雪。日本という国の自然を考える上で、この自然現象を抜きにして考えることは不可能であるといえるだろう。雪という存在は、晴れや雨といった単なる気象条件ではない。それは、日本という国に住む人々の生活にまで深い影響を与えるものなのである。

 海に囲まれた国土のほとんどを山が覆う国である日本は、山と海の国であるといえるだろう。そして、関東北部以北の山岳部には、豪雪地帯と呼ばれる場所が無数に存在する。そこで暮らす人々は、毎日のように降り続き、地面や屋根の上に壁のように高く積もり、春の雪解けまで全てをその中に閉ざすようなすさまじい雪の中で生活していく知恵を身につけていった。合掌造りと呼ばれる、手のひらを合わせたような急勾配をもつ民家の屋根のつくりはその一例であり、合掌造りの民家群は世界遺産としても登録されている。

 雪深い土地で暮らす人々は、そうした知恵を身につけていかなければ生きてゆくことはできなかった。なぜならば、雪とは自然現象の中でも特に恐ろしい性質を持ったものであるからだ。特に恐ろしいのは、吹雪である。それは全てを白い世界に覆ってその中に立つ人間の目を無意味なものにし、厚く降り積もった雪は前へ進むことを頑なに拒み、風とともに激しく吹きつける雪はその体力を奪い、死への眠りを誘う。

 それと同時に雪とは、最も美しい自然現象の一つである。音もなく降り積もり、全ての風景をその下に覆い隠し、白一色に包み込んでいく雪。それは幻想的な美しさをもち、多くの人々をひきつける。小泉八雲がその著書「怪談」に収録し、雪にまつわる民話としてもっともよく知られた民話となった「雪女」。そこに登場する雪女は、恐ろしくも美しい存在として描かれており、その意味において、一方では激しく吹いて人々の命を奪い、一方ではその幻想的な美しさで人々を魅了する雪という存在を見事に表現したものであるといえるだろう。

 雪のもつ相反する魅力というものは、これから先、どれだけ科学が発展しても色あせることはないだろう。雪は、人の生まれるはるか以前から、音もなく降り続けているのだから・・・。




Extra Episode Vol.2

雪の童話


 そこは、とある小高い山の頂上にある、コンクリートで作られた建物だった。建てられてからかなりの年月がたっているうえ、手入れもされていないらしく、壁には風雨による汚れや亀裂が目立つ。

 ギィ・・・

 「・・・」

 その人物は、その建物を囲う壁にある錆びついた格子の扉を開けて、敷地の中へと足を踏み入れた。年のころは、30歳ほどであるだろうか。薄茶色のコートを羽織った長身の男で、派手さはないが、独特の深みのある雰囲気を持っていた。この建物の人間ではないが、彼は意に介することなく、足を進めていった。

 カン・・・カン・・・

 建物の壁に沿って取り付けられた、やはり錆びついた外階段を彼が登っていくたびに、その足が乾いた音をたてる。

 途中の踊り場で、彼は立ち止まってコートの襟を正した。ふと口をついて、白いため息が出る。彼が空を見上げると、そこには灰色の雲が一面に低くたちこめていた。彼は手に持ったものを持ち直し、再び階段を上がり始めた。

 カン・・・カン・・・カン・・・

 やがて、彼は屋上へとたどり着いた。いつもならば彼はそのまま、そこに置いてある粗末なパイプ椅子に腰掛け、自分のやりたいことを始めるはずだった。だが・・・

 「・・・?」

 彼はそこで、足を止めた。屋上に二つ置いてあるパイプ椅子のうちの一つに、見知らぬ人間が腰掛けていたのだ。

 それは、美しい少女だった。足元まで届く白いロングコートを着て、彼女は椅子に腰掛け、黙ってそこから見える町の遠景をじっと見ていた。年は16、7歳ぐらいだろうか。着ているコートに負けないほどの色の白さが印象的な少女だった。

 彼が何も言わずにゆっくりと近づくと、それに気づいた彼女は、少しあわてた表情を見せた。

 「あ・・・! ここ、入っちゃいけない場所なのかな?」

そう言って立ち上がる少女。だが、彼はそれに首を振った。

 「いや・・・僕も、ここの人間じゃない。ここに誰が入ろうと、もう気にする人間はいない。そこにいたいなら、気にしないでいてもいい」

 彼はそう言うと、彼女の横に置かれたパイプ椅子に座り、手に持ったものを自分のひざの上に広げた。何も描かれていない、真っ白なスケッチブックを。と、そのとき・・・

 ポツッ・・・

 その白い紙の上に、輪郭のぼやけた円が一つ、にじんで生まれた。彼が空を見上げると・・・灰色の空から、白く小さなものが、ハラハラと舞い降り始めていた。

 「雪・・・降り始めたね・・・」

 隣から、彼女のつぶやき声が聞こえた。





 「あー・・・本格的に降り始めちゃいましたね・・・」

 まだ姿を見せていない小隈の席の後ろの窓から外を見て、圭介はつぶやいた。彼の言葉どおり、窓の外では白い雪が本格的な降り始めの様子を見せていた。

 「こりゃ積もっちゃうかな・・・まずいぞ」

 「テレビをつけてみて。天気予報をやっているはずだわ」

 「了解」

 仁木にそう答えると、小島は自分の机の上の端末をテレビに合わせた。映ったチャンネルではちょうど、アナウンサーとお天気キャスターが立体天気図を前に解説をしていた。

 「・・・それでは、これは本格的な雪雲であるということですか?」

 「そうですね。非常に冷たい空気が関東上空に止まっている状態で、広範囲にかけて強い雪が降ることが予想されます。これまでの気象データによれば、明日にはこの冷たい空気は低気圧ごと北東の海上へ抜けていくことが予想されますが、それでも今日夜半まで降り続くことは間違いないでしょう・・・」

 解説はまだ続いていたが、小島はそれを聞いてうんざりした表情をした。

 「うぇー・・・夜中まで降るのかよ。たまんないな・・・」

 そう言って小島がしかめ面をした、そのときだった。

 「おはようございます。寒いですねぇ」

 「見てよほらほら! 雪だよ雪!」

 ひかると聡美が、オフィスへと入ってきた。入ってくるなりの聡美のはしゃぎ声に、小島は耳を押さえた。

 「ダーッもう!! うるせえなお前は! 雪だからって何がうれしいんだよ!!」

 「だってあたし、九州から上京してから本格的な雪見るの初めてなんだもん。もううれしくってうれしくって」

 「ったく・・・。雪が降って喜ぶのなんて、ガキか犬ぐらいなもんだぜ」

 「スキー場のオーナーとかも喜ぶと思いますけど」

 圭介の言葉に、小島は話の腰を折られた。

 「んなことはどうでもいいんだよ・・・。東京みたいな大都市に降る雪なんてな、百害あって一利なしなんだ。まだ大学病院にいたときに、それはもう痛感済みだ」

 「何かあったんですか?」

 ひかるの言葉に、小島はうなずいた。

 「5年前にも、今日と同じように記録的な大雪が降ったことがあったけど、そのときうちの病院はてんてこ舞いだったぜ。視界不良で続出した衝突事故の患者とか、道で滑って転んで頭を打った患者とかが次々運ばれてきてさ・・・」

 「たしかに、小島君の言うことはもっともね。でもそもそも、東京のような大都市が自然災害そのものに対する対策をとっていないことが間違いだとも言えるわ」

 仁木が同意したので、全員が彼女の方を向いた。

 「大雨や大雪のような災害に対して、大都市がどれだけ抵抗力がないかは20世紀から警告されていたことだわ。それなのに今でも大都市は、人と物をどれだけ効率的に移動させるかにだけ視点の中心を置いた作られ方をしている。たしかにそういう災害は、起こるか起こらないかくらいの頻度かもしれないけど・・・万一のことまでを考えに入れた都市づくりを行わない限り、本当に都市が安全といえる日は来ないわ」

 「人間の力はまだまだ自然の力には到底及びませんからね。せめて、それをなめてかからない謙虚な姿勢ぐらいはいつももっていないと・・・」

 圭介もうなずく。

 「でも、今降ってるこの雪・・・すごくきれいな雪ですね」

 ひかるが窓の外を見ながらそう言った。聡美が首をかしげる。

 「それって、普通の雪とどう違うの?」

 「私の住んでた旭川でも、本当に寒い日にしか降らないようなきれいな粉雪なんです。手の上に落ちてもすぐには溶けなくて、自分の目でも雪の結晶がわかるくらいなんですよ。積もったらたぶん、それを踏んでもキュッキュッていう音がすると思います。東京でこんな雪が降るなんて、すごく珍しいと思います」

 「粉雪かぁ・・・。ねぇひかるちゃん、ほかにはどんな種類の雪があるの?」

 「いっぱいありますよ。春先に降る綿をちぎったような雪は綿雪って言いますし、はらはら降る細かい雪はささめ雪とか言います。ほかにも、雪の種類によっていろんな呼び方があるんです」

 「へぇ・・・そんなにいろいろあるんだ」

 と、聡美が感心した表情を浮かべていると・・・

 「それだけ日本人と雪とは・・・深い関係があったということだよ・・・」

 その声に振り返ると、いつのまにか亜矢がそこに立っていた。

 「あ、おはようございます、亜矢さん」

 「おはよう・・・。話は聞かせてもらったよ・・・。ひかる君は・・・美しい日本語を知っているね・・・」

 「え・・・? 美しい日本語・・・?」

 突然そんなことを言われて、ひかるは戸惑った。そんな彼女に、亜矢は微笑を浮かべて言った。

 「雪についての細かい表現は・・・日本語特有の美しい財産だよ。これほど雪について細かい表現をするのは・・・日本人だけだからね。例えば・・・英語では、雪は「Snow」の一語で済まされてしまう・・・」

 「そういえばそうですね。でもそれって、どうしてなんですか?」

 「その言語を使う民族にとって、特に深い関係のあるもの・・・どんな言語も、そういうものの微妙な違いを言い分けるために・・・多様な単語を生み出すんだ・・・。日本の場合は・・・雪や雲などが・・・そのいい例だね・・・」

 「じゃあ、ほかの言葉ではどんなものがあるんです?」

 「聞いた話では・・・アラビアでは、ラクダがそうらしいね・・・。病気のラクダとか、妊娠したラクダとか・・・私たちにとっては不要と思えるほど多様なラクダを言い分けるための単語が・・・アラビアには存在するらしい・・・。もっとも、彼らにとっては・・・私たちの雪をあらわす単語の数々こそ・・・不要に思えるだろうけどね・・・」

 「ラクダを細かく分ける言葉がズラズラあるよりは、雪についてそういう言葉が同じようにある方が、ずっとロマンチックですね」

 圭介が苦笑する。

 「私も・・・そう思うよ。日本語のそういう美点は・・・大事にしていかなければいけないよ・・・」

 亜矢の言葉に、全員がうなずく。

 「朝からためになる話聞いちゃったな・・・」

 「すまなかったね・・・」

 「いいんですよ亜矢さん! 勉強になったんですから」

 「それにしてもさすがね。民俗学にも詳しいなんて・・・」

 「世界各地の魔術を知るためには・・・それと深いかかわりのある民俗性を知ることも・・・必要不可欠ですから・・・」

 亜矢はそう言って微笑むと、ゆっくりと窓際へと歩いていって、雪を眺め始めた。それをひと段落に、仁木が言った。

 「もうすぐ隊長も出てくるはずだわ。今日は忙しくなるかもしれないから、早めに始業業務を始めましょう」

 「了解!!」

 隊員たちはうなずくと、それぞれテキパキと動き始めた。

 「・・・?」

 が、まだ窓際に立っている亜矢を見て、圭介は彼女に近づいた。

 「亜矢さん、始業業務を始めましょう」

 「あ・・・ああ、ごめん。すぐに始めるよ・・・」

 亜矢はそう言ったが、まだ何かが気になっているような様子で、窓の外をちらりと見た。

 「なにか、気になることでも?」

 「・・・いや・・・なんでもないよ。悪かったね・・・」

 亜矢はすまなそうな笑みを浮かべると、足早に自分の席へと歩いていった。





 ギュッ・・・

 彼が段の上に足を下ろすと、その足元から雪を踏みしめる独特の音がした。久しく聴いていない音だ。彼はそう思った。粒が小さく適度に硬い雪が降り積もり、自らの重みでぎっしりと圧縮された雪の層でなければ、踏みしめてもこんな音はしない。彼はその音に、心地よさを感じていた。

 昨日の朝から降り続けている雪は、彼の住むこの町も一面の銀世界へと作り変えた。それは彼がよく訪れる、かつては気象庁の測候所として使われていたこの無人の建物の上にも、厚く降り積もっていた。彼は錆びついた外階段とその手すりの上にも厚く積もった雪を滑らないように落としながら、注意深く足を踏みしめ、慎重に階段を上っていた。普通ならこんな骨の折れることを好んでするような人間はいないが、彼の心は少し弾んでさえいた。

 今日の彼は、格好もいつもとはやや違っていた。厚手の茶色いコートはいつもと同じだが、さらに頭にはつばの広い帽子、首には白いマフラー、手には手袋と、今も降り続く雪と身を切るような寒さに対して完全武装といった感じである。さらに、背中にはいつも持ってくるスケッチブックと画材を入れたリュックサックを背負い、右腕ではなぜか、夏のビーチに立てるような大きなパラソルを畳んで持っていた。

 彼はそんな、少し奇妙な姿でゆっくりと外階段を上がっていった。そして、彼は屋上に着いたが・・・

 「・・・!?」

 彼は、昨日と同じくそこで驚くことになった。いや、昨日よりも驚くことになった。

 屋上にもまた、ほかと同じように厚い雪が積もっていた。だが、それだけではなかった。なんとそこには・・・昨日とまったく同じように、パイプ椅子に座って折り畳み傘をさし、微動だにせずじっと雪の積もった町を見ている、昨日の少女の姿があったのだ。

