「それじゃ圭介君、おやすみなさい。またあした・・・」

 「ああ、おやすみ」

 階段の前で、圭介とひかるは別れようとした。と、ひかるが立ち止まり、圭介を呼び止める。

 「あの・・・美雪さんの話したことは・・・」

 「・・・さっきも言ったけど、じっくり考える。ことがことだからな。とりあえず、今日はもう寝とけ。いろいろ聞いて、疲れただろうからな」

 「それは・・・いえ、なんでもないです。それじゃ」

 ひかるはペコリとお辞儀をすると、二階へと上がっていった。

 「・・・」

 圭介はそれを見送ると、少しうつむき加減で自分の部屋へと歩き始めた。

 ガチャ

 と、小島の部屋の前を通り過ぎたとき、唐突にドアが開き、パジャマ姿の小島が出てきた。

 「おわっ! ・・・ああ、驚いた」

 「こっちのセリフですよ」

 圭介はそう言い返した。

 「まぁとにかく、おかえり。けっこう遅かったな。飯も食ってきたのか?」

 「ええ、まぁ・・・」

 「? なんだ、久しぶりに友達と会って、その帰りにひかるちゃんと晩ご飯まで食べてきたって言うのに、ずいぶんとしけた面だな?」

 その表情を見て、小島が言った。

 「なんかあったか? もしかして、向こうはお前のこと忘れてたとか? それとも、ひかるちゃんとケンカでもしたか?」

 「どっちでもありませんよ・・・。とにかく、今日は疲れてるんで、おやすみなさい」

 「お、おやすみ・・・」

 呆然とした様子の小島を後目に、圭介は自分の部屋へと歩き、鍵を開けて中に入った。

 パチッ

 スイッチとともに、室内の様子が明るく照らし出される。

 「・・・」

 ドサッ

 圭介はそのままベッドに倒れ込むと、ゴロンと横になって天井を見つめた。

 「気のせいだといいんだけどな・・・」

 一時間ほど前、美雪から聞かされた話を思い出しながら、圭介はポツリとつぶやいた。




Extra Episode Vol.1

燃えよ栄光

後編


 幹線道路沿いにある、どこにでもありそうなファミリーレストラン。窓からは道路を行き交う車の姿が見える。その窓際の席に、圭介、ひかる、それに美雪は席を取って、料理より一足先に運ばれてきた飲み物に口をつけていた。

 「様子がおかしい? 大石が?」

 レモンスカッシュから口を離し、圭介がオウム返しに問い返した。それに対して、テーブルを挟んで無言でうなずく美雪。

 「おかしいって、どういうところがですか? さっきのお見舞いでは、別に様子がおかしいところはなかったと思いますけど・・・」

 ひかるがそう尋ねると、美雪はうなずいた。思い詰めた表情で、せっかく運ばれてきたアイスティーにも口をつけようとしない。

 「そう・・・でしょうね。でも、絶対に様子がおかしいんです。昔と比べて、今の兄は・・・」

 うつむく美雪を、圭介とひかるは黙って見つめた。が、やがて圭介が口を開いた。

 「詳しく、聞かせてくれるよね・・・?」

 美雪はうなずくと、ポツリポツリと話し始めた。

 「最初に兄が今までと変わったって思ったのは・・・今の連勝の始まりになった、フェザー級の第1回戦だったんです。それまでも兄は、何度かそれに挑戦していたんですけど、思うように勝つことができなくて・・・。でも、あの試合から、兄はファイティングスタイルを変えたんです。それ以来、今まで連戦連勝なんですけど・・・」

 「やっぱり、ファイティングスタイルを変えたのか。試合を見てて、そんな感じがしたんだよ。たしか昔のあいつは、ゴングが鳴ると同時にガンガン攻めていく、どっちかというと短期決戦型のボクサーだったような・・・」

 思い出すように圭介が言うと、美雪はうなずいた。

 「はい。兄のファイティングスタイルは、その試合までずっとそういうものだったんです。会長さんから聞いたんですけど、兄は瞬発力やここぞというときの一撃の威力はすごいんですけど、スタミナや打たれ強さといったところに弱点があるそうなんです」

 「つまり、長期戦は不利・・・。序盤からガンガン攻めて、早めにたたみかける必要があったから、それまではそういうボクサーだった。そういうことだね?」

 「ええ・・・」

 「それって、今の大石さんの戦い方とは正反対じゃないですか」

 ひかるが言った。

 「会場で聞いたんですけど、大石さん、今は「アンデッド・ボクサー」って呼ばれるような選手のはずです」

 「はい・・・。私や会長さんが心配していることの一つが、そのことなんです」

 美雪は顔を曇らせながら言った。

 「あんまり突然、正反対とも言えるようなファイティングスタイルに変わったことに、私も、会長やジムの皆さんも、みんな疑問を感じました。兄の弱点は体質的なものだから、あそこまですぐに克服して、あんな戦法を可能にできるはずがない、って・・・」

 「お兄さんには直接尋ねたんですか?」

 「はい。でも・・・私にも会長さんにも、ただ日頃のトレーニングの結果が出てきただけだと言って・・・。それはたしかに、兄は人一倍トレーニングに力を注いできましたけど・・・それでも、あんな風に突然劇的に効果が現れるようなものではないはずなんです」

 「そうだろうな・・・」

 圭介がグラスを傾ける。

 「たしかに普通なら、突然そうなった原因を疑わざるを得ないと思う。たとえば・・・その・・・」

 「・・・ドーピングの可能性とか・・・ですね?」

 圭介が言いにくそうにしていたので、美雪が代わりに言葉を継いだ。

 「もちろん、一番に恐れたのはそれです。だから、採血の練習と言って兄の血を採血して、看護学校にある検査機械をこっそり使って、そんな薬を使ってないかどうか、確かめたこともあります」

 「思い切ったことをしたんだね・・・。でも、その結果は? たぶん、今でも大石が普通にリングに上がってるところからすると・・・」

 「ええ・・・何も出ませんでした。それに、もし薬物を使っているならそれ以前に、私のした検査などよりずっと厳正な検査をしているボクシング協会の検査にひっかかっているはずなんです」

 「うん・・・。でもそれじゃ、安心できない・・・?」

 圭介の言葉に、美雪はうつむいてうなずいた。

 「新薬の開発は昔以上に日進月歩で、まだその検出方法が確立されていない違法薬物というのも、たくさんある。医学を学び始めたばかりですけど、そんな話は聞いたことがあります。もし兄が使っているのが、そんな薬物の一つだったりしたら、と思うと・・・」

 美雪の言葉に、圭介とひかるは心の中でうなずいていた。二人の仕事には、津波のような早さで進む今日の技術進歩そのものと戦っていると言えるようなところもある。そういった薬物が直接、間接にからんだ犯罪を摘発したことも、一度や二度ではない。

 「・・・様子が変というのは、ファイティングスタイルが変わっただけなのかな?」

 視点を変える意味で、圭介はそう尋ねた。

 「たしかに、そんなに急に戦い方が変わったのは不自然だと思うけど・・・それだけなら本人が言っているように、トレーニングが実を結んだという可能性も否定しきれない。他に、以前と変わったところは・・・」

 「はい、あります。ボクシングとは関係なく、性格も・・・」

 美雪の表情が、さらに暗さを増す。

 「性格も・・・? でも、今日の大石は・・・」

 さすがにそれには、圭介も疑問を感じずにはいられなかった。少なくとも、今日会った大石は、昔と変わらない、あるいはもっと、不遇だったこれまでの生活を感じさせない明るい青年だった。

 「ええ・・・今日の兄は、たしかにいつもの兄とほとんど変わりませんでした」

 「今日のお兄さんは、って・・・それじゃあ、いつもとは違うこともあるんですか?」

 ひかるが当然の疑問を口にする。

 「はい・・・なんというか・・・」

 美雪は自分でも戸惑っているようだったが、やがて続けた。

 「以前より、極端に感情の起伏が激しいんです・・・」

 「!?」

 圭介はその言葉を聞いた途端、飲んでいたレモンスカッシュを噴き出しそうになった。

 「だ、大丈夫ですか、圭介君!?」

 慌ててひかるが背中をトントンと叩く。

 「コホッ、し・・・心配いらない。ちょっと変なところに入っただけだ・・・」

 圭介はそう言ったが、頭の中では昼間聞いたある言葉が飛び交っていた。が、そんな内心の動揺を隠し、努めて平静な表情で再び尋ねた。

 「・・・話を続けよう。感情の起伏が激しいって、どういうことかな? 急に怒ったり、ふさぎ込んだりとか・・・?」

 しかし、美雪は首を横に振った。

 「そういうことではなくて・・・。満月だった月が欠けていくみたいに・・・最初はおかしいぐらい機嫌が良かったのが、日がたつにつれて不機嫌になっていく・・・そんな感じなんです」

 「もっと詳しく聞かせてくれませんか? 機嫌が一番いいときと、悪いとき。その二つがどう違うか」

 ひかるの質問に、美雪はうなずいた。

 「機嫌がいいときは、本当にいいんです。いつもニコニコしてて、ジムの他の練習生の洗濯物を洗ったり、ジムの掃除を一人でやってしまったり・・・。練習試合も、そういうときにはすごく調子がよくて・・・。でも、機嫌が悪いときには、見てられないくらい・・・すぐにカッとなって、周りに当たり散らしたり・・・。それとは逆に、変にソワソワしたり、なにかにおびえたような様子を見せることもあるんです。練習試合も、そういうときにはやりたがらなくて・・・」

 「なるほど・・・それはたしかに変だね。一つ聞きたいんだけど・・・いつまでも、機嫌が悪いわけじゃないんだろう?」

 「はい・・・。機嫌が悪いのがピークに達したというような次の日になると、またもとの上機嫌に戻る。そういうことを、周期的に繰り返しているような・・・」

 「・・・」

 圭介は黙って考え込んだが、やがて言った。

 「周期的というのは、どのぐらい?」

 「そのことに気がついたのは、つい最近なんです。だいたい、一週間毎にそんなことを繰り返しているみたいなんですけど・・・」

 そこまで言って、美雪は言葉に詰まったように語るのをやめ、うつむいてしまった。

 「・・・どうしたの?」

 心配になった圭介が声をかけ、ひかるが席を離れて近づく。やがて、美雪は小さな声で言った。

 「・・・てしまったんです」

 「え?」

 美雪の声はよく聞き取れなかった。美雪はもう一度、さらにハッキリとした声で言った。

 「見てしまったんです、私・・・。兄が、怪しい男の人と出かけるのを・・・」

 圭介はひかると顔を見合わせたが、彼女の前にあったアイスティーの入ったグラスを指先で押し進めた。

 「一口飲んで、落ち着いてから話した方がいいよ・・・」

 「はい・・・」

 美雪は言われたとおり、アイスティーを一口飲んで大きく息をついた。

 「お兄さんが、男の人と出かけたって・・・」

 落ち着いたのを見て、ひかるが少し先を促す。

 「はい・・・。つい何日か前の話なんですけど・・・」

 美雪は再び語り始めた。

 「兄の様子が周期的に変わっていることに気がついたので、その原因を突き止めようと思って・・・ちょうど機嫌が入れ替わる日にあたる夜、兄のアパートの前でこっそりと見張ってみたんです。そうしたら・・・」

 「そうしたら?」

 「真夜中になって、アパートの前に黒い車が停まって・・・。兄はそれから降りた男の人に迎えられて、その車に乗り込んでしまったんです」

 「その男に見覚えは?」

 だが、美雪は首を振った。

 「兄の知人を全て知っているわけではもちろんありませんけど・・・ボクシング関係の人がほとんどですから、大体は。でも、その人は全く見覚えがありませんでした」

 「追いかけてみたんですか?」

 「はい。でも、結局見失ってしまって・・・。それから1時間ほどして、兄は戻ってきましたけど・・・」

 そこで美雪は一度、言葉を切った。

 「・・・昼間あんなに機嫌が悪かったのがウソのように、すごく軽い足取りで自分の部屋に戻っていきました・・・」

 それっきり、美雪は再び黙り込んだ。

 「圭介君・・・」

 「・・・」

 ひかるは意見を求めるように圭介を見つめたが、圭介は拳を膝の上に置いたまま、ジッとしていた。店内の喧噪が別世界での出来事のように、彼らの席にはしばしの沈黙が流れた。が、やがて口を開いたのは圭介だった。

 「・・・わかったよ。君が心配しているのは、よくわかった。話してくれて、ありがとう・・・」

 それから少しして、美雪は嗚咽をあげはじめた。

 「・・・ごめんなさい。こんな話をして・・・」

 泣き出した美雪を見て、ひかるはハンドバッグの中からハンカチを取り出すと、そっと美雪に渡した。「すいません」と言って小さくお辞儀をしてそれを受け取り、涙を拭いながら美雪は続けた。

 「でも・・・気が動転して、誰に話したらいいのかわからなくて・・・」

 「会長さんにも、今の話はしていないのかい?」

 「会長さんは、昔から兄を特に気にしてくれていたんです。それに、現役時代に何度もチャンピオン戦に挑んで、結局それを果たせなかったらしくて・・・今の兄を心配しながらも、とても期待してくれているんです。もしかしたら兄が、そんな会長さんを裏切るようなことをしているかもしれないと思うと、とても・・・」

 そう言って、美雪は顔を上げた。

 「兄はもう、普通の人じゃありません。たくさんのファンがいて、期待してくれている・・・。その期待を裏切らせたくない・・・でも、兄が本当にそれを裏切るようなことをしていたとしたら、それを許すわけにはいかない・・・。そう考えると、私、どうしたらいいのか・・・」

 「・・・」

 「お二人がSMSだからといって、何もかも解決できるわけではないこともわかってます。でも・・・お二人しか、このことを全て話すことができる人はいないと思って・・・。勝手なお願いなのはわかってます。でも・・・どうか兄を助けるために・・・皆さんの力を貸して下さい!」

 圭介とひかるは、ジッとそれに聞き入っていたが、やがて圭介が口を開いた。

 「君が迷うのはよくわかるよ。俺達だって大石を信じたいし、これからも応援したい。君の不安が現実のものだったとしても、大石自信も何かの企みの被害者かもしれないんだ。でも・・・」

 と言って圭介は真剣な顔つきになった。

 「・・・わかってもらわないといけないこともある。君も言ったけど、俺達は神様じゃない。限界はあるし、手心を加えることもできない。君の不安が、最悪のかたちで当たっていた・・・つまり、大石が自分から何かの犯罪や陰謀に関わっていたとしたら、俺達や警察は、君のお兄さんを他のそんな人間と同じように・・・犯罪者として捕らえなければならない。たとえそれが、君や会長さん、それにたくさんのファンの夢や期待、信頼やほかの大事なものを裏切ることだったとしても」

 「・・・」

 「君の話からすれば、お兄さんが何かの犯罪と何らかのかたちで関わっている可能性は高いと思う。見過ごしてはおけないよ。でも、それがどんなかたちで進んだとしても、もしその結果が残念なものだとしたら、平和と秩序を守る仕事の人間として、俺達がとる行動は一つだ。そのことは・・・わかってるね?」

 圭介は美雪の目を直視して言った。やがて、美雪はうなずいた。

 「・・・はい! もちろんです。そのことを考えた上で、お話をしたんです」

 美雪の目には、強い意志がこもっていた。

 「・・・兄が頑張ってくれている理由の一つには、私を学校に行かせるということもあります。昔から兄は、私のために自分を抑えることがよくありましたから・・・。でも・・・間違ったことをしてまで、そうまでしてほしくはありません! 悪いことに手を染めてまで自分の夢を叶える兄の姿も、見たくないんです・・・。たとえ不安が最悪のかたちで当たるとしても、今のままではいられません。ですから・・・もしそういうことになったら・・・」

 「・・・わかったよ、ありがとう」

 これ以上彼女の口から言わせるのは酷だと思い、圭介はそれを遮った。

 「すいません。これ、お返しします・・・」

 美雪の返したハンカチを、ひかるは受け取ってバッグにしまった。

 「このことをどう扱うかは、今夜一晩よく考えてみるよ。もしかしたら、小隊として取り組むべき事件に発展してしまうかもしれないけど・・・いいね?」

 「よろしくおねがいします・・・」

 美雪は深々と頭を下げた。と、その時である。

 「お待たせしました。ポテトグラタンと漁師町風海鮮パエリアです」

 ウェイトレスが料理を運んできた。

 「あ、ポテトグラタンは私、パエリアはこちらへ・・・」

 ひかるは料理の配置を指示した。

 「とりあえず、食べましょう。私達も看護婦さんも、体が資本ですから食べないと・・・ね?」

 ひかるが笑顔でそう言ったので、美雪も少し笑ってうなずいた。

 「それじゃ圭介君、お先にいただきます」

 「ああ、遠慮しないでどんどん食えよ」

 圭介はそう言って、料理を勧めた。おいしそうに料理を食べる二人の姿を、圭介は微笑を浮かべながら見つめた。





 「すいません、お料理までごちそうになってしまって・・・」

 レストランから出たところで、美雪は頭を下げた。

 「辛い話させちゃった上に、ご飯代まで払わせちゃうわけにはいかないからね。気にしないでよ」

 圭介はにこやかに答えた。

 「すみません。それでは私、寮の門限もあるので、これで・・・」

 「うん、それじゃあね。辛いとは思うけど、気をしっかり持って。何かあったら電話をするし、もう一度お見舞いにも行くと思うから」

 「はい。それじゃ、おやすみなさい」

 「おやすみ」

 そう言って、美雪は二人と別れた。

 「さて、俺達もいこう。ギリギリだ」

 「そうですね」

 やがて、二人も駐車場へ歩き出した。その途中、ひかるが尋ねてきた。

 「どうするんです・・・?」

 圭介は少し黙ったが、やがて答えた。

 「ひかる・・・このまんまだと、まずいことになるかもしれない・・・」

 その言葉を聞いて、ひかるは怪訝そうな表情を浮かべた。

 「え・・・?」

 「とにかく、寮に戻ろう。考えるのはそれからだ」

 そう言って圭介はヘルメットをかぶった。





 「・・・」

 首を回すと、時計が目に入ってきた。文字盤の針は、11時半を回っている。天井の蛍光灯のまばゆい灯りをぼんやりと見上げながら、圭介は美雪から告げられた話をずっと思い返していた。それと同時に、彼は昼間仁木が話していた言葉も思い出していた。美雪が話したとき、思わずむせかえってしまったときと同じように・・・。

 (一連の自殺者、それに死亡事故、事件の被害者達には、生前今回の自殺者のように、奇妙に激しい感情の起伏が見られたという共通点があったのよ)

 「もし、あいつもそうだとしたら・・・あいつは・・・」

 大石もそうだとして、それが何によって引き起こされているかはわからない。だが、仁木達がにらんでいるように、それが薬物のためだとしたら・・・

 「それでいいのか・・・? そんなので、夢叶えたって言えるのかよ・・・」

 圭介は一人つぶやき、ゴロリと転がった。と、90°反転した視界に、サイドボードの上に置かれた電話が目に入った。

 「・・・」

 圭介はそれを見つめながら、頭に浮かんだ一つの考えを反芻していた。そして、ムクリと起きあがって、電話に手を伸ばした。

 と、唐突に、泣いていた美雪の顔が頭に浮かんだ。同時に、電話に伸ばしていた手が止まる。圭介はしばしの間、躊躇するようにうつむいていたが・・・再び手を伸ばし、受話器に手をかけた。

 「ごめん、美雪ちゃん・・・。けど、やっぱり俺も、神様じゃない・・・。一人だけで誰かを助けられるほど、一人前じゃないから・・・」

 心の中でそう謝ると、圭介は受話器を取り、内線のボタンを押してから番号を押し始めた。呼び出し音のあと程なくして、相手は電話に出た。

 「あ、副隊長、新座です。夜分遅くすいません。お休みでしたか?」

 どうしても緊張が声に出たが、寝る前の読書をしていたといつもの落ち着いた声で話す仁木の声に、圭介はホッとした。

 「はい、お話ししたいことが・・・」

 圭介はやっとという感じで話を始めた。





 一方、同じ頃・・・。関東医大病院の病室の中でも、異変が生じていた。

 「グッ・・・クッ、ウウッ・・・」

 闇の中にうめき声が響く。その中で大石は、自分の体を抱くようにしてベッドの上でうずくまっていた。

 「ちくしょう・・・もうぶり返してきやがった・・・」

 闇の中でそうつぶやく大石。その時

 prrrrrr・・・

 「!!」

 大石のウェアラブルフォンが音を立てる。液晶画面に表示された名前を見た途端、大石はそれに飛びつくようにとった。

 「もしもし・・・!」

 「こんばんは。今回も勝てたのはよかったが、災難だったね」

 電話の向こうの声は、邪気のない明るい声だった。

 「さすがに、無理をしすぎたかな? 忘れちゃ困るよ。あれは痛みを忘れさせることはできても、ダメージをなしにすることはできないんだからね」

 「そんなことはわかってる! そんなことより・・・もう痛みがぶり返してきやがったぞ! このあいだより、早くなってきてねえか・・・?」

 「それはしかたのないことだよ。君はこのあいだで九度目の投与を受けた。それだけ回数を重ねたにも関わらず、効果の持続時間が短くなってきているぐらいで済んでいるのは、君の体と精神が非情に強靱だからだ。普通なら・・・」

