海上区のちょうど中央、区役所の近くに立つ大きな円形の建物、海上区立図書館。その日は休日ということもあり、多くの区民達がここへ赴いていた。

 そんな中に、一人の女性の姿があった。青いストレートロングの髪を垂らした、切れ長の目を持つ美しい女性。薄い水色のシャツに茶色いロングスカートという出で立ちの彼女は、本棚の前に立って一冊の本をパラパラとめくりながら、その文章を目で追っていた。すでにその手には、何冊もの本が重ねられていた。タイトルから察する限り、ほとんどは推理小説らしい。やがて彼女は、読んでいた本を閉じるとその本も持ち、貸出カウンターへと歩いていった。

 「お願いします」

 ドンッ

 彼女がそう言って、5冊ほど重ねた本をカウンターに置く。と・・・

 パタッ

 その隣で軽い音とともに、もう何冊か本がほぼ同時に置かれた。彼女が見ると、それはみな絵本だった。そして、彼女が視線を下げると・・・

 彼女の隣には、カウンターより少し背が高いくらいの小さな女の子が立っていた。女の子もこちらを見ており、二人の視線があった。だが・・・

 「どうぞ」

 女の子はやや舌足らずな調子でそう言うと、自分の本を少し下げた。

 「ありがとう」

 彼女は微笑みを浮かべると、その厚意に甘えてゆずってもらった。貸出を終え、彼女が本を持ってカウンターを離れると、その少女が貸出を受けていた。彼女はそれを、目を細めながら見つめていた。すると・・・

 「歌穂」

 女性の声に、少女が振り返った。そこには、彼女の母親らしい女性が立っていた。

 「ちゃんとできた?」

 「うん! 貸してもらったよ!」

 少女は笑顔を浮かべて得意げに手に持った絵本を掲げて見せた。

 「あのねあのね! 歌穂、偉いんだよ! お姉さんに順番ゆずってあげたの!」

 「へぇ〜、偉いね、歌穂」

 母親に頭をなでられ、少女は笑った。

 「ほら、あのお姉さんだよ」

 そう言って、少女は彼女の方を向いた。彼女はそれに少し戸惑ったが・・・

 「譲ってくれて、ありがとうございました。いい娘さんですね」

 母親と少女に、そう礼を言った。

 「いえ、どういたしまして・・・あら?」

 と、突然母親の表情が変わった。そして、彼女は思いも寄らないことを言った。

 「あの・・・もしかして、葉子?」

 「え・・・?」

 彼女は突然自分の名前を呼ばれたことに驚き、目の間の母親の顔をジッと見た。すると・・・

 「まさか・・・松田先輩ですか?」

 彼女のその言葉に、母親は安堵の表情を浮かべた。

 「そう! やっぱり葉子だったのね!」

 感激の表情を浮かべる母親を、娘はきょとんとした表情で見上げていた。

Extra Episode Vol.7

はやりやまい


 「ご注文はお決まりでしょうか?」

 群青の着物に白い割烹着という出で立ちの和風喫茶のウェイトレスが、注文を取りにきた。

 「クリームあんみつ二つ。あと、みつ豆を五つ」

 その注文に、ウェイトレスは3人という人数を見て少し驚いたような表情を見せたが・・・

 「・・・ご注文を繰り返させていただきます。クリームあんみつがお二つ、みつ豆が五つ、以上でよろしいですね?」

 「はい」

 注文が聞き違えでないことを確かめると、ウェイトレスは去っていった。

 「先輩・・・」

 と、テーブルを挟んで仁木が困ったような表情で言った。

 「あ、いいのよ。お金のことは心配しなくて。全部あたしが払うから」

 「そういうことではなく・・・」

 「ママ、あたし、みつ豆5杯も食べらんないよ〜」

 母親の横で、少女が困ったように言った。だが、母親は言い聞かせるように言った。

 「大丈夫よ。歌穂とママが食べるのは、クリームあんみつだけ。みつ豆5杯は、みんなこのお姉さんが食べるんだから」

 「えぇ〜っ!? すっご〜い!!」

 少女は驚きと尊敬の混じった目で仁木を見た。彼女はさらに困った様子で、母親を見た。

 「先輩!」

 「みつ豆5杯くらい、あなたなら軽くいけるでしょ? せっかく久しぶりに会ったんだから見せてよ。毛が3本のオバケもかくやって言われたくらいの食いっぷりを」

 「・・・先輩もそうですけど、私が大食いをするところなんか見てそんなに楽しいですか?」

 「楽しい」

 母親にきっぱりそう言われ、仁木はため息をついた。

 「大食いの女の気持ちなんて、誰もわかってくれないんですから・・・」

 「そんなに落ち込まないでよ。ちょっと反省。とにかく、みつ豆は好きなだけ食べていいからさ」

 フォローになってないと思いながらも、女は顔を上げた。

 「お気持ちは感謝します・・・。それよりも、お久しぶりです、松田先輩・・・」

 「あなたこそ、元気そうでなによりね、葉子」

 二人の女性はそう言って笑顔を向けあった。

 「どれぐらいになるかしら・・・?」

 「そうですね・・・。先輩が高校を卒業してから、一度も会っていませんでしたから・・・十年近くにはなるかもしれませんね」

 「十年かぁ・・・変わるわよねぇ。ミステリー研究会でワイワイ騒いでた頃が、ずいぶん昔に思えるわ」

 母親はそう言ってため息をついた。その向こうで、仁木が無言でうなずく。彼女の名は、松田弘恵。二人は高校時代、同じミステリー研究会に所属する、無類の推理小説好き同士だった。当時仁木より一つ年上の弘恵は、当時その部長を務めていた。

 「ところで先輩・・・お子さんがいらっしゃるということは、もしかして苗字も・・・」

 仁木が歌穂を見ながらそう言うと、母親は笑顔でうなずいた。

 「棚橋よ、棚橋弘恵。今はそれが、私の名前」

 「そうですか・・・おめでとうございます。結婚されていたとは、全く知りませんでした」

 「ごめんね。手紙とか送ろうと思っていたけど、住所がわからなかったから・・・」

 「いえ・・・。それで、いつ頃?」

 「五年前よ。その年のうちに、この子が産まれたわ。歌穂、今いくつかお姉さんに教えてあげなさい」

 「五歳です!」

 歌穂は笑顔でそう言った。微笑みを浮かべ、彼女の頭を撫でてあげる仁木。

 「可愛い娘さんですね」

 「フフ、ありがとう。今はこの子のおかげで、毎日が楽しいわ」

 弘恵は微笑みながら、顔を娘から仁木へ向けた。

 「ところで、葉子はどうなの? 文武両道、頭脳明晰、才色兼備・・・そんな言葉がみんな似合っちゃうあなただもの。男には不自由してないんじゃないの?」

 「いえ・・・私は、そんな・・・」

 仁木はそう言いながら、うつむいてお冷やを口に運んだ。

 「それに・・・私はまだ、仕事の方に関心がありますから・・・」

 「そうね・・・それどころじゃないのかもしれないわね。あなたの仕事の場合」

 「私の仕事を・・・?」

 「ええ、もちろん。テレビでいつもご活躍は拝見させてもらっているわ。SMSの副隊長さん」

 弘恵はにっこりと笑った。

 「あなたがSMSの副隊長として働いているって知ったときには驚いたけど、納得もしたわ。あなたならそれぐらい、務まりそうだものね」

 「いえ・・・私も精一杯という感じです。まだまだうちの隊長や同僚達から学ぶことも、たくさんありますし・・・」

 仁木はそう謙遜した。

 「・・・」

 弘恵はそれを聞きながら、何かを考えているように急に黙り込んだ。

 「・・・先輩? どうしたんですか?」

 仁木がそう尋ねると、弘恵は真剣な表情で言った。

 「ねぇ、葉子・・・ダメもとで言うけど・・・少し私の話を、聞いてもらえないかしら・・・」

 「え、ええ・・・かまいませんが、一体・・・」

 普段は陽気な弘恵の見せたその表情に気圧されながらも、仁木はうなずいた。

 「実は・・・夫を捜してもらえないかと思って」

 「先輩の旦那さん・・・ですか?」

 仁木が尋ね返すと、弘恵はうなずいてハンドバッグから写真を取り出した。

 「半年ぐらい前に家族で撮った写真よ。私の右隣に写っているのが、私の夫」

 仁木は写真を受け取って見つめた。どうやら、家族写真らしき一枚らしい。一軒の家を前に、5人の人間が写っている。歌穂を抱きかかえた弘恵と、彼女の両親。そして、弘恵に並んで立っている30過ぎぐらいの男が、その夫なのだろう。決して美男子ではなかったが、人柄の良さが柔和なその表情からうかがえた。

 「旦那さんを捜してもらいたいということは、つまり・・・」

 「ええ、行方がわからないの・・・3ヶ月前から」

 弘恵は心底心配そうな表情を浮かべてそう言った。それを聞いて、仁木の表情も深刻なものになる。

 「失踪なされた、ということですね? それはどのように?」

 「忽然・・・としか言えないわね。ある日突然、行方がわからなくなってしまって・・・」

 「何か、そうなる動機などに心当たりは? その前に変わった様子があったとか、そういうことは・・・」

 「たしかに、少し前から様子はおかしかったのよ。時々思い詰めたような顔をしたりして。どうしたのか聞いても、ちょっと仕事で疲れてるだけだって・・・。たしかに帰りが遅かったけど、なんだかそれだけじゃないような感じだったわ・・・」

 弘恵はそこまで言って、仁木の顔を見た。

 「・・・なんだか、本当に事情聴取みたいね」

 「あ・・・すみません。仕事のくせで・・・」

 思わず仕事の時の自分が出ていたことに気づき、仁木は頭を下げた。

 「いいのよ。真剣に聞いてくれてうれしいわ。でも、今話したようなことなら、警察の人にもお話ししたわ」

 「そうですか。やはり、警察にはすでに捜索願を・・・」

 「いなくなってから何日か経ってからね・・・。一生懸命捜してくれてはいるんだろうけど、なかなかいい知らせが届かなくて・・・。探偵さんにも頼んでみたけど、そっちも成果は上がっていないわ」

 「だから、私達に・・・ということですか?」

 仁木の言葉に、弘恵はうなずいた。

 「ええ・・・。もちろん、そう簡単にお願いできることじゃないということはわかっているつもりよ。あなた達も、もっと重要な事件の捜査とかで忙しいっていうことも。でも・・・それでも、無理を承知でお願いできないかしら? 私達も、夫の身に何が起こったのか、それを考えると気が気でなくて・・・」

 心配そうな様子でそう語る弘恵。もちろん仁木も、家族の一人が謎の失踪を遂げたということのもつ重大さは十分わかっていた。さらに・・・

 「捜してくれないんですか・・・?」

 歌穂が心配そうな目で仁木を見つめる。小さな女の子にそんな目で見つめられると、仁木も弱かった。

 「・・・わかります。たしかに、旦那さんがいなくなったということは大変なことですし、すぐに捜してあげたいとも思います。ですが・・・」

 仁木はうつむいて、自分の立場から言わなければならないことを言った。

 「・・・先輩もご承知の通り、私もSMSという組織の中で生きる人間です。SMSはたしかに警察などよりは自由な枠組みで動ける組織ではありますが、探偵のように依頼を受けたらすぐに活動を始められる、というわけではありません。私達には私達の扱う種類の事件がありますし、警察がすでにその事件の捜査を始めている以上、同じことをするためには許可を得なければいけません。場合によっては、私一人の力ではどうにもできないかもしれません・・・」

 「そうよね・・・」

 弘恵はそう言ってうつむいた。

 「・・・でも、諦めないで下さい。先輩の旦那さんの失踪も、他の事件も、どちらも重大な事件であることには変わりありません。許可さえとれば、私達も捜査を始められるでしょうし・・・このことは、私から隊長に相談してみます。そうできるように、全力で努力させていただきますから」

 「そう・・・ありがとう。ごめんね、葉子。無茶を言ってしまって」

 「いえ、いいんですよ。人の役に立てなければ、私たちのやっている仕事も、無意味になってしまいますから・・・」

 「お姉ちゃん、ありがとう」

 歌穂にも礼を言われ、仁木は照れ笑いを浮かべた。

 「・・・それでは、今日のところはとりあえず、旦那さんの名前だけ教えてもらえませんか? 詳しい情報などは、警察の方から回してもらいますから」

 「わかったわ。夫の名前は、棚橋茂樹。こういう字よ」

 手帳の1ページを破って夫の名前を書き、彼女は仁木に手渡した。

 「わかりました。受け取っておきます」

 仁木はそれを受け取ると、自分の手帳に挟んだ。と、その時

 「おまたせしました」

 お盆の上に大量のみつ豆を載せたウェイトレスがやってきて、それを机の上に並べ始めた。

 「来た来た。さ、歌穂、見ててごらん。すごいから」

 「うん!」

 目をキラキラさせながら、仁木を見る歌穂。仁木は弱り果てた表情で、目の前のみつ豆を眺めた。



 「・・・と、いうわけなのですが・・・」

 翌日の昼休み、ガレージ内の休憩室。仁木は深刻そうな表情で、目の前の小隈に昨日の出来事を話した。

 「・・・」

 「どうでしょう、隊長? 無理は承知ですし、SMSが事件に取り組むきっかけとしては、正規のないものではないことも理解していますが・・・私に、その事件の捜査をさせてはもらえないでしょうか・・・?」

 小隈が何も言わないので、仁木はさらにそう言った。

 「・・・ああ、そうだな・・・」

 パチン、と目の前の将棋盤に駒を置きながら、小隈はようやく口を開いた。

 「たしかにお前の言うとおり、それは警察が取り組むべき仕事だな。いくら知り合いの頼みだからって、SMSが探偵みたいに個人から軽々しく依頼を引き受けるわけにもいかんし・・・」

 「・・・」

 いくらアバウトな性格の小隈でも、さすがに自分達が取り組むべき仕事の守備範囲はやはり心得ているのだろう。SMSは通常の警察では解決できないような特殊な事件や、通常の方法では救助作業が困難な事故に対して活動を行うために結成されたのだから。本来警察が取り組むべき事件にまでSMSが手を出していてはとても務まらないし、警察だっていい顔はしないだろう。仁木は小隈の言葉から、それを改めて実感した。だが、小隈はさらに言った。

 「しかしだ・・・。これもお前の言うとおり、事件は事件。「ただの」失踪事件だからといって、後回しにされたりおざなりにされたりしていいはずがない。失踪事件だって、下手をすれば人の命が関わってることだってあるんだからな」

 「! それでは・・・」

 「ああ、やってみるか? やるっていうのなら、俺は協力させてもらうけど」

 小隈はあっけらかんとそう言った。

 「あ・・・ありがとうございます!!」

 さすがにこれは聞き入れてもらえないだろうと思っていた仁木は、その言葉に深く頭を下げた。

 「ずいぶんものわかりがいいな。いいのかい、小隈さん?」

 それと同時に仁木が少し抱いた疑問を、将棋盤を挟んで小隈の向かいに座る楢崎が代わって尋ねた。

 「独自の捜査活動ではなく、警察の捜査活動に協力するってかたちなら、そんなに波風を立てないで済むでしょう。もともとSMSと警察は持ちつ持たれつで、おおむねその関係は良好ですからね。それに、最近は大きな事件や事故もなくて、のんびりした日が続いてますから。たまにはこちらから仕事を受注するっていうのも、いいんじゃないですか?」

 「たしかになぁ。うちの連中もこの陽気とヒマで、ちょっとたるみ気味だしな。こっちもそろそろ、ガツンと言ってやる必要があるか。ガツン、とな」

 そう言いながら、楢崎はピシャンと駒を将棋盤に叩きつけた。

 「あ! ・・・そうか、その手があったか。参ったな。待てませんか、これ?」

 「待てねえよ。あんたも自分の体を動かすより部下の動かし方を考える方が仕事なんだから、自力でなんとかするのが筋ってもんだぜ」

 小隈はしばらく将棋盤を見つめていたが、やがて、仁木に向き直った。

 「まぁ、将棋はちょっと置いておくとして・・・。話はわかった。警察には俺の方から、捜査協力依頼を出しておこう。その旦那さんに関する情報をよこしてもらうように頼むのと一緒にな」

 「すみません。お願いします」

 「ただ、もともと格なんてない仕事に無理矢理でも優先順位をつけなければならないことも事実だからな。大火災とか、そういう緊急の事件が起こった場合は・・・」

 「もちろんです。そちらに優先して取り組みますので」

 「ああ、それをわかってくれてればいい。それと、新座達にもこのことは話しておこう。いざというときは、お前に協力してやれるように」

 「そんな・・・! このことを頼まれたのは私ですから、新座君達は・・・」

 「お前はSMSの人間として捜査を始めるんだ。取りかかりの経緯はどうあれ、そうなったらそれは小隊全体が取り組むべき問題だ。一人の人間にできることには限りがあるっていうのは、お前が一番わかってることだろうが。チームの力こそ俺達の力。そうだろう?」

 「はい・・・」

 小隈に普段自分が言っていることを言われ、仁木は虚を突かれるような思いをしたが、すぐにそれを受け容れた。

 「とりあえず、その先輩にはなんとかなりそうだって伝えておいてくれ。ならなかったらごめんなさいだが、その時は俺も期待を持たせたお詫びはするからさ」

 「いえ、そこまでは・・・」

 「とにかく、そういうことだ。先にオフィスに戻っていてくれ。俺もここを乗り切ったら、すぐに戻るから」
そう言って、再び将棋盤と向かい合う小隈。

 「了解しました。それでは、失礼します!」

 仁木は敬礼をすると、無駄のない身のこなしでスッと休憩室から出ていった。

 「つくづく大変だな、あんた達も」

 それを見送りながら、楢崎が言った。

 「正義の味方なんて仕事は、そのぐらい覚悟しておかないと。それにしても・・・どうしたもんかな、これ・・・」

 将棋盤を見つめる小隈の思考は、出口のない迷宮回廊へ向かってひた走り始めた。



 二日後の午後。埼玉県内のとある街にある建物の駐車場に、SMSのロゴをドアにいれた専用車、ウィンディが滑り込み、停まった。そのドアが開き、運転席と助手席から、二人の女が出てきた。

