、そんな時間はなさそうだ。何しろ、2048個の・・・」
と言いかけたその時、また目の前の栗まんじゅうの山が、分裂を起こして二倍に増えた。
「今ので・・・4096個・・・ですね」
亜矢が静かに言う。
「・・・だそうだ。時間との勝負だ。それに、そういうエキスパートならうちにもいるしな。期待してるよ、仁木」
そう言われた仁木の肩が、ビクン!と震えた。
「た、隊長・・・私はちょっと・・・」
「副隊長・・・新座君とひかる君にこれ以上隠し事をするのは・・・よくないと思います」
「あ、亜矢さん・・・」
少し恨めしそうな顔で、隊長と亜矢を交互に見やる仁木。
「? 隠し事って、何ですか?」
「まあ・・・すぐにわかるさ」
何のことかわからずに尋ねる圭介に、小島は意味ありげに答えた。なんとなく、仁木に同情しているようにも見える。
「いつも自分の能力を最大限に活かすことは必要だと言っているだろう。今がその時だ」
「で、でも・・・」
「副隊長・・・。あれは決して・・・欠点なんかじゃありませんよ・・・」
「・・・ハア。わかりました。やります・・・」
何かを諦めたかのように、仁木がため息をついた。
「よし。それじゃとりあえず、この栗まんじゅうを駐車場に運ぼう。VJの機材を使えばわけはない。警察とここの方も、駐車場に全員集めて下さい。できれば、近所にいる人もお誘いできれば助かりますけど・・・」
こうして8分後。福田ケミカルの研究所駐車場に、突然栗まんじゅうの山が出現した。そしてその周りには、この研究所に勤める全ての人間、出動してきた目黒署の警官達、そして、第1小隊の面々が集められていた。他にも参加を募る声によって集まってきた、近所の企業の人々の姿もある。
「お忙しいところお集まりいただき、誠に申し訳ありませんでした。しかし、これも世界を救うためなのです」
説明を演説調で始める小隈。
「皆さんの目の前にある、栗まんじゅうの山。これは放っておけば際限なく増え続け、地球を覆い尽くすことになるでしょう。まさに今、地球は危機に瀕しているのです。しかし・・・幸いにも、この危機を回避することは難しいことではありません。しかも、どんな人でも、世界を救う力になれるのです。そう。「食べる」という、人間にとって当たり前の行為によって・・・」
隊長は大まじめに語っているが、内心ではこれを楽しんでいるようだ。そんな隊長の様子を、第1小隊のメンバー以下その場の人達が、半ば呆れながら見つめている。演説をする隊長を含めて、その場の空気には全く緊張感がない。しかし、地球が栗まんじゅうによって危機に瀕しているという状況は、一応間違いではないのである。
「私がここにお集まりの皆さんに期待することはただ一つ。この栗まんじゅうを、一つでも多く食べることです。あなたの一口が、世界を救う。やっていることはただの食事でも、それは英雄的行為なのです。遠慮をすることはありません。ひたすらこれを食べ続け、一つ残らず食べ尽くすのです。皆さんの健闘を祈ります。以上。それでは、始めて下さい!」
隊長はそう言って演説を終えた。しばらくその場にいた人間達は呆気にとられていたが、やがて、皆栗まんじゅうの山に近寄り、思い思いに食べ始めた。
「さて・・・俺達も始めようか」
「隊長、真面目にやって下さいよ・・・」
「やってるさ。今俺が言ったことに、何か嘘があったか?」
「ありませんでしたけど・・・なんだか、ふざけてたような・・・」
「俺は大まじめだよ。さ、お前らもぐずぐずしてないでとりかかれ。地球を救えるんだ。こんなに名誉な仕事はないぞ。さあ、仕事だ仕事・・・」
そう言って喜々としながら栗まんじゅうの山に向かう小隈。
「・・・俺、たまに隊長のことがわからなくなるな・・・」
「私もです・・・」
その後ろ姿を見ながら、ため息をつく圭介とひかる。
「ぼやいててもしょうがないよ。さ、あたしたちも始めよ」
「そうそう」
聡美と小島に促され、栗まんじゅうの山にとりかかる二人。
「何人ぐらいいるんでしょうか?」
周りを見渡し、圭介が聡美に訊く。栗まんじゅうの山に人々が群がっているその様は、小隈が言うような英雄的行為にはとても見えない。せいぜい大食い大会か、ギネス記録への挑戦といったところだろう。
「千人ぐらいはいるんじゃないかな?」
「すると、一人当たりだいたい8個・・・。ちょっと厳しいかな・・・」
「はああ・・・」
「どうした、ひかる?」
「・・・太っちゃいます」
深刻そうな様子で言うひかる。それを見て、思わず圭介は小さく笑ってしまった。
「ちょっと新座君! ひどいじゃない!」
「そうです! 真剣な問題なんですから!」
そのことに猛烈に抗議する聡美とひかる。思わずたじろぐ圭介に、やれやれといった様子で小島が言う。
「わかってないなあ、新座。そういうときは、「俺がお前の分まで食べてやる」って言ってやるのが優しさってもんだぜ」
その言葉に、なぜか赤面するひかる。
「なんだ、小島さんわかってるじゃない。それならあたしにも、その言葉かけてくれないかな?」
「お前の場合は、食っても運動で消費されるから問題ないだろう?」
「ひっどーい! 差別だ差別!」
ギャーギャー騒ぎ出す小島と聡美。そんな二人をぼんやりと見つめていた圭介とひかるだったが・・・
「・・・食おうか」
「はい・・・」
栗まんじゅうの山に近づき、淡々とそれを食べ始めた。
「うん・・・確かに、おいしい栗まんじゅうだな」
「そうですね」
その背後では、騒いでいた二人が隊長から「さっさと食え」と怒られていた。
「あ、見て下さい。亜矢さんすごい!」
ひかるが指さした先。そこには、黙々と栗まんじゅうを食べている亜矢の姿があった。そのペースはかなり速いのだが、上品な食べ方は崩れてはいない。見ていて美しい早食いというのを見るのは、二人は初めてだった。
「副隊長・・・迷っていないで、手伝ってくれませんか・・・? さっきはやると・・・言ったじゃないですか・・・」
一方、当の亜矢は横でなぜか躊躇している仁木に声をかけた。
「で、でも・・・」
ばつの悪そうな顔で、圭介とひかるをちらりと見る仁木。
「いずれは・・・わかってしまうことです。それに、さっきも言ったように・・・恥ずかしいことじゃありませんよ。個性の一つです・・・」
「・・・」
「副隊長の力が必要とされているなら・・・それに応えるべきだと思います」
「・・・わかったわ。ちょっと恥ずかしいけど・・・」
再び圭介とひかるに目をやった仁木は、栗まんじゅうの山へと近づいていった。そして次の瞬間から、圭介とひかるは驚きに目を見張った。
「「ええっ!?」」
なんと、仁木が次々に栗まんじゅうを手に持っては、淡々と口へと運び、飲み込んでいくのである。「イーティング・マシーン」とでも呼ぶべきだろうか。そのペースは、隣で食べている亜矢のペースをはるかに凌駕している。
「お、大食いだったんですね・・・」
「意外でした・・・」
普段クールでつねに沈着冷静というイメージのある仁木が、実は大食いだったという事実に、圭介とひかるは唖然としていた。幻滅はしなかったが、ショッキングな事実ではある。
「あんまり大騒ぎしないでよ。副隊長、気にしてるんだから・・・モグモグ」
「別に欠点じゃないと思うけど、本人にとっちゃそうじゃないらしい」
隣で栗まんじゅうを頬張る聡美と小島が、そう言った。
「聡美さん達は、知ってたんですか?」
「もちろん。けど、あたしも配属されてからしばらくは、そのこと知らなかったよ」
「極力、知られたくないらしいね。最初にそのことを知ったのは、俺なんだよ。非番の日に偶然ラーメン屋に行ったら、そこで副隊長がジャンボラーメンのタイムアタックにチャレンジしてたんだ。あの時は驚いたなぁ・・・」
「そうだったんですか・・・。それじゃ、今までお昼ご飯皆さんと同じ分量でよかったんでしょうか?」
「それは微妙ね。一応、食欲をセーブすることはできるみたい。でも、今度から分量を増やすかどうかは、本人に確認してからの方がいいわね。親切のつもりで勝手に増やしたりしたら、かえって気まずくなるかも・・・」
「そうですね・・・そうします」
「とにかく、副隊長が吹っ切れてくれたなら、もう解決したも同然だな」
そんな会話をしている圭介達を気にしながら、仁木は驚異的なペースで栗まんじゅうを食べ続けている。
「・・・やっぱり、恥ずかしいわね・・・」
その顔は、赤くなっている。
「その割には、順調に進んでますね・・・」
「一度手をつけてしまうとね・・・。火がついてしまうみたいなのよ・・・」
「悲しい性ですね・・・」
「あなたが言わないでよ・・・」
少し恨めしげに亜矢を軽くにらむ仁木と、気づかないふりをしながら黙々と栗まんじゅうを食べる亜矢。それは、なんとなくいいコンビに見えた。
それから十数分後。あれほどあった栗まんじゅうの山は、駐車場から姿を消していた。考えてみれば、五分に一度という分裂のスピードは、決して早いものとは言えない。要は、それを上回るペースで栗まんじゅうを食べていけばよいだけの話である。五分間の間に食べる栗まんじゅうの数が、多ければ多いほどいい。この「分裂栗まんじゅう殲滅作戦」に参加した人々はこのことを頭に置き、皆懸命に自分の役割に没頭した。そしてその結果が、栗まんじゅうの山の消滅という輝かしい成果だった。
「皆さん、お疲れさまでした。皆さんのご協力のおかげで、ついに地球の危機は去ったのです。全ての人類を代表して、お礼を申し上げます。皆さんは地球を救ったんだという実感をもって、誇らしげにこれからの人生を生きていくことができるでしょう。ご苦労様でした。あとの調査と処理は我々と警視庁で行いますので、元の部署に戻ってけっこうです。ご協力、本当にありがとうございました。お疲れさまでした」