 と言いかけて、声は一旦止まった。

 「・・・いや、やめておこう。必要ない」

 「そんなことより・・・今度はいつあれを吸わせてくれるんだよ?」

 「時には我慢が大切だよ。今までと同じペースで投与したら、君の体がもたない。次の投与までは、今回は少し間を持たせる」

 それを聞いた大石は、思わず受話器にとびついて握りしめた。

 「なんだと!? それまでどうしろってんだよ!?」

 「君のために言っているんだ。無理をすれば、せっかく順調にいっていることの全てが水の泡になる。君の夢も・・・妹さんの夢もね・・・」

 「・・・」

 大石は強く受話器を握りしめていたが

 「・・・チッ、わかったよ・・・」

 と、吐き捨てるようにつぶやいた。

 「賢明だよ。ところで・・・次の投与をするには、君に一つ、守ってもらわなければならないことがある。そうしなければ、君に投与をするわけにはいかない」

 それを聞いて、大石は再び驚いた。

 「なに!? 俺に何をしろってんだよ!? 金か!? 金のことならいつも言ってるが、世界戦に勝ったら・・・」

 「そうじゃない。そのことなら君の言うとおり、その時になったらまとめて払ってもらうつもりさ。もっと簡単なことだ」

 声はそう言うと、一拍置いた。

 「最近君を見舞いに来ている、昔なじみがいるだろう・・・?」

 「・・・新座のことか?」

 「そうだ。彼・・・正しくは彼らは、まだはっきりとではないが、あれの存在に近づいている。そして・・・君があれを使っていることも、薄々感づき始めているようだ・・・」

 「・・・」

 「これ以上彼らが君・・・そして、僕達に近づくことは避けたい。そのために・・・これ以上彼と接触するのは、避けてほしい」

 「・・・昔からのダチを欺けってのか?」

 ためらいの表情を見せながら、大石は言った。

 「そうしなければ、彼らはきっとかぎつけてしまう。そうなれば、君も僕達も共倒れだ。そんな道を選ぶほど、君は愚かではないだろう?」

 「・・・」

 その声に、大石は黙っていたが・・・

 「わかった・・・」

 と、小さくつぶやいた。

 「ありがとう。それさえ守ってもらえれば、それでけっこうだ。次の投与はまだ未定だが、世界戦の日程が決まり次第・・・といったところかな。例によって、君は何も動く必要はない。さっき言ったことを守りながら、いつもどおりこちらからの連絡を待ってほしい」

 「ああ・・・」

 「それじゃあ、この辺で。一日も早い回復と、次の試合の勝利を祈ってるよ。おやすみ」

 それっきり、電話は沈黙した。

 「・・・」

 暗闇の中、大石はベッドの上にうずくまり、眠れない夜を過ごし始めた。





 「まさか、もう一度ここに来ることになるとはね・・・」

 ウィンディから降りながら、小島は白亜の建物を見上げてそう言った。

 「うれしくはないのかい・・・?」

 助手席から降りた亜矢が、珍しく意外そうな表情でそう尋ねる。

 「そりゃまあ、ここの看護婦さんが美人揃いだってのはうれしいんですけどね・・・。あの人のご指名ってこととなると・・・」

 小島はうんざりした顔をした。

 「よほど、ひどい目に遭わされたようだね・・・」

 「まぁ、ここを辞めた理由の一つでもありますよ、あの人は。あの人がいるなら辞めても安心ってのと、これ以上いると身がもたないってのと、二重の意味で・・・」

 小さく笑いながら言う亜矢に、小島は天を仰ぎながら答えた。そうこうしながらも、二人は病院の中へと入っていき、受付に名乗った。

 「SMS第1小隊の者です。勝呂先生からのご連絡で参りましたが・・・」

 受付の女性はすぐに取り次いでくれ、まもなく、背の高い「お姉さま系」の女医が、二人の元へとやって来た。

 「ハァイ、小島君。久しぶりね。元気してた?」

 だが、会うなり小島は彼女をにらみつけた。

 「ずいぶんなご挨拶ね。まだこのあいだのこと怒ってるの?」

 「・・・もっといい医師になりたいのなら、ああいうことをされた人間の心がどれほど傷つくか、そういうことももっと勉強した方がいいですよ」

 沙希のひどい冗談によってひどい目にあった小島は、憮然としてそう言い放った。だが、沙希は明るく笑った。

 「心得とくわ。とにかく、また会えたことを光栄に思うわ。活躍はいつも見てるわよ」

 そう言って、沙希は握手を求めてきた。

 「そりゃどうも。お元気そうでなによりですよ」

 小島は苦笑いしながらそれに返した。挨拶を済ませると、沙希は亜矢の方に向いた。

 「初めまして、桐生さん。ご足労願ってすまなかったわね」

 「いえ・・・。それよりも・・・例の事件の死亡者の遺体に・・・奇妙な特徴を見つけたとか・・・」

 二人が呼ばれたのは、そういったことからだった。一連の奇妙な死亡事件、事故の裏に、何らかの事件が関わっている可能性を感じながらも、警視庁はその有力な証拠を見つけだすことができなかった。それに対する新しいアプローチとして行われたことの一つに、死亡者の遺体の再検死があった。ただし、今回は従来とは違い、監察医務局だけではなく他の民間病院に所属する法医学にも通じた医師達による検死も行われた。そうした医師達の中には、沙希もいた。そして彼女は、どの遺体にも共通したある特徴を見つけたのだ。

 「警察の方に説明したときに一緒に説明したかったんだけど、そっちが出動中だったからね」

 「二度手間をかけさせて、すみません・・・」

 「いいのよ。さて、それじゃ行きましょうか」

 そう言うと沙希はヒールの音を響かせ、歩き出した。二人もそのあとについていく。

 「やっぱり、仏さん見せられるんですよね・・・」

 小島が少し弱ったような様子でポツリと言った。

 「そうよ。相変わらず、苦手なようね」

 「しょうがないじゃないですか」

 「一つ言っておくわ、小島君。本当に優れた医師というのはね、生きている患者さんにも死んでしまった患者さんにも、分け隔てなく接するものよ」

 「それはそうでしょうけど、先輩の言ってるのとは意味が違いますよ。俺はどっちかって言うと、仏さんを見たくないから自分の力を最大限に振るうタイプの人間ですから」

 「もちろん、それは私も同じね」

 そんなことを話しているうちに、三人は「第2霊安室」と書かれた部屋の前にたどり着いた。

 「とりあえず、ここに置かせてもらってあるの。入って」

 沙希が中に入ったので、二人も中に入った。

 パチッ

 暗い室内にあかりが灯り、うかびあがった光景。殺風景な部屋の中に、鉄でできたワゴンがいくつか置いてある。そしてその上には、白い布をかけられた物体がそれぞれ載せられている。それを見た小島は、思わずゴクリとつばを飲み込んだ。

 「さ、これにお線香お供えして、手を合わせて」

 いつのまにか火をつけた線香と線香立てをもって、沙希が言った。

 「は、はい・・・」

 「・・・」

 珍しく緊張した様子でそれに従う小島と、相変わらず無表情で淡々とこなす亜矢。それを終えてから、沙希は言った。

 「ここに持ち込まれた遺体は他にもあったけど、とりあえずその特徴が確認できる遺体だけをここに持ってきたわ。覚悟はいいわね?」

 沙希がそう言ったので、二人は黙ってうなずいた。

 「それじゃ・・これからいこうかしら。一番ハッキリ確認できるから・・・」

 そう言って、沙希がサッと布を取り去った途端・・・

 「!!」

 バタン!! バタバタバタ・・・

 小島は口を押さえ、慌ただしく出ていってしまった。二人はそれを黙って見ていたが、やがて沙希が遺体を見ながら言った。

 「・・・しかたないかもね。正直、人間の形じゃないもの・・・」

 亜矢は黙っていた。

 「意外だったわ。慣れているの?」

 「いえ・・・。ただ・・・」

 「ただ?」

 「こんなことが起こってしまったことを悲しむ方が・・・先ですから・・・」

 「優しいのね・・・」

 先はそう言って微笑んだ。二人がそのまま待っていると、やがて小島はヨロヨロと中に入ってきた。

 「うぅ・・・昼飯全部戻しちゃいましたよ。ごめんよ、ひかるちゃん・・・」

 せっかく昼食に本格洋食店並の絶品オムライスを作ってくれたひかるに、小島は心の中で謝った。

 「ひどいじゃないですか先輩! いくらなんでも、こんなのいきなり見せられたんじゃ・・・」

 「「こんなの」なんて呼ばないの。私達と同じで、このあいだまで息も吸ってたし、笑ってもいた人なんだから」

 「す、すいません。けど・・・」

 「我慢できればけっこう。ダメだったとしても、一度全部出しちゃったらあとは集中して見ることができる。そう思ったんだけど・・・」

 サラリと言う沙希。

 「相変わらず、ひどい人だ・・・」

 小島は苦笑したが、すぐに遺体に目を向けると、真剣な顔になった。

 「たしかに、もう心配はいりませんね。さて、始めましょうか・・・」

 沙希はうなずき、ビニールの手袋を両手に着け、遺体に近づいた。

 「しかし・・・ひどいですね、こりゃ。どんな最期を?」

 顔をしかめながら小島が尋ねる。

 「あなた達がこの間見に行ったっていう飛び降り自殺の人よ。37階から飛び降りたんですもの。無傷で残った部分があったのも奇跡的よ。しかも、その部分にその特徴があったんだから、まさに不幸中の幸いね・・・」

 「それで・・・その特徴というのは・・・」

 亜矢が肝心の質問をした。

 「うん。ちょっと意外なところだけど・・・ここよ」

 そう言って、沙希が指さしたのは・・・

 「・・・へそ?」

 そう。そこはほ乳類のみがもつ身体的特徴の一つ、へそだったのだ。

 「へそがおかしいって・・・どういうことです?」

 意外なことを言われ、小島は首を傾げた。

 「これで拡大して確認してみてごらんなさい」

 沙希は答える代わりに、ルーペを小島に手渡した。すぐにそれを手に、注意深く遺体のへそを見る小島。

 「・・・どう?」

 声をかける沙希。

 「どうっ?て言われても・・・でも、あえて言うなら・・・」

 口ごもりながらも、小島は言った。

 「薄いけど、妙なあとがついてますね、へその周りに・・・」

 小島の言うとおり、へその周りにはうっすらと、リング状にあざのような奇妙なあとがついていた。普通なら見落としてしまうほどの些細なものだった。

 「そう。おかしなあとでしょう? 吸盤か何かをへそに当てて吸い込んだか、逆に強く押しつけたのか・・・。どっちにしても普通に暮らしていれば、こんなところにこんなあとはつかないわよ」

 「・・・」

 亜矢はルーペを小島から受け取り、まじまじとその箇所を観察した。

 「たしかにそれはうなずけますけど・・・証拠って言うには、弱いんじゃないですか?」

 「この遺体一つに見られることなら、そうも言えるわ。でも、これから見てもらうけど・・・他の遺体にも、程度の差はあるけど同じような痕跡が見られるとしたら・・・?」

 小島がその言葉に嫌悪と驚きの入り交じった複雑な表情を浮かべたときだった。

 「これは・・・ただの圧迫痕ではありませんね・・・」

 亜矢がポツリと言った。

 「え?」

 「見ただけでわかったの? すごいわね」

 沙希が驚いた表情で言った。

 「このあざの色・・・ただの圧迫による内出血だけでなく・・・化学物質による色素の沈着も見られます・・・」

 それにかまわず、亜矢は自分の見た結果を口にした。

 「化学物質!? ほんとうなんですか?」

 「ええ。へそのまわりの細胞組織をちょっと失敬して、調べてみたら化学物質の濃度が他の部分に比べて異常に高濃度だったわ。こんなの、普通じゃないわよ」

 「そ、その化学物質ってなんなんですか!? まさか、毒物!?」

 「うん、そこのところが、なんともねぇ・・・」

 沙希は髪を掻き上げながら表情を曇らせた。

 「おかしいのよね・・・。そこに集中しているのは、ナトリウムとかカルシウムとか、もとから人体にある物質ばかりなのよ」

 「そ、そうなんですか・・・。それじゃ、毒物にはなりませんね」

 「度を過ぎなければね。この物質が死の原因になったとは考えにくいけど、へその周りにそんな物質が集中していたというのが異常なのには違いない。これをどう解釈したらいいのか、その判断を、あなた達にも任せたいんだけど・・・」

 小島と亜矢は、顔を見合わせた。





 その日の午後、同じ病院を尋ねた男がいた。圭介である。もちろん、大石を見舞うためであるが、彼は今、目の前に立つ美雪から聞かされた思いも寄らないことに目を丸くしていた。

 「来るなって・・・大石が?」

 驚きの表情のまま言う圭介に、美雪はすまなそうな顔でうなずいた。

 「すいません。でも、どうしても聞かなくって・・・。顔も見たくないとか言ってるんです。昨日までは、そんなこと絶対に言わなかったのに・・・」

 「もしかして、また機嫌が・・・?」

 「そうかもしれません。でも、他に理由があるような・・・。確かに変ですけど、いつもとはまたちょっと違うような気がするんです」

 「ふむ・・・」

 圭介は考え込んだ。

 「すいませんけど、今日は言うとおりにした方がいいと思います。無理に行ったら、何をされるかわかりませんから・・・。なんとか説得してみますから、今日のところは・・・」

 すまなそうに頭を下げる美雪。圭介は苦笑いをして答えた。

 「わかった。今日はこれで戻るよ」

 「すみません」

 「その代わりといってはなんなんだけど・・・ちょっと、頼み事をしてもいいかな?」

 「はい、なんですか?」

 「これなんだけど・・・」

 そう言って圭介が取り出したのは、銀色の筒だった。ステンレスでできた魔法瓶式の水筒である。

 「ひかるが作ってくれたんだ。うちには漢方にも詳しい人がいて、その人のアドバイスを受けて作ったらしいんだけど、薬膳茶が中に入ってる。自然治癒力の促進と、精神安定の効果があるらしい」

 「あ、ありがとうございます! 必ず兄に飲ませますから・・・」

 そう言って、水筒を受け取る美雪。が、さらに圭介は続けた。

 「いや・・・飲んでほしいのはもちろんそうなんだけど・・・」

 なぜか言いにくそうに言う圭介に、美雪は首を傾げた。

 「いやなことやらせちゃうけど、お願いできるかな・・・」





 「お兄ちゃん、入るわよ」

 「おう」

 美雪はドアを開け、病室の中へと入った。

 「新座は帰ったか?」

 ぶっきらぼうな声で言う大石に、美雪は怒ったような顔で後ろのドアを閉めた。

 「どういうつもり? せっかくお見舞いに来てくれたのに、追い返すなんて・・・」

 「うっせえな・・・。こないだ来たからいいじゃねえか」

 「そういう問題じゃないでしょ!」

 「いいんだよ・・・。そんな気分じゃねえんだ」

 美雪はそんな兄を見てため息をついた。と、大石の目が彼女の持っているものに止まる。

 「おい、そりゃなんだよ?」

 「新座さんのお見舞い。お兄ちゃんの心配して、服部さんの作った薬膳茶をもってきてくれたんだよ?」

 「余計なものを・・・。見舞いにまで薬持ってくることねえじゃねえか・・・」

 そんなことを聞かずに、美雪は水筒を開けてコップに茶を注ぎ始めた。漢方を使っているだけあり、普通のお茶とは違う匂いが漂う。

 「さあ、早速飲んでみてよ。体にいいんだから」

 「いらねえよ、そんなもん・・・」

 「そんな言い方ないでしょ!? せっかく作って持ってきてくれたのに!!」

 すさまじい剣幕で怒鳴る美雪。その勢いに圧倒され、大石は渋々うなずいた。

 「わかった。わかったよ。飲みゃいいんだろ・・・」

 美雪はうなずくと、コップを持ったまま大石に向かって歩き出した。と、その時である。

 ガッ

 「キャッ!?」

 突然何かにつまづき、美雪は倒れ込んだ。当然、手に持っていたコップは宙を舞い・・・

 バシャアッ!!

 「なっ!? なにすんだてめえ!!」

 中のお茶は、すべて大石のパジャマの胸にかかってしまった。

 「ご、ごめん! すぐに拭くから!!」

 一瞬呆然としていたが、慌てて駆け寄る美雪。だが・・・

 「あーもー! もういい! もううちに帰れ!!」

 大石はひどく怒った様子で、それを拒絶した。

 「で、でもやけどしてたら・・・」

 「いいからさっさと帰れ!!」

 バンッ!

 サイドボードの上に置かれていた美雪のハンドバッグを投げつける大石。

 「!・・・」

 美雪は例えようのない表情をして大石を見つめていたが、やがて、何も言わずに病室から出ていってしまった。

 バタン!!

