都内のオフィス街。ちょうどどの会社もお昼休みというとき、大小さまざまな高層ビルの林立する一角で、一つの騒ぎが起こっていた。一軒のビルの前に人だかりができ、皆屋上を見上げながら大騒ぎをしていた。そして屋上では、さらに緊迫した空気が流れていた。

 屋上の縁には、金網で出来たフェンスが張られている。そしてその向こう、あと一歩進めば真っ逆さまに地上へ落ちるというすれすれの場所に、一人のサラリーマンが立っていた。その後ろでは、その男の上司、同僚、その他の社員、それに駆けつけた警察官が、必死になって思いとどまるように説得を行っていた。

 しかし、彼の耳にはそれは全く入っていなかった。自殺。この状況で彼がしようとしていることはそれであると、誰もが思うことだろう。だが、彼の表情には自殺者が浮かべるような悲壮の色も、極限まで追いつめられたような精神状態も見られなかった。むしろ、非常にリラックスした気分のいい状態・・・そのようにも見え、うっすらと笑みまで浮かべている。そして・・・

 屋上と地上。そのどちらからも、悲鳴があがった。しかし、それも彼の耳には入っていなかった。重力に身を任せても、彼は全く何も変わらなかった。安らぎと高揚と自信の入り交じったすばらしい気分も、薄笑いを浮かべた表情も。彼は信じていた。あと数秒すれば、自分はあの固い道路にその身を打ち付ける。だが、何事もなかったかのように再び立ち上がり、見ている野次馬達をアッと言わせるのだ、と・・・。




Extra Episode Vol.1

燃えよ栄光

前編


 それは、ごく普通の第1小隊の昼下がりだった。いつものように第1小隊では、和やかな昼休みのひとときが流れている。オフィスでは小島と聡美を除くメンバーが、それぞれ休み時間を楽しんでいた。と・・・

 プシュー・・・

 「あれ?」

 トイレから戻ってきた小島が、キョロキョロと周りを見渡した。

 「どうしました?」

 「岸本の奴、まだ戻ってきてないのか?」

 「ああ、そういえば・・・。昼休みになって風みたいに出ていってから、姿が見えませんね」

 圭介がそう答えていると・・・

 「たっだいまー!!」

 明るい声と共に、聡美がオフィスへと戻ってきた。

 「どこいってたんだ、お前」

 「ちょっとお買い物。ひとっ走りしてこれ買ってきたんだ」

 ウキウキした様子を見せながら、聡美が本屋の紙の袋に包まれた何かを出した。

 「やっぱこういうものは、発売初日に読まないとね」

 そう言って自分の席に座り、袋を開けて中のものを取り出す聡美。それは、一冊の雑誌だった。表紙には、今海外のチームで好成績をあげて注目を浴びている若手のサッカー選手の写真が大写しになっていた。小島、圭介、ひかるもその後ろから雑誌をのぞき込む。

 「あ、そっか。今日は三日か」

 「そ。毎月この日を楽しみにしてるけど、今月は特別なんだ。なんたって、久保選手の独占インタビュー記事が載ってるんだもん」

 表紙の選手の写真を見ながら笑顔を浮かべる聡美。「Rookies」と書かれたその雑誌は、様々なスポーツ界の若手選手を専門に深く取り上げることで人気のあるスポーツ月刊誌だった。今日はその発売日なのだ。

 「へえ。意外にお前にもミーハーなところがあるんだな」

 ニヤニヤしながら小島が冷やかす。

 「違います! あたしは純粋に久保選手の技術を評価して尊敬してるんだから!」

 ふてくされたように聡美は反論したが、すぐに元の表情に戻り、ページを開いて目次に目を落とした。

 「さ〜て、久保選手のインタビューは何ページかなぁ」

 そう言いながら、目的のページにペラペラとページをめくっていく聡美。と、

 「!!」

 急に圭介が驚いた表情を見せると、パッと雑誌に手を伸ばした。

 「!? ちょ、ちょっと新座君!? いきなりなにすんのよ!?」

 「すいません聡美さん! ちょっと貸して下さい!!」

 「ダメよ! あたしが買ってきたんだから、あたしが先に読むのが道理じゃない!」

 「ちょっとでいいんですってば!!」

 雑誌の引っ張り合いになる聡美と圭介。

 「や、やめてください! 破れちゃいますよ!!」

 ひかるが慌てて仲裁に入る。

 「圭介君、どうしたんですか?」

 「いや・・・すまん。今めくってたページに、知ってる奴にちょっと似た顔の写真があったから・・・」

 雑誌を離して頭をかく圭介。それを聞いた小島が聡美に言う。

 「ふ〜ん・・・岸本、見せてやれよ」

 「えーっ!? 買いに行けるヒマを狙って、昼休みになってやっと買いに行けたのにぃ!」

 「お前はいつだって読めるだろうが! ちょっとでいいって言ってんだし、子どもみたいにだだこねんなよ」

 「うぅ〜・・・わかったよ。はい」

 不満げながらも雑誌を差し出す聡美。

 「すいません。すぐ返しますから」

 ちょっと頭を下げて、圭介は雑誌を受け取ると早速飛ばしたページに目をやりはじめた。と、あるページをめくったところで、目がピタリと止まった。

 「これだ・・・」

 それは、一人のボクサーがリング上でガッツポーズをとっている写真だった。

 「なんだ、クラッシャー大石じゃない」

 それを横から覗いた聡美が言う。ひかるが首を傾げた。

 「クラッシャー大石?」

 「そ。フェザー級のプロボクサー。連続9試合負け知らずで、どんどんランキングを上げてる注目選手だよ。次の試合に勝ったら、世界王者への挑戦権を獲得できるんだ。あたしも注目してるから、久保選手の次にこの記事読もうと思ってたけど・・・」

 「そういや、前にテレビで見たことあるな」

 小島がうなずく。

 「それにしても、新座君もボクシングに興味あったんだ」

 だが、圭介は聡美の言葉など耳に入っていないように、食い入るように記事を見つめていた。

 「クラッシャー大石・・・本名、大石博幸・・・大石・・・博幸・・・」

 と、呪文のようにそれを繰り返すと・・・

 「ハ・・・ハハハ・・・すごいや! あいつマジで、プロボクサーになったんだ! ハハハハハ!」

 突然圭介が笑い出したので、オフィスの中の視線は全て彼に集中した。

 「なになに!? どーしたの!?」

 「あいつとかって言ってるけど、お前、大石選手の知り合いかよ!?」

 その様子に小島と聡美が矢継ぎ早に質問する中、圭介は笑いをおさめながら、返事を返した。

 「いやぁ・・・びっくりしましたよ。本名、大石博幸って書いてありますよね」

 「う・・・うん。たしか、その通りだよ」

 「ちょっと雰囲気が変わってますけど、名前で確信が持てましたよ。出身も練馬・・・間違いないです。中学の時、こいつと友達だったんですよ」

 その言葉に、聡美達は驚いた。

 「な、なにぃっ!?」

 「そ、それホント!? サインもらってきてよサイン!!」

 聡美に至っては早くもサインをねだり始めたので、圭介は慌てて手を振った。

 「ちょ、ちょっと落ち着いて下さいよ! 友達だったっていっても、中学の三年間だけで、高校に入ってからは全然付き合いがなかったんですから! だからあいつがプロボクサーになったことなんて、全然知らなかったんですよ!」

 「それじゃ仕方ないですよね」

 「なぁんだ・・・。なんで人脈確保しとかないかなあ。せっかくサインもらうチャンスだったのに・・・」

 「理不尽なこと言うなよ・・・」

 たしなめる小島。

 「でもすごいなぁ・・・夢が叶ったんだ。あとでこの雑誌、俺も買っておこっと」

 記事を改めて見ながら、しみじみとつぶやく圭介。

 「その頃から、ボクシングをやってたんですか?」

 と尋ねるひかる。圭介はうなずいた。

 「ああ。もうジムにも通ってた。一緒にやらないかって誘われたこともあったけど・・・一度あいつのスパーリングを見ただけだったな。今と同じで、趣味はメカいじりだったから・・・」

 「もったいないなー。でも、その頃から才能はあったの?」

 「ボクシングに関しては素人ですからね。なんとも・・・」

 「でも、今こうしてプロボクサーになって快進撃を続けてるってことは、才能があったっていうことに間違いないんじゃないですか?」

 ひかるが笑顔でうなずく。と、その時だった。

 「面白そうな話をしてるな」

 突然後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこには小隈が立っていた。

 「隊長」

 「有名人に知り合いがいるとは、うらやましい話じゃないか」

 「いや、さっきも言いましたけど、最近は全然音沙汰がなかったんですってば」

 再び言う圭介。だが、小隈は続けた。

 「だったらさ、実際に見に行ってみれば? 成長した友達の姿を」

 「「「「へ?」」」」

 思わず四人の声が重なる。すると・・・

 「これな〜んだ?」

 小隈は懐から何かを取りだし、ヒラヒラと動かして見せたあとで聡美の机の上にそれを置いた。

 「あ・・・アアーーーッ!?」

 それを見て、聡美が大声をあげた。なんとそれは、ボクシングの観戦ペアチケットだったのだ。しかも・・・

 「クラッシャー大石の試合のチケットじゃないですか! どうしたんですか、これ!?」

 そう。その二枚のチケットはまさしく、クラッシャー大石の試合のチケットだったのだ。

 「このあいだ駅前にポロシャツ買いに行った時に、福引きがやってたんだ。で、ちょうど券が一枚あったから試しにやってみたら、こうなっちゃったわけ。これも日頃の行いがいいからだろうね」

 最後の一言は余計だと思いながらも、四人はそのチケットをジッと見つめた。

 「で、提案なんだが・・・」

 と、小隈が続けた。

 「悪いことにこの日、定例の報告会があってね。見に行けんのよ。ボクシングにはもとからそんなに興味がないからいいんだけど、チケットがムダになるのはやっぱり・・・」

 「ハイハイハイハイ!! あたし行くあたし行く!!」

 早速聡美が手を上げた。

 「・・・ま、そういうことだ。行きたい奴にはあげるから、手を上げて。二枚しかないけど。最近出動続きだったし、一日ぐらいなら休みもあげるよ」

 小隈がそう言うと、さらに三つの手が上がった。

 「ちょ、ちょっとぉ!! 新座君はともかくとして、なんで小島さんやひかるちゃんまで手を上げんのよぉ!?」

 聡美が悲鳴に近い声をあげる。

 「どんなものにしても、目の前にあるチャンスってものは逃がさないことにしてるもんでね。それに、これは「ペア」チケットなんだぜ? だったら、ひかるちゃんが手を上げるのは当たり前だろ? ねえ?」