 「・・・おい!!」

 彼はその姿を見るなり、持っていたパラソルをほうり捨て、積もった雪に足をとられながら彼女に駆け寄った。

 「おい! しっかりしろ!!」

 彼がそう叫ぶと、予想外に彼女はすぐに反応した。

 「おはよう。すっかり積もったね・・・」

 そう言って彼女は色の白い美しい顔を彼に向けて、にっこりと微笑んだ。彼はあっけにとられたように彼女を見ていたが、やがて彼女の足を見て、愕然とした。

 白いコートからのぞく黒いブーツは、屋上に積もっている雪にくるぶしのあたりまで埋もれていた。

 「お前まさか・・・あれからずっとここにいたのか!?」

 彼のその問いに、彼女はこくりとうなずいた。

 「バカ!! 寒くなるから自分の家に帰れと言ったじゃないか!!」

 彼は激しい調子でそう言った。昨日彼女は、雪の中で町のスケッチをしていた彼の隣で、何をするわけでもなくじっと町を見ていた。やがて、彼は3時頃絵を描き終わったが、彼女はまだそこにいたいというので、自分が使っていた折り畳み傘を貸して、暗くなる前には自分の家に帰るように強く念を押して帰ったのである。彼女の姿は、帰り際に振り返ったときに見た姿を、時間だけ経過させたものそのものだった。

 「だって・・・見たかったんだもん。雪が降って、町が白くなってくのを・・・」

 彼女はしゅんとしながらも、怒られた子供が言い訳をするように小さく言った。

 「なに言ってるんだ!! 普通だったら凍死してても当然なんだぞ!!」

 そう言っている彼自身、信じられなかった。雪など降っていなくても、真冬の夜に路上で生活するホームレスが凍死するような事故は珍しくはない。一応防寒対策はしているとはいえ、一人の女性が雪や冷たい外気にふきっさらしのこの屋上で一晩を明かして無事でいられるなど、普通ならありえない。

 「私なら大丈夫だよ。どこも痛くないもん」

 「そんなわけあるか! いいから見せてみろ!!」

 「あっ!」

 彼は強引に彼女の手をとり、手袋を脱がせた。だが・・・彼女の手はさすがに冷たかったが、凍傷どころかしもやけ一つない、きれいな白い手だった。

 「だから言ったでしょ? どこも痛くなんかないって」

 怒った表情でそう言う彼女の肌もまた、同じようにきれいなままだった。

 「見た目はそうかもしれないけど、それで放っておけると思うか!? すぐに病院にいくぞ!!」

 そう言って彼は、強く彼女の手を引っ張った。

 「いや!!」

 だが、彼女は強い拒否の感情を表しながらその手をふりほどいた。

 「ダメだ!! だいたいお前、家はどこなんだ!? 若い女が一晩こんなところで過ごすなんて、夜遊びなんかよりよっぽどたちが悪いじゃないか!! 命をなんだと思ってるんだ!!」

 「家なんてないもん!!」

 「うそをつけ!! もういいから、まずは病院だ!! それから警察にいくぞ!!」

 「いや!! 人のたくさんいる場所なんか嫌い!!」

 雪の積もった屋上で、二人はそんな押し問答を何十分も続けていた。

 「もういい! 警察にはいかないから、せめて親はどこに住んでるのか教えろ。送ってやる」

 「親なんていないよ。あたしはずっと一人」

 その一言で、彼はとうとう怒るのに疲れた。

 「・・・家もない、親もいない、こんなところで夜を明かしても、しもやけ一つない・・・自分は雪女だとでも言うのか、お前・・・」

 呆れながら彼は彼女を見た。しかし、自分で言って彼はなぜか、本当にそうなのではないかという気がしてきた。彼は幽霊やら妖怪やらといった類のものを信じる人間ではなかったが、そうだとでも思わなければ納得ができないほど、目の前の少女は無垢ながらも不思議な存在だった。

 「そんなこと知らないよ。でも、ないものはないんだもん」

 どうやら、はっきりとものを言うことだけは知っているらしい。彼はそれ以上怒る気力がなくなった。

 「もういい、わかった・・・。だが、今夜も同じようにここにいさせるわけにはいかない。少なくとも、どこか屋根のある場所までお前を連れて行く必要がある」

 「えーっ!? やだよ!! 私、ここが好きなんだから!!」

 「好きだからって、二度とそんなこと許せるもんか! 警察じゃなかったらどこでもいい! どこなら動いてくれる気になるんだ?」

 「ここ、すごく居心地がいいんだ。ここを離れるなら、ここと同じくらい居心地のいい場所を教えて」

 「・・・具体的にどこがいいんだ」

 「そんなこと知らないよ。私、ここ以外の場所を知らないんだから・・・」

 話にならない。彼が頭を抱えていると、唐突に彼女が言った。

 「そうだ! お兄さんの家は?」

 その言葉に、彼は再び驚いた。

 「な・・・何言ってるんだお前!? どうして見ず知らずの男の家に泊まろうなんて気になるんだ!?」

 「だって、お兄さん悪い人じゃなさそうだから。きっと居心地がいいと思って」

 そんな押し問答が再び続けられたが・・・

 「もう私決めたよ。お兄さんの家じゃないと、あたしはここを動かないから」

 まるで子供だ。だが、どうやってもその考えを曲げることができないらしいことは、これまでのやりとりで痛感していた。彼はその後も何度も拒否したが、結局・・・

 「はぁ・・・わかったよ、好きにしろ・・・。その代わり、いい待遇は期待するなよ」

 「やったぁ!」

 彼は自分でもどうかと思ったが、結局それを受け入れるしかなかった。彼女はそれを聞いて、飛び跳ねながら喜んだ。

 「まったく・・・どういう神経してるんだ・・・。そういえばお前、名前はなんていうんだ?」

 それまでそのことを尋ねていないことを思い出し、彼はそのことを尋ねた。

 「名前なんてないよ」

 その答えもまた、今までと同じだった。

 「ねぇ、なんでそんなものが必要なの?」

 「なんでって・・・当たり前だろそんなこと。名前がなければ、誰が誰だか、言い分けることができないじゃないか」

 「ふうん・・・それじゃあ、お兄さんの名前はなんていうの?」

 「僕か? 僕は・・・岸田翔」

 彼は自分の名前を名乗った。

 「ふうん・・・。きれいな感じがするね」

 「そうか・・・まあいい。それじゃあいくぞ」

 「待ってよ。せっかく来たんだから、絵を描いてかないの? あんなものまで持ってきたのに」

 そう言って、彼女は放り出したままのパラソルを指差した。

 「そうも言ってられないだろう。今日は中止だ」

 「ええっ、そんなのやだよ! お兄さんの絵、とってもきれいで好きなんだから。きっとこの雪景色を描いたら、もっときれいな絵が描けると思う」

 「だからってな・・・」

 「描いて!!」

 有無を言わさない調子で強く言い、彼女は彼を見つめた。

 「わかった、わかったよ! わかったからそんな目で見るな」

 彼はかぶりをふると、落ちていたパラソルを拾い上げ、それを広げると自分と彼女の間に置いた。

 「えへへ・・・」

 彼女は笑いながら、少し不機嫌そうな様子でスケッチブックと画材を取り出す岸田の横顔を見ていた。





 箱根。温泉街とその喧噪からはかなり離れた郊外に、森に囲まれた一軒の大きな洋館が立っていた。家の門の前には、弓矢を持った古代ギリシア調の青年の石像が置かれている。そして立派な門柱には、「望月」と書かれた表札がつけられていた。

 カチャ・・・

 その洋館の中。ドアが開き、一人の男が立派な家具の並べられたリビングへと入ってきた。彼はそこへ入ると部屋着の上に着ていた白衣を脱ぎ、ソファーの上に無造作に置いた。

 「ふぅっ・・・」

 それに続いて、彼は自分もそれにどっかりと腰を下ろした。年齢は50代後半くらい。すっかり髪がなくなってしまったツルツルの頭、丸顔にぱっちりした目、先がクルリと巻いた口髭など、妙に愛嬌のある顔をしていた。しかし、そんな特徴に似つかわしくなく、今の彼は深刻な悩みを抱えたような、思い詰めた表情をしていた。

 「どこへ行ってしまったのだろうか・・・」

 彼はため息をつきながらそうつぶやくと、目の前のテーブルに置いてあったテレビのリモコンをとると、何気なくスイッチを入れた。すぐにテレビのスイッチがつく。

 「それでは、お天気です」

 映し出された番組は夕方のニュースで、ちょうど天気予報のところだった。

 「木谷さん、関東では大雪がまだ降り続いていますが、これはいつ頃止むのでしょうか?」

 「ええ、私達も昨日からずっと、関東上空の雪雲の動向に目を釘付けにしているのですが・・・天気図を見て下さい」

 気象予報士は、そう言って関東の天気図を示した。天気図は、二枚示されていた。

 「左の天気図が昨日のもの、右の天気図が今日のものです。関東上空を覆う雪雲の位置が、昨日とほとんど変わらないことがおわかりになるでしょうか?」

 「ええ、本当ですね。ということは、これは全く流れずに、関東上空に停滞したままということなのでしょうか?」

 「その通りです。それどころか・・・さらに関東上空に冷たい空気が流れ込んでいて、今後関東では雪がさらに強く降り、気温の低下が進むことが予想されます。しかも、これらの現象がいつまで続くかはまったく予想ができず、気象学的にもこのような現象は極めて稀であると言わざるを得ません」

 「今後ももっと降り続くとなると、現在増え続けている大雪による大都市圏の被害が、さらに拡大することになりそうですね・・・」

 深刻そうな顔で話すアナウンサーと気象予報士。だが、男はそれに目を奪われていた。

 「まさか・・・!」

 彼は視線をテレビに注いだまま、そうつぶやいていた。





 ガチャ・・・

 「わぁ〜・・・広いね」

 玄関のドアから入ってくるなり、彼女は部屋の中を見て言った。

 たしかにそのマンションの一室は、一人暮らしの男が住むには広すぎるほどの広さをもっていた。

 「もしかして、お兄さんてお金持ちなの?」

 振り返って尋ねる女。しかし、岸田は傘についた雪を落として傘立てにしまいながら首を振った。

 「仕事のためにこれぐらいの広さは必要なんだ。その分けっこうな額を毎月払わされてるから、なかなか金は貯まらない。金持ちなわけじゃないよ」

 こんなことを言ってもしかたがないだろうなと、彼は苦笑いした。しかしその間にも、彼女はさっさと履いていたブーツを脱ぐと、部屋に上がり込んでいた。部屋には数は少ないが趣味のいい調度品が並べられており、落ち着いた雰囲気を出していた。彼女はそこに置かれていたソファーにポスンと腰を下ろした。それを見て、岸田が言う。

 「こら、雪で濡れたコート着たままで座るな。貸してくれ。ハンガーに掛けておく」

 彼女は素直にうなずき、ソファーから立ち上がると白いコートを脱いで彼に渡した。彼女はコートの下にタートルネックの白いセーターと、焦げ茶色のロングスカートを身につけていた。彼が濡れたコートを持って別の部屋に歩いていくと、彼女はあらためて座って部屋の中を見渡した。

 「・・・」

 ふと目についたものがあったので、彼女はそれに近づいた。それは、サイドボードの上に置かれた小さな本棚だった。普通なら珍しくもなんともないが、そこにはなぜか、絵本ばかりが並べられていた。20代も末か、あるいは三十路を迎えたぐらいに見える岸田の部屋にあるものとしては、それは少し場違いなものに見えた。興味を持った彼女は、そのうちの何冊かを取り出し、表紙を見た。どれも幼稚園児か小学校低学年ぐらいの子どもを対象とした絵本だった。

 「あ・・・」

 と、そこで彼女はあることに気づいて小さく声を出した。絵本の作者はそれぞれ別々なものだったが、それらの表紙には必ず「え きしだ しょう」という字が書かれていたのだ。その時・・・

 「ほら、ココアだ」

 部屋着に着替えた岸田が、両手に湯気の立つコーヒーカップを持って戻ってきた。彼は彼女の持っている絵本に気がついたが、別段表情を変えることもなかった。

 「ありがと・・・」

 彼女は小さくそう言うと、絵本をテーブルの上に置いた。岸田もココアの入ったカップをその上に置くと、それをはさんで彼女の前に座った。

 「ねぇ、この絵本って・・・」

 「俺の描いた本だ。絵だけだけどな」

 彼はうなずくと、ココアを一口すすった。

 「それじゃお兄さんの仕事って・・・絵本作家なの?」

 「ああ・・・」

 「ねぇ、中見てもいい?」

 岸田がうなずいたので、彼女は絵本を開いた。話の内容はもちろん全て異なるものだが、どれも全て、フワフワとした幻想的で美しいタッチの絵に彩られていた。

 「ほんとだ・・・。あそこで描いてた絵と同じ、お兄さんの絵だ・・・」

 彼女はあの屋上で岸田が描いていた絵を思い浮かべながら、彼女は絵本を見つめた。

 「何冊もあるみたいだけど、お兄さん、売れっ子作家なの?」

 「そこそこは売れているらしい・・・。おかげで、どうにかまともな生活ができる」

 「へぇ、すっごぉい! それじゃあ私、今からあなたのこと、先生って呼ぼうかな」

 「お、おい・・・」

 「いいの、決めたんだから。ねっ、先生?」

 彼は困ったように苦笑いをすると、時計に目を移した。まもなく6時になろうとしている。彼は飲みかけのココアをテーブルに置いた。

 「少し早いが、夕飯にするか・・・。もしかして、食事もとっていないのか?」

 彼女がコクリとうなずいたので、彼はため息をついた。

 「飯も食わずにあんなところで一夜を明かしたっていうのに、本当に生きてるのが不思議な奴だな・・・。まぁいい。すぐに用意しよう。たいしたものは用意できないから、そのつもりでいろよ」