 背後で閉まったドアにもたれかかったまま、美雪はズルズルとへたり込んでしまった。

 「ま、まさか・・・本当に・・・」

 美雪はうわごとのように、そうつぶやいていた。





 それから少ししたあと。圭介はウェアラブルフォンで、誰かと話していた。その隣では、ひかるが心配そうに見つめている。二人とも勤務が終わったばかりで、着替えて出てきたところに電話がかかってきたのである。

 「・・・そう、わかった。ありがとう。悪かったね、お兄さんを怒らせるようなことをさせちゃって・・・」

 電話の向こうの声に対して、圭介はそう答えた。

 「・・・うん。とりあえず、そうだったってことがわかればそれでいいんだ。まだ確信があるわけじゃないけど・・・うん・・・。とりあえず、落ち着いて。心配はいらないから。・・・うん。それじゃ」

 そう言って、圭介は電話を切った。途端に、ひかるが尋ねてくる。

 「どうだったんですか? やっぱり・・・」

 その問いに対して、圭介は無言でうなずいた。

 「そうですか・・・」

 ひかるが残念そうにうつむく。

 「悪かったな、せっかくお前が煎れてくれたお茶をこんなことに使っちゃって。他にいい方法が思いつかなかったから・・・」

 「それは別にいいですけど・・・。そんなことより」

 「ああ、わかってる。見舞いに来た俺を急に追い返すようになったり・・・もしかしたら、俺達が思ってるよりずっとまずいことになってるのかもしれない・・・」

 圭介もそう言って眉をひそめた。と、その時である。

 「お疲れさま」

 振り返ると、少しおしゃれな白いスーツに身を包んだ仁木が立っていた。

 「あ、お疲れさまです、副隊長」

 「がんばっているようね。あ、そうだわ。今さっき入ってきたばかりの知らせだけど・・・」

 そう言って、仁木は二人の顔を交互に見た。

 「自殺者がまた出たそうよ。広尾で」

 その言葉に、圭介とひかるはさらに表情を暗くした。

 「・・・大丈夫なのね?」

 圭介の目をのぞき込んで言う仁木。圭介は力強くうなずいた。

 「・・・はい! あいつのことは、俺に任せておいて下さい」

 仁木はその言葉にうなずいた。それを見ると、圭介はひかるに顔を向けた。

 「悪いけどひかる。今日は、一人で寮に戻ってくれないか?」

 「え? ええ・・・かまいませんけど」

 「悪い。それじゃひかる、副隊長、お疲れさまでした」

 そう言うと圭介は、そそくさと走り去って行ってしまった。それを見ながら怪訝な顔をする圭介に、仁木は語りかけた。

 「大丈夫よ。新座君は変なところに行ったりしてるわけじゃないから」

 心の中を見透かされたようでひかるは驚いたが、すぐに質問を返した。

 「副隊長は、最近圭介君が仕事が終わった後どこに行っているのか、知ってるんですか?」

 「ええ」

 「教えて下さい! 朝になると顔にアザができてたり腫れてたり、心配なんです」

 仁木は苦笑しながら言った。

 「ごめんなさい。言うとあなたがますます心配するだろうからって、口止めされているのよ」

 「ひどいです・・・」

 「無理なお願いかもしれないけど、心配はしないで。危ないことをしているわけじゃないし、隊長や私の了解を取ったうえで動いているんだから。今は大石さんを助けることに集中している。新座君のことを考えるなら、今は彼を信じてあげて」

 「・・・わかりました」

 コックリとうなずくひかるに、仁木は微笑を浮かべた。





 それから、20日ほどの時間がたった。その間に大石は完全に回復し、一週間後に決まった世界王者戦に向けての調整を開始した。一方、謎の死亡事件については事件の引き金となっているらしい謎の薬品について焦点が絞られ、着々と調査が進んでいった・・・。





 東京・新橋。多くの会社員達でにぎわう繁華街の一角に、それほど高くない一軒の古いビルが建っていた。数件の会社が入っているが、その中の一つに、「竹中商会」という名の会社が入っていた。もっとも、社員達以外の出入りはほとんどない、半ばほとんど忘れられたような会社である。表札もなく、開店休業状態といった感じだ。

 室内は最近の主流となっているおしゃれなオフィスとは全くの無縁で、必要最低限のものしか置かれていない。時間に取り残されたかのようなこの会社の応接室で、一人の男がくたびれたソファーに座り、テレビを見ていた。

 「・・・区赤坂で、17:30頃飛び降り自殺がありました。現場は20階建ての会社ビルで、飛び降りたのはこのビルに入っている三丸銀行赤坂支店の社員、斉藤潔さん・・・」

 男はテレビに表示された名前を見て、目の前の応接机の上に置かれていたリストを見た。その中には確かに、今テレビの中のアナウンサーの言った名前が含まれていた。顔をしかめる男。と、その時

 コンコン

 ドアをノックする音がした。

 「入ってくれ」

 男が低い声でそう言うと、一人の青年が入ってきた。

 「どうも。ご機嫌はいかが?」

 笑顔を浮かべながら入ってくる青年。しかし、男はもともと強面の顔をさらに渋くして、青年を黙って見つめるだけであった。

 「何か嫌なことでもあったかな? 怖い顔がますます怖くなってるよ」

 男が誰なのかを知っていれば、普通はこんな口のききかたはできない。だが、彼はそれを知っているにも関わらず、そう言ってクスクスと笑った。男は不機嫌そうなまま、リストを彼に見せた。

 「今テレビのニュースを見ていた。また一人、死んだそうだぞ。これで何人目だと思ってる?」

 「まだ三桁には達していないはずだけど?」

 青年はこともなげに言った。

 「仕方がないでしょう。あれを使った人間は、どのみちああなってしまうんだから。それに、死んだ人間は誰も彼も、極楽のような気分で死ねたはず。気にする必要はないよ。代金も回収済みなんだろう? それとも・・・あんなものを売っているというのに、いまさら良心がとがめているとでもいうのかい?」

 「「薬」ならずっと昔から売っている。俺が気にしているのは、そんなことではない」

 男は少しいらだった様子で言った。

 「「薬」ってものは、売り続けてこそ利益が得られるもんだ。それがなんだ、あの薬は? 使った奴が死ぬたびに、俺達は新しい客を探さなければならないんだぞ!」

 「今言ったばかりでしょう。どのみちああなってしまうと。それにあれは・・・「ヘソリンガス」そのものの作用ではなく、それを吸った結果生じる作用だ。「ヘソリンガス」そのものに罪はない。新しい客だって、いくらでも探せるだろう。この「痛み」に満ちた世の中、それにうんざりしている人間は掃いて捨てるぐらいいるんだから」

 青年の口調は、全く悪びれていなかった。男はなおも言う。

 「何と言おうと、結果は同じだ! それにだ、そのせいで警察やSMSに不審を抱かせてしまっているじゃないか!」

 「たしかに彼らは感づき始めているけど、まだ僕達の近くにまでは及んでいない。もう少しこの商売を続けることはできそうだよ」

 そう言うと青年は、男の目を見て言った。

 「僕はね、竹中さん・・・。今の僕達の関係を、とても良好だと思ってるんだよ。この関係を、もっと長く続けたい。今の関係は、お互いにとって多くの利益をもたらしている。あなたも初めて会ったときより、ずっとましな暮らしを送れるようになったじゃありませんか」

 「・・・」

 竹中と呼ばれた男は、何も言わなかった。

 「たしかに警察は着実に真相に近づいてきている。けど、まだ稼げるはずだ。お金を稼ごうと思うのなら、もっと強気でいかなきゃ」

 「・・・何の用で来た?」

 竹中はそれを無視して、青年をにらみながら言った。

 「そうそう、そのために来たんだよ。大石の試合日程が決まったよ」

 「・・・いつだ?」

 「ちょうど一週間後。だからまた、投与をしてあげたいと思ってね。また何人か、おたくのところの手を貸してもらいたくてね」

 「・・・好きにしろ。それにしても、奴はずいぶん長くもっているな?」

 「驚異的だよ。こっちも驚いている。ここまでこぎ着けるまでもってくれたのは、こっちとしても嬉しいよ。それじゃあ、また代金はこっちから振り込もう。それじゃあ・・・」

 そう言うと青年は、入ってきたときと同様にさっさと出ていってしまった。

 「・・・」

 竹中はそのまましばらくジッとしていたが、やがてソファーから立ち上がり、応接室から出ていった。と、そこに入り口から入ってきた部下と顔を合わせることになった。

 「どうも、社長。今さっきそこで、「お坊ちゃん」とすれ違いましたけど」

 「ああ・・・来ていた」

 不機嫌そうに言いながら、自分の席に座る竹中。

 「いつもヘラヘラ笑って、いけすかねえガキですね。あんなのの言いなりになってるってのは、ほんと・・・」

 「言うな!」

 竹中は激しい調子でそう言った。

 「す、すんません・・・」

 途端に小さくなる部下。竹中はため息をつきながらつぶやいた。

 「言われんでもわかっとる。だがな、「薬」の作り方が奴の頭の中にある以上、飯の種を手放すわけにはいかないじゃないか・・・」





 一方同じ頃。勤務あけ間近になって亜矢が持ち込んできた知らせによって、SMS第1小隊のメンバーは全員オフィスに集合していた。

 「それでは、よろしいですね・・・?」

 大型ビジョンの前に立って静かに尋ねる亜矢に対して、一同は黙ってうなずいた。

 「それでは、はじめます・・・。一連の不審な連続自殺、死亡事件、事故の原因として・・・我々が仮定し捜査してきた謎の薬品・・・。科警研、警察嘱託の民間研究所、それにSMS鑑識部の合同研究により・・・ようやく判明しました。正体は・・・これです」

 そう言って亜矢が端末のスイッチを押すと、ビジョンに複雑な化学構造が表示された。

 「あ、あの・・・亜矢さん・・・」

 戸惑った様子で、聡美が言った。

 「こんなの見せられても、あたし達にはちんぷんかんぷんなんだけど・・・」

 その言葉に、小島を除く全員がうなずく。

 「もちろん・・・すぐに説明するよ」

 亜矢はうなずくと、説明を続けた。

 「この化学物質は・・・多数の被害者の血液サンプルの中から・・・偶然に発見されたものです。もちろん・・・自然界に存在する物質ではありません・・・。構成する原子同士の結びつきが非常に脆く・・・ちょっとした化学反応でも・・・すぐに分解されてしまいます。こうして完全な状態で発見されたのも奇跡的で・・・今まで発見されなかったのも・・・うなずけますね・・・」

 「なるほど? それで、肝心の作用の方は?」

 小隈の声を受けて、説明を続ける亜矢。

 「はい。恐ろしいものです・・・。疑似電子人体モデルを使って・・・投薬実験をした結果なのですが・・・」

 疑似電子人体モデルというのは、いわばコンピュータ上に忠実に再現された人体である。人体に関する様々な研究の集大成として、膨大な時間と予算をかけて10年前に完成したもので、現在もデータを追加しながらさらに本物の人体へと近づいている。なんのためにこんなものが作られたかと言えば、それは倫理上問題のある、人間を被験体として使用する実験、すなわち、人体実験を行うためである。倫理的側面からその危険性や非人道性ばかりが叫ばれる人体実験であるが、より安全な薬品を作るためにも、人体に投与した場合のデータに勝る正確なものはない。動物実験では異常がなくても、人体に投与すると深刻な事態を引き起こす欠陥をはらんだ薬品もあるのである。この問題を解決するために、薬のデータを入力することでそれに対する人体の反応を返してくる出力装置、というコンセプトで作られたのが、疑似電子人体モデルである。事実、この開発によって世の中に出回る医薬品の安全性が飛躍的に高まったことは疑いようがない。疑似電子人体モデルに対する投与テストの結果危険性の見られた薬品は、その時点でシャットアウトされるのだから、かつては社会問題にもなっていた薬害事件も、現在では全く起こらなくなっている。

 「この化学物質を投与されるとどうなるか・・・。端的に言ってしまえば・・・「痛み」を感じなくなるのです・・・」

 「それって、麻酔ってことですか?」

 だが、亜矢はひかるの言葉に首を振った。

 「近いけれど・・・そうじゃない。この薬品が消し去るのは、体の痛みだけじゃなく・・・心の痛みもなんだよ・・・。この薬を投与されると・・・あらゆる「痛み」を感じなくなってしまうんだ・・・」

 「おっそろしい薬ですね。痛みってのは危険を知らせる信号で、ある意味一番大事な感覚だってのに・・・」

 小島が顔をしかめてそう言う。

 「火の熱さを感じなきゃやけどする。ひどい病気にかかっても、痛みを感じなければ死ぬまで気がつかない・・・か。予想以上におそろしいものが関わっているようだな」

 小隈がうなずく。

 「心の痛みも感じないとしたら、そっちの方はもっと深刻だな。普段知らずのうちに自分達の行動を律している良心とかモラルとかいうものまで塗り込められたりしたら・・・」

 「死亡事件のためにあまり目立ちませんでしたが、同時期に窃盗や強盗、傷害や殺人といった犯罪も増加しています。この薬物が関わっているものも、その中にあるかもしれません」

 仁木がそう報告した。それを一段落として、亜矢が再び口を開く。

 「さらに・・・この薬物には、もう一つの効果が存在します。それがもとから仕組まれたものなのか・・・それとも・・・痛覚の喪失による二次的効果なのか・・・詳しい分析をしなければわかりませんが・・・」

 そう言って、亜矢は続けた。

 「その効果とは・・・一言で言えば・・・気分の高揚・・・。幸せな気分になり・・・気が大きくなる、ということです・・・」

 「痛みを感じないから、自分が無敵と思いこむ。その果てに・・・無茶な自殺や自殺同然の無謀な行為、それに、犯罪・・・そういうことですか?」

 圭介の言葉に、亜矢が無言でうなずく。

 「パズルが、つながったようだな・・・」

 小隈は煙草を吸い、スーッと煙を吐き出した。

 「さらにもう一つ・・・この化学物質には・・・忌むべき性質があります・・・」

 亜矢は静かに先を続けた。

 「この化学物質には、耐性・・・すなわち、回数を重ねる毎に・・・同じ量で同じ効果を得られなくなる性質・・・それと、依存性という、二つの性質も見られます。一定時間がたち、効果が切れると・・・再び痛みが襲ってくる。それがいやで・・・というように」

 「耐性と依存性って・・・それじゃまるっきり・・・」

 「そう・・・麻薬や覚醒剤と・・・同種のもの・・・と思っていいだろう・・・」

 小島の言葉を継いで、亜矢が言った。

 「なんてこった・・・。こんなもんが生まれちまうなんて、世の中は俺達が思ってる以上に、病んでるのかもしれないな・・・」

 小島が静かに言った。

 「・・・許せない話ですよ」

 圭介が静かな怒りのこもった声で言った。

 「作ったからには、作った連中は吸った人間が最後にはそうなることを知ってるはずです。それを承知で、人を死に追いやる薬物を売りさばくなんて・・・」

 誰も何も言わなかったが、心の中は圭介と同じだった。代表するように、小隈が言う。

 「・・・一刻も早く止めなければ、犠牲者が出るばかりだ。桐生、捜査の進展状況は?」

 「問題の薬物が・・・非常に特徴的であることが・・・幸いしています」

 亜矢はそう答えた。

 「先ほど、構造が脆いと言いましたが・・・この化学物質の特徴として、ナトリウムやカルシウムなど・・・人体に本来含まれる物質だけで構成されている・・・という特徴があります・・・。この物質は脳内に取り込まれると・・・「痛み」に関する部分をマヒさせると同時に・・・特殊なホルモンを分泌させます。そのホルモンが全身に流れると・・・その作用で構成原子同士のつながりがはずれ、バラバラになり・・・あとには、もとから人体に存在する物質だけが残ります・・・」

 「証拠隠滅も完璧、ってことか・・・」

 「はい。逆に考えれば・・・これほどよくできた化学物質を作り出せる人間は・・・かなり限られてくる・・・ということです」

 「なるほどな。そんな人間達を、片っ端から当たっている、というところか」

 「はい。これほどの技術を・・・よいことに役立ててくれないことが・・・残念で仕方がありませんが・・・」

 その言葉通り、亜矢は珍しく感情を強く表情に出していた。

 「残念なのは・・・俺も同じですよ」

 と、圭介がポツリと言った。

 「今の説明を聞く限り・・・たぶん、大石は・・・」

 「圭介君・・・」

 ひかるが心配そうに見つめる。

 「元気を出せ、新座。まだ手遅れと決まったわけじゃない」

 それを励ますように、小隈が言った。

 「そのために、今日までいろいろやってきたんだろう? それをムダにするな。いいな?」

 「・・・はい!」

 圭介は、力強くうなずいた。





 それから五日後の深夜・・・。静まり返った住宅街に、一軒のマンションが建っていた。

 カチャ・・・

 その一部屋の玄関のドアが明き、一人の男が顔を出して、キョロキョロと辺りをうかがった。大石である。人気のないことを確認すると、彼はそそくさと階段を下り、マンションの玄関から出ていった。そこで再び人がいないことを確認すると、彼は夜道を歩き出そうとした。と、その時である。

 「・・・やはり、今夜だったか・・・」

 「!?」

 突然闇の中から声がしたので、大石はビクンと体を引きつらせ、立ち止まって辺りを見回した。すると・・・

 スッ・・・

 路地の細い曲がり角から、一人の青年が姿を現した。その顔を見て、大石は驚いた。

 「に、新座!?」

 おびえた様子を見せる大石。しかし、圭介はニコリともせず、黙って大石を見つめた。

 「こんな夜中に、なんでこんなところに・・・」

 「少し、な・・・。そんなことより、お前こそどうした? 顔色が悪いぞ」

 街灯に照らされる大石の顔を見ながら、圭介は静かに言った。なぜか片手には、何かの入ったナップザックを持っている。大石はさらにうろたえた様子を見せたが、すぐに怒ったような表情になり、足を踏み出す。

 「・・・関係ねえよ。かまってるヒマはねえんだ。急いでるんだからよ・・・」

 ザッ・・・

 「その前に、聞きたいことがある・・・」

 だが、圭介は素早くその前に立ちふさがった。

 「な、なんだよ・・・」

 「前に、お前のところに持っていったお茶・・・覚えてるな?」

 「おう。やけに苦かったけど」

 「そうか・・・。美雪ちゃんから聞いたが・・・美雪ちゃん、あれをお前の体の上にこぼしちゃったそうだな・・・」

 「あ、ああ・・・。派手にな」

 「そうか・・・」

 圭介はそう言うと、少しうつむいてから言った。

 「その時、妙なことを言ってたんだが・・・。お前、お茶をかけられたことには怒ったが、全然熱がらなかったそうだな・・・」

 「!!」

 「あれ、ゆうに50度は超えてたぞ? それをかぶって、とても平気なふりができるわけがない・・・」

 その言葉を聞くと、大石はヨロヨロとあとずさった。

 「お、お前、やっぱり・・・」

 「そうだ。だいたいのことは知っている。お前が今まで何をしてきたか、これからどこにいくか・・・」

 圭介はそう言った。

 「お前の様子がおかしいことは、美雪ちゃんから聞いた。お前のような人達が増えていることが問題になっていたから、悪いが、ちょっと試させてもらった。わざと熱いお茶をかけてお前が正常な反応・・・「熱がる」という反応を見せるかどうか・・・」

 「チィッ!!」

 その言葉を最後まで聞かずに、突然大石は走り出そうとした。だが・・・

 スッ

 ドザァッ!

 「ぐはっ!」

 圭介が突き出した足につまづき、大石は上半身から地面に倒れ込んだ。

 「悪いが、ここまで知った以上、これ以上お前の好きにさせるわけにはいかない」

 そんな大石を見ながら、圭介は言った。と、その時である。

 「オラアッ!!」

 シュッ!!

 「ッ!」

 大石は立ち上がりざま、強力なパンチを繰り出してきた。圭介は上半身をそらしてなんとかそれをかわし、後ろに飛んで体勢を立て直した。

 「知られちまったんなら、しょうがねえ! どうしてもいかせないんなら、いくらお前でもぶっつぶして先に進むぞ!!」

 歪んだ笑いを浮かべながら、両の拳を固めて叫ぶ大石。

 「・・・」

 が、圭介はそれを黙って見つめると、手に持っていたナップザックをあさり、中から取り出したものを大石に投げ渡した。

 ボスッ

 「!? な・・・こりゃあ・・・」

 それはボクシングのグローブだった。

 「つけろよ。どうせ殴られるんなら、それを着けてもらった方が楽だ。その代わり・・・」

 圭介はそう言うと、自分もナップザックの中から取り出したもう一つのグローブをつけた。

 「こっちも条件は同じにさせてもらう」

 「へっ・・・何の冗談だよ?」

 薄笑いを浮かべながら、大石は言った。

 「冗談がうまいと誉められたことは一度もないな」

 圭介はニコリともせずそう言った。

 「どうしても行きたいって言うんなら、好きにしろ。もうすぐ世界戦に挑むような奴だ。俺をつぶして先に進むなんて簡単なことだ。そうだろ?」

 挑発するような圭介の言葉に、大石は口元を歪ませ、グローブをつけはじめた。

 「ずいぶんでかいこと言ってくれるじゃねえか・・・。知ってるならわかってるだろ? 俺は今最悪の気分で、それを治すためにこれから出かけるんだって・・・。お前こそ、見逃すなら今だぜ?」

 「・・・」

 だが、圭介は黙って首を振り、グローブのつけられた両手を持ち上げた。大石はそれを見て、やれやれと首を振った。

 「・・・バカだよ、お前」

 そう言うが早いか、大石はすさまじい右フックを繰り出してきた。





 ドスッ!!

 「ック・・・!」

 とっさに胸をかばった右腕に、鋼鉄のハンマーで叩かれたような鈍い痛みが走る。それをこらえながら、圭介はすばやくあとずさって続けての攻撃をかわした。

 「やけにもつじゃないか、新座! もっと簡単につぶせると思ったのに、意外だぜ!!」

 笑いながら言う大石。大石と拳を交え始めた圭介だったが、当然プロである大石に対して、防戦一方となっていた。

 「・・・」

 「だがな! そういつまでも遊んじゃいられないんだよ! とっとと終わらせて、あいつらのところまでいかせてもらうぜ!!」

 そう言うが早いか、大石は圭介にラッシュを仕掛けた。

 ドガドガドガドガドガッ!!

 「グッ! ウウッ!!」

 必死になってガードし、それを防ぐ圭介。やがて、ラッシュは収まったが・・・

 「クッ・・・」

 圭介は、度重なるパンチの応酬を受け、右手を片膝についてようやく立っているという状態だった。と、肩で息をつきながら、圭介が何かつぶやきはじめた。

 「強いじゃないか・・・」

 「ん?」

 「強いって言ってるんだよ・・・。さすがに、世界王者に手をかけるだけあるな・・・」

 「そりゃどうも・・・っ!」

 ブンッ!

 そう言うと、大石は強烈な右ストレートを繰り出した。

 ボグッ!!