 「大きな研究所ね・・・」

 「日本を代表する総合商社のグループ企業・・・その研究所となれば・・・このぐらいの規模はあるでしょう」

 その二人とは、亜矢と仁木である。

 「悪いわね、亜矢さん。つきあってもらって・・・」

 「気にすることはありませんよ・・・」

 亜矢はそう言って微笑を浮かべた。

 小隈が警視庁に出した捜査協力要請はすぐに受理され、第1小隊もその捜査に関わることができるようになった。警察としてもこのような事件はいくつも抱えており忙しく、SMSが捜査に加わることでその捜査が結果的に早く進んだとしても損はないと考えたのだろう。こうして捜査ができるようになった仁木は、とりあえず警察が行ってきたこれまでの捜査のおさらいの意味も込めて、失踪した棚橋茂樹の関係者達に事情を聞いて回ることにした。

 「とりあえず、中に入りましょう」

 二人は建物のエントランスへと向かって歩き始めた。その上には「神谷薬品 第3研究所」という金属の看板がかけられていた。



 「さあどうぞ。おかけになってください」

 部屋に二人を迎え入れた男は、愛想良く応接セットの椅子をすすめた。

 「すみません。失礼します」

 「失礼します・・・」

 二人は革張りの椅子に腰を下ろした。机を挟んで、男も椅子に座る。

 「ようこそお越し下さいました。まさか警察だけでなくSMSの方まで、棚橋くんの捜索に加わってくれるとは・・・ありがたいことです。ところで、つかぬことをお伺いしますが、警察だけでなくSMSの方も捜査に動くということは・・・棚橋くんの失踪に、何か尋常ではないところでも?」

 仙波と名乗ったこの研究所の所長も、二人が来たことについて気になっているらしい。

 「いえ、そういうわけでは・・・。ただ、このところは大きな事件や事故もなく、穏やかな日が続いていますので、我々も出来る限り警察の捜査に協力して、少しでもその解決のお役に立てればと考えているのです」

 「警察もSMSも・・・市民の安全を守るという目的では・・・同じですから・・・」

 「なるほど、そうですな。なんにせよ、感謝しますよ。我々としても、早く棚橋くんが見つかってくれることを願っていますので。我々にできることなら、協力させていただきましょう」

 二人の言葉に納得したらしく、仙波はうなずいた。

 「ご協力感謝します。お忙しい中、もう一度事情聴取にご協力させてしまって、申し訳ありませんが・・・」

 「いえ、お気になさらず。それよりも、始めましょう。お互いにとって、その方が得でしょうから」

 「そうですね。それでは・・・」

 仁木は手帳を取り出した。

 「では、まず確認させていただきます。失踪した棚橋茂樹さん、34歳は、6年前に神谷薬品さんに研究員として入社。同時にこの研究所の第5研究室主任研究員として働き始めた・・・これに、間違いはありませんね?」

 仁木が手元の経歴書を見ながら尋ねた。

 「ええもちろん。間違いはありません」

 「これだけの規模の会社で・・・中途入社でいきなり主任研究員とは・・・異例の待遇ですね? それほど・・・優秀だということですか?」

 亜矢が気になっていたことを尋ねる。

 「その通りです。彼はある大学で助手として働いていたところを、私がスカウトしてこの会社に誘いました。彼の優秀さについては、誰よりも私がよく知っているという自信があります」

 仁木の手元の経歴書には、神谷薬品に入社前は都内の私立大学で助手として働いていた、という経歴がたしかに記載されていた。この経歴については昨日の夜に弘恵に確認をとったので、間違いがなくて当たり前だが。

 「しかし、それでもすごいと思います。神谷グループといえば、日本でも有数の総合商社で、そのグループ企業であるこちらも、大きなシェアをお持ちです。その新製品開発を行っているこの研究所で、いきなり主任研究員として働き出すというのは・・・」

 「たしかに、即戦力になる人材だとしても、普通はそんな待遇は与えません。しかし、彼の場合は別です。主任研究員という地位も、彼にはそれだけの値打ちがあると判断して私が与えただけのことですから」

 「なるほど・・・。では彼は、こちらではどんなお仕事を? 働きぶりについては、どうでしたか?」

 確認はそれぐらいにして、仁木は質問に入ることにした。

 「仕事の内容についてですが・・・残念ですが、それについてはあまり詳しくお答えすることはできません。たとえ皆さんや警察の方でも、企業秘密に関わることですから・・・」

 仙波は言いにくそうに言った。

 「ですが、大まかなことぐらいは申し上げられます。彼が主任を務めていた第5研究室というのは、薬品の開発ではなく、主に細菌やウィルス、つまり、病原体に関する研究を行っている部署です」

 「病原体・・・ですか」

 「ええ。とはいっても、エボラやラッサ熱のような危険な病気の病原体は扱ってはいません。風邪のウィルスのような比較的危険度が低く、私達の周りにも多く存在するウィルスや、いわゆる常在菌と呼ばれる、普段から我々の体に住み着いている細菌などをサンプルとして研究しています。もちろん、管理体制は万全ですよ」

 「それで・・・病原体の何を・・・研究なさっているのですか?」

 「詳しいことは申し上げられませんが、細菌やウィルスの伝染力について研究しています。人間の体にとりついては、様々な病気を感染させ、発症させる病原体。その力の秘密を解き明かすことによって、その伝染力そのものを破壊するような医薬品を作る・・・そんな究極とも言える医薬品の開発のための、いわば基礎研究ともいえることをしています」

 「なるほど・・・では、棚橋さんはその開発の仕事に?」

 「ええ。彼は我々の要求によく応えてきてくれました。大学と違って、企業では自分の好きなように、好きなだけ時間をかけて研究する、というわけにはいきませんからね。私もそれは心配しましたが、それは杞憂でした。研究員として、彼はその開発の中でも中心的な役割を果たしていました。だからこそ、彼の抜けた穴は大きいのですが・・・」

 「それでは、今第5研究室の方は・・・」

 「第5研究室のプロジェクトは彼が中心となって進めてきたものですから、今のところは一時休止ということになっています。研究室で働いていたスタッフも、今は別の研究室に回ってもらって、そこの仕事をしていますよ。そういうわけですから、我々としても彼には一日も早く戻ってきてほしいのです」

 「わかりました。では、今回のようなことが起こったことについて、何かお心当たりは?」

 仁木は原因についての質問をした。

 「仕事上でのトラブルや、職場の人間関係が原因であるとは思えません。警察の方たちにも、そうお答えしました。実のところは本人にしかわからないことでしょうけれど、彼はここでの仕事には満足していたはずですよ。仕事上のことで彼が行方をくらまさなければならない理由は、私の知る限りではないはずですけどねえ・・・」

 「失踪の前に・・・何か変わった様子などは・・・?」

 「棚橋さんの奥さんから聞いた話なのですが、時々なにか思い詰めているような表情を見せていたとか・・・。そんなことの原因に、なにか心当たりは?」

 「そうですか・・・。たしかに、彼が失踪する直前ぐらいは研究が大詰めを迎えていて、彼にも少し無理をさせてしまったかもしれませんが・・・私もここの研究員の体調管理には気をつけているつもりです。ましてや、彼は中心的人物です。あまり根を詰めないように、できる限りの配慮はしていたつもりですが・・・」

 「では、プライベートではなにか?」

 「それも、私にはわかりかねますね。ただ、彼の失踪にお金や女性が絡んでいるというようなことはないと思いますよ。彼は家族思いで、堅実な人間でしたから」

 仙波は深刻そうな顔で首を傾げた。仁木はそれを聞いていたが、やがてうなずいて手帳をしまった。

 「よくわかりました。ご協力、感謝いたします」

 「いえ、こちらこそお役に立てたかどうか・・・」

 「その点については、ご心配なく。参考になりました。ところで、申し訳ないのですが・・・他の研究員の方たちにも、お話を伺うことはできないでしょうか? できるだけたくさんの方に、お話を伺いたいので・・・」

 「もちろんよろしいですよ。先ほども申しましたが、第5研究室の研究員達も今は別の研究室で働いていますから、話を聞くことはできます。ただ、みなそれぞれの研究で忙しいので、あまりゆっくりというわけには・・・」

 「かまいません。ほんの二、三でもいいですから」

 「そうですか。それでは、ご案内しましょう」

 仙波はそう言ってドアを開けると、率先して彼女たちを案内し始めた。



 「ええ。たしかに、彼は優秀な研究者でしたよ」

 とある大学の研究室。白衣の男はモニターに表示される数字をメモに書き取ると、それを机に置いて椅子にかけた。この大学は神谷製薬に入る前に棚橋が務めていた大学で、男は一応、その頃の彼の同僚だった。

 「神谷製薬の研究所の所長さんは、病原菌の伝染力に関する彼の研究を評価して彼をスカウトしたとおっしゃっていましたが?」

 「ええ。彼がここでそういう研究をしていたことは間違いありません。ただ、成果があがっていたとは言えませんでしたね。さっきもお話ししましたように、優秀な研究者であったことには違いありませんが、テーマが難しすぎたんでしょう。研究費の工面には苦労していました。最近は大学・・・特にうちのような私立では、お金になる研究をしてくれる研究者が好まれる傾向がますます強くなってきていましてね。彼の場合、発表する論文は素晴らしかったのですが、成果として大学の利益につながるようなものがあまりなく、大学からの研究費も、あまり出してもらえなかったんです。その所長さんが彼をどう評価したのか知りませんが、彼にしてみれば、まったく渡りに船だったでしょうね」

 仁木は亜矢と顔を見合わせたが、やがてもう一つ男に尋ねた。

 「失踪前の棚橋さんについて、なにかご存じのことはありませんか?」

 「さて・・・それはちょっと。なにしろ、大学を辞めてから一度も会っていませんでしたからね。彼が失踪したということも、警察の方が来て初めて知ったものですから・・・」

 「そうですか・・・」

 「お役に立てなくてすみません」

 「いえ、とんでもありません。貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。それでは、私達はこれで失礼します」

 「ありがとうございました・・・」

 「いえ、こちらこそ。それでは」

 男に礼を言うと、二人は研究室をあとにした。

 「一旦分署に戻りましょう、亜矢さん。集めた情報を、みんなと話し合いながら整理してみたいわ」

 「それがいいでしょうね・・・」

 研究室のドアの前で言葉を交わす二人。その時・・・

 「・・・?」

 仁木は視線を感じて、思わず背後を振り返った。

 そこには、階段があった。そして、そこの壁際に立っていた人影が、彼女が振り向くのとほぼ同時に身を翻し、階段を下りていった。

 「どうか・・・しましたか?」

 「いえ・・・別に」

 仁木はあいまいな返事をした。その人影が階段を下りていく様は自然ではあったが、どこかひっかかるものを彼女は感じていた。彼女の頭の中に、ちらりと見えた灰色のジャケットが印象として残った。



 一方その頃。神谷製薬・第3研究所の所長室では・・・

 「・・・」

 執務机に座った仙波は、どこかに電話をかけていた。

 「はい、長門です」

 やがて、電話の相手はそれに出た。

 「もしもし、仙波です」

 「お前か・・・どうした、あの男の行方についてなにかわかったか?」

 電話に出た男は開口一番、そんなことを仙波に尋ねた。

 「残念ですが、そうではありません。もしそうなら、査察部の連中から連絡がいくはずでしょう」

 「そうか・・・。だが、お前がこうして直接かけてくるということは、あの男絡みの知らせであることは違いないだろう? いい知らせか? それとも・・・」

 「残念ながら、そちらです。どちらかというと、悪い知らせですよ」

 「・・・あの男がいなくなってから、そればかりだな。いい加減うんざりだ」

 「そう言わないでくださいよ。聞いてもらいますよ」

 「わかったよ。で、どんなことだ?」

 「SMSが動き始めました」

 「なにっ!?」

 仙波の言葉に、電話の相手は驚きの様子をはっきり見せた。

 「少し前ですが、SMS第1小隊の隊員が二人、こっちへ事情を聞きに来ました。私と、他に第5研究室の研究員達から話を聞いていきましたよ」

 「下手なことはしゃべっていないだろうな?」

 「当たり前ですよ。とりあえず警察の時と同じく、しゃべっても差し支えないことは話しておきました。それは他の研究員も同じですが。その方が、変に疑われなくて済むでしょう?」

 「それはそうだが・・・だが、なぜSMSが? 警察もこの件については、ただの失踪事件と見て調べているはずだ。表向きには、SMSが関わるような特殊性は見られないはずだぞ? まさか、あのことに気づいたのか?」

 「いえ・・・おそらく、それはないでしょう。なぜSMSがこの事件に関わるのか、詳しくはわかりませんでしたが・・・話してみた感じではSMSもまだ、この事件を単なる失踪事件以上のものとは見ていないようです。あのことに感づいているふしはありません。こっちも詳しく訊いてみたかったのですが、それは無理でしたね。そのための特別な理由も、こちらにはないし・・・」

 「そうか・・・。それを聞いて、少しは安心した」

 「だが、いつまでも気を抜いていられるわけではありません。警察はともかく、SMSまでこの件に関わり始めたとなると厄介です。早く棚橋を見つけなければ、明るみに出るのも時間の問題です。そしてそうなれば会社は大損害、私達も身の破滅・・・ということになりかねない」

 「そんなことはわかっている!」

 「どうなんです、そちらの状況は? 3ヶ月も経つというのに、査察部は何をしているんですか」

 「連中だって血眼になって捜しているさ。あの男が行きそうな場所には網を張っているし、居場所の絞り込みだってだいぶ進んでいる」

 「いくら頑張っていても、見つからなければ意味はありませんよ」

 「それもわかっている。俺だってハッパをかけているが、だからといってそううまく進むとは限らないんだ。そっちこそどうなんだ? あれの再生産はまだ進まないのか?」

 「懸命にはやっていますけどね。だが、そう簡単にいくと思わないでほしい。サンプルや資料はほとんど奴が処分してしまい、何も残っていないんですから。一から作り直すには、時間がかかりすぎる。やはり、奴を捕まえるしか方法はなさそうです」

 「まずいことばかりだな・・・。おまけにさらに、SMSまで絡んでくるとは・・・」

 「・・・いや。これももしかしたら、考えようによってはチャンスかもしれませんよ」

 「チャンス?」

 「SMSならば警察よりも早く、奴の居所をつきとめるかもしれない。連中の行動に目を光らせていれば、うまく奴を捕まえることができるかもしれませんよ?」

 「・・・それは博打だな。査察部の連中もプロだが、SMSもプロだ。もしそれに気づかれたら、やぶ蛇になりかねん」
 
「それをやらせるかやらせないかは、そちらにお任せします。ですが、もう一度言いますが、状況は切迫しています。手段を選んでいられなくなってきました。そのことは、くれぐれもお忘れなく」

 「・・・」

 仙波の言葉に、電話の男は沈黙した。

 「とにかく、伝えておきましたよ」

 「ああ、わかった。対応はすぐに考えよう。それではな」

 電話の男はそう言って、電話を切った。

 「・・・」

 仙波はしばらく受話器をもったままだったが、やがてそれを戻した。



 「・・・といったようなことが、聞き込みからわかったことです」

 亜矢とともに聞き込みを終えて戻ってきた仁木は、その聞き込みでわかったことの報告を締めくくった。

 「ようするに、その人の失踪の動機とか、どこに行ったかの心当たりとかは、みんな知らぬ存ぜぬっていうわけですね?」

 「そういうことになるわね。結局、警察の捜査のあとを追うだけになってしまった格好だわ」

 小島の言葉に、仁木がそう言う。

 「まぁ、仕方ないだろう。俺達の捜査は、まだ始まったばかりなんだからな」

 小隈がなぐさめるようにそう言う。

 「で、どうだ仁木。勘だけでもいいが、棚橋さんの失踪について、今日一日動き回ってみてどう思う?」

 「勘で物事を論じるのは好きではないのですが・・・今日話を聞いて回った感じでは・・・」

 仁木はそう前置きをして、自分の考えを話し始めた。

 「・・・事件発生の直前まで、彼の周辺に不穏な空気はなかった。様子がおかしかったことに気づいた人もいたようですが、周囲にとってみれば、失踪は突然起こったものだったと言っていいでしょう。突発的に何かの事件に巻き込まれた可能性も捨てきれませんが・・・今のところは、彼が失踪した原因について、根拠のある推理は私にも・・・」

 「人間が失踪する原因か・・・。尋常ではない理由なのはたしかだな。大まかに分ければ、家庭の事情か、あるいは、仕事・・・。普通の人間は仕事と家の二つの顔を持っているから、そのどちらかで何かが起こったことは、たしかなんだろうがな・・・」

 「・・・」

 仁木は黙って、小隈の言葉に聞き入った。



 それから数日後の夜・・・。都内のとあるマンション・・・。

 「・・・つまり、あまり捜査の進展は芳しくないわけです。申し訳ありません・・・」

 私服姿でダイニングの椅子に座っている仁木は、そう言って頭を下げた。

 「頭を下げることなんてないわよ、葉子。普通の仕事じゃないんだから、そうすぐに成果が出なくても気にすることなんてないわ。一生懸命捜してくれているだけでも、十分ありがたいわよ」

 弘恵はそう言ってなぐさめた。仁木はとりあえず現在までの捜査の経過を伝えるためにここへ来たのだが、残念ながら、彼女の夫である棚橋茂樹の失踪の動機、それにその行き先についての情報は、全く集まっていなかった。

 「はい・・・」

 捜査が思うように進まないことについては誰より仁木が残念に思っていたが、彼らの言葉になぐさめられるような思いがした。だからこそ、期待に応えられないことを歯がゆく思ってしまうも、特に真面目な彼女の性格の難儀なところでもあるのだが。

 「でも、本当にどこへ行ってしまったのかしら、あの人・・・」

 「・・・今のところ、不審な人物や何かのトラブルが旦那さんの身の回りにあった形跡はありません。旦那さんがなんらかの事件に巻き込まれたという可能性は少ないようです」

 「・・・」

 「失礼を承知で、もう一度お伺いしたいのですが・・・本当に失踪の動機について、何も心当たりはありませんか? どんな些細なことでもいいのですが・・・」

 仁木にそう言われ、考え込む弘江。やがて彼女は言った。

 「あの人にも、私の知らない部分はあったと思うけど・・・もしあの人に失踪しなければならないほどの理由があったとしたら、それは私にもわかったはずよ。真面目で、私達のこともよく考えてくれる人だから、悪いことをするとも思えないし・・・」

 自信のある顔でそう言う弘恵。仁木は考え込んだが、さらに尋ねた。

 「・・・では、仕事の方ではどうだったでしょうか? 研究所の人達の話では楽しく働いていたと聞いていますが、本人にしかわからない仕事上の悩みがあったとか、そういうようなことはおっしゃってはいませんでしたか?」

 私生活に問題がないことは、仁木も捜査でわかっていた。金銭関係、女性関係のトラブルの類は、彼には見られなかったのである。だとすれば、原因は仕事での悩みなどに求めるしかないのだが・・・。