 「私は別になんでもかまわないよ」

 「いきなり転がり込んできた奴に、食事の選り好みなどされてたまるか。ココアを飲んで待ってろ」

 彼はそう言うと、キッチンの方へと歩いていった。彼女はそのままそこで、彼の描いた絵本を眺め続けていた。





 2時間後。キッチンの流し台では、岸田が食べ終わった料理の皿を洗っては、傍らに置いていた。それを彼女が受け取り、布巾で拭いている。

 「たいしたものは用意できないとか言ってたわりには、みんなおいしかったよ」

 だが、岸田は素っ気なく答えた。

 「それはどうも。一人暮らしが長ければ、このぐらいはできるようになる。それより、これを食器棚に片づけてくれ。落とすなよ」

 「はーい」

 彼女は食器を重ねて、慎重に運んでいった。やがて彼女はそれをしまい終わったが、それからもジッと食器棚を見ていた。

 「何してるんだ」

 リビングに戻ってきた岸田がそう言ったので、彼女は彼に続いてイスに座った。

 「食器、少ないんだね」

 彼女は座るなり、彼にそう言った。それに対して、岸田はすぐに答えた。

 「一人暮らしだからな」

 「うそ。それだけじゃないみたい。だって本当に、自分の他はあと一人分ぐらいしか用意してないって感じ」

 彼女は岸田をジッと見た。

 「たくさんお客さんが来たらどうするの?」

 「・・・そんなことは、このうちじゃありはしない」

 「どうして? 友達はいないの?」

 「少しはいる。だが、ここへ遊びに来るようなのはいないな」

 彼はそう言って笑った。

 「寂しくないの? もしかして、一人が好きとか?」

 「・・・僕が孤独を愛してるように見えるか? そんなのはかっこいいことじゃないし、たぶん、いいことでもない。ただ、今のままでもまったく支障がない。自分ではそうは思っていないが、そういうのを一人が好きとか言うのかもしれない」

 「そうなんだ・・・」

 彼女は、妙に納得したような顔をした。

 「じゃあ・・・私と同じだね?」

 「なに?」

 「私もね・・・友達がいないの」

 彼女は寂しげにつぶやいたが、彼は小さく笑った。

 「ひどい冗談だな・・・。お前みたいなのに友達がいないとしたら、世の中の大多数はみな孤独を抱えて生きていることになるぞ?」

 「冗談なんかじゃないよ! だって本当に、いないんだもん」

 彼女は強くそう言った。

 「・・・家もない、親もない、友達もない・・・。先ほどからお前の話は、ないものづくしだ。人間は、一人で大きくなれるものじゃない。平均よりは少ないかもしれないが、こんな僕でも、全て思い出すことのできないほどの数の人と関わり合いながら生きてきた」

 彼は静かにそう言った。

 「お前の言うことが正しいとしたら、お前はここに存在しないことになる。なにもかもないわけじゃない。忘れているだけだ。お前は記憶喪失か何かで、全てを忘れているだけなんだよ・・・。明日になったら、病院へ行くぞ。診てもらわなければ」

 だが、彼女は首を振った。

 「違うよ・・・。忘れてるんじゃなくて、本当になにもないんだ。それに言ったでしょ? 私、人のたくさんいるところは嫌い。だから、行きたくない・・・」

 彼はそこで、彼女を叱ろうとした。が・・・

 「・・・!」

 彼女の名を知らないことを思い出して、そのタイミングを逸してしまった。その間に彼女は黙って立ち上がると、ゆっくりと窓へと歩いていった。

 「雪、強くなってきたね・・・」

 彼女の言うとおり、窓の外に降る雪はいっそう強さを増してきていた。だが、彼女はそれを心配する様子もなく、ただうっとりと、微笑みを浮かべながらそれを見ていた。

 「一つ、聞いていいか・・・?」

 「なに?」

 そんな彼女の後ろ姿に、彼は尋ねた。彼女は振り返った。

 「なぜ、あそこで一晩中町を見ていたんだ? あの町が好きなのか?」

 だが、彼女は首を振った。

 「町は嫌い。ごちゃごちゃしてて、きれいじゃないから。このマンションは町から離れてて、静かだから好きだけど」

 「じゃあ、お前が見ていたのはなんなんだ?」

 「・・・雪だよ。こうして積もってく、白い雪・・・」

 彼女は再び、窓の外に目を戻した。

 「・・・そんなに、雪が好きなのか?」

 「うん。だって、魔法みたいじゃない」

 「魔法・・・?」

 「そう。積もっていく雪は、なにもかも白く隠していく。雪が一面に降り積もったあとは、本当に白一色の何もない、綺麗な世界・・・。雪は一晩降れば、そんなふうに風景をガラリと変えてくれる。魔法みたいだと思わない?」

 「・・・」

 彼は何も言わず、彼女の背中を見つめていた。





 翌日。なおも関東上空は厚い雪雲に覆われ、雪が強く降り続けていた。それは海上区の上にも同じように降り続けているが、積もった雪はすでに道路脇に立ち並ぶ建物の1階の高さ半分ぐらいの高さまで降り積もり、臨時休業をしている店がほとんどだった。そんな海上区の道路を、一台のタクシーが走っていた。

 「閑散としちまってるねえ・・・」

 タクシーの運転手は、そんなガランとした街の様子を見ながらそうつぶやいた。人も車も、当然ながら街を動くものの影は平時にくらべてグッと少なくなっている。

 「こんな日に動かなきゃならないなんて、大変な用事があるんでしょうね、お客さん?」

 彼はバックミラーに映る客の顔を見ながら言った。

 「それはもちろん。新幹線が止まってて、東京まで来るのにも難儀しましたけど、それでもすぐにここへ来なければいけなかったんです。しかし、運転手さんも今日は仕事はしたくないようですね」

 客から返ってきた言葉に、運転手は苦笑した。

 「ええ、それはまあ・・・。正直言えば、家でコタツに閉じこもっていたいところですよ。事故が怖いですからね。でも、お客さんの立場もありますし・・・難しいところです。・・・まぁ、ここのところは動き回るには最悪だってことは間違いありませんね。都内の道路は封鎖されたところがいくつもあって、交通はマヒしたも同然ですよ。お客さんも、早く用事を済ませて帰った方がいいですよ。とくにここは、二本の大きな橋で東京と千葉と結ばれただけの浮島ですからね。この雪でその橋が通行止めになったら、完全に離れ小島ですから」

 「そうですね。早めに済むように頑張りますよ」

 そんな話をしているうちに、タクシーは坂をのぼり、ある建物の正門の前で停車した。運転手の言った料金を払い、タクシーから降りて傘をさすと、タクシーはゆっくりと彼の後ろから走りだしていった。

 「・・・」

 彼は目の前の風景を見た。降りしきる雪に白く煙った空気の向こうに、建物が見える。彼とそこまでの間には、雪原が広がっていた。どうやら、普段はグラウンドらしい。そこから建物の玄関までのあいだは一応は雪かきがされたらしく道らしきものがあったが、その上にもすでに新雪が降り積もり、そこと周囲との境目を曖昧にし始めていた。そこまでの距離は実際以上に遠く感じられたが、彼は意を決すると、そこへ足を踏み出した。





 「うぅ、寒・・・。新座君まだかなぁ・・・」

 聡美は制服の上にコートを着て、じっと目の前に置かれているものを見つめていた。

 「小島さん、もっと暖房の温度上げられないの?」

 彼女はエアコンのリモコンを持っている小島に尋ねた。が、小島は首を振る。

 「建物中どこもかしこも暖房ガンガンきかせてるんだぜ? これ以上どこか一部屋でも温度上げたら、ブレーカーが落ちちまう」

 「それに、あまり温度を上げすぎるのもよくないわ」

 仁木も聡美と同じような格好をしているが、聡美よりは我慢強いらしく、平然とそう言った。その隣の亜矢も、同じような無表情である。だが、聡美は食い下がる。

 「でもこのまんまじゃ・・・」

 その時・・・

 「お待たせしました。準備完了です」

 その声に部屋の中にいた者達がドアの方向を見ると、そこには鉄の缶と火箸を持った圭介の姿があった。

 「新座君、遅いよ! すぐに入れて!」

 待ちくたびれたように聡美が言う。

 「はいはい、ただいま」

 圭介は苦笑すると、皆が囲っているテーブルの中心に置かれたものに近づき、その中へ缶の中に入っているものを火箸で一つずつ入れ始めた。

 「わぁ・・・あったか〜い・・・」

 聡美がそれに手をかざし、のほほんとした表情をする。それは、火鉢であった。圭介がその中に真っ赤に赤熱した炭を入れていくたびに、それは暖かさを強くしていった。

 「しかし、火鉢なんかよくあったな」

 その光景を見ながら、先ほどまで黙っていた小隈が口を開いた。

 「このあいだガレージの倉庫を掃除したとき、誰が持ち込んだのか知りませんけど、隅にポツンと置いてあったんですよ。こんなこともあろうかと、炭を用意しといたんですけどね」

 「風情があるわね・・・」

 それを見ながら、仁木が顔をほころばせる。

 「でも、あったかいのもいいんだけどさ・・・もう一つのお楽しみは、まだかな?」

 聡美が物足りなさそうな表情で、彼を見た。

 「もうすぐひかるが持ってくると思いますから、もうちょっと待っててください」

 「ったく、お前は絵に描いたみたいに花より団子だな・・・」

 小島が聡美をジロリとにらむ。その時

 「お待たせしました!」

 ひかるがワゴンを押して、その部屋に入ってきた。

 「わぁっ、来た来た! すっごぉい!!」

 聡美がその上に乗っているものを見て、喜びの声をあげる。そこには、何枚もの大皿に乗せられた様々な種類の肉、それにキムチがあったのだ。

 「味付けにちょっと時間がかかっちゃって・・・。でも、お肉はいろいろ用意できましたよ。ロース、カルビ、骨付きカルビ、タン塩、ハラミ、それに、キムチも。どれでも好きなものから食べて下さい」

 ひかるはそう言いながら、皿をテーブルの上に並べ始めた。ここは分署内にあるダイニング。普段隊員達は食事をオフィスの自分の机で食べるためめったに使われることはないが、今日は圭介が見つけた火鉢を使って自家製焼き肉を焼くということになったので、都合のいいこの部屋が使われることになった。

 「ひゃっほー! じゃああたし、カルビからいきまーっす!!」

 いきなりカルビに箸を伸ばす聡美。火鉢の上に置いた金網の上に肉がのせられると、たちまちジュウジュウという音がし始めた。

 「あっ、てめーずるいぞ! 新座、俺達もドンドン焼くぞ!」

 「え、ええ・・・。副隊長、どうします?」

 「・・・とりあえず、ロースをできるだけ焼いて・・・」

 少し恥ずかしそうに言う仁木。一方、ひかるはロースを並べながら亜矢に尋ねた。

 「亜矢さん、なにか食べたいものはありますか? 焼きますけど・・・」

 「タンさえ焼いてもらえれば・・・それでいいよ。正直・・・タンさえあれば、他の何もいらないから・・・」

 「そうなんですか・・・。それじゃあ、隊長は?」

 「俺はこれを切りながらのんびり焼くよ。気にしないで、ドンドン焼いて」

 小隈が骨付きカルビをハサミで切りながら、のほほんと答える。と、その時・・・

 ビーッ!

 インターホンの呼び出し音がした。その音に、圭介達は顔を見合わせる。

 「誰でしょう? こんな日にわざわざ尋ねてくるなんて」

 「雪女じゃないか? じゃなかったら、助けた鶴が恩返しにきたとか」

 小島が冗談を言ったが、またもインターホンが鳴った。

 「そんなこと言ってる場合じゃないよ。早く出ないと」

 「よーし、ジャンケンだ! 負けた奴が出るのな」

 などと言って、小島がジャンケンを始めようとすると・・・

 「いいわよ。私がいくから」

 仁木が立ち上がって、ドアへと歩き出した。

 「焼けたお肉は、取り皿にとっておきますから・・・」

 亜矢がその背中に声を掛ける。やがて、肉は焼け始めた。

 「焼けた焼けた。それじゃ、いっただっきまーす!」

 聡美が食べ頃のロースに箸を伸ばす。

 「あっ、おい!! そのロースは俺が乗せた奴だぞ!! お前は自分のカルビが焼けるの待てよ!!」

 小島がすぐにそれをとがめるが、時既に遅し、そのロースは聡美の口の中に入っていた。

 「モグモグ・・・男のくせに細かいこと気にしないでよ。ロースはタイミングを逃すと、すぐに焼けすぎになっちゃうんだから」

 一方、他のメンバーも思い思いに焼き肉を楽しんでいた。と、その時

 「亜矢さん、お客様よ」

 仁木が戻ってきて、亜矢に声を掛ける。亜矢は首を傾げた。

 「私に・・・? どなたですか・・・?」

 「どうぞ、お入りになって下さい」

 仁木が後ろに声をかけると、その人物は「失礼します・・・」と言って、ダイニングへと入ってきた。その姿を見て、亜矢は驚いた。

 「望月博士・・・」

 「どうも。お久しぶりです、桐生さん。それに初めまして、第1小隊の皆さん。私は望月と言いまして、箱根で研究を行っている者です」

 そう言って、彼は帽子をとって丁寧に挨拶した。部屋中の視線が、二人に釘付けになる。一方、彼は部屋を見回して、すまなそうな顔をした。

 「すみません、お食事中のようでしたね。私はどこかで待たせてもらいますから、どうぞごゆっくり、お続けになってください・・・」

 そう言って出ていこうとする男。しかし、小隈が彼を呼び止めた。

 「いや、その必要はありませんよ。お食事がまだなら、一緒にどうですか?」

 「そうですよ。お肉はまだたくさんありますし・・・」

 ひかるもそれを勧める。

 「いや、しかし・・・」

 「博士・・・遠慮することは・・・ありませんよ・・・」

 亜矢もそう言った。彼は黙って彼女を見たが、やがて・・・

 「そうですか・・・。それでは、お言葉に甘えて・・・」

 少し恥ずかしげに、亜矢が開けた彼女の隣の席へ腰を下ろした。





 やがて、食事は終わり、テーブルの上には空になった皿の数々と、暖をとるためにまだ置かれている火鉢のみがあった。

 「あー、おいしかった」

 「あたしはまだ、腹八分ってところかなぁ」

 「満腹なんかにしたら任務の時動けなくなるかもしれませんよ」

 幸せそうな顔で会話をするメンバー達だったが、それは望月も同じであった。

 「いやぁ、本当においしかったですよ。すみません、いきなり上がり込んできた私にも、こんなおいしいものを食べさせて下さるとは・・・」

 「いえいえ、お客をおもてなしするのは当然のことですよ。喜んでいただけたのならうれしいです」

 仁木とともに静かにお茶を飲みながら、小隈が言った。だが、すぐに真剣な表情になる。

 「さて・・・それなら、本題に入りますか。桐生と二人だけでお話ししたいのでしたら、そこを曲がったところに応接室がありますので、そこを使って下さい。桐生、案内しろ」

 亜矢がうなずいて立ち上がる。だが、望月は首を振った。

 「いえ、それには及びません。私の話というのは、できれば桐生さんだけでなく、この場にいるみなさん全員に聞いてほしいことなのです。よろしいでしょうか」

 望月がそう言ったので、反対する理由もなく、全員がうなずいた。

 「ありがとうございます。それでは改めて、もっと詳しく自己紹介をさせていただきます。私は望月友吉。職業は科学者で、先ほども申しましたように、箱根の自宅で研究生活を送っています。その研究分野なのですが・・・桐生さんと同じく、魔術と科学の融合を研究しております」