 小島の言葉に、ひかるは恥ずかしそうにうつむいた。

 「そういうわけじゃないんですけど・・・スポーツの試合って、まだ目の前で見たことがないんです」

 一方、小隈はこっちには関心を向けずにそれぞれ自分のことをしている仁木と亜矢に目を向けた。

 「お前達はいいのか?」

 「剣道の試合ならいいかもしれませんが・・・」

 「格闘技には・・・興味はありません・・・」

 パソコンの液晶画面に表示される小説を見ながら、古い魔導書を読みながらそれぞれ答える仁木と亜矢。

 「・・・だそうだ。しょうがないから、お前らジャンケンして決めなさい」

 「えーっ!? ジャンケンーッ!?」

 聡美が不満の声を上げる。

 「なんだかんだ言っても、一番公平性のある問題解決手段として古くから愛されてるからね。これでやるのが一番公平でしょ」

 四人は顔を見合わせたが、やがて、こっくりとうなずいた。

 「よ、よーっし・・・今度ばっかりは負けらんないわ。根性で絶対チケットはものにしてみせるんだから!!」

 「根性でジャンケンに勝てるんだったら苦労しないっつーの」

 「あの・・・やっぱり私はあきらめましょうか・・・?」

 「なに言ってんだひかる。こういうのは誰だって見る資格があるんだから、自分からあきらめるなよ」

 四人の声を背に、小隈は自分の席へと戻り始めた。

 「よろしいのですか・・・?」

 その途中で、魔導書から目を離した亜矢に、小隈は声を掛けられた。

 「こういうふうに生活に一時の張りを持たせるのも、隊長の仕事でしょーが」

 小隈はそう言いながら仁木の方をチラリと見たが、彼女は四人の方を見てやれやれという顔をしただけで、再び液晶モニターに目を戻した。小隈はそれを見届けると、自分の席へと歩いていった。その背後では、「あいこでしょ! あいこでしょ!」という声が続いている。

 「あら・・・」

 と、仁木が小さな声をあげた。画面の端で、手紙の封筒のマークが点滅している。新着メールがあることに気づいて、仁木はメールソフトを起動し、中身を確認した。

 「隊長、協力要請のメールが届いていますが・・・」

 仁木は小隈を見ながらそう言った。

 「急用か?」

 「メールで送ってきたのですから、そうではないと思いますが・・・見てもらうのが早いと思います」

 「ん」

 小隈は一度座った自分の席から立ち上がると、仁木のところまで行ってそれを読んだ。

 「・・・ふ〜ん。ま、必要とされてるのはありがたいけどね。いけるか?」

 「隊長の許可さえいただければ・・・。できれば、亜矢さんもついてきてほしいんだけど・・・」

 そう言って亜矢を見ると、彼女もうなずいた。

 「わかりました・・・」

 「それじゃあ隊長。早速行ってきます」

 「はい、いってらっしゃい」

 ウィンディのキーを持つと、仁木と亜矢はまだあいこの続くジャンケンを横目にオフィスから出ていった。その直後・・・

 「「ああっ!!」」

 悲鳴にも似た二人の人間の声が、オフィスの中に響いた。





 「ようこそお越し下さいました。どうぞ、こちらへ・・・」

 「失礼します・・・」

 協力要請のメールを送ってきた警察署の会議室に通され、亜矢と仁木は丁寧に頭を下げながらその中へと入っていった。

 「ご多忙とは存じましたが、是非ともお越し頂きたくて・・・。ありがとうございました」

 「いえ。それはいっこうにかまわないのですが・・・」

 「なぜ捜査部ではなく・・・実動部の我々に・・・?」

 亜矢が仁木の言葉のあとを継ぐ。

 「もちろん、捜査部の皆さんとも連絡をとっております。しかし、どうも根が深い何かがあるような状況でして・・・捜査部の方から、実動部の方にも意見を求めた方がより確実であるという意見をいただきまして、お二人にお越し願ったわけです」

 仁木と亜矢の前には、一人の男がいた。どういうわけか、交通機動隊の責任者と名乗っていた。

 「お役に立てればよいのですが・・・とにかく、お話を始めて下さい」

 仁木が先を促す。すると、交通機動隊の男が持っていた茶色の大判の封筒を開け、中から何かを取りだして机の上に並べてみせた。

 「ご覧下さい」

 「これは・・・?」

 それは、どれも写真だった。ただし、写っているものはすべて、元は自動車だったと思われる、原型を留めぬほどグシャグシャになったスクラップだった。

 「ご存じとは思いますが、この署の交通機動隊の管轄範囲には首都高速の一部も入っています。この車は、首都高での事故車両なのですが・・・」

 「ひどいものですね・・・。車がこうなってしまうほどでは、ドライバーは・・・」

 「全員死亡しています」

 表情を曇らせながら、男はうなずいた。と、亜矢があることに気づいた。

 「もしかして、この車・・・全て改造車ですか・・・?」

 「ええ。いわゆるローリング族という連中です。車がタイヤのない今のエアカーになって、スリップ事故もなくなったおかげで彼らの無茶な運転による事故も、昔に比べたら減ったとは言えるのですが・・・彼らの本質自体は、昔から変わってません」

 仁木は少し考え込んだが、やがて言った。

 「こういうことを言うのはよくありませんが・・・」

 仁木は言いにくそうに言い出したが、続けた。

 「夜の首都高をサーキット代わりに、無茶な運転を繰り返す。そういった行為の果てに死者が出ることは、珍しいことでは・・・」

 「はい。我々も、そのこと自体を問題にしているわけではありません」

 みなまで言わせることはないという心遣いから、男はうなずいた。

 「残念ながら、たしかに彼らの暴走行為の果てに死者が出てしまうのは、昔も今も変わっていません。しかし・・・」

 そう言いながら、男は再び封筒から二枚の紙を取り出した。

 「ここにきて、異常なことが起こっているのです」

 それは、形式の同じ二枚の報告書だった。上段に地図らしいものが描かれ、ところどころ赤や黒の点の密集している場所がある。下段には簡単な表があり、数字が書かれている。

 「これは、一ヶ月のうち首都高のどこで事故が起きたのかをあらわしたのかをマッピングしたものと、死傷者の表です。地図にある点のうち、赤いものは死亡事故を表しています。比較のために二つ用意したものですが、左が四ヶ月前のもの、右が先月のものです」

 男はそれを手で示しながら言った。二人には、それを見てすぐに気がつくことがあった。

 「あきらかに事故が増えていますね・・・」

 「ええ。通常首都高でローリング族の引き起こす事故は、多くて月に五件。そのうち死亡事故が起こるのは、非常に稀です。にもかかわらず、三ヶ月ほど前から急に事故が増え始め・・・先月に至っては、20件を上回りました。しかもそのうち、死亡事故が半数を上回っています。これは異常です、明らかに」

 男の言葉に、二人はうなずくしかなかった。が、さらに男は同じ種類の書類を何枚か取り出して見せた。

 「しかし、もう一つ気になることがあるのです」

 「なんでしょう?」

 「事故が起きた場所です」

 そう言って、男は地図の点の密集している点を指し示し始めた。

 「まだ事故が少なかった頃は、事故の起きる場所というのはだいたい決まっていました。ここと・・・ここですね」

 男が示したのは、二つのカーブだった。地図にある点は、ほとんどそのうちのどちらかにあった。

 「特に・・・角度のきついカーブですね・・・」

 「彼らの言うところの「魔のカーブ」ですね。以前はスピードを落とさずにここにさしかかり、曲がりきれずに壁に激突する事故がほとんどでした。それでも、さきほども言いましたが死亡事故は稀でした。しかし・・・見て下さい」

 再び先月のデータに、男は目を戻した。

 「これも三ヶ月ほど前からの傾向なのですが・・・事故はこの二つのカーブだけでなく、他のカーブでも多発しているんです」

 たしかに、点は先ほどの二つのカーブに集中するのではなく、他のカーブにも数多く存在していた。

 「おかしいですね・・・。地図を見る限りでは、他のカーブはこの二つほど急なものではないはず・・・」

 仁木も首を傾げる。

 「はい。実際、なんでもないごく普通のカーブです。警察として、彼らの無謀な運転を誉めるわけにはいきませんが・・・夏になると毎日のようにレースをしている彼らが、こんな場所で事故を起こすとは普通では考えられないんです。それに、むやみに死亡事故が多い。ご覧の通り、事故車はみな原型を留めないくらいひどくぶつかっています。ただの事故ならまだしも、これほどひどい事故が多発するなんてことは、普通はあり得ませんよ」

 「そうでしょうね。事故の目撃者などは、いるのですか?」

 「ええ。当然、首都高には他の車も走っていますからね。事故が多発しているぶん、得られる証言も多いのですが・・・」

 「どんなものですか?」

 「これもまた妙な話ですが・・・」

 指を組んで、男は話し始めた。

 「・・・事故を起こした車は、カーブの手前でみんな同じ行動をとったそうです。カーブを見るなり、ハンドルも切らずスピードを上げてまっすぐにカーブに向かって突っ込んでいった、と・・・。事故車の検分でも、それは証明されています。それと・・・こっちはちょっと、不気味な話なんですが・・・」

 「なんですか?」

 「一人の証言者が、絶対とは言えないと前置きした上で証言したことがあるんです。事故前の事故車の一つの横を走り抜けた時、チラリとドライバーの顔を見たそうなんですが・・・」

 男は仁木の目を見た。

 「・・・笑ってたそうですよ、楽しそうに」





 「・・・たしかに不気味な話ね。少し寒気がしたわ」

 警察署から出ながら、仁木がまず口を開いた。

 「・・・どう思う?」

 仁木の問いかけに、亜矢は少し考えたが・・・

 「明らかに不審です・・・。やはり・・・何か原因があると・・・考えるべきでしょう。考えられるとしたら・・・薬物」

 駐車場に向かって歩きながら、亜矢は答えた。仁木はそれにうなずきつつも、さらに問う。

 「でも・・・あの人も言っていたけど、司法解剖の結果では遺体からはこれといって不審な物質は検出されなかったのよ?」

 「危険な薬物と・・・それを止める技術の開発競争は・・・いたちごっこですからね。小島君のカラドリウスでも・・・新薬を作り出すことができるぐらいですから・・・」

 「・・・」

 仁木はウィンディのドアに手を掛け、それを開けた。

 「・・・捜査部に、私達も捜査に加わりたいと頼んでみる価値はありそうね・・・」

 「科警研に頼んで・・・血液サンプルを回してもらいます・・・」

 ウィンディに乗り込みながら、二人はそんな会話を交わした。





 一週間後。都内にあるイベント会場。

 カンカンカーン!!