またも楽しげに演説を始め、そしておじぎと共に締めくくる小隈。その演説は、やはりその場にいた全員を呆気にとらせたが、やがてその場にいた福田ケミカルの社員達は、要約すれば「やれやれ」という意味の別々の言葉をそれぞれの口からつぶやきながら、建物の中へと戻っていった。
「・・・隊長、恥ずかしくないんですか?」
呆れた表情で、圭介が小隈に問うた。
「何が? 労をねぎらっただけじゃないか」
やはりさらりと答える小隈。圭介はため息をつくしかなかった。その時、近藤が小隈に近づいてきた。
「お疲れさまでした」
そう言って近藤に敬礼する小隈。近藤の顔は、やはりうんざりしたものだった。
「どうにか、解決できましたな。しかしですよ・・・警察に入ったばかりの頃には、まさか栗まんじゅうを食べることが仕事になるとは思ってもいませんでしたよ」
「それはそうでしょう。我々だって同じ事です。特に我々の場合は、かつぎ込まれてくる事態のほとんどが、その場で対処法を考えなくてはならない前代未聞の事態ばかりなんですよ」
「そのようですな。お察ししますよ」
「さて・・・事後処理のことですけど、どうしましょう? 問題となっていたものはすでに処分しましたし・・・」
「そうですな・・・。とりあえず、関係者の事情聴取は引き続き続けることになるでしょう」
「騒ぎを起こした研究員はどうなるんです? 逮捕されるんでしょうか? 私は消防隊出身なので、刑法なんかにはあまり詳しくないんですが・・・」
「それも、今この場ではわかりかねます。無限に増える栗まんじゅうを作ってしまった場合、どんな罪に問われ、どんな罰則を受けるのか・・・。そんなことを定めた法律なんか、どこにもありはしないでしょう。とりあえず、騒乱罪には問われるんじゃないでしょうか?」
「なるほど。気の毒に」
「最近はこんな事件ばかりですよ。今の犯罪は、今までの法律で定められた罰則に当てはめることのできないような、無茶苦茶な犯罪ばかりです。早く法整備の方が現実に追いついてくれればいいとは思っていますが・・・期待薄ですな」
「お察しします」
「まあ・・・あとのことは、我々に任せて下さい。仕事ですからね。とにかく、しばらくは甘いものは食べたくありませんよ」
「同感です。それでは、報告書ができましたら参考までに送ってもらえますか?」
「わかりました。それでは、ご苦労様でした」
近藤は小隈から離れ、少し離れた場所に待機していた警官達に指示を出し始めた。
「さて・・・俺達も撤収するか」
後ろを振り返り、並んで待機している部下達に声をかける小隈。そのほとんどが、うんざりした顔をしている。仁木と亜矢の二人をのぞいては。
「了解。第1小隊、撤収!」
仁木の号令で、第1小隊の隊員達は指揮車へと戻り始めた。
「うう・・・気持ち悪い・・・」
「体中が甘ったるい・・・。当分は、甘いものはごめんだな・・・」
うんざりした顔でそう語る聡美と小島。二人で二十個を上回る栗まんじゅうを食べたのだから、無理はない。
「これじゃ、晩飯もパスだな・・・」
「ダメです! 三食はちゃんと食べないと!」
「そんなこと言ったってひかる、いくら甘いものは別腹って言ったって、まだ何か食べる余裕あるか?」
「それは・・・」
「そうだろう?」
「・・・。お茶漬け作ってあげますから、それくらいはいいでしょう?」
「そうだな。お茶漬けくらいなら・・・」
「あ、それ、あたしもお願い!」
「じゃあ、俺もお願いしようかな」
「わかりました」
そんなことを話している四人。自然と目が向くのは、前方を歩く仁木と亜矢の二人である。
「二人とも、平然としてますね・・・」
「亜矢さんはもともと和菓子好きだからわかるけど・・・やっぱり副隊長の胃袋って、すごいわよね」
「あれであのスタイルってのは、本当に不思議だよな・・・」
「・・・うらやましいです」
小さな声で、ひかるがつぶやいた。そんな後ろでの会話が気になっているのは、他でもない仁木自身だった。
「ハア・・・」
自己嫌悪に陥っている仁木。
「やっぱり、やらなければよかったわ・・・」
「・・・後悔しても・・・遅いですよ。副隊長が頑張ってくれたおかげで・・・今回の事件も早く片づいたわけですし・・・それに・・・」
「・・・それに?」
「これで、隠し事はなくなったわけですから・・・本当の意味で、私達は「仲良し」ですよ・・・フフ」
彼女なりに楽しそうな笑いを浮かべる亜矢。
「・・・前から思ってはいたけど・・・ここにいる限り、軽はずみなことはできないわね」
「それなら・・・異動願いを出してはいかがですか・・・?」
「それができるくらいなら、そうしているわよ。何故かしらね。ここで働く自分以外の自分を想像できないって・・・」
「それは・・・私にも答えられない質問ですね・・・。・・・ひかる君が・・・夕食にお茶漬けを用意してくれるそうです。いただきましょうか・・・?」
「そうね・・・」
こうして、SMS第1小隊の奇妙な一日は終わった。
それから数日後。第1小隊分署のキッチンの戸棚には、あの栗まんじゅう事件の日以来、一度も包丁を入れられていない一竿の羊羹がしまわれたきりになっていた。せっかくの楢崎からのおみやげだったが、さすがに嫌と言うほど栗まんじゅうを食べさせられては、しばらく甘いものから遠ざかりたいというのも無理もない話である。その事情を知っていた楢崎は、せっかくのおみやげを当分おいしくいただくことはできそうにないと申し訳なさそうに言ってきた圭介を、笑って許したのだった。
お茶の時間にお茶菓子にとして机の上に並ぶものも、チョコレートやクッキーといった甘いものはなりを潜め、せんべいのようなしょっぱさを特徴とするものが主流となっている。第1小隊のオフィスに電話がかかってきたのは、そんなときだった。
「福田ケミカル? またか」
聡美から、事件現場の名前を聞いた小隈の感想は、まさに小隊全員のそれだった。警視庁目黒警察署からの出動要請の電話は、事件の現場が例の事件のあった「福田ケミカル」の研究所であることを伝えてきた。その名前を聞いた瞬間、全員の頭にあの栗まんじゅうの山が思い浮かぶ。
「まさか、こんどは芋羊羹を食わされるんじゃないだろうな?」
小島の言葉は半分は冗談だったが、半分は本気のものだった。
「いえ・・・そうじゃないみたいです。ただ、前回よりも向こうは混乱している様子でしたが・・・」
「嫌な予感がしますね・・・」
「だからって、出ていかないわけにはいくまい。第1小隊、出動!」
数分後。「福田ケミカル」の研究所には、唖然として何かを見上げている第1小隊の姿があった。無限に増殖する栗まんじゅうを見た今、何を見ても驚くまい。第1小隊の面々は、そんな覚悟で現場へとやってきた。しかし、現実に彼らの目の前にある物体は、そんな彼らの口をあっさりと驚きであんぐりと開かせた。
彼らが立っている場所。正確に言えば、そこはすでに「福田ケミカル」の研究所ですらない。かつての研究所は、すでにその物体に押しつぶされ、その物体の下でガレキとして無惨な姿をさらしていた。
第1小隊が見上げているもの。それは、今この瞬間にも徐々に肥大化し続けている、ビルのように巨大なドラ焼きの姿だった。
「・・・というわけで、目標の巨大ドラ焼きは、現在直径約60m、高さ約20m。こうしている間にもどんどん大きくなりつつあるのは、ご覧の通りだ」
オフィス内のモニターにリアルタイムで中継されているドラ焼きを指さし、小隈が状況を説明する。既に彼らは、一旦現場から撤収していた。さすがに相手が巨大なドラ焼きでは、その場で対策を考えて実行するのは不可能である。結局、圭介のVJによって巨大ドラ焼きに近づき、その一部をサンプルとして回収し、一時退却したのである。
「栗まんじゅうの次は、ドラ焼きですか・・・」
「頭いたーい・・・」
うんざりした顔で感想をもらすひかると聡美。
「でも、明らかにこの間とは違いますよね? この間の栗まんじゅうはどんどん増えこそしましたけど、あんな風にでかくはなりませんでしたよ」
「うん。新座、お前の言うとおり、あれはこの間の薬・・・バイバインの仕業じゃない。今警察から入った連絡によると、今度の事件の犯人は、この機械だそうだ」
そう言って、小隈が何かの写真を見せる。そこには、何かの機械らしきものがうつっていた。色はオレンジ色。様々なスイッチやランプ、メーターの取り付けられている装置で、一見して何に使う機械なのかは、全くわからない。
「何ですか、この機械?」
「やっぱり、あの研究所で作っていた商品の試作版だ。何かと言えば・・・簡単に言えば、細菌製造機だな」
「細菌製造機!?」
その場にいた全員が、声をあげる。
「そう。警察が調べたところによるとだな。あの巨大ドラ焼きは、その細菌製造機によって作られた細菌の生命活動によって作られた産物らしい。要するに、キノコや納豆と同じようなものだ」
「あれが・・・キノコ?」
信じられない様子で、ひかるがモニターの巨大ドラ焼きを見つめる。どう見てもそれは、キノコとは思えない。小麦粉でできた二つの褐色の皮が、中のあんこを包んでいる。その形状はどこからどう見ても、ドラ焼きそのものである。
「キノコそのものとは言っとらん」
「でも、その菌は人間が作ったものなのでしょう? なぜ、そんな滅茶苦茶な菌を作ったのですか?」
仁木が当然の質問をする。
「そこなんだよ。これがどうも、あきれた話でね・・・」
「どういうことです?」