 「亜矢さん以外にも研究してる人いたんだぁ」

 聡美が思わず感心したように言ったが・・・

 「バ、バカ! 失礼だろが!!」

 小島が慌ててその頭をつかみ、強引に謝らせた。

 「うう、すみませ〜ん・・・」

 それを見て、望月が苦笑する。

 「いえ、いいのですよ。ひどく変わった研究であることには違いないのですから」

 「日本で研究しているのは私と博士・・・それに、博士の娘さんの美夜子さん・・・この三人だけなんだよ」

 付け加えるように亜矢が言う。

 「それで、お話というのはどういうものなんですか? 箱根からここまでは電車も止まったりしていて、来るのは大変でしたでしょうけど、そこまでして来るということは・・・やっぱり、大事なお話なんですよね?」

 ひかるの言葉に、望月はうなずいた。

 「ええ。たしかに関東は今、記録的なひどい大雪に見舞われています。このままでは、大都市の機能が全て死んでしまうことになりかねないほどです。実は・・・私がこちらへお邪魔した理由こそ、この大雪なのです」

 そこまで言うと、さらに望月の顔は真剣さを増した。

 「この大雪は今も降り続き・・・そして、これからさらに勢いを増すでしょうが・・・それはすべて、私のせいなのです!」

 望月はまさに思い詰めたような表情で言ったが、メンバーはそれだけでは、全てを理解することはできなかった。

 「あの・・・それはどういうことですか? たしかにこの雪はまだ降り止みそうにありませんけど、ただの自然現象ではないんですか?」

 圭介が尋ねる。すると、望月は床に置いていたアタッシュケースを取り出した。

 「ええ、これはただの自然現象ではありません。これは、私の作ったある道具が原因で起こっていることなのです」

 少しの間沈黙が起こった。が、やがて小隈が口を開いた。

 「詳しく・・・説明して下さいますよね?」

 それにうなずくと、彼はアタッシュケースを開け、何かを取りだしてテーブルの中央に置いた。

 「・・・これです」

 それは、一個の腕輪だった。ツルツルとした象牙のような素材でできた白く美しい腕輪であり、花をかたどったような装飾も施されている。

 「わぁ・・・綺麗な腕輪ですね」

 「ほんと。鏡みたいにピカピカしてる」

 それを見て、ひかると聡美がうっとりとした表情になる。

 「これはどのような道具なのですか?」

 仁木がそれから目を離し、望月に尋ねる。

 「まだ仮称ですが、精霊召喚リング・・・すなわち、「精霊呼び出し腕輪」とでもいうものです」

 「精霊呼び出し腕輪?」

 その言葉に、亜矢以外の全員が驚きの表情を浮かべる。

 「それって、そのままの意味ですか? つまり、火の精とか水の精とか、そういうものをこの場に呼び出せる・・・」

 「そのとおりです。精霊というものがどんなものか、それはご存じのようですね」

 「ええ、それはまあ・・・。うちには、亜矢さんがいますから・・・」

 そう言って、亜矢を見るメンバー達。彼女と暮らしているため、メンバーは超自然的なことについては基礎となる知識が自然と身についている。

 「それならば話は早いですね。ただ、この腕輪は実際には召喚と言うよりは、精霊を作ってこの場に出現させるという方が正しいかもしれません」

 「精霊を・・・作る?」

 さすがにそれは、彼らにもよくわからないことだった。

 「そんなことが可能なんですか?」

 「はい。それをご理解いただくためには、そもそも精霊とは何かについて、より詳しく説明しなければなりませんね」

 望月はそう言った。

 「ご存じかもしれませんが、洋の東西を問わず古くから人間は万物には精霊が宿っていると考えていました。中でも人間の生活が自然に大きく左右されていた頃は、人々はその力を畏れ敬い、自然の精霊達に自分達の加護を祈っていたのです。世界各地で行われている祭りの源流のほとんどは、山の精霊や海の精霊、風の精霊などに祈りを捧げ、農業や狩猟、漁などがうまくいくことを祈願したことにあります。ですが・・・精霊というものは、単なる思想ではありません。精霊は、実在するのです」

 「・・・」

 「精霊とはなにか。それは、この世に存在する森羅万象全てのものが放つエネルギーが、自ら意志と形をもって具現化したものです。そしてその力は、その「もの」がこの宇宙に最初に生まれてからどれだけの時間が経ったかに比例して強くなります。家の精やコンピュータの精など、人間が作り出したものにももちろん精霊は存在します。ですが、それは人間の生まれるはるか以前から存在した火や水、風といった自然の精霊に比べればはるかに若い精霊であり、力も遠く及びません」

 「そうなんですか・・・。でも、そんな精霊をどうやって作り出すんですか?」

 「先ほども申しましたように、精霊とはいわば自然のエネルギーが何らかのきっかけで自らの意志と形を持って一人歩きを始めたもののことです。ですから、そのきっかけを人工的に与えられることさえできれば、精霊を作り出すことは可能なのです。私と桐生さんは互いに連絡を取り合いながら、同じ研究目的のために協力して行動していました。すなわち、魔法を科学の力を使って再現することを。それは、亜矢さんが魔術の原理を解き明かし、私がそれを科学の力で再現することを試みる・・・というものです」

 「言ってみれば・・・私が基礎研究を・・・博士がその応用を・・・共同で進めていたということだよ・・・」

 亜矢がそう言う。

 「そうして亜矢さんが解き明かした魔術理論の中に、自然のエネルギーを精霊へと昇華させる方法がありました。非常に難しい理論でしたが、私はこれに、もっとも実現の可能性を感じました。そして、精霊を作り出す装置・・・つまり、この腕輪の製作にとりかかり、つい先日、完成させることができたのです」

 「お話はわかりましたが・・・そうして作ったこの腕輪を、どういった目的に使うおつもりなのですか?」

 仁木が落ち着いた声で尋ねた。

 「・・・私はこの腕輪によって、精霊というものが人間にとってもっと身近な存在になってくれればよいと思っていました。もともと人間と精霊との間には、とても深い関係が築かれていました。しかし・・・人間は科学を発展させ、自然から離れていくと同時に、精霊からも離れていってしまったのです。私は・・・もう一度気づいてもらいたいのです。精霊というものが、自分達にとってどんな存在であったか。それは敬意と畏れをもって接しなければならない高貴な存在であると同時に、私達に恵みをもたらしてくれる、素晴らしい友人でもあったということを・・・。私はこの道具がそのきっかけとなってくれればよいと思い、この道具を作ったのです」

 そう言って、望月は腕輪を自分の腕にはめた。

 「精霊と信頼で結ばれれば、精霊は私達に力を貸してくれます。それは自然の力を利用しているぶん、機械によるものよりも素晴らしいと言えるでしょう。口であれこれ説明するよりは、実際に呼び出してみるのが早いでしょう。そうですね・・・では、この部屋はまだ少し寒いようですから、火の精を呼び出してみることにしましょう」

 望月はそう言うと、腕輪に手を当てた。

 「火の精よ、現れよ」

 ゴシゴシゴシ・・・

 腕輪をこする望月。すると、腕輪についた花の形の装飾品から半透明の煙状のものが立ちのぼり・・・

 ボンッ!!

 小さな爆発音のような音とともに、一人の少年が元気よく空中に出現した。古代ギリシア人のような服に身を包み、その全身は光り輝いている。そしてその髪は、まさしく燃える炎のように絶えず揺らめいていた。

 「これが・・・火の精・・・」

 メンバーが見つめていると、火の精はすぐに部屋の中をすさまじい早さで走り回り始めた。それとともに、だんだんと部屋の中が温められていく。

 「わぁ・・・あったかいです・・・」

 「ほんと・・・」

 と、突然彼は望月の前で立ち止まって尋ねた。

 「ところで、何を燃やせばいいんだ?」

 それに対して、望月は首を振った。

 「こんなところでものを燃やしちゃいけない。そのままそこにいてくれればいいんだ」

 しかし、火の精は不満げな表情で言った。

 「そんなのつまんない。燃えるものはなんでも燃やすのがぼくの役目だ」

 そう言うと火の精は、窓へと駆け寄り、そこにかかっているカーテンに触ろうとした。

 「カーテンを燃やそう」

 それを見て、圭介と小島が慌てて止めに入る。

 「こらっ!」

 「それはこないだの大掃除でひかるが洗ったばっかりなんだぞ!」

 だが、火の精は彼らに頭を向けると、炎の髪を彼らに伸ばした。

 「アチャチャチャチャチャ!!」

 「圭介君っ!!」

 パニックになる室内。

 「いけない・・・」

 そんな中、一人亜矢はテーブルに置いてあったグラスを取ると、何を思ったかその中にあった水を、まだ燃えていた火鉢の中の炭にかけた。

 ジュッ・・・

 そんな音と湯気をたてて、炭は火の気を消した。それと同時に・・・

 ポッ・・・

 火の精は小さな煙となって、文字通り煙のように消えてしまった。

 「消えた・・・」

 床に尻餅をついたまま、圭介がつぶやく。ようやく室内は平静を取り戻した。

 「圭介君、やけどとかありませんか?」

 「ああ、大丈夫だ・・・。悪い・・・」

 「ほら小島さん、しっかり立ってよ」

 「寿命が縮まったよ・・・」

 「申し訳ありませんでした!! こんなことになってしまうとは・・・」

 望月が平謝りに謝る。だが、小隈は手のひらをヒラヒラさせて言った。

 「お気になさらないで下さい。こういうのにはうちの連中は慣れてますから」

 「ありがとう亜矢さん。でもどうして、火の精が消えたのかしら?」

 仁木がまだ空のコップを持ったままの亜矢に尋ねた。

 「精霊は自然のエネルギーの化身・・・。つまり、その力のもととなるエネルギーが近くになければ・・・精霊は存在することができない・・・。火の精は近くに火がなければ・・出られないのです」

 「だから炭の火が消えると、火の精も消えたんですね」

 イスに座りながら圭介の言った言葉に、亜矢はうなずいた。

 「本当に、申し訳がありませんでした。火は人間の生活と深い関わりがあるので、火の精は自然の精霊の中でも呼び出しやすい存在なのですが・・・火の性質のとおり活発で気性が荒いのです。私のうかつな判断を、お許し下さい」

 深々と頭を下げる望月。

 「大事になりませんでしたからいいですよ。それよりも・・・これまでのお話から察するに、今回のこの大雪にも、その腕輪と精霊が関わっているのですか?」

 小隈の言葉にうなずくと、彼は口を開いた。

 「そのとおりです・・・。この大雪は・・・関東のどこかにいる、雪の精霊が降らせているものなのです。そしてその精霊は・・・この腕輪によって生み出され、私の元から逃げ出した精霊なのです」

 「逃げ出した・・・? それは、どういうことですか?」

 仁木が尋ねると、彼はうつむいて先を続けた。

 「数日前・・・この腕輪を完成させた私は、この腕輪が完全な形で働くかどうか、性能テストを行いました。そこで私は、数種類の精霊を呼び出す実験を行いました。風の精、土の精、木の精、家の精・・・五つの実験のうち、四つは成功に終わりました。ですが・・・最後の実験であった雪の精が・・・」

 「呼び出せなかったのですか?」

  だが、望月は首を振った。

 「いえ・・・呼び出すことはできました。ですが・・・彼女は、不完全な状態で現れてしまいました」

 「不完全な状態・・・?」

 「はい・・・。精霊であって、精霊でない・・・。体と力は紛れもなく雪の精霊なのですが、心が・・・精霊としての意識がなく、自分を人間と思いこんだような状態で、現れてしまったのです。そして、それからすぐに・・・彼女は私の前から、姿を消してしまいました・・・」

