『銅鑼右衛門狸』

練馬に銅鑼右衛門といへる青狸あり
日照りの折にあらはれ、病に伏せし百姓を癒し、雨雲を呼びて雨を降らせたり
土地の者、之を稲荷神の遣ひとして祀りけり



銅鑼右衛門狸


 「それでは・・・どちらからお話しますか?」

 テーブルの向こうに座る女の、濃いグリーンの口紅をひいた唇が、そう言葉をつむいだ。俺は思わず、右の方に視線を向けた。
 俺も含めたこの場にいる3人は、丸いテーブルを囲むように座っている。俺の隣に、顔を知らないその男はいた。男としては、少し背が低い。太っているわけではないが、全体的に丸っこい印象がある。そんな体をもっているうえに、顔つきはどうものんびりしている。おそらく歳は俺よりもこの男の方が上なのだろうが、愛嬌がある。動物にたとえると・・・

 そう、狸だ。

 「あ・・・どうぞ。そちらから先にお話し下さい。先ほども言いましたとおり、手前の用事は、それほど大したものではございませんから・・・」

 狸・・・に似た男は、馬鹿丁寧かつ遠慮がちにそう言って俺に勧めた。

 「はぁ・・・」

 そう言われると、自分がここへ来た理由も大したものでないといえば大したものではないので、ちょっと困ってしまうのだが。すると・・・

 「そうですね・・・。それでは・・・萩野さんの方から・・・先にお話していただけませんか? お見かけしたところ・・・萩野さんの方が、深刻なお顔をしているようですので・・・」

 緑の唇が、再びそう言った。

 「そう・・・ですかね。まぁ俺の方も、切羽詰ってるとか手も足も出ないとか、そういうわけじゃないんですが・・・」

 俺はそう言って、再び狸顔の男に目をやった。男は小さく、首をすくめた。俺は、お言葉に甘えることにした。

 「電話でもちょっと話しましたが、3ヶ月・・・いや、4ヶ月前のことですね。雑誌の編集をやってる知り合いから、インタビューの仕事を請けまして・・・」


 まるで、化かされているようである。
 その門の前に立ったとき、そんなくだらない、けれど答えのわからないことが頭をかすめた。だが、今こうしてこの門の前に立っているなどとは、あのときには想像もつかないことだった。
 その日からはまだ、1ヶ月は経っていないはずだ。たしか・・・3週間前のことだったと記憶している。

 はねっかえりな性格が災いしたか、どうにもマスコミというものと自分とがそぐわない感覚を覚え、結局フリージャーナリストという名前だけはかっこよさそうな仕事についてから、8年目のことだった。
 8年の間、俺はご大層な肩書きに名前負けしないように、自分なりに悪戦苦闘してきた。そしてその結果尻尾をつかんだのが、とある巨大企業グループの商品販売戦略に関わる大規模な不正疑惑だった。しがない貧乏記者が挑むような事件としては、あまりにも大きすぎる。そう思わないことはなかったが、この世界で遠慮とか躊躇とかいうものは禁物である。だから俺は、その謎を追い始めた。
 結論から言うならば、俺の努力は報われることになった。俺の力だけで・・・というわけではもちろんなく、いろいろな人の力を借りながらも、とにかく不正は暴かれたのである。相手は俺が想像していた以上に恐ろしい連中で、俺は調査中、その企業が保有する秘密警察のような部署の連中に関係者ともども誘拐されるという目にまで遭った。俺はその間中ずっと気絶していたので、あのまま「正義の味方」が来てくれなければ、今頃はこんなところにはいなかっただろう。そのうえ俺はその騒動後、周囲からガラクタ呼ばわりされながらも長年連れ添った愛車をついに墓場に送らざるを得なかったのである。

 そんな風に犠牲は多かったのだが、その代わり、得られるものもそれなりに大きかったと思う。まず、俗世的なことではあるが、仕事が増えた。あの事件に自分なりに全身全霊をかけて取り組んだ結果、世間もそれなりの評価を自分に与えてくれたのだと思う。今まではこちらから頼んで記事を書かせてもらっていたが、今では頼まれて書くこともよくある。どちらにしても俺にとっては、「書かせてもらっている」という思いのほうが強いが。
 有名なビジネス雑誌の編集の仕事に携わっている知人からその仕事の依頼を受けたのも、その事件のあとだった。話を聞いてみると、様々なビジネス分野の頂点を極めたという人から成功の秘訣をインタビューするというものだった。とりたて目新しい企画とは思わなかったが、そのインタビューを俺にやってほしいと、知人はそう言った。

 「最初の相手か。士農田忠之だ。名前は聞いたことあるだろう?」

 最初のインタビューの相手の名を聞いたとき、俺は思わず眉間にしわを寄せた。

 「その人はちょっと・・・畑違いだな。ビジネスって言っても、その人の商売は絵だの彫刻だのを売る仕事だろう? 俺の専門はもっとわかりやすいっていうか、ちょっと見ただけでもだいたいの価値はわかる商品を扱ってる人たちなんだが・・・」

 士農田忠之という名は、もちろん聞いたことがあった。国内はおろか、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、中国、韓国・・・大きな国の大きな街には、必ず彼の経営する画廊があるという。つまり、大物美術商なのだ。それも、ただの大物美術商ではない。何年か前までは、私設の美術館まで建ててそれを一般公開しているという話も聞いたことがある。たしかに、ビジネスの成功者といえるだろう。だが、その分野はちょっと守備範囲だった。野菜や服などと違い、ちょっと見ただけではそれがどれだけの値段なのかわからない商品を扱っているような人たちは、自分とは別の世界の人間でさえあるかもしれない。美術の成績で2以上をとったことのない俺は、そんなことまで思っていた。だから俺は、少し躊躇した。

 「ものを売る仕事は、俺に言わせりゃどれもそう大差はないさ。商売の世界で成功した人っていうのは、みんないいものを見極める目を持っている。それこそが、商売成功の秘訣というんじゃないかな」

 「それじゃあ、インタビューをする必要なんてないじゃないか」

 「俺が言っているのはあくまで総論さ。各論はやっぱり人それぞれ違う。お前に頼みたいのは、それをうまく引き出してくれることだ。きっとためになる仕事だと思うぜ」

 知人はそんなことを言って笑った。俺は少し考えたが、すぐにうなずいた。

 「・・・そうだな。仕事をもらえて勉強までさせてくれるんなら、そりゃあ一石二鳥だ。仕事の選り好みをできるほど、まだ偉くなっちゃいないからな」

 そういうことだと、電話の向こうで知人は笑った。



 そうして3週間前。俺はやや緊張を胸に抱きながら、革張りのソファーに腰掛けていた。事前に考えてきた取材用のメモの最終確認をしながら待っていると、やがてノックの音がして、ドアが開いた。

 「お待たせしてしまいましたな。申し訳ありません」

 その老人は部屋に入ってくると、そう言って頭を下げた。俺はとんでもないとそう言って頭を下げると、名刺を取り出して老人に差し出した。どうせ「フリージャーナリスト 萩野俊作」という文字と電話番号しか書かれていないのだから、言葉で言っても大して変わりはしないのだが。

 「以前はもっとごちゃごちゃしていましたがね。ようやく、すっきりしましたよ。今の肩書きは、これだけです」

 老人は名刺を受け取ると、代わりに彼の名刺をくれた。頂戴します、といってそれを受け取り、表面を見る。たしかに、シンプルな名刺だった。どこかの住所と電話番号以外は、彼の名前と、「士農田美術館館長」という肩書きしかかかれていなかった。