 満員の観客の占める会場の中に、心地よいゴングの音が響き渡った。

 「決まりました!! 13ラウンド、ジョー相川の見事なストレートが、ビル大山を完全にうちのめしました!!」

 リング上では、ボロボロになった一人のボクサーがセコンド達と歓喜の抱擁を交わしていた。実況を担当するアナウンサーも、観客の大歓声に負けじと大声を張り上げて勝利の喜びを伝えている。

 「すごいです!! ボクシングってすごいスポーツなんですね、圭介君!!」

 「あ、ああ・・・」

 観客席の中には、一組の男女がいた。いわずもがな、結局ジャンケンに勝ちチケットを手にしたのは、この二人だった。圭介は予想以上に興奮しながら語りかけてくるひかるに、戸惑いながら返事をした。おとなしいひかるに、ボクシングというのは少し刺激が強すぎるのではないかと余計な気を回した圭介だったが、実際は圭介よりひかるの方が興奮しているといった状況で、圭介は心配が取り越し苦労に終わりホッとすると同時に、予想外のひかるのはしゃぎぶりに少し戸惑っていた。

 やがて、15分の休憩時間をはさみ、一旦鎮まった会場が再び熱気に包まれ始めた。今日この会場で行われる試合は二つ。第1試合のバンタム級、ジョー相川対ビル大山戦に引き続き、間もなく第2試合、本日のメインイベントとなっている、フェザー級、高野正剛対クラッシャー大石戦が始まるのだ。

 「今度の試合が大石さんの出番なんですね? ますますドキドキしてきました・・・」

 「えらい興奮のしようだな? ちょっとビックリしたよ」

 その言葉に、ひかるは恥ずかしそうな表情をした。

 「悪いことじゃないからいいけどさ。この会場の雰囲気なら、そうなって大いにけっこうだと思うぜ。俺も負けてらんないな」

 圭介は笑いながらそう言うと、イスに座り直した。すると、先ほどの第一試合の始まりと同じように照明が落ち、リングだけがライトに照らされた。

 「大変長らくお待たせしました。本日の第2試合、フェザー級10回戦、高野正剛対クラッシャー大石戦です!!」

 リング上の人物の声に、会場内が割れんばかりの歓声に包まれる。

 「それでは、選手入場です! まずは赤コーナー! 125ポンド、レックスジム所属、高野正剛―っ!!」

 歓声と共に、一人の選手が片方のサイドから入場してくる。ガウンを脱ぎ捨てると、彼はリングに昇って観客の声援に応えた。

 「あの人が、大石選手の対戦相手なんですね?」

 「ランキングはあの人の方が上らしい。特にいい試合になりそうな組み合わせみたいだぞ」

 手元のパンフレットを見ながら圭介が言った。

 「続きまして・・・青コーナー! 123ポンド、ロッキージム所属、クラッシャー大石―っ!!」

 先ほどのものと負けないほどの歓声に包まれ、一人の選手がリングへと歩いてくる。思わず圭介とひかるは、身を乗り出してそれを見つめた。

 バッ!!

 彼はリングに勢いよく昇ると、片腕を振り上げて観客の声援に応えた。

 「間違いない・・・あいつだよ」

 圭介はその顔を見て、改めてうなずいた。

 「かっこいい・・・」

 ひかるはその姿に、一種感銘を受けているようだった。人気絶頂のボクサーらしく、観客の声援に応えるその姿は自信に満ちあふれており、その人気にふさわしいオーラのようなものを感じることができた。

 「すごくなったんだな、あいつ・・・」

 その姿と、中学の頃の彼の姿を頭の中で比べながら、圭介はそんなことをつぶやいた。そうこうしているうちに、両選手はマウスピースをはめ、セコンドの最後の指示を受けてから、お互いにリングの中央へと歩み寄っていく。二人はそこでレフェリーの注意事項を頷きながら聞いた。そして・・・

 カーン!!

 ゴングが鳴らされ、一斉に場内が歓声に包まれる。二人の選手はグラブをつきあわせ、動き始めた・・・。





 8ラウンド・・・9ラウンド・・・ラウンド数は確実に重ねられ、試合は展開していく。

 「押され気味ですね・・・」

 「そうだな・・・」

 その試合を見ながら、ひかるたちは先ほどとは一転、口数が少なくなっていた。おせじにも、大石が優勢とは言えない。むしろ、高野からフックやストレートを浴びせられ、時には倒れるシーンの方が目立った。そのたびにすぐに立ち上がってはいるが、このままでは例え最後までリングに立っていたとしても、判定負けは間違いないだろう。

 「このままじゃ、負けちゃいます・・・」

 両手をギュッと握り、ハラハラしながら試合を見るひかる。と・・・

 「へへっ・・・わかってないな、お嬢ちゃん」

 「!?」

 突然隣の席から声を掛けられ、ひかるはひどく驚いた。工事現場の作業監督といった感じの男が、ニヤニヤと笑っていた。

 「え!? あ、あの・・・」

 「なんですか・・・?」

 圭介が少し不機嫌そうな様子で男に言う。

 「いや、すまん。べつにあんたの彼女にちょっかいだそうってわけじゃない。俺はただのボクシング好きなオッサンだ」

 手を横に振りながら男は言った。

 「ただ見た感じ、兄ちゃんもお嬢ちゃんも大石の試合を見たことがなさそうだったもんでね。オッサンのおせっかいさね」

 どうやら悪い人間ではないと判断し、圭介は少し警戒を解いた。

 「え、ええ・・・。ボクシングの試合を生で見るのも、初めてなんです」

 「俺もそうですけど・・・わかってないって、どういうことです?」

 「周りを見てみなよ・・・。あんたらみたいにハラハラしている奴が、他にいるかな?」

 二人は周りを見てみた。なるほど。奇妙なことに、大石不利の状況にも関わらず、大石への声援はいっこうに衰えることはない。むしろ、強まってきている。

 「そういえば、そうですね」

 「じゃあ・・・心配はいらないんですか?」

 ひかるの言葉に、男は大きくうなずいた。

 「大石はな、打たれても打たれても、倒れても倒れても立ち上がってくるんだ。ボクサーにとって、こんなに怖い相手はない。そして相手が消耗したところで、アイツは必殺の一撃を食らわし、ノックアウトする。それが、クラッシャー大石のボクシングだ。今日までの連勝は、ずっとそういうやり方で築き上げてきたんだ。ここにいる連中は、今日も大石がそんな勝ち方を見せてくれることを信じている。勝負はまだまだ、これからなんだよ」

 男の言葉に、圭介はリングに目を戻した。たしかに、倒れても倒れても、大石は余裕の窺える表情をしている。対称的に対戦相手の方は、この相手にプレッシャーを感じているように見えた。

 「ま、今日も心配することはないな。流れは完全に今までの試合と同じだ。しかし、俺もガキの頃からボクシングを見続けてるが、大石みたいに化け物みたいな打たれ強さをもってる選手は初めてだな。妙な異名つけられるだけはある」

 「妙な異名?」

 「なんだ、それも知らねえのか」

 そう言いつつも、男は笑って言った。

 「「アンデッド・ボクサー」、つまり、不死身のボクサーってことさ。なかなかよくできた名前だと思うぜ」

 「アンデッド・ボクサー・・・」

 その言葉を頭の中で繰り返しながら、圭介とひかるは固唾を呑んで試合に見入った。





 そして、その瞬間は唐突に訪れた。

 ブンッ!!

 高野が強烈な左フックを繰り出した。ところが・・・

 シュッ!

 大石はそれをかがんでやりすごすと・・・

 ボゴッ!!

 「っ!!」

 強烈なアッパーカットを、高野の懐からかがみ込んだ体勢から繰り出し、その顎に拳をたたきつけた。

 ドゥッ!!

 大石よりも少し背の高い高野の体がのけぞり・・・リングに倒れる。

 「ああっ!!」

 思わず、圭介とひかるは他の観客と一緒に立ち上がっていた。それと同時に、すさまじい歓声が場内に響き渡った。即座にレフェリーが高野に近寄り、カウントを取り始める。

 「・・・4・・・5・・・6・・・」

 しかし、高野は起きあがれない。

 「8・・・9・・・10!!」

 カンカンカーンッ!!

 場内に、大石の勝利を祝うゴングが響き渡った。場内が最大級の歓声に包まれる中、大石は満身創痍でセコンド達と抱き合っていた。

 「す、すげえ・・・」

 「ほんとに勝っちゃいました・・・」

 「だから言ったろ?」

 呆然とつぶやく圭介とひかるを横目に、男がニヤリと笑った。しかし、圭介は感嘆の念とともに、妙な違和感を感じていた。

 (中学からずいぶんたったし、一度しかあいつのスパーリング見たことないけど・・・あいつのファイティングスタイルって、こういうものだったかな・・・)

 圭介は中学の時の記憶を呼び起こしながら、そんなことを考えていた。

 「でも、14ラウンドってのはいつもよりちょっと時間がかかったかな。ま、しょうがないか。高野だって大石と同じぐらい、いい選手だもんな」

 男がそんなことを言っていると、レフェリーが大石の腕をつかんだ。

 「勝者・・・クラッシャー大石!!」

 レフェリーがサッと大石の腕を掲げる。場内が再び、大歓声と拍手に包まれる。大石は疲れ切った表情ながら、それに笑顔を浮かべた。と、その直後である。

 フッ・・・

 突然、大石の体が糸の切れた操り人形のように、その力を失った。

 ドタッ!

 大石がリングに倒れた直後、静寂が会場を支配し・・・その直後、静寂は悲鳴へと変わった。

 「お、大石っ!?」

 「そんな・・・!」

 「え、えらいこっちゃ!!」

 圭介達は立ち上がってその光景を凝視した。すぐに救護班が駆けつけ、大石を担架に乗せると、意識を取り戻すよう呼びかけるセコンドとともに会場から出ていった。会場は騒然としていたが、静粛を求めるアナウンスによって、徐々に落ち着きを取り戻していった。大石の状態がどうかは不明だが、ともかく試合は終わり、徐々に観客達が去り始める。

 「えらいことになったな・・・まずいことにならなきゃいいが・・・」

 眉を寄せてつぶやく男。

 「こうしちゃいられない。ひかる、いくぞ」

 「け、圭介君! 行くって、どこへ・・・」

 「決まってるだろ? 病院だよ。あ、いろいろ教えてもらって、ありがとうございました」

 圭介はペコリと頭を下げると、走り出した。ひかるもそれにならい、すぐにあとを追う。

 「若くて元気だね・・・」

 男はしみじみとつぶやいた。





 「でも、どの病院かわかるんですか?」

 「都内の救急指定病院の管轄範囲は、以前小島さんに教えてもらった。バッチリ頭に入ってるよ。このあたりだと・・・関東医大病院だな。ほい、しっかりかぶれ」

 ひかるにヘルメットを渡すが早いか、圭介はファルコンのシートに跨った。ひかるがその後ろに座ると、圭介はファルコンを発進させ、関東医大病院への道を走り始めた。

 「お・・・」

 圭介は一台の大型車を追い越した。車体に「あけぼのテレビ」と書かれているTV局の中継車だった。

 「あの車・・・会場にもあったな」

 「試合の中継から、直接病院に取材に行くんですよ」

 「そうだろうな。騒がしくなりそうだから、ちょっととばすぞ」

 「はい!」

 そう言うと圭介は、アクセルをふかしてさらにスピードを上げた。





 「ちぇっ・・・やっぱり、マスコミの方が一枚上手か・・・」

 圭介は目の前の光景を見ながら頭をかいた。救命病棟に続く廊下に、新聞やテレビの取材班が詰めかけ、対応に当たっている病院関係者に病院だから静かにして下さいとなだめられている。とても入り込める状況ではない。