「問題なのは、この細菌製造機なんだよ。この細菌製造機、予定されていた市販名がどんなものだと思う?」
「そんなもの、わかるわけないじゃないですか」
「だろうな。なら教えよう。この細菌製造機・・・市販される暁には、「イキアタリバッタリサイキンメーカー」という名前で売られる予定だったらしい」
「イキアタリバッタリサイキンメーカー?」
そのネーミングに、怪訝な顔をする隊員達。
「何ですか、そのネーミングは?」
「そのまんまの意味だよ。この細菌製造機、いきあたりばったりでしか細菌を作れないそうだ。要するに、どんな細菌ができるのか、誰にもわからないってこと」
「ええっ!?」
とんでもない話に、全員が驚きの声をあげる。
「なんでそんな滅茶苦茶な機械作ったんですか!?」
思わず怒鳴る聡美。
「俺に怒るなよ・・・。たしかに、無茶苦茶な機械だ。どんな細菌が作られるかわからないってことは、どんな危ない細菌ができるかもわからないんだからな。しかし、あそこの研究員達はそうは考えなかった。奴さん達の言い分によるとだな、こういうことらしいんだ。今ではバイオ工学も進んで、遺伝子操作によっていろいろな細菌を作り出すことができる。そうしてできた人工の細菌は、俺達の生活のいろいろなところで役立っている。しかしだ・・・。いまだにそんな人工の細菌は、自然にある細菌を越えたものにはなっていないらしい。自然の中で長い年月をかけて進化してきたものや、突然変異によって発生したものほど、今の人工細菌は完成されたものではないらしい。それを解決するために研究員達が苦肉の策として開発したのが、この細菌製造装置だった。要するに、人為的に細菌に突然変異を引き起こさせて、どんどん生まれてくる細菌の中から役に立つものを選んでいくっていう魂胆だったらしい」
「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、ってわけですか。とても科学者の考えることとは思えませんよ」
小島の言葉に、小隈もうなずく。
「ああ。だが、研究員にとっては、それは大した問題ではなかったらしい。自分達が装置に付きっきりになって、できてくる細菌をチェックしていけばよかったんだからな。役に立ちそうにない細菌や危険な細菌はチェックし次第消していけば、一応は問題はない」
「確かにそうかもしれませんけど・・・だったら、どうしてこんなことになっちゃったんですか? この間みたいに、トイレに行っててその検査ができなかったとか?」
納得のいかない顔で聡美が質問する。
「いや。今度ばかりは前回みたいに、向こうが全面的に悪いってわけじゃないんだ。不幸なことが重なったことが、今回の最大の原因だ」
「不幸なこと?」
「研究所にある社員食堂で、火事が起こったんだよ。幸いすぐに消し止められたんだけど、煙が通路に充満して、一時所内がパニックに陥ったんだ。悪いことに、その時開発班は、装置を使った製造実験を行っていた・・・。あとは、言わなくてもどうなったか想像はつくな?」
「それで、戻ってみたら時既に遅し。研究室には、あの巨大ドラ焼き・・・ということですね?」
「そういうこと。そのままドラ焼きは巨大化を続けて、あっというまに研究所の建物は崩れちゃったというわけだ」
「自業自得ですね」
「まあ、そうはっきり言うな。たしかに迷惑な話だが、職場を失った人がいるんだからな」
「それよりも、問題なのはあのドラ焼きをどうするかですよね・・・。その細菌製造装置は、まだ残っているんですか?」
「研究所がつぶされたんだ。現物も設計図も、一緒になくなってしまったよ。第一、あったところで大して役にはたたないだろう。装置はいきあたりばったりで細菌を作るんだ。行程式なんか残さないから、細菌がどうやって作られたか、装置から知ることはできない。結局あの細菌については、自分達で分析するしかない」
「厄介ですね・・・」
「とりあえず、桐生が分析を終えるまでは、俺達も為す術なしだな・・・」
そう言って、小隈がイスの背にもたれたその時だった。
「・・・お待たせしました・・・」
「!?」
ドアの方で、いきなり声がした。ビックリした隊員達がそちらの方に顔を向けると・・・先ほどまで科学分析室で分析作業を行っていた亜矢が、いつのまにかそこに立っていた。
「おお、終わったか」
「はい。一通りの分析結果は・・・でましたので」
そう言いながら、いくつかの資料を隊長のところに持っていく。
「慣れませんね・・・亜矢さんの登場の仕方・・・」
「ああ・・・。本当に、音もたてずにいつのまにか入ってるんだからなあ・・・」
ひそひそ話をする圭介とひかる。一方、小隈はそれに少し目を通すと、亜矢に返した。
「それじゃあ、わかりやすく説明してくれ」
「わかりました・・・」
そう言うと、持っていたディスクを手近の端末に挿入する亜矢。モニターに、顕微鏡からの写真らしきものが映る。
「これが・・・問題の細菌です。便宜上・・・ドラや菌・・・とでも呼称しましょう」
「ど・・・ドラや菌?」
そのままと言えばそのままだが、あまりにも安直な命名に、驚きを隠せない一同。
「まあ・・・凝った名前をつけたところで話は変わらないだろう。続けてくれ」
「はい・・・。問題の巨大ドラ焼きですが・・・これはこのドラや菌の生命活動の結果です。つまりは・・・キノコと同じ様なもの。ここまでは、隊長がお話になったと・・・思いますが?」
「ああ、さっき説明した」
「しかし・・・厳密に言って、実際あれはキノコではありません」
そう言って、端末を操作する亜矢。モニターに、何かの成分表らしきものが映る。
「これは・・・サンプルの成分を分析したものです。これを見る限り・・・あれはキノコなどではなく・・・小麦粉とまったく同じ成分でできています」
「小麦粉? ということは・・・」
「その通り・・・。あれは紛れもなく、本物のドラ焼き・・・ということだよ。採取したサンプルは表面のものだったから推測にすぎないけど・・・たぶん、あんの部分も本物だろう」
そう言って、別のモニターに映っている巨大ドラ焼きを見る亜矢。
「本物ということは・・・つまり、食べることもできるというわけですか?」
「そういうことだね・・・。ドラや菌は・・・その生命活動の副産物としてドラ焼きを作り出す不思議な生命・・・ということだよ」
「不思議と言うより、非常識ですね・・・」
仁木がため息をつく。
「なるほど。あれがまぎれもなく、巨大な本物のドラ焼きであることはわかった。では、あの巨大ドラ焼きを退治する方法についてはどうだ?」
「菌そのものの生命力は・・・決して並はずれて強いものではありません。高温や低温の環境に置けば・・・死滅することが確認されました」
「つまり、焼きドラ焼きや冷やしドラ焼きにすればいいってことかい?」
小島が半ば冗談で質問する。
「それがベストなんだけどね・・・。しかし・・・あれほど大きくなってしまっては・・・それは難しいだろう。表面を焼くことで表面の菌を殺せば・・・一時的にドラ焼きの巨大化を防ぐことはできる。でも・・・大した時間もなく、ドラ焼き内部の菌が表面に移動して・・・再び巨大化が始まるだろうね」
「ウェルダンにしなければダメということか。あれだけデカイと、核でも使わんかぎりそれは無理だな」
「隊長! 冗談を言ってる場合じゃありません!」
仁木に怒られ、思わず小隈はたじろいだ。
「ああ、たしかに悪い冗談だった。すまん。それで桐生、根本的な解決策はあるのか?」
「はい・・・。細菌には細菌で・・・対抗しようかと思っています」
「細菌には細菌・・・?」
「つまり・・・ドラや菌とは全く正反対の作用を持つ細菌を作るのです。具体的に言えば・・・ドラ焼きから水か空気を合成する菌・・・ですね」
「め、めちゃくちゃな菌ですね」
「めちゃくちゃな菌に対抗するには・・・こっちもめちゃくちゃな菌を作るしかないんだよ、新座君」
「まあいい。それで、その菌を作るメドはたっているのか?」
「はい。知り合いの科学者に・・・すでに連絡をいれました。ことは緊急をようするので・・・みんな、すぐに来てくれるそうです」
「知り合いの科学者? 亜矢さん、科学者に知り合いがいるんですか?」
「あれ? 知らなかったっけ? 亜矢さんはね、化学とシステム工学の二つの博士号を持ってるんだよ」
「え!? 二つも!?」
「すごい・・・!」
聡美の説明に驚く圭介とひかる。仁木とは違った意味で知性を発散させている亜矢だったが、まさかそこまでの天才だとは思ってもいなかった。
「バイオ工学は・・・専門外なんだけどね。とにかく・・・私も力を貸さないと・・・」
「わかった。それでその細菌を作るのに、どれだけの時間がかかる?」
「新座君も言ったように・・・めちゃくちゃな菌ですからね。どれだけの時間がかかるのか・・・はっきりいって見当がつきません・・・」
「できるだけ早く頼む」
「それは、もちろんです・・・」
「その間、俺達にやってほしいことがあるなら言ってくれ。こうしてここでジッとしているのも、落ち着かないからな」
「わかりました・・・。それでは・・・完成までの時間稼ぎをお願いしましょうか・・・」
「時間稼ぎ?」
「さっきも言ったように・・・表面を焼くか凍らせるかすれば・・・ドラ焼きの巨大化は遅らせることができます・・・。ですから・・・VJを使って表面に液体窒素を散布するなどの手段をとれば・・・時間稼ぎは可能です」
「なるほど・・・。たしかに、できることはそれぐらいしかないだろうな」
隊長がそう言ったその時だった。
ドガッ! ガラガラガラガラ!!