 「!!」

 ドサッ・・・

 まともにそれを食らってしまい、地面に倒れ込む圭介。

 「へっ、見たかよ。それじゃ、約束通り先へ行かせてもらうぜ・・・」

 そう言って、その場を去ろうとする大石。だが・・・

 「・・・待てよ・・・」

 「!?」

 驚いて大石が振り返ると、圭介はヨロヨロと立ち上がった。

 「10カウントもとらないうちに、勝ったつもりかよ・・・」

 切れた口の中からペッと血を吐き出し、圭介は言った。

 「今のは効いたよ。気を失いかけた。だけどな・・・」

 「・・・」

 「・・・こんなパンチが出せるのに・・・なんであんなものに頼ったんだ?」

 「!!」

 それを聞いた途端、大石は圭介に向かって突進した。

 「うおおおおっ!!」

 ズンッ!!

 「!! ゲホッ・・・!」

 強烈な一撃を腹に浴び、圭介は身を折ってくずおれた。

 「わかったかよ・・・。死にたくなかったら、もう立ち上がんな」

 大石は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返した。が・・・

 「やなこった・・・」

 「!?」

 振り返ると、再び圭介は先ほどよりもやっとという感じで、満身創痍の体を立ち上がらせた。

 「お、お前・・・なんで・・・!?」

 訳が分からないといったような表情で、大石がそう言った。それを聞いて、圭介は苦痛の入り交じった笑みを浮かべた。

 「どうした・・・怖いのか? 安心したぜ・・・お前はまだ、「怖い」ってことを知ってる」

 「だ・・・黙れぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 野獣のように叫びながら、再び大石は突進した。が・・・

 スッ・・・

 圭介はかがんで大石の繰り出したストレートをかわし、同時に、左の拳を大石のみぞおちに叩き込んでいた。

 「!! ガッ・・・! ガハァッ・・・!!」

 みぞおちを中心に、すさまじい激痛が大石の体を走る。大石は地面に転がり、悶絶した。その様を見下ろしながら、圭介は言った。

 「痛いかよ・・・また安心した。だけどな・・・」

 「グゥッ・・・!」

 大石はうなりながらも、立ち上がった。

 「当たり前だろ、そんなこと。殴られれば痛いなんて・・・」

 「うああああああああああっ!!」

 発狂したように叫びながら、大石は圭介に殴りかかり、拳を振るい続けた。が、先ほどまでのようなパンチの正確さはない。圭介はあるものはかわし、あるものは腕で受け流しながら、それに対応した。

 「当たり前なんだよ、そんなことは。そんな当たり前のことから逃げて、お前は・・・」

 圭介は一歩退き、腰に力をためた。

 「お前は、夢叶えようなんて・・・あまったれるなっ!!」

 ブンッ!!

 圭介はそう叫ぶと、一気に左の拳を突き出した。

 ボグッ!!

 「!? ッグゥ・・・!!」

 ドサッ・・・

 完璧なまでの左ストレートが決まり、大石は地面に倒れた。

 「グ、グゥ・・・」

 うめきながら、立ち上がろうとする大石。しかし、痛みで力が入らない。圭介は彼を見下ろした。

 「わかったか・・・。お前は・・・不死身なんかじゃない。痛みも感じるし、体が傷つきもする・・・。ただの・・・人間だ」

 圭介はつぶやくようにそう言った。

 「あ・・・あああ・・・」

 その途端、大石はその場にしゃがみ込んだまま、体を折ってその場に泣き崩れた。

 「・・・」

 圭介はそれを黙って見つめていたが、やがてフラリとよろけると、ぺたりと地面にへたりこんでしまった。その直後・・・

 シュウウウ・・・

 空気音をたて、一台の緑色のエアカーが二人のすぐ側に停まった。

 「圭介君!!」

 「お兄ちゃん!!」

 その途端、飛び出すようにひかると美雪がその中から出てきて、圭介と大石にそれぞれ駆け寄った。

 「よう、ひかる・・・見てたか? だから言ったろ・・・心配すんなって」

 ひかるに支えられながら、圭介は力なく笑った。

 「はい・・・。頑張ったんですね、圭介君・・・」

 涙を必死でこらえながら、ひかるはその言葉にうなずいた。と、ドアを閉める音がして、小隈が二人に近づいてきた。

 「ナイスファイト。しっかり見てたぞ」

 小隈はそう言って、少し視線を上げた。小さなプロペラでホバリングする球体・・・SMSの使用する無人探査カメラが、静かに浮いていた。

 「おー、いい顔になったな。男の勲章だらけだ。特別手当て、頼んでみるよ」

 笑いながらそう言う小隈に、圭介は首を振った。

 「いりませんて。そんなことより・・・」

 圭介はそう言って、首を回した。四人の視線が、美雪にすがりつくようにして泣いている大石へと注がれた。





 消毒水を口に含んだ途端、口の中にピリリと鋭い痛みが走る。顔をしかめてそれを我慢しながら圭介はグシュグシュと口の中をゆすぎ、洗面台に吐き出した。赤い色の混じった消毒水が、排水口に吸い込まれていった。

 「痛そうです・・・」

 横で消毒水の瓶を持ったまま顔をしかめるひかる。タオルで口を拭うと、圭介は笑顔で言った。

 「口の中のケガなんて、すぐに治るよ」

 大石との殴り合いの直後は、痛みでろくに口が利けなかった。今はひかるが小島から預かってきたという各種の薬のおかげで、とりあえず痛みだけはだいぶ和らいでいる。顔はバンソウコウだらけだが。幸い骨は折れていないようだが、帰ったらちゃんと小島に診てもらうのが必要だろう。

 「ご苦労さん。しかしお前も、仕事熱心だねぇ」

 洗面所の入り口にやってきた小隈が、圭介に声をかけた。

 「いつもは、隊長の言うとおりに気を引き締めて楽にしてるつもりなんですけどね・・・」

 圭介は恥ずかしそうに言った。

 「楽にするのが向いてないのかもしれませんね。プロボクサーと殴り合うなんて、たしかに、無茶だったかもしれませんけど・・・」

 「向き不向きがあるのはしょうがないさ。それに・・・こういう風にうまくやる自信があったから、こういうことをやったんだろ?」

 「はい・・・」

 そう言って圭介は、何となくひかるにすまなそうに微笑みかけた。ひかるもまた、困ったような笑顔を返す。

 「大石は、どうしてます?」

 「美雪ちゃんがついててくれてるよ。今は落ち着いてる」

 小隈は体を反らしてリビングの方を見た。ここは大石のマンション。あのあとすぐにここにお邪魔させてもらい、事情を聞くことになったのである。

 「さて・・・それじゃお願いしようか」

 小隈は圭介にそう言った。

 「本当に、任せてもらっていいんですか?」

 「ここまでやったんだ。それなら最後までやってみたいだろう? 彼に関してはお前に任せるのが一番なようだし・・・。こっちはフォローするから、好きなようにやって。何を訊くかは、頭に入ってるな?」

 「もちろん!」

 「よし。そんじゃ、いこうか」

 圭介はうなずくと、洗面所から出てリビングへと向かった。

 「待たせたな」

 そこには、大石が美雪とともに待っていた。圭介と殴りあった時とは異なり、憑き物が落ちたようにおとなしくなっている。

 「気分はどうだ?」

 「ああ・・・だいぶ落ちついた。その・・・新座・・・」

 「なんだ?」

 「すまなかった!!」

 そう言って、大石は土下座をした。ひかるや美雪は驚いたが、圭介は冷静にそれを見つめた。何に対して後悔の念を感じ、こうして頭を下げているのかはすべてわかっている。

 「殴ったことなら気にするな。お前が薬物に手を出してまでかなえようとした夢を捨てさせるには、ああでもしなければできない。そう思って自分でやったことだ。そのことなら、気にする必要はない。だが、他のことなら・・・」

 そう言って、圭介は美雪を一瞥した。

 「俺だけに謝って済むことじゃない。それは、わかってるな?」

 「ああ・・・。俺は・・・夢を急いで、たくさんの人に迷惑をかけちまった・・・。後悔してる・・・一生かかってもいいから、償うつもりだ・・・」

 淡々と語る大石にうなずくと、圭介はひかるに振り返った。

 「ひかる、あれを」

 「はい」

 そう言うとひかるは、錠剤と水を大石に手渡した。

 「これは・・・?」

 「例の薬物の禁断症状を抑える薬です。まだ試作品ですけど、安全性は保証されてますので安心してください。精神安定作用もありますので、イライラが高まったりすることも抑えられると思います。定期的に飲んで、時間をかけて治していくしかないらしいんですけど・・・」

 「自分の体を大事にしろ。まずはそれからだ」

 「ありがとう・・・」

 大石はそう言ってその薬を飲んだ。一段落ついたことを確認すると、圭介は話を切り出した。

 「さて・・・疲れてるところ悪いが・・・」

 「わかってる。俺の話が必要なんだな・・・?」

 圭介はうなずいた。

 「今世の中では、お前が使ってたのと同じ薬物が原因と思われる不審な死亡事故や事件、犯罪が多発している。その多くは、自殺やそれ同然の無謀な行為の果てに死を迎えている。お前をなんとしても止めたかったのは、お前がそんなことになることを避けたかったからでもある」

 「すまん・・・。知っていることなら、なんでも話そう。遠慮しないでくれ」

 「ありがとう。それでは・・・まず訊きたいことだが・・・」

 圭介は傍らに立っていた小隈と目を合わせた。小隈が続けろというふうに顎をしゃくったので、圭介は続けた。

 「何はともかく、入手経路と時期だな。それから話してもらえるか? あの薬物とその売人と、いつどんなふうに出会ったのか・・・」

 大石はうなずくと、口を開いた。

 「あの薬と、それを扱ってる奴に出会ったのは、四ヶ月くらい前・・・連勝の始まりになった試合の、少し前だった」

 「四ヶ月前? それからずっと、あれを使ってきたのか?」

 圭介にとって、それは驚きだった。疑似電子人体モデルによるテスト結果では、通常2ヶ月程度定期的な投与を続けると薬物の効果はピークに達し、その結果生じる一種のトランス状態によって、使用者は自殺やそれに類する行動に出る可能性が高いという。それを2ヶ月も上回り、一応は自我を保っていられたというのは驚異だった。

 「・・・先を続けてくれ」

 大石はうなずき、話を続けた。

 「そのころの俺は、今までにないくらいのスランプだった。元からスタミナ不足という弱点はあったけど、それでは説明のつかないぐらい負け続けだった。長い間ボクシングを続けているが、いつまで経ってもパッとしない自分に、本当に才能があるのかどうか疑い始めていた矢先のスランプ・・・それに、完全に打ちのめされちまった。ジムにも出て行かないで、このままボクシングを続けるかどうか悩んでた時だった。どん底だよ。あいつらが現れたのは、そんな時だった・・・」

 「例の薬物を扱ってる奴らか?」

 「ああ・・・。もっとも、最初に会った奴は一人だった。この近くの駅前の居酒屋で、気分を晴らそうと飲んでた時に話しかけてきたのがそいつだった。やけに不景気な顔をしてるから気になったとかいってね・・・。最初はうっとうしかったが、こっちの話を親身になって聞いてくれたから、そのうちこっちから熱を入れて話すようになっていった。スタミナ不足っていう、俺の最大の弱点のこととか・・・。ああ、そいつの特徴も話しておいたほうがいいだろうな。まず、輪郭だけど・・・」

 「それはあとでかまわないよ。今はモンタージュメーカーっていう便利な機械があってね。あとでそれはやってもらうけど、とりあえず続けて」

 小隈が口を挟んで先を促したので、大石はうなずいた。

 「・・・話を全部聞いたうえで、その男は本当にチャンピオンになりたいのかどうか訊いてきた。もちろん、その気持ちに嘘はなかった。そのためにこの人生をボクシングだけに費やしてきたんだから・・・。だから、胸を張って答えた。するとそいつは、俺の飲み代も自分で払って、俺を連れて外へ出た。それで誰もいない路地裏まで行って、こう切り出したんだ。「その弱点さえ克服すればチャンピオンになれるのなら、俺たちはあんたの夢をかなえてやることができる」って・・・。そしてついてくれば、それを実現させてやれると言って、俺についてくるかどうか尋ねたんだ・・・」

 「それで・・・ついていくって言っちゃったの?」

 美雪が怒りと悲しみの入り混じった視線を向けながら言った。大石は何も言わず、沈痛な表情を浮かべながらうなずいた。

 「・・・たしかに、そこでついていったのはいけませんでしたけど・・・」

 見かねたひかるが、口を開いた。

 「苦しいときには、誰でも助けがほしいと思います。そんな人の弱みや悲しみにつけこんで、そんなことを持ちかけてくるほうが、ずっと許せないと思います。お兄さんは、今はそれが間違っていたってことをわかってます。だから、これ以上責めるのはやめてあげてください」

 ひかるの言葉に、美雪は静かにうなずいた。無言で頭を下げる大石。

 「・・・それで・・・ついていった先には、何があったんだ?」

 「着いた先は、何もないつぶれた工場のあとだった。あいつはそこへ案内すると、仲間に電話をかけた。たしかに、まともじゃなかったな、あのときの俺は・・・。逃げることも考えたけど、腕っ節には自信があったから、いざとなればなんとかなると思ってた。で・・・それから何十分かして、そいつの仲間がやってきた。「タンク」を持って・・・」

 「タンク?」

 初めて出てきた言葉に、圭介たちは首をかしげた。

 「なんだ? 「タンク」って・・・」

 「例のガスの入ってるタンクだよ。ガソリンスタンドに置いてあるやつみたいに、かなり大きなものだった」

 大石は答えた。

 「ガス? その薬物は、ガスなのか?」

 「あ、ああ・・・」

 圭介たちがそれに大きな反応を示したので、大石と美雪はきょとんとした表情を示した。やがて、圭介は言った。

 「すまない。今のは重要な証言だよ。実は、薬物の性質はわかってたんだが、それそのものがどんな形をしているか、まだわからなかったんだ。なにしろ、手元にあるサンプルは被害者の血液中から採取したもので、もう体の中に取り込んだあとだったから、それ以前はどんなだったのか、手がかりがなくて・・・」

 一口に薬物といっても、その形状や摂取の方法は様々である。大麻やヘロインのように、元は粉末状で、溶かして注射により投与するものもあれば、LSDに代表されるような覚せい剤のように、吸引して摂取するものもある。

 「・・・ということは普通の麻薬や覚せい剤のように、手軽に・・・というのはなんだが、とにかく、いつでもどこでも摂取できるものではない。そういうことだね?」

 小隈が尋ねると、大石はうなずいた。

 「だから・・・死んだ人の家とかを調べても、出てこないわけですね・・・」

 ひかるがつぶやいた。実際、警察は被害者の自宅や職場などを調べ、問題の薬物が何らかの形で残されていないかを調べたが、それはすべて失敗に終わっていた。

 「少し話がそれたな。元に戻ろう。それで、その男たちがタンクを運んできてからは?」

 圭介が先を促すと、大石はうなずいて続けた。

 「そいつらは俺に、ガスのことを説明した。新しい麻酔薬で、意識を維持したまま、痛覚だけを麻痺させることができる。つまり、痛みを感じなくなるって・・・。そうなれば、いくらパンチを食らっても、それを気にすることなく戦える。これまでと違って、余裕のある試合運びができる。あいつらはそう言った。自分に焦っていたとはいえ、それに・・・それに乗ってしまったのは、このとおりだ。バカなことをしたと・・・後悔してる」

 大石はうつむいた。

 「・・・そのときのことで、もうひとつ知りたいことがある。そのガスはどうやって摂取したんだ? やっぱり、口から吸うとか・・・」

 だが、大石は首を振った。

 「ああ・・・。それが、妙な方法でな・・・。さっき、タンクはガソリンスタンドに置いてあるのとよく似てたって言ったが・・・投与の方法も、よく似ていた。タンクにホースがつながってて、その先にやっぱりガソリンスタンドのものと同じ、給油ノズルみたいなものがついていた。それから先が変なんだが・・・そのノズルを、へそにくっつけて、そこからガスを注入するんだ・・・」

 「へそ?」

 その言葉に圭介たちは一瞬目を丸くしたが、すぐに納得したようになった表情になった。

 「なるほど・・・。どうりで、へそのあたりにその成れの果てだった物質が密集していたわけだ」

 「でも・・・どうしてへそから注入するんでしょう?」

 「へそから注入した方が効果が高いとか・・・なにか、それなりの理由があるのかもしれないな」

 圭介たちはひとしきりそう言うと、話に戻った。

 「きっかけの話はわかった。次に訊きたいのは、それからどのぐらいのペースでそのガスを吸ったのかということだが・・・」

 「・・・あいつらは、ガスの投与に慎重だった。ガスを投与するときは、向こうからその日時と場所を指定してきた。そのうえで、迎えをよこしたわけだが・・・」

 「それが、美雪ちゃんが見たっていう黒い車か?」

 「そうだ。いつも同じだった。車に乗るとすぐに目隠しをされ、音で周囲がわかるのも防ぐために、ヘッドホンもつけさせられた。そうしてしばらく移動したあとで・・・タンクの置いてある場所につれてこられた。場所はいつも違っていたが、人気がない場所というところは、どれも同じだったな」

 「そこで投与を受けたわけか」

 「ああ・・・。最初のうちは、一ヶ月に一回投与を受ければ、十分な効果が得られた。ガスを吸ってすぐのころは、体の痛みはおろか、心の痛みも感じない。フワフワと空に浮いたような・・・そんな感じだった。それが、日がたつにつれて効果が薄れていくと・・・それまでに感じた痛みが、ぶり返してくるようになって・・・いや、違うな。長い間痛みを感じることを忘れるから、普通の痛みでも過敏に感じるようになっていたんだろうな・・・。そんなサイクルが回を重ねるごとに、だんだん短くなっていって・・・最近では、一週間に一度投与を受けなければ、十分な効果を得られなくなっていた・・・」

 大石の言葉を聞いて、やがて小隈が言った。

 「たぶん、ギリギリだったろうな・・・」

 その言葉に、全員の視線が集中した。

 「このまま続けていれば、君は痛みを過敏に感じてしまうことに耐えられず、他の被害者たちと同じようなことになっていただろう」

 「そうですね・・・。俺が大石に勝てたのも、それのおかげかもしれない。痛みを過敏に感じるようになっていたから、全力とはいえ素人の俺のパンチ2発でノックアウトできたんだと思う。これが普通なら、そのくらいじゃ参らないはずだ」

 圭介がうなずきながら言う。

 「とにかく、サンプルの分析結果と効果は同じようだ。やっぱり、恐ろしいガスだよ・・・。最後に、大事なことだが・・・結局、その男たちは何者だったんだろうか? それに、代金の回収とかは?」

 「代金は、とても高かった・・・。あいつらは他にも客を持っていて、そういう人たちは高給取りだったようだから、その場で代金を集めていたらしい。ただ、俺の場合は・・・出世払いということにしてもらっていた。正確に言えば・・・今度の世界戦に勝ったら、そのファイトマネーから未払いの分の代金を支払うことになっていた。それまでの試合のファイトマネーからは、ジムの費用とか、美雪の学費とかを支払わなきゃいけなかったから・・・」

 「・・・本当に、バカなんだから・・・」

 大石の横で、美雪が言葉に詰まったように言った。

 「そんなことまでして学費なんか出してもらったって・・・うれしくなんかないよ!」

 「・・・すまない・・・」

 大石には、ただ謝るしかなかった。

 「あいつらのことは・・・すまない、何もわからない。余計に勘ぐったりすると、ガスをくれないと言っていたから・・・。ただ・・・」

 「ただ?」

 「連絡をくれる男は、いつも同じだった」

 「それは・・・お前を連れて行った男たちとは違うのか?」

 大石はうなずいた。

 「俺が直接会ったのは・・・みんな、中年の男たちだった。どいつもこいつも、人相はよくなかったな・・・・。ただ・・・そいつらは言ってみれば使いっ走りで、その上・・・ガスを作ってるか、そうでなくともどこからか用意してくる奴がいるらしかった。連絡をくれる男は、たぶんそういう奴だった。ほかの奴らとは違った・・・もっと、子供みたいな声の奴だった。俺の会った奴らとは、明らかに感じが違ってたな」