 「たしかに、仕事の話はほとんどしなかったわ。あの人の企業秘密に関わることだし、そう簡単に話すわけにはいかなかったんじゃないかしら。もともと仕事の話を家に持ち込むのを嫌ってもいたし・・・」

 「・・・」

 仁木はそのやりとりを聞きながら、考え込んでいた。私生活でトラブルを起こした様子はない。また、会社でも資金の横領などをして逃げ出したなどという様子もない。私生活でも会社でも、それぞれの場での彼をよく知る人の言葉を聞く限り、トラブルを起こした様子は調べれば調べるほどまったくないのだ。

 だが、彼が失踪したという事実は紛れもなく目の前に存在する。突然姿を消し、3ヶ月も姿を現していない。それだけの理由がどこかに存在するはずであるし、存在しなければならない。だが、その理由が見あたらない。その意味するところを、仁木は考えていた。

 (考えられるとしたら、それは二つ・・・。一つは、彼だけしか知らない、まだ私達が見落としている理由があるという可能性。もしそれが、病苦だったりしたら・・・最悪の場合を考えなければならない。だが、もう一つの可能性も、あり得ないとは言い切れない。つまり・・・私が話を聞いてきた人達の誰かが、嘘をついているという可能性・・・)

 仁木はそこまで考えて、目の前の弘恵を見た。

 (先輩ではない・・・。嘘をついて得をすることは何もないし、それに、本当に旦那さんのことを心配している・・・。そうなると・・・)

 仁木の心の中に漠然とあったある疑念が、急に大きくなりはじめた。

 「・・・わかりました。またお話をさせてしまって、すみませんでした。捜査を進めるためには、さらに根気強く努力していかなければならないようですが・・・どうか、私達を信じて、お待ち下さい。旦那さんは必ず、見つけだしてみせますから・・・」

 仁木はそう言って、頭を下げた。

 「悪いわね、葉子。お願い・・・」

 弘江もそう言って、礼を返した。

 「それでは、私はこれで失礼させていただきます。どうも、おじゃまいたしました」

 そう言って、席を立とうとする仁木。

 「せっかくだから泊まっていけば・・・っていうわけには、いかないわよね?」

 「お気遣いはうれしいのですが、夜でもすぐに出動できるようにしておかなければならないので・・・」

 仁木は申し訳なさそうに苦笑しながら、その申し出を断った。そして、彼女が玄関に向かって歩き出そうとした、その時・・・

 「ママァ〜・・・歌穂、もう眠〜い・・・」

 別の部屋から、絵本を小脇に抱えた歌穂が目をこすりながらダイニングに入ってきた。

 「あ、そうね。もう寝た方がいいわ。今お姉ちゃんを見送るから、それが終わったら一緒にお風呂に入ろうね?」

 「は〜い!」

 「よろしい。さあ歌穂、お姉さんにもちゃんとおやすみを言いなさい」

 弘恵にそう言われてうなずくと、歌穂は仁木の前に歩いていった。

 「おやすみなさい」

 ペコリと頭を下げる歌穂。

 「おやすみ。楽しい夢が見られるといいわね」

 微笑みを浮かべ、歌穂の頭を撫でる仁木。歌穂はくすぐったそうに小さく笑った。

 「それじゃあ、おやすみなさい」

 「おやすみ」

 弘恵とも言葉を交わし、玄関で靴を履こうとする仁木。と・・・

 「あ、お姉ちゃん」

 歌穂が声をかけてきた。

 「おうちの前で、誰かずっと立ってるの。なんでずっと立ってるのか不思議だから、聞いてあげてくれない?」

 その時、歌穂が突然そんな奇妙なことを言った。

 「!?」

 その言葉に、思わず振り返る仁木。

 「葉子、誰か迎えに来る予定?」

 「いえ・・・」

 仁木はそう言うと、靴を履くのをやめた。

 「歌穂ちゃん、どんな人がいたの?」

 視線を歌穂のところまで下げて、落ち着いて尋ねる。

 「うんとね、よくわからないけど、誰かずっと立ってるの。おうちの前で」

 「おうちの前というのは・・・」

 「このマンションの前のことを言ってるんじゃないかしら」

 弘恵がそう言った。

 「・・・歌穂ちゃん、その人を、どこから見たの?」

 「歌穂の部屋だよ。窓から見えるの」

 「私を連れていってくれる?」

 「うん、いいよ!」

 そう言うと、歌穂は仁木の手を引っ張って、自分の部屋へと連れていった。



 歌穂の部屋の窓には、すでにカーテンが閉められていた。

 「この窓?」

 「うん。おうちの前のパン屋さんの曲がり角で、誰かがずっと立ってるよ」

 あどけない声でそう言う歌穂。

 「ありがとう、歌穂ちゃん。お母さんのところに行ってて」

 歌穂はうなずくと、そのとおりにした。

 「・・・」

 仁木は真剣な表情で、カーテンの隙間から注意深く、そっと外の様子をうかがった。

 なるほど、たしかにその窓からは、マンションの前を通る広い道路と、その向かいにある商店の様子がよく見えた。2階なので、何がどこにあるかはっきりとわかる。そして、窓のほぼ正面に、パン屋とそこを曲がる道があった。

 「・・・!」

 そこに目を凝らしたとき、思わず仁木は目を見開いた。

 たしかに、そこには人影が立っていた。街灯の数が少なくあまり明るくはない場所であり、なおかつ曲がり角にうまく身を隠しているため確認は難しかったが、幸いその日はよく晴れた月夜で、その人物の存在と輪郭ぐらいは、なんとか判別することができた。この窓からでなければ、曲がり角のかげになってわからなかっただろう。仁木はしばらくそれを観察すると、窓から離れて、不安そうな様子でそれを見ていた弘恵に近づいた。

 「・・・歌穂ちゃんの言うとおりです。誰か、このマンションの前の曲がり角のところに身を隠している人がいます。背格好から判断すると、どうやら男のようですが・・・」

 「本当・・・? まさか、私達のうちを見張っているとか・・・」

 「断定はできません。誰かと待ち合わせをしているだけかもしれません。しかし、もし見張っているのだとすれば・・・立っている位置や、このあたりに立つ建物から考えても、このマンションが一番可能性が高いと思います。待ち合わせの場所にあんな場所を選ぶというのも、妙な話ですし・・・」

 「そうよねぇ・・・」

 弘恵は心配そうに顔を見合わせた。その時

 「あの人、ずっとあそこに立ってるよ。昨日も、おとといも。歌穂、毎日見てたもん」

 歌穂が再び、驚くべきことを言った。

 「本当なの、歌穂!?」

 「本当だよ。歌穂、嘘つかないもん。嘘をつくとえんまさまに舌を抜かれるって、おばあちゃんも教えてくれたもん。だからね、歌穂、嘘つかないの。えらい?」

 相変わらず邪気のない様子でそう言う歌穂。だが、顔を見合わせた2人の顔は、さらに深刻さの度合いを増した。

 「やだ、どうしよう・・・。ほんとにうちを・・・?」

 「落ち着いて下さい、先輩。まずは用心のために、戸締まりをしっかり確認して」

 思わぬことに恐怖に駆られる弘恵だったが、仁木が冷静にそれを諭した。

 「う、うん・・・。葉子、他にどうすればいい? 歌穂といっしょにどこか、別な場所に動いた方がいいかしら・・・?」

 弘恵にそう尋ねられ、仁木はしばらく考えたが、やがて首を振った。

 「いえ・・・大丈夫です。しっかり戸締まりをして、お休みになってください。ただし、夜が明けるまでは誰も家に入れないで下さい。念のため警察にも連絡して、私服の人にここのすぐそばで待機してもらえるように頼みます」

 仁木は携帯を取り出しながらそう言った。



 それから、十数分後・・・。

 「・・・」

 マンションの入り口の自動ドアが開き、仁木が通りに姿を現した。商店街ではなく、駅からも離れているため、まだ8時過ぎでも人通りはほとんどない。すると・・・

 ブォォォォォ・・・

 ヘッドライトを点灯させ、一台のエアカーが走ってきて、彼女の目の前で停まり、自動的に後部座席のドアが開いた。電話で呼んだロボットタクシーである。

 「ドチラマデ?」

 「海上区、東京都SMS第1小隊隊員寮まで」

 「カシコマリマシタ」

 仁木を乗せたタクシーはドアを閉め、すぐに発進した。

 「・・・」

 その直後、仁木はちらりと横目で窓の外を見た。ちょうど、パン屋の曲がり角が見え・・・そこに立っている人影も、ずっとはっきりと見えた。

 「・・・」

 仁木はそれが間違いなく男だということを確信すると、携帯を取り出して登録してある番号を押した。ほどなく、相手が電話に出る。

 「あ、新座君? 仁木です。 ・・・ええそう、その話は終わったんだけど・・・ちょっと、お願いをしてもいいかしら?」



 とうとう、朝が来てしまった。

 「んん〜!・・・ん・・・」

 男は思い切り体を伸ばしながら、東の空にのぼりつつある白い太陽を目を細めながら見つめた。

 「・・・夜が明けちまった。結局、今日も無駄骨だったな・・・」

 男はそう毒づきながら、懐からタバコを取り出し、一本火をつけた。

 「正直しんどくなってきたな、この生活も。ここんところろくに寝てもいないし・・・」

 ぼやきながら、タバコを一服する男。

 「・・・そうは言っても、こうする以外、いい方法も思いつかないんだがな」

 男はそう言うと、その場に吸い殻を捨てて歩き始めた。

 やがて、彼がたどり着いたのは現場近くの月極駐車場だった。

 「♪〜」

 彼は口笛を吹きながらポケットからキーを取り出し、一台の車へと近づいていった。だいぶ古い型の軽自動車で、洗車もろくにしていないのか、全体的に雨の汚れが目立っていた。彼がその運転席のドアに近づき、乗り込もうとしたその時だった。

 「すみません。ちょっとよろしいですか?」

 背後から、女の声で話しかけられた。若い女だとそこから思いながら、彼が振り向くと・・・

 「!?」

 彼は思わず、目を見開いて声にならない悲鳴をあげた。

 そこに立っていたのは、予想通り若い女だった。それも、とびきりの美人である。モデルのようにスラリとしたプロポーション、青く美しいストレートロングの髪、涼しげな切れ長の目、身につけている薄いブルーのスーツも含めて全身から発散される知性。どれをとっても完璧である。普段の彼なら、間違いなくだらしのない顔をしてしまっただろう。だが、その時の彼はそれどころではなかった。

 「あなたに少し、お伺いしたいことがありまして・・・」

 女は切れ長の目に少し鋭い光を浮かべて、彼にそう言った。

 「・・・!!」

 ガチャッ!! バンッ!!

 その途端、彼は切羽詰った表情を浮かべ、弾かれるように体を動かした。彼は素早くドアを開け、運転席に滑り込むと、エンジンをかけてすぐに発進した。そして、駐車場の中で大きくハンドルを切ると、駐車場の出入り口めがけて全力でアクセルを吹かした。が・・・

 「!!」

 その直前で、彼は急ブレーキを踏むことになった。駐車場の出入り口の前に、なんと一台のエアカーが横に停まって通せんぼをしていたのだ。くたびれた軽自動車のエアブレーキが悲鳴を挙げる。おんぼろエアカーはよくがんばり、そのエアカーの横腹に激突する寸前でなんとか停まった。ちくしょう、なんて非常識な奴だ。青息吐息をつきながらそんなことを思って、そのドライバーに文句を言ってやろうと窓から顔を出した、その時だった。

 「ふ〜っ、間一髪。あぶないじゃないの。ぶつかったらどうすんの?」

 目の前のエアカーの運転席に座っているショートカットの女が、そんなことを言ってきた。

 「こっちのセリフだバカヤロ!! 何考えて・・・」

 と言いかけて彼女の姿を見たとき、彼はまたしても驚くことになった。彼女は、グレーを基調とした制服を身につけているのである。そして、目の前のブリティッシュグリーンのエアカーのドアにつけられているマークは、紛れもなくSMSのものであった。

 「駐車場の中であんなスピード出しちゃいけないな」

 彼がものも言えずにいると、また別な声がした。助手席のドアが開き、そこから降りてきた同じ制服の青年が、こっちに歩いてきたのだ。

 「この車をはね飛ばしてでも逃げる度胸があるなら別だけど、そうでなくてもそれはお勧めできないな。そっちだって、無事じゃすまないだろうし・・・」

 「ご苦労様、新座君、岸本さん」

 背後からの余裕のある声に振り返ると、あの女が歩いてきた。車を急発進させたとき全く慌てなかったのは、こんな用意をしてあったからなのだろう。

 「これでよかったんですか、副隊長?」

 「ええ、助かったわ」

 女はそう言うと、運転席の横へやって来て男に言った。

 「失礼。私も最初に、自分から身分を名乗るべきでしたね。私は、こういうものです」

 女はそう言うと、SMSのロゴが表紙につけられた手帳を彼に見せた。

 「東京都SMS第1小隊副隊長、仁木葉子です。昨夜夜半から今朝にかけてのあなたの行動は、すべて記録させてもらいました。なぜあんなことをしていたのか、少し事情をお伺いしたいのですが・・・」

 そう言って、小型のデジタルビデオカメラを見せる仁木。

 「そうそう、おとなしく答えた方が身のためだよ? お上にも情けはあるんだからさ」

 「誤解を招くようなこと言わないで下さいよ、聡美さん・・・」

 彼らのそんな言葉を聞きながら、男はがっくりとうなだれた。



 「どうぞ。朝ご飯、まだですよね?」

 ひかるがそう尋ねながら、湯気の立つあたたかい朝食をテーブルの上に置いた。炊き立てのご飯に、熱いみそ汁、立派なしゃけの塩焼きに、ひかる自家製のぬか漬け。日本の朝食の見本のようなメニューだったが、それもひかるが情熱を込めてつくったものとなると、輝いて見えるから不思議である。

 「え・・・? い、いただいてしまって、いいんですか?」

 思いもかけないことをされ、戸惑う男。

 「ええ、どうぞ。お腹空いているでしょうから、召し上がって下さい」

 だが、ひかるはにっこりと笑ってうなずいた。

 「そ、それじゃあ、いただきます・・・。しかし、助かりますよ。ここのところ、ろくなメシも食ってなかったもんで・・・」

 男は嬉しそうにそう言うと、箸をとって食事に手をつけた。

 「・・・何も朝飯まで出してやることはなかったんじゃないか?」

 お盆を持って戻ってきたひかるに、応接室の隅に立っていた圭介は言った。

 「でも、結局悪い人じゃなかったんでしょう? 疑ってしまったことはお詫びしないと・・・」

 「たしかに悪い奴じゃないかもしれないけど、怪しい奴であることには変わりないんだ。夜の間中、ずっと棚橋さんのマンションを見張ってたんだから」

「しかも・・・その理由をなかなか話したがらないのだからね・・・。ちゃんと話してくれれば・・・ここまで連れてくる必要もなかったのに・・・」

 亜矢も圭介の言葉にうなずく。

 「でも、ご飯を食べさせれば話したくなかったことも話そうって気になるんじゃないの? よくあるじゃない、刑事さんが取調室でカツ丼を出すとか・・・」

 「いつの時代の刑事ドラマだよ。そううまくいけばいいんだけどな・・・。それにしても、出されたものにああもぬけぬけと、はいそうですかと受けるってのも、どんな奴なんだか・・・」

 小島の視線につられて、分署の応接室の隅でひそひそ話をしていた5人が訝しげな視線を男に向ける。当の男は、うまいうまいと言いながらのんきにご飯をかきこんでいた。と、その時

 ガチャッ

 「お前ら、なにやっとるんだ? こんなところで」

 仁木とともに入ってきた小隈が、部屋の隅に固まっていた5人にそう言った。

 「お、おはようございます、隊長」

 「おう。お前達もご苦労だったな、新座、岸本。で? そいつは?」

 小島が食事をしている男を無言で見る。

 「ははぁ、朝メシ中か」

 「いけませんでしたか・・・?」

 「いや、いいよ。徹夜明けの上に腹ペコな奴に、そのまま事情聞くのもかわいそうだし」

 小隈はそう言うと、男の座っている応接セットへと近づいていった。

 「!?」

 飯を口の中に思い切り頬張っていた男は小隈と仁木を見て思わずのどを詰まらせかけ、慌てて胸を叩いた。

 「ああ、いいのいいの。どうぞごゆっくり。俺もメシを急かされるのは嫌いだし」

 小隈はそう言って、男をなだめた。



 「・・・お口にあったかな?」

 やがて、食事を終えた男に小隈は尋ねた。

 「ええ、とってもうまかったですよ。そこいらの定食屋なんかとは比べものにならない。SMSの皆さんは、毎日こんなうまいものを食べているんですか?」

 男は満足そうにそう言うと、ひかるに出されたお茶をすすった。誉め言葉のつもりだろうが、ひかるの料理を定食屋と比べられて思わずムッとする圭介。それを慌てて聡美がなだめた。

 「ええ、まぁ。おかげでいい仕事ができるんですけどね。お口にあったようでうれしいですよ。それはともかく、お腹も一杯になったことでしょうし・・・こっちにも仕事、させてくれません?」

 小隈が上目遣いに見ると、とたんに男は強ばった表情になった。それにかまわず、小隈は免許証と一枚の名刺を取り出した。

 「萩野俊作さん・・・ね。現在30歳、杉並区在住。職業、フリージャーナリスト・・・ですか。あ、これはお返しします。身元の確認はとれましたので。こっちの方は、もらっちゃってかまいませんね?」

 そう言いながら、小隈は免許証を返し、名刺を自分の懐にしまった。

 「・・・それで、です。あのマンションを見張っていたことはお認めになるということですが・・・その理由です。お望みどおり、ここへお連れしましたから、話してもらえませんかね?」

 小隈は諭すようにそう言った。仁木達によって職務質問を受けたこの男、自称フリージャーナリストの萩野俊作。仁木の撮影した映像という動かぬ証拠がある以上、マンションを見張っていたという事実は認めたものの、なぜかその場で事情を話すことは拒んでいた。分署まで連れて行ってくれれば話すというので、詳しい事情を聞くために、分署まで連れてくるしかなかったのである。

 「あなたが見張っていたマンションには、今我々が追っているある事件の渦中にいる人物の重要な関係者が住んでいる。そのマンションに住む彼ら以外の他の住人達に、特に見張られるようないわれをもつ人はいないようです。と、なれば・・・あなたも、その事件となにかの関わりを持っているんじゃないか。そう考えるのも、おかしくはないでしょう?」