 「画廊の経営は、お弟子さん達に任せたとお聞きしましたが・・・やはり、そうなのですか?」

 おそらくは、その名刺には以前はずっと多くの肩書きが書き込まれていたに違いない。老人はうなずいた。

 「世界中の画廊を飛び回るような元気は、今の私にはありませんよ。武蔵野の家とここまでを往復する。今の私は、せいぜいそんなものです」

 老人は屈託のない笑みを浮かべて言った。見た感じはどう見ても好々爺という感じで、とても業界に名をとどろかせた超やり手の美術商には見えない。
 美術商、士農田忠之。歳は今年で78歳になると聞いている。若い頃から海外へ修行に出かけて鑑定眼を磨き、やがて勤めていた画廊の経営者から彼の経営する画廊の一つを任され、それを足がかりにやがて独立。着実に業績を伸ばし、最終的には世界に名だたる美術商となっていた。士農田という男はそういう男だと、事前の調査ではそう聞いていた。

 「持病のリューマチがこのところ急に悪くなってきましてな。まぁ、私自身そろそろ潮時かと思いまして。老兵はおとなしく退くことにしたのです。ただ、美術の世界から完全に足を洗うまでにはまだ未練がありましてね。この美術館の館長の仕事だけは、いまだ務めさせてもらっています。半分隠居のようなこの私の話が役に立つかはどうかわかりませんが、どうぞよろしくお願いします」

 「と、とんでもない。こちらこそ、よろしくお願いします」

 俺はますます恐縮すると、頭を下げた。士農田はゆっくりと目の前のソファーに座ると、

 「さて、何をお話すればいいのでしょう?」

 と言った。

 「は、はい・・・」

 俺は慌ててメモ代わりに使っている携帯端末を取り出した。そして、インタビューは始まった。



 さすがはやり手の美術商というべきか、第一印象はどう見ても気のいいご隠居という感じしか受けなかった士農田だったが、インタビューを始めると非常に要領よく、こちらの聞きたい話を答えてくれた。そればかりか、進んでいろいろと面白い話もしてくれ、こちらとしては非常に手間が省けたといえる。俺の仕事はインタビュアーというよりは、その書記のようなものになっていった。

 「・・・なるほど。非常にご参考になりました」

 やがて、その話で端末の画面が文字で埋め尽くされると、俺は端末を折りたたんだ。

 「もう、よろしいのですか?」

 ソファーにゆるやかに腰をかけている士農田が、そう言った。自分なりに聞きたいこと、雑誌に載せるにあたって必要なことは大方聞き終わっていたので、俺はそうですと言った。

 「本日は、どうもありがとうございました。原稿ができましたら、チェックのために目を通していただくことになりますが、そのときはどうぞよろしくお願いします。それでは、士農田さんもお忙しいでしょうか、私はこれで・・・」

 そう言って、立ち上がろうとする俺。しかし、士農田は呼び止めた。

 「いやいや。私はそんなに忙しいわけじゃありませんよ。もし他にご用がないのなら、もう少しゆっくりされていっては?」

 「はぁ。たしかに今日の用事はもうありませんが・・・」

 「それなら、私と一緒ですな。ここへ来る前に横浜の美術館の人と打ち合わせをしてきたのですが、それで今日の仕事は終わりです。少しお待ちを。今、お茶のおかわりを用意させますので」

 俺は半ば強制的に、その場にとどまることになった。やがて、来たときにお茶を用意してくれた秘書の男が再びお茶を煎れてくれたので、俺たち二人はそのお茶を飲みながら、雑談をすることになった。このところ話といえば仕事の話ばかりで、こうしてゆっくりとお茶を飲みながらとりとめのない話をする暇も機会もなかったと、士農田はうれしそうに言った。

 「囲碁を・・・おやりになるのですか?」

 そんな雑談をしていたとき、俺はテーブルの隅に置かれているあるものを見つけた。それは、短い脚のついた木製の立方体だった。その上部には、墨で四角い升目が細かく描かれている。その横には楕円形の容器が二つ置かれている。どう見てもそれは、碁盤と碁石入れだった。

 「えぇ、まぁ。もしかして、萩野さんもおやりに?」

 「ええ。門前の何とやらというやつで・・・」

 俺の実家は、駒込で小さな酒屋を経営している。隣にはこれまた小さく古い3階建てのビルがあるのだが、そこの2階に囲碁クラブが入っていたのである。そこの主人と俺の親父とが昔からのなじみで、俺は親父によく連れられて、そこの囲碁クラブに行っていた。あとは今言ったように門前の小僧というやつで、自然とやりかたを覚えてしまったのである。しかもどういうわけか、いつのまにか親父や主人よりも強くなってしまっていた。俺がそのことを話すと、士農田はほぅと言って目を丸くした。

 「それでは、お強いのですね?」

 「まぁ・・・そうでしょうか。試験などは受けたことはありませんから級や段にすればどのぐらいかわかりませんけど、とりあえずその囲碁クラブでは一番強かったかもしれませんね」

 「なるほど・・・。どうでしょう萩野さん? よろしければ、ぜひ一局」

 士農田はそう言うと、碁盤と碁石入れをテーブルの隅から目の前へと移動させた。

 「はぁ、しかし・・・」

 俺は戸惑いながらそう言った。

 「私も級などは持っていないのですが、自慢になってしまうかもしれませんが最近私の周りには十分に楽しめる相手がいないので、ちょっと物足りなく思っていたのです。一局、お相手してくれるとうれしいのですが・・・」

 「はぁ。それはかまわないのですが・・・その、よろしいのですか?」

 なにしろ、相手は俺などとは比べ物にならないほど財力も社会的地位も高い。いくらゲームとはいえ、相手にするには気が引ける。俺がそう思っていると、それを見透かしたように士農田は言った。

 「碁盤を挟めばどんな人間でもただの対戦相手です。遠慮などなさることはありません。どうぞ、全力で」

 そう言って士農田は、碁石入れを俺に渡してきた。どうやら、すっかりやる気らしい。ならば、それに応えるのがこの場合の礼儀だと思い、俺はうなずくと、碁石入れの蓋を開けた。

 周囲に相手になるやつがいないというだけあり、士農田はかなりの腕前だった。定石も、いくつも知っている。それに対して俺も、全力を尽くして碁を指した。そして・・・
 接戦の末、勝ったのは俺だった。

 「いやっはっはっは。これは参った。完敗です」

 負けたというのに、士農田はひどく愉快そうに額を押さえながら哄笑した。

 「いや・・・完敗なんかじゃないですよ。接戦も接戦、大接戦です。俺が勝ったのは、ほんのちょっとした何かのせいですよ」

 それは、俺の本心だった。しかし、士農田は笑いながら首を振った。

 「いやいや、勝負というものは接戦かどうかなど問題ではないのですよ。どれだけ充実していたかです。こんなに夢中になったのは久しぶりです。夢中になった末に負けたのだから、これは完敗だ。実に気持ちのいい負け方です」

 士農田は心底愉快そうだった。勝ってしまってよかったのだろうかと内心不安だった俺は、それを見てようやくホッとした。

 「いやぁ、萩野さん。あなたはたしかに強い。そして、なにより楽しい。どうです、萩野さん? ぜひとももう一局指したいのですが、お願いできますか?」

 「はぁ・・・。そちらに時間があるのなら、私はいっこうにかまいませんが・・・」

 俺がそう答えると、なんの、時間など関係ありませんと、士農田はそう言った。俺自身、碁を指している間は夢中になっていたので、もう一局やってみたいというのは正直な気持ちではあった。だから、俺はうなずいた。愉快愉快と言いながら喜々として、碁石を碁石入れに戻していく士農田。と、そのときノックの音がした。