 「どうします・・・?」

 「気になるんだけどな・・・こうなっちゃうと・・・」

 まいったという表情で、圭介が首を回すと・・・

 「ん・・・?」

 圭介の目が、一つの光景にとまった。一人の少女が、順番に質問を行っている取材陣の横をすり抜け、右手へと出ていったのだ。

 「おい、ひかる・・・」

 「なんですか?」

 「ちょっと来てくれ」

 圭介が歩き出したので、ひかるはそのあとを追った。





 その少女は喧噪から少し離れた自動販売機の前で、突然声をかけられた。

 「美雪ちゃん・・・だったね?」

 「え・・・?」

 突然声をかけられ、振り返ると、そこには少し緊張した表情の青年と、きょとんとした様子の少女が立っていた。

 「あの・・・失礼ですけど・・・」

 「あ、すいません。俺、新座圭介といいますけど・・・覚えてませんか?」

 「新座・・・さん・・・」

 その名前を聞いて、少女は記憶の池をさらうように少し上目遣いになったが、やがて・・・

 「! あ・・・もしかして、兄が中学の時によくうちに来ていた・・・?」

 「よ、よかったぁ・・・覚えてなかったらどうしようかと思ったよ・・・」

 胸をなで下ろしながら苦笑いを浮かべる圭介。が、すぐに真剣な表情に戻る。

 「大変なことになってしまったみたいで・・・」

 「ええ・・・すいません。ご心配をおかけして・・・」

 そう言って、頭を下げる少女。長い髪を一本の三つ編みにして垂らしている、清楚で素朴そうな少女だった。

 「もしかして、兄の試合を・・・?」

 「うん。偶然チケットが手に入ったから・・・。あ、こっちは俺の同僚の服部ひかる」

 ひかるはその紹介に、一瞬不満そうな表情で圭介を見たが、すぐにあいさつをした。

 「服部です、よろしく。あの・・・それで、お兄さんの具合は?」

 「今はまだ、なんとも・・・。私も、今日は大事な試合だからって、ジムの会長さんに特別に誘ってもらって、一緒に試合を見ていたんですけど・・・ちょっと落ち着いてきた方がいいと言われて、救命病棟から出てきたんです」

 「そうか・・・。大変なことになっちゃったけど、気をしっかり持って」

 「ええ・・・ありがとうございます」

 美雪は寂しげにうなずいた。と・・・

 ドヤドヤドヤ・・・

 ざわめき声に振り返ると、報道陣が引きあげ始めていた。まだ大石の病状がはっきりしないということで、一旦ひきあげるのだろう。

 「あの・・・もしよろしければ、兄の様子を見ていかれては・・・?」

 その時、遠慮がちに美雪が言った。その言葉に、二人は驚いた。

 「え・・・? で、でも・・・」

 「面会謝絶なんじゃないですか・・・・?」

 「ええ・・・。意識はありませんけど・・・お医者さんは命に別状はないらしいと言っていたので、近くで見るぐらいなら大丈夫だと思います。報道の方も、お帰りになったみたいですし・・・」

 圭介とひかるは戸惑い気味に顔を見合わせたが、すぐに圭介がうなずいた。

 「それじゃ、お言葉に甘えて・・・」





 透明なビニールのカーテンで囲われたベッド。その上には、一人の青年が無数の青あざや傷だらけの顔に酸素マスクをつけ、静かに横たわっていた。その横には、粗末なイスに腰掛け、押し黙ったままジッと彼を見つめている、一人のひげ面の大柄な男の姿があった。

 「こっちです」

 と、よく知る少女の声が聞こえたので、男は病室の入り口を見ると・・・

 「!? 美雪ちゃん、困るよ。面会謝絶なんだよ? 部外者をここに連れてきちゃ・・・」

 美雪が見知らぬ二人の男女を連れてこの部屋にやってきたので、男は困った様子で言った。

 「すいません。でも、部外者というわけでもないんです。こちらの方、兄が中学の時に親しくしていたお友達なんです」

 「新座といいます。すいません、無理を言ってしまって・・・」

 すまなそうな顔で頭を下げる圭介。

 「むぅ・・・でもなぁ・・・」

 「あら? かまわないんじゃありませんか? 熊木さん」

 明るそうな女性の声に、一同が振り向くと・・・そこには、カルテを持った一人の女医が立っていた。栗色のソバージュヘアをした、どことなく大人の色香が漂う風貌である。

 「先生・・・。でも、面会謝絶と言ったのは先生じゃ・・・」

 「たしかに、大事をとってそうしましたけれど・・・検査の結果、どうやら脳も含めて、異常はなさそうです。今は肉体への過度の負担から意識を失っていますけど、少し体力を回復しさえすれば、意識を取り戻すにはそれほど時間がかからないと思います。ですから、そんなに神経質になることはないですよ。私も、彼をこの救命病棟から特別病棟に移すことをお伝えしに来ました」

 そう言って、女医はにっこりと笑った。

 「は、はあ、そうですか。よかった・・・。いや、すみません。こいつの具合がどうなのかわからなくて、少し気が立っていました・・・」

 大柄な体つきに似合わず、男は圭介達に丁寧に謝った。

 「いえ、無理もないと思いますよ。あの、失礼ですがそちらは・・・」

 「おお、申し遅れました。ロッキージムの会長で、博幸のトレーナーも兼任しております、熊木といいます。よろしく」

 そう言って、熊木は大きな手で握手を求めた。

 「よろしく。でも、どこも異常がなくて本当に良かった・・・。急に倒れたのを見たときは、どうなることかと思いましたけど」

 ベッドで眠る大石を見ながら、圭介は胸をなで下ろした。

 「試合、見て下さってたんですか」

 「ええ。すごい試合でしたよ。でも、お恥ずかしいんですけど・・・大石とは中学を卒業してからずっと会うことがなくって、プロボクサーになって活躍してるってことも、つい最近知ったばかりなんです」

 圭介が恥ずかしそうに言った。

 「いや、見てくれていたと聞いたら、きっとこいつも喜びますよ。長い間こいつと会わなかったのも、仕方ないでしょう。中学を卒業してからのこいつは、プロになるためにボクシング漬けの生活をしてましたからね。そちらは受験やら就職やらで忙しかったでしょうから、仕方ないんじゃないですか?」

 「そういえば、さっき服部さんとは同僚だって言ってましたけど、お仕事はなにをなされているんですか?」

 美雪がそう尋ねたので、圭介はうなずいて答えた。

 「こんなんですけど、SMSの実動員として頑張ってます。ひかるは管制員として、いつも俺のサポートをしてくれてるんですよ。試合を見れたのも、うちの隊長からチケットをもらえたからなんですけどね・・・」

 圭介の言葉に、ひかるは笑顔でうなずいた。対称的に、熊木と美雪は驚いた。

 「SMSの方なんですか!?」

 「へぇ・・・すごい人を友達に持ったもんだな、博幸の奴も」

 「いや・・・俺からすれば、大石の方がスゴイですよ。こう言っちゃうと失礼ですけど・・・まさかほんとにプロボクサーに・・・それも、世界王者への挑戦権を獲得できるほどの選手になるとは、思ってもみませんでしたから」

 が、驚いているのは熊木と美雪だけではなかった。

 「へぇ〜・・・世間って狭いのねぇ・・・」

 なぜか、女医も感心していた。

 「あ、あの・・・それって、どういう意味です?」

 「ねぇ、もしかしてあなた達、小島って人知らない?」

 興味津々といった表情で女医が尋ねてきたので、圭介はとりあえず答えた。

 「小島さんなら、うちの小隊にいますけど・・・」

 「あ、やっぱり? SMSに行ってから、全然音沙汰がないんだから、もう」

 楽しそうな様子で言う女医だったが、圭介とひかるは首を傾げた。それを見て、女医が慌てて続ける。

 「あ、ごめん! 名前も名乗ってなかったね? あたしは勝呂沙希。専門は外科だけど、ここでは救命担当医をやってるの。とりあえず、よろしく」

 そう言って握手を求めてくる女医に、圭介とひかるは戸惑いながらも答えた。

 「よ、よろしく。それで、なんで小島さんのこと知ってるんです? もしかして・・・」

 「そう。一緒に働いてるなら小島君が以前、救命担当医だったってのは知ってるわよね? 彼、ここで働いてたのよ。んでもって、あたしはその時の先輩ってわけ」

 「はぁ、そういうことですか・・・」

 「彼、元気でやってる? 相変わらず、女の子に迷惑かけてるんじゃないかしら?」

 「・・・どういうことです?」

 ひかるが尋ねた。

 「彼、ここにいたころはすごかったのよ。医局内にセクハラの嵐を吹かせて、看護婦に悲鳴をあげさせてたんだから」

 「はぁ!? それ、ほんとうですか!?」

 思わず圭介は尋ね返したが、沙希はコクリとうなずいた。

 「そ。その悪い虫を退治したのがこのあたしってわけ。おかげで、ずっとおとなしくなったでしょ? でも、あたしの重石が外れてまた悪い虫が騒ぎ出してるんじゃないかなって思ってね。特に、そんな可愛い子がいたんじゃ、ますます心配だけど」

 沙希は楽しそうに笑ったが、ひかるは圭介と顔を見合わせた。

 「あ、あの・・・」

 戸惑った様子で美雪が声をかけたのは、そんな時だった。

 「あ、ごめんなさい。内輪話に華を咲かせちゃって。どうぞ、続けて」

 そう言って沙希は一歩退いた。圭介はうなずくと、再び美雪の顔を見た。

 「ごめん。それで美雪ちゃんは、今は大学生・・・かな? 大石とは四つ違いのはずだったから・・・」

 そう言った圭介に、美雪はうなずいた。

 「いえ。大学じゃなくて、今は看護学校に通ってるんです」

 「へぇ・・・それじゃ、看護婦さんになるのが夢なんですね? 素敵ですねぇ・・・」

 ひかるが顔をほころばせる。

 「そうなんだ? どこの学校なの?」

 「聖ウルスラ看護学校です」

 「まぁ! 名門じゃないの。そのときには、ぜひうちの病院で実習をしてほしいわね。歓迎するわ」

 沙希も笑顔でそう言ったので、美雪は微笑みながらうなずいた。

 「美雪ちゃんが看護学校に通えることになったのも、こいつのおかげなんだよ」

 ゆっくりとした調子で、熊木は寝ている大石の顔を見た。

 「こいつが連戦連勝、ファイトマネーを稼げるようになったから、美雪ちゃんも設備の整った、名門の名高い看護学校の授業料のメドがたったんだ」

 「そうなんですか・・・。昔から、妹思いな奴だったからな・・・」

 圭介はそう言って、口元に笑みを浮かべた。そして、何気なく美雪に視線を向けたが・・・

 「・・・?」

 なぜか、美雪は寂しそうな表情をしていた。圭介がそれが気になり、声をかけようとしたそのときだった。

 「世田谷区で7階建てのビルから転落事故の清掃作業員の男性一名、まもなく搬送されます! 救命チームは直ちに部署に集合して下さい! 繰り返します・・・」

 救命病棟の中にアナウンスが響き渡った。

 「たいへん! いってこないと。それじゃ熊木さん、大石さんは後ほど、特別病棟の個室に移させますので」

 「わかりました。ありがとうございます」

 「それじゃあね。小島君にヨロシク!」

 ウィンクをすると、沙希はヒールの音を響かせながら病室をあとにした。それを見送ってから、圭介は美雪と熊木に言った。

 「さて・・・大石は大丈夫そうですから、俺達もこれで失礼します」

 「そうですか? もう少しいても・・・」

 「とりたて、何かができるわけじゃありませんからね。それに、大丈夫そうだとは言っても、意識不明の患者の周りでうるさくするのはよくないでしょうから、このあたりで・・・」