 仁木がそう語る。

 「それに、もう一つ気になることがあるんですよ。ここにいる彼女が、その事件のことである大学の人に事情を聞きにいったとき、あなたとよく似た灰色のジャケットを着た男を目撃しているんです。こんなジャケットだろう、仁木?」

 「ええ。チラリとでしたが、たしかにそうです」

 仁木は萩野が着ているよれよれの灰色のジャケットを見ながら、うなずいた。

 「大学とマンション・・・同じ事件に関わる二つの場所に、あなたはいた。しかも、大学では仁木に見られるなり逃げ、マンションの方は何日も見張っていた。脅すようで悪いんですが、普通の人間のすることじゃない。あなたはあの事件について、何を知っているんですか? もし何か知っているのなら、ぜひ教えて下さい。もしかしたら、捜査が大きく進むかもしれないんです」

 小隈がそう言って諭すと、萩野は黙ってうなずいた。

 「ここなら、大丈夫でしょう。皆さんなら、信用してお話ができそうだ・・・」

 小隈達は、きょとんとそれを見ていたが・・・

 「・・・誰か、お茶をもう一杯」

 小隈がそう言うと、すぐにひかるが応接室から出ていった。



 「・・・まぁご覧の通り、フリージャーナリストって言えば聞こえはいいですが、実際は食うや食わずの貧乏記者でしてね・・・」

 新しくいれられたお茶を片手に、萩野は言った。

 「俺ももとはちゃんとした新聞社に勤めていたんですが、どうもマスコミとはそりが合わない性質(たち)だったみたいで、結局一年もしないうちにやめちまったんですよ。で、そこから飛び出して、今みたいな身分になってから早八年・・・。いっこうに芽が出ないんで、親からもっとまともな仕事に就けと口うるさく言われてもしかたはないんですが、昔っからどうもあまのじゃくな性格でしてね。そんなことを言われると、なおさら今に見てろ、でっかいヤマを探り当てて、ピューリツァー賞をとってみせるって気が強くなって・・・そんなこんなで、ここまで来てしまったわけです」

 「・・・」

 「・・・身の上話は、このぐらいにしましょう。まぁこれも、あながち関係ない話じゃないんですけどね。そんな生き方をしてきた人間ですから、どこかにでかいネタは転がっていないか、その尻尾だって見逃すもんかって感じで、毎日ギラギラしてるわけです。皆さんが扱うような事件はともかくとして、だいたいの事件っていうのは、そのうしろに金か女が絡んでるもんなんですよ。できればそのどっちも専門分野にしたいんですが、残念ながら、女の方は好きなんですがとんと縁がないもんでしてね。金の流れの方に目を凝らしながら、事件のにおいを探ってるんです。で、そんなことをしていたある時・・・ちょうど、一年ほど前のあるとき、ある企業に妙なところを感じたんです。それがそもそもの始まりだったんですよ。その会社というのが・・・神谷グループなんです」

 「!」

 その名前が出たことで、ようやく萩野の話が事件につながってきたと、メンバーは感じた。

 「神谷グループのどういうところが、妙だと? 私の知っている限りでは、業績は好調で、株価も安定。多くの子会社を抱えているがいずれにも不祥事などはなく、スキャンダルの類もなし。見た目にはしごくまっとうな会社に見えますが、裏で何か、悪いことでもしていると?」

 小隈がタバコを吸いながらそう言った。

 「まっとうに見えない会社は疑われるものですが、まっとうに見える会社だって、人によっては疑われるものですよ」
萩野はそう言うと、懐から手帳を取り出した。

 「これを見て下さい」

 手帳を開いて、小隈に渡す萩野。その見開き2ページには、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。小隈の手元にあるそれを、顔をくっつけるようにしてのぞきこむ一同。

 「ベーグル、ラズベリーケーキ、ブランデー、レインボー・ルージュ、メタリックカラーのロングスカート、100インチ立体ワイドテレビ、全自動炊飯器、乗用車「ペネロープ」・・・なんなの、これ?」

 聡美がそこに書かれているものの名前の一部を読み上げて首を傾げる。すると・・・

 「ベーグルとラズベリーケーキって、一年ぐらい前に流行りましたよね? 私、お休みの時に買って帰ってきた覚えがあります」

 ひかるが思い出したようにそう言った。

 「そういえば・・・そうだな。それに、この「ペネロープ」ってモデルの車・・・去年秋に売り出されたエアカーの新型モデルの中では、一番売れた車種のはずだ。街でもよく見かける」

 圭介もうなずきながらそう言う。

 「ブランデーっていうのは、たしか一昨年に妙にブームになったことがあったな。それと、メタリック系の色のロングスカートっていうのは、去年の冬に履いてる娘をよく見かけた」

 「レインボー・ルージュというのは・・・去年の終わりから最近ぐらいまで・・・よく売れた口紅だったね・・・」

 小島と仁木も、そこに書かれている言葉からそんな事実を思い出していった。

 「さすがはSMSの皆さんだ。細かいことをよく覚えている」

 それを見ながら、満足そうに笑う萩野。

 「・・・つまり、ここに書かれているのは比較的最近に流行したものばかり・・・ということですか?」

 「その通り。正確に言えば、約1年半ほど前からこれまでのあいだに、この国で流行したもの、爆発的に売れたもののリストです。ここに書かれているのも、ほんの一部ですけどね」

 仁木の言葉に、萩野はうなずいた。

 「たったそれだけのあいだに、こんだけたくさんのものが流行ったり廃れたりしてたのか・・・。いやはや、なんというか・・・諸行無常だねぇ・・・」

 小隈がそれを見ながらため息をつく。

 「・・・で、これがなにか?」

 小隈がそう言うと、萩野は圭介を見た。

 「あなたは、車に詳しいみたいだ。おっしゃるとおり、「ペネロープ」は去年秋に売り出されてから今でも売れ続けている売れ筋車種だが・・・それを出したのはどのメーカーか、ご存じですよね?」

 「ええ。たしか・・・」

 圭介はそこまで言って、ハッとした表情を浮かべた。

 「カミヤ自動車・・・!」

 圭介がそう言うと、周りのメンバーばかりか圭介自身も軽い驚きの表情を浮かべた。

 「そう。「ペネロープ」を発売したカミヤ自動車は、神谷グループに属する自動車会社なんです。そして・・・」

 萩野は手帳に書かれているものの名前を指でなぞりながら話し始めた。

 「ベーグル、それにラズベリーケーキは、神谷グループの経営する喫茶店、洋菓子店のチェーン店をきっかけに流行した。メタリックカラーのロングスカートは、神谷のブランドである「DIANA」が火付け役。同じく、レインボー・ルージュは神谷化粧品、立体ワイドテレビや全自動炊飯器も、神谷電機が発売したのが最初・・・という具合です。ここまで言えば、おわかりになると思いますが・・・」

 「つまり、このところの流行やヒット商品となったものの多くは、神谷グループの会社が売り出したことがきっかけになったものが多いと、こういうわけですか?」

 萩野はうなずいた。

 「そんなところです。要するに、ここのところの神谷グループはあらゆる商売で常に流行の先を読み、その恩恵にあずかっているというわけなんです。おかげで業績は、疲れ知らずの右肩上がり。俺が気になったのは、そういうことなんですよ」

 手帳をポンと閉じる萩野。メンバーは黙ってそれを聞いていた。が、仁木が訝しげに尋ねた。

 「しかし・・・これは、特に怪しむべきところはないのではないですか? 他の会社と談合をしているわけでもありませんし、純粋に消費者のニーズを先読みすることに優れているとしか思えませんが?」

 「たしかにそうです。すでにある商品の供給量を調節しているんではなく、まだ見ぬこれから流行る商品を予測して売っているわけですから、普通に考えたら疑いようがない。消費者ニーズの先読みに長けた人間が会社にいるからだと言われれば、それまでですよ。しかしですね・・・」

 萩野はお茶を一口啜った。

 「これの場合、どう考えたって普通じゃない。食品、酒造、ファッション、化粧品、家電、自動車、ゲーム、その他いろいろ・・・神谷グループはその扱うあらゆる業種で、いずれも流行を先取りし成功を収めているんです。調べてみれば最近の流行品、ヒット商品のじつに80%近くが、神谷生まれだということがわかるんですから」

 「80%・・・!?」

 メンバーは驚きの声をあげる。萩野はうなずいた。

 「たしかに、神谷グループは日本有数の大企業ですから、優秀な人材だって多いでしょう。しかし、どんなに優秀な人間がいても、消費者ニーズを読むなんてことは決して簡単なことじゃない。どんな業種のどんな会社だって、それぞれの分野でヒット商品を出そうとしのぎを削っているのに、実際にそれに成功するのはほんの一握り。そんな過酷な世界だったのは昔からですが、最近の科学技術の爆発的発展によって、企業の新商品競争は激化の一途をたどり、ますますヒット商品を出すことは難しくなってきている・・・。そんな状況にも関わらず、一部門ならまだしも、あらゆる業種において成功をおさめ、しかも失敗することもまったくなく、ほとんど無傷の一人勝ちの様相を呈している神谷グループ・・・おかしいとは思いませんか? いくら大企業だからって、消費者ニーズの先読みに長けた人間が、どの子会社にもそうそういるもんじゃありません。だいたい、神谷グループだってここ5年くらいの間は、広げすぎた経営規模のために起こった業績の悪化を止められずに苦しんでいたんです。それがあるときから、急にヒット商品を生み出し始めた。その間、経営陣の交代や経営計画の見直しといった大規模な経営改革の動きはほとんどなく、会社自体はその前後でほとんど何も変わっていないにもかかわらず、です。前々からこの奇妙な逆転劇の理由がなんなのか、他の企業や経済学者、経済アナリスト達は首を傾げ、中には背後に黒いものの噂をする者もいましたが、誰も確たる根拠をあげることができずに、神谷は相変わらず利益をあげ続けてきたわけです」

 萩野はそこまで語ると、一旦語るのをやめた。

 「それで、その怪しい業績好調の謎を調べようと?」

 「ゾウに喧嘩を売るアリみたいに、無謀に思われるかもしれませんがね。でもアリだって、その気になれば堤防に穴を開けて決壊させることができるんです。神谷グループっていう堤防に穴を開けられるか、自分の力に賭けてみることにしたんですよ」

 「で、成果は?」

 「堤防といっても、お偉いさんや巨大マスコミも崩せなかった、でかくて頑丈な堤防ですからね。ま、そう簡単にはなかなか・・・。それでも地道に攻めていたら、ある時思いも寄らないことが起こったんです。俺の他にも、その堤防を壊そうとしている・・・それも、その堤防の中から壊そうとしている人が、アクセスをとってきたんですよ」

 「もしかして、それが・・・」

 「そう。皆さんや警察が捜し出そうとしている、棚橋茂樹さんですよ」

 萩野と棚橋の接点が明らかになりはじめたので、メンバーは身を乗り出した。

 「・・・半年ほど前のことです。ある日突然、仕事場に電話がかかってきましてね。名は名乗らなかったんですが、あなたの取材に協力したいと・・・。いきなりのことですし、半信半疑だったんですが、とりあえず会ってみることにしたんです。で、そうして会ったときに初めて、彼は名を名乗り、自分が神谷グループの製薬会社の研究所に勤める研究員であることを明かしました。私はせいぜい、神谷グループの内情についていくらか聞き出せればいいと、そのぐらいの気持ちでお会いしたんですがね。ところがこれが、とんでもない。棚橋さんという人、俺の追っている謎のど真ん中にいる人だったんですよ」

 「ど真ん中?」

 「ええ。棚橋さんはいきなり、とんでもないことを言い出しましたよ。「神谷グループは、流行を先取りしているのではない。流行を自ら作り出しているのだ」と。そして、自分はその「流行を作る」仕事をさせられている、とね」

 「・・・どういうことです?」

 「もちろん俺も、最初に聞いたときは何を言ってるんだこの人は、と思いましたよ。ですが、さらに話を聞いていってみると、その謎は俺が思っていたよりもずっと、とんでもないものであることがわかったんです」

 萩野は仁木の顔を見た。

 「彼について調べていたのなら、彼が研究所でどんな仕事をしていたのか、少しはご存じで?」

 「ええ。研究所では、病原体の伝染力についての研究をしていたとか・・・詳しい内容は、企業秘密だとかで教えてはもらえませんでしたが」

 「そうでしょうとも。棚橋さんの仕事・・・それこそが、神谷グループ空前の好況の秘密。紛れもなく、神谷グループ最大の企業秘密なんですから。部外者はおろか、社員にだって公開なんかするはずがありません」

 「いったい、棚橋さんの仕事って・・・」

 全員が注目する中、萩野は静かに言った。

 「・・・ウィルスの製造ですよ。ある特殊なウィルスの。そのウィルスの製造と改良こそ、棚橋さん達、神谷製薬第3研究所第5研究室の仕事だったんです」

 「!?」

 萩野の口から驚くべきことを聞き、隊員達は耳を疑った。

 「ウ、ウィルス!?」

 「あの研究所で・・・ウィルスを作っているというんですか・・・?」

 萩野はうなずいた。

 「信じられないのは、俺も同じでしたよ」

 「・・・まぁ、いいでしょう。とりあえず、続けて下さい。そのウィルスとは、どんなものなんです?」

 小隈に促され、萩野は続けた。

 「ウィルスの正体については、さかのぼれば彼がまだ大学で助手として働いていたころに行き着きます。その頃彼は実験として遺伝子に手を加え、細菌やウィルスの伝染力を殺す研究を行っていた。問題のウィルスの原型となったものは、その時に偶然誕生したものなんですよ。そしてそれからまもなく、彼に神谷製薬の研究所の所長からスカウトがきた。ご存じだと思いますが、研究費は好きなだけ使え、いきなり一つの研究室の主任研究員という、考えられないような待遇ですよ。研究費不足だった彼には、願ってもないチャンスだった。ただ、一つ条件が・・・。研究過程で偶発的に生まれたものにすぎないとして、彼が廃棄しようとしていたそのウィルス・・・それを会社の指示通り、改良するという・・・」

 「なんだか、怪しい条件ですね・・・」

 「彼もそう思ったそうですが、研究費は切迫していた。背に腹は代えられないということで、それ以外は悪い条件でもなく、結局受けることにしたんです。で、そのウィルスの性質というのは・・・人間の脳に作用し、ある特定の欲求を高めるというものだったんです。しかも、培養する際の条件によって、その欲求をどんなものにするかをある程度決定することができるという、奇妙なものだったんですよ」

 「それで・・・会社はそのウィルスを、どう改良しろと?」

 「当初そのウィルスは寿命も感染力も弱いものだった。人間の欲求を高める作用にしても、食欲とか性欲とかいった、原始的で漠然とした欲求にすぎなかったのです。会社は彼に対して、このウィルスの欠点を克服するように指示した。すなわち、寿命と感染力の強化。そしてもう一つ・・・ウィルスが高めることのできる欲求の種類を、もっと高度で複雑なものにすること」

 「もっと高度で、複雑に・・・?」

 「もっと簡単な言葉で言えば、「物欲を高める」ということですよ。あれもほしい、これもほしいという、人間だけがもつ、本能ではない特有の欲求・・・。それを操作できるようにする・・・ということですよ」

 萩野の言葉に、全員が驚いた。

 「それって、つまり・・・どんなものが欲しいかと思う心を操作できる・・・ってことですか?」

 「その通りです。人間の脳に「テレビが欲しい」と思わせるウィルス、「ブランデーが欲しい」と思わせるウィルス・・・神谷グループが彼に期待したのは、そんなウィルスだったんですよ。いや、もっと高度なものです。単なるテレビではなく、「100インチの立体ワイドテレビが欲しい」と、具体的な商品まで絞り込むような、ね・・・。つまり・・・「流行を作るウィルス」ですよ」

 「まさか、そんな・・・」

 メンバーは、簡単には彼の言ったことを信じることができなかった。だが、萩野はかまうことなく続けた。

 「・・・彼は、会社の期待に応える仕事をさせられた。そして、ウィルスは彼らの期待以上の水準をもつまでに至ったんです。口紅でも、テレビでも、自動車でも・・・どんなものでも人間に欲しいと思わせる、いや、それどころか他人と同じものを持っていなければという強迫観念にも似た感覚まで感じさせることができる、そんなウィルスが誕生したんです。これにどんな使い道があるか、おわかりになるでしょう」

 「・・・」

 「肥料ですよ。収穫を確実なものにするために、種を蒔く前に畑に肥料を蒔くのと同じです。テレビを売りたいと思ったら、テレビが欲しいと思わせるようなウィルスを街にまき、それから売り出す。口紅を売りたいと思ったら、口紅が欲しいと思わせるようなウィルスを街にまき、それから売り出す。売れるはずですよ。売るときには既に、それが欲しくてたまらないと思っているような購買層が用意されているんですから。流行を先取りしているなんてものじゃない。流行は事前に作られ、用意されているものなんです。これが空前の活況を呈する神谷グループの、知られてはならない最強の販売戦略、というわけです」

 メンバーは萩野の話を黙って聞いていた。

 「・・・なるほど。わかりました。しかし・・・たしかに面白い話でしたが、このお話、なにか物証はあるんですか?」
だが、小隈は萩野にそう尋ねた。

 「・・・その通りなんです。そこを突かれると痛いんですよ。残念ですが、今まで話したことはみんな棚橋さんから聞いた話で、俺自身が持っている証拠は一つもないんです。もし少しでもそんなものがあれば、今頃俺はもっと有名人ですし、もっとまともな格好でいられたはずなんですけどね」

 よれよれの服を着た自分を見ながら苦笑いする萩野。圭介達はがっかりしたような表情を浮かべた。だが、小隈と仁木は真剣な表情を崩さなかった。

 「しかし、嘘とも思えない・・・?」

 「ええ・・・。こんな嘘でしがない貧乏ジャーナリストをからかって楽しむほどひまな大人は、今の世の中にはいないでしょうからね。それに、ついでにいえば棚橋さん自身、証拠というものは持っていなかった。ウィルスの標本やそれに関する資料は全て研究所に厳重に押さえられ、簡単に持ち出すことなどできなかったと言うんです。こんな俺ですが、人の話が嘘か本当か見抜くことにだけは自信がありましてね。彼は信用に値する人だった。だから私は、彼に協力をお願いしたんです。彼もはじめからそのつもりだったといって、快く承諾してくれました」