突然、モニターから大きな音がした。びっくりした全員が見てみると・・・そこには、巨大化するドラ焼きが、ついに研究所の周囲にある建物を押しつぶし始めている様が映っていた。
「・・・どうやら、のんきにしている時間はなさそうだ」
青ざめた顔で、小隈が言う。それにうなずく隊員達の顔も、同様だった。
「それでは隊長・・・私は行ってきます」
「ああ、そうしてくれ。頼んだぞ」
「はい。ひかる君・・・3機のVJの管制・・・任せて大丈夫かな? それほど困難な作業が想定される状況は・・・この先はないと思うけど・・・」
「は・・・はい! がんばります!」
「それじゃあ・・・頼んだよ」
そう言った亜矢の姿が、一瞬闇に包まれたかと思うと・・・次の瞬間には、彼女の姿はそこにはなかった。
「き・・・消えた・・・」
「一部は現代科学を越えてるね、亜矢さんの魔術・・・」
「まあ彼女に任せておけば、大丈夫でしょう・・・」
「さて、俺達は俺達の役割を果たそう。第1小隊、出動!」
「了解!!」
スポンジの上を歩いている。その場所の歩き心地は、まさにそんな感じだった。一歩足を進めるたび、ズブリと足が茶色い足下に沈む。赤いVJに身を包んだ圭介は、必要以上に足がめり込まないように足下に注意を払いつつ、慎重に歩いていた。
出動から約1時間後。第1小隊のメンバーは、件の巨大ドラ焼きの上にいた。
「圭介君、もう少しでポイントです」
「わかった」
ヘルメットの中にひかるの声が響く。圭介はそこからさらに十数歩足を進めた。
「そこです」
「了解」
背中のバックパックから、ラグビーボール大の円筒を取り出す圭介。彼はそれを目の前の地面に突き刺した。
「置いた。あと一個だな」
「はい。そのまままっすぐ進んで下さい」
「しかし、もう少し効率のいい方法はないんですかねえ」
通信の会話に、小島の声が割り込んできた。
「これだって、十分効率のいい方法だと私は思うけど。小島君」
その言葉に、仁木が返答を返した。
「それとも、輸送機か何かから液体窒素をこのドラ焼きの上にバケツの水をひっくり返すみたいにかけた方がいいとでも言うのかしら? この辺りは市街地なのよ」
「さすがに、そんな乱暴なことは考えてませんよ」
「それに、これだってなかなか面白い経験じゃないですか。ドラ焼きの上から夕日を見られるなんて、普通は考えられませんよ」
「新座、お前は気楽だな・・・。まあお前の言うとおり、もっと仕事を楽しんだほうがいいかもな。たしかに、こんな風景他じゃ絶対見られないもんな・・・」
そう言って、西の方を向く小島。そこには真っ赤な夕日が輝き、彼らを赤く照らしていた。周囲にはサイレンが鳴り響き、空にはTV局の撮影クルーの乗ったVTOL機がいくつも飛んでいる。彼らから見ればこの風景は、都市という日常の中に突如出現した非日常として映っているだろう。しかし、そんな非日常ですらもはや日常的になってしまったこの時代では、彼らが伝えるニュースを見る人々も、昔ほどは驚きを見せることはなくなっていたが・・・。
「そんなことより小島君。冷凍弾は全て配置したの?」
「ええ、こっちは全て終わりましたよ」
「新座君、そっちは?」
「これで最後です」
そう言って、最後の円筒を置く圭介。
「終わりました」
「了解。一度指揮車に戻るわよ」
「「了解」」
そう言うなり、仁木達はすでに40mを越えている高さのドラ焼きから、ひょいと飛び降りた。
「よお、お疲れさん」
指揮車に戻った彼らを迎えたのは、小隈からの軽い調子のねぎらいの言葉だった。
「ただいま戻りました。それで、現在の状況は?」
「今さっき、配置作業を終わらせたことを通知した。警察、救助隊、それにマスコミが安全な場所まで下がるまで、もう少し待機だな」
VJのヘルメットだけを外し、イスに腰掛ける隊員達に小隈は状況を伝えた。
「隊長、質問があります」
圭介が手を上げた。
「何だ?」
「さっき配置してきた冷凍弾ですが・・・あれの出所はどこなんですか? ずっと気になってたんですけど」
圭介の言葉に、全員がうなずいた。
「ああ、そのことなら簡単な話だ。さっきは急いで配置しなければならなかったから、詳しい話は省略したからな。出所を言うなら、あれは消防庁のものだ」
「消防庁?」
「そうだ。本来は冷凍弾ではなく、消火弾として用いる予定だったらしい。化学工場など消火に慎重な作業を要する場所に、一気にあれを叩き込んで固めてしまうつもりだったようだ。だが・・・そのためにしては威力が強すぎて、実用化が難しかったらしい。改良も思うように進まず、最初に作られた試作品が、研究所の倉庫でほこりをかぶってた」
「それを見つけだしてきたんですか?」
「最初は桐生の言ったとおり、液体窒素を使うしかないと思って、その用意を上の方に頼んだんだ。そうしたら、その中にその冷凍弾の存在を知っている消防庁上がりの人がいてね。大急ぎで取り寄せてもらったらしい。いや、さすがにうちの場合、上の方にも優秀な人が多いな」
「しかし・・・大丈夫でしょうか?」
そう言って、不安そうな顔をする仁木。
「ん? 珍しいな仁木。お前が任務中にそんな顔をするなんて」
「きちんとしたデータがとれていない機材を使うことが不安なんです。あの巨大ドラ焼きに対して、どれだけの効果が期待できるかわからないところが・・・」
「それは、仕方がないことじゃないか? 冷凍弾でなくとも、あの巨大ドラ焼きに対して何がどれだけ効果をあげるかなんて、誰にも予想はできないだろう?」
「それは、そうですが・・・」
「とりあえず、やってみることだ。ダメだったら、次の手を考えればいい。手早くな」
その時、指揮車内の通信機が音をたてた。
「はい、第1小隊・・・はい、わかりました。とりかかります・・・。隊長、関係者の付近からの撤退が完了したそうです」
「終わったか。それじゃ・・・始めるとしよう」
そう言って、何かのスイッチを取り出す小隈。冷凍弾と一緒に渡された、起爆スイッチである。
「さて・・・黒と出るか、白と出るか・・・いくぞ、10カウントからだ。10、9・・・」
全員が緊張の面もちで、隊長の手元と巨大ドラ焼きを交互に見つめる。巨大ドラ焼きは夕日を背にして、その巨大なシルエットを黒く浮かび上がらせていた。
「3・・・2・・・1・・・0!」
カチッ!
隊長がスイッチを押した、その瞬間。
ボボボボボボボボボボォォォォォォォン!!