 「そいつとは、会ったことがないんだな?」

 「ああ・・・すまない」

 「いや・・・わかった。かなりいろいろなことがわかったよ。ありがとう」

 圭介は今までメモを取るのに使っていた電子手帳をしまうと、小隈に顔を向けた。

 「隊長、このぐらいで・・・」

 「そうだな。詳しく聞くことはまだあるかもしれないけど、とりあえずはこんなところだろう。今夜はもう遅いしな」

 その時、美雪が不安そうな顔で尋ねてきた。

 「あの・・・兄はやはり、逮捕ということになるんでしょうか・・・?」

 しかし、小隈は首を振った。

 「これからどうなるかはともかくとして、今はそうじゃない。俺たちは逮捕状を持っていないからね。現行犯逮捕をするにも、証拠となる薬物がここにはない。「私がやりました」ってだけじゃ、逮捕するわけにはいかないし・・・。だからってもちろん、このまま無罪放免というわけにもいかないよ。とりあえず、任意同行ってことになるね。悪いけど、当分この部屋では眠れないと思う。当然、あさっての試合も・・・」

 小隈がそう言うと、大石はうなずいた。

 「わかってます・・・。妹や会長、たくさんのファンを裏切った俺には、もうリングに上る資格はないでしょうから・・・」

 「・・・」

 うつむいてそう語る大石を、圭介は複雑そうな表情で見つめた。

 「さて・・・疲れているところ申し訳ないけど、警察署に同行してもらうことになる。いいね?」

 小隈がそう言うと大石はうなずき、立ち上がった。それに伴い、圭介とひかる、美雪も立ち上がる。

 「それじゃ・・・いこうか」

 「あの・・・手錠とかは?」

 「必要ないだろう? 新座、大石さんを頼む」

 「はい・・・・」

 五人はそうして、大石のアパートをあとにした。





 それから一時間後、深夜の道路を走るウィンディの姿があった。運転席には小隈が、助手席には圭介が座り、後部座席には悲しそうな表情をしている美雪に寄り添うようにして座っているひかるがいた。大石を最寄の警察署に送り届け、以後の事情聴取と保護を任せた帰りである。

 「あさっての試合は中止ってことは免れないだろう。ただ・・・慎重に扱いたいからね。まだ逮捕されたわけじゃないし・・・マスコミとかには、中止の正確な原因の発表はなんとかもう少し先送りにしておこう。焼け石に水かもしれないけど、必要以上にお兄さんの名誉が傷つけられたりするのは、こっちも望むところじゃないからね」

 運転しながら、小隈が言った。

 「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした・・・」

 「謝ることはないよ。それより、君がこれからどうするのかの方が心配だ」

 圭介が振り返って言った。

 「大石がこういうことになってしまったとなると、看護学校の授業料とか生活費とか、全部自分でまかなわなければならないんじゃないか?」

 「そうです。大丈夫なんですか?」

 ひかるも不安げな目で見たが、美雪は微笑を浮かべて言った。

 「それなら、心配はいりません。前から兄に甘えずに、自分のことは自分でなんとかしようって思って、コツコツバイトをしていくらか蓄えていたんです。それを崩していけば、二年ぐらいは・・・」

 「二年ぐらいは、って・・・それから先はどうするんですか?」

 「これからも同じようにがんばれば、なんとかなると思います。どうしても足りないようだったら、奨学金とか、いろいろあてはありますから・・・」

 笑顔でそう言う美雪に、圭介たちは言葉もなかった。

 「ただ、絶対にあきらめたりはしません。そんなことをしたら、私もお兄ちゃんを裏切ることになりますから」

 「そうか・・・」

 圭介はそれだけ言って、再び前を向いた。ウィンディは滑るように夜の道路を駆けていく。と、ある交差点の前で美雪が言った。

 「あ、そこの交差点、左に曲がってください。まっすぐ進むと、寮ですから」

 「はいはい」

 小隈は言われたとおり、ハンドルを左に切った。やがて、目の前に白い学生寮が見えてくる。ウィンディはその正門前に横づけすると、美雪を降ろした。

 「すいません、送っていただいてしまって・・・」

 「なんのなんの。市民を安全に送り届けることも、正義の味方の義務のひとつだからね」

 「今日は疲れたと思いますから、ゆっくり休んでください」

 「大石のことは、これからもちゃんと知らせるから、美雪ちゃんも何かあったら遠慮なく言ってほしい。力になれるかわからないけど、できるかぎりは・・・」

 「ありがとうございます。でも、これ以上皆さんにご迷惑をおかけするわけにはいきませんから・・・自分の力でがんばっていきます」

 「そうか・・・。無理だけはしないでよ。看護婦さんが体を壊しちゃったら、しゃれにならないからね」

 「フフッ、本当ですね・・・。気をつけます。それじゃ皆さん、おやすみなさい」

 「ああ、おやすみ。それじゃ・・・」

 窓が閉まると、ウィンディは走り出した。美雪は走り去るウィンディに少しの間手を振ると、ハンドバッグを肩にかけなおして正門に向かって歩き出した。そして彼女が、正門を通り過ぎようとした、そのときだった。

 ガバッ!!

 「!?」

 突如、何者かが正門の陰両側から飛び出してきて、あっという間に彼女の体を押さえ込んでしまった。悲鳴を上げるまもなく、口に押し当てられた布から立ち上る薬品のにおいによって、彼女の意識は薄れていった・・・。





 「じゃあ結局、悪い予想が当たっちゃってこと?」

 始業の朝礼前、圭介から昨夜のことを聞いた聡美の言葉に、圭介はうなずいた。

 「そっかぁ・・・残念だね。仕事が終わってから毎日ジムに通ってボクシングの練習してたのは無駄にはならなかったんだろうけど・・・」

 「無駄になった方がどれだけよかったか・・・」

 複雑そうな表情で圭介は言った。大石が薬物を使っている疑いが出てきて以来、圭介は大石の所属するロッキージムの会長に頼み、ボクシングの促成トレーニングを受けていた。いかにして大石を倒すかに焦点を絞ったトレーニングだったが、プロボクサーを倒そうというのだから、もちろん血のにじむような壮絶なものだった。

 「そうだね・・・。あたしも応援してたから、ショックだなぁ・・・。でもさ、新座君ががんばったおかげで、大石さんは助かったんじゃない。あのままだったら死んでたかもしれないんだから、それはせめてもの幸いじゃない」

 「それはそうですけどね・・・」

 と、圭介と聡美がそんな話をしていると・・・

 「なんだなんだ。これで終わったみたいなこと言って。肝心のガスって奴は、まだ見つかってないんだ。大元を断つまでは、俺たちの仕事は終わってないんだぞ」

 いつのまに入ってきたのか、書類の挟まれたバインダーを持った小島と亜矢、それに、お茶を載せたお盆を持ったひかるが、オフィスの入り口に立っていた。

 「お、おはよう・・・。だけどなんなのよ、入ってくるなり、いきなりそんなこと・・・。そんなの、あたしだってわかってるよ。あたしたちの仕事はこれからなんだってこと・・・」

 ほっぺたを膨らませて言う聡美。

 「わかってるならそれでよろしい。一刻も早く、こんなとんでもないもの売りさばいてる奴は、引きずり出してしょっ引いてやらなきゃな」

 そう言うなり小島は自分の席に着き、バインダーの書類に目を通し始めた。

 「どうしちゃったの、小島さん? らしくもなく燃えちゃって・・・」

 「らしくもなくってのは余計だ! だけどな、これが黙ってられるかよ。どっかのどいつが、使った奴が死ぬこと承知で恐ろしい薬を作って売りさばいてんだぞ? 医者として許しておけるかってんだよ!」

 「同感だね・・・」

 机の上の端末のキーをパチパチとたたきながら、亜矢がつぶやく。

 「そういえば亜矢さん、あのガスを作れそうな人から絞り込んでいくアプローチは、どうなってるんですか?」

 その机の上にお茶を置きながら、ひかるが尋ねた。

 「君たちが聞いた話によると・・・犯人は、若い男のようだからね・・・。その条件を加えて・・・・これから絞り込んでいくところだよ・・・。それほど・・・数は多くないはずだ・・・」

 そう言って、亜矢は画面に浮かぶ主要な科学者、研究者、医師、薬剤師のデータベースとにらめっこを始めた。そのとき、再びドアが開いて小隈と仁木が入ってきた。

 「おはよう。・・・おお、もう始めてるな。胃の中のもの全部吐き出したかわりに、士気が高まったみたいだな」

 小島を見ながら、小隈はニヤニヤしながら言った。

 「いやなこと思い出させないでくださいよ。まぁ、あたりですけどね・・・」

 「さあ、今日も仕事を始めましょ。忙しくなるわよ」

 「今日もがんばっていこう」

 「はいっ!!」

 隊員達が元気よく返事をして、自分たちの席に着いたそのときだった。

 Trrrrrrrrrr・・・

 聡美の机の上の電話が、音を立て始めた。

 「おおっと、いきなり・・・」

 すぐにそれに手を伸ばし、受話器をとる聡美。

 「はい、東京都特機保安隊第1小隊・・・はい、そうですが。ええ・・・はぁ? そんなはずはないですよ。だって・・・」

 なぜか、圭介とひかるをちらちらと見ながら話す聡美。当然、全員の視線が彼女に向けられる。

 「・・・ちゃんと送ったはずですから。ええ、もちろんここにいます。代わりましょうか?」

 そう言うと聡美は受話器から耳を離し、小隈に顔を向けた。

 「なんだ岸本、誰からだ?」

 「警察の人です。それが・・・おかしいんですよ。隊長達、ゆうべちゃんと美雪ちゃんを寮まで送っていきましたよね?」

 「ああ、しっかり寮の門の前で降ろしたが・・・おい、まさか!?」

 「!?」

 そのとき、圭介も小隈と同じ考えに思い至り、ひったくるように受話器を聡美の手からもぎとった。

 「貸してください!!」

 「あ、ちょっと!」

 「もしもし、代わりました! どういうことですか!? ・・・はい、たしかにそうです。寮の前で降ろしました・・・」

 小隈が何も言わなかったので、隊員達は全員圭介の言葉に耳を傾けていた。そうしている間にも、圭介の表情がどんどん変わっていく。

 「・・・はい、はい・・・そうですか・・・。わかりました、すぐに行きます!」

 そう言うと圭介は、電話を切った。

 「・・・やっぱり、帰ってないって?」

 全員の悪い予感を、小隈が代表して確かめる。圭介は深刻そうな顔でうなずいた。

 「授業に出てきてないらしくて・・・これまで無断欠席したことはないから、おかしいと思った友達が調べてわかったそうです。寮の記録にも、帰宅を示すデータは残っていないらしくて・・・」

 小隈はうなずくと、少し歩いて保管場所からウィンディのキーを取り出すと、圭介に投げ渡した。

 「新座、服部。すぐに寮まで急行して、詳しい事情を調べて来い。急げ」

 「了解!」

 「りょ、了解!」

 圭介と、そのあとに少し遅れてひかるが、オフィスを飛び出していった。

 「・・・」

 小隈は自分の席に戻ると、手を組んで視線を机の上に落とした。

 「隊長・・・」

 全員が不安そうな視線を小隈に向ける中、仁木が静かな声で言った。

 「まずいぞ・・・考えが甘かった・・・」

 普段の様子からは想像もつかないような深刻な声から、隊員達は顔を下に向けた小隈の表情を思い浮かべた。





 「それでは、どうも・・・」

 寮の管理人に頭を下げると、二人は外に停めてあるウィンディへと歩き出した。

 「間違いない。あのあと寮に戻らずに、どこかへ寄ったまんま戻ってないなんてことは考えられないし・・・」

 「やっぱり、誘拐・・・?」

 ひかるが恐る恐る、誰もが思い浮かべる可能性を口にした。

 聖ウルスラ看護学校の寮の正面玄関は、オートロックになっていた。寮生の持つIDカードをスロットに通すことで開くのだが、その際にその帰宅時間がセキュリティ用のコンピュータに記録されるようになっている。そして美雪の場合、昨夜深夜に外出、つまり、小隈達が大石のことで彼女を迎えに来てから、まだ戻ってきていないことを、帰宅チェックのついていないことが示していた。

 「大石のことを話しかけてきたのは彼女だ。そのことを知った奴らに、ずっと前から見張られていたのかもしれない・・・くそっ!」

 自分への苛立ちを隠せない圭介。ひかるはそれをなだめながら言った。

 「落ち着きましょう。まず隊長に連絡して、詳しいことを話さないと・・・」

 「そうだな・・・」

 二人はウィンディに乗り込んだ。

 「ひかる、連絡頼む」

 「はい!」

 連絡をひかるに任せ、圭介がエンジンをかけようとした、その時だった。

 prrrrrrrr・・・

 圭介のウェアラブルフォンが、音をたてはじめた。

 「誰だ、こんなときに・・・」

 そう言って、液晶画面に表示されている相手の名前を見て、圭介は大きく目を見開いた。

 「ひ、ひかる!」

 そう言って圭介は、それをひかるにも見せた。そこには、「大石美雪」と表示されていた。

 「! もしかして・・・! 早く出てください!」

 「ああ・・・!」

 圭介はそう言うと、小型逆探知装置を接続し、わずかに震える指で通話スイッチを押した。

 「はい、新座ですが・・・」

 緊張の隠せない声で電話に出る圭介。返事はすぐに返ってきた。

 「あ、もしもし? SMSの新座さんですか?」

 妙に明るい、圭介たちとそう変わらないぐらいの年齢らしき男の声だった。圭介は驚きと嫌な予感を感じながらも、努めて冷静な声で返事をした。

 「ああ、そうだ。お前は誰だ・・・?」

 「そっちの思っているとおりの人間ですよ」

 圭介は少し眉を動かしただけで、先を続けた。

 「これをかけてる携帯は、美雪ちゃんのもののはずだ。それを使ってるということは・・・」

 「そう。大石美雪さんは、こっちで預かってます。悪いとは思いましたが、ほかにあなたたちと安全に接触する方法がなかったので、彼女の携帯のメモリーに入っていたあなたの番号、使わせてもらいました」

 電話の相手はこともなげに言った。

 「もう一度聞く。お前は誰だ? なんのためにこんなことをしている?」

 「なんのためって・・・決まっているじゃないですか。金儲けのためですよ」

 「金儲け・・・だと?」

 「そう。僕たちはまだ、大石から未払いの分の薬代をもらっていない。僕たちとしては、それを取りっぱぐれたくないものでね」

 圭介は相手の理不尽さに腹が煮え繰り返る思いだったが、それをなんとかおさえ、冷静な声で続けた。

 「・・・わかった。金が要求なら、なんとかしてやろう」

 隣でひかるが驚いた顔で「いいんですか?」と口を動かすのが見えた。しかし、圭介は片手でそれをさえぎり、相手の出方を待った。

 「話が早い。でもね・・・ただ金を用意してくれるだけでは、だめなんですよ・・・」

 「なに?」

 相手が妙なことを言い出したので、圭介は眉をひそめた。

 「ほかに何をしろって言うんだ?」

 「ただの金では不満でね・・・。どうせなら、最初の予定通り・・・大石が今度の試合で勝利して勝ち取ったファイトマネーを、それにあててもらいたいんです」

 それを聞いた圭介は、思わず声を大きくした。

 「なんだと!? お前だって知っているはずだ! あの試合は中止になったんだぞ!!」

 「もちろん、知ってますよ。あなたたちがいらないことをしたためにね。しかし・・・まだ間に合うはずだ。なにしろ、ついさっき決まったことですからね。まだチケットの回収も始まっていないし、会場のキャンセルもされていないはずだ。それなら・・・できるでしょう?」

 「・・・どういうつもりだ? ただ金が欲しいなら、そんなことをする必要はないはずだろう」

 圭介がそう尋ねると、電話の向こうの相手はクスクスと笑った。

 「決まっているじゃないですか。楽しみにしていたからですよ」

 「楽しみに・・・だと?」

 「あの試合は、誰もが楽しみにしていたはずだ。ファンも、大石自身も・・・そして、僕たちもね。信じてもらえないかもしれないが、私たちも応援していたんですよ。彼が世界チャンピオンになることを・・・。ここまで来たなら、とことんまで行ってほしいじゃないですか」

 「・・・語るに落ちたな・・・。人を死に追い込む薬物を売りさばいておきながら、応援していた、だと・・・?」

 あまりに罪の意識のない相手の声に、圭介は我慢の限界に達しようとしていた。

 「薬という字を、どのように書くかご存知ですかね?」

 「なに?」

 唐突な質問に、圭介は面食らった。

 「知っているとは思いますけど、くさへんに「楽」と書くんですよ? 薬が人を楽にするためのものであることは、そのあたりからでも当たり前じゃないですか。人間、いずれは死ぬんです。だったら、楽に生きないのは損じゃないですか。痛みなんかを我慢して、体や心が傷つかないようにびくびくしながら生きるなんて・・・。ぼくたちはそういう人たちに、あのガスを処方してあげた。あれを使った人は、みんな言ってましたよ。「ヘソリンを吸えば、この世は天国」ってね。彼らはみんな死んだが、少なくとも幸せに死んだ。苦しみに耐えながら長い人生を生きていくよりは、よっぽど幸せだったんじゃないですか?」

 「ふざけるな!! 人が死んだんだぞ!! お前たちの作ったガスのせいで・・・何も感じないのか!?」

 圭介はとうとう感情を爆発させたが、そこでハッと気がついた。自分が話しているのは、おそらくは、あのガスを作った男である。ということは、あれを使っている可能性・・・自分たちの感じるような痛みを知らない、「まともな相手」ではない可能性は高い。良心や後悔、懺悔の念を持たない人間。それはまさに、遠い星からやってきた異星人のような異質の存在だ。いくら良心に訴えかけようと、それをとらえるアンテナがないのだから・・・。

 圭介が黙り込んだので、相手はその心中を見透かしたように言った。

 「こういった話は、お互いにとって時間の無駄のようだ。僕たちが聞きたいのはただひとつ。僕たちの要求を飲んでくれるかどうか。YES or NO?」

 「・・・イエスだ」

 圭介に、選択の余地はなかった。

 「理解してもらえてうれしい。それでは、予定通り試合を行ってもらいましょう。大石が勝ち、ファイトマネーが手に入ったら、それを全額、こちらの指定する銀行口座に振り込んでもらいましょう。口座の番号とかは、そのときになってまた連絡します」

 「まて。もし、大石が勝てなかったらどうする?」

 それは、もっとも気になることだった。

 「そのときでも、ファイトマネーは手に入るでしょう。でも、負けて得られる額はそう多くはないはずだ。それでは足りない。その場合は・・・」

 「おい、まさか・・・!」

 「・・・誘拐犯らしく、美雪さんの命はない・・・そう言っておきましょうか。その方が、大石も張り切るでしょうし・・・。もちろん、八百長試合なんてもってのほかですよ?」

 「貴様・・・それでも人間か!?」

 それが無駄だとはわかっていても、圭介はそう叫ばずにはいられなかった。

 「ああそうだ。これだけ譲歩してもらって、こっちは何もしないというのは不公平だ。こっちが美雪さんを預かっているという証拠に、写真を送りますよ。もちろん、本物ですからご心配なく」

 相手の声がそう言ったとたん、携帯に写真が送られてきた。

 「!!」

 それは、いすに縛られぐったりとうなだれている、美雪の姿だった。

 「なんてことを・・・」

 「眠っているだけですから安心してください。ぼくたちも、得にもなりもしないのにいたずらに傷つけたりしたくはありませんからね・・・」

 「・・・」

 「それでは、用件はこれで終わりです。早く上司の方に報告して、準備を始めたほうがよろしいですよ。それでは」

 「・・・無駄だとはわかってるが、一応言っておく・・・」

 「なんでしょう?」

 「こんな取引を俺たちにもちかけてきたことを、「後悔させてやる」」

 フッとわずかに笑い声が聞こえたあと、電話は唐突に切れた。圭介はそれを持ったまま、ウィンディのドアによりかかってうなだれた。

 「すごく・・怖いです・・・」

 一緒にその会話を聞いていたひかるは、このうえない怯えの表情を浮かべながら、圭介に近づいた。それほどまでに相手は異質で理解を超えた、恐ろしい存在だった。

 「・・・」

 圭介はサッと顔を上げると、ウィンディに乗り込んだ。

 「すぐに戻るぞ、ひかる。隊長に連絡してくれ」

 「・・・はい!」

 ひかるもすばやく助手席に身を滑らすと、ウィンディは勢いよく発車した。





 「なんだって!?」

 警察署の面会室。突然やってきた圭介とひかるにこれまでの事情を説明され、思わず大石は大きな声を出していた。

 「すまん・・・俺たちのせいだ。弁解の余地もない・・・」

 「ごめんなさい・・・。美雪さんの安全まで考えていれば、こんなことには・・・」

 沈痛な表情で頭を下げる二人。

 「い、いや・・・お前たちのせいじゃない。美雪をこんなことに巻き込んでしまったのは、元はといえば俺のせいなんだから・・・。そんなことより・・・俺が勝たなきゃ、美雪は・・・」