 「なぜ彼は、あなたを?」

 「神谷グループにとっては彼自身が最大の秘密のようなものでしたから、当然彼にも監視がつけられていました。警察やマスコミに連絡をとろうとすれば、すぐに露見してしまう。そこで、しがないフリーのジャーナリストである俺に、白羽の矢が立ったというわけです。俺にアクセスをとり、こうして話すことになっただけでも、かなりの注意を払ったと彼は言いましたよ。そして、こうも言いました。こうしてお互いが直接の接触を重ねれば、俺の周囲にも監視がつくことになる。それを防ぐためにも、こうして直接会うのはこれが最初で最後にして、なんとか証拠となるものを持ち出すまでは、手紙によって連絡をとりたいと・・・。俺はそれに同意して、盗聴される恐れもあるので電話も使わず、報告することをこちらの指定する場所に置き手紙として残して、そうして連絡をとろうと提案をしました。彼もそれには同意してくれました。そして、その場所としていくつかの場所を彼に教え、その日は別れたのです。それが棚橋さんと直接会った最後です」

 「棚橋さんも、責任を感じていたんでしょうね・・・」

 「ええ。研究費に困っていたとはいえ、人間の購買欲を操作するというおそろしいウィルスの製作と改良に、手を貸してしまったのですから。しかたなくその作業を進めていくうちに、彼は想像以上に恐ろしいものを作り出してしまったことに恐怖したそうです。だから、その責任は自分で、と・・・」

 「それで、その後棚橋さんとは?」

 「資料の持ち出しはなかなかチャンスがなかったようですが、連絡はなんとか月に1回は必ずよこしてくれました。そして、最後の連絡になったのが、3ヶ月前・・・。なんとか持ち出せるチャンスができそうだが、会社や研究所も彼のやろうとしていることに感づきつつある。できるだけ早めなければならない・・・。そう書いてありました。これが、それですよ」

 萩野はバッグを開けると、その中から一枚の手紙を取り出して小隈に渡した。そこには、萩野が言った内容の短い文章が書きつづられていた。

 「そして、そのすぐあと・・・彼は失踪した。彼がどうなったかについては、あなたも知らないんでしょう? おそらく」

 小隈の言葉に、萩野はうなずいた。

 「ええ。あれ以来何の連絡もなく、まったくの音信不通です。俺もなんとか連絡を試みようと、努力はしているのですが・・・」

 「あのマンションを見張っていたのも、その努力の一つだった、というわけですか」

 「恥ずかしい・・・。しかし、その通りです。通常の手段で連絡がとれなくなった以上、彼と接触するために残された方法は、彼の行きそうな場所を張ることぐらいですから」

 「では、彼はまだ無事であると確信しているのですね?」

 「ええ。それについては、ちゃんとした証拠もあります。彼の行方を捜しながらも、当然神谷グループの動向についても目を光らせていました。それでわかったことなんですが、まず一つは、先ほど言った監視の連中が活発に動いていること。彼の行方を捜しているとみて、間違いないでしょう。それに、もう一つ。彼の失踪以来、神谷グループはヒット商品を出してはいません」

 「そっちの方は、証拠になるんですか?」

 「彼が失踪したことでことが露見するのをおそれて、動きを控えているのかもしれませんがね。それに、もう一つ推理があります。彼とのやりとりでわかったことなんですが、例のウィルスは機密管理のため、相当量を用意するための生産を全て、あの研究所の中で行っていたそうです。ヒット商品が出ていないということは、ウィルスについては彼が持ち出した分を除いて、資料や標本も含めて彼が処分してしまったからではないでしょうか? いずれにせよ、もし神谷グループが彼を捕まえていれば、露見を恐れる必要もありませんし、彼が持ち出した資料やサンプルをもとに、新しくウィルスを作り直すこともできるはずです。もしそうなら、今までどおりに商売を続けているはずなんですよ」

 「なるほど・・・」

 メンバーはその言葉に納得した。

 「つまり、彼はまだ神谷グループの人間に捕まることなく、そのウィルスのサンプルか資料をもって逃げている、ということですか」

 「そうでしょう。しかし、神谷グループだってバカじゃない。警察やあなた達以上に、彼を見つけだそうと必死になっているはずだ」

 「そうですな。この話が本当なら、商品を売りさばくために街にウィルスをばらまいていたことになる。ことが露見すれば、会社内の計画指示者は逮捕され、会社は信用を失い、大損害を被ることは確実なんですから。失踪から3ヶ月・・・きっと私達が思っている以上に、彼は追いつめられているはずです。早く見つけてあげないと、彼の身が危ない・・・」

 「そんな・・・殺されるかもしれないっていうんですか?」

 ひかるがそう言う。

 「それも恐れていた方がいいかもしれないな。そんなウィルスを使ってまで金儲けを考える連中なら、秘密を守るために口封じをすることだってあり得ないとは言い切れない。失踪した人間なら、そのまま見つからなくても不思議はない・・・そう考えてもおかしくないはずだ」

 圭介が腕組みをしながらそう言った。

 「なんとか家宅捜査とかしたりして、そのことをばらせないかなぁ。それさえ明るみに出ちゃえば・・・」

 「そいつは難しいな。こっちにだって、確たる証拠はないんだ。それなしで調べようとしたって、なんやかやと理由をつけて拒否するに決まってる」

 「それに・・・彼らもそれぐらいのことは想定しているだろう・・・。ウィルス生産に使った機材や設備も・・・とっくに廃棄か隠匿がされているはずだ・・・。それなりの証拠隠滅は・・・彼が失踪してすぐ・・・既に行われていると考えるべきだね・・・」

 聡美の言葉に対して、小島と亜矢はそう言った。

 「結局、彼を見つけなければ解決しないことには変わりはない、か。思っていたよりずっと切迫した状況であることはわかったが」

 小隈がタバコの煙を天井に向けて吐く。

 「しかし、それだけのことをつかんでおきながら、なぜ警察や私達に知らせなかったのですか? 私が話しかけようとしたときも、逃げようとして・・・」

 仁木が少し怒ったように言う。

 「もうしわけありません。しかし・・・どうにもならなかったのです。話しても信じてもらえないだろうというのもありましたが、俺自身、連中に狙われていたんです」

 萩野はそう言った。

 「棚橋さんが行方不明になってからしばらくして、俺の周りでも、不穏な影がちらつくようになったんです。誰かに見張られているような気配がしたり、脅迫めいた電話がかかってきたり・・・。このあいだなんか、電話にいつのまにか盗聴器が仕掛けられているのに気づきました。それ以来、家にも戻ってはいません。カプセルホテルを回りながら必死に棚橋さんの行方を探る生活で、精神的にも疲れが溜まって・・・周りの誰もが、敵に見えるようになってしまったんです」

 「・・・」

 「もういいじゃないか、仁木。とにかく、おかげでわかったことはたくさんあるんだから」

 小隈が仁木を諭す。

 「・・・そうですね。すみませんでした」

 仁木はそう言って、深く頭を下げた。

 「さて、どうしたものか・・・。萩野さん、なんとか彼と連絡とる方法、ありませんかね?」

 「もちろん、いろいろ試してはいるんですが・・・」

 「ですよねぇ・・・。ことがことだけに、簡単に捜査体制の強化を願い出るわけにもいかないし・・・」

 「とりあえず、俺達だけでも全力を尽くすしかないんじゃないですか・・・? こうなったら副隊長だけじゃなく、俺達ももっと捜索に加わります」

 圭介の言葉に、他のメンバーもうなずいた。

 「みんな・・・」

 「そうするしかないな。相変わらず苦労をかけるが、頼む。萩野さんも、引き続きご協力お願いできますか? 棚橋さんが連絡をとろうとするのは、奥さんか、あなたしかいないでしょうから」

 「ええ、もちろん。協力させてもらいますよ」

 萩野はその言葉にうなずき、手を差し出した。小隈はその手を、ガッチリと握り返した。



 一方その頃。都内にそびえたつ一軒の超高層ビルの正面玄関の前に、一台のエアカーが横付けされ、一人の男を降ろしてそのまま走り去っていった。彼が玄関へと歩いていくと、そこにいた警備員はハッとした表情を浮かべ、頭を下げた。それにかまわず、彼は中へと入っていった。広いロビーではたくさんの人々が行き交っていたが、彼はそのままそこを通り過ぎ、そのフロアの隅にある、資材搬入用の業務用エレベーターに乗り、地下へと降りていった。

 チーン・・・

 チャイムの音がして、エレベーターのドアが開く。そこに広がっていたのは、素っ気のないコンクリートむき出しの廊下だった。彼はそこを歩いていく。途中警備員と「関係者以外立入禁止」のプレートの前を通り過ぎた彼は、一つのドアの前に立った。

 「査察部 特別監査2課」

 そこには、そんなプレートがかかっていた。彼はその横のインターホンのボタンを押した。

 「はい、監査2課です」

 カメラのついたインターホンから、そんな声がした。

 「長門だ。課長に話がある」

 「少々お待ち下さい」

 その声の少し後、シュッという音とともにドアは開いた。彼はその中へと足を踏み入れた。

 その部屋の中は、飾り気もなにもない廊下とは正反対のものだった。至る所に情報端末が置かれ、壁にはいくつもの大型スクリーンがかけられている。まるで宇宙ロケットの打ち上げ管制室のような、そんなハイテクスペースだった。そんな中を、多くの人間達が右往左往していた。

 「お疲れさまです、常務」

 彼の後ろでドアが閉まると同時に、一人の男が近づいてきてそう言った。年は若そうだが、その表情にはどことなく、油断のならないものが感じられた。

 「さっきも言ったが、課長と話したいことがある。連れてきてくれないか?」

 長門と名乗った男がそう言うと、若い男は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 「申し訳ありません。課長はただいま出かけています」

 「む、そうか・・・」

 「留守中に常務がお出でになったら、私が代わりに話を聞けと課長は言っていました。私でよければ、用件をお伺いしますが」

 彼がそう言うと、長門は考え込むような表情をした。

 「私が何を言いに来たか、だいたいわかっているんだろう?」

 「ええ。ずばり、催促・・・」

 「そのとおりだ。米田め、それをわかっていて、それを君に押しつけて逃げたな・・・」

 長門は苦笑しながら、目の前の男に言った。

 「まぁ、いい。催促もそうだが、ここへ来たのは直接進捗状況を聞くためでもある。それについても、できるかな?」

 「もちろん。どうぞこちらへ」

 男はそう言って、彼を応接セットへ案内した。

 「早速だが・・・聞かせてもらおうか。どうなっている?」

 ソファーにかけるなり、彼はそう尋ねた。

 「順調と言えば、順調です。あの男の捜索は、ご覧の通り監査2課の総力をあげて行っています」

 忙しそうに働く男達を見ながら、男は言った。

 「頑張っている、というだけでは困る。具体的な成果の方は、どうなっている?」

 「あらゆる情報を集め、棚橋茂樹の潜伏場所を見つけては、確実につぶしています。一度や二度は、すんでのところで取り逃がしてしまったこともありますが、我々は確実に彼を追いつめつつあると言ってもいいでしょう」

 男は自信のある様子でそう言った。

 「常務の催促を私に押しつけるというのもあったでしょうが・・・課長が今不在なのも、直接現場を走り回っているからです。捜索はすでに大詰めを迎え、奴の居場所の見当も絞り込めてきました。奴が駆け込みそうな警察署やマスコミにも、引き続き見張りをつけています。ここまで時間をかけてしまったことは我々にとっても予想外で申し訳ありませんでしたが、それほどお時間をとらせず、常務に吉報をお届けできると思いますよ」

 「楽観的な考えでは困るぞ。君たちに今追わせているのは、神谷最大の秘密を握っている男なんだからな。すでに3ヶ月もたっている。これ以上待つことはできん」

 厳しい表情の長門。

 「楽観的になどなってはいませんよ。それに、今し方入った情報も、状況をさらに切迫させるものです」

 男が少し表情を変えて言った。

 「なんだ、その情報とは?」

 「我々や警察、それにSMS以外にも、奴を追っている一人の男がいることは、ご存じですね?」

 「ああ。たしか前から我々を嗅ぎ回っている、ちんけなフリージャーナリスト・・・だったか?」

 長門は思い出すように顔を上に向けた。

 「ええ。ですが直接棚橋と話し、例のウィルスについて詳しい情報を知っている男です。危険なことには変わりない」

 「だがあの男も、君たちは拘束せずに泳がせていたんじゃなかったのか? 貧乏記者一人消すぐらい、造作もないことだろうに・・・」

 「常務もなかなか・・・」

 男はクックッと笑った。

 「たしかにそれは簡単ですが、彼は棚橋が窓口にしようとしていた男です。再び棚橋が接触をとってくる可能性は高い。だからこそ我々は、彼を泳がせておいたのです。ですが・・・たしかに常務のおっしゃるとおり、消しておくべきだったかもしれませんね」

 「どういうことだ?」

 「先ほど入った情報です。その男・・・萩野俊作が、SMS第1小隊と接触したそうです」

 その言葉に、長門の顔色が変わった。

 「な、なんだと!? それじゃあ・・・!!」

 「萩野の知っている情報が、SMSにも知れた・・・そう考えるべきでしょう」

 男は落ち着いて答えた。

 「落ち着いている場合か!? SMSがその男の話を簡単に信じるとも思えんが、そのおかげでSMSが我々に疑念を抱くことは間違いないぞ!? どうしてくれるんだ!!」

 「落ち着いて下さい常務。たしかにこうなったことは、我々の責任です。ですが・・・」

 男は言った。

 「我々が萩野を泳がせておいた理由の一つは、彼は警察やSMSには通報せず、自分だけでこの事件を追うと考えていたからです。彼が我々について嗅ぎ回り始めたのも、我々の秘密を暴き、特ダネとして公表することが狙いでした。だから彼は、このことを決して他人には語らず、自分一人で手柄をあげようと考える・・・そう考えたからです」

 「だが現に、萩野はSMSと接触してしまったじゃないか!!」

 「彼が自分から警察やSMSに接触しようとしたら、その時はすぐに我々も彼を消すつもりでした。ですが、この接触は彼にとっても予想外のものでした。棚橋が自宅に戻ることを見込んでマンションを張っていた萩野は、不審人物としてSMSに連行されてしまったのです。残念ながら、我々がなにかできるヒマはありませんでした」

 「言い訳などどうでもいい! その男はウィルスについて知っていたのだろう!? それがSMSに知れ、すぐに警察にも伝えられることにはかわりない!!」

 激怒する長門。だが、男はそれでも落ち着いていた。

 「落ち着いてください。一つ、大事なことをお忘れではないですか?」

 「なにがだ!?」

 「あのウィルスの標本や資料・・・つまり、我々の秘密についての物証をもっている人間は、棚橋を除けば今は誰もいない、ということです」

 男はそう言った。

 「我々以外の人間で、我々のウィルスについてもっとも近い位置にいた萩野でさえ、知っているのはその情報だけで、具体的な標本や資料はもっていない。警察やSMSについては、これまでこの事件にあのウィルスが絡んでいることすら知らなかった。ですから当然、彼らには我々に対して捜査を行うための根拠となる具体的な証拠をもっていません」

 「それはそうだが・・・」

 「そしてそれは、我々も同じです。棚橋がサンプルをもって逃げ出した際に、他の標本や資料は、全て残らず彼によって処分されてしまった。ウィルスの培養や加工に使っていた装置は、彼が失踪してすぐに我々が証拠隠滅のために破棄し、完全に隠滅したことはご存じの通りです。つまり神谷グループにも、我々があのウィルスを開発し、培養し、散布していたという事実を証明する物証は何もないのです。唯一あるのは、この計画を計画した常務や仙波所長達、実際にウィルスを開発した棚橋や第5研究室の研究員達、そしてその散布を行い、今回の事態収拾にあたっている我々監査2課といった、いわば「共犯者」達。共犯者である以上、自分達の身を危うくするような真似をする人間はいないでしょう。唯一、そのイレギュラーとなったのが棚橋ですが・・・」

 「なるほど・・・。たとえ警察やSMSが我々に対して捜査を行ってきても、我々は知らぬ存ぜぬを通せばいいということか」

 「そういうことです。捜査する方にもされる方にも、今は確たる証拠は何もないのです」

 男はうなずいた。

 「ですが、だからといって状況を放っておくわけにもいきません。この状況はすなわち、棚橋をいち早く確保した方・・・彼の持っているウィルスのサンプルを確保した方が勝ちというものです。我々が警察やSMSより早く棚橋を確保し、サンプルを取り返せば、万事うまくいきます。棚橋については確保後速やかに消して慎重に処分し、失踪したまま行方不明になったということにすればいい。そしてほとぼりが冷めた頃に、サンプルをもとに再びウィルスを開発し、散布を始めればよいのです。今回の件で漏れた情報については、多少の風評被害は起こるでしょうが、そのぐらいは我々が責任をもって対処します。あとはこれまで以上に厳重にウィルスを管理すれば、今回のようなことは二度と起こらないでしょう。神谷グループは、永遠にヒット商品を出し続けることができるでしょう」

 長門はうなずいたが、厳しい顔で言った。

 「無論だ。そのためになんとしてでも、棚橋を捕まえなければならん。もし棚橋とサンプルが警察やSMSの手に渡るようなことになれば、全てが暴露される。君の言う我々「共犯者」がそろってお縄頂戴となるどころか、会社まで回復不能な大打撃を被ることになる」

 「ずいぶんと火遊びをしたものですね・・・」

 男がそう言うと、長門は彼を睨んだ。

 「・・・火遊びをしたつもりはない。あれを作る前の会社を思い出してみろ。この過酷な状況の中を乗りきっていくだけの勢いを取り戻すために、これ以上の方法があったか? それにだ。たとえ火遊びであったとしても、その火が我々自身に襲いかかるようなことが万が一にもないようにするのが、「火消しの2課」の役目じゃないか」

 「おっしゃるとおりです。今回の件も、我々がもっと棚橋を万全に監視していれば防げたはずのこと。それについては反省しています。会社と我々は運命共同体。会社が焼ければ、我々も心中です。「火消し」の名を背負うにふさわしいだけの成果を、お届けしてさしあげますよ」

 男は不敵に笑った。



 それから数日後。東京上空は一面どんよりとした灰色の雲が覆い、そこからの雨が地上に降り注いでいた。

 「止みそうにないわね・・・」

 寮の部屋の窓から外を見て、仁木はため息をついた。今日は彼女の非番の日だった。他のメンバーは普通に勤務しており、出動要請があったらしく、寮の窓からも先ほど指揮車が出ていくのが見えた。できれば仁木も働きたかったが、最近の捜査での彼女の疲れを見てとった小隈は、彼女に休みをとることを強く勧めた。彼女も無下にそれを断ることもできず、それを受け容れたのである。