巨大ドラ焼きのあちこちで、爆発が起こった。予想以上に大きな爆発である。しかし、そこから炎や黒煙が吹き上がることはなく、その代わりに大量の白い水蒸気のようなものが、巨大ドラ焼きの姿を包み込んでいった。
全員、それからの経過を固唾を呑んで見守る。そして、それからどれだけの時間が経ったか、いつまでも巨大ドラ焼きを包み込んでいるかのように見えた白い煙は、だんだんと晴れていった。そして・・・
「!!」
夕日の中に浮かび上がったのは、その赤い光を浴びてキラキラと輝く、まるで氷のオブジェのような氷漬けの巨大ドラ焼きの姿だった。
「やったぁ!!」
聡美の歓声とともに、指揮車の中に喜びが満ちた。手放しで喜ぶもの、安堵のため息をもらす者など、その様子は人それぞれである。しかしその中で、小隈は笑顔を浮かべることもそこそこに、努めて真面目な口調で言った。
「お前達! 安心するのはまだ早い」
その言葉に、一気に喜びの声が止まる。
「岸本、巨大化が停止したかどうか確認しろ」
「りょ、了解!」
そう言って、指揮車に搭載されている観測装置を用いて巨大ドラ焼きのデータを調べ始める聡美。
「わかりました。停止・・・と完璧には言えませんが、それに近い状態です。ドラ焼きの推定質量値は、先ほどとほとんど変わっていません」
その言葉に、胸をなで下ろす一同。
「とりあえず、冷凍弾は予想通りの効果をあげてくれたようだ。しかし、これで解決したわけではないのは十分わかっているだろう。我々は、巨大ドラ焼きの巨大化をくい止めたにすぎない。時間稼ぎだ。根本的な解決案は、まだ完成していない。今は5月・・・真夏でないのを感謝すべきだが、暖かいことには変わりはない。あの氷も、いつ溶けてドラ焼きが再び巨大化しはじめるかわからないんだ。各自、気をひきしめること」
「了解!」
全員がその言葉通り、態度を引き締める。しかしそれとは対称的に、小隈は再び楽な体勢をとった。
「・・・とはいえ、俺達ができそうなことはここまでだ。あと残されていることは・・・3つのことを祈るだけ」
「3つ?」
「そう。一つは、あの氷ができるだけ長く溶けずにいること。二つ目は、桐生達ができるだけ早く抗ドラや菌細菌を作ってくれること」
「3つ目は・・・?」
「この事件が解決するまで、これ以上厄介な事件が起こらないこと。当面は、こんなことを祈りながらドラ焼きを見張り続けるしかないだろう。とりあえず、俺は関係者の代表達と今後のことを話し合ってくる。仁木、少し留守を頼む」
「わかりました・・・」
それだけ言って、隊長は指揮車を出ていった。
「祈ることしかできないって・・・なんだか情けないよなぁ」
やがて、VJを脱ぎながら小島が言った。
「でも、仕方ないよ。あんな巨大なドラ焼き、あたし達だけでどうこうできるものじゃないのは事実なんだから。亜矢さん達のがんばりに期待するほか、どうにもならないよね・・・」
「ちょっと情けないけど、私も同感ね・・・。気長に待ちましょう。外でコーヒーをもらってくるわ。他に飲みたい人いたら、遠慮なく手を上げて」
「あ、副隊長いいんですか? それじゃああたしも!」
「俺も、お願いします」
遠慮なく手を上げる聡美と小島。
「わかったわ。新座君と服部さんは、いいの?」
「コーヒーって気分じゃないんで・・・」
「どうぞ、行って下さい」
そして、仁木も指揮車から出ていった。
「・・・」
夕日に照らされる氷漬けの巨大ドラ焼きを眺める圭介。氷漬けになったことで、さらに非日常性が増したようにも見える。
「なあ・・・今思い出したんだけどさ・・・」
「何ですか?」
「亜矢さんが言ってた「恐怖の大王」って・・・もしかして、あれのことじゃないかな」
そう言って、巨大ドラ焼きを指さす圭介。
「・・・かも、しれませんね・・・」
静かにうなずくひかる。
「このまま放っておいたら、最後には地球と同じくらい大きくなりそうだからな・・・。それだけ考えれば、「恐怖の大王」って呼ばれても、別におかしくはない・・・。だけど・・・形がな・・・」
「ドラ焼きですもんね・・・。ちょっと、緊張感が・・・」
「ないよなぁ・・・」
前方に鎮座している、間抜けな「恐怖の大王」の姿を複雑な表情で見つめる二人。
「長くなりそうだな・・・」
「そうですね・・・」
それから、1週間がたった。相変わらず、巨大ドラ焼きは福田ケミカル研究所跡地に氷漬けになったままの姿で鎮座している。もっとも、氷漬け作戦が効果を奏しているため、その大きさは1週間前とほとんど変わっていない。もし対策が遅れていれば、今頃は大変なことになっていただろう。
それまでの1週間、SMS第1小隊は朝8時から夜の11時までは巨大ドラ焼きを見はれる場所で待機し、それ以外の時間は分署に戻って就寝するという生活を続けていた。過酷な任務に慣れている第1小隊にとっても、連日巨大ドラ焼きを監視し続けるだけの生活は精神的に辛いものがあった。
もっとも、その間何事もなかったというわけではない。現在巨大ドラ焼きを覆っている氷。それは、最初の作戦によって巨大ドラ焼きを包んだものではなかった。5日前、ついに巨大ドラ焼きを覆っていた氷が溶け、再び巨大化を始めたのだ。氷が溶け始めていたことは事前にわかっていたため、第1小隊は第2次氷漬け作戦を実行。今回も巨大ドラ焼きの氷漬けに成功していた。
「あーあ。ランニングしたいなぁ・・・」
「待機中よ。勝手に指揮車から離れるのは服務規程違反になるわよ」
もともとジッとしているのが苦手な聡美が、退屈に負けて思わず本音を出すと、すかさず仁木が注意をした。
「そうは言ってもですねえ、副隊長。この退屈さでは、そうなるのも無理ないと思いますけど・・・」
珍しく、小島が聡美に助け船を出した。彼もやはり退屈なのか、ヘッドホンで音楽を聴きながら医学雑誌を読んでいる。もっとも、音量はだいぶ低くしてあるようだが。
「そうですよ。それに副隊長だって、そんなもの読んでるじゃないですか」
聡美が仁木の膝の上に置かれている推理小説を指さす。
「退屈なことと、それを紛らわすために何かすることは認めるわ。私や小島君のように、この場でできる退屈しのぎの方法を見つけなさいと言っているのよ」
「そんなこと言ったって、あたしは体育会系なんですから、しょうがないじゃないですか。どうせあのドラ焼きが暴れ回るわけじゃないんですから、ちょっとその辺を一回りでも・・・」
その時、聡美の横から一冊の雑誌がニュッと突き出された。
「わっ!?」
「これでもどうだ?」
見ると、横で小隈がクロスワードパズルの雑誌を差し出していた。
「パズルですか、隊長?」
「待機任務中であることには間違いないからな。いざというとき頭が働かないと。これをやってれば、頭を働かせたまま非常時に備えられるぞ」
「なんだかこじつけみたいな気もしますけど・・・」
「要は気を引き締めたまま楽にしてればいいの。それでだが・・・「ヒノキやスギの薄い皮を曲げて作った日本伝統の食器」って、お前なんだかわかるか? 「ま」で始まって5文字の言葉なんだが」
「「曲げわっぱ」ですね、隊長」
聡美の代わりに、仁木が即座に答えた。普段ならこんなときは隊長をたしなめるはずなのだが、長く続く退屈のために、彼女もどこか普段とは違ってしまっているらしい。
「あ、なるほど。それならこの横の3つの枠も「クッパ」で埋まるな。サンキュー」
そう言って、喜々として升目に文字を入れていく小隈。
「もういいです・・・」
さすがにつきあいきれなくなり、聡美が立ち上がった。と、その時、VRコンピュータの前で何かをやっている圭介とひかるの姿が、彼女の目に入った。先ほどの妙なやりとりにも参加しなかった二人が何をやっているのか、退屈しきっている聡美が気にならないはずがなかった。
「何してるの、お二人さん?」
背後からそう声をかける。
「茶化さないでくださいよ・・・」
「照れることないじゃないの。それよりも、何してるの?」
「いや・・・ひかるが気になることがあるって言うから・・・」
当のひかるはヘルメットをかぶり、作業に没頭している。やがて、モニターに多数のデータと、巨大ドラ焼きの図が表示された。
「わかりました・・・やっぱりそうです」
作業を終えたらしく、ひかるが言った。
「なになに? 何がわかったの?」
身を乗り出してモニターを見る聡美。
「あの巨大ドラ焼き? あれで、何が気になったっていうの?」
「はい・・・。あれを見ていて、このあいだとちょっと変わったところを見つけたので、調べてみたんです。これを見て下さい」
そう言って、グローブをはめた手を少し動かす。すると、画面の表示が変わった。氷漬けになった巨大ドラ焼きの写真が二つ、並んで表示されている。
「右が5日前・・・・つまり、最初の氷漬け作戦から2日後のドラ焼きの写真・・・。もう一つが、今のドラ焼きの写真です。二つを見比べて、気づきませんか・・・」