 「この大雪は、彼女が都会に迷い込んだために降っているというのですか?」

 「その通りです。たとえ自分では人間だと思っていても、その場にいるだけで雪を降らせるという能力は、雪の精霊天性のものですから・・・」

 「じゃあ・・・もし彼女が、このままこのあたりから去らなければ・・・」

 「普通ならば、雪の精霊は春の訪れを感じるとともに、自ら雪とともに消え、それによって本当の春が訪れます。ですが、今の彼女ではそれを知らずに留まり続け、ずっと冬が続くことになるかもしれません・・・」

 その言葉に、全員が顔を見合わせた。

 「でも・・・」

 と、小島が何かを言い出そうとした。

 「なんだ、小島?」

 「雪の精なら、もしかしたら放っておいても溶けてしまうんじゃないですか? ましてや、自分を人間だと思いこんでいるのなら、どこか暖房の効いてる建物に迷い込んで、そのまま溶けてしまうことだって・・・。そうなったら、きっとこの雪も・・・」

 「小島さん、残酷です!」

 「そうよ! いくらなんでも・・・」

 その言葉に、たちまちひかると聡美が抗議する。だが、望月は首を振った。

 「いえ・・・おそらく、そううまくはいかないでしょう?」

 「なぜです?」

 「・・・意識が存在を決定づける、という言葉をご存じですか・・・?」

 その言葉に、亜矢以外の全員がポカンとした顔をする。

 「つまり・・・こういうことだよ・・・」

 と、亜矢が口を開いた。

 「私達は・・・ただ人間の体を持っているというだけでは・・・人間とは言えない。そのうえで、私達の心が・・・私達を人間だと意識していなければ・・・本当に人間とは言えない・・・」

 「? すみません、どういうことだか、まだよくわかりませんけど・・・」

 「そうだね・・・具体例を挙げよう。たとえば・・・ひかる君も、催眠術というものを見たことは・・・あるね?」

 「は、はい・・・テレビでなら」

 「例えば君に・・・君が鳥であるという催眠術をかけたとしよう・・・。そして君が・・・自分は鳥だと思いこんだら・・・はたしてそのときの君は鳥なのか、人間なのか・・・どちらだと思う・・・?」

 「え、えっと・・・」

 「そんなの、決まってるじゃないですか。人間に決まってます」

 その時、圭介が横から割り込んだ。亜矢はうなずく。

 「そうだね・・・たしかに、体は人間のままだろう・・・。だが、心は・・・人間ではなく、完全に鳥となっている。鳥の体を与えられれば・・・そのまま、空へと飛び去っていけるほどに・・・。体は人で、心は鳥・・・その状態でのひかる君は・・・人でもあり、鳥でもある・・・。その意味で人は・・・何にでもなれるんだよ」

 「でも、いくら鳥だって催眠術をかけられても、人間は鳥みたいに空を飛ぶことはできませんよ」

 聡美が当然の疑問を口にする。

 「たしかに、人間ならばそうです。ですが、それが精霊ならば・・・」

 その疑問には、望月が答えた。

 「違うのですか?」

 仁木の言葉に、望月はうなずいた。

 「精霊は本来、実態としての自らの体をもたないものです。それは不安定なのですが、言い方を変えれば、柔軟性に富んでいるとも言えます。完全にとは言えませんが、精霊は強く思えば、なににでも姿を変えることができるのです」

 「じゃあ、彼女は・・・」

 「雪の精霊としての力を持った人間・・・と言うのが、もっともふさわしいと言えるかもしれません。ですから、暖かい場所にいても熱いものを食べても、雪のように溶けることはない・・・。周囲の人間には、人間そのものに見えるはずです」

 望月の言葉に、室内に沈黙が流れた。

 「・・・望月博士。もしこのまま、彼女が見つけられなかった場合・・・この雪がどうなるか、もっと具体的に説明してくれませんか?」

 小隈の言葉に、望月はうなずいた。

 「・・・雪の精霊は、雪を強く降らせることができます。そして雪が積もるほど、積もった雪は精霊に力を与える・・・。その循環・・・この場合は、悪循環と言えるかもしれませんが、それが延々と続くことになります。そうなれば、雪は関東だけでなく、やがては日本中へとその範囲を拡大していき、そして、最悪の場合には世界中が・・・」

 「雪に包まれるってことですか・・・」

 「氷河期みたいなことですね・・・」

 圭介とひかるがつぶやく。

 「・・・それを止めるには、どうすれば?」

 「彼女を見つけ、彼女が雪の精霊であることを自覚させるしかありません。そうすれば、彼女は精霊としての自分のなすべきことを思い出すでしょう。この世の精霊達は全て、自然のバランスを守りながら生きています。冬がいつまでも続くことは、自然の調和を乱すことです。それに気づけば雪は止み、やがては春が訪れることでしょう・・・」

 「でも・・・人間の姿をしてるんでしょ? そんなの、私達には・・・」

 「それは、私が責任をもって探し出します。ですが・・・私の力だけでは、この広い東京を探すためには限界があります」

 そう言うと、望月は亜矢に顔を向けて頭を下げた。

 「・・・申し訳ありません、桐生さん。彼女を捜すのを・・・手伝ってもらえないでしょうか? 私の力とは比べものにならないほどのあなたの力なら、彼女を捜すことも決して難しいことではないはずです」

 「・・・」

 亜矢は黙ってそれを見つめていたが、やがて、小隈に尋ねた。

 「隊長・・・この件は・・・私に一任してもらえないでしょうか・・・?」

 「亜矢さん・・・」

 隊員達が不安げに見つめる中、小隈はうなずいた。

 「いいだろう。正直、人間の姿をした精霊を見つけるなんてことは、お前以外の誰にもできそうにないからな」

 「ありがとうございます・・・」

 亜矢は頭を下げると、望月に言った。

 「協力しましょう・・・。博士にはお世話になっていますし・・・それに、精霊召喚の基礎理論を完成させたのは私ですから・・・。私にも、責任がないとは言えないでしょう・・・」

 「あ、ありがとうございます!」

 再び頭を下げる望月。その時

 「ただし」

 小隈が突然そんなことを言ったので、全員が驚いて彼を見た。

 「なにかあったなら、すぐに俺達に連絡しろ。役に立てるかどうかはわからんが、俺達にも首都と関東の治安を守るプロとしての責任と義務があるからな」

 やがて、他のメンバー達も笑顔でそれにうなずいた。

 「・・・ありがとうございます」

 亜矢はそう言うと微笑を浮かべ、彼らに敬礼した。

 「申し訳ありません。私の過ちのために、みなさんに迷惑をかけることになって・・・。この事態を打開できるように全力を注ぎます。それでは、私はこれで・・・」

 「あ、よろしいのですか?」

 「早く雪をやませなければ・・・。慌ただしくてすみませんが、これで」

 「隊長・・・私も早速・・・捜しに出かけます・・・」

 「ああ。当たり前だが、外は大雪だ。気をつけていけよ」

 「いってきます・・・」

 亜矢は再び敬礼をすると、望月とともに部屋を出ていった。やがて、小島が疲れたようにイスにもたれながらつぶやいた。

 「雪の精なんてやつが関わってるなんて・・・こりゃたいへんだな」

 「でもほんと、亜矢さん以外にあたし達になんとかできることって、なさそうだもんね」

 聡美もうなずく。

 「しかたないわ。亜矢さんの力を信じて、私達はいつでも手伝えるように準備しておきましょう」

 仁木の言葉に、全員がうなずく。ひかると圭介は、なんとなく窓に目を移した。

 「雪の精さん、どこにいるんでしょう・・・」

 「雪がまた、強くなってきたみたいだな・・・」





 岸田は窓の外を見ながら、顔を曇らせた。

 「また強くなってきた・・・。これじゃ今日も、外へ出るのは無理だな・・・」

 すると、相変わらず窓の側に立って雪を見ていた「彼女」が振り返った。

 「いいじゃない、外なんかに出られなくたって。お部屋の中で過ごしてれば」

 「いくらお前が雪が好きだからっていっても、いつまでもこのままじゃこっちだって困る。買い物にも出かけられない」

 だが、彼女は楽しそうに微笑みながら、テーブルの上で何か作業をしている岸田に近づいた。

 「そんなことより、さっきから何してるの? 今日はお仕事しないの?」

 「仕事はなしだ。今は描きためた絵を整理している・・・」

 テーブルの上に広げられているのは、無数の絵だった。

 「手伝おうか?」

 「いい。これは僕の仕事だ」

 彼はぶっきらぼうにそう言うと、作業を続けた。彼女はおとなしくそれを見ていたが・・・

 「・・・?」

 テーブルの上にある絵の山の一つに、目がとまった。そこには、同じ風景を描いた絵が、何枚も積み重ねられていたのだ。

 「これって、あの屋上から見た景色じゃない。なんでおんなじ絵がこんなにあるの?」

 たしかにそれは、あの建物の屋上から見える町の風景を描いたものばかりだった。だが、岸田はその理由を答えることなく、黙って手を動かしていた。

 「ねえ教えてよ! どうして同じ絵ばっかりこんなに描いてるの?」

 「お前が知ってもしょうがないことだろう・・・」

 「しょうがなくなんてないよ! ねえ、教えてってば!」

 しつこくせがむ彼女。岸田はそのたびに拒絶していたが、やがて彼女が彼の肩をつかんで激しく揺さぶるようになったので、うざったくなり彼は言った。

 「わかった! わかったからその手を放せ!」

 そう言うと彼女は笑顔を浮かべ、おとなしくなった。

 「・・・そこで待ってろ。持ってくるものがある・・・」

 そう言うと彼は、自分の部屋へと歩いていった。やがて彼は、アルバムのように厚い本数冊を重ねて、重そうに持ってきた。

 「わっ! 何よそれ!」

 「それを説明するにはこれが必要なんだよ。どのみち、持ってくることにもなるし・・・」

 彼はそう言いながら、その一冊を彼女に渡した。

 「見てみろ」

 彼女はそれを受け取り、パラパラとめくり始めた。それはアルバムではなく、何十枚もの絵を綴じて厚い冊子にしたものであった。

 「・・・これもおんなじだ」

 そして、それらの絵も全て同じ、あの屋上からの風景画だった。

 「そんなに、あの屋上からの景色が好きなの?」

 「気に入ってる場所だが、それだけが理由じゃない」

 彼はテーブルの上の絵をどけてスペースを作り、そこに残りの冊子をドサリと置いた。

 「・・・僕は十八の時、この町に移り住んだ。地元の新潟の田舎町から上京して、この近くにある美大に通うためにな。風景画を専攻していた俺は、練習のための絵を描くために適当な風景を求めて、町をうろついた。最後に見つけたのが、あの町はずれの山の上にある、使われなくなった測候所だった。練習にはもってこいの場所を見つけたと思った僕は、そこで絵を描き始めた。同じ風景を描いたなら、見比べれば自分の腕の上達もわかりやすいと思ってな・・・」

 「そうだったんだ・・・」

 「そんなふうにしていて、僕はこの町で最初の冬を迎えた。その冬のある日、大雪が降った・・・」

 そう言いながら、彼は冊子の間から、一枚の絵を取り出した。

 「これがその時描いた絵・・・僕があそこで描き続ける理由だ」

 彼が差し出した絵を、彼女は受け取った。

 「うわぁ・・・」

 彼女は感嘆の声を漏らした。

 それは、雪に包まれた町の風景を描いたものであった。同じ風景を描いているにもかかわらず、それには他の絵とは何かが決定的に違うような、輝くような雰囲気があった。

 「すごいね、この絵・・・。他の絵とは、全然違うよ・・・」

 彼女もそれを感じ取り、食い入るようにその絵を見つめた。すると・・・

 「お前も・・・そう思うか」

 彼は、彼女の目をのぞきこんだ。彼は彼女の手元にある絵を見ながら、やがて静かに言った。

 「・・・その絵を描いてから、十年も経った・・・。そのあいだに、町の風景はめまぐるしく変わり、僕自身も美大を卒業し、絵本の絵を描くようになり、それで食べていけるようになった。だが・・・」

 彼のその絵を見る目は、悲しげだった。

 「僕はいまだに・・・その絵以上に納得のいく絵を描くことができずにいる・・・」

 「!」

 彼女は、絵から目を離して岸田を見つめた。

 「僕は数え切れないほどあの屋上に赴いては、同じ風景を描き続けた。だが・・・いくら描いても、それ以上に納得のいく絵は描くことができなかった・・・。僕はそのことが、こわくてしかたがない。僕はもしかしたら、一生のうちで描ける絵の中で最高のものを、すでに十八の冬のときに描いてしまったのかもしれない。これから先、いくら絵を描いてもそれ以上のものを描くことはできないんじゃないか。そう思うと、たまらなくこわいんだよ・・・」

 彼はうつむいた。彼女は黙って絵を見たが、やがて、彼に言った。

 「・・・何が足りないか、考えてみたの? この絵と、今描いている絵と・・・」

 彼はうなずいた。

 「何度も考えてみたさ。だが結局・・・それがなんなのか、いまだにわかることができずにいる。この絵はただ、あの日雪に包まれていた町を美しく描いただけじゃない。はりつめた冷たい空気や、雪の上に降り注ぐ弱い太陽の光・・・あの時、あそこにあった全てをキャンバスの中に閉じ込めたような、そんな感じがする。どうすればまたこんな絵が描けるか、残念だけど、今の僕にはヒントさえつかめていない」