 沈痛な表情のまま、圭介はうなずいた。

 「酷な話なのはわかってる。そんなことにならないように、俺たちも全力を尽くす。だが・・・それが事実だ。相手は少し前までのお前と同じように、何に対しても痛みを感じない、恐ろしい相手だ。こけおどしなんかをするような相手じゃない」

 「ああ・・・わかる」

 「・・・そんな状態から回復したとはいっても、お前はまだ、痛みを過剰に感じる症状から回復していない。練習も不足している上に、向こうは本気の試合を望んでる。条件は、圧倒的に不利だ。だが・・・」

 「わかってるよ、新座。言わなくたって・・・」

 意外なことに、大石は笑みを浮かべた。

 「たしかに、お前の言うとおり分の悪い勝負だ。だけど・・・妹の命がかかってるってのに、負けるわけにはいかないだろう? ましてや、勝負をあきらめるなんて・・・」

 「大石・・・」

 「俺は・・・いろんな人に迷惑をかけちまった。だけど・・・一番苦労をさせちまったのはあいつだ・・・。今だってそうだ。俺がしでかしたことのために、あいつは・・・。まったく、ダメな兄貴だ・・・」

 「・・・」

 「だからさ・・・今度こそは、いい兄貴になろうって・・・そう思ってるんだ。そのためには、まずこの試合に勝たないと・・・孝行をしたくても、してやれなくなる。だから、俺は意地でもこの試合に勝つ。勝たなきゃいけないんだ・・・」

 「・・・すまない」

 圭介はそう言うと、席から立ち上がった。

 「・・・ここから一時的に出る特例手続きは済んでる。もうじき、会長さんが迎えに来るはずだ。ジムに戻ったら、明日の試合に備えてくれ。もちろん、俺たちも美雪ちゃんを探すのに全力を尽くす。必ず、無事に取り戻す。約束だ。だから・・・がんばってくれ」

 「おう!  頼んだぜ・・・!」

 圭介と大石は、がっちりと握手を交わした。最後に手を振ると、圭介とひかるは、警察署から出て行って、ウィンディへと歩き出した。

 「大丈夫でしょうか・・・」

 「・・・大石の自信は、本物だ。信じて大丈夫だよ。けど、それに頼りすぎるわけにはいかない。一刻も早く、美雪ちゃんの居場所を突き止めないと・・・」

 「はい。でも、どうやって・・・? 逆探知も失敗しましたし・・・」

 交渉の電話の逆探知は、一応成功していた。だが、わかった発信場所は、渋谷のど真ん中。すさまじい数の人の中から美雪の携帯を持っている人間を突き止めるのは困難であるのはもちろんのこと、かけた人間は、とっくに移動してしまっているだろう。そのあと再びかけようとしたが、今度は通じなかった。携帯を処分してしまったのかもしれない。

 「わかってる。だけど、あきらめるわけにはいかない。なにか・・・なにか、手を考えないと・・・」

 圭介はそう言いながら、片手で目を覆った。

 「圭介君、疲れてるんじゃないですか? わたしが運転しますよ」

 「うん・・・それはありがたいけど・・・免許持ってきてるのかよ?」

 「あ・・・」

 そう言って、ひかるは口に手をあてた。圭介は苦笑すると、運転席に乗り込みながら言った。

 「いいよ。こういうときのための、自律走行システムだからな」

 ひかるは恥ずかしそうに微笑みながら、助手席に座った。備え付けのカーナビに、目的地である分署の場所を入力する圭介。すぐにウィンディは走り出した。

 「・・・」

 何気なく、カーナビの画面に目をやる圭介。表示される地図の上に、自分達の現在位置が表示されている。

 「・・・!!」

 それを見ていた圭介の目が、突如大きく見開かれた。

 パンッ!

 突然圭介が拍手を打ったので、ひかるは驚いて圭介を見た。圭介は、笑いと泣き顔が入り混じったような複雑な表情をしていた。

 「どうしたんですか、圭介君?」

 「ひかる・・・バカだ、俺・・・」

 微妙な表情のままそう言う圭介に、ひかるは首を傾げるしかなかった。





 そして、試合当日がやってきた。世界王者戦は予定通り日本武道館で開催され、多数の観客が集まってきている。当然、テレビカメラも会場に入り、会場へ来ることのできないファンたちのために、この試合を中継しようとしていた。

 ゴングの音が断続的に打ち鳴らされ、やがて、リングの上だけにスポットライトがともされる。その中へ、マイクを持った男が現れ、アナウンスを始めた。

 「大変長らくお待たせいたしました! これより、世界フェザー級チャンピオン、サムソン小林対挑戦者、クラッシャー大石の、世界フェザー級タイトルマッチを始めます!!」

 アナウンサーの叫びに、会場が大歓声に包まれる。

 「それでは、選手の入場です! まずは・・・赤コーナー! 123ポンド、ロッキージム所属・・・挑戦者、クラッシャー大石ーっ!!」

 大歓声に応じて、ゆっくりと大石がリングへと歩んでくる。彼は普通にリングに上ると、ガウンを脱いでセコンドの会長に手渡す。いつものような派手なパフォーマンスはなく、表情にも緊張の色が伺えた。大石はあきらかにいつもと違っていたが、観客たちのほとんどはそれを、世界王者戦という大舞台での緊張によるものだと判断していた。

 「続きまして・・・青コーナー! 125ポンド、マイティジム所属・・・世界フェザー級世界王者、サムソン小林―っ!!」

 大石に負けない大歓声とともに、世界王者のサムソン小林が入場してくる。チャンピオンとして二度も王座を守っていることもあり、派手さとは違った貫禄のある迫力が感じられる。

 やがて、二人はそれぞれのコーナーにおかれているイスに座り、最後のアドバイスをセコンドから受け始めた。





 そんな試合の様子を、離れた場所で見守っている一団があった。

 「いやー、いよいよ始まるねえ」

 テレビを見ながら楽しそうに微笑む青年。その傍らには、先日この青年が会っていた男たちが、苦そうな顔で立っている。

 「これはどういうことか、説明してもらおうか?」

 代表するように、男たちのリーダー・・・竹中は、静かだが怒りのこもった声で青年に尋ねた。

 「なに怖い顔してるんです。お金がかかってるんですから、もっと集中してみましょうよ」

 「それのためだろうが!!」

 竹中は怒鳴った。

 「金を回収しようということはわかる。そのためには、こんな強引な手を使わなければならないということもしかたない。だが・・・なぜこんな回りくどいことをする!? こんなことをやらせなくても、普通に金を要求すればよかったじゃないか! 勝つかどうかもわからない奴の試合のファイトマネーになど頼って・・・もし金が回収できなければ、どうするつもりだ!?」

 「そのときは仕方ありませんよ。約束どおり、気の毒ですが彼女には・・・ね?」

 そう言って、青年は少し離れたところにいる人物を見つめた。

 「・・・」

 イスに縛られているが、鋭い目つきでこちらをにらんでいる少女・・・それは美雪だった。

 「ふん・・・! あんな小娘殺したところで、一文の得にもなりはしないだろうが!」

 「まあまあ。終わってもいないのに、失敗することばかり考えるのもなんです。ここは彼女と一緒に、彼女のお兄さんの勝利を祈ろうじゃないですか。ね?」

 そう言って、青年は美雪に再び微笑みかけたが、美雪は無視するようにテレビへと視線を向けた。

 「・・・」

 竹中は憮然とした表情のまま、その部屋を出て行った。

 そこは都内でも比較的山あいにある廃工場だった。さびの浮いた、今となっては何に使われていたのかわからない巨大な機械類が、あちこちに並んでいる。市街地から距離があるという地理的不便さから閉鎖されたという経緯もあり、地元の人でも近寄ることはない。美雪を誘拐した彼らは、彼女をここに監禁していた。





 一方そのころ・・・東京上空を、銀色の大きな箱が飛行していた。側面には「TSMS P1」の文字が記されていた。

 「あー・・・試合始まっちゃったよ・・・」

 モニターに映っている試合の様子を見ながら、聡美がため息をついた。

 「結果がどうなるにしろ、この試合が終わるまでに見つけなきゃならないことには違いないな。残念だが、たとえ大石選手が勝ったとしても、連中がおとなしく美雪ちゃんを解放してくれるとは思えないし・・・」

 小隈が無表情のまま言った。

 「わかってますよ、そんなこと・・・。あーもー!! せっかく発信機持ってるってのに、電波拾えないんじゃ意味ないじゃない!! 警察ももっとしっかりしたもの作りなさいっての!」

 「聡美さん、落ち着いてくださいよ。だからこうして、東京の空を飛んで突き止めようとしてるんじゃないですか」

 意外にも、圭介が聡美をたしなめた。そして、彼らが現在とっている行動も、彼が発言したものである。

 昨日、圭介はウィンディのカーナビを見て、あるものの存在を思い出した。美雪に渡しておいた小型発信機、Eトレーサーである。その存在を思い出した圭介は、すぐにそれを使って美雪の居場所の特定を試みた。しかし・・・現在でも、その確認にはいたっていない。実は、Eトレーサーは実用化されたばかりのタキオン発信式の超小型発信機であり、出力などにまだ改良の余地があったという。そのため、たとえ発信が行われていたとしても、人工衛星で拾えない可能性もある。だからこそ、同じタキオン式の通信装置を備えている指揮車でもっと低空を飛び回ることにより、自らその居場所を特定しようとしているのである。

 「E3地区では観測されず。岸本、続いてE4地区で観測を行う」

 「了解。でも、これで見つかるんでしょうか?」

 「第3小隊も手伝ってくれてるんだ。人の命がかかってるんだし、分署で試合を見守ってるだけよりずっとましだろう」

 小隈はそう言って、モニターに映る試合の様子を見つめた。そのときである。

 Prrrrrrrr・・・

 指揮車の通信機が、発信音をたてた。





 試合は、大石が劣勢であった。

 ズンッ!!

 「!! ぐぅっ・・・!!」

 小林のパンチが、わき腹へハンマーで殴られたような痛みをもたらす。大石自身、これまでの試合では感じたことのない痛みだった。相手が世界王者であることを考えても、ここまでの痛みを感じるだろうか。やはり、薬の副作用としての痛覚の過剰反応が、まだ収まってはいないのだろう。

 「くっ・・・!!」

 腰に力をため、なんとか倒れないように踏ん張る大石。よく見ている人間なら、それがいつもの大石とは違っていることを感じていた。だが・・・

 ドッ! ドカッ!!

 小林の容赦ないジャブの嵐は、確実に大石を痛めつけていった・・・。





 「ふーん・・・まずいね、これは・・・」

 足を組みながら、言葉とは裏腹に緊張感のない声で青年は言った。その横では、いすに縛り付けられたまま、美雪が黙って試合の様子を見つめている。その時である。

 「大変です、社長!!」

 大石の部下の一人が、その部屋へ駆け込んできた。

 「どうした?」

 「見張りの奴からの報告なんですが・・・警察のパトカー隊の奴らが、まっしぐらにこっちのほうへ向かってきてるそうです!!」

 「なんだと!? 用心はしてたが・・・こんなに早くか!」

 そう言って竹中は青年のほうを見た。青年はあわてる様子もなく、しばらく考え込んでいたが・・・

 「・・・」

 音もなく立ち上がると、美雪へと近づき、その周りをゆっくりと回りながら彼女を観察した。と・・・唐突にその足が止まり、視線が縛られたままの彼女の手首に止まった。

 「ハハ・・・なるほど、そういうこと」

 彼女の右手首には、腕時計がはめられていた。そのバンドには、奇妙な金属製の装置がはさまれていた。そう、Eトレーサーである。

 「!? 貴様・・・!!」

 そのことに気づいた竹中の部下が、拳銃を彼女に向けた。しかし・・・

 「やめなよ・・・そんなことをしても、何にもならないだろう?」

 青年はおちついた声で、それを止めた。

 「・・・言いたいことは、それだけか・・・」

 竹中も拳銃を抜き、その銃口を向ける。ただ、美雪にではなく、青年に対してだが・・・。

 「俺としたことが・・・欲を焦って、引き際を見誤ったらしい・・・」

 「そうだね・・・どうやら、これで終わりらしい」

 そう言うと、銃口を向けられていることにもかまわず、青年はゆっくりと歩き出した。

 「おい! どこへいく・・・」

 「さあ・・・どこへ行くんだろうね。僕自身にも、わからない。ただ、これ以上ここにいても、楽しむことはできそうにない」

 「!? 楽しむ・・・だと?」

 「何を驚いているんだい? もとから、これはそのためだったんだよ? お金儲けってのも、そのためだけにたてた目標さ。その証拠に、儲けはすべて君たちに支払っていたじゃないか」

 「貴様・・・!!」

 「いいよ。撃つなら撃ってもね。どうせ、ぼくは・・・」

 そう言って、青年は無防備にも背中をさらし、部屋の奥にあるドアに手をかけた。その時である。

 パンッ!!

 「!!」

 竹中の放った銃弾が、青年の背中を突き破り、腹から血しぶきとともに飛び出した。

 「・・・」

 ドゥッ・・・

 青年は何も言うことなく、地面に倒れ伏した。

 「・・・!!」

 その光景を見て、凍りつく美雪。

 「やっちまいましたね。これ以上、あの薬で儲けることはできなくなっちゃいましたけど・・・」

 その場にいた部下たちの一人が、そう言った。

 「こんな奴に付き合って続けるよりはましだ。次の商売に使えそうな元手は、十分稼いだからな。だが・・・まだ腹の虫が収まらん」

 そういうと竹中は、拳銃を美雪に向けた。

 「!!」

 恐怖に顔をひきつらせる美雪。

 「悪いが、顔を見られてるからな。あんたにも、天国へ行ってもらう・・・」

 そう言って、竹中は引き金にかけた指に力を込めた。

 「・・・!!」

 美雪が思わず目をつぶった、そのときである。

 ガチャァァァァァァァン!!

 工場の天窓を何者かが突き破り、中へと飛び降りてきた。ガラスの破片が床の上に落ち、乾いた音を立てる中・・・

 ガチャッ! ダッ!!

 それは金属質な音をたてて着地すると、一気にダッシュして、美雪の盾となって彼女の前に立ちはだかった。

 「SMSだ! 全員、銃を捨てろ!!」

 突如飛び込んできた赤いVJ・・・圭介に、男たちはうろたえた。さらに・・・

 ガチャッ!! ガチャッ!!

 「銃を捨てておとなしくしなさい!! 未成年者誘拐容疑、ならびに監禁の現行犯で逮捕します!!」

 「麻薬を売りさばき罪のない人々を死に追いやり、あまつさえ誘拐した女の子を殺そうとするその悪行! 許さん!!」

 仁木と小島である。二人も美雪を取り囲むように、すばやく展開する。三人とも、マルチリボルバーの他にポリスジャケット用のシールドを構えている。

 「くそっ!! やっちまえ!!」

 ガァンガァンガァンガァンガァン!!

 竹中が叫ぶと、男たちはいっせいに拳銃を取り出し、美雪たちに向かって発砲した。

 「あぶない!!」

 それとほぼ同時に、仁木は美雪に覆いかぶさるように動いた。

 カカカカカァァァァン!!

 銃弾が彼女のシールドに次々に着弾し、火花を散らす。しかし、仁木は微動だにせず彼女を守りぬいた。

 「無駄な抵抗をするな!!」

 と、圭介もすぐに反撃に出る。マルチブラスターのノズルを装着すると、サッと男たちへ向けた。

 「マルチブラスター!! 広角高圧放水!!」

 ブシャアアアアアアアアアッ!!

 「ドアアアアアアアッ!?」

 マルチブラスターから勢いよく放たれた鉄砲水のような放水が、男たちを木の葉のようになぎ倒した。

 「あーあ・・・せっかく闘争本能減退剤「ぐ〜たらヤメタランス君1号」、用意しといたのに・・・」

 「だからやめなさいって・・・」

 「そんなことより、大丈夫、美雪ちゃん!? 怪我は?」

 美雪に声をかける圭介。美雪は笑顔を浮かべた。

 「だ、大丈夫です。ありがとうございます! 皆さん」

 「ごめんね、こんな怖いことに巻き込んじゃって・・・」

 「小島君! すぐに縄を解いて、指揮車へ連れて行ってあげて!」

 「了解!」

 小島はすぐにロープを解くと、美雪を自由にした。そのときである。

 ガチャッ! ドヤドヤドヤ・・・

 ポリスジャケット隊が、部屋の中へ突入してきた。

 「ご苦労様です! 犯人は、この男たちですか?」

 「はい。逮捕をお願いします」

 「了解! B班は建物内、C班は周辺を徹底的に調べて、仲間が残っていないか確認!」

 隊長のてきぱきとした指示のもと、ポリスジャケット隊は動く。まだ外から銃声が響いているが、残った仲間たちとポリスジャケット隊が銃撃を行っているのだろう。

 「まだ外は危ないようね・・・。あとは警察にお任せしてもう少し、ここでじっとしていましょう」

 「了解」

 仁木の言葉を聞くと、圭介は美雪に言った。

 「でもなにもなくて、本当によかった・・・」

 「あの・・・もしかして、これのおかげですか?」

 そう言って、腕時計のEトレーサーを示す美雪。圭介はうなずいた。

 「うん。つけていてくれて、本当にありがとう」

 「いえ、こちらこそ、おかげで助かりました」

 「いや、謝らなきゃいけないよ。それの性能が思ったほどじゃなかったから、ここを見つけるのに時間がかかってしまった。ごめん」

 圭介はそう言って頭を下げた。結局あのあと、ようやく人工衛星がタキオンの発信をとらえ、ポリスジャケット隊とともに彼らは急行したのである。

 周囲では、ポリスジャケット隊によって犯人たちが次々に引き立てられていく。

 「あ・・・!」

 それを見ていた美雪が、突然声をあげた。

 「どうしたの?」

 「皆さんがここに来るすぐ前に、撃たれた人がいるんです! あそこに・・・!?」

 だが、彼女が指差したところには、誰もいなかった。代わりに、そのドアの近くには血だまりがあり、ドアノブにべったりと血のりが付いていた。

 「もしかして、それって・・・」

 「はい・・・。若い、男の人でした。ここにいる間あの人たちの話を聞いてましたけど、たぶん・・・」

 それを聞いて、圭介は仁木に顔を向けた。

 「副隊長・・・!」

 仁木はうなずくと、近くにいたポリスジャケット隊員たちを呼び寄せた。

 「この方をお願いします」

 ポリスジャケット隊員達はうなずき、彼女の警護を始めた。それを確認すると、仁木は圭介と小島に言った。

 「マルチリボルバーはショックモードを使用。いくわよ」

 「「了解」」

 三人はすばやくドアに近づいた。

 「副隊長、俺が突入します」

 仁木がうなずくと、圭介はドアの前に立った。

 バンッ!!