 「そうですか。あの、よろしければ電話番号か何か、教えていただけませんか? 兄の意識が戻り次第、お伝えしますから」

 「いいんですか? それじゃあ・・・」

 圭介は辺りを見回し、サイドボードの上に置かれていたメモ帳を見つけると、それに自分のウェアラブルフォンの番号を書いた。

 「これ、俺の携帯の番号です。仕事の終わった五時からあとぐらいが、つながりやすいと思いますけど・・・」

 「わかりました」

 美雪はそれを受け取った。

 「それじゃ、お大事に。ひかる、いこう」

 「はい。失礼します。お大事に」

 ひかるはペコリと頭を下げると、圭介と共に病室を出ていった。

 「さすが、博幸の友達だな。今時珍しく、気骨がありそうじゃないか」

 頬をゆるませてそう言う熊木。しかし・・・

 「・・・」

 美雪は寂しげな表情で、彼らが去った出口を見つめていた。





 「いいお兄さんなんですね。自分のファイトマネーで、妹さんを名門の看護学校にいかせてあげるなんて・・・」

 病院から出ながら、ひかるが言った。

 「ああ。ちょっとぶっきらぼうだったけど、昔から根は優しい奴だった。大した奴だよ。自分の夢を叶えながら、妹の夢まで手助けしてあげてんだから・・・」

 圭介は空を見ながらそう言った。

 「・・・まぁ、あの二人は、ちょっと特別だったからな」

 と、圭介は少しうつむいて続けた。

 「特別・・・? なんですか?」

 「うん・・・。あいつの家は、前は機械部品の製造工場をやってたんだけどな・・・あいつが小学生の時に、倒産したらしい。それ以来、債務の返済で切りつめた生活を送らなきゃならなくなったらしいんだけど・・・。お母さんは美雪ちゃんを産んですぐに亡くなっちゃったらしいし・・・苦労してたんだよ」

 「・・・」

 ひかるは黙ってそれに聴き入っていた。

 「あいつは、そんなことなんか微塵も見せなかったな。同情されるのも嫌いだったし。そのことを聞いたのも、つきあいはじめてだいぶたってからだった。今考えてみれば、もともとハングリー精神が根付いてたのかもしれない。それに、美雪ちゃんの夢を叶えてやりたいっていう気持ちが加わって、あいつをここまで押し上げたのかもな・・・」

 「強い人なんですね・・・」

 二人はそんな会話をしながら、駐車場に停めてあったファルコンのところまでたどりついた。

 「でも、大丈夫なんでしょうか? 命に別状はないっていっても、次のチャンピオン戦で勝つのは・・・」

 「たしかにな・・・。けど、あいつならきっと大丈夫だ。ここまで来たんなら。俺達は頑張って応援するしかないな」

 「そうですね」

 圭介はひかるにヘルメットを渡した。

 「さてと・・・飯でも食いに行くか。なにか食べたいもの、あるか?」

 「え? そ、そうですね・・・あ、そうだ!」

 パン!とひかるは手を叩いた。

 「この間お料理の雑誌で、おいしい洋食屋さんの特集をやってたんです。たしかこの近くに、一軒あったはずです。「猫とエントツ」っていうお店だったと思いますけど・・・」

 「洋食屋さんか・・・。よし。そんじゃ、とりあえず出発だ。ナビを使って探せば、なんとかみつかるだろう。つかまれ」

 「はい」

 ブロロロロ・・・

 ひかるがしっかり座ったのを確認すると、圭介はアクセルをふかし、ファルコンは病院の駐車場をあとにした。

 が・・・駐車場で彼らを見ていた視線に、二人は気がつくことはなかった。

 「何者だろうな、あいつら?」

 二人組の男の片方が、もう片方に話しかけた。

 「さてな。ただ、あいつの妹に通されて、あいつの病室まで入ったんだ。あいつとそれなりに関わりがあるってこのは、間違いないだろう。一応、身元を調べておいた方がよさそうだ」

 「そうだな」





 「さーて、と・・・」

 ガチャ

 冷蔵庫を開ける小島。と、中を覗いて眉をひそめた。

 「ありゃ、二本しかねえや」

 冷蔵庫のドアポケットの中には、ビールの缶が二本差し込んであった。小島はそれを見ると、時計を見た。

 「なんか起こらんうちに、コンビニまで買ってくるか」

 彼はそう言って冷蔵庫を閉めると、財布を持って部屋から出た。勤務が開けたあと他の隊員より一足先に寮に戻り、早速ビールを飲もうとしたのだが・・・買い置きがなく、残り二本しかないことに気がついたのだ。

 「♪〜」

 お気に入りのロックを鼻歌で歌いながら、小島は寮の玄関へと出てきた。と、その時である。

 「うまかったな、あのタンシチュー。あれ、お前作れないか?」

 「そうですね、今度試してみます」

 楽しそうに話しながら、圭介とひかるが駐車場から玄関へと入ってきた。

 「おう、おかえり。テレビで見てたけど、えらいことになっちゃったな? 大石選手の具合はどうなんだ?」

 小島はいたって気楽に声をかけた。が・・・

 「「!」」

 圭介とひかるはなぜか彼を見て、突然固まった。

 「? どうしたんだよ?」

 と、今度はさらに、二人の彼を見る視線がなぜか険悪なものになっていく。

 「失礼します・・・」

 いつもは笑顔であいさつをするはずのひかるが、どことなく冷たい様子でそんなことを言って彼の横を通り過ぎ、さっさと寮の2階に上がっていってしまった。

 「お、おいひかるちゃん! どうしたんだよ、あれ・・・」

 わけがわからず首を傾げる小島。と・・・

 「小島さん・・・見損ないましたよ」

 「!?」

 振り返ると、なぜか圭介が怖い目つきでにらんでいた。

 「な、なんだよお前まで!? 見損なったって、なんのことだよ!?」

 「自分の胸に手を当てて考えてみたらどうです?」

 「な・・・なんだそりゃ!? 帰ってくるなりそんな目で見られて、そう簡単に事情がわかるわきゃねえだろ!?」

 「それなら・・・ちゃんと説明しますよ。今日、大石が運ばれた病院まで行ってきたんですけどね、そこで・・・」

 と、圭介は病院で沙希が話した小島のかつての悪行について離してみせた。それを聞いているうちに、だんだんと小島の顔はうつむいていった。

 「・・・というわけです。これで思い出したでしょう? 俺はね、見損ないましたよ。確かに小島さんは女好きですけど、あくまで紳士的に女の人に接してると思ってきたんですよ? それなのに・・・」

 と、圭介が続けようとしたときだった。

 「あ・・・」

 うつむいたままの小島が、プルプルと震えながら小さくつぶやいた。

 「? どうしたんです?」

 そのただならぬ様子に、思わず圭介が少し心配になり、声を掛けようとしたその時だった。

 「・・・あんのホラ吹き女医めぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!」

 突然小島が上半身を持ち上げ、すさまじい声で吼えた。その勢いに思わず圭介は倒れそうになったが・・・

 ガシィッ!!

 「新座ぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 「は、はぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 すさまじい形相で襟首をつかみ、自分の名を叫ぶ小島に対し、圭介はただただ返事をするしかなかった。

 「ひかるちゃん連れて、俺の部屋までこいっ!!」

 「え、ええっ!?」

 「さっさといけっ!!」

 そのまま圭介は、放り投げられるように階段へと走らされた。振り返ると、小島は聡美のダッシュにも勝るとも劣らないスピードで、自分の部屋へと駆け込んでいた。

 「なんなんだ・・・?」

 圭介は首を傾げつつも、とりあえず言われたとおりにするため、階段を昇り始めた。





 数分後。圭介とひかるは、小島の部屋の前に立っていた。

 コンコン

 「小島さん、来ましたけど?」

 圭介がノックをするが、返事がない。

 「中から大きな声がしますけど・・・」

 耳をそばだて、ひかるが言った。

 「しゃーないな・・・。小島さん、はいりますよ」

 圭介はドアノブに手を掛け、ゆっくりと開いた。そこで、彼らが見た光景は・・・

 「とにかく!! 先輩の悪い癖のおかげで、何ヶ月もかけて培ってきた素敵な先輩としてのイメージがぶち壊しですよ!! 今度こんなことしたら、本気で世にも恐ろしい薬品送りつけますからね!!」

 ガチャッ!!

 物騒なことを叫んだあと、小島はたたきつけるように電話の受話器を置き、真っ赤な顔でゼエゼエと息をついた。

 「こ、小島さん・・・」

 その鬼神のような様子にひるみながらも、圭介は声をかけた。

 ギロッ!!