「・・・?」
そう言われてよく見てみた結果、聡美はあることに気がついた。
「・・・なんだか、今の方が氷が薄くない? 気のせいかな?」
たしかに、5日前のドラ焼きを覆っている氷の層よりも、今のドラ焼きを覆っている氷の層の方が、厚さが薄い。
「気のせいじゃありませんよ。本当に薄いんです」
聡美の言葉に、圭介が答えた。
「もしかして、それって、つまり・・・」
「・・・最初に氷漬けにしたときよりも早いスピードで、氷が溶けているんです」
ひかるの答えは、聡美が考えていたものと同じだった。
「調べてみたら、ドラ焼き自体が発熱を始めているようです。ドラや菌が、寒さに対する対抗策を身につけ始めてきた・・・と考えられますね」
「そ、それじゃあ、氷漬け作戦もこれからは・・・」
「あまり効果は期待できない、ということです・・・」
圭介が残念そうに言ったその時
「知恵つけてきたってことか・・・まあ、不思議なことじゃないな」
「!?」
小隈の声がした。後ろを振り返ると、いつのまにか小隈と仁木と小島、つまり、この場にいる全員がモニターの前に集まっていた。続けて、小島が口を開く。
「「生命は必ず道を見つけだす」って台詞が、昔のSF映画にあったっけ・・・。今の状況じゃあ、あんまりありがたい言葉じゃないな・・・」
「しかし、困りましたね・・・。巨大化がくい止められなくなったら・・・」
仁木の言葉は、全員の心の中にあるものだった。
「・・・ない知恵絞って、別の手段を考えるしかないな。でも、いつネタ切れになることやら・・・」
まいったねぇ、とつぶやきながら、小隈がタバコに火をつける。もっともその口調と正反対に、表情は置かれている状況にふさわしい険しさを帯びていた。
指揮車の運転席、聡美の席にある通信装置が受信音をたてたのは、ちょうどその時だった。一同は一瞬顔を見合わせたが、すぐに聡美が運転席に駆け戻り、そのスイッチを入れる。
「はい、こちらSMS第1小隊!」
「やあ・・・そっちは大変なようだね・・・」
指揮車の中に、少し低めの静かな声が響く。それは間違いなく、抗ドラや菌細菌を研究中の亜矢の声だった。その声に、一斉に全員が運転席に走る。
「少し前まではそれほど大変ってわけじゃなかったけど・・・大変なことになりかけてます。ドラや菌が、寒さに対抗するために熱を出すようになったんです!」
「ほう・・・それは・・・いいタイミングだったようだね・・・」
その言葉に、さらに全員がどよめいた。
「桐生、小隈だ。いいタイミングということは、つまり・・・」
「そう・・・準備は整いました。これからそちらに向かいます・・・」
次の瞬間、指揮車の中は歓声に包まれた。その歓声を出させた心情の中に、これ以上退屈な待機任務を続けずに済むという開放感があったことは、言うまでもなかった。
「フフ・・・よろこんでもらえて・・・こちらもうれしいよ・・・。それじゃあ、待っていてくれ」
通信機の向こうから聞こえてくる歓声に微笑を浮かべつつ、亜矢は通信機を切った。
「それでは・・・発車してください」
「わかりました」
隣の運転席に座っている運転手に、亜矢は声をかけた。そしてその直後、亜矢の乗った大型ホバートラックを先頭とする液体タンク搭載型トラックの長い列は、つくばにあるバイオ工学研究所を出発した。
「第1小隊、配置につきました」
巨大ドラ焼きの上に全員いることを確認し、仁木は指揮車に報告を入れた。すでに巨大ドラ焼きを覆っていた氷は溶け、第1小隊の実働員達は作戦初日と同様、巨大ドラ焼きの表面上に直に立っている。
「了解。マルチブラスターの用意をしておけ」
隊長の声が返ってくる。その言葉に応じて、3体のVJは右腕に装備されたノズルをチェックした。そのノズルはホースを通じてバックパックに接続されている。そしてそのバックパックからは、さらに長いホースが伸びており、それははるか眼下の巨大タンクに接続されていた。
「第2段階、か・・・」
その光景を見ながら、圭介は二日前のことを思い出していた。
大型トラックの列と共に亜矢が第1小隊と合流したのは、彼女が通信を入れてきた日の夕方だった。
「これ全部、対ドラや菌用の細菌ですか?」
どのトラックの荷台にも積まれている大型タンクを見て、驚きながら圭介は尋ねた。
「違うよ・・・。これは・・・下ごしらえのためのものさ・・・」
その質問に対し、亜矢は微笑を浮かべながら答えた。
「下ごしらえ?」
「詳しい話は・・・指揮車の中でしよう」
それからすぐ、指揮車の中で亜矢が立案したという今回の作戦の説明が行われた。
「始めに言っておくと・・・今回の作戦は3段階に分けられます」
説明の最初、亜矢はそう言った。
「今回のために・・・私達は三つのものを作りました。一つは・・・ドラや菌の活動を低下させる特殊化学薬品・・・。二つ目は・・・抗ドラや菌細菌を繁殖させる下地のための培養液・・・。そして三つ目が、抗ドラや菌細菌」
黙ってその説明に聞き入る一同。
「それでは・・・作戦の内容に入ってくれ」
隊長の言葉に無言でうなずくと、亜矢は説明を始めた。
「今回の作戦は・・・巨大ドラ焼きに抗ドラや菌細菌を散布し、空気にしてしまうことが目的です。ですから・・・決行は氷が溶けてから・・・ということになりますね・・・」
その言葉に、全員が顔を見合わせる。
「たしかにそうだけど・・・」
「早く終わりにしたいな・・・」
「凍らせることばかりで、溶かすことまでは考えてなかったからな。まあ、しかたがない。溶けるのを待とう。それで? 溶けた後は、どんなことをする?」
「まず・・・最初に言った特殊化学薬品を、ヘリから目標の上に散布します。これによって数時間は・・・ドラ焼きの巨大化を防ぐことができるでしょう・・・。作戦は・・・その間に行います」
「そこで俺達の出番か。それで、具体的には何を?」
「小島君達には・・・下ごしらえをしてもらうよ」
亜矢がやって来たときに言った「下ごしらえ」という言葉を、再び口にした。
「その下ごしらえっていうのは?」
「その通りの・・・意味だよ。もっと詳しく言えば・・・抗ドラや菌細菌が繁殖するための下地を作る作業・・・ということだね」
「ちょっと待って。ということは、抗ドラや菌細菌は、相当量用意してはいないということ?」
仁木が質問すると、亜矢は答える代わりに、懐から何かを取りだした。
「これが抗ドラや菌細菌・・・ADB、だよ。そしてこれが・・・私が持っている全てのADB・・・」
亜矢が持っているものは、砂時計ほどのガラスの容器に入った緑色の粉末だった。
「それだけの量で・・・あのドラ焼きを消すんですか?」
信じられないといった顔で、ひかるは言った。
「もちろん・・・こんな量では、とてもあれだけのドラ焼きを消すことはできない・・・。だから・・・あのドラ焼きを巨大なシャーレにして・・・直接あの表面でADBを培養するんだ。そのために・・・あれだけの量の培養液を持ってきたんだよ」
指揮車の外に停まっている何十基もの大型タンクを眺める亜矢。
「あの中に入っている培養液を・・・ドラ焼きの表面にまんべんなく吹きつける・・・。その後でこのADBをドラ焼きに散布すれば・・・あとは培養基となったドラ焼きの表面でADBが繁殖し・・・巨大ドラ焼きは消えていく・・・。最初からADBを相当量培養する手も考えたけど・・・こちらの方がトータルで見て効率的だと・・・わかったのでね。何か質問は・・・あるかな?」
その声に、手を上げる者はいなかった。
「誰も・・・いないようだね」
「そうらしいな。さて、とにかくこれで事件解決のメドが立った。服部、氷が溶けるまでは、あとどれくらいの時間がかかる?」
「は、はい・・・今のペースで計算しますと・・・約35時間後には、全ての氷が溶けると思います」
端末で氷が溶けるまでの時間を計算したひかるが答える。
「明後日か・・・。それまでは、まだ何もできそうにないな。・・・というわけだ。明日までは、退屈しのぎを続ける覚悟でいなければならない。しかし、それももうすぐ終わりだ。今までと違って、あてがあるだけでも気分は違うだろう。全員、明後日に向けて気を引き締めるように。わかったな?」
「了解!」
全員が敬礼を返す。ぬるま湯のようだった指揮車内の空気も、これで再び引き締まっていくだろうということが、彼らには想像できた。
そして、作戦の決行日が訪れた。7機の疑似反重力ヘリが巨大ドラ焼きの上に飛来し、特殊化学薬品を散布したのが10分前。そして今、圭介達第1小隊と、応援に駆けつけた第2小隊、第3小隊は、巨大ドラ焼きの上に立っていた。
「さーて、いよいよ始めるとしますか」
そう言って、右腕のマルチブラスターの引き金に手をかける小島。そして・・・
「作戦開始!」
小隈の号令とともに、作戦が開始された。
「散布開始します!!」
ブシャアアアアアアアアアアア!!