 ドアを蹴破ると同時に、中へ踏み込む圭介。そのあとに、仁木と小島も続く。

 「「「!?」」」

 そこで彼らを待っていたのは、思ってもみない光景だった。

 「やあ・・・来たね・・・」

 そこは殺風景な部屋だった。あるものといえば、ひとつしかない。ガソリンスタンドに置いてあるものとよく似た、大きなタンク。そして、それに寄りかかっている、血で腹を真っ赤に染めた青年だった。片手には、そのタンクからホースでつながったノズルを握っていた。

 「お前は・・・!」

 圭介はその声から、彼が電話の話し相手・・・あのガスの製造者で、今回の事件の首謀者であることにすぐ気が付いた。

 「おい、お前・・・何してんだ!? そのままじゃ死ぬぞ!!」

 青年の銃創からの尋常ではない出血を見た小島は、すぐに近づこうとした。だが・・・

 「何を慌ててるんだい・・・? 見なよ・・・ぼくはちっとも、痛くなんかない・・・」

 青年は、腹から血を大量に流しながら、笑顔を浮かべたのである。その言葉のように、まったく痛みなど感じていないかのように・・・。それは、ゾッとする光景であった。

 「いいかげんやめろ!! たとえ痛みを感じなくても、このままじゃお前は死ぬんだぞ!!」

 「・・・かまわないさ。どのみち・・・ぼくは・・・!」

 そのとき、唐突に青年の手から力が抜け、手に持ったノズルが床に落ちて乾いた音を立てた。その直後・・・

 ドサッ・・・

 青年は、ひざを折って床につっぷした。

 「おいっ!!」

 「しっかりしろ!!」

 あわてて駆け寄る三人。だが・・・青年はうっすらと目を開け、口元に笑みを浮かべながら、小さく言った。

 「何もない・・・痛みも・・・苦しみも・・・。やはり・・・ぼくは正しかった・・・。フフッ・・・楽しかったなぁ・・・」

 それが最後だというように、青年はゆっくりと目を閉じ、動かなくなった。

 「・・・」

 バイザーを下ろし、メディカルスコープで状態を確認する小島。だが、彼は無言で首を振った。

 「なんなんだよ・・・」

 圭介はそう言って、腕の中の青年を見た。

 「お前は一体・・・なんだったんだ・・・」

 結局最後まで、その心を理解することのできなかった相手。それを見ながら、圭介は呆然とつぶやいた。





 試合は、終盤に差し掛かった。14回目のゴングがなる。

 「ハッ、ハッ・・・」

 13ラウンドとの間だけでは整えきることのできなかった荒い息をつきながら、大石はゆっくりとイスから立ち上がった。その顔はすでにあざだらけで、左目の上が切れ、血が流れている。体にもいくつものパンチが叩き込まれ、大きなダメージを蓄積していった。

 「・・・」

 ふと、観客の声援が気になった。明らかに、大石への声援には戸惑いが感じられる。すでにほとんどの観客は、今日の大石がいつも見慣れている「アンデッド・ボクサー」ではないことに気がついていた。パンチを受け、倒れるところも、そのたびに立ち上がるのも、いつもと同じだ。だが・・・いつもの余裕が、そこにはなかった。相手に得体の知れない恐怖さえ与える、不気味な余裕。それが、今日の大石には感じられなかった。そのことに、観客たちは戸惑っていた。

 「・・・」

 大石はそのことを頭から振り払った。そんなことはどうでもいい。ファンが応援してきたのは、本当の自分ではない。今の自分こそ、本当の自分なのだ。ならば、自分が最高の試合をして、改めて彼らから声援をもらえるようになればいいのだ。

 シュンッ!!

 残り少ない体力と気力を振り絞り、拳を繰り出す。だが、放った打撃はいずれも小林の腕によってすばやくガードされた。それがやむと同時に、今度は小林からの強烈なラッシュがかかってくる。向こうも、かなりのダメージを受けている。だが、それは決定的ではない。なにより、気迫や経験においての差は、どうにもならない。

 バグッ!

 「・・・!」

 大石の放った左ストレートが大石の右頬にめり込んだ。観客からどよめきの声が上がる。

 「・・・」

 しかし大石は、なんとか踏みとどまった。そこで再びゴングが鳴る。よろよろと、体を引きずるように大石はコーナーへと戻った。

 「博幸・・・」

 セコンドの熊木が、悲壮な顔をして声をかける。しかし、それ以上の言葉は思い浮かばないようだ。

 「わかってますから・・・大丈夫ですって・・・」

 言葉少なに、大石はそう答えて口の中をゆすいだ。しかし、余裕はない。残された時間は、あと3分。これまでの展開では、最後までリングの上に立っていたとしても判定負けだろう。ましてや・・・先ほど受けたパンチで、実感した。次に食らったら、立ってはいられない・・・。

 15回目の、ゴングが鳴った。

 よろよろと立ち上がり、大石は歩み寄っていく。本当に最後の力で、挑みかかっていった。そして・・・

 バグッ!!

 「!!」

 ドゥッ・・・

 小林のストレートが決まり、大石の体はリングへと倒れた。

 「博幸っ!!」

 最後に、熊木の叫び声が聞こえ、彼の意識は遠のいていった・・・。





 痛い。体中が痛い。これまでの人生で感じたことのない、壮絶な痛み。大石の全身をそれが支配し、立ち上がろうとする気力すら、塗りつぶしていた。

 (ここまでなのかよ・・・。このままじゃ、美雪が殺されちまうんだぞ・・・。それでいいわきゃねえだろ・・・立ち上がらなきゃ・・・立ち上がらなきゃ・・・)

 わずかに働く意識が、そう語りかける。だが、体の方はまったく動こうとしない。これ以上痛みを受けることを、拒絶するように・・・。

 (無茶でもなんでもいい。立ち上がって、勝たないと・・・なのに、くそっ・・・半端じゃねえ・・・なにもできないくらい、体中が痛い・・・)

 そこまで考えて、唐突にある言葉が、思考に割り込んできた。

 「当たり前だろ、そんなこと。殴られれば痛いなんて・・・」

 「!!」

 「当たり前なんだよ、そんなことは。そんな当たり前のことから逃げて、お前は夢叶えようなんて・・・あまったれるな!!」

 閉ざされていたすべての窓が開かれたように、暗闇に沈みつつあった意識が、光に照らされた。

 「そうだ・・・当たり前だよな・・・。当たり前のことに逃げて・・・美雪を見捨ててどうすんだ!!」





 ガバッ!!

 「!!」

 9カウント目で突如起き上がった大石を見て、レフェリーも小林も、驚きに目を丸くした。観客たちも一瞬静まり返ったが、すぐにその場は割れんばかりの大歓声に包まれていた。

 「・・・」

 大石は軽くあたりを見回した。何時間もの間、眠っていたような気分だ。だが、まだ自分は負けていない。

 全身を走る痛みは、消えてなどいない。厳然たる現実として、そこにある。しかし、ただそれだけ。空気を吸うことと同じように、大石は痛みをすでにそこにある、当たり前のものとして受け入れていた。

 「・・・」

 大石はゆっくりとした動作で、ファイティングポーズをとった。

 「ファイト!」

 レフェリーの掛け声で試合が再開される。そのとたん、大石は果敢に攻め込んでいった。ジャブ、フック、アッパー、ストレート。とても先ほどまで、マットに沈んでいた男の動きとは思えない。

 「!!」

 小林は驚きながらもそれを受け、タイミングを狙って反撃を試みる。しかし、反対にその攻撃はすべて、大石の流れるような動きによって受け流された。そして、その一瞬の隙を突いて・・・

 「ッ・・・!!」

 シュッ!!

 大石は、渾身の力を込めた左の拳を、電光のように振り上げていた。





 「ハァ、ハァ、ま、待ってくださぁ〜い・・・」

 「急げ! もたもたしてると置いてっちゃうぞ!」

 「うぅ・・・ひどいです、圭介君・・・」

 「に、新座さん・・・私も・・・もうちょっとゆっくり・・・」

 ひかると一緒に自分の腕をつかんで、関係者用の会場への通路を走る圭介に、美雪はたまらず言った。

 「あ・・・ご、ごめん・・・。どうしても、焦っちまって・・・」

 二人に謝ると、圭介は少しスピードを落とした。

 「でも、早くしないと試合が・・・」

 「わかってます。がんばりますから・・・」

 「私も・・・」

 そう言って、再びペースを上げる三人。やがて、会場から聞こえてくる歓声が大きくなり、そして、彼らの眼前にリングと、それを取り囲む大観衆が写っていた。

 「どうなったんだ・・・?」

 リングの上に目を凝らす三人。見ると、すでに試合は終わってしまったらしく、リングの上では、一人の男がレフェリーによって手を掲げられ、大観衆の声援に応えていた。圭介たちは、その光景に目を見張った。

 「・・・!!」

 それは、大石だったのである。リングの上に立つ大石は、今までのどの試合よりも、誇らしく輝いていた。

 「お、大石!!」

 「か、勝ったんですね!! よかったぁ・・・」

 「お兄ちゃん・・・!!」

 三人はその姿を見るなり、リングへと駆け出した。

 リングの上では、チャンピオンベルト贈呈の式が始まろうとしていた。対戦相手の小林と、互いに満足な笑みを浮かべながら固い握手を交わす大石。そして、チャンピオンベルトが運ばれてきて、プレゼンターによって贈呈されようとする。観客の声援が最高潮に達した。しかし・・・

 「・・・」

 大石はスッと手を差し出し、ゆっくりと首を振った。そして、小林に、レフェリーに、そして、観客たちに・・・深々と頭を下げると、彼はゆっくりと、リングから降りていった。

 「・・・」

 会場が一瞬静まり返り、続いてどよめきの声が会場を支配する。が、そんな声をよそに、リングから降りた大石は、熊木をはじめとするセコンドたちにも、深々と頭を下げた。

 「ご迷惑を・・・おかけしました」

 「まったく・・・やっぱりお前は、大バカだ・・・。だが・・・最高の試合だったよ」

 笑顔で肩をたたく熊木に、大石は再び頭を下げた。と、そのときである。

 「お兄ちゃん!!」

 「!?」

 その声に顔を向けると・・・そこには、美雪が立っていた。

 「み、美雪・・・」

 ふとその後ろを見ると、圭介とひかるが笑顔を浮かべて立っている。それで全てを理解した大石は、ほほを緩めた。

 「お兄ちゃん・・・!!」

 美雪はその華奢な体で、しっかりと大石に抱きついてきた。

 「怪我は・・・ないんだな?」

 痛みをこらえながらも、大石はそう尋ねた。涙目でうなずく美雪。

 「そうか・・・」

 そう言うと、大石は美雪の髪をクシャクシャとなでた。

 「美雪・・・見てのとおりだ」

 「うん・・・おめでとう・・・」

 「迷惑かけっぱなしのダメな兄貴だけど・・・これでようやっと・・・胸を張れる。そうだよな・・・?」

 「うん・・・かっこいいよ、お兄ちゃん・・・」

 そう言って、再び体を大石の胸に預ける美雪。大石は笑顔でそれを見ると、近づいてきた圭介とひかるに顔を向けた。

 「このとおり、しっかり約束は果たしたぞ」

 笑いながら、圭介は言った。

 「ああ・・・さすがは正義の味方だな。大したもんだ」

 大石も、それに笑い返す。

 「大した奴なのは、お前のほうだよ。その腕だけで、ちゃんと勝ってくれたんだもんな・・・」

 「ああ・・・。だけど、自分の力だけじゃない。美雪とか、お前とか・・・いろんな人がいなきゃ、こうはいかなかったよ。一人で勝てるほど、俺はまだ強かない」

 「そんなもんだ。どんなに威張ったって、一人の力なんて限られてるんだから・・・」

 二人がそんな話をしていると、関係者が彼らに近づいてきた。

 「大石選手、何をやってるんです? 早くチャンピオンベルトを・・・」

 「・・・」

 しかし、大石は再び首を振った。

 「申し訳ありませんが・・・俺はこのリングには、本来立つはずのない人間ですから・・・」

 大石はそう言って彼らに頭を下げると、唖然とする関係者たちを背に歩き出した。

 「いいのか・・・?」

 その心はわかっていたが、圭介は改めて確認した。大石は無言で、深くうなずいた。

 「せっかく、勝てたのに・・・」

 ひかるもそれは同じだったが、やはりあきらめきれない様子で言った。

 「ひかる、大石の決めたことだ」

 「・・・はい」

 圭介の言葉に、ひかるは少しの間のあと、小さくうなずいた。四人は並んで、控え室への道を歩き出した。

 「・・・新座。最後にもうひとつだけ、頼んでいいか?」

 「なんだ?」

 「警察までは・・・お前に送ってほしい。頼めるか・・・?」

 「ああ・・・もちろんだ」

 圭介は、しっかりとうなずいた。





 それから数日後。昼食後の第1小隊オフィス。それぞれの机の上に置かれた皿を、当番のひかるが片付けていく。と、圭介の机の前まで来たとき、ひかるの手が止まった。

 「・・・」

 机の上の皿は、すべて空。それはもちろんいつものことなのだが、圭介は新聞を読みながら、複雑そうな顔をしていた。

 「圭介君、さげていいですか?」

 「あ、ああ、ごめん・・・」

 あわてて圭介は、皿を差し出した。ひかるはそれを見ながら、少しいやそうな顔をした。

 「な、なんだよ・・・」

 「お食事のあとすぐに新聞読むなんて、なんだかおじさんみたいで・・・」

 ひかるのその言葉に、小島と聡美がプッと小さく吹き出すのが聞こえた。圭介は横目でそれをジロリと見てから、ひかるに言った。

 「そりゃそうかもしれないけどな・・・こんな記事が載ってたら・・・」

 そう言って、圭介は机の上にバサリと新聞を置くと、一角に書かれている記事を示した。スポーツ欄の記事で「フェザー級プロボクサー・クラッシャー大石 薬物使用により逮捕」と書かれていた。

 「あ・・・ご、ごめんなさい」

 それを見たひかるは、素直に謝った。

 「いや・・・別にいいんだ。いつかは発表されることだから・・・」

 そうつぶやく圭介だったが、やはり元気がない。オフィスの中にも、重い空気が流れている。その時である。

 「ただいまー・・・ん? 妙に暗いな。どうした?」

 午前中から出かけていた小隈が、オフィスへと入ってきた。彼は少しオフィスを見回したが、やがて、圭介に目をつけて近寄ってきた。

 「ははぁ、原因はお前か・・・」

 「・・・」

 小隈は机の上にある新聞を見た。

 「ま、沈む気分になるのはわかるよ。一応解決したってのに、今回の事件には釈然としないことが多すぎるからな」

 「それ! それですよ隊長!」

 聡美が席から立ち上がって言った。

 「結局、何がなんだかわからないまま終わっちゃったじゃないですか。あの薬を作った奴は何者なのかとか、なんであの暴力団はあいつの言うなりになってたのかとか・・・」

 「それは、俺も同感だな。まだ何にもわからないんですか、隊長?」

 「そう言うと思って、本部からの帰りに警察によって、いろいろ耳にいれてきた。ちょうど全員いるようだから、とりあえず、おとなしく席に着け」

 小隈がそう言ったので、とりあえず隊員達は席に着いた。

 「さってと・・・何から話そうかな・・・。やっぱり、お前らが一番知りたがってること・・・あの死んだ男は誰なのか、ってことからいくか」

 事実、それは彼らの一番知りたいことだったので、隊員達は一様にうなずいた。

 「そいつの経歴書だ。回してってくれ」

 そう言って、小隈は一枚の書類を仁木に手渡した。書類に貼り付けられている写真は、間違いなくこの間死んだ青年と同じだった。「大久保和道」。名前の欄には、そう書いてあった。

 「大久保・・って・・・あの製薬メーカーのオオクボですか!?」

 自分に回ってきた経歴書のひとつの欄に、小島は驚いた。件の青年は、日本有数の製薬メーカー、オオクボ製薬の社長の御曹司だったのである。

 「そういうのには珍しく、親の七光りじゃなかったらしい。新薬の研究者として、一流の腕前だったそうだよ。特に、麻酔薬の開発についてはね」

 「たしかに・・・このあいだのリストの中にも・・・彼は入っていました・・・」

 自分のところに回ってきた経歴書を見ながら、亜矢は静かに言った。

 「社長の御曹司かぁ・・・。ちゃんとイメージはできないけど、恵まれてるには違いないでしょ? わがままに育ったりすることはあるだろうけど、それにしたって、なんであんなこと・・・」

 「そりゃあ、俺たちの勝手なイメージだ。金持ちにも中流にも、不幸はわけへだてなく襲いかかるもんさ」

 小隈はそう言った。

 「不幸・・・って?」

 「大久保は、一年前にある病気を宣告された。ライバック病という病気だ。小島、知っているか?」

 「え、ええ・・・もちろん。ウィルス性の脳炎の一種です。定期的に全身に耐えがたい痛みの生じる、ひどい病気ですよ。50万人に一人って言われているほど、発症は珍しい病気ですけど・・・それにかかってしまうなんて、不運としか言いようがないですね・・・」

 「それって、治らない病気なんですか・・・?」

 ひかるの質問に、小島は首を横に振った。

 「いや。特効薬ではないけど、3年前に治療薬が発明されている。ただ・・・それを使っても、完治までには根気強い治療を行っていかなきゃならない。患者にとっては、治るためとは言っても過酷な選択だよ・・・」

 小隈はそれにうなずくと、先を続けた。

 「大久保が何を思ったのかはわからない。ただ、大久保は治療を勧める周囲の声を退け、秘密裏に、麻酔のプロとしての自分の全てを注ぎ込み、例のガス・・・連中は、ヘソリンガスと呼んでいたそうだが・・・それを開発した。痛みを忘れるためにな・・・」

 「それって・・・逃げた、ってことですか・・・? 過酷だとしても、命が助かる道から・・・」

 圭介が静かな声で尋ねた。しばし沈黙が流れたが、やがて、亜矢が答えた。

 「自分の命をどう使うかは・・・最後には・・・自分で決めることだよ・・・。たとえそうだとしても・・・私たちには・・・彼の選択は責められない・・・。逃げたのではなく・・・自分にとってより価値のある道を・・・選んだんだよ・・・」

 「でも・・・!」

 「お前が納得できないのはわかる。けど、患者にその意思がなければ、俺たち医者はどうやったって、患者を治すことはできない。お前ならわかってると思うけど、世の中にはどうしても痛みに耐えられない人間もいる。それ自体は、悪でもなんでもない・・・」

 「・・・」

 小島の言葉を聞いて、圭介は黙った。

 「それで・・・彼はそのガスを、ほかの人間たちにも売りさばき始めた、ということですか?」

 仁木の言葉に、小隈はうなずいた。

 「理性ある行動の要となる全ての痛みを忘れた人間は、檻から解き放たれた野獣のように、ただ快楽のみのために突き進む・・・。彼の場合は、それがああいうかたちとなって現れたのかもしれんな。元からあまり好かれる性格ではなかったそうだが、もしかしたら、痛みから逃れるためにあんなことになってしまった自分と同じような目を、他人にも味わわせてやりたかったという、鬱屈した感情もあったのかもしれない。本人が死んでしまった今となっては、それはわからないがな・・・」

 「ところで、彼を手伝っていたあの男たちは?」

 「あいつらは、竹中商会といって、いわゆる企業の皮をかぶった暴力団だ。とはいっても、最近の暴力団はどこも、国際化による外国犯罪組織の国内への流入のせいで、どこも押され気味だからな。あいつらもそんな連中のひとつで、やっぱり解散の危機にさらされていた。そこへ大久保が現われて、新種のドラッグ・・・つまり、ヘソリンガスの販売を持ちかけた。利益は全部あいつらの懐に入れていいという話だったから、連中、その話に飛びついた。あとは大久保の指示のもと、ちょっとした不幸で落ち込んでる人間をターゲットに定めては、ガスを売りさばいていたらしい。その手口については、大石選手から聞いた話のとおりだ」

 「でも、なんでそんな奴らが、大久保一人の言いなりになっていたんです?」

 聡美が納得のいかない顔で尋ねた。

 「それは簡単さ。連中はガスの作り方に関しては、何も情報を与えられちゃいなかった。ガスの作り方は全て大久保の頭の中に入っていて、他人が見られるような形では残っていなかった。ガスそのものから分析しようとしても、ガスは非常に壊れやすい性質で、よほどの設備がなければ分析は不可能。というわけで、作り方はどうやっても手に入らなかった。普通の人間なら拷問して吐かせるって手もあるだろうが、何しろ、本人がガスを吸ってしまっている。痛みを感じないから、痛みを武器に秘密を吐かせる拷問は通用しない。そういうわけで、下手なことをしていい食いぶちを失うわけにはいかないから、仕方なく連中は大久保に従っていたというわけだ」

 そこで、小隈はタバコに火をつけた。

 「もっとも、大久保本人はこの商売を死ぬまでの時間の暇つぶしとでも考えていたらしいから、そのやり口は危うかった。結局それがもとで企みが露見し、最後にはああいう形で愛想を尽かされてしまったというわけだ。気の毒な男だとは思うが、結局はたくさんの人間が巻き込まれ、死んでいったんだ。やっぱり、同情はできんわな」