 「失礼します、館長」

 ドアが開き、秘書が顔を出した。

 「なんだ?」

 「八木さんからお電話です。箱根早雲山美術館の特別展示の件で、ぜひともご相談したいと・・・」

 電話を手にした秘書が、恐縮そうにそう言った。

 「やれやれ。ゆっくり碁を指してもいられんな」

 士農田はため息混じりにそう言って立ち上がろうと、申し訳なさそうに俺に言った。

 「すみませんな、萩野さん。急用ができてしまった。悪いですが、これ以上お相手はできそうにない」

 「いえ、そんな。そもそもこちらの用事は終わっていますから、どうぞおかまいなく」

 「いやぁ、私も残念ですよ。もっとお相手をしたかったのですが・・・おぉ、そうだ」

 士農田はなにかを思いついたらしく、メモ用紙になにやら走り書きをして、それを俺に差し出した。

 「私の自宅の住所と、電話番号です。ぜひとも、もう一度お手合わせ願いたいのです。また今度暇なときができたら、今度はゆっくりとお相手していただけませんかな? 連絡は、こちらからいたしますので」

 「え!? そ、そんな・・・」

 思いも寄らない展開に、俺は目を丸くしてしまった。電話を持ったままの秘書も、驚いた表情を浮かべている。

 「すみません。客を待たせているので。電話を」

 「はっ、はい」

 秘書は慌てて士農田に電話を渡した。

 「すまないが、萩野さんをお送りしてやってくれ。それじゃあ萩野さん、また今度」

 それが、士農田の別れの言葉だった。



 インタビューから2週間後。はたして、士農田からの連絡は本当に来た。しかも、本人直々である。来週の日曜日にようやく休みがとれたので、よかったら家に来てほしいと。それに対して答えた言葉は、はいとか必ずとか、そんなものしか覚えていない。断ったところで無論死刑になどなるわけでもないが、そのときの俺には、断ることのできない神の命令のように思えたのだ。無論、断る理由などもなかった。
 行くとなった段階で、俺は今までに考えたこともなかったような問題を考えることになった。大金持ちの自宅にプライベートでお邪魔する場合、どんな服を着ていけばいいのか。またお土産は何を持っていったらいいのか・・・。あれこれ悩んだ末、服装は持っている中でも一番上等のスーツを着ていくことにした。改まってしまうかもしれないが、かといってカジュアルなものというのも違うような気がしたからだ。お土産については、幸いにも近くにテレビでも紹介されたことのある店があるので、そこで買っていくことにした。

 そして、当日。神谷グループの事件で壮絶なる最期を迎えた愛車に代わって新しく購入した中古車をなかば夢心地のまま運転し、俺は今、武蔵野にある士農田忠之の自宅の前に立っている。

 古い屋敷だった。門構えもなにもかも、典型的な日本家屋としか言いようのないたたずまいである。立派な木材を組んで作られた門には「士農田」と筆で書かれた白木の表札がかかっていた。
 俺は息を吸い込み、腹の下に力を込めると、ようやく敷居をまたいだ。

 玄関先でごめんくださいというと、すぐに返事が返ってきた。俺がそこで待っていると、引き戸がガラガラと開いて、おかめのような顔をした中年の女が現れた。

 「あ・・・どうもこんにちは。萩野というものですが、士農田さんは・・・」

 と、俺が言い終わる前に、おかめのような女は笑顔を浮かべて早口で言った。

 「あぁ、旦那様のお客さんですね。お聞きしてました。さぁどうぞ、中へ中へ。旦那様もお待ちですわ」

 俺は半ば流されるように、そのまま士農田邸の中へ足を踏み入れた。中も概観と同じように、黒い艶のある板張りの廊下が続く、立派な日本家屋だった。俺は靴を脱いであがらせてもらうと、女のあとについて歩いていった。

 「旦那様、お越しになりましたよ」

 士農田は、縁側に座っていた。

 「やぁどうも。お呼び立てしまってすみませんでしたね。さぁどうぞ、こちらへ」

 ゆったりとした和服に身を包んだ士農田は、にこやかにそう言って俺に席を勧めた。まるっきり、大きな商家のご隠居といった風情である。その目の前には、碁盤がでんと置かれている。士農田とその碁盤を挟んで、紫色の座布団が敷かれ、その脇には時代劇で殿様が使っているような肘掛まで置かれていた。すなわち、それが俺の席だった。