 とはいえ、天気はあいにくのどしゃ降り。晴れていれば気分転換に少し散歩に出ることもできただろうが、これではそういうわけにもいかない。できるだけ仕事からは離れるようにと言われていたので、仁木は図書館から借りた本を読みながら、今日一日ゆっくり過ごすことにした。

 「・・・」

 彼女が窓から離れ、サイドテーブルの上に置いてあった本をとろうとしたそのときだった。

 Trrrrr・・・

 その脇に置いてあった携帯電話が、音をたてはじめた。彼女はそれをとり、液晶画面に表示されていた発信者の名前を見て少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに通話スイッチを入れた。

 「はい、仁木です」

 「あ、仁木さんですか? 萩野です!」

 表示通り、電話の向こうから聞こえてきたのは萩野の声であった。彼と仁木は棚橋の失踪についてすぐに連絡が取り合えるように、携帯の番号を交換していたのである。

 「どうしましたか? なにかわかったことが・・・」

 「ええ。急ですいませんが、今から出られますか? こちらから迎えに行きますので、話はそれから詳しく・・・」

 「ええ、かまいません。ちょうど今日は非番でしたから。車で来るのなら、寮の玄関の前に止めて下さいませんか?」

 「わかりました。それじゃ、またのちほど」

 そう言って、電話は切れた。仁木は携帯を置くと、すぐに動きやすい服装に着替え、ベストの内ポケットにライフガードを忍ばせると、再び携帯を持って部屋から出ていった。



 寮の玄関の軒先に立ち、萩野を待つ仁木。すると・・・

 ブォォォォォ・・・

 萩野のややくたびれたエアカーが、そこに入ってきて停まった。

 「どうも、せっかくの休みのところを」

 運転席の窓から、萩野がすまなそうな顔を見せた。

 「いえ。それより、わかったことというのは?」

 「ええ、乗って下さい。行かなきゃならないところがあるんです」

 萩野は少し興奮した様子で言った。仁木がその言葉にうなずき乗り込むと、車は発進した。




 「バッグの中に、封筒が入っているはずです。それを見て下さい」

 萩野は運転をしながらそう言った。仁木は言われたとおり、助手席に置かれていた彼のバッグから一通の封筒を取り出した。封筒そのものには何も書かれていなかったが、その中に入っていた紙には、アルファベットと数字の羅列がならんでいた。

 「インターネットのアドレス・・・ですか?」

 その文字の並びから、彼女はそう判断した。

 「ええ、そうです。インターネット利用者が、自分の撮った写真やらなにやらを自由に投稿できる掲示板がありましてね。その画像への直リンクです」

 信号が赤に変わり、車は停車した。

 「で、その画像なんですが・・・これです。出てくる前に印刷してきました」

 そう言って萩野は、一枚の写真を撮りだした。そこに写っていたのは、どこかの会社のロゴマークらしきものだった。正確には、どこかの会社か工場の看板に書かれているそのロゴマークを写したものらしい。雨風による汚れが、白い部分にわずかに見て取れた。画像自体はカメラやデジカメではなく、携帯電話につけられているCCDカメラで撮影されたものらしい。サイズは小さく、解像度もそれほど高くなかった。

 「なにかの看板を写したもののようですね・・・。それで、この画像はなんですか? それに、その紙は・・・」

 萩野はうなずいた。

 「彼とは直接の接触や盗聴を避けるために、特定の場所への置き手紙で連絡をとりあうようにしたと、以前お話ししましたよね?」

 「ええ・・・。それじゃ、もしかして・・・」

 「彼が失踪してからは、その置き手紙も届かなくなりました。だからなんとか接触したくて、棚橋さんのマンションを見張るような真似をしてしまったんですが、そのあいだも定期的に、その場所を巡って手紙がないかどうか確認していたんです。それを今朝もしていたら・・・あったんですよ。ある公園の隅に置かれた空き缶の中に、この手紙が」

 萩野はそう言った。

 「・・・以前棚橋さんからもらった手紙は、今お持ちですか?」

 「ええ、どうぞ。さっきの封筒と、同じバッグに入ってます」

 彼はその質問を予期していたのか、すぐにその場所を教えた。仁木はそれを取り出して広げると小さなルーペを取り出し、そこに書かれている字と、アドレスを書いた字の筆跡を見比べた。

 「・・・なるほど。本人のものと判断して、間違いないようですね」

 しばらくじっくりと見つめたあと、二つの手紙を萩野に返す仁木。

 「そうなると、その画像も棚橋さんが撮影したものとみて間違いないでしょうね・・・」

 「ええ、そこなんです。どう見ます、この画像・・・」

 萩野は仁木を見た。

 「・・・彼が今隠れている場所・・・と考えるべきでしょうね」

 萩野はうなずいた。

 「やはり、そう見ますか」

 「この看板がなんなのか、どこにあるのか、わかっているんですか?」

 「人よりどれだけ早く、正確に情報を得られるか。ジャーナリストの資質の一つですよ」

 萩野はうなずくと、一枚の資料を取り出した。

 「ロゴがはっきり写っているおかげで、見つけるのは簡単でした」

 仁木はその資料を受け取った。

 「大柴塗料・・・」

 それは企業年鑑かなにかの資料のコピーで、大柴塗料という塗料会社のデータが載っていた。

 「中堅の塗料会社です。実はここも、神谷グループとつながりがあるんです。神谷自動車の下請けとして、自動車用の塗料を供給していたんですよ。ところがその取引価格を巡って、神谷自動車とトラブルがありましてね。折り合いがつかずに結局契約は破棄され、それがもとで今年の春、つぶれちまったんです。債務処理をどう行うかの見通しも立たないまま、今でも工場は無人のまま放置されているんです」

 萩野の説明を聞きながら、仁木はその資料に見入った。そこには画像のものとまったく同じロゴが描かれていた。

 「倒産して無人の工場ですか。身を隠すには、たしかに向いている場所ですね・・・」

 仁木は考え込むように、手を顎に当てた。

 「ここまで連絡をとってこなかった棚橋さんが、こんなふうに突然連絡をとってきたということは・・・もしかしたら、彼を追っている神谷グループの連中に、かなり追いつめられているのかもしれませんよ」

 「・・・あまり、時間がないのかもしれませんね・・・」

 仁木はそう言うと、萩野と顔を見合わせた。

 「・・・行って」

 「みますか?」

 二人は互いにそう言葉を交わすと、微笑を浮かべた。やがて、車は少しスピードを上げて雨の道を走りだした。



 「ええ、そうです。それで今、彼が潜伏していると思われる工場の前に・・・」

 それから約1時間後。あるコンビニの店員に事情を話して車を停めさせてもらった二人は、そこから少し離れたところにある工場の前に立っていた。灰色の建物は、どしゃ降りの雨の中でその姿を煙らせながら立っていた。その中で仁木は、携帯で指揮車にいる小隈と話をしていた。

 「そうか・・・。しかし、一人で大丈夫なのか? 萩野さんの言うとおり、神谷商事の連中が棚橋さんを狙っているとしたら・・・」

 「はい。私も、可能ならば多数の人間で彼を保護したほうがよいと思うのですが・・・棚橋さんも、追い詰められているのかもしれません。一刻を争う状況ならば・・・」

 「わかった。だが、無理はするな。彼を保護したら萩野さんと一緒に、手近の警察署かどこか、すぐに安全な場所へ移動するんだ。棚橋さんを狙っている連中も、そこまでは踏み込んではこないだろう」

 「はい。わかっています」

 「もう一度確認する。中野にある旧大柴塗料工場だな」

 「はい」

 「わかった。こちらの状況ももうすぐ終わる。片付き次第、俺たちもそちらへ向かう。頼むぞ」

 「わかりました。隊長も、お気をつけて」

 「それじゃあな」

 電話が切れると、仁木は携帯をポケットにしまった。

 「ここで間違いないようですね」

 仁木が手にした写真と、工場の屋根の上にある看板を見比べてそう言った。看板には「(株)大柴塗料 中野工場」という文字と、その会社のロゴが描かれていた。そのロゴは間違いなく、棚橋が撮影したらしい看板に描かれていたものと同じだった。

 「ここから入るのは無理っぽいですね」

 正門を閉ざす格子状の鉄の門を見ながら、萩野は言った。工場に人気はなく、その門にも「関係者以外立入禁止」という看板がかけられていた。

 「ちょっと周りを調べてみましょう。どこかに入る場所があるはず・・・」

 仁木がそう提案すると、二人はその場を離れた。



 一方その頃。そんな二人の様子を、少し離れた倉庫の陰に停めたエアカーの中から見つめる男の姿があった。

 「・・・」

 彼は双眼鏡でその二人を確認したが、やがてそれを降ろすと、車載無線のマイクを手に取った。

 「こちら米田。全車に通達。目標の居場所を確認した。旧大柴塗料の中野工場へ急行せよ。繰り返す・・・」



 ギィ・・・

 金属のきしむ音をたて、鉄のドアがゆっくりと開いた。傘をたたみ、建物の中へと足を踏み入れる仁木と萩野。正門は閉ざされていたが、そこから少し離れた場所にあった職員用の通用門には、鍵はかけられていなかった。二人はそこから敷地内に入り、やはり鍵のかけられていなかったドアの一つから、建物の中へと入った。

 バタン・・・

 背後でドアの閉まる音が、広い工場内に響き渡った。建物の中はがらんとしていて、スレート屋根を激しく叩く雨音が響いていた。めぼしいものは倒産後すぐに差し押さえられたらしく、工場の中にあるのは、運び出すのに苦労しそうな巨大な機械が数台だけだった。

 「・・・」

 無言で足を進めていく二人。コンクリートに彼らの足音も響き、濡れた足跡がその上に黒く残っていく。

 「広そうな工場ね・・・」

 仁木は工場の中を見回した。

 「棚橋さんは、どこにいるのかしら・・・」

 「呼んでみるのが一番早いんじゃないですか?」

 萩野は手でラッパを作って口に当てると、大声で叫んだ。

 「棚橋さーん!!」

 その大声が、がらんとした工場内に響く。しかし、返ってくるのはその反響だけだった。

 「まだまだ。棚橋さーん! 萩野です! いるなら返事してくださーい!!」

 萩野は歩きながら、そう叫び続けた。仁木もそのあとに続いて歩く。そうして、何度目かに叫んだ、その時だった。

 ガタッ・・・

 「「!」」

 どこかで、何かが動くような音がした。二人はすぐにあちこちに首を巡らし、音の方向を特定しようとした。同時に仁木は、腰からライフガードを取り出した。

 「上ですね」

 「ええ・・・」

 二人はうなずきあうと、近くにあった階段を駆け登りはじめた。



 パキッ・・・

 ドアの外された部屋の建ち並ぶ、殺風景な廊下。その部屋の中の一室に仁木が足を踏み入れると、小さなコンクリート片が乾いた音をたてて砕けた。

 「棚橋さん・・・いるんですか?」

 部屋の中に足を踏み入れながら、仁木は静かな声で言った。すると・・・

 ガサッ・・・

 「!」

 部屋のどこかで、何かが動く音がした。サッと顔を向ける仁木。そこには、一台の巨大な機械があった。

 「・・・」

 確かに、その陰に誰かいる。その気配を確信した仁木は、傍らに立つ萩野の顔を見た。

 「棚橋さん! 私です! 萩野です! そこから出てきてください! もう大丈夫ですよ!」

 萩野は精一杯心を込めるような口調で、機械の陰に向かって言った。すると・・・

 「は・・・萩野・・・さん・・・?」

 機械の陰から、ゆっくりと一人の男が顔を出した。埃にまみれたぼさぼさの髪を生やし、不安に満ちたおどおどした目をもつ男が。

 「棚橋さん、迎えに来ました。もう逃げなくてもいいんですよ」

 彼を安心させるように、萩野は言った。

 「そ、そちらの方は・・・?」

 おどおどした目を仁木に向ける萩野。

 「申し遅れました」

 仁木はポケットからSMS手帳を取り出すと、それを開いて棚橋に見せた。

 「東京都SMS第1小隊の仁木葉子です。棚橋弘江さんの依頼を受け、あなたの行方を探していました。やっと・・・お会いできましたね」

 「ひ、弘江に・・・そうですか・・・」

 その言葉を聞いてようやくホッとしたのか、棚橋はフラフラと立ち上がった。そして、おぼつかない足取りでゆっくりと機械の陰から出てきた。服は体同様薄汚れていて、浮浪者と見間違いそうだった。写真で見たときはやや恰幅のよかった顔も、今までの逃亡生活からくる肉体的・精神的疲労からか、やせこけていた。その姿を見ただけで仁木は、この男が3ヶ月ものあいだどんな脅威にさらされてきたか、窺い知ることができるような気がした。

 「萩野さんのおっしゃる通りです。お話は萩野さんからおうかがいしました。もう逃げる必要はありません。我々SMS第1小隊が、責任をもって保護いたします」

 仁木は微笑を浮かべながらそう言った。

 「ハァ・・・」

 疲れをいっぺんに吐き出すようなため息をつき、棚橋はその場にへたり込んだ。仁木は萩野とうなずくと、優しく彼に手を差し伸べた。



 「こちら米田。予定通り、二人は出てきた。ターゲットも一緒だ。各車、配置についているな?」

 工場の中から出てくる仁木たちの姿を双眼鏡で確認しながら、男は無線機に向かって言った。

 「A班1号車、準備よし」

 「A班2号車、こちらも準備完了です」

 「了解。目標が出発し次第、予定通り行動しろ。私はB班と合流し、受け入れ態勢を整える」

 「1号車、了解」

 「2号車、了解」

 部下からの返事を聞き、男は無線機のスイッチを切った。

 「予定どおりだ。出せ」

 男の指示にうなずき、部下の男はうなずいて車を発進させた。



 「大丈夫ですか?」

 「すみません・・・」

 コンビニの駐車場に戻ってきた3人。仁木は棚橋に手を貸しながら、彼が後部座席に乗り込むのを助け、自分も後部座席へ座った。

 「これで、なんとかなりますね。いつ神谷の連中が襲ってくるか、ひやひやしてたんですが・・・」

 運転席に乗り込みながら、萩野がうれしそうに言う。

 「まだ安心はできません。棚橋さんを、安全な場所まで運ばないと・・・」

 「ええ。それで、これからどうします?」

 「中野警察署に向かってください。手近な場所では、そこが一番安全ですから」

 「わかりました」

 仁木の指示を受けて、萩野は車を発進させた。コンビニの駐車場を出た車は、車道を走り始めた。

 「ありがとうございます・・・。これでようやく・・・安心できます」

 疲れた顔ながらも、棚橋は安堵の笑みを浮かべて言った。

 「いえ・・・。でも、ご無事で本当によかった。弘江さんや歌穂ちゃんも、きっと喜んでくれますよ」

 「ええ・・・妻や娘にも、心配をかけてしまいました。あの・・・先ほど、弘江から私を探すように頼まれたと・・・」

 「ええ。実は、奥さんとは高校時代部活が同じで、いつもお世話になっていたんです。お役に立つことができて、本当にうれしいです」

 「そうですか、弘江と・・・」

 二人が後部座席でそんなことをしていると、車は赤信号の交差点で止まった。



 「こちら1号車。目標がポイントに到達した」

 「こちら本部、了解。失敗はするなよ」

 「わかっている。2号車、用意はいいな?」

 「こちら2号車。いつでも大丈夫だ」




 その交差点に止まっている間に、左の道から一台のダンプカーが現れた。そのダンプは左折をすると、自分たちがこれか
ら進もうとしている道に入っていった。

 「ちぇっ、急いでるってのに、あんなのに前につかれるのか・・・」

 それを見つめながら、萩野は舌打ちをした。その直後、赤信号が青に変わり、萩野のオンボロ車は再び発進した。

 「・・・」

 ダンプの後ろを走り始める萩野の車。道路工事の現場かなにかから出てきたらしく、その荷台には大量の砂利を満載していた。萩野が運転をしながらそれにちらりと目をやると・・・

 ゴゥン・・・

 「・・・?」

 機械のうなりのような音が、聞こえたような気がした。萩野がきょとんとした表情をすると・・・

 ゴゴゴゴゴゴ・・・

 「・・・!?」

 なんと、目の前のダンプが走りながら、その荷台を傾け始めたではないか。

 「なっ・・・!?」

 「危ない!! ハンドルを切って!!」

 後部座席の仁木が叫ぶ。しかし、そのときにはすでに遅かった。

 ザァァァァァァァァァァァァァァッ!!

 萩野が最後に見たのは、傾いた荷台から雪崩のように襲いかかってくる、大量の砂利だった。



 ガシャァァァァァァァァァァン!!