 その途端、二人は小島にすさまじい目つきでにらまれた。

 「・・・っ!!」

 それにおびえ、圭介の背中に隠れるひかる。圭介も言葉を返せずにいると、小島はクルリと背を向け、冷蔵庫へと歩いていった。

 「・・・そこに座れ。時間はたっぷりある。これからじ〜っくりと、どういうことか説明してやる」

 冷蔵庫の中からビールの缶とアルコール度低めのフルーツカクテルを取り出しながら、小島は言った。圭介はひかると顔を見合わせながらも、おとなしくテーブルの前に並んで正座した。





 「「うそつき?」」

 ビールとカクテルの入ったグラスを持ったまま、圭介とひかるはそう言った。

 「・・・っていうのは、ちょっと言い過ぎだけどな。似たようなもんだ」

 ビールをチビリと飲んで、小島は不機嫌そうに言った。

 「正確に言うなら、一を十・・・いや、百ぐらいにして伝えるのが好きなんだよ、あの先輩は。おかげで俺が救命で働いてた一年の間、どんだけひどい目にあってたか・・・」

 小島が二人に告げたのは、昼間沙希が二人に告げたようなことは事実無根であり、それどころか、沙希という人間自体が、わざと話を大きくして人を驚かせるのが好きな困った人間であるということだった。

 「嘘か誠か知らないけど、病院じゃ有名な話があってな・・・。昔、胆石で入院してたスケベ親父がいて、しょっちゅう看護婦にセクハラしてたらしいんだよ。でも、患者っていう手前、注意することぐらいしかできないけど、そんなもんじゃおさまらない手癖の悪さだったそうだ。そんな時、あの人がやったっていうことがすごくてな・・・」

 「なんですか?」

 「合成して作ったニセのレントゲン写真持ち出して、手遅れの腎臓ガンとかいって長々とガン告知をしたらしいよ。その日っからその親父、死んだようになっちゃったらしくてね。セクハラどころじゃなくなった。結局、そいつの胆石を取る日までそれがウソだってばらさなかったらしいよ」

 「そんなことして、問題にならなかったんですか?」

 呆れた様子で圭介が尋ねる。

 「もちろん、問題にはなったさ。けどな、看護婦は一致団結で拍手喝采。それに、問題を審議する理事会の席でも、「医師や看護婦は患者に対して自分の全てをそそぎ込んでいるのに、患者がそれを裏切るようなことに対して抗議する権利もないのか。医師は患者の奴隷ではなく、共に敬意をはらいあう友人であるべきである」なんて、お偉いさん達の前で啖呵切っちゃったらしい。結局、それで処分はうやむや。まあ一番の理由は、そんなことに目をつぶってでも手元に置いときたい人材だからだろうけどな」

 「そんなに優秀なお医者さんなんですか?」

 ひかるが尋ねた。

 「うん。そういう性格を補って余りあるほどの腕前だよ。もっとも、経歴の方も変わっててね。もともとは大学で法医学を学んでたんだ。警視庁の監察医務局で検死なんかをやったあとで、今の病院にきたっていう変わり種さ」

 「はぁ・・・」

 「ま、そういう話も聞いてたから、怖くてめったなことはできなかったんだよ。いたずらぐせはひどくても、根は悪い人じゃないと思ってたんだけどなぁ・・・さすがに今回のは、腹に据えかねたぜ。よりにもよって、人のいないところで勝手に何も知らないお前らに話膨らませて吹き込むなんて、冗談じゃねえっての、まったく・・・」

 「すいません、誤解しちゃって・・・」

 「・・・」

 ひかるがペコリと頭を下げる。しかし、圭介はやや視線を落として、何かを考え込んでいるような様子を見せていた。

 「ん? どうした新座?」

 その様子を見て、小島が尋ねる。そんな彼に、圭介はゆっくりと切り出した。

 「小島さん・・・今、「話膨らませて」って言いましたよね・・・?」

 「それがどうかしたんですか?」

 ひかるが首を傾げたが、かまわず圭介は続けた。

 「話を膨らませたってことは・・・セクハラとまではいかないまでも、それに近いことはやってたってことじゃないですか・・・?」

 「あ・・・!」

 ひかるが小さな声を上げ、小島を見る。二人の視線は帰ってきたときほどキツイものではないが、疑いの視線と言うには十分だ。

 「ぐぅっ! す、鋭いな、お前・・・」

 「やっぱり・・・」

 「違う違う違う!! 断じて違う!! シュバイツァーや野口英世に誓ってもいいから信じてくれ! セクハラなんて卑劣なことは、ドン・ファンである俺は絶対にしない!!」

 「じゃあ言って下さい。何をやったんです?」

 圭介は腕組みをしながら言った。

 「う・・・そ、それはだな・・・」

 「それは?」

 「・・・配属されたその日に、ナースステーションの看護婦に電話番号を聞いて回ったんだよ・・・」

 「・・・」

 「・・・」

 しばし、沈黙が流れたが・・・

 「やっぱりセクハラじゃないですかぁっ!!」

 圭介が激しい調子で叫んだ。

 「だから違うって言ってんだろーがーっ!!」

 「だって、嫌がる看護婦さんにしつこくつきまとって聞き出したんでしょ? どーせ」

 「け、圭介君、そうとは限らないんじゃ・・・」

 「誰がそんなこと言ったぁぁぁ!! ええい、うるさい!! 黙って話を聞けぇ!!」

 再び小島がぶち切れたので、また圭介とひかるはおとなしくなった。小島は乱れた息を整えながら、静かな調子で言った。

 「・・・いいか、冷静になって考えてみろ。お前の言うような聞き方なんかしたら、例え聞き出せたにしたって、そのあとうまくいくものもいかなくなるだろうが」

 「あ・・・」

 圭介がポカンとした様子で言った。小島は呆れながらも続ける。

 「一人一人根気強く、不快なイメージを与えないようにしながら、逆に好印象を与えつつ言葉に細心の注意を払って聞き出す。それが女の子から電話番号を聞き出すコツさ。だいたいだな・・・電話番号を聞くことぐらい、セクハラでもなんでもないだろう。普通男と女のつきあいは、そっから始まるもんだぞ? 経験ないのか?」

 小島はすっかりぬるくなってしまったグラスをあけ、かわりにウィスキーを注いだ。

 「そういう機会がなかったもんで・・・」

 「私も・・・圭介君とはこうして同じ寮に住んでて、いつでも会えましたから」

 それぞれ恥ずかしそうに言う圭介とひかる。

 「つくづく幸せな二人だな、おまえら・・・。そんなんでうまくいってるんだから、引き合わせてくれた神様に感謝した方がいいぞ」

 「なんか失礼な言い方ですね・・・」

 「とにかくだ! 今回の件は、それを勝呂先輩が勝手に膨らました結果だ! これ以上何も言うことはない!」

 「すいません・・・」

 「ったく・・・こんな忘れ去りたい若気の至りまで話さにゃならんとは、今日はひどい日だぜ・・・。だいたいなぁ、何ヶ月も同じ屋根の下で暮らしながら、一緒に仕事に命賭けてきた俺よりも、今日会ったばかりの人の言うことの方を信じるってのは、どういうことだ、えぇ!?」

 そう言って、小島は一気にグラスを傾けた。

 「こ、小島さん! そんな飲み方したら・・・」

 「俺は酒には強いんだよ! んなことより答えろ!」

 圭介は弱った様子でひかると顔を見合わせた。

 「ま、まずい・・・。クダまいちゃってるよ・・・」

 「機嫌が悪いから、お酒の癖もいつもとは違っちゃってるんじゃ・・・」

 身の危険を察知した圭介は、ひかるとともに速やかにこの場を立ち去るべく、立ち上がった。

 「こ、小島さん、そういうのはまた明日ってことで・・・」

 「し、失礼します!」

 だが・・・

 ガシッ!

 「「!?」」

 踵を返した圭介とひかるの服の裾を、小島はしっかりとつかんでいた。

 「逃げようったってそうはいかね〜ぞ〜・・・今夜はとことんつきあってもらうからな〜・・・」

 「ひ、ひぇぇ・・・」

 「お酒は苦手なんですぅ〜・・・」





 「・・・」

 圭介は後部座席で、居心地が悪そうな顔をしながら運転席と助手席の人間の顔を交互に見つめていた。

 オフィス街を走るウィンディ。その車中には、三人の人間。運転する仁木、助手席の小島、そして後部座席の圭介と、実動員三人である。さきほどから車内にはなぜか険悪な空気が流れているが、その理由は、助手席の小島にある。

 「うぅ・・・頭いてぇー・・・」

 そう。見るも無惨な二日酔いなのだ。圭介はそれを見ながら自業自得という感情と、同時に自責の念も感じていた。

 昨日の夜、圭介はひかるとともに、一晩中小島の酒につきあわされかけた。が、自分だけならまだしも、ビールをグラス数杯飲んだだけで参ってしまうひかるを、酒の強さに関しては小隊一の小島につきあわせるわけにはいかない。やむをえず圭介がとった手段とは、小島と飲み比べをして小島を先に酔いつぶれさせるという荒技だった。しかし、実際に飲み比べをしては圭介でも小島にはかなわない。そこで圭介は、小島がトイレに立った間に自分の飲む日本酒の中身を捨て、代わりに瓶に水をいれて、あとは何食わぬ顔をして飲み続けるといういかさまをしたのである。そのうえで小島を煽りながらグラスを重ねさせたので、なんとかあまり遅くならないうちに小島を酔いつぶれさせ、自分達の部屋に戻ることが出来た。

 「・・・お酒を飲むなとは言わないけど、度というものを考えてほしい・・・今更こんな注意をしなければならないのかしら?」

 運転席で小島を横目に、いつもの冷静な口調ながらも手厳しく言う仁木。小島にとっては二重の意味で耳に痛い。やむをえなかったとはいえ、圭介は多少の自責の念を感じながら、小島の姿を見つめていた。

 「わかってますから言わないで下さいよ・・・。俺にとっても一生の不覚なんですから・・・。とりあえず、薬は出る前に飲んでおきましたから・・・」

 「カラドリウスは隊の装備よ。軽々しく私用に使わないでよ・・・」

 「今回だけですから・・・」

 仁木はため息をついて視線を前方に戻した。

 「それで副隊長・・・これからどこに行くんです?」

 圭介も気持ちを切り替え、仁木に質問をした。

 「二人には悪いけど、朝からあまり気持ちのよくない現場にいくことになるわ」

 赤信号で停車しながら、仁木は言った。

 「もうすぐつくけど、一時間ほど前にある会社のビルで飛び降り自殺があったの。今から行くのは、その現場よ」

 「うぇ・・・朝から仏さん見せられるんですか・・・」

 「遺体の方はもう検死に回されたわ。でも、血痕とかはそのままね。二日酔いの気分じゃ最悪かもないけど」

 仁木はちらりと小島を横目で見た。

 「ご心配なく。そろそろ効いてきたみたいですよ・・・」

 胸を押さえながら小島が言った。

 「けど、なんで俺達が? 飛び降り自殺っていうのはたしかにおおごとですけど、うちじゃなくて警察の仕事じゃ・・・」

 圭介はもっともな疑問を口にしたが、仁木はうなずいた。

 「普通ならそうね。けど、これは違う。二人とも、この間私と亜矢さんが警察に呼ばれて聞いた話は知っているわね?」

 「ああ、首都高でなぜか衝突死亡事故が増えてるっていう・・・」

 「それとその飛び降り自殺と、何か関係あるんですか?」

 「あれから私達も捜査に加わって調べたことなんだけど・・・衝突事故とほとんど同じ時期から、都内での飛び降り自殺やその他の不審な死亡事故、事件が相次いでいるのよ。それをさらに煮詰めた結果・・・そういった死亡者には、生前にいくつか共通した特徴があった」