各々のマルチブラスターのノズルから、勢いよく赤い液体が噴出される。この培養液、本来は無色らしいが、今回の作戦では散布した場所をわかりやすくするために赤く着色がなされているのである。9体のVJが散布する培養液によって、ドラ焼きの上は赤く染まっていく。
「どうも・・・下に比べると能率が悪いな・・・」
散布を続けながら、小島がぼやく。彼がちらりと見下ろした地上では、ポンプ車が培養液をホースでドラ焼きに吹きつけていた。下からできる吹きつけ作業は、彼ら消防隊が主力となっている。当然、一度に散布できる面積はこちらのほうが圧倒的に広い。
「仕方ありませんよ。ドラ焼きの上にポンプ車を持ってくるわけにはいかないし」
「それに、こっちにもさっきのヘリという主力がいるのよ。下と比べて、それほど差はないと思うわ」
仁木の言葉通り、ドラ焼きの上部分の吹きつけ作業の主力は、先ほど化学薬品を散布していったヘリだった。彼らはこのあと、付近の空港で培養液の補給を受け、それをドラ焼きの上で散布しては空港に戻るということを繰り返すことになっている。さすがに9人だけに、競技場に匹敵する面積のドラ焼きの上に培養液の散布を任せては、作業がいつまでかかるかわからない。SMS隊員達は、今回はあくまで脇役である。
「でも、なんだか嫌ですね。上からばらまかれたら、せっかくの青いカラーが台無しですよ」
「そういうことなら、私の白いVJはどうなるの。洗えば落ちるんだから、そんなことは気にしないで作業に集中して」
「了解しました」
黙々と作業を続けるVJ達。残された面積は、まだ果てしなく見える。
それから3時間後。3人の実働員達は、指揮車の中でVJを脱いでいた。VJの方は指揮車に入る前にシャワー代わりの水を浴びたので、ヘリから散布された培養液はきれいさっぱり流れ落ち、本来の色を取り戻している。
「これでいつ失業しても、塗装屋に再就職できますね」
疲れた顔をしながらも、そう冗談を言う小島。
「ああ、見事な仕上がりだよ。見てみろ」
そう言って、窓の外をしめす小隈。そこには、彼らと東京消防庁の全力を挙げた作業の結果、真っ赤に染まった巨大ドラ焼きの姿があった。
「へえ・・・綺麗に染まってやがる」
「あとは、ADBを植え付けるだけですね」
「どうやってそれをやるんですか、亜矢さん?」
圭介に尋ねられた亜矢は、黙ってうなずき答え始めた。
「簡単だよ・・・。あのヘリから、ADBの入った容器を落とすだけ・・・。ほら、来たようだよ・・・」
真っ赤に染まったドラ焼きの上に、一機のヘリが飛来してきた。
「こちらシーガル。配置につきました」
「了解。ADBを投下後、速やかに離脱して下さい」
「了解。ADB、投下します」
ヘリと聡美との短い通信が終わる。第1小隊を始めとするその場にいる者全員が、これからどうなるかを固唾を呑んで見守る。
やがて、ホバリングをしていたヘリが、急加速をしてドラ焼き上空から飛び立った。ADBを投下したのだろう。ADBが繁殖を始めれば、ADBはドラや菌を捕食しつつ、その生命活動の副産物であったドラ焼きを空気に分解する。それによって、ドラ焼き周辺にはかなりの量の空気が突然発生し、地上では猛風、上空では乱気流となることが予想された。それに巻き込まれるのを避けるため、ヘリは速やかに現場上空を離脱したのである。
そして、次の瞬間現れたのは、すさまじい光景だった。ドラ焼きの頂点付近から、まるで倒れたワイングラスからこぼれたワインがテーブルクロスにしみこんでいくかのように、緑色のものが赤く染まったドラ焼きを上から下へと緑色に染め変えていったのだった。そのスピードは驚異的で、あっという間にドラ焼きは真っ赤から真緑へと姿を変えた。それはまるで、全体に青かびが繁殖したようにも見えた。そして現実は、それと似たような状態なのである。
しかし、緑色のドラ焼きが人々の前に完全な姿をさらしていたのは、ほんのわずかな時間だった。ADBが全体を覆い尽くした直後、巨大ドラ焼きはシュウシュウと音をたてながら、その輪郭をゆがめていったのだ。分解が始まったのである。見る見るうちに、巨大ドラ焼きはその体を縮めていく。
「す、すごい・・・」
圭介達はポカンと口を開けて、その光景を黙って見つめるしかなかった。そんな間にも、どんどん巨大ドラ焼きは消えてなくなっていく。それとともに発生した大量の空気が、強い風となってそれを見つめている人々の所へも押し寄せる。
そして・・・巨大ドラ焼きは、跡形もなく消え去った。あれほど巨大な物体が存在していたのが、まるで嘘だったかのように。しかし巨大ドラ焼きがあった周囲には、それによって破壊された研究所などの建物の残骸、多数の車両、そして、呆気にとられている人々と、かつてそれが存在していたことを示す証拠が、置いていかれたかのように残されていた。
「・・・」
ポン・・・
「あ、ああ・・・」
やはり呆気にとられていた小隈の肩に、静かに亜矢の手が置かれた。それによって気を取り戻した小隈は、通信機のスイッチを入れた。
「全車に告ぐ・・・状況、終了・・・!」
小隈のその声が、その場にいる全ての車両に伝わり、その反応が返ってくるまでは、少しの時間があった。しかし、やがて指揮車の外からは喜びの声や、拍手の音が聞こえてきた。そしてそれは、第1小隊の指揮車の中も同じであった。
「みんな、よくやってくれた。この間の栗まんじゅうのことから続けて、またしても俺達は世界を救ったんだ。これだけのことができたことを、みんな誇りに思おう」
隊長の言葉は少し間抜けだったが、一応、間違ってはいなかった。
「亜矢さん」
圭介とひかるの二人が、亜矢に声をかけた。
「お疲れさまでした。今回は何と言っても、亜矢さんの活躍あってこそでしたね」
「フ・・・礼には及ばないよ・・・。私は・・・自分の仕事をしただけだからね・・・」
「亜矢さん・・・気になっていたんですけど・・・」
「なんだい? ひかる君・・・」
「亜矢さんの占いに出てきた「恐怖の大王」って、あのドラ焼きのことだったんですか?」
ひかるが気になっていたことを尋ねると、亜矢は小さな笑いを漏らして答えた。
「あの時のビジョンは・・・はっきりしていなかったからね。ドラ焼きがそうだったのかもしれないし・・・栗まんじゅうがそうだったのかもしれない・・・。本当のところは・・・私にもよくわからないな。いずれにしても・・・もう心配することはないだろうね・・・」
「そうだったんですか。でも栗まんじゅうにしても、ドラ焼きにしても、なんだか情けない「恐怖の大王」でしたね。中世の予言者も、まさかそんなものが恐怖の大王だなんて、思いもしなかったんじゃないですか」
「フフ・・・そうだね。でも、もしかしたら・・・はっきりと見えてはいたけど・・・恥ずかしくて言えなかったのかもしれないよ・・・?」
こうして、栗まんじゅう事件に端を発した「恐怖の大王」と第1小隊との戦いは、ようやくにその幕を閉じたのであった。
長かった悪夢のような和菓子との戦いが終わった翌日。第1小隊の分署内にある隊員オフィスには、再び日常が戻ってきていた。
「ハァー、気持ちいい! やっぱり走るのって最高だね!」
ランニングを終えて戻ってきた聡美が、スポーツタオルで汗を拭いながらオフィスの中に入ってきた。そんなことを言いながら、自分の席に戻る。
「お茶の準備できました。あ、聡美さんは、これでいいですか・・・?」
聡美にだけは、よく冷えたスポーツドリンクを渡すひかる。
「わぁ、さっすがひかるちゃん気が利く! ありがと」
それを受け取り、喜んで口をつける聡美。一方周りでも、第1小隊の面々が思い思いにお茶の時間を楽しみ始めていた。
「あーあ・・・やっぱり、自分のところが一番よねぇ・・・」
聡美がイスにもたれて、しみじみとつぶやいた。
「何をじじくさいこと言ってるんだか・・・」
「あ、ひどい!」
「今の発言が年寄り臭かったのは事実だろ?」
そう言って騒ぎ出す小島と聡美。
「今日もにぎやかね・・・」
「・・・」
それを横目で見ながら、仁木と亜矢は静かにお茶を飲んでいた。そんなときである。
ピーッ
何かの音がした。どうやら、オフィスの自動ドアの前についているインターホンの音らしい。一番近くにいる圭介が、それに近寄った。
「どなたですか?」
「フロッグ運送です。お届け物にあがりました」
どうやら、宅配便らしい。圭介がドアを開けると、そこには緑色の制服を着た配達員がいた。
「小包ですか」
「はんこお願いします」
圭介は隊長の所まで行き、無言で渡されたはんこを受け取ると、それを使って受領書にはんこを押した。
「毎度ありがとうございました」
快活な声とともに、配達員は去っていった。圭介は小包を持って、自分の席に戻る。
「何だったんだ?」
全員を代表し、小隈が尋ねる。小包の宛名は、特機保安隊第1小隊オフィスとなっている。隊員個人の届け物は寮に届くことになっているので、それは当たり前だろう。問題なのは、差出人だ。その欄には、「(株)福田ケミカル」と書かれていた。その名前を聞いただけで、全員の顔がひきつる。