 「いえ・・・お呼びいただいて、こちらこそ光栄です。これ、お口にあうかどうかわかりませんが、お土産です。士農田さんは、お漬物に目がないとお聞きしましたので・・・」

 「ほう、こりゃあ・・・大浜屋の粕漬けじゃあありませんか。私もよく買いに行くのですが、もしかして、ご近所にお住まいで?」

 「えぇ、まぁ・・・」

「はぁ、そりゃあうらやましい。けっこうなものをいただいてしまって、申し訳ない。大澤さん」

 「はいはい、かしこまりました」

 俺がおそるおそる差し出したお土産に、士農田は喜びの表情を浮かべ、それを大澤と呼ばれた女に渡した。大澤はその場から去った。

「あの方は・・・」

 「大澤さんといいまして、昼間の間家事をしてくれている家政婦さんですよ。女房がいなくなってからは、彼女のおかげでずいぶん助かっていますよ」

 士農田の妻というのは確か、4年前に亡くなったと聞く。

 「さぁさぁ、立っていないでどうぞお座り下さい」

 「し、失礼します」

 俺がぼんやりとしていると再び着座を促されたので、座布団へと腰を下ろした。やはり、緊張している。

 「このあいだは、原稿のチェックをしていただいてありがとうございました」

 少し前、俺は書きあがったインタビューの原稿を士農田に送り、チェックを依頼していた。これでOKだという返答はすぐに返ってきて、俺は胸をなでおろした。

 「さすがは有名な記者さんですね。ずいぶん無駄話が混じっていたかと思ったが、しっかりと要点がまとめられていた。文句を挟むところなどありませんでしたよ」

 あまり買いかぶられるのも困るなと思いながら、俺はありがとうございますと言ってもう一度頭を下げた。

 「まぁ、今日はお互い、仕事のことは頭から追い出しましょう。それでは・・・始めましょうかね?」

 士農田はそう言いながら、碁石入れから黒い碁石を取り出した。


 「旦那様ぁ。ご飯ができましたけど」

 大澤の声で、俺は我に返った。慌てて碁盤から顔を上げ振り返ると、こちらへと歩いてくる大澤の姿が見えた。

 「何? もうお昼か?」

 士農田もそれは同じだったらしく、壁にかかっている古い柱時計に目をやった。もう12時半だ。時間の感覚など、いつのまにかとうに失せていた。

 「夢中になるのは結構ですけどね。食べていただかないと、あたしも仕事が片付かないんですよ?」

 「ハハハ、悪かった。いやぁ、この人との勝負があんまり面白いもんでね。つい・・・」

 士農田はほとんど髪のない頭をなでながら、まるで子供のように言った。

 「すまないが大澤さん。食事をここまで運んでくれんかね?」

 「ここでお食べになるんですか? お食事のときぐらい、勝負は中断したらいかがです?」

 「いや、もちろんここで一休みよ。さすがに私も考えるのに疲れた。ここらで一片、休憩だ。ただ、今日はいい天気だからな。ここからだと、青空がよく見える」

 そう言って萩野は、庭園の上へと視線を向けた。秋晴れというやつだろう。雲ひとつない、すばらしい青空だった。

 「あんまり気持ちいいので、動きたくない。できれば、ここで食べたいんだよ。かまわんかな、萩野さん?」

 「え? えぇ、まぁ。士農田さんがそれで失礼でないというのなら、かまいませんが・・・」

 頼む、と大澤に言う士農田。

 「しょうがないですねぇ。ちょっと待っててください」

 大澤は苦笑いを浮かべると、台所へと戻っていった。この老人がこういうことを言うのは、よくあることなのだろう。

 やがて、食事は運ばれてきた。精進料理を思わせる質素なものだったが、その中には俺が持ってきた粕漬けも含まれていた。

 「大澤さんがさっそく出してくれたようですね。それじゃあ、いただきます」

 「ど、どうぞ・・・」

 来客の身でそんなことを言うのはおかしく思えたが、士農田は真っ先に粕漬けを箸で口に運び、さらに飯も口の中へと運んだ。そして、目を細めながらよく噛んだ。

 「・・・うむ。やはりこの店の漬物は実にうまい。親父が生きていた頃と、今も全く変わらない味です」

 「はぁ・・・。士農田さんのお父さんも、漬物がお好きで?」

 「好きなんてレベルじゃありませんでしたよ。あれは偏執的です。他の家事は一切お袋に押しつけてたっていうのに、漬物だけは自分で作らないと気が済まないといって、自分でぬか漬けやら柴漬けやら作るぐらいでしたから。ま、私も漬物好きも、その血は争えないといったところですよ。そんなことより、萩野さんもどうぞ召し上がってください。ご飯が冷めてしまいますよ」

 「そ、それじゃあ、いただきます・・・」

俺はようやく、箸を手に取った。俺と士農田はしばし、碁盤を挟んで食事をした。大層うまかった。

 やがて食事が終わると、俺たちは大澤のいれてくれたお茶を飲みながら、再び雑談を始めた。その途中、俺はふと縁側に面した座敷に目を向けた。そこの床の間には、白磁の壺が一つ、ポツンと置かれていた。

 「あれも・・・お高いのでしょうね」

 その壺を見ながら、俺はつぶやくようにそう言った。士農田は「うん?」と唸ってからそれに目を向け、あああれですかと言って笑みを浮かべた。

 「高いなんてとんでもない。あれはただの安物ですよ」

 「それは、士農田さんから見れば安物かもしれませんが・・・」

 俺から見れば、目の玉の飛び出るような値打ち物に違いない。この人と俺とでは、金銭感覚そのものが決定的に違っているだろう。しかし、士農田は手を顔の前で左右に振りながら違いますよと言った。

 「あれは本当に安物なんですよ。以前鑑定してもらったんですが、高くてもせいぜい5万円というところだそうです。私は陶器は専門外なのでよくわかりませんが、まぁそうなのでしょう」

 俺は思わず拍子抜けした。壺としてはたしかに高いかもしれないが、5万円というのはたしかにお世辞にも値打ち物とは言えない。

 「日野なんとかいう、昭和の時代の不遇な天才作陶家の作と思って買ったはいいが、結局贋作だったんですよ」

 しかし、と俺は言った。それならばなぜあんなふうに、床の間にご大層に置いてあるのだろう。

 「いや。あれはお気に入りでしてね」

 「お気に入り・・・士農田さんの、ですか?」

 「いや、そうじゃありません。あれは、親父のお気に入りだったんです」

 俺の考えていることを先読みしたように、士農田はそう言った。

 「あれは私ではなく私の親父が買ったものでして。親父は骨董品の収集が趣味で、ずいぶんいろいろ集めていたんですよ。親父が死んだときに遺言にしたがって、ほとんどは売ったり寄贈したりしたんですが、あれだけは売っちゃいかんとも書いてありましてね。だから今でも、ああして残っているんです。売るどころか粗末に扱っただけでも、親父が枕元に化けて立ちそうな気がするぐらいですよ」

 まぁ私が美術の世界に興味をもったのにはその趣味も影響してましたから、一概にただの道楽とこき下ろすわけにもいかないんですがね、と言って、士農田はおかしそうに笑った。

 「ちなみにあれが贋物だってわかったのは、親父が死んだあとのことです。だから親父はあれが本物だって信じたまま死んだわけですが、それでよかったんだと思いますよ。知らぬが仏」

 士農田はお茶をすすった。

 「何が価値あるものなのか、そんなのは文字通り価値観の問題ですよ。どんなくだらないものだろうと、持つべき人が持てばそれは宝となる。世間一般で価値があるといわれているものなんかは、ただたくさんの人たちの価値観に適合しているというわけなんですよ。ピカソの絵だって、人によっては下手くそな落書きにしか見えないこともあるでしょう。逆に、私が長年使っているこの湯飲みなんかはやっぱり安物ですが、なんともいえない愛着みたいなものがある。どんな有名な陶芸家が作った湯飲みだろうと交換する気はありません。そういうものなんですよ、ものの値打ちなんてものは」

 縁の欠けた湯飲みの表面を手のひらでなでながら、士農田はそんなことを言った。たしかに、それはあたっているかもしれない。動くことが一種の奇跡だ、現代の怪奇だなどと散々に言われた前のオンボロ愛車だって、俺にとってはそれなりに愛着のあるものだったのだから。

 「値打ちのあるものか・・・」

 と、士農田は独り言のようにそう言った。俺が顔を向けると、士農田は笑みを浮かべて言った。

 「萩野さん・・・。ひとつ、面白いお話をしましょうか・・・」

 「面白いお話・・・?」

 俺が鸚鵡返しすると、士農田はうなずいた。

 「まぁ、そんなに大した話ではないんですがね。面白い時間をくださったお礼に、ひとつ、お話しましょう」

 士農田はそう言うと、座布団に座りなおした。俺はわけもわからず緊張した。



 「私の親父という人間を一言で言うならば・・・まぁ、変わり者ということになりますかね」

 開口一番、士農田はそんなことを言った。唐突だが、わかるような気がした。俺から見れば士農田も変わり者だから、その父親が変わり者だったとしても、なにもおかしくはない。

 「親父の仕事は、科学者というか、技術者というか。まぁとにかく、いろいろな特許を持っていて、その収入でけっこう懐は温かかった。といっても、そのお金は生活費と若干の貯金以外にはほとんど骨董に使ってましたから、本当に困った親父でしたよ」

 そう語る士農田の顔は困った様子などまったくなく、むしろ愉快そうだった。

 「しかも、偏屈な性格でしてね。「お前はいずれ放っておいても大人になるが、そのときはひとり立ちしてもらわないと正しくは大人とはいえない。だからお前はお前の人生を自分だけで作ってみろ。手助けはしないがその代わり、干渉もしない」なんてことを、私が小学生の時にはもう言って聞かせていたんですよ。変な親父でしょう?」

 俺は、笑うしかなかった。

 「そんなことを繰り返し言われるものですから、私もそんなものかもしれないと思って、小さい頃から大人になったらどんな仕事をしようか。そんなことばかり考えていました。で、結局美術に関する商売をしてみたいと思って大学で勉強をして、卒業したらすぐに海外へ修行へ出たんです。そこでいろいろな画廊で働かせてもらったわけです。当然貧乏生活でしたが、親父は一銭の仕送りもしてくれませんでしたし、俺も無駄な無心は電話代の無駄だと思って、海外生活中はほとんど親父とは連絡をとりませんでした」

 その経歴なら、俺も知っている。ところが、と士農田は言った。

 「今からそう・・・51年前になりますか。海外で修行を始めて5年目、27歳の時のことです。突然実家のお袋から、電話がかかってきた。親父が胃がんで倒れて危篤なので、すぐに帰ってきてほしいと。私は急いで日本へと戻りました。しかし・・・」

 士農田は少し視線を落とした。

 「日本についたときにはすでに、親父は亡くなっていました。末期の胃がんだったそうで、実にあっけなく・・・」

 「・・・」

 ただ、と士農田はさらに続けた。

 「自分でも先は長くないという自覚はあったのか、遺言だけは残しておいて弁護士に渡しておいたんです。特許は放棄する。骨董品は売り払うか寄付しろ。貯金はお袋が暮らしていくには十分でしたが、私には一切譲らないと、そう書いてありました。何度も言われていたとおりだったんですよ」