 仁木はハンドルを切った。

 「それが今回の死亡事故も、どうも同じらしいの。だから、実際に現場に出向いて、もっと詳しい情報を集めようと思ってね・・・見えた」

 一軒の高層ビルの前に、テントで仕切られた一角、そして、その前に停まる数台の警察車両が見えた。





 ウィンディをパトカーの隣に停めると、三人はそれから下りてテントで仕切られた一角へと歩いていった。

 「SMSです。連絡を受けてきたのですが・・・」

 「ご苦労様です。どうぞこちらへ」

 警察官がテントの入り口を開ける。仁木達は会釈しながら、中へと入っていった。

 「警部、SMSの方がお越しになりました」

 一緒に入ってきた警察官がそう言うと、年輩の刑事が振り向いた。

 「ご苦労様です。警視庁の芝といいます」

 「東京都特機保安隊第1小隊、副隊長の仁木です。こちらは小島実動員と新座実動員」

 互いに自己紹介をしたあとで、仁木は芝の後ろで行われている作業に目を移した。

 「ここに落ちたのですね・・・」

 そこは本来は歩道なのだが、アスファルトの上に赤いペンキをぶちまけたように、乾いて赤黒く変色した血痕が生々しく残っていた。その周りで、鑑識が作業を行っている。

 「事件時の状況は?」

 「即死ですよ。あそこから落っこちたんですから」

 そう言って、芝は指を上に向けた。テントは現場を一般市民の目から遮るために設置されているのだが、屋根がないので中から空を見ることができた。そこには空と一緒に、高くそびえるビルの姿があった。

 「37階建てだそうですよ。おかげで遺体の状況もひどいもので・・・」

 小島と圭介は顔をしかめたが、仁木は顔色も変えずさらに尋ねた。

 「それで、今回の自殺者についてですが、やはり今までのケースと・・・?」

 「まだざっと聞き込んでみただけですが、それだけでもほぼ間違いないと言えるでしょう。詳しい話は、こちらの方で・・・」

 そう言って、芝が歩き出したので、仁木も圭介と小島に促した。

 「新座君、小島君、いくわよ」





 三人が芝に案内されて入ったのは、被害者が飛び降りたビルの中にある一軒の喫茶店だった。自殺事件が起こったときの騒ぎも落ち着き、店内は平静を取り戻している。

 「これが、今回自殺した男です」

 芝は一枚の写真を出した。社員名簿に使われていたものらしい。どこにでもいそうな、30代ぐらいの会社員の男が写っている。

 「戸川勝、34歳、独身。このビルの30階に入っている貿易会社に勤めていました」

 芝が電子手帳を見ながら説明を始める。

 「性格については、まあどちらかといえば、好印象を与えるタイプだったようですな。人付き合いや後輩の世話なんかも、ちゃんとやっていたようです。社員としては比較的優秀だったようで、昇進も同期より早かったようです」

 「自殺の動機になりそうなことは、何かわかりましたか?」

 「もちろん、聞き込みはそれを重点に行いました。結果を言えば、ないとも言い切れんのですが・・・」

 芝は頭をかいた。

 「一ヶ月ほど前、商品の輸送計画作りで手違いをして、取引先から苦情を言われたそうです。それと、2週間ほど前の話ですが、5年間つきあっていた恋人と別れたと、本人が言っていたそうです」

 「ふられた、ということですか?」

 「いえ、ふった方です。恋人が浮気をしていたとかで、腹に据えかねて」

 「・・・」

 「どっちも、自殺の原因にはなりそうにないですね」

 仁木が考え込んでいると、圭介が言った。

 「仕事のミスなんて、誰でもすることですし・・・恋人と別れたっていっても、自分からふったってことは、別に絶望のどん底に突き落とされた、ってわけじゃないでしょうし」

 「そりゃそうだな」

 小島も相づちを打つ。

 「聞き込みはまだ続けているので、他になにか動機になりそうなことが出てくる可能性はありますが・・・ただ一つ、気になることが」

 「なんですか?」

 「一ヶ月ほど前・・・つまり、さっき言った仕事の失敗から間もなくあたりのことなんですが・・・それから、それより以前と性格が急に変わったようだったという証言をいくつか聞いたんです」

 「性格が変わった?」

 小島が繰り返す。

 「やたら明るく、自信ありげな様子になったそうです。まるで、世界に敵はないというような感じで。本人はなんでそうなったか、尋ねても教えてはくれなかったそうですが。ただ妙なことに、そんな強気で陽気な様子も、何日かするとだんだんと消えていって、そうなると急にビクビクしたようなようになっていったそうです。しかし、そうなるとまた元のやけに陽気な様子になる・・・その繰り返しだったそうです」

 「妙な話ですね」

 小島が腕組みをしながら言うと、圭介が仁木に尋ねた。

 「副隊長、さっき言ってた、自殺者に見られる共通点っていうのは・・・」

 それに対して、仁木はうなずいた。

 「そう。一連の自殺者、それに死亡事故、事件の被害者達には、生前今回の自殺者のように、奇妙に激しい感情の起伏が見られたという共通点があったのよ。特に、異常なほどの自分に対する自信という点に注目がいくわね。中には、それが直接の原因になって死亡事故につながったと考えられるものもあるのよ」

 「それって、どんなことです?」

 「酒に酔ってもいないのに、駅のホームから飛び降りてレールの上に仁王立ちして列車に撥ねられたり、今回のように高いところから飛び降りたり・・・。いずれにしても、正常な神経の状態じゃなかったと考えられる。まるで、そういうことをしたら自分が死ぬという当然の感覚が、欠如していたみたいに・・・」

 「目撃者の一人の証言なのですが・・・戸川は自殺にあたって思い詰めたり自暴自棄になったりしたような様子は見せず、それどころか騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってくるのを待っているようなそぶりだったと。自分の飛び降りを見せ物とでも考えているようだったと、そう言ってました。似たような証言は、他の自殺現場でもあります」

 芝が付け加える。

 「そういうふうに自殺をほのめかして周りが騒ぐのを見て喜ぶようなバカは昔からいますけど・・・自殺が増えてて、しかもみんながみんなそんな奴ってのは、たしかに普通じゃありませんね。江戸時代には心中ブームなんてとんでもないブームがあった頃があったらしいですけど、そんな時代でもないし・・・」

 小島がイスに寄りかかりながらつぶやいた。

 「薬物の可能性はないんですか? 普通に考えれば、その可能性が一番高いんじゃ・・・」

 「もちろん、それを一番有力視しているわ。警察はもちろん、うちでも亜矢さんが時間を見て血液サンプルの鑑定作業をしている・・・。けど、今のところそれらしき成分が検出されたという知らせは、入ってきてないわね」

 圭介の質問に、仁木は残念そうな顔をして答えた。と、その時だった。

 「あ、すいません、言い忘れてました。事件と関係があるかはわかりませんが、生前の戸川について、今回今までは聞かれなかった気になることが一つわかりました」

 電子手帳を見ながら、芝が言った。その言葉に、仁木が目に真剣さを強める。

 「なんでしょう?」

 「はい。5日前の話だそうですが・・・昼休み、コーヒーを飲みながらオフィスを歩いていた一人の社員が、段ボール箱につまづいて、誤って持っていたコーヒーを戸川にかけてしまったそうです。しかし・・・戸川はそれにもかかわらず、その瞬間に熱さを感じるそぶりを全く見せなかったそうです。そのあとも、笑って彼を許したとか」

 「そのコーヒーって・・・アイスコーヒーじゃないですよね?」

 圭介が念のため尋ねたが、芝はうなずいた。

 「もちろん。いれたての熱いコーヒーだったそうです」

 「普通なら、笑って許すどころの話じゃないな・・・」

 「・・・気になる話ですね・・・」

 仁木が腕組みしながら言った。圭介のポケットから、ウェアラブルフォンの音がした。

 「すいません、すぐ戻ります」

 圭介はそれに出るために、席を外した。

 「この証言、事件とつながると思いますか?」

 「今のところは、私達にもなんとも・・・。もっと証言が欲しいところですね。私達も、聞き込みに参加させて欲しいのですが・・・」

 「ええ、それはもちろん。まだうちの人間が聞き込みをやっていますので」

 「恐れ入ります」

 仁木はそう言って頭を下げた。その時、電話を終えたらしい圭介が戻ってきた。

 「早かったな? なんだったんだ?」

 「美雪ちゃんからです、大石の意識が戻ったって・・・。とりあえず今は仕事中ですから、一旦切ってもらいましたけど・・・」

 そう語る圭介の様子は、うれしそうだった。

 「よかったわね。仕事が終わったら、すぐに行ってあげなさい」

 意外にも、仁木も笑顔でそう言った。

 「あの・・・よろしいですか?」

 「ええ、すいません。こっちのことで」

 「行きましょ、新座君。私達も聞き込みよ」

 「はい!」

 仁木達のあとに続き、圭介は喫茶店を出ていった。





 「本当に、私もついてきちゃってよかったんですか?」

 「くどいな、お前も。昨日一緒に病室まで行ったんだから、いまさらダメってことはないだろう? 心配するなって」

 病院の正面玄関までさしかかったところで、何度目かになる同じ質問に、圭介はうんざりしながらも答えた。

 「それにお前だって、このままじゃ中途半端だろ?」

 「そ、それはそうですけど・・・」

 まだ遠慮心を見せるひかるの腕を、圭介はガシリとつかんだ。

 「ここまで来たらつべこべ言うなよ、ほら」

 「あ・・・!」

 そう言いながら病院に入った圭介は、受付で大石の電話番号を尋ねた。さすがに有名人なので、本人の知り合いかどうか、確認の時間待たされたが、ほどなくして美雪が受付に迎えに来た。