「・・・まさか、また厄介ごとを持ち込んでくれたんじゃないだろうな?」
不審の念を隠すことなく顔中に出している小島が言った。
「やっかいごとって決まった訳じゃないじゃないですか。ほら、お礼の品ってこともありますし・・・」
とりあえず、ひかるがその場の雰囲気を落ち着かせようとする。
「とりあえず、開けてみますね・・・」
そう言って、茶色の小包を開けていく圭介。その中身に、全員が集中する。やがて、茶色の包み紙の下から出てきたのは・・・白い包み紙に包まれた箱だった。それと同時に、「御礼」と書かれた封筒も入ってきた。
「ほら、やっぱりお礼じゃないですか」
ひかるが安心したように言うと、全員の緊張も解けた。圭介が封筒を開け、中に入っていた手紙を読み上げる。
「拝啓 この度は当社の安全管理上の不手際により、二度に渡って皆様と日本中の方々にご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。今後はこのようなことのないよう、社員一同一層安全管理に心を配り、事故の発生を防いでいく所存であります。つきましては、せめてものお詫びのしるしとして、粗品を贈らせていただきました。たいしたものではございませんが、当社一同のお詫びの気持ちとして、どうかお受け取り下さい。最後に、もう一度ご迷惑をおかけしてしまったことをお詫び申し上げます」
「やっぱり企業ね。ちゃんとやることはやってくれるじゃない」
「そりゃあそうだろう。あれだけのことしてしまったんじゃ、信用回復には相当時間がかかるだろうからな。これぐらいのことはやってもらわないと。それで新座、肝心のものは何なんだ?」
「サラダ油だとうれしいんですけど・・・」
全員の視線を受け、包みを振ってみたりする圭介。
「うーん・・・それなりの重さはあるみたいだけど、サラダ油じゃなさそうだな・・・。まあ、とにかく開けてみます」
そう言って、慎重に包み紙をはがしていく圭介。その手元に全員が注目していたが・・・
「!!!」
やがて、全員の顔が凍りついた。包み紙の下にはいっていた箱のフタには「和菓子本舗 浅草 風月堂」と書かれていたのだ。ふたを開けてみると、中にはたくさんの人形焼きが・・・。
「・・・なめてんのかな」
「・・・ちょっと、普通の神経じゃないね・・・」
こめかみをピクピクさせながら、小島と聡美が言った。一方、それを無表情で見つめていた小隈は、近くにいた亜矢に言った。
「桐生・・・頼めるか?」
ゾッとするほど、冷たい声だった。その言葉に、亜矢が振り返る。
「よろしいんですか・・・?」
「場合が場合だ・・・。俺はともかく、このままじゃお前達、おさまらんだろう?」
「フ・・・わかりました。ちょうど今日は・・・土曜日・・・フフフ・・・」
今日が土曜ということが何を意味するかはわからなかったが、少なくとも亜矢が浮かべている氷の微笑から、彼女が何をしようとしているかは、その場にいる全員が薄々わかっていた。
「ま、待って下さい! もしかしたら、何かの手違いかもしれないし・・・」
「そ、そうですよ! お詫びの品を間違えていれちゃったとか・・・」
さすがにそれはやりすぎだと、ひかると圭介が止めに入る。これはあとでわかったことだが、実際、これは手違いであった。関係各所へのお詫びに忙殺されていた福田ケミカルの総務課が、間違えて別の企業へのお詫びの品と第1小隊へのお詫びの品を混合してしまったのである。ちなみに、本来第1小隊へ贈られるはずだったお詫びの品は、ひかるが欲しがっていたサラダ油だった。
「二人とも・・・優しいね・・・。でも・・・手違いだったとしても・・・君たちはそれで許すのかい・・・?」
「それはそれで、ちっとも注意ができてないってことだと思うけど?」
「そ、それは・・・」
亜矢と聡美の二人に言われ、黙り込む二人。さっきから黙っている仁木に助命を求める。
「副隊長! なんとか止めて下さい!」
「残念だけど・・・こればかりは、私もちょっとね・・・・。大丈夫よ。亜矢さんだって人の子だし、SMSの隊員なんだから。命まで取るようなことはしないわ・・・」
そうつぶやく仁木の端正な顔にも、静かな怒りが満ちていた。第1小隊の良心とも言える彼女がこうでは、もはや誰にも止めることはできないだろう。
「フフフ・・・これでやっと・・・バロン・サムディに会える・・・」
そんなことを小声でつぶやきながら、亜矢は妖しい笑いを浮かべつつ外へと出ていってしまった。圭介とひかるの二人は為す術もなく、それを見送るしかなかった。
その日の夕方、圭介とひかるの二人は、買い物の帰りに寮の近くの十字路で、黒いスーツに身を包んだ亜矢が、一人の男と話しているのを目撃した。その男は夜会服に身を包み、シルクハットをかぶって片眼鏡をかけているという、大昔の上流階級の紳士のような、時代遅れの立派な服装をしていたという。男が「人間に呼び出されたのはずいぶん久しぶりだ」とうれしそうに話しているのを聞いた二人は、何も見なかったつもりで、その道を迂回して寮に戻った。その男の名が「バロン・サムディ」といって、「十字架の神」「土曜日の神」とも呼ばれるブードゥー教の死神であったことなど、もちろん二人は知る由もなかった。
翌日の夕刊。ここ最近の商品の暴走事件によって経営危機に立たされている株式会社福田ケミカルの社長以下役員達が、突然「魂が抜けたように」意識不明の重体になったあと、丸一日が経過して息を吹き返したというニュースが、紙面でちょっとしたスペースを占めていた。彼らは息を吹き返したものの、意識を失っている間に「見たもの」によって、極度の神経衰弱となって入院を余儀なくされているらしい。
「フフ・・・すぐに元に戻るから・・・安心してほしいな・・・」
その記事を見ながら楽しげにそんなことをつぶやく亜矢を見た圭介とひかるの二人は、「この人の機嫌だけは、絶対に損ねないようにしよう」と、改めて心に誓ったのであった。
関連用語紹介
・栗まんじゅう
てんとうむしコミックス第17巻「バイバイン」において、のび太が「バイバイン」を使って増やすことを計画した和菓子。5分ごとに無限に増殖を繰り返す栗まんじゅうをのび太が食べきれなかったことによって、地球は未曾有の危機にさらされた。結局栗まんじゅうの山は、ドラえもんの手によって宇宙ロケットで宇宙に放逐され、その後の消息は不明である。その後の経緯はファンの間で様々な憶測を呼んでおり、自らブラックホール化して消滅するという説もあるが、真実は定かではない。
・ドラや菌
てんとうむしコミックス第20巻「へやいっぱいの大ドラやき」に登場した恐怖の細菌。イキアタリバッタリサイキンメーカーによって偶然製造され、ドラえもんの説明によれば、空気を吸って無限に大きくなり、ついには地球を押しつぶすという。のび太の部屋に出現し、部屋をパンクさせる寸前まで膨張したが、それ以前に作ってあったドラ焼きを空気に変える菌に接触し、消滅した。
原作では菌自体がドラ焼きの形をしているかのように描かれていたが、本作品中ではドラ焼きはドラや菌の作り出す本物という設定になっている。そうでなければ、ドラ焼きを空気に変える菌によって消滅することが説明できない上、空気を吸って膨張するという設定では、重量もそれほど増加しないからである。
次回予告
聡美「さぁ〜って、次回の「Predawn」は〜っ♪」
亜矢「・・・桐生です・・・」
聡美「わっ!? あ、亜矢さん、いつの間にうしろに!?」
亜矢「フ・・・。そんなことより・・・聡美君・・・」
聡美「な、なんですか?」
亜矢「ついさっき・・・廊下で君とすれ違ったんだけどね・・・。君は・・・この部屋から出たかい
・・・?」
聡美「え・・・? でもあたし、これのために30分くらい前からずっとここにいましたけど・・・」
亜矢「ほう・・・やっぱりね」
聡美「や、やっぱりって・・・何がです?」
亜矢「やはりあれは・・・本物の聡美君ではなかったか・・・。おそらくは・・・ドッペルゲンガー・
・・」
聡美「ド、ドッペルゲンガー!?」
亜矢「「二重の影」という意味の・・・もう一人の自分でね。・・・気をつけた方がいい。ドッペル
ゲンガーの出現は・・・死の予兆と言われているからね・・・」
聡美「し、死の予兆って・・・! い、急いでお祓いしてもらわないとぉっ!!」
ダダダダダダダダ!
亜矢「・・・やれやれ・・・私一人取り残されてしまったよ・・・。お祓いなど受けたところで・・・
どうなるものでもないのにね・・・ん? ああ、そうか・・・次回のタイトルだったね。次回、「第3話
闇夜のゴルゴン」・・・これでいいんだね? ・・・あんパン? ・・・私にそれをやれと・・・
君は言うのかい・・・? ・・・そう。それが賢明な選択だよ。それでは私は研究があるので・・・
これで失礼」
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