 なんだか酷い親父だな、と俺は思った。

 「お袋と私は葬儀をし、少ない遺産の整理をしました。結局私の手元には、何も転がり込んできませんでしたがね。もっともそれはもとよりそのつもりでしたから、別に落胆もせず、私は海外へと戻りました」

 士農田は一旦言葉を切った。

 「それから私の周囲では何事もなく、1年が過ぎました。そんなある日、日本から私のところに手紙が届いたのです」

 「手紙?」

 「ええ。差出人は、父の弁護士でした。添え書きには、父の死後1年経ったら私に送るようにとの秘密の遺言だったので、それにしたがって送らせてもらうと、そう書いてありました」

 士農田はそう言うと腰をあげ、その場から去ってしまった。一人ぼっちにされて俺は心細くなったが、士農田はすぐに戻ってきた。その手には、古ぼけた封筒が握られていた。

 「これが、その手紙ですよ。ご覧になってください」

 士農田は封筒を渡してきた。

 「失礼します」

 俺はそれを受け取ると、注意深く封筒の中から手紙を取り出した。紙は黄色く変色していたが、文字は今でもはっきり読めた。そこには、こんな文章が書いてあった。




 お前がこれを読んでいるということは、俺はもうこの世にはいないだろう。そして、約束がきっちりと果たされていたのならば、おそらく俺が死んでから1年が経っているはずだ。元気かどうかまでは期待しないが、少なくとものたれ死んではいないことを祈る。
 何度も言ってきたことだが、俺はお前の人生には干渉するつもりはないし、その代わり、援助もしない。だから俺は遺産は何一つお前には残さなかったし、お前も別段、そのことは怨んでいないと思う。
 しかし、死を前にして振り返ると、柄にもなく果たしてそれで正しかったのか、と、情けない思いが胸をよぎることがある。せめて一つぐらい、何か残してやってもいいんじゃないか。俺はそう思ったので、その考えを実行した。
 お前は可奈と一緒に俺の遺産の整理をしたと思うが、そのときに気がつかなかっただろうか。日野の壺と同じぐらい大事にしていた、あの狸のことだ。あれがいつのまにかなくなっていたので、お前も可奈も首をかしげたことだろう。実はあれは、俺と縁のあるとある神社に俺が預けた。もしお前がこれから先食うに困り、どうにも生き方を見出せなくなるような、そんな窮状に追い込まれたときは、その神社を訪れてあれを返してもらうといい。住所は下に書いてある。私はあれに、俺がお前に残すたった一つの遺産のありかを書いた紙を隠しておいたのだ。その紙に従って俺の遺産を見つければ、お前がよほどの馬鹿でもない限り、きっとそれを生かして息を吹き返すことができるだろう。自分の道を生きろとは言ったが、だからといって、子供がのたれ死ぬのを親が黙って見ていていいはずがない。そういうことなので、このことはよく頭の隅に叩き込んでおくように。お前の健闘を期待する。

孝義




 「どうです? 滅茶苦茶な内容でしょう?」

 俺が読み終わったのを察したか、士農田はおかしそうにそう言った。

 「はぁ・・・。たしかに、滅茶苦茶ですね・・・」

 本人がそう言っているのだから、そう言ってもたぶん間違いはないはずだ。そう思って、俺は正直な感想を言った。

 「それを読み終わったときにはねぇ、思わず頭に血が上って、床に叩きつけましたよ」

 「え?」

 俺はちょっと驚いた。若かったとはいえ温厚な士農田のそんな姿は、ちょっと想像がつかなかった。

 「あれだけ親を頼るな、自分の力で生きていけと言っていたのが、最後の最後に変な情けを出した。そんなのは親父らしくないじゃないか。私はそう思って、親父に幻滅したんです。この手紙も破いてしまおうかと思った。でもね」

 士農田は続けた。

 「そんな父親らしいところを見せてくれたのにも、ちょっと安心したというか・・・そういうところもありましてね。親父の気持ちを考えると、破いてしまうわけにもいかなかった。だからこうして、まだとってあるんですよ」

 そういうものなのかもしれない。俺はそう思って、もう一度手紙に目を落とした。そして、士農田に質問した。

 「ええと・・・大体意味はわかるんですけどね。ちょっと、わからないことも。まず、可奈というのは・・・」

 「ああ、お袋です。12年前に亡くなってしまいましたがね」

 士農田はあっさりと答えた。

 「やっぱりそうですか。それはだいたいわかっていたんですが、全然見当もつかない言葉も一つ・・・。「狸」というのは、何のことですか?」

 俺がそう言うと、士農田はニヤリと笑った。

 「あの壺と同じです。親父のもう一つのお気に入りですよ」

 士農田は床の間の壺を見ながらそう言った。

 「お父さんは、狸を飼っていらっしゃったんですか?」

 俺は珍妙な顔でそう尋ねたが、士農田は笑顔で違いますよと言った。

 「本物の狸じゃありませんよ。像ですよ、像。狸の人形」

 ほら、これですよ、と言って、士農田は一枚の写真を俺に手渡した。



 木でできた、変な像が写っている。

 一瞬ダルマかとも思ったが、どうも違う。球体を縦に二つ重ねたような体型はたしかにダルマそのものなのだが、どう見てもその顔は、ダルマではなかった。いや、大きな丸い目と髭を生やしているという点はたしかにダルマと同じなのだが、ダルマが人間の顔をしているのと違い、その妙に愛嬌のある顔はどう見ても、狸にしか見えなかったのである。それに、ダルマと違って一応手足がついている。ただ、それはとても短い。短い腕の先に指のない団子のような手がついており、短い脚の下にこれまた指のない鏡餅のような偏平足がついているのである。
 それだけでも妙な姿なのだが、それだけではなかった。その像には、色が塗られていたのだ。一番目立つのは、全身に塗られた青だ。顔面と腹、それに手足が白く染められているのを除けば、全身のほとんどは藍のような染料で青く塗られていた。そしてもう一色、朱という色がある。朱に塗られているのは顔面のほぼ中央にある丸い鼻らしき突起、それに、首周り。まるで赤い首輪をつけているようだ。

 あまりにも見慣れぬ、あまりにも滑稽な姿だったので、俺は思わず、笑ってしまった。




 「笑いますよねぇ」

 士農田がそう言ったので、俺は慌てて口を押さえた。

 「す、すいません・・・」

 「いや、それが当然でしょう。誰が見たって笑いますよ、こんな間抜けな姿じゃ。父がこれを気に入っていた理由からして、とにかく笑える姿だからと、そんなくだらないものでしたから」

 士農田は自分も写真を見てほくそえんだ。

 「これは・・・一体なんの像なんですか?」

 俺は気を取り直すと、そんなことを訊いた。俺はもちろん、像などには詳しくはない。菩薩様と観音様の区別もつかないぐらいであるから、そうしたことについてはほとんど知識がないと言える。それにしても普通ならおおよその見分けぐらいならつく。いくらなんでも、仏像とマリア像を間違えたりはしない。だが写真に写っている像は、どう見ても仏教にもキリスト教にも関係のないものに見えた。ならば、招き猫ならぬ招き狸なのだろうか。我ながら馬鹿らしい想像である。だいたいこの狸は、招いてなどいない。拝んだり安置したりしてご利益があるのかどうか、はたして怪しいものである。