 彼はそう言って、さびしげに笑った。彼女はじっと絵を見ていたが、やがて小さな声で言った。

 「・・・雪・・・」

 「え?」

 彼女は顔を上げて、もっと大きな声で言った。

 「雪だよ!! 雪があるから、この絵はきれいなんだよ!!」

 だが、彼は苦笑いをした。

 「たしかに、あの日の雪景色はきれいだった・・・。だが、モチーフがきれいだったという理由だけで、こんな絵は描けるものじゃない。それでは、納得がいかないな」

 だが、彼女は首を振った。

 「それだけじゃない。だって雪の降る日は、気持ちが普段よりうきうきするもん。そういう気分でこういう景色を描いたから、この絵はこんなにきれいなんだよ」

 「そうか・・・お前はそう思うか・・・」

 自信ありげにそう言う彼女に、岸田は小さく笑った。すると・・・

 「ねぇ・・・描かせてあげようか? これよりきれいな絵」

 岸田は少し驚いたが、やがて言った。

 「簡単に言ってくれるな・・・。どうやってそんなことを叶えるというんだ?」

 「外を見てよ」

 そう言って、彼女は窓の外を見た。

 「もっと降るよ、この雪・・・。いつまでも、いつまでも・・・。そうしたら・・・全部雪の下に隠されて・・・世界は白一色になる。どこまでも続く、白い世界・・・。きっと、この絵よりずっときれいなはずだよ。それを描けばきっと、納得いく絵が描けると思う・・・」





 翌日。雪はさらに強さを増し、もはや吹雪と呼んでもまったく差し支えのないものとなっていた。交通網は完全にマヒし、人々は家に閉じこもり、外を出歩くようなものはほとんどいない。

 ギュッ・・・ギュッ・・・

そんな中、一人の女性が道路の上を、ひざの上まで雪にめりこませながら、一歩一歩進んでいた。防寒着を着込んでいるものの相当寒いはずであるが、彼女は身震いひとつせず、緑色のリップを塗った唇を真横に結んだまま、着実に歩みを進めていた。と・・・

 「・・・」

 彼女は足を止め、遠くを見るような目をした。そして、片手をスッと前に伸ばす。その手には、銀の細い鎖に繋がれた光り輝く水晶の振り子がついていた。それは吹きすさぶ風に激しく揺れていたが、やがて、彼女が目を閉じて精神を集中すると、その揺れは収まっていった。

 「・・・」

 さらに彼女は集中する。すると、垂直に下がっていた振り子の先端がだんだんと上がっていき、何かを指し示すようにその先端をある方向へ向け、ピタリと止まった。

 「間違いない・・・もうすぐそば・・・」

 彼女はそうつぶやくと、振り子の指し示す方向へと再びゆっくりと歩き出した。





 「・・・」

 岸田は不安げに、外の雪の様子を見ていた。その隣で同じように「彼女」も、雪を眺めている。しかしその表情は、彼とは対照的にとてもうれしそうだ。

 「いつまで降り続くんだ、この雪は・・・」

 「いつまでもよ、ずっと、ずっと・・・」

 岸田は彼女の目を見て、少し厳しく言った。

 「冗談じゃない。このまま雪が降り続けば、何もかもが止まってしまうんだぞ? そうなったら・・・」

 「私はこの雪に止んでほしくなんかない。ずっとずっと、降り続けてほしいの。だって・・・止むのが、とても怖いから・・・」

 「止むのが怖い? どうしてだ」

 そう言うと、彼女は遠い目で吹雪を見つめた。

 「どうしてかわからないけど・・・私、この雪が止んで、跡形もなく溶けちゃったら、私も一緒に消えてしまう・・・そんな感じがするんだ。だからこの雪が止むのが・・・この雪が溶けるのが、すごく怖い・・・」

 岸田は黙ってそれを聞いていたが、やがて微笑みを浮かべて言った。

 「・・・そんなことあるわけないだろう? たとえ雪が溶けても、お前が消えてなくなるなんてことがあるわけがない。そんなことはないから、安心しろ」

 だが、彼女は強く首を振った。

 「ううん! 間違いないよ! 私にはわかるんだ! だから・・・だから、もしこの雪と一緒に私が消えることになっても、その前に先生に、あの絵より納得のいく絵を描いてほしいんだ」

 「・・・」

 「先生は・・・雪が嫌いなの?」

 その問いに対して、岸田は首を振った。

 「いいや・・・お前ほどじゃないが、僕も雪は好きだ」

 そう言って、彼は窓の外を見た。

 「前にも言ったが、僕の地元は新潟の田舎町だ。冬になると何もかもが雪に閉ざされるような町だよ。子どもの頃から絵が好きだった僕は、友達と遊ぶよりも、町の外れにある原野に出かけて、真っ白な雪に包まれた雪景色を描いていることの方が多かった」

 「・・・」

 「こうして雪が降っているのを見ていて、改めて気づいたことがある。やっぱり僕にとっては、雪こそが自分の原風景なんじゃないかとね。あの絵を描けたのは、もしかしたら本当にお前の言うように、あれが雪景色だったからかもしれない。ただ・・・本当にそうだとしたら、少し悲しいな。俺が雪を描かなければ、自分の納得のいくものが描けないのだとしたら・・・」

 彼が寂しげにそう言った、その時だった。

 ピンポーン・・・

 インターホンが鳴った。

 「こんな吹雪の日に・・・誰だろう。お前はそこに座ってろ」

 彼は彼女にそう言うと、電話のところまで歩いていき、受話器を取った。

 「はい」

 「こんな吹雪の日に・・・申し訳ありません。私はSMSの者ですが・・・お話があり、こちらに参りました・・・」

 静かな、女の声だった。

 「SMS・・・?」

 もちろんそれはよく知っているが、なぜSMSの隊員が自分のところに。岸田は首を傾げた。

 「とりあえず・・・中へ入れてもらえませんか・・・?」

 「あ、ああ・・・今開けます。少し待っていて下さい」

 彼はそう言うと電話を切り、急いでドアへと駆け寄ると、そのカギを開けた。

 ガチャ・・・

 ゆっくりとドアが開く。そして・・・

 「どうも・・突然、申し訳ありません・・・」

 静かに中に入ってきた女性に、彼は少しギョッとした。彼女は白い肌と美しい緑の髪をもった綺麗な女性だったが、岸田には彼女がまるで雪女に見えたのだった。

 「どうか・・・いたしましたか・・・?」

 「い、いえ・・・。ところで、あなたは本当に・・・」

 「これは失礼・・・」

 彼女はそう言うと、懐から隊員証を取り出して彼に見せた。

 「東京都SMS第1小隊所属の・・・桐生亜矢と申します。ある事件の捜査を行っているのですが・・・」

 「ある事件・・・?」

 「はい・・・。それでなのですが・・・ぶしつけで申し訳ありませんが・・・こちらに・・・女性の方はいらっしゃいますか?」

 その言葉に、岸田はハッとした。

 「いらっしゃるのですね・・・?」

 その表情の変化を見逃さず、亜矢は彼に確認するように尋ねる。岸田は静かにうなずいた。

 「・・・はい。申し訳ありません、みんな僕の責任です。僕がすぐに、彼女を警察か病院に連れていけば・・・」

 だが、亜矢は首を振った。

 「いえ・・・。事件というのは・・・誘拐や家出などでは・・・ありませんよ。そういった事件は・・・警察の仕事ですからね・・・」

 「では、一体・・・?」

 「それについては・・・後ほど詳しく。今は一刻も早く・・・彼女を保護する必要があります・・・。会わせて・・・もらえますか・・・?」

 亜矢の問いかけに、やがて岸田は、小さくうなずいた。それから亜矢は、岸田によって部屋へと案内された。





 「やあ・・・こんにちは」

 亜矢は彼女に優しい笑みを浮かべながら、彼女の向かい側へと座った。

 「先生・・・この人、誰?」

 不安げな目で岸田を見る彼女。

 「SMSの桐生さんだ。お前に話があるらしい」

 「SMS・・・?」

 「大丈夫・・・君に危害を加えに来たわけではないから・・・」

 亜矢はそう言うと、彼女の瞳をのぞきこんだ。

 「早速だけど・・・質問をさせてほしい。いいかな・・・?」

 彼女はコクリとうなずいた。それを見届け、亜矢は質問を始める。

 「君の名前は・・・?」

 「そんなのないよ」

 「君の家は・・・?」

 「それもない」

 「お父さんとお母さんは・・・?」

 だが、彼女は首を振るばかりだった。亜矢が振り返ると、岸田はため息をついた。

 「初めて会ったときから、ずっとこうなんですよ。やっぱり、記憶喪失かなにかなのでしょうか・・・?」

 だが、亜矢は首を振った。

 「いえ・・・そうではありません。おかげで・・・確証がもてました・・・」

 亜矢はそう言うと、改めて彼女と向かい合った。

 「安心してほしい・・・。君が何も覚えていないのは・・・当然のことだよ・・・。なぜなら君は人間ではなく・・・雪の精霊なのだから・・・」

 「!?」

 その言葉に岸田は驚き、彼女はキョトンとした。

 「な、何を言っているんですか!? あなたまでそんな・・・」

 信じがたい亜矢の言葉に、思わず岸田は声を荒げてしまった。しかし、亜矢は冷静に言った。

 「いえ・・・これは間違いなどではありませんよ・・・」

 そう言って亜矢は、窓の外を見た。

 「彼女が現れるとともに・・・この雪は降り始めた。それは・・・彼女の存在が・・・この雪を呼び寄せているからです・・・」

 「そんな・・・そんなこと、とても信じられませんよ! たしかに彼女にはかわったところがありますが、それで雪の精霊だなんて・・・」

 「いいえ・・・。現にあなたは先ほど私に・・・「あなたまで」と言いましたね・・・?」

 「!!」

 その言葉に、岸田は硬直した。

 「他の誰か・・・あるいは彼女自身に・・・それに思い当たるようなことを言われたのではないですか?」

 鋭い推測をする亜矢。たしかに彼女のこれまでの行動は、その出会いから現在に至るまで、あまりに不思議なことが多すぎる。特に、彼女の雪に対する愛情については。だが、それで亜矢の考えを全て受け入れられるわけではなかった。

 「・・・そんなに彼女が雪の精だというのなら、本人に確かめてみてはどうですか?」

 岸田は亜矢の問いには答えずにそう言った。亜矢はうなずくと、彼女に尋ねた。

 「君は・・・覚えているかい? 君が・・・雪の精であるということを・・・」

 だが、彼女は首を振った。

 「ううん・・・私はただ、いつのまにかこの町にいただけだから」

 それを聞いて、岸田がホッとしたような表情を浮かべる。しかし、亜矢は表情も変えず続けた。

 「君の気持ちはわかる・・・。だけど・・・君はいつまでも、ここにはいられないんだ。冬はいつか終わり・・・春が来る・・・。そして、雪が溶けるとともに・・・君は、消えてしまうことになる・・・」

 彼女は呆然とそれを聞いていたが・・・

 「やっぱり・・・本当なの?」

 亜矢はうなずいた。だが・・・

 「いや・・・本当なら、もっと嫌・・・」

 彼女の表情が、見る見るうちに暗くなっていく。

 「私は消えたくない・・・。いつまでも、いつまでも・・・先生のそばにいたい!!」

 だが、亜矢は首を振った。

 「かわいそうだけれど・・・それは叶わない願いだ。春の訪れ・・・時の流れは、誰にも変えられないのだから・・・」

 しかし、彼女は強く首を振った。

 「いや!! 私は先生と離れたくない!! 先生の夢を叶えるんだから!! 春なんて来させない!!」

 「お、おい・・・」

 戸惑う岸田。すると・・・

 「わがままを言うんじゃない!!」

 亜矢が珍しく、激しい調子で彼女に叫んだ。

 「君が彼を好きなのはよくわかる・・・。けれど・・・君がいつまでもそのままでは、この雪は降り続き・・・数え切れないほどの人が、命を落とすことになる・・・」

 亜矢は真剣な眼差しで彼女を見ながら言った。

 「かわいそうだが・・・君はここにいてはいけないんだ!」

 すると・・・

 「いや・・・いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 彼女は両手で頭を抱えると、激しく髪を振り乱した。その途端・・・

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 「うわっ!?」

 「くっ・・・!」

 突然部屋の中にすさまじい吹雪が吹き荒れた。その勢いにたまらず飛ばされる岸田と、なんとかふみとどまる亜矢。部屋の中は白一色となり、何も見えなくなった。

 やがて・・・それはゆっくりとおさまっていき、部屋の中の様子が目にはいるようになった。ところが・・・

 「・・・!?」

 岸田は、我が目を疑った。彼女は、先ほどまでとまったく同じ場所にたたずんでいた。その白い肌や、腰まで伸びた美しい黒髪も、まったく同じ。だが・・・彼女はそれまでの普段着ではなく、まるでギリシア神話の女神のような、ゆるやかな白い布でできた衣を身にまとっていたのだ。

 「精霊としての自我を・・・取り戻したようだね・・・」

 彼女の様子が変わったことに驚きもせず、亜矢が静かに言った。それに対して、彼女は静かにうなずいた。

 「思い出したわ、何もかも・・・。私は、雪の精・・・」

 彼女は静かにそう言った。だが、亜矢を見つめるその視線は、まるで氷のような鋭さを帯びていた。

 「それならば・・・君にもう一度お願いする・・・。もっと北の土地へ・・・雪とともに去っていってはくれないだろうか・・・?」

 「いやよ」

 だが、あっさりと彼女はその願いを断った。

 「私は先生が好きになったの。いつまでも一緒にいたいわ」

 「言ったはずだ・・・それは叶わぬ願いだと・・・。君は精霊・・・彼は人間だ・・・。精霊の宿命を・・・忘れたのかい?」

 「そんなこと関係ないわ!!」

 彼女は激しい調子でそう言って、岸田に顔を向けた。

 「先生! 私は先生の側にいたい! 先生の願いを叶えたいの! 先生は、許してくれるわよね!?」

 岸田は呆然として、彼女の言葉を聞いていた。

 「お前は・・・」

 彼女は再び、亜矢に顔を向けた。

 「私は私のやりたいことをする! あなたなんかに邪魔はさせないわ!!」

 「・・・それなら、仕方がない・・・」

 そう言って、亜矢が召喚用の護符を取り出そうとした、その時だった。

 バッ!!