 「!?」

 道路沿いに立っている、一軒の定食屋。店の外から聞こえてきたすさまじい音に、テーブルを拭いていた中年の女店員は、他の客と同じく思わず目を窓の外へ向けた。

 「!!」

 彼女は窓の外へ目を向け、思わず目を見開いた。

 「お・・・おい、事故だぜ!!」

 「ひっくり返っちまってる!!」

 店内の客がざわめく。窓の外に見えたのは、大量の砂利に埋め尽くされた道路。そして・・・ハンドル操作を誤ったか、道路脇の街路樹に正面から突っ込んでいる、一台のくたびれた車の姿だった。

 「大変・・・!!」

 「おい、救急車だ救急車!!」



 「こちら1号車。成功だ。全て予定通り」

 「こちら2号車。こちらでも、119番通報を傍受した。こちらも状況を開始する。ただちに車を乗り捨てて、B班と合流せよ」

 「了解。あとは任せる」

 仲間との通信は切れた。

 「よし、いくぜ」

 「ああ・・・レスキュー開始だ」

 二人の男はそう言葉を交わし、車を発進させた。



 「それでは、あなた達は搬送していないと?」

 「え、ええ・・・」

 小隈の言葉に、消防署の責任者はうなずいた。

 「通報を受けて駆けつけたときには、すでに患者さんは搬送されたあとで・・・」

 「んなこと言ったって、副隊長たちを搬送していった救急車はたしかにここのものだったって、通報した人たちも言ってるんですよ!?」

 責任者にくってかかる小島。それを、聡美が止める。

 「よしなってば、小島さん。本当にそうだとしか言いようがないんだから・・・」

 「岸本の言うとおりだ、小島」

 小隈はそう言うと、再び責任者に尋ねた。

 「そちらが出した救急車は、この消防署から現場までどのぐらいかかりました?」

 「現場はそれほど交通量はないのですが・・・途中いつも混雑している幹線道路を抜けなければなりませんでした。現場到着まで、7分かかっています」

 彼の言葉を聞いてうなずくと、小隈は小島に言った。

 「通報した人の話によると、通報から3分ほどで救急車は現場に来たらしい。妙に早いとは思ったらしいが、3人とも全員気絶していたらしくて、一刻を争う状態だったからな。そんなことを気にしてるヒマはなかっただろう」

 「隊長、それじゃ・・・」

 「ああ・・・」

 その時・・・

 「隊長!」

 部屋の中に、圭介とひかるが飛び込んできた。

 「おう、戻ってきたか? どうだった?」

 「はい、見つかりました。現場から500mほど離れた路上に乗り捨てられていたそうです」

 ひかるがそう報告する。二人は事故当時、荷台から砂利を落としたというダンプの行方を追っていた。

 「それで、車の出所は?」

 「やはり、盗難車です。つい何時間か前に、杉並のビル工事現場から盗難届が出たばかりのやつでしたよ」

 圭介がそう言った。

 「ふむ・・・」

 小隈は考え込んだ。

 「隊長、やっぱり・・・」

 圭介の言葉に、小隈はうなずいた。

 「ダンプを盗んだ犯人は、棚橋さんを保護して警察署に向かう仁木たちの車の前に出て、荷台の砂利を落とした。ダンプが通るのもやっとな狭い道路だ。エアカーはそれでスリップすることはないが、そうなればどんなドライバーでも慌て、ハンドルを切りそこなって事故を起こすだろう。それを目撃した人は、救急車を呼ぶ。それを見計らって、ここにある救急車そっくりに偽装した救急車で駆けつけ、搬送すると見せかけて3人を拉致する・・・」

 「犯人たちは、そこまで副隊長たちの行動を・・・?」

 「萩野さんと俺達が接触した時点で、俺達にも監視をつけたんだろう。こっちも注意はしていたが、向こうが上手だったということか・・・。仁木たちが出発した時点で、周到にその行方を追っていたんだろう」

 そのとき、再び部屋のドアが開いた。

 「ただいま戻りました・・・」

 「ご苦労、桐生。それで、仁木の居所は?」

 「・・・」

 亜矢はそれに答える代わりに、ポケットから何かを取り出した。

 「!!」

 「現場から100mほど離れた道路に・・・落ちていました」

 それは、仁木のもっていたEトレーサーだった。

 「そんな・・・」

 「仁木が発信機をもっていることも承知済み・・・か」

 小隈が低い声でそう言った。

 「くそっ! 発信機も使えないんじゃ、どうやって副隊長の行方を探せばいいんだ!!」

 小島がうつむいて声を荒げる。すると、圭介が言った。

 「方法はありますよ・・・」

 その言葉に、全員が圭介を見る。

 「以前、俺も似たような状況から助け出されました。今度は、こっちが助ける番です。できますよね、亜矢さん?」

 「・・・」

 その言葉に亜矢は無言でうなずくと、懐から何かを取り出した。



 「うっ・・・!」

 意識がはっきりし始めた。そんな感覚を感じながら、仁木はゆっくりと目を開けた。

 目を開けたとき最初に飛び込んできたのは、白く冷たい床材でできた床だった。自分はその上に横に転がっているということに気がつくのに、時間はかからなかった。両手をついて、身を起こそうとする。しかし・・・

 ガチャッ!

 「!?」

 後ろに回された手を動かそうとしたが動かず、金属音がするだけだった。首は後ろまで回らないので正確にはわからないが、どうやら、手錠のようなもので手首を後ろ手に拘束されているらしい。

 「目がさめたようですね」

 男の声がして、仁木はハッとして顔を上げた。そのとき彼女はようやく、その部屋に自分以外にも何人もの男たちが立っていることに気がついた。

 「できればもう少し、眠っていてほしかったのですがね」

 男たちは皆、地味なスーツに身を包んでいた。しかし、その目や物腰がただのサラリーマンのものなどではないことは、仁木には一発でわかることだった。

 「あなたたちは・・・!」

 「おっと」

 40歳すぎほどのその男は、人差し指を口に当てた。

 「そこから先は、言わないほうがいい。私たちが誰なのかはご存知なのだろうが、それを口にすれば、私はあなたを殺さなければならないことになる・・・」

 仁木は男をにらみつけた。

 「萩野さんをどうしたの? それに、棚橋さんは・・・」

 「あの記者ならそこですよ。まだゆっくりと眠っています」

 そう言って男は、壁の方を指差した。

 「萩野さん・・・」

 そこには、仁木と同じく手錠をはめられ、壁にもたれかかったままうなだれて動かない萩野の姿があった。

 「彼に何をしたの!?」

 「あなた同様、何もしてはいませんよ。気を失っているだけです。二人には出番がくるまで、ゆっくり眠っていてもらいたかったのですが・・・」

 「出番・・・?」

 「ええ。彼から大事なことを聞き出すために、あなたがたにも協力してもらいたいと思いまして・・・」

 そう言うと男は、近くに立っていた男に目配せした。彼はうなずくと、部屋の中央へと歩いていった。目覚めてまもなく気づいたことだが、この部屋は殺風景だがかなり広いものだった。それを大きな可動式のパネルで間仕切りしてあり、一つの大部屋としても二つの部屋としても使えるようになっているようだ。彼はそこへ歩むと、パネルを動かし始めた。パネルの向こうの部屋が、姿をあらわす・・・。

 「!!」

 それを見た仁木は、目を見開いた。

 「ハァ・・・ハァ・・・」

 その中央にいたのは、棚橋だった。しかし、今の彼は奇妙な金属製の椅子に座っていた。いや・・・正確には革のバンドで両手両足をその椅子に固定されていた。そして、その手には椅子から伸びたいくつもの電極がつながり、頭には奇妙なヘッドギアまでかぶされている。彼はそんな姿のまま、苦しそうに荒い息をついていた。

 「まだダメです」

 その傍らに設置された操作パネルらしきものを前に、男の部下らしき男が言った。

 「もう20上げてみろ」

 感情のない声で、リーダーらしきその男は言った。

 「しかし・・・」

 その指示に、部下は不安そうな表情を浮かべる。

 「まだ大丈夫だ。やれ」

 「はい・・・」

 部下は小さくうなずき、操作パネルのダイヤルをひねった。

 ブゥゥゥゥゥゥン・・・

 蜂の羽音のような、低いうなりが発生した。しかし・・・

 「ぐあああああああああっ!!」

 棚橋はすさまじい絶叫をあげ、手足を拘束されたままガクガクと全身を激しく震わせた。

 「やめなさいっ!!」

 その様子を前にして、思わず仁木は叫んでいた。

 「止めろ」

 再び感情のない声で指示するリーダー。うなりがおさまると同時に、棚橋の体の痙攣が止まり、がっくりとうなだれて荒い息をつく。

 「さすがに、これ以上は無理のようだな。困った人だ。あなたが無駄に逃げ回って気力も体力も使い切っているから、我々もいつも以上に注意しながら加減を考えなければならない・・・」

 しゃがみこんで下から棚橋の顔を覗き込みながら、リーダーは言った。

 「もういいでしょう。あなたはよく逃げました。その体も心も、これ以上磨り減らせる必要などありませんよ。我々も、好きでこんなことをしているわけではない。あなたが話してくれれば、全て済むことです」

 しかし、棚橋は言った。

 「ハァ・・・そ・・・そのとおりだろうな・・・。私からサンプルの場所を聞き出し・・・ハァ・・・私を消してしまえば・・・ハァ・・・お前たちの仕事はそれで済むんだからな・・・」

 苦しげに息をつきながらも、棚橋は力のこもった目で男たちをにらみつけた。

 「これ以上・・・ハァ・・・あのウィルスで人の心を操らせるものか・・・。お前たちには・・・ハァ・・・絶対教えん・・・」

 その言葉を聞くと、リーダーはため息をついた。

 「本当に、困った人だ・・・」

 彼はそう言うと傍らのテーブルに近づき、その上に置いてあったプラスチックの箱から何かを取り出した。

 「痛みを与えて話してもらえない場合は・・・話す気にさせるのが普通なのですが・・・」

 それは、無色透明の液体の入った細い注射器だった。

 「やめなさい!! そんなものを使ったら・・・」

 それが自白剤だと見抜き、仁木は叫んだ。

 「・・・ええ。我々も、そんなことはしませんよ」

 しかし、リーダーはそれをもとの箱に戻した。

 「これは効果は高いのですが、それだけ負担も大きい。普通の精神状態ならともかく、3ヶ月もの逃亡生活で心身をすり減らしたあなただ。秘密を話してくれる前に、墓場までもっていってしまうことになりかねない・・・」

 すると、リーダーは仁木を見た。

 「そこで、あなたたち二人にも協力してもらいたいのです」

 そう言うと、リーダーは棚橋に目を戻した。

 「古典的な手ですが・・・あなたが話さないのなら、二人の命はありません」

 ジャキッ!

 その言葉と同時に、男たちは仁木と萩野に銃口を向けた。その行動に、思わず棚橋もハッとした表情を浮かべる。

 「特に彼女は、あなたの奥さんの大事な後輩らしい・・・。あなたを探し出そうとして奥さんは彼女に捜索を依頼した。その結果、今彼女はこんなところにいる。あなたが話さなければ、彼女は死ぬ。もしそうなれば・・・あなたの奥さんは彼女に捜索を依頼した自分に・・・そして、その原因を作ったのがあなたの逃亡であったことに、苦しむことになるでしょうね・・・」

 「・・・」

 リーダーの悪魔的な響きをもつ言葉に、棚橋は目を見開いたまま脂汗を流していた。

 「ダメです、棚橋さん! 話してはいけません!!」

 仁木は大きな声で叫んだ。

 「たとえあなたが話したとしても、私たちを生かしてなどおきません! 私も萩野さんもあなたのさせられていたことをすでに知っていますし、ここまで連れてきてしまった私たちを、何もせずに解放するはずがありません!!」

 「そんなことを言っていいのですか?」

 そのとき、リーダーが言った。

 「言っておきますが、あなたたちを利用するのは方法の一つにすぎない。他にもそのための手は、いくらでもあります。自白剤も、彼の回復を待って試してみることだってできる。彼が我々の手の内にある以上、あとは時間の問題なのです。彼がこれ以上口を閉ざすことは、我々にとっても時間の浪費であり、なにより、それだけ彼に負担を強いることになる・・・。もちろん、話すまで死んでもらうわけにはいきませんが・・・あなたはこれ以上、彼を傷つけてほしいというのですか?」

 「くっ・・・!」

 精神的にも体力的にも限界であろう棚橋の姿を見て、仁木は歯を食いしばった。しかし、なおも意気を落とさずに言う。

 「それなら、あまり時間はかけないほうがいいわよ。私の仲間達が、黙っていないわ」

 しかし、リーダーは笑った。

 「あなたの仲間が助けに来る、と? 残念ですが、そんな希望は捨てた方がいい」

 「・・・!」

 「あなたのその言葉の確信は・・・あなたが発信機を持っていたからでしょう。違いますか?」

 その言葉に、仁木はハッとした。

 「失礼だが、あなたの服を調べさせていただきました。妙な気を起こさせるようなものは、全て捨てさせていただきましたよ。当然、発信機もね」

 そう言いながら男は、窓のほうに目を向けた。

 「そしてここは、建設中の高層ビルの最上階・・・。今日は内装工事も休みで、人は誰もいません。あなたたちをここへ運び込むときも、臨時の資材搬入に見せかけました。どれだけ叫ぼうと、あなたがここにいることを伝える術などありませんよ」

 壁全体が窓になっているその部屋からは、東京のビル街を一望することができた。仁木はそれを見てから、男をにらみつけた。

 「たとえそうだとしても、私達がいなくなれば、警察やSMSのあなたたちへの疑念はさらに強まるわ」

 「それも脅しにはなりませんよ。今のあなたたちに物証がないことは、あなたが一番わかっているはずだ。そしてそれは、彼に喋ってもらった後に回収すればいい。あなたがプロであるように、我々もプロでしてね。くすぶりかけた火は、我々が完全に消します。そうすれば、全ては元通りだ。3人の人間がこの世から消えたこと以外は・・・ね」

 リーダーは自信に満ちた表情で言った。

 「・・・」

 仁木は歯をかみ締め、悔しそうな表情を浮かべた。

 「さて・・・そうそう時間もかけてはいられません。お答えを聞かせてもらいましょうか、棚橋さん」

 棚橋に向き直り問うリーダー。

 「・・・」

 棚橋は追い詰められた表情のまま、視線を床に落としていた。

 (このままじゃ・・・)

 その様子を見つめながらも、自分ではどうにもできない焦燥にかられる仁木。その時だった。

 「!?」

 突然仁木は、拘束された手首に妙な感触を感じ、思わず声を出しそうになった。それをなんとか我慢しながら、リーダーの様子を見る。リーダーを始め男たちは、みな棚橋に目を向けている。仁木はそっと、首を回して自分の背後を見た。

 「・・・まだお話になる気にはならない、と? 思い切りがつかないというのなら・・・我々がそれを、手伝ってあげましょう」

 そのときリーダーはそう言って、仁木たちのほうに振り返った。そのときにはすでに、仁木は顔を戻していた。

 「やはり・・・実際に見せてあげなければ、気持ちは変わらないようですな」

 ジャキッ!

 男たちが再び、仁木と萩野に銃を向ける。

 「さて・・・どちらがよろしいでしょうか? あなたが自由に選んでくださってかまいませんが?」

 棚橋に振り返ってそう言うリーダー。

 「・・・!!」

 棚橋はブルブルと震えたまま、何も言えずにいた。

 「ダメです、棚橋さん!! 話してはいけません!!」

 しかし、仁木は毅然とした態度で言い放った。

 「さすがはSMSの方だ。こんな状況でも、毅然としている・・・。しかし、これ以上彼の決心を鈍らせるようなことを言ってほしくはない。やはり、あなたから先にいってもらいましょうか・・・」

 「に、仁木さん・・・」

 かすれた声で、棚橋が言う。しかし、仁木は無言で首を振った。

 「・・・撃ちたいのなら私を撃ちなさい。これ以上・・・棚橋さんや萩野さんを危険にさらすわけにはいかないわ」

 「まさに公僕の鑑ですね、あなたは。ならば・・・同じプロとしての情けです。お望みのようにしましょう」

 全員の銃が、仁木に向けられる。

 「・・・」

 仁木は黙って、ゆっくりと目を閉じた。

 「それでは・・・さよならです」

 「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 男たちが引き金に指をかけ、棚橋が叫びをあげた、その時だった。

 ヒィィィィィィィィィィィィィン・・・!!

 突然、どこからかジェット機の爆音のような音が聞こえてきた。

 「な、なにっ!?」

 「なんだ!?」

 突然聞こえてきた音に、男たちが周囲を見回す。すると・・・

 ヒィィィィィィィィィィィン!!

 ますます音は強くなる。そして・・・

 「な・・・あれは!?」

 リーダーの声に、全員が窓の外を見る。なんと窓の外、下からゆっくりと、銀色の巨大な箱が浮上してくるではないか。そして・・・その箱の上には、鮮やかな赤と青にそれぞれカラーリングされたジャケットが、悠然と立っていた。

 「・・・」

 男たちが呆然と見ていると・・・青いジャケットの方が、ランチャーのようなものを取り出してこちら側へと向けた。

 「い・・・いかん!!」

 リーダーが叫んだ、その時だった。

 ボッ!

 白煙を吐いて、何かがそのランチャーから打ち出される。

 ガチャァァァァァァァン!

 それは窓ガラスを突き破り、室内に入って床に転がった。とっさに目をつぶり、顔を伏せる仁木。次の瞬間

 カッッッッッッッッッッッッ!!

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 それは、すさまじい閃光を放った。目を閉じていた仁木でさえそのまぶしさを感じたほどであるから、直視すれば確実に目がくらんだだろう。



 「よっしゃあ! 奇襲大成功! ついでにワーグナーでもかけたいところだな」

 光の収まった室内の様子をガラス越しに見ながら、小島はガッツポーズをとった。

 「でも、あれじゃ副隊長も・・・」

 「大丈夫だ。炸裂する寸前、目も閉じて顔も伏せてた。さすがに、こっちのやることはよくわかってる」

 心配そうに言う圭介に、小島はそう言った。

 「よし、それじゃあ・・・」

 圭介は左腕をビルの窓ガラスの上の壁に向けた。

 「ひかる!」

 「大丈夫です。もう設定してありますよ」

 「こちらも・・・準備OKだよ」

 「ありがとう。いきますよ、小島さん」

 「っていうか、本当に飛ぶのかよ・・・。正直、こうして立ってるだけでも冷や汗もんなんだけどな」

 指揮車の屋根の上に立ったまま、小島はできるだけ下を見ないようにしていた。地上100mをはるかに上回るビルの最上階。その窓の前に、指揮車は静止していた。

 「なぁ岸本、もうちょっと寄せられないのかよ?」

 「指揮車のサイズだとこれ以上は加減が難しいんだよ。もうそんなに距離はないんだから、これぐらい飛んじゃってよ。男なんでしょ?」

 「お前はまた、都合のいいところで男女の話を持ち出す・・・」

 「小島さん、腹くくってくださいよ。ぐずぐずしてるとあいつら、視力を取り戻しますよ」

 圭介がやや焦った声で小島に言う。

 「わかったよ。男小島佳樹、副隊長のためならたとえ火の中水の中・・・」

 小島はそう言って、圭介と同じように左腕を壁に向けた。

 「「アンカーショット!!」」

 ボシュッ!!

 二人のVJの左袖口から、分銅つきのワイヤーが高速度で発射される。

 ガキガキッ!!

 それはたちまち、ビルの壁面にしっかりと食い込んだ。

 「よし・・・」

 ワイヤーの具合を確かめるように何度か引っ張ると、圭介は小島に言った。

 「いきますよ、小島さん」

 「おう。ファイト何発ってやつだな」

 「なんですかそりゃ。とにかく・・・」

 「ああ」

 圭介と小島はうなずきあった。

 「1・・・」

 「2の・・・」

 腰をかがめる二人。そして・・・

 「「さんっ!!」」

 ダッ!!

 二人は同時に、指揮車の屋根を蹴った。指揮車から離れた二人の体が、指揮車とビルの間の空中に踊る。

 「うおおおおおっ!!」

 「あ〜ああ〜〜〜〜〜〜!!」

 ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!!

 ワイヤーによって壁とつながれた二人は、まるで空中ブランコのように弧を描いた。そして・・・

 ガチャァァァァァァァァァァン!!

 二人は足を突き出し、派手にガラスを蹴破りながら室内に飛び込んできた。

 「ワイヤーカット!!」

 ブツッ! ガチャッ!