 「それがですねぇ・・・わからないんですよ」

 しかし、士農田は腕を組みながらそう言った。

 「わからない?」

 「ええ。私もずいぶん調べてみたんですが・・・」

 士農田はぬるくなったお茶をすすった。

 「そもそも親父がどこかの古道具屋から買った時点で由来不明でしたからね。もっとも、親父は骨董品の来歴なんかにはまったく興味がなかった。これはよい、面白いと、自分がそう思ったものこそ値打ち物だと・・・さっきの価値観の話を地で行くような人でしたから。だからその狸の像のことも「耳無し青狸」だの「青狸」だの適当な名前で呼んで、本来の名前や由来なんかには全然興味を払いませんでした」

 写真をもう一度見る。なるほど、たしかにこの狸には耳がない。だからこそ余計に滑稽だ。耳は最初からなかったのか、それとも途中で失われたのか。正面から撮影したこの写真だけではよくわからないが、どうやら最初からなかったようである。ますますもって珍妙な狸の像だ。

 「狸の像というのが、他にないこともないんです。一番有名なのは信楽焼の狸ですが、特に多いのは四国ですね。あそこには狸が人を化かしただの恩返しをしただのの話がやたらに多い。中には名のある狸を神様に祀った神社まである。そこには、狸の神像まで置かれている。しかしですねぇ、どうもそういうのとも違うらしい。いくら四国にも、耳のない青い狸なんて話は伝わっていないし、他にそんな像もないんです。私も暇を見つけては、いろいろと探ってきたのですが・・・」

 「ちょっと待ってください」

 腑に落ちないことを感じ、俺は士農田の話をさえぎった。

 「そういうことは、やっぱり学者さんに任せてみたらいいんじゃないですか? 正体がわからないにしても、糸口くらいは・・・」

 士農田は自分でいろいろ調べたが、それでもなんの手がかりも見つからないと言っている。ならば餅は餅屋。像の実物をそういった方面の学者に預けて調べてもらったほうが、はるかに手っ取り早く、なおかつ効果的なはずだ。

 「ごもっともです。それができればいいのですが・・・」

 士農田が残念そうに言った言葉に、俺はさらにわからなくなった。

 「できればいい、って・・・できないことはないでしょう?」

 「その像はですね、今私の手元にはないのですよ。私はその手紙を受け取ったあとも、像を返してもらいにはいかなかったんです」

 士農田はそう言った。

 「さっきも言いましたが、私はこの手紙を読んだとき怒った。ふざけやがってあの馬鹿親父。お前の言ったことなんだから、俺はあんたの手助けなんて必要ない。のたれ死になどするもんか。今に見ていろ。絶対に自分の画廊をもって、この世界に名乗りをあげてやる。遺産のありかの隠されたあんな像など、いるもんか・・・という具合です。若かったんですね」

 士農田は恥ずかしそうに言った。よほど決意が固かったか、意地っ張りだったのか。いずれにしてもやはり変わった人だと俺は思った。

 「まぁそういうわけで、私は遺産なんかクソ食らえという感じで働き、勉強しました。そして10年後、ようやく自分の店を持つことができたわけです。そしてようやく、像を返してもらおうと思った。ざまぁみろ馬鹿親父。あいにくだが俺はちゃんと自立したぞ。やっぱり手助けなんか必要なかったんだ。どれ、それじゃああんたの残した遺産とやらを拝見させてもらおうかと・・・まぁ、あてつけですよ。いい歳をして、何をみっともないことを・・・」

 士農田はさらに恥ずかしそうに言ったが、俺は続きが気になってしかたがなかった。

 「そ、それで!? それで像が今手元にないっていうのは、どういうことですか!? もしかして、神社がなんのかんの理由をつけてそれを返してくれなかったとか・・・」

 「そうではありませんよ」

 しかし、士農田は首を振って言った。

 「私は日本へと戻り、その手紙に書かれている住所の神社に行きました。しかし、像はすでにそこにはなかったのです」

 「なかった、って・・・」

 呆然とする俺に、士農田は言った。

 「そこに書かれている住所を見てください」

 住所は、宮城県のある市になっていた。

 「私が訪れる2年前・・・東北地方を中心とする地域でM7.2の大地震が起こったことを、ご存知でしょうか?」

 士農田の言葉に俺はハッとした。

 「東北大震災・・・!!」

ご存知も何も、日本人で知らない人間はいない。死者5千人以上を出し、東北地方の大都市に壊滅的な被害を与えたその地震は、20世紀の関東大震災や阪神大震災と比較されるほどのものなのだから。

「そうです。東北大震災です。あの地震では数え切れないほどの建物が倒壊しましたが・・・あの神社のある街は震源地に非常に近く、特に被害が大きかった。江戸時代から続く由緒ある神社でしたが、あそこも拝殿を初め、ほぼ全ての施設が倒壊してしまったのです」

「それじゃあ・・・まさか・・・」

「あそこには、民俗学的にも価値のある様々な神具を収めた倉庫のようなものがあったのですが、そこも倒壊してしまった。さらに付近で発生した火災が、その神社をも襲ったのです。私が訪れたとき、あの神社はようやく始まった拝殿の新築の真っ最中でした。出迎えてくれた神主は、父から預かったもののことをよく覚えていました。そして、その倉庫で他の神具と同じように管理していたあの狸の像も、おそらく燃えてしまったと・・・ひどく謝られましたよ」

「そう・・・ですか。燃えてしまったのなら、どうしようもありませんね・・・」

 俺は力なくそう言った。

 「・・・狸の像が燃えてしまったのは、たしかに非常に残念でした。ですが、前にも言ったように遺産そのものにはそれほど執着心もなかった。しかたのないものと諦め、わずかですが神社の再建に役立ててほしいと寄付をして、私はもとの日常へと戻っていったのです」

 士農田はそう言った。なんともあっけのない幕切れである。きっと世の中には、そうして歴史の闇の中に沈んでいったまま存在さえ忘れられてしまったものがいくらでもあるのだろうと思った。狸の像も士農田の父の遺産も、士農田が死んでしまったら遠からずその仲間入りをしてしまうのかもしれない。そんなことを思った。しかし

 「・・・その手紙を机の引き出しの奥にしまってからずいぶん長いときが経ち、いつしか私も、狸も遺産も忘れかけていたときのことです。ちょうど10年ほど前のことです。ある博物館の完成記念式典に招待され、そのあとのパーティーに参加していたときのことなんですが・・・」

 士農田の話は、さらに続いた。これ以上、どんな話があるというのか。

 「知り合いの美術商の一人なんですけどね。私と違って、仏像を専門に扱っている人なんですが、久しぶりにあって話をしたんです。そうしたらこのあいだ、偶然立ち寄った店で変な木の像を見たという話を、その人がしたんですよ」

 「変な像?」

 心臓がドキリとした。

 「富山のある骨董屋で掘り出し物の仏像が売られているという噂を聞いて、それを買い付けにいったときの話らしいんですけどね。その仏像を無事に手に入れることができて、ついでに他の骨董品も見ていたんですよ。そうしたら、あったらしいんですよ」

 「あ、あったって、まさか・・・」

 「ええ。耳無し青狸が」

 なんとなく話の流れから予想はついていたが、俺はやっぱり驚いてしまった。

 「あ、あったってどういうことなんですか!? 燃えたはずじゃ・・・」

 「私もそのときは耳を疑いましたよ。しかしね、聞けば聞くほど、その店の棚に何気なく並べられていた狸のようなダルマのような変な像は、その狸の像そのものとしか思えなかったのです」