 彼女は亜矢に向かって、その手のひらを向けた。すると・・・

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 先ほど以上の強い吹雪が、部屋の中に嵐を巻いて吹き荒れる。

 ガッ!

 「グッ・・・!?」

 今度は亜矢も踏みとどまることができず、風に吹き飛ばされて壁にたたきつけられた。

 「そこでおとなしくしていなさい。私は先生と一緒に行く」

 そう言うと、彼女の背後にある大きな窓が音もなく開き、外から吹雪が勢いよく室内へ吹き込んできた。

 「さあ、いきましょ・・・」

 彼女は何も言えずにいる岸田にそう言うと、

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 再びすさまじい吹雪を引き起こした。すると、そのすさまじい風に二人は木の葉のようにフワリと浮き上がり、そのまま室内にあった他のものと一緒に、外へと飛んでいってしまった。

 「くっ・・・いけない・・・!」

 亜矢はよろめきながら立ち上がると、Sナビのスイッチを入れた。

 「こちら桐生・・・本部、応答願います。至急応援を要請します。場所は・・・」





 暗い雲が立ちこめ、吹雪の吹き荒れる空。そこを二つの影が、風に舞う木の葉のように飛んでいた。

 「おいっ、どこまでいくんだ!?」

 吹き飛ばされながらも、岸田が叫ぶ。

 「決まってるじゃない、あの場所よ」

 雪の精は笑顔を浮かべながらそう言った。やがて二人は、ある場所へとゆっくりと降りていった。

 ボスッ・・・

 「う・・・」

 雪の上に落ちてうめきながらも、彼は雪まみれの状態で立ち上がり、辺りを見回した。

 「ここは・・・」

 そこは、例の建物の屋上だった。しかし、完全に雪が積もり、簡単にはそこがどこだかわからないほどであった。

 スタッ

 「さ、ついたわ」

 そのうしろに、雪の精も降り立つ。彼女がそうしたのは、吹雪はウソのようにすっかり止んでいた。

 「見てみて、あの景色・・・」

 彼女が指さした方向には、一面の銀世界があった。町はほとんど雪に飲まれたような状態で、白い雪の海に家々の屋根だけが島のように浮かんでいる、というような感じだった。

 「どう? すごくきれいでしょ? それに、この空気・・・ピーンと張りつめてて、すごく澄んでる・・・」

 彼女はそう言うと、いつのまにか持っていたスケッチブックと画材を、彼に差し出した。

 「これならきっと、納得のいく絵が描けると思うわ。さあ・・・」

 しかし・・・

 「・・・」

 彼はそれを、受け取ろうとしなかった。

 「・・・どうしたの?」

 彼女はキョトンとした様子で、彼を見た。やがて、岸田は口を開いた。

 「たしかに、この景色は綺麗だ・・・。僕が今まで見てきた、どんな景色よりも・・・。だが・・・僕は、ここまでしてもらってまで、絵を描くことはできない!!」

 「!!」

 雪の精は、その言葉に激しい動揺の様子を見せた。

 「どうして・・・なの? こんなにきれいなのに・・・。せっかく・・・あなたのために、ここまで降らせたのに・・・」

 「・・・」

 だが、彼は何も答えずに、うつむくばかりだった。その時

 ヒィィィィィィィィィィィン!!

 突如聞こえてきた音に二人が顔を上げると、その頭上を銀色の巨大な箱が通り過ぎていった。それと同時に

 ガチャガチャガチャッ!!

 彼らのいる雪に覆われた建物の屋上に、3体のVJがきれいに着地した。その中の白いVJが、彼女に対して静かに言った。

 「亜矢さんに代わって、私からもお願いするわ。彼を解放して、おとなしく北へと帰ってほしい・・・」

 だが、雪の精は彼らを厳しい目で見ながら言った。

 「いやよ。私、先生が大好きだもん」

 その言葉と同時に、あたりに再び激しい吹雪が吹き荒れ始める。

 「帰りなさい! あなた達もあの人みたいに邪魔をするなら、恐ろしい目に遭わせるわよ!!」

 だが、仁木は毅然として言った。

 「やるならやるがいいわ。でも、あなたにとってその人が大事なように、私達にも守るべき人達がいる! 私達はどんなことをしても、彼らを守る!!」

 その言葉に、後ろに立つ圭介と小島も力強くうなずく。

 「そう・・・それなら、仕方がないわ」

 彼女はそう言うと、片手を目の前にかざした。

 「私達の前から消えてっ!!」

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 その手から、凍えるような吹雪がほとばしる。

 「くっ・・・!」

 圭介達は足を踏ん張り、懸命にそれに耐えた。

 「圭介君、その吹雪の温度は、マイナス30°です!!」

 VJの装甲のサーモセンサーが示す驚くべき低温に、ひかるが警告をする。

 カチ・・・カチ・・・

 その吹雪によって、VJのあちこちが凍り始めるのを見て、圭介は驚いた。VJはマイナス60°近い低温でも内部の実動員は快適な状態でいられるよう設計されているが、それでもVJそのものの耐寒性能には限界がある。

 「副隊長、このままでは危険です! 俺が突破口を開きます!!」

 ガシャッ!!

 そう叫ぶと圭介は真空砲を取り出し、右腕に装着した。

 「Bモード、出力最大! 発射!!」

 ドバァァァァァァァァァァァァァン!!

 圭介の真空砲から放たれた広角衝撃波が、一時的に吹雪の勢いをしのぎ、かき消した。だが圭介は、さらに砲口の形を変えて攻撃を行う。

 「Gモード! 発射!!」

 ガガガガガガガガガガガガガガガガ!!

 ガトリング砲の形に変形した真空砲の砲口が、回転しながら無数の高速小空気弾を放つ。だが・・・

 ボコォッ!!

 雪の精がサッと手をかざすと、彼女の前に巨大な雪の壁が出現した。

 ガガガガガガガガガガガガ!!

 空気の弾は全てそれに防がれ、雪のかけらを飛び散らせるだけに終わった。

 「なにっ!?」

 驚く圭介。だが、彼女はそれだけには留まらなかった。今度は手を天にかざすと・・・

 ピキッ・・・カチカチ・・・

 なんと、空中で雪が凝縮していき、瞬く間に鋭い氷の槍へと変化を遂げた。そして・・・

 シャアアアアアアアアアアッ!!

 それらは、圭介に向かって猛スピードで走った。

 「このっ!!」

 それらを撃ち落とそうと、圭介が真空砲を構えたその時

 ザザッ!!

 雪煙をあげ、白いVJがその間に割り込んだ。

 ガキキキキィィィィィィィィィィィン!!

 次の瞬間、彼女は童子切安綱で、氷の槍を全て切り落としていた。

 「大丈夫、新座君!?」

 振り返りながら、彼女が尋ねる。

 「は・・・はい!」

 「関節攻撃は彼女には通用しないわ! 私が直接攻撃を仕掛けます!」

 彼女はそう言うと、安綱を構えて彼女へと切り込んだ。

 「来ないでっ!!」

 シャアアアアアアアアアアッ!!

 再び氷の槍を作り出し、彼女へと走らせる雪の精。だが、これも仁木は切り落とし、さらに突進する。その行く手に文字通り最後の壁として、巨大な雪の壁が再び出現する。

 「ヤァァァァァァァァァァッ!!」

 ズパッ!!

 しかし、彼女はそれをも気合いとともに一刀のもとに真っ二つにした。

 「!?」

 これには、雪の精も驚きの表情を浮かべる。一方、仁木はそれを見逃さず、片手で彼女につかみかかろうとした。が・・・

 ブワァッ!!

 「えっ・・・!?」

 彼女の体が突然無数の雪と化し、つかもうとした仁木の手は空を切った。バランスを崩してよろける仁木。すると、そのうしろに無数の雪が集まり、あっというまに雪の精の姿となった。

 「消えて!!」

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 「きゃあっ!!」

 すかさず彼女が背後から起こした猛吹雪によって、仁木は吹き飛ばされた。

 「副隊長! くそっ、よくも!!」

 小島はそう叫ぶと、雪の精のすぐ側まで間合いを詰め、マルチブラスターのノズルを装着した。

 「そっちが雪なら、こっちは炎だ!! 「鎌倉ザンボラー君2号」を使ったこの火炎放射、くらってみろ!!」

 ゴォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 小島のマルチブラスターから吹き出した紅蓮の炎が、あっというまに雪の精を包む。雪の精は炎に巻かれながら、苦しげにもがいた。

 「いける!!」

 小島はさらに火炎放射を続けた。だが・・・

 「こんなもの!!」

 ビュゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 彼女が引き起こした一際すさまじい猛吹雪が、それをうち消してしまった。

 「うわっ!? そ、そんな・・・」

 小島が信じられないという様子でつぶやく。

 「あれが効かないなんて・・・。鎌倉ザンボラー君って、炎の精の力を借りてるんじゃないの?」

 「そうです! どうして効かないんですか、亜矢さん!?」

 聡美とひかるが、それが理解できずに亜矢に尋ねる。

 「たしかに・・・炎の精霊の力は強い・・・。けれど、それは雪の精霊の力とは・・・打ち消しあう性質のものだ・・・。周りを・・・見てごらん・・・」

 そう言って亜矢は、圭介達の戦っているあたりを見回した。

 「ここだけじゃない・・・関東一帯が、雪に包まれている。ここは彼女のテリトリーであり・・・彼女は関東一帯に降り積もった雪によって・・・計り知れない力を得ている・・・。例え精霊の力を得た炎でも・・・今の彼女の吹雪の力には・・・勝つことはできない・・・」

 「そんな・・・! それじゃ、俺達はどうすれば・・・」

 圭介と仁木が、小島の横に並び、戸惑いながらもなおも自分達の武器を向ける。そんな彼らに、彼女は言った。

 「何もせず、そこでおとなしく見ていればいいのよ!!」

 彼女はそう言うと、彼らの足下へ向けて吹雪を放った。その途端・・・

 カチカチッ・・・!!

 「!? しまった!!」

 彼らは全員、自分達の足を氷で固められてしまった。さらに・・・

 「そこで寝ていなさい!!」

 彼女は彼らの体にも吹雪を放った。同じように、彼らは首から下も固められてしまい、強い風によって倒されてしまった。

 「全モーターフル稼働! パワー全開で振り切って下さい!!」

 ひかるがVJのパワーを全開にする。それに続いて、亜矢も同じことをした。しかし・・・

 「くっ・・・ダメだ! びくともしない! なんて固い氷だ・・・」

 全身に力を込めても、体を覆う氷はびくともしなかった。

 「今の私の魔力が込められた氷よ! 硬さはただの氷の比じゃないわ!」

 雪の精はそう言うと、それまでその光景を見つめていた岸田に向き直った。

 「もう邪魔者はいないわ。思う存分、この景色を描いて」

 そう言って、彼女は空中に浮かせていた画材を、再び彼に差し出した。だが・・・

 「・・・」

 彼はまたも首を振り、それを拒絶した。

 「どうして・・・? なぜ、絵を描いてくれないの・・・?」

 「お前は、わかっていない・・・。絵というのは、美しいものがそこにあればよい作品を描けるものじゃない」

 彼はそう言った。

 「絵は心だ! 何かを見て美しい、素晴らしいと感じる心が、本当に美しい絵を生み出すことができる!!」

 「それならなぜ!? あなたはこんなに綺麗なこの景色が、美しいとは思わないの!?」

 彼女は雪に包まれた町を示しながら叫んだ。彼はそれに視線を向け、言った。

 「たしかに、あれはきれいだ・・・。だが、その美しさを実現するために、何千、何万という人が不自由な思いをし、苦しんでいる。雪で道路がふさがってしまったら、救急車も通ることができない。電気を送る施設が雪のために止まってしまったら、寒い夜を暗い闇の中で送らなければならない」

 彼はそう言って、彼女を見た。

 「お前はそれでも、あれをただ美しいと言えるのか!? 本当の美しさというものは、そんなものじゃない! 犠牲を必要とする美なんて、あってはならないものなんだ!!」

 「せ、先生・・・」

 「あんな悲しい景色は、僕は描くことはできない。例え描いたとしても・・・それは、あの絵を超えることはできない・・・」

 そう言って彼は、彼女に背を向けた。

 「・・・」

 彼女は呆然と、その背中を見ていたが・・・

 「・・・ごめんなさい!!」

 彼女はその背中に駆け寄り、抱きついた。

 「私は忘れていたわ・・・。雪はきれいだけど、冷たさでどんな命をも奪ってしまう力ももっていることを・・・。これ以上雪を降らせていたら、もっとたくさんの命に迷惑をかけ、それを奪っていたかもしれない・・・」

 「・・・」

 「私は・・・美しさばかりに心をとらわれて、大きな過ちを犯すところだった・・・。自然が必要以上に命を奪うことがあってはならない・・・。精霊として守らなければならないことを、私は忘れるところだった。でも・・・もう思い出した。こんなことは、二度としないわ。だから・・・」

 彼女は顔を上げた。

 「だから、雪を・・・私を嫌いにならないで! お願い・・・!」

 彼女はそこまで言って、何も言わなくなった。が・・・

 ギュッ・・・

 「!?」

 彼女は突然振り返った岸田に抱きしめられた。

 「せ、先生・・・」

 「精霊の自覚を取り戻しても、ぜんぜん変わらないな、お前は・・・」

 岸田はそう言った。

 「間違いをすぐに認めて謝ることができる・・・そういう奴は、嫌いじゃない」

 「先生・・・!」

 彼女はそう言って、自分も彼を抱きしめた。やがて、彼は雪の精に言った。

 「ほら・・・まだ謝らなければならない人がいるだろう・・・?」

 そう言って彼は、体を固められて倒れたままの圭介たちを見た。

 「う、うん・・・」

 彼女は彼らに向かうと、手をかざした。すると・・・

 あれほど硬くしまっていた氷が、徐々に溶け出して緩み始めた。

 「あ・・・」

 「よし・・・!」

 バキバキバキッ!!