 小隈は煙をフーッと吹き出した。

 「・・・とまあ、こんなところが、今回の事件の真相だが・・・全部話しても、やっぱり釈然とせんな・・・」

 小隈の言葉どおり、隊員たちの表情は今ひとつ晴れやかではないものだった。

 「結局、俺たちは何を守れたんでしょうかね・・・」

 と、圭介がポツリとつぶやいた。

 「ガスのために死んでいった人たちはもちろん、ガスを作った張本人の大久保も死んでしまった・・・。大石のように死なずにすんだ人もいますけど、その人たちはこれから長い間、その禁断症状と戦っていかなくてはいけない・・・。俺たちが守れたものは、守れなかったものにくらべて、どれぐらいなんでしょうか・・・」

 圭介の言葉に、しばしの沈黙が流れた。

 「こう言って納得してほしいとは思わないけど・・・」

 やがて、仁木が答えた。

 「誰も傷つかない犯罪なんて、この世には存在しないわ。時には守れなかったものの方が多い事件というものもある」

 「・・・」

 「でも、私たちがそれを止めたことは、決して無駄じゃない。それがどれだけ少なくても、私たちが守ることができたものはあるんだから」

 「でも、それじゃ守れなかった人たちは・・・」

 「もちろん、そういう人たちを忘れろとは言わないよ。むしろ、その逆だ」

 小隈が仁木の代わりに言った。

 「守れなかったものの方にどうしても考えがいってしまうなら、とことん突き詰めろ。それだって、次の仕事の力になる。こういう悔やまれる事件や事故でこそ、人を助けるのがどれだけ難しいか、人の命がどれだけ重いか、考えるいいチャンスなんだ。だから、次はもっといい仕事をしよう、もっとたくさんの人を助けるんだって気になる。お前のそういう考えは、悪いことじゃないよ。考えることで仕事に悪い影響じゃなく、いい影響が出せるのならな」

 そう言って、小隈は笑った。圭介はしばらく黙っていたが、

 「・・・ちょっと、頭冷やしてきます」

 と言って、オフィスから出て行ってしまった。

 「ありゃあ・・・相当悩んでるね・・・。追っかけて、ジョギングにでも連れ出そうかな? 潮風に当たりながら走れば、ちょっとは悩みも吹き飛ぶかも」

 それを見た聡美が、誰ともなくつぶやいた。と、当然のように横槍が。

 「やめとけよ。そんな簡単にいくほど、あいつは単純なつくりになってないって」

 「ちょっとぉ!? ひどい言い草じゃない!! あたしがそんながさつだって言うの!?」

 「なんでもかんでも運動で発散させるのが一番だって考えるのは、どう考えたって単純じゃないかよ」

 「小島さん、それでも医者!? 健全な精神は健全な肉体に宿るって言葉、知らないの!?」

 「お前こそ意味わかって言ってんのかよ!?」

 「のんきだね、二人とも・・・」

 亜矢の厳しい一言に、グサリと刺された二人が沈黙する。お決まりの口げんかが幕を閉じるのを見計らったように、小隈が口を開く。

 「ま、あれが新座のいいところではあるがな。「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ、生きている意味がない」・・・あいつは強いし、優しいよ」

 「フィリップ・マーロウのセリフですね? 隊長が知ってるとは、ちょっと驚きです・・・」

 仁木が意外そうな顔で言った。フィリップ・マーロウとは、アメリカの小説家、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する、ハードボイルドの元祖とも呼ばれる私立探偵である。

 「ハードボイルドものは好みでね。お前ほどじゃないが、ちょっとは自信がある」

 小隈がニヤニヤしながら言っていると・・・

 「・・・私、ちょっといってきます!」

 それまで黙っていたひかるが立ち上がり、オフィスから出て行った。

 「ま、一番の解決法はあれだろうけど・・・」

 小隈の言葉に、反論の言葉をさしはさむ者はいなかった。





 「・・・」

 グラウンドを臨む通路の柵に腰かけ、圭介は手空きの整備員たちの興じているキャッチボールの様子をぼんやりと眺めていた。と、そのときである。

 「圭介君」

 振り返ると、そこにはひかるが立っていた。なぜか皮のエプロンを身に付け、手には軍手という、奇妙な格好だったが。

 「なんだ、ひかるか・・・」

 「なんだじゃありません。やらないんですか、キャッチボール?」

 キャッチボールの様子を見ながらひかるが言ったが、圭介は首を振った。

 「誘われたけどね。仕事ならともかく、今はああいうふうに体動かそうっていう気になれなくてさ」

 「ふうん・・・。つまり、ひまってことですよね?」

 「身も蓋もない言い方するな、お前・・・。まあ手っ取り早く言えば、そういうとこかな。昼休みも、もうあんまり残ってないけど・・・」

 苦笑いしながら、圭介は答えた。

 「それなら、ちょっと手伝ってくれませんか?」

 「ああ、いいけど・・・なんだ? トイレ掃除か?」

 「違いますよ! とりあえず、これを持ってください」

 そう言ってひかるが差し出したのは、彼女が着けているものと同じ皮のエプロンと軍手、それに、なぜか剪定ばさみだった。

 「?」

 それを受け取って怪訝そうな顔をする圭介に対して、ひかるはニッコリと微笑んだ。





 「お、おい・・・ここって・・・」

 圭介は目の前の光景に、途方に暮れていた。

 そこは分署の建物の裏手にあたる場所であった。裏手とは言っても東に面しているので、なかなか日当たりがよい。しかし、なぜかそこにはひんやりとした空気とともに、得体の知れない雰囲気が漂っていた。それもそのはず。目の前の柵をはさんだ一歩向こうには、大小さまざまの見たこともない植物が繁茂しているのだから。

 「さあ、行きますよ」

 そんな圭介とは対照的に、ひかるは柵に設けられた扉を開けて、中に入ろうとした。

 「お、おい! 大丈夫なのかよ!? ここって、亜矢さんの薬草園だろ!?」

 圭介の言葉どおり、そこは亜矢が実験の材料に使う薬草を栽培している薬草園だった。だが、もちろんただの薬草園ではない。第1小隊最大のミステリースポットとして、整備班の間では「禁断の森」とまで言われている場所である。理由はもちろん、明らかに不気味な植物が多数生えているからである。この一角は亜矢によって一応許可なしの立ち入りは禁止されているが、それは薬草を採られるのを防ぐというより、入った者が悲惨なことになるのを防ぐためという理由かららしい。そんなわけで、この薬草園には真偽不明の様々な噂が流れており、普段は近寄るものもいない。

 「大丈夫ですよ。許可はもらってますし」

 そんな中へ、恐れもせずに入っていこうとするひかる。

 「そういうことじゃなくて・・・おい、置いてくなよ!」

 しかたなく、慌ててひかるのあとを追い、薬草園の中へと入っていく圭介。





 道らしき一本の線をずんずんと突き進んでいくひかると、そのあとをおっかなびっくりついていく圭介。いつもとはまったく逆の光景である。

 「な、なあ・・・本当に大丈夫なのかよ・・・」

 薬草園の中は、なぜか薄暗い。周りに生えている植物も、見たこともない奇妙なものばかり。たまにきれいな花を咲かせているものもあるが、その美しさも、どことなく妖しいものばかりである。

 「大丈夫です。なにもしなければおとなしいですし、悪い人はいませんし」

 「いや・・・「何もしなければ」って・・・。「悪い人はいない」って、そうじゃない人ならいるってのか・・・?」

 ひかるの言葉に、圭介はますます困惑した。目の前の相手が、自分の知っている相手ではないような気がしてきて、少し不安になる。

 「ひかる・・・」

 「なんですか?」

 「頼むから・・・そのままのお前でいてくれ・・・」

 「?」

 圭介の言葉に、ひかるはよくわからないという顔をした。とにかく、そんな道をたどっているうちに、二人は開けた場所についた。

 「どうですか?」

 「うわぁ・・・」

 圭介は、口を開けるしかなかった。これまでの道筋とは違い、そこは燦燦と太陽の光が降り注ぐ、明るい場所だった。そんな太陽の光を浴び、様々な美しい花や観葉植物がのびのびと育っている。

 「どうしたんだ、これ・・・」

 圭介が尋ねると、ひかるは「エヘヘ・・・」と笑ってから言った。

 「亜矢さんにちょっとスペースを分けてもらって、育ててきたんです。動物だけじゃなく、植物にも詳しくなろうと思って・・・。亜矢さんも手伝ってくれましたから、短い間でここまで育てることができました。すごいでしょう?」

 「ああ・・・すぐにでも植物園として開業できそうだな」

 色とりどりの花を見ながら、圭介はため息をついた。

 「バラ園はこっちです。行きましょう」

 ひかるに連れられ、圭介は先へと進んだ。そこはガラス張りの温室で、中にはやはり様々なバラが咲き乱れていた。

 「へぇ・・・特にすごいな、ここは・・・」

 「デリケートな品種もあるから、特別に温室で育ててるんです」

 と、圭介の目がその一角に留まり、丸くなった。

 「おぉ!? なんだよこのバラ・・・すごいな・・・」

 それは、人の背丈ほどもある巨大なバラだった。真っ赤に咲き誇ったその花も、人間の頭ぐらいの大きさがある。思わず圭介が、それに触ろうとしたとたん・・・

 「あっ!? ダメです、圭介君!!」

 「えっ・・・?」

 シャアアアアアアアアアアッ!!

 ひかるが叫ぶのとほぼ同時に、なんとそのバラのトゲだらけの蔓が人間の腕のように振り上げられた。

 「うわっ!?」

 思わず倒れこむ圭介。その前に、ひかるがすばやく割り込み、叫んだ。

 「すいませんエリカさん!! やめてください!!」

 その声とともに、振り上げられた蔓の動きがピタリと止まる。

 「悪気はなかったんです。私の大切な人ですから、やめてくれませんか・・・?」

 ひかるがさらにそう言うと、バラはその蔓をゆっくりと下ろし・・・

 ズルズル・・・

 無数の蔓を引きずりながら、温室から出ていった。

 「大丈夫ですか、圭介君? すいません、教えるのを忘れてました・・・」

 圭介を助け起こしながら、ひかるは謝った。

 「あ、ああ・・・。なにがなにやら・・・。なんなんだよ、あのお化けバラ・・・」

 「亜矢さんが品種改良して作った、「ビオランテ」っていう品種なんです。名前は「エリカさん」って言うんですけど・・・」

 「エ、エリカさん?」

 「はい。あのとおり、ただのバラじゃなくて、お花の精霊が宿ってるらしいんです。亜矢さんが言うには、バラというよりバラの形をした妖精さんらしくて、言葉はしゃべりませんけど、私たちの言うことはわかるんです。私や亜矢さんだけじゃこの植物園のお世話が全部できませんから、いつもはああやって見回りながら、お手伝いもしてくれてるんですよ。普段はとってもいい人なんですけど、今みたいに知らない人が不用意に触ろうとしたりすると、驚いて蔓を振り回してしまうんです。すいません、大事なこと教えるのを忘れて・・・」

 「い、いや・・・。いいよ、悪いのは俺みたいだし・・・」

 ここが亜矢の庭の一部だということを忘れていた自分が悪い。圭介は、つくづくそう思っていた。

 「びっくりさせちゃって、ごめんなさい・・・。早くバラの剪定、始めましょう」

 「ああ、そうだな・・・」

 圭介は苦笑いをすると、壁一面のバラに向かった。

 「ちゃんと花が開ききったものを切ってくださいね?」

 「ああ、わかってる」

 圭介はひかると一緒に、特にきれいだと思えるようなバラの花を、一本一本注意深く切り取っていった。彼らがここに来た理由こそ、これであった。署内に飾るバラの花をとるため、ひかるは圭介に手伝ってくれるよう頼んだのだった。そうしている間にも、あらかじめ持ってきたかごの中に、色とりどりのバラの花が投げ込まれていく。と、そのときである。

 「痛っ・・・!」

 ひかるが小さな声を上げて、バラの花から手を遠ざけた。

 「どうした!」

 それを聞きつけ、圭介が駆け寄る。ひかるは苦笑いしながら、軍手をはずした。

 「すいません、たいしたことありませんけど・・・トゲを刺しちゃいました。慣れてるからって、ちょっと調子に乗っちゃいましたね・・・」

 そう言いながら、血の出ている左手の人差し指を口に含むひかる。

 「なんだ・・・。でも、ほっとくのはよくないな。ちょっと貸してみろ」

 圭介はそう言うと、ハンカチを取り出した。

 「ちょっときつく縛るぞ」

 「す、すいません・・・」

 その言葉どおり、圭介は人差し指に少し強めにハンカチをしばりつけた。

 「応急処置はこれでよし。あとは俺がやっとくから、先に戻って小島さんに手当てしてもらえ」

 「ありがとう・・・。でも、もう少しですから、終わるまで待ってます」

 「・・・そうか? なら、そこに座ってろ。すぐに終わらせるから・・・」

 ひかるはうなずくと、言われたとおりにこしかけ、左手に結ばれたハンカチを大事そうになでながら、圭介の作業を見守った。





 「少しは、元気になってくれましたか?」

 「ん・・・?」

 植物園からの帰り道、ひかるは圭介に尋ねた。

 「あ、ああ・・・。たしかにきれいな花を見たり、花のいい薫りを吸ったりして、だいぶ気分は晴れたな。サンキュー、ひかる」

 圭介がそう言うと、ひかるは照れ笑いを浮かべた。だが、ひかるはすぐに真剣な顔になって、圭介に尋ねた。

 「あの・・・圭介君・・・」

 「なんだ?」

 「こんなときに聞くべきじゃないかもしれませんけど・・・美雪さんは、これからどうするんですか?」

 ひかるは心配そうな顔で言ったが、圭介は笑って答えた。

 「・・・心配するな。このあいだ言ってただろ? 奨学金とか、なんとかあてはあるって。このあいだ連絡があったんだけど、その申請に合格したらしい。とりあえず、これで卒業までの学費はなんとかなるって言ってたよ」

 「本当ですか? よかった・・・。でも、それでも大変ですね。当分は、一人で生活しなきゃならないんですから・・・」

 「そうだな・・・。だけど、お前ならわかると思うけど、美雪ちゃんなら大丈夫だよ。きっと立派な看護婦さんになって、たくさんの人を助けられるさ。それが、彼女の夢なんだから」

 圭介の言葉に、ひかるはうなずいた。

 「夢で思い出したけど・・・大石も、まだ夢を捨てちゃいない」

 「え?」

 「あいつ、恥ずかしそうに言ってたよ。もうリングに立つのはあきらめるつもりだったのに、いざリングに立つと、またここに立ってみたいって欲が出てきちゃったって・・・。何年かかるかわからないけど、絶対罪を償ってまたリングに立つ。そう言ってた。口には出さなかったけどそれだけじゃなくって、今度こそ自分の力だけでチャンピオンになりたいって、そこまで思ってたな、きっと・・・」

 「いいことじゃないですか。そういうのを、ハングリー精神っていうんですよね?」

 「ああ。ある意味、ハングリー精神の塊かもしれない。なんにしろあいつは、もう間違いは犯さないだろう。立派なお兄ちゃんとして、美雪ちゃんのところに戻ってこれるだろうさ」

 「はい。でも、楽しみですね。大石さんがまた復帰したら、また二人で見に行きましょうよ、ボクシング」

 「あ、ああ・・・」

 圭介は少しドキリとしながらも、うなずいた。ふと見ると、ひかるは指にしばられたハンカチをなでている。

 「大丈夫か? 指」

 「はい、大丈夫です。でも・・・」

 「なんだ?」

 「さっき、また改めて思ったんです。やっぱり痛みって、大事なんだなって・・・」

 ひかるの言葉に、圭介は首をかしげた。

 「体の傷でも心の傷でも、傷ついたとき誰かがすぐに来て手当てしてくれたり、慰めてくれたりするのは・・・その人も、同じ痛みがわかるからだと思うんです。でも、もし痛みを感じなかったら、誰も助けようとはしない。それがもとで、手遅れになっちゃうことだってあるかもしれない・・・」

 「・・・」

 「今度のことで、わかったんです。痛みは、ただ自分に危険を伝えるだけのシグナルじゃない。同じ痛みがわかるから、人間は人間同士助け合える。同じ痛みがわかるから、人間は人間らしく、お互いに思いやりを持って生きていられるんだって・・・。痛みがわかるって、本当に素晴らしいことなんですね・・・」

 「ああ、本当だな・・・。忘れちゃいけないよ。誰かの痛みを感じる心は・・・」

 圭介はそう言って、ひかるの手を握った。少し強かったが、ひかるはそれにも優しく微笑んで、その隣を歩き続けた。


関係用語解説

・ヘソリンガス

 てんとうむしコミックス第25巻「ヘソリンガスでしあわせに」に登場。小説中にあるとおり、心体両方のあらゆる「痛み」を消し去る効果のあるガス。ガソリンスタンドに置いてあるガソリンタンクそっくりの形状をしたタンクに入っており、へそから体内へ注入することが名前の由来と思われる。注入すると30分間は効果が持続し、その間はあらゆる「痛み」を感じなくなる。その副次的効果と思われるが、目の前がバラ色になったような幸福感まで感じられるという。ただし、その効果が切れると痛みがぶり返し、それに耐え切れない使用者はまたヘソリンガスの投与を行う・・・という悪循環が続けられる。使用を続ければ痛覚が完全にマヒし、事故や怪我への警戒心、良心、罪悪感、羞恥心といった安全な生活を送るための無意識のストッパーが外れ、犯罪や事件、事故につながる恐れがあり非常に危険である。言うまでもないことだが、これは麻薬や覚せい剤といった薬物とまったく同じ性質をもっている。原作ではススキヶ原中の子供たちがこのガスのとりこになる、いわば集団麻薬中毒の光景が描かれたのだから、考えてみればF先生もヘビーなものを描いたものである。数々の危険な道具を所持するドラえもんだが、これと地球破壊爆弾に関しては、どうやっても言い訳はできないであろう。

 小説中のヘソリンガスは、ほとんど原作のヘソリンガスと同じものである。ただし、効果の持続時間については原作に比べて非常に長く、初使用時には約1ヶ月は効果が持続する。ただし、その持続時間は投与を繰り返すほど短くなっていき、最終的に完全に痛覚の麻痺した使用者は自分の命の重みすら忘れ、自滅的行為の末に自ら命を落とす。


おまけコーナー(対談式あとがき)

 作者「影月」

 聡美「聡美の」

 二人「「おまけコーナー!!」」

 聡美「・・・って、なにやらせんのよ!!」

 作者「おや、お気に召しませんか? 次回予告はあんなに楽しそうに
    やってたのに」

 聡美「だってあれは、最後にアンパン食べられるもん」

 作者「食い意地張ってるなぁ・・・」

 聡美「それはそうと、なんなのよこのタイトルコール! 次回予告より
    ずっと元ネタがマイナーじゃない!」

 作者「あ、わかりますか?」

 聡美「悲しいけどね。わかる人いるのかしら、「お笑いマ○ガ道場」なんて・・」

 作者「懐かしいよねー。富○先生とか鈴○先生とか・・・」

 聡美「サ○エさんに比べたら、ずっとマイナー度アップだよ・・・。
    それにしても、単発の作品にまで呼ばれるなんて思わなかったわ」

 作者「あ、いやでしたか?」

 聡美「ううん、別に。今回あんまり出番なかったし」

 作者「・・・。さっきから伏字ばっかりですね。そろそろ本題に入りましょう」

 聡美「あんたのせいでしょ! まあそれはともかく、今回はヘソリンガスねぇ・・・」

 作者「はい。やっぱり、この道具を取り上げないわけにはいかないでしょう。
    どう考えたってドラッグですから」

 聡美「なんか自殺者とか事故死者とか、たくさん出てるけど・・・」

 作者「現実に出回ったら、こんなことになるんじゃないかと。原作は
    怖い道具の割にはいまいち恐怖感がなかったので、薬物のリアルな恐怖を
    こういうかたちで書いてみたつもりなんですけど・・・」

 聡美「ま、それが成功したかどうかは、読者の皆さんに判断してもらうしかないわね」

 作者「そういうことですね。それじゃ聡美さん、締めの言葉を」

 聡美「「ダメ 絶対」。やっぱりこれでしょ」

 作者「・・・ありがとうございました。なんか健全だなぁ。それでは、このへんで」

 聡美「あれ? これで終わり? アンパンは?」

 作者「ありませんよそんなもの。次回予告でさんざん食べたでしょう? デンジブルーですかあなたは」

 聡美「さ、最後までマニアック・・・」


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