 士農田は写真を指差した。

 「信じられない・・・」

 「ええ。ですが私は、その狸の像のことを他の人には一切しゃべったことはなかった。知っているのはせいぜい、お袋かあの神社の神主ぐらいです。その像のことなんて、本当ならその人が知っているはずがない。かといって、嘘を吐いているとも思えない。そんなことしても何の得もありませんし、なにより普通の人はばからしくて想像もつかないでしょう? ダルマのような体型をした、短足の青い狸の像なんて。そんなのは、その像を作った人ぐらいのものですよ。それに、他にそんな像があるとも思えない」

 「そりゃそうですね」

 うなずくしかなかったが、俺はさらに尋ねた。

 「それで!? その人はどうしたんですか!?」

 「もちろん、私もそう尋ねましたよ。たしかに、これ以上ないくらい変わった像ですから、その人も興味は持った。しかし、民俗学的価値はともかくとしても、美術的な価値は全然感じられないでしょう? だから、結局買わなかった。その人はそのとき次の商談もあって、急いでいたこともあるんでしょうが・・・」

 俺は心の中で舌打ちをした。しかし、それは理不尽というものであろう。知らなかったのだから仕方がない。

 「翌日私は早速、富山のその骨董屋に急ぎました。しかし・・・」

 「像はすでに、誰かに売られていた・・・?」

 俺の言葉に、士農田は黙ってうなずいた。予想はしていたが、やはり落胆した。

 「また振り出しに戻ってしまったわけですか・・・。それで、その後像の足取りは?」

 「何度か噂は聞きました。どうも、持ち主を変えながら全国を転々としているようです。木の像とはいえ、やはり狸は狸といったところですかな。ずっと化かされ通しのような気もしますよ」

 士農田はそう言って笑った。この人にとってその狸の像は、実際のところどれほどの価値があるのだろう。俺はそのことが気になったので、尋ねてみることにした。

 「士農田さんは・・・その像のことを、どう思っているんですか?」

 我ながらあまり要領のいい質問だとは思えなかったが、ほかに言葉も思いつかなかった。しかし、士農田はそれだけでも察してくれて、答えた。

 「・・・欲しいといえば、どうしようもなくほしいのかもしれませんな。そうでなければ放っておけばいいのですし。狸に化かされ通しというもちょっと癪だという気持ちもある」

 そう言ってから、士農田はさらに続けた。

 「しかし、どうでもいいといえばどうでもいいというところもある。あの狸の像がなんなのか、わかったところで学者でもない私には、結局それがどうしたということになるでしょう。父の遺産というのも、たしかに興味はありますが、どうしてもほしいというわけではない。私自身が私の遺産をどうしようかということを真剣に考えなければならない歳に差し掛かっているところで、これ以上余計なものを増やしても仕方がないですからね」

 「はぁ・・・」

 「つまりは・・・その程度のものです。どちらともいえる。真剣に探すつもりなら、それこそ専門の調査会社にでも依頼すればいいのです。それをしないということは・・・つまり、そのぐらいのものであるということですよ」

 はっきりしないようでいて、よくわかるような答えだった。士農田の言うとおり、それは彼にとっては「その程度のもの」なのだろう。少なくとも、彼の価値観の中では。しかし・・・

 「士農田さん・・・。もしよろしければ、その狸・・・私に探させてもらえないでしょうか?」

 俺がそう言うと、士農田は目を丸くした。

 「あの像を・・・? しかし、萩野さん・・・」

 「その・・・興味がわいてしまったのです。ジャーナリストというのは因果なものでして・・・もしかしたら、私だけかも知れませんが、一度気になることができてしまうと、調べてみないとどうにも気がすまないのです」

 俺はそう言った。

 「興味本位といわれれば、仕方のないことかもしれません。しかし・・・私にとっての興味本位とは、時には仕事よりも大事な基準になることもあるのです。真剣に調べます。もちろん、めでたく見つかったときには像は士農田さんにそっくりお渡しします。ですから・・・調べさせてはいただけないでしょうか?」

 俺がそう言うと、士農田はしばらくジッと俺を見つめていたが・・・

 「・・・いやはや萩野さん。やはり私とあなたとは、そういうところでも似ているようだ。気を悪くしないでもらいたいですが・・・やはりあなたも、とんだ道楽者のようですね」

 士農田はそう言って、好々爺のような笑みを浮かべた。

 「士農田さん、それでは・・・」

 「あんなへんてこな像でも、萩野さんの琴線に触れたとなれば・・・これも何かの縁でしょう。私も・・・お答えできることは、なんなりとお答えしましょう。それで、よろしいでしょうか?」

 それが・・・そもそもの始まりだったわけである。





 山王丸浩平という名のその男は、その日もぼんやりとカウンターに座り、指の上で文鳥を歩かせて遊んでいた。

 山王丸の経営する骨董屋は真の意味での「骨董屋」であり、女性にも人気のあるいわゆるアンティークショップとはまったく異なるものだ。すなわち、そこに置かれているのはおしゃれな椅子やティーカップ、ドールハウスなどではない。伊万里焼や九谷焼といった焼き物はもちろんのこと、掛け軸や浮世絵、古鏡、時計、箪笥、さらには刀の鍔だけとか燭台とか、そういうものこそ、山王丸が彼の店で扱っている商品なのである。下手をすれば・・・いや、大多数の人は一生のうちに一度も訪れることのないような類の店。それこそが山王丸の経営する骨董屋「珍品堂」なのである。

 「三軒茶屋の珍品堂」といえば、その業界ではなかなか有名な店らしい。
 浩平もそうであるが、珍品堂の店主は本名よりもその屋号、すなわち「珍品堂」という名で呼ばれることが多い。浩平の場合は、六代目珍品堂だという。まるで歌舞伎役者か相撲の行事だ。
 山王丸も本名は知らないという初代珍品堂は、もともとは骨董屋ではなく千葉のほうで商いをしていたという。しかし無類の骨董好きが高じて、ついに商売にしてしまった。おりしも大正13年。関東大震災により帝都が一瞬のうちに瓦礫の山と化した翌年の春のことであった。復興の槌音が響くそんな瓦礫だらけの東京に、初代珍品堂は勇んでやってきた。そして当時、震災で家を失った都心の人々が流入し、急速な発展を見せ始めていた三軒茶屋に店を構えたのである。以来160年。「珍品堂」は昭和の大恐慌にも東京大空襲にも、バブル期の地上げや再開発ブームもまるでものともしないかのように、三軒茶屋の古い商店街の一角で、その店を開き続けていたのである。

 ただ、いくら由緒も歴史も評判もある店だとは言っても、骨董屋は骨董屋。大量の客がなだれのように押しかけてきて我先に骨董を買いあさる・・・などというような状況は、たぶんこれから先もずっと訪れることはないだろう。珍品堂の場合、たいていの客は目当ての品がここに置かれている場合どこからかその情報を手に入れて、買いたいという連絡を入れてくる。だから客がある場合はたいていその来訪がわかっているので、それがない日は基本的には店のカウンターでぼぉっとしているか本を呼んでいるかのどちらかが、山王丸の日常だという。商品を仕入れにいく場合は、たいていは店を閉めてしまう。だから客のない日の珍品堂は、開店休業のようなものなのだ。

 その日も、そんな開店休業のような一日だった。何日か前にあるところでまとまった商品の仕入れをしたため、仕入れに出かける必要もない。また、骨董品を買いたいという客との約束もなかった。そんな日の日常のご多分にもれず、山王丸は店と隣接している自宅から店へと出てくると店を開け、あとはほとんどカウンターに座っていた。そうしてぼんやりと、カウンターの横に置いてある鳥かごの中から飼っている文鳥を出してやり、自分の指の上を歩かせていた。考えるだにひまな時間だと思うが、本人にとってはそれが日常のようなもので、別に苦には感じていないらしい。