 室内に入るや否や、圭介はワイヤーをカットした。きれいに床の上に着地する圭介。

 「わっ、ワイヤーカット!!」

 ブツッ! ガチャンッ!!

 それにやや遅れて、小島もワイヤーを切る。しかし彼は着地を誤り、床の上に倒れてしまった。

 「いてて・・・。よくああもきれいにできるな、お前」

 「ええ、まぁ・・・。前にもやりましたし」

 すぐに立ち上がる小島に、圭介は言った。

 「それよりも」

 「ああ」

 二人は言葉を交わすと床を蹴り、一瞬で床の上に転がされている仁木のところにたどり着いた。

 「副隊長、助けに来ました!!」

 「怪我はないですか!?」

 「ええ、ありがとう・・・。それにしてもやっぱりむちゃくちゃね、あなたたち・・・」

 苦笑を浮かべながら答える仁木。

 「突入は相手の虚を突いたところを一気に行い、短時間で最大の効果をあげる・・・いつも副隊長の言っていることじゃないですか」

 「優秀な教え子を持って幸せね。それよりも・・・」

 「ええ。小島さん」

 「はいはい。フンッ!」

 バキッ!!

 小島は仁木の手首を拘束している手錠を、強引に引きちぎった。腕が自由になった仁木はすばやく立ち上がった。

 「私のことはいいわ。早く棚橋さんと萩野さんを」

 「「了解!!」」

 仁木の指示を受けた二人は、すばやく行動に移った。

 「く、くそっ!!」
 目を抑えながらヨロヨロとよろける男たち。その一人が、壁に寄りかかったまま気を失っている萩野に偶然銃口を向け、引き金を引いた。

 ダンッ!

 ガキンッ!

 「おっと! あぶねえじゃねえかよ!!」

 しかし、それは間一髪間に入った小島のVJに当たって跳ね返された。

 バシュッ!

 お返しとばかりに、小島はマルチリボルバーを抜き、ショックビームをその男に浴びせた。

 「ギャッ!」

 悲鳴をあげて気絶し、その場にくずおれる男たち。

 ダンダンダンダンダン!!

 一方、棚橋のもとへ向かう圭介に、銃弾が次々と襲いかかる。

 「効くもんか!!」

 しかし、圭介はそれをものともせず、走りながらマルチリボルバーを抜いた。

 バシュバシュバシュバシュ!!

 「ぐわっ!!」

 「うおっ!!」

 一瞬のうちに、男たちがその射撃の前に倒される。

 「大丈夫ですか!? 今解きます!!」

 圭介は棚橋のもとへたどり着くと、その拘束具を引きちぎった。よろけて倒れそうになる彼の体を、圭介が受け止める。と、その時だった。

 「こうなれば・・・!!」

 ジャキッ!!

 まだ倒されていなかったあのリーダー格の男が、もはやサンプル回収をあきらめて口封じを優先することにしたか、銃を棚橋に向ける。圭介がかばおうとするが、間に合わない。

 ダンッ!!

 キンッ!!

 「!?」

 そのとき、一発の銃声とともに男の持っていた銃が空中に弾き飛ばされた。男が驚いてそちらを見ると・・・

 「・・・」

 細く銃口から白煙をあげる拳銃をもった仁木が、こちらに銃を向けていた。

 「・・・こちらは東京都SMS第1小隊。誘拐監禁、および殺人未遂の現行犯で逮捕します!!」

 力強く言い放つ仁木。その言葉に、男はがっくりとうなだれ、動かなくなった。

 「小島君」

 「了解」

 小島はそう言うと男に近づき、手錠をかけた。

 「ありがとうございます、副隊長」

 棚橋を抱えた圭介が、仁木に礼を言った。

 「お礼なら小島君に言って。彼が私に銃を投げ渡してくれなかったら、危ないところだったわ。ありがとう、小島君」

 「なぁに。ちょっとばかし機転が利いただけですってば」

 そう言って、得意げな声で笑う小島。仁木は圭介とともに微笑を浮かべた。

 「さぁ、早く下へ降りましょう。隊長たちも心配していますよ」

 「心配をかけてしまったようね。ごめんなさい。私がもっとしっかりしてれば・・・」

 「いいっこなしですよ、副隊長。副隊長は十分しっかりしてますって。それ以上しっかりされたりなんかしたら、俺たちは・・・」

 「あら、私がもっとしっかりしたら、何か困ることがあるのかしら?」

 「いや、まぁ、その・・・人間何事も、ほどほどがいいってことですよ」

 うろたえたような小島の様子を見て、圭介が笑う。仁木もそれを見てクスクスと笑ったが、そのとき、突然肩に何かが飛び乗ってきた。

 「コン♪」

 「ありがとう、あなたも・・・。亜矢さんにもお礼を言わないとね」

 そう言って仁木は、肩に止まった管狐の背中を優しくなでてあげた。



 「ママ〜! お姉ちゃ〜ん!」

 週末の遊園地。柵をはさんだ向こう側の線路を、ミニSLが子供たちを乗せてのんびりと走っていく。その中に混じった歌穂は、柵の向こう側で見守っている自分の母親とその後輩に元気よく手を振った。それに笑顔を浮かべて手を振り返す弘江、そして、仁木。

 「なんとか機嫌を取り戻してくれてよかったわ」

 ミニSLが走り去り、娘の姿が見えなくなると、弘江はため息混じりに言った。

 「連れてくるのに難儀したわ。せっかくパパが戻ってきたんだからパパも一緒に行くって聞かなくって。せっかくのお休みとのところ、つきあわせて悪かったわね、葉子。おかげで助かったわ」

 「いいんです。こういうのもたまにはいいですし、これも自分の仕事に最後まで責任をもつことでもあります」

 「やっぱり真面目ね、あなたは」

 弘江は苦笑した。

 「しかし・・・歌穂ちゃんには気の毒ですね。お父さんはせっかく戻ってきたというのに、一緒に行けないというのは・・・」

 「・・・仕方ないわ。本人が望んだことではないとはいえ、悪いことに手を貸していたんだから・・・」

 弘江はうつむいてそう言った。

 「旦那さんには・・・」

 「時間ができたら会いに行くようにしているわ。そのたびに謝られてるから、もう怒る気もしなくなっちゃった」

 弘江は仁木に顔を向けた。

 「・・・うちの旦那、これからどうなっちゃうのかしら?」

 「私の立場から言えることは少ないのですが・・・あまり、悲観的にならないでよいと思います」

 仁木は正直に答えた。

 「捜査はまだまだこれからというところですが、神谷グループがあのウィルスについて行っていた数々の活動については、すでに多くのことがわかりはじめ、旦那さんの上司だった研究所長や開発の指示を出した上層部の人間にも、すでに逮捕者が出始めています。それによって、彼らの棚橋さんに対しての要求が、ほとんど強要に近かったこともわかっています。それに・・・」

 「それに?」

 仁木は少し迷う様子を見せたが、やがて、決心したように言った。

 「・・・これは最新の捜査情報なのですが・・・開発の途中で棚橋さんは一度、これ以上の研究を拒否して研究所をやめようとしたそうです。しかし・・・上層部は棚橋さんに対して、家族に危害を加えると脅迫まで行ったそうです」

 「!!」

 その言葉を聞いて弘江は驚いた表情を浮かべたが、やがて落ち着いて言った。

 「そう・・・」

 「旦那さんは確かに、ウィルスの開発に手を染めました。しかし・・・その裏にあった複雑な背景を、法の裁きに携わる人たちが正しく理解してくれるのならば、きっと、旦那さんにとっても先輩や歌穂ちゃんにとっても、よい判断を下してくれると思います。私は、そう信じますよ」

 「ありがとう、葉子・・・。今度のことでは、何から何まで最後まで面倒をみてもらっちゃったわね。本当に、ありがとう。今度、またなにか奢らせてもらうわ」

 「い、いえ・・・それはもう、けっこうです。歌穂ちゃんのあの笑顔を見ることができただけで、私は十分です」

 慌ててそう言う仁木に、弘江は小さく笑った。仁木はミニSLの方へ顔を向けた。

 「・・・そろそろ駅に着く頃ですよ。迎えに行かないと」

 「そうね。悪いけど葉子、ここで待っててくれないかしら?」

 「ええ」

 そう言うと弘江は、ミニSLの乗り降り場である小さな駅へと歩いていった。そのうしろ姿を見送る仁木。と・・・

 「ここにいましたか・・・」

 後ろからの声に振り返ると、そこには・・・

 「萩野さん・・・」

 仁木はいつのまにか後ろに立っていた萩野を見て驚いた。

 「なぜここへ・・・?」

 「あの時以来、改めてお礼を言うヒマもなかったもので。隊長さんにお電話したら、今日はここへ来ていると聞きましてね・・・」

 そう言いながら萩野は仁木の横に並び、柵に両腕を乗せてもたれかかった。

 「長い間地道に取材に取り組んできた成果が、実を結んだようですね。ご活躍は拝見していますよ」

 仁木はそう言いながら、萩野に目を向けた。少し前まで見慣れていたよれよれのスーツではなく、ちゃんと新調されたスーツを身につけており、髪もしっかりと整えている。このところ毎日のようにTVの中で見る彼の姿と、まったく同じだった。

 「それもこれも、あなたがいてくれたからこそですよ。そうでなければここまでたどり着くことはできなかったし、生きていることもなかったでしょう。肝心なときにこっちは気絶しちゃってて、申し訳なく思ってます。本当に、いくらお礼を言っても言い足りない気持ちですよ。ありがとうございました」

 そう言って萩野は、深く頭を下げた。

 「いえ・・・私はSMS隊員として、それに人間として、当然のことをしただけです。一部の人間の欲望のために、誰かの命が危険にさらされる・・・そんなことがあっては、いけませんから」

 仁木は謙遜するというよりは、心からの気持ちでそう答えた。

 「俺も、そう思います。だからこそ今は、自分にできるやり方でそれをやろうとしています」

 萩野はそう言った。

 「・・・あのウィルス・・・「ネコシャクシウィルス」と言いましたか・・・あれが明るみに出たために、神谷グループは大きく揺
れていますね」

 棚橋が仁木や萩野とともに無事救出されるとともに、事件は大きな展開を迎えた。救出後治療を受け、なんとか話すことのできる状態にまで回復した棚橋は、すぐにSMSにウィルスのサンプルの保管場所を伝えた。それを受けたSMSは、彼の伝えたとある山中からウィルスのサンプルを回収。それに加え、棚橋の証言と逮捕された男たち・・・彼らは神谷グループの中でも、社内で起こった不祥事のもみ消し専門に動く特殊なセクションの人間だった・・・の事情聴取によって、神谷グループの空前の活況の秘密の一端が、白日のもとにさらされた。事件は瞬く間に一大スキャンダルとして日本中を震撼させ、神谷グループの内部捜査と計画を指示した上層部への事情聴取は、独占禁止法の解釈を拡大するかたちで異例とも言えるスピードで進み、すでに逮捕者もかなり出ている。この事件についてTVから伝えられる情報は日に日にその量を増すばかりだが、その先陣を切って最後の最後まで真相を明らかにしようと奮迅しているのが、萩野なのであった。

 「神谷グループは日本有数の総合商社です。今回の事件が明るみに出たところで、その全てが倒産するようなことにはならないでしょう。しかし・・・今回のことが明るみに出たことで、大きな業績後退を余儀なくされると思います。何も知らなかった社員の人たちには気の毒ですが・・・とにかく、これでようやく市場はもとの姿を取り戻すでしょう。星の数ほどもある企業が、時代の流れを読み解こうと必死になる、本来の姿を・・・。それが健全なものなのかどうかは、正直わかりませんがね。少なくとも、資本主義における健全な姿ではあるんでしょうけど」

 萩野はそう言った。そのとき、二人の後ろを一組の若いカップルが楽しそうに話しながら通り過ぎていった。女の子の方は、スカートの腰に大きなリボンをつけていた。

 「・・・今度は、ああいうリボンが流行っているんでしょうか。最近、よく町で見かけますけど・・・」

 仁木がそれを見送りながらつぶやく。

 「みたいですね。ついこのあいだまではロングソックスが流行っていたと思ったら、あっというまにブームが収まっちゃうし・・・」
 萩野はそれにうなずきながら言った。

 「今度の事件を追っかけながら思ってたことですが、流行ってのはなんなんでしょうかね。とにかく「これが流行だ」となると、誰も理由も考えずに、我も我もと飛びついて・・・」

 「他の人間と一緒でなければ、安心できなくなる・・・」

 うなずきながら仁木が、そのあとを継いだ。

 「ウィルスなんてものがなくても、人間はいつも流行という名の病気にかかってるのかもしれませんね。まさしく、「流行り病」ですよ。そして誰もその根本的な治療法など考えず、その時々の「症状」に合わせた商品という名の薬を売ることばかりを考えている・・・。そんなことを考えて、世の中が空しくなったこと、ありませんか?」

 こちらを向いて何気なくそう尋ねる萩野。しかし、仁木はうなずきながらも笑顔で言った。

 「考えたことはありますが・・・世の中を空しく感じたことはありません。流行とともに流行り、そして廃れていくものはたくさんありますが・・・ずっと昔から、なくなることなく存在しつづけるものもたくさんあります。本当にいいものは、決して滅びません。そういうものがある限り・・・この世の中は、そう捨てたものじゃないと思います」

 萩野は黙ってそれを聞いていたが、やがて納得したようにうなずいた。

 「・・・なるほど、それは言えてますね。たしかに、いいものは残り続けますよ。正直なところ、これから俺がどうなっていくかも、そういう問題ですがね。今でこそTVなんかに出させてもらってますが、半年後もそうかどうかさえ、今の世の中じゃわからない・・・。俺が本当にジャーナリストとしていいものかどうか・・・それを証明するには、これから先も実績を残しつづけていくしかないんでしょう」

 「お互い、仕事は違いますが・・・どんな仕事でもいい仕事を続けていれば、必ず評価はされます。あなたがこれからも、いい仕事を続けられることを祈りますよ」

 「ありがとうございます。仁木さんみたいな美人にそう言ってもらえると、男としては頑張らなくちゃって気になりますよ」

 そう言って、萩野は笑った。そのとき・・・

 pipipi!

 萩野の腕時計から、電子音がした。

 「・・・すいません。慌しくて申し訳ないですが、次の仕事が入っちゃってますので、このへんで・・・」

 「本当に、お忙しいのですね」

 「まぁ、今後の自分を考えれば、ここが踏ん張り時ですからね。いろんな人に迷惑かけちゃった分も、しっかり働かないと・・・。あ、そうだ・・・」

 萩野は思い出したように、持っていた包みを仁木に渡した。

 「悪いですけれど、これを棚橋さんの娘さんに渡しておいてくれませんか? お父さんを危ない目に遭わせてしまったお詫びをしっかりしようと思ってたんですが、時間がなかったので・・・」

 仁木はそれを受け取り、包装紙の隙間から中を覗いた。中には、可愛いクマのぬいぐるみが入っていた。

 「・・・わかりました。たしかに、お渡ししておきますよ」

 仁木は笑みを浮かべてうなずいた。

 「すみません、お願いします。それじゃあ、また・・・」

 「ええ。お元気で・・・」

 仁木に手を振ると、萩野は駆け足でその場から走り去っていった。

 「・・・」

 仁木はしばらくそのうしろ姿を見ていたが・・・

 「お姉ちゃ〜ん!!」

 後ろからの元気な声に振り返ると、弘江と仲良く手をつないだ歌穂が、元気に手を振りながらこちらへ歩いてくるところだった。

 (そう・・・本当にいいものは、決して滅びない。大切な人を思う、人の絆も・・・)

 仁木はそれに微笑を浮かべながら、包みを片手に抱いて手を振り返した。


関連用語紹介

・流行性ネコシャクシビールス

 てんとうむしコミックス第6巻「流行性ネコシャクシビールス」に登場。試験管の中に保存されたウィルスであり、このウィルスをシャーレに数滴垂らし、何か言葉をささやきながら培養する(たとえば、「ミニスカートが流行する」「ミニこそ流行のトップ」などというように)。そうして培養したウィルスを風に乗せて周囲にばらまくと、空気中に拡散したウィルスは呼吸を通して人々に感染。感染した人々は、そのウィルスの培養時にささやかれた言葉と同じ行動をとり始める。前述の「ミニスカートが流行る」という言葉とともに培養されたウィルスに感染した人々は、ミニスカートを履かなければ外も歩けなくなってしまうほどである。つまりは任意に流行を作り出すことのできるウィルスであり、このウィルスを使ってのび太、ドラえもんはミニスカートだけでなくパンタロン、さらには「ぼろ服を着てシャムネコのようなメイクをし、外出のときは靴と下駄を片方ずつ。小脇にくずかごを抱え、人に会ったらセッセッセ、別れの挨拶アカンベー」という変な流行を作り出し、皆がその流行に従うのを見て面白がった。ウィルスの寿命はおよそ一日と短く、普段流行に疎い人は、このウィルスに感染して流行にはまるのも一足遅いという特徴がある。

 原作では流行に踊らされる人たちを見て楽しむという単純ないたずら目的で使用された流行性ネコシャクシビールスだが、もしより効果が強力で、持続時間も長いものが開発されれば、それは市場経済に対して計り知れない効果をもつ武器となる。企業はリスクを冒して消費者ニーズを先読みした商品開発など行わなくとも、「自社の商品が売れる」という流行を作り出して売りさえすればよいのだから。


おまけコーナー(対談式あとがき)

作者「影月」

聡美「聡美の」

二人「「おまけコーナー!!」」

作者「というわけで、新サイトとなってから初めてとなるExtra Episode、無事に公開と相成りました。いかがでしたでしょう?」

聡美「まぁとにかく、これであたしたちもまた大アバレできるってわけだから、それはそれでいいんだけど。副隊長メインのお話っていうのも久しぶりだったし」

作者「もともと「Predawn」には「ポケットの中の喧騒」を小説でやる、っていうコンセプトもありましたから、「流行性ネコシャクシビールスが企業営利のために使われていたら」・・・というifを書くことは、なんとかできたと思います。「Predawn」らしいといえば、らしいかもしれませんけど」

聡美「それじゃ次回は、誰が主役なの?」

作者「一応、小島さんを予定しています」

聡美「また小島さん!? Vol.6も小島さんだったじゃない! あたしとか亜矢さんメインのお話も書いてよ」

作者「亜矢さんについてはまたいずれ。それにVol.6では、あなたもけっこう暴れてるじゃないですか」

聡美「うっ・・・」

作者「そういうわけで、このサイトでも相変わらず自分の書きたいものを書いていきたいと考えていますが、どうかよろしくお願いします。それでは」


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