 「お待たせしました。すみません、昼間はお仕事中に電話をかけてしまって・・・」

 「いや、気にしないでいいよ。それよりも、意識を取り戻してくれて、本当によかった」

 「よかったですね、美雪さん」

 「ありがとうございます」

 美雪はにっこりと微笑んだ。

 「それじゃ、ついてきてください。病室はこちらです」

 圭介達はそのあとについて歩き出した。





 廊下を歩きながら、圭介は唐突に尋ねた。

 「あのさ、気になってるんだけど・・・」

 「なんでしょう?」

 「あいつ、俺のこと忘れてたりしてないよね・・・?」

 少し不安そうな様子で圭介がそう尋ねたその時、背後からクスッという笑い声が聞こえた。振り返ると、ひかるが笑みを浮かべながら口を押さえていた。

 「な、なんだよ?」

 「だって圭介君、私にはさっき心配するななんて言ってたのに・・・やっぱり自分でも心配なんじゃないですか」

 おかしそうにそう言うひかる。

 「そ、そりゃあ・・・7年も会ってないし、失礼な話だけど、俺だって大石のことを思い出すこと、ついこの間までなかったんだから・・・」

 圭介は恥ずかしそうに答えたが、すぐに美雪が笑いながら言った。

 「安心して下さい。兄は新座さんのことを忘れてなんかいませんよ?」

 「ほ、本当? よかった・・・」

 ホッと胸をなで下ろす圭介。

 「新座さんのことを話したら、すごく懐かしがってました。だから、心配することはありませんよ」

 「それなら今度こそ、本当に心配することありませんね、圭介君?」

 「お前なぁ・・・」

 いたずらっぽい表情を浮かべるひかるに、圭介は何も言い返すことができなかった。そうこうしているうちに、三人は病室の前までたどりついた。

 「緊張するなぁ・・・」

 襟を正す圭介の背中を、ひかるが優しくなでる。美雪はドアをノックした。

 「お兄ちゃん、新座さんが来たよ?」

 「おう、入れ」

 中から元気の良さそうな声が返ってきた。美雪はドアを開けると、一歩入って二人に道を進めた。

 「どうぞ」

 「そ、それじゃ・・・」

 「失礼します・・・」

 緊張した様子で一歩中へはいる二人。その途端、

 「よお! 久しぶりだなぁ! 元気してたかオイ!」

 嬉しそうな声が横から飛び込んできた。そこには、ベッドから身を起こして元気そうに笑っている一人の青年の姿があった。

 「お兄ちゃん! そんなにはしゃがないでよ」

 慌てて美雪がそれをたしなめる。

 「いいじゃないか美雪。ほんとに久しぶりなんだから。久しぶりだな、新座」

 「あ、ああ・・・本当に、ひさしぶりだ。そういえば、熊木さんは?」

 「会長なら、ジムに戻った。他の奴らを放っておくわけにはいかないからな」

 「そうか・・・」

 圭介はだんだんと落ち着きを取り戻し、笑顔で言葉を返した。が、まずは一番気になっていることを尋ねる。

 「体の方は大丈夫なのか?」

 「ああ。たしかに昨日はかなり打たれたけど、あんなのはよくあることさ。脳みそにも異常はないっつーし、二、三日ゆっくりしてりゃ治るだろ。あんまりゴロゴロしてると、なまっちまうしな」

 大石はそう言って笑った。

 「昨日の試合、見に来てたんだって? みっともないとこ見せちまったな」

 「ああ。ほんとうに、どうなることかと思ったよ。でも、無事で済んでよかった。試合、本当にすごかったぜ。聞いてると思うけど、お前がプロボクサーになったことも知らなかったのが、今となっちゃはずかしいよ」

 「気にすんなって、仕方ねえさ。一花咲かせるのに時間がかかったのには違いないんだから。それに、お前のことはもちろん忘れちゃいなかったけど、しばらく思い出さなかったのはこっちも同じだからな。聞いたぜ、SMSに入ったんだってな? 俺はてっきり、お父さんと同じように技術者になると思ってたけど、まさか正義の味方になってたなんてな・・・」

 「あの頃はそのつもりだったけど、途中でいろいろあってな・・・。消防士をやって、そのあとで今の職場に入った。けど、やっぱりお前の方がすごいと思うよ。ずっと一つの夢を追いかけて、ほんとに叶えちゃったんだから・・・」

 「なあに。バカの一つ覚えみたいなもんだ。そんなことより、お前しばらく会わない間に、そういうとこまでしっかりするようになったんだな?」

 「そういうとこって?」

 「とぼけんなよ。そんな可愛い彼女と一緒に来ときながら」

 そう言って、大石はひかるを見た。慌てて美雪がたしなめる。

 「お兄ちゃん! その人は新座さんの同僚の方で・・・」

 「あの・・・いえ、そうじゃなくて・・・そうなんです・・・」

 それを遮って、ひかるが恥ずかしそうに言った。

 「あ・・・失礼しました!」

 美雪が慌てて謝る。

 「ま、まぁ、たしかにそうなんだけどな、一応・・・」

 圭介も照れ隠しのように苦笑いしながら言った。

 「ほぉらみろ。それにしても、うらやましいな。こっちはまだ独り身だ」

 「まだっていっても、俺達まだ20代前半だろ? これからだろうが。だいたい、お前だってこのぐらいの選手になったら、女の子のファンだって相当なもんだろ?」

 「まあな。けど、彼女作るよりもっと頑張らなきゃならないことがあるからな。こいつが安心して看護婦の勉強ができるように学費を稼ぐためにも、ガンガン強い奴にぶつかっていかなきゃ・・・」

 「お兄ちゃん・・・」

 美雪は小さな笑いを浮かべた。

 「・・・こんな時に聞いて悪いけど・・・おうちの方はどうなったんだ、その・・・」

 圭介が言いにくそうに言った。

 「・・・親父も死んだよ。二年前の冬にな」

 「!?」

 大石はうつむいて答えた。

 「なんとか借金を返して、これからやりなおそうって三人で言ってた矢先だった。それまでの無理がたたったんだな・・・。自分のしでかした不始末は自分で落とし前つける、お前は俺のことなんかいいから、ボクシングを続けろ・・・親父はそう言ってたけど、俺も手伝ってりゃ、こんなことにはならなかったかもしれないな・・・。結局、兄妹で本当に天涯孤独になっちまった・・・」

 圭介は黙ってそれを聞いていたが、やがて言った。

 「・・・でも、そのおかげでお前はここまで来れたんだ。ここまできたなら、とことん突き進んで、チャンピオンになってやれよ。それがきっと、一番の餞になる」

 大石はそれを聞いて、小さく笑った。

 「あいかわらず、励ましの言葉を考えるのがうまい奴だな。でも、サンキュー。悪いな、せっかく見舞いに来てくれたのに、湿っぽい話聞かせちまって・・・」

 「いや、俺が聞いたんだからな。そんじゃ、お互い近況報告といくか。お互い会ってなかった7年の間に、何があったか」

 「ああ、そうだな。おい美雪、そこのお見舞いの中にある果物の詰め合わせ、そん中から適当に何か切ってくれないか?」

 「うん、わかった」

 「あ、私も手伝います!」





 その後、四人の談笑は続いたが・・・

 「失礼します。すみませんが、面会の方は時間の方が・・・」

 病室に入ってきた看護婦が、圭介とひかるを見て言った。

 「あ、すいません。これで切り上げますんで・・・」

 圭介がそう言ってペコリと頭を下げると、看護婦は笑顔を浮かべて出ていった。

 「時間みたいだな」

 「しょうがねえな、病院ってのはおしゃべりの時間も寝るのも早くて・・・」

 「なに言ってるの。お兄ちゃんは患者さんなんだから、早く寝るのは義務みたいなものよ」

 「そういうことだな。あんまり遅く戻ると、副隊長に怒られそうだし、先輩になんて冷やかされるかわかんないからな・・・」

 「お前もやっぱり勤め人だな。ま、とりあえず今日はこのへんだな。見舞いに来るならいつでもかまわねえし、退院したら一回ジムの方も見にきてくれよ」

 「ああ、そうしたいな。それじゃ、今日はこのへんで」

 「失礼しました」

 「私も帰るね、お兄ちゃん。明日からまた学校だから・・・」

 「おう。しっかりやれよ。それじゃ新座、またな」

 「ああ、それじゃおやすみ」

 圭介はそう言うと、ひかる、美雪とともに病室をあとにした。

 「さて、と・・・。送ってあげるよ、って言いたいところなんだけど・・・俺達バイクで来たんだ。夜道を女の子一人で返すのは、すごく心配なんだけど・・・」

 「圭介君、私、バスで海上区まで戻りましょうか?」

 「い、いいですよ服部さん! 病院の前からバスが出てますし、バス停から学校の寮までも、そんなに歩きませんから・・・」

 「気持ちはありがたいけど、お前だって女の子なんだからな。そこまでしてくれなくてもいいよ」

 圭介がそう言うと、ひかるは頬を赤らめた。

 「その代わりといっちゃなんだけど・・・」

 そう言うと、圭介はポケットから何かを取りだした。

 「これを持ってるといいよ」

 圭介が美雪に渡したのは、小さな装飾品のようなものだった。

 「なんですか、これ?」

 「Eトレーサーっていって、小型の発信機なんだよ。非常の時にこのスイッチを入れると、特定の波長のタキオン信号を発信し始めるんだ。そうすれば、警察とうちで共用している通信衛星がそれをとらえて、すぐに持っている人のところに急行できる。実用化されたばっかりで、まだ市販もされてないけど、重要事件の証人に渡すとか、そういう使い方はもう始まってるんだ。腕時計のバンドとかにつけておけるから、目立たないしね。それを持ってれば、すぐに駆けつけられるよ」

 「ありがとうございます、いいものをもらってしまって・・・」

 美雪はそれを、言われたとおり自分の腕時計のバンドにはさんだ。

 「でも、安心しました。何も異常はなかったみたいで・・・」

 ひかるが笑顔でつぶやく。

 「ああ。見た目も元気そうだったしな。あれなら、今ちゃんと治しとけば次のチャンピオン戦にも何の心配もなく出られるんじゃないかな」

 美雪は二人のやりとりを黙って聞いていたが、やがて圭介に尋ねた。

 「新座さん・・・」

 「なに? 美雪ちゃん」

 「私の兄に・・・なにか変わったところ、ありませんでした?」

 「え・・・? う、うーん・・・強いて言えば、昔より明るくなったような気もするけど、7年も経てば、人間なんてどうにでも変わるような気がするなあ・・・」

 圭介はそう言ってから、眉をひそめて美雪に尋ねた。

 「どうして、そんなことを・・・?」

 美雪は表情を曇らせてうつむいたが、やがて言った。

 「新座さん、服部さん、申し訳ないんですけど・・・」

 「・・・?」

 「もう少し、お話しする時間はありますか・・・?」

 圭介はひかると顔を見合わせたが、そのただならぬ様子にうなずいた。

 「・・・ああ。もちろん」

 「何か心配事があるなら、聞いてあげますから」

 二人のその言葉を聞いて、美雪は顔をほころばせた。





 「ん・・・?」

 駐車場に停まっていた車の中にいた男は、病院の正面玄関から出てくる3人を見て身を乗り出した。

 「出てきましたぜ、「お坊ちゃん」! あの二人だ!」

 男は後部座席に座っている人物にそう声をかけた。それによって、彼も窓に顔を寄せる。

 「たしかあの三つ編みの子は、大石の妹だったね。ということは、残りの二人がSMSか。ふぅん・・・どんなのかと思ったら、案外普通なんだね」

 青年は目を細めてそう言った。

 「どうすんです? SMSが絡んじまったとなると・・・」

 男は強面の顔に似合わず、弱気な態度を見せながらそう言った。

 「まだ絡んできたとは決まってないじゃない。感づかれてもいないようだしね。それに、ここで手を引いたりしたら、君たちもうけ損なっちゃうじゃないか。そんな弱気じゃ、お金儲けなんてできないよ」

 青年はクスクスと笑った。

 「そ、そりゃそうですが・・・」

 「見たところ、ただお見舞いにきただけらしい。強気でいこう。もちろん、用心に越したことはないけどね」

 駐車場の車内でそんな会話が行われていたことを、圭介達は知る由もなかった。

 To be continued…


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