 やがて、彼らは自力で自分たちの氷のいましめを引きちぎり、自由を取り戻した。そんな彼らに、雪の精が近づく。

 「・・・すみませんでした!!」

 そう言って、彼女は深々と頭を下げた。圭介たちは、黙ってそれを見ていたが・・・

 「・・・無駄な争いが避けられるのなら、私たちは迷わずその道を選ぶわ」

 「ましてや、それが美人の精霊さんの言うことならなおさら、ね」

 「正直、俺たちじゃかないそうもなかったし」

 彼らは口々に、彼女を許した。

 「・・・ありがとうございます!!」

 彼女はぱっと顔を輝かせ、もう一度頭を下げた。岸田はその後ろで、笑顔を浮かべてその光景を見ていた。が・・・

 グラッ・・・

 突然、その体が揺れたかと思うと・・・

 ドサッ!

 彼は雪の上に、うつぶせになって倒れてしまった。

 「!?」

 「岸田さん!!」

 「先生!!」

 第1小隊、それに雪の精はあわてて彼に駆け寄り、その体を仰向けに寝かせた。

 「これは・・・!」

 その顔を見ながら、小島がただならぬ声を出す。同時に彼はバイザーを下ろし、メディカルスコープでその容態を確かめた。

 「どうなの?」

 「急激な外気の温度低下によって、高熱を出しています。つまりは、重度の風邪・・・肺炎を併発している恐れもあります」

 仁木に尋ねられ、小島はこの場で言える診断結果を彼女たちに告げた。

 「この寒さじゃ・・・そうなっても無理はないですね」

 圭介も心配そうに彼を見つめる。

 「私の・・・私のせいだわ。私が、こんなことをしなければ・・・」

 雪の精が絶望したような表情で、雪の上にひざまづく。だが・・・

 「いまは誰のせいとか、そんなことを言っている場合じゃない」

 小隈がそう言って、隣の聡美を見た。

 「すぐに病院へ搬送しよう。岸本、手近で救急医療態勢が整っている病院を検索してくれ」

 「了解!」

 聡美はすぐにそれにとりかかった。その間にも、小島はこの場でできる処置に取りかかる。まずは岸田のそばにシャッター・フィールドを置いて展開すると、メディカルキットを取り出して、治療を開始した。その時である。

 「た、隊長・・・大変なことが・・・」

 「どうした?」

 「雪と寒さのために都内の変電所や送電所の機械にトラブルが発生して、広範囲で停電が発生しています! そのために、ほとんどの病院も医療機器が作動しない状況で・・・」

 「ええっ!?」

 その言葉に、隊員達は驚いた。

 「それじゃ・・・どうするんですか? 早く病院に運ばないと、岸田さんが・・・」

 「でも、電気が復旧しない限り、病院は・・・」

 その時・・・

 「・・・」

 スッ・・・

 雪の精がゆっくりと、岸田の額に手を当てた。

 「君は・・・」

 それに驚き、小島が声をかける。

 「私が先生の熱を吸い取る。すぐによくなるわ」

 「だけど・・・」

 と、小島が言いかけたその時

 「彼女の・・・言うとおりにした方がいいよ・・・」

 その声に振り返ると、そこにはいつのまにか亜矢が立っていた。

 「すまない・・・。隊長の許可をもらって・・・管制を中断した・・・」

 「いや・・・それはいいんですけど・・・」

 「彼女の言うとおりにした方がいいというのは・・・?」

 小島や圭介の言葉を聞きながら、彼女は雪の精に近づいた。

 「彼は・・・重い風邪であるというだけではない・・・。魂も・・・弱ってしまっているんだ・・・」

 彼女は岸田を見ながらそう言った。

 「それって、どういうことです?」

 「雪の精とともにいると・・・知らずのうちに、魂までもその寒さに当てられることになる・・・。そして、そのままでは・・・いずれ、命を落としてしまうことになる・・・。そうだね・・・?」

 亜矢がそう言うと、雪の精は無言でうなずいた。

 「そ、それじゃ・・・」

 「風邪を治しても、そのままでは命を落とすかもしれない・・・」

 「それじゃ、岸田さんはこのまま・・・」

 「そんなことには、私がさせないわ!」

 手を当てたまま、雪の精がそう言った。

 「熱を吸い取るのと一緒に、雪を通して自然の精気を先生に注ぐ。それで先生の魂は活性化するはずだわ。私のせいですもの、私が最後まで、責任をとる」

 「でも、そんなことをしたら君が・・・」

 だが、圭介の言葉に雪の精はうなずいた。

 「消えちゃうわ。でもいいの。あなたが言うように、雪は消えるのが当たり前なのよ」

 亜矢の顔を見て、彼女はそう言った。

 「でも、これだけは信じてほしいの。あなたたちにも、先生にも・・・。先生をこんな目に遭わせるつもりなんてなかったのよ。本当に、先生が好きだったのよ・・・」

 その言葉に、圭介はうなずいた。

 「もちろん、信じるよ。岸田さんもそのことはわかっているはずだけど、目を覚ましたら、ちゃんと伝えておく。約束する」

 「ほんと? ・・・うれしいわ」

 彼女はさびしく微笑むと、岸田の顔を見つめた。そんな彼女の姿を見て、亜矢はふところから水晶の振り子を取り出した。

 「私も・・・力を貸そう・・・。大地や風、森・・・他の精霊達にも呼びかけて・・・力を分けてもらうよ・・・」

 「ありがとう・・・」

 やがて、亜矢の水晶の振り子と雪の精の体が、どちらも雪あかりのような淡い光を放ち始めた・・・。





 カン・・・カン・・・

 建物の壁に沿って取り付けられた、錆びついた外階段を彼女が登っていくたびに、その足が乾いた音をたてる。

 カン・・・カン・・・カン・・・

 やがて、彼女は屋上へとたどり着いた。彼女はそこで、そこの先客に頭を下げた。目の前にスケッチブックとパレットを広げたその男は、彼女の姿に気づくと頭を下げた。彼女はそれに礼を返すと、彼に近づいていった。

 「ここ・・・よろしいですか・・・?」

 「どうぞ」

 亜矢は彼の隣に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。岸田はすでに絵を描き終わったらしく、パレットに絵筆を置いていた。二人はしばらく、そのままそこから見える町の風景をじっと眺めていた。

 「本を・・・読ませていただきました・・・」

 唐突に亜矢が言ったので、岸田は彼女の方を向いた。彼女は、一冊の本を持っていた。雪の降る冬枯れの森を描いた幻想的な絵の上に「雪の童話」と書かれた、一冊の絵本だった。

 「こういった本を買うのは、久しぶりでしたが・・・絵と文がここまで調和した本は・・・読んだことがありませんでした・・・」

 「・・・光栄です」

 岸田は言葉少なにそう言って、頭を下げた。

 あれから、三カ月が経った。雪は彼女が消えるとともに、うそのように姿を消した。無事回復した岸田はその後まもなく、絵だけでなく文章も自分で書いた絵本「雪の童話」を出版した。雪をテーマとした彼自身による短編の創作を集めたもので、その美しい文章と絵が定評を呼び、今密かな話題の的となっている。

 「・・・こうして見ていると、子どもだった頃の春を思い出します」

 あれほどの雪が降り積もっていたことなど、全く感じさせないほどに普段の姿を取り戻した町を見下ろしながら、岸田はポツリと言った。

 「毎年春になると、あれほど積もっていた雪が跡形もなく溶けて、白一色の世界が消えて元の風景が姿を取り戻す・・・。小さかった頃の僕にはそれが不思議でしょうがなく、まるで雪というものが、実際にはなかったんじゃないかと思えましたよ。僕の見ていた雪景色は、冬の幻だったんじゃないかと・・・」

 「・・・」

 「この町の風景を見ていると、忘れかけていたそんな気持ちが、蘇ってきます・・・」

 「・・・彼女も幻だったと・・・思いますか?」

 だが、岸田はそれには首を振った。

 「いえ・・・。彼女は確かに、僕の側にいた。その証拠が・・・その本です」

 そう言って、岸田は亜矢の持っている「雪の童話」を一瞥した。

 「僕の原点は、あの雪にあったんですよ。白くて純粋で美しい、あの雪に・・・。目を覚ましてから、僕はこんなことを考えました。彼女は雪景色を夢中で描いていたあの頃から、そのことを思い出させるために僕の前に現れたのかもしれない、と・・・。あんな清らかな心の持ち主には、二度と再び、会うことのないような気がします。僕は彼女に会って思い出したことを全て、その本にそそぎ込んだつもりですよ」

 亜矢は黙ってそれを聞いていたが、やがて、彼に言った。

 「・・・永遠の別れというわけではありません・・・。彼女は、雪そのものです・・・。再び季節が巡り、冬がやってきたら・・・彼女はまた、あなたの前に現れてくれるかもしれません・・・」

 だが、岸田は首を振った。

 「いえ・・・もういいのですよ。僕は彼女のおかげで、自分の原風景と向かい合い、それに区切りをつけることができました。冬が終われば春が来るように・・・僕もまた、これからは新しい自分の世界を見つけられるよう、努力していくつもりです・・・」

 「・・・それを聞けば、彼女もきっと・・・喜んでくれることでしょう」

 亜矢は微笑み、それにうなずいた。岸田は目の前の台に置いてあったスケッチブックをとると、それを亜矢に差し出した。

 「ようやく・・・以前描いた雪の絵以上に、納得のいくものが描けました。彼女の代わりに・・・受け取っていただけませんか?」

 それは、やはりこの町の風景だった。しかしそこには雪の姿はなく、代わりにわずかに芽吹きだした花と若々しい青葉に彩られ始めた町の、柔らかな暖かさが感じられるような作品だった。

 「よろしいのですか・・・?」

 「ええ、ぜひ」

 「ありがとうございます・・・」

 亜矢はそれを丁寧に受け取って、再び町の風景を眺めた。やがて、彼女は時計に目をやると、ゆっくりと立ち上がった。

 「それでは・・・私はこれで・・・。パトロールの途中で、立ち寄ったものですから・・・」

 「そうですか・・・それでは」

 「これからもよい作品が描けることを・・・期待していますよ・・・」

 「私も、無事にお仕事を続けられることを祈ります」

 二人は互いに小さく笑みを浮かべた。その時・・・

 ソヨ・・・ソヨ・・・

 突然暖かく爽やかな風が吹き、亜矢の長い髪をわずかに揺らした。

 「あたたかい南の風が・・・吹いていますね」

 「もうすぐ、春なんですよ・・・」

 岸田は表情少なく、静かに空を見上げて言った。亜矢は優しい笑みを浮かべると、スケッチブックを小脇に抱え、階段に向けてゆっくりと歩みだした。






関連用語紹介

・雪の精

 てんとう虫コミックス第21巻「精霊よびだしうでわ」に登場。その名の通り雪の精霊であり、雪の日に外へ出たのび太が精霊呼び出し腕輪で偶然に呼び出した。ギリシア神話の女神のような美しい少女の姿をしていて、外見上の年齢は16、7歳程度だと推測される。性格は無邪気かつ少しわがまま。呼び出してくれたのび太のことを気に入り、雪を自在に降らせて操る力でのび太とともに楽しく遊ぶ。しかし、彼女は雪が消えると自分も消えてしまう存在であり、のび太といつまでも一緒にいたいがために大雪を降らし、そのためにのび太は風邪を引き、高熱を出して寝込んでしまう。雪のために医者もやってくることができず、ただ眠るしかないのび太の枕元に、夜中、彼女は現れた。彼女は自分が消えてしまうことを承知でのび太の熱を吸い取り、のび太に一緒に遊んでいて楽しかったと告げられながら、雪とともに姿を消した。

 小説中の雪の精は、性格はほぼそのまま、もしくはもう少し幼くした感じ。容姿についても、日本の雪女を意識して長い黒髪にした以外は、ほぼ原作通りである。小説の都合上、触ると冷たいなどの設定は変更。小泉八雲の雪女は人間の男の妻として普通に生活していたため、彼女もそのような存在として描いた。


おまけコーナー(対談式あとがき)

 作者「影月」

 聡美「聡美の」

 二人「「おまけコーナー!!」」

 作者「というわけで、めでたくVol.2です。1だけで終わらなくてよかった」

 聡美「それはあたしもいいと思うけど、今回は前回とずいぶん趣向が違うね?」

 作者「前回リアルに怖い話を書いてしまったので、今回はファンタジー系のものを
    書こうと思いまして。でも一番の影響は、「怪奇大作戦」ですかね。あれの
    ホームページを見て、急にそれっぽいのを作りたくなって。特にどの話を参考に
    したということもありませんけど」

 聡美「あんたのことだから、他にもいろいろ参考にしてるんでしょ?」

 作者「雪女っぽい話にしたかったので、何はなくともまず小泉八雲の「怪談」を
    読みました。あとは雪絡みで、ウルトラマンの「まぼろしの雪山」。それに
    精霊絡みで、やはりドラえもんの「森は生きている」とか。知ってる人には
    なんとなくわかるかと」

 聡美「それはそうと、今回あたしたち必要だったのかしら? 目立ってたのは雪の精さんと
    岸田さん、それに亜矢さんだけで、あたしたちなんて全然・・・」

 作者「それを言われると痛いです・・・。ことこういう話となると、必然的にメンバーの中で
    活躍させられるのは亜矢さんになってしまうんですよ」

 聡美「まぁいっか。亜矢さん、けっこう人気あるみたいだから」

 作者「それでは、今回はこのあたりで失礼します・・・」

 (BGM「恐怖の町」)


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