 昼過ぎに一人、初老の客がふらりと入ってきて、ひとりしきり店内を見た後、またふらりと出て行ったすぐ後のことだった。

 「よぅ、六代目」

 やや野太い声とともに、一人の初老の男が珍品堂の中へと足を踏み入れた。

 「あぁ、ご隠居。いらっしゃいませ。お久しぶりですね」

 山王丸は彼に顔だけ向けてそう言った。

 「ああ。なんだか知らないが、最近身内の不幸が重なってな。うちは誰も死んじゃいないが、葬式続きで難儀したよ」

 「それはそれは」

「まぁ、そんなのはどうでもいいんだ。先代はいるか?」

 しかし、山王丸は眉をひそめて言った。

 「父なら今朝出かけました。町内会の旅行で。母も一緒です。帰ってくるのは明後日でございます」

 「なにぃ?」

 男は素っ頓狂な声をあげた。

 「だから、いつも言っているではございませんかご隠居。来るときは電話で約束をなさったほうがよろしいと。町内会の旅行でなくとも、父はしょっちゅう出かけてしまう人間なのですから」

 「お前に言われなくともわかってるよ。だから、そんなめんどくさいことは嫌いなんだ。お前の親父の与太話なんて、わざわざ約束してまですることじゃねぇよ」

 「へそ曲がりなんですから。無駄足になるよりよっぽどいいでしょうに」

 「無駄足じゃねぇよ。年中閑散としているこの骨董屋に、気に入ったものがあったら貴重な収入をもたらしてやってもいいと、俺はそういう仏心もあってここへ来るんだ」

 「はいはい。感謝しておりますよ」

 山王丸は頬杖をついた。

 「まぁ、先代がいないとなっちゃしょうがねぇ。店だけ覗かせてもらうぜ。なんか掘り出し物は仕入れることができたかい?」

 「何日か前にちょっと、まとめていろいろ仕入れましたからね。品数だけはそろっておりますよ。まぁ、掘り出し物があるかどうかは、実際にご自分の目で確かめてみてください」

 わかったよ、と言って、男は勝手に店の中を歩き始めた。ご隠居と呼ばれるその客は珍品堂の常連客の一人で、浩平の父親である五代目珍品堂とは小学校からの友達だといい、こうしてよく訪ねて来る。ご隠居というのはそのままの意味で、昔は投資家としてけっこう派手に活躍したらしいが、今は引退してその仕事で稼いだ金を骨董収集に使っているのだ。

 「しかし、いつ来ても閑散としてるな。よくこれで、150年も商売やってられるな」

 「160年です」

 「大して違わないじゃねぇかよ。もう少し、商売のやり方を考えてみたらどうだ?」

 「骨董屋が居酒屋みたいに客引きをしたところで、客が増えるわけでもないでしょう」

 山王丸は視線を声のする方向へ向けた。棚に隠れて、ご隠居の姿は見えない。

 「そんなことしたら父に殴られますよ。いいものさえ揃えておけば、客は自然とやってくる。いい商売というのはこっちが何かせずとも勝手に金のほうが転がり込んでくるような仕組みでなければいい商売じゃない。今まで何度聞かされたことか」

 「それを忠実に守ってるってわけか。お前さんはよくできた主人だよ、六代目」

 ご隠居がひひひと笑う声が棚の陰から聞こえてきた。が

 「おい。こりゃあなんだ?」

 その直後、ご隠居の声が聞こえた。

 「なんのことです?」

 「これだよ、これ。このへんてこな木の像」

 そう言いながらご隠居は棚の陰から姿を現し、手に何かをもってこちらへと歩いてきた。
 ご隠居が手に持っていたのは・・・青く塗られた、奇妙な木の像だった。

 「あぁ、それですございますか。やっぱりご隠居も気になりますよねぇ」

 「すると、これが今のところの掘り出し物ってわけかい?」

 「さぁて。どうでしょうかね。手前にもよくわからないのでございます」

 ご隠居はカウンターの上にその像をどんと置いた。

 「値打ちのはっきりしないものを仕入れたりしたら、先代にどやされるんじゃないか?」

 「値打ちなんてものは、もともとはっきりしないものなのですよ」

 山王丸は言った。

 「値打ちなんてものは、所詮はそれぞれの価値観の決めるもの。万人に価値のあるお宝などこの世にはありませんし、万人にとってゴミと思えるようなものも存在しない。砂漠で乾きに苦しむ人には、黄金など毛ほどの価値もございません。ただの水のほうが、よっぽど価値のあるものです」

 それを聞きながらご隠居は、変な喩えだなぁと言った。

 「わかりやすい喩えだと思いますけどね。とにかくそういうものです。その理屈で言えば、世の中には売って売れないものなどないのですよ」

 「だからって、値打ちもわからないものを売りつけるのかお前は?」

 「そうではございませんよ。お客さんに嘘の価値観を押しつけてまで売ろうなんて思っちゃおりません。だから手前は、基本的にはお客にものは勧めません。ご隠居がそうしたように、ただ好きなように棚の間を歩いてもらって、好きなようにものを手にとって眺めてみてもらうだけです。下手にものを勧めれば、それはその人の価値観に干渉することになる。だから手前は請われない限り、それがどんなものか説明もしないではありませんか」

 「そうやって、説明するのが面倒くさいのを理屈でごまかしてるだけじゃないのか?」

 ニヤニヤしながらご隠居が言う。

 「いいえ。手前は創業以来の経営方針を守っているだけです。お客がほしがり、買うに任せよ、と」

 そういうことにしておくよとご隠居は面倒くさそうに言うと、改めて変な像を見つめた。

 「しかし、まぁ・・・売り物になるかどうかは別としても、たしかに気になる像ではあるな。これは神様の像なのかい? 仏様には見えねぇが」

 「ええ。少なくとも、仏像ではないですね」

 山王丸はそう言って、改めて目の前の像を見た。見れば見るほど、おかしな像である。

 球体を縦に二つ重ねたような、達磨のような体型。しかし、どう見てもそれは達磨像などではなかった。達磨に手足はない。一応手足がついている。ただ、それはとても短い。短い腕の先に指のない団子のような手がついており、短い脚の下にこれまた指のない鏡餅のような偏平足がついているのである。
 それだけでも妙な姿なのだが、ひときわその像を特徴たらしめているのが、全身に塗りたくられた色だ。一番目立つのは、全身に塗られた青。顔面と腹、それに手足が白く染められているのを除けば、全身のほとんどは藍のような染料で青く塗られていた。そしてもう一色、朱という色がある。朱に塗られているのは顔面のほぼ中央にある丸い鼻らしき突起、それに、首周り。まるで赤い首輪をつけているようだ。

 物心ついたときには、すでに山王丸の周囲には骨董品があった。高校を卒業して店を継ぐと決めてから十数年、さらに本格的に勉強を積んだ。そして、六代目珍品堂となってから3年。あの父が店を任せてくれたからには、キャリアの浅さはしかたないとしても、少なくとも商品に関する知識は合格点に達しているはずだと、山王丸は思っている。しかし・・・そんな山王丸にしても、像の正体は皆目わからなかった。

 「日本の神様は八百万とも言いますからね。手前が知らないだけで、こんな神様もいるのかもしれません。それにしたって、これは非常に珍しいものですよ。父も見たことがないと言っておりましたから」

 山王丸はそう言いながら、文鳥を鳥かごに戻した。

 「ふぅん。ならそうなんだろうな。ところで、こいつはどこで仕入れたんだ?」

 「和田さんから他の骨董品と一緒に買いました。たしか、ご隠居もお知り合いでしたね?」

 「和田ぁ? 小石川の? あの爺さんがコレクション放出したっていうのか? ちょっと信じられないな」

 「あぁ、ご隠居はご存じなかったのですか」

 「なにがだ?」

 「和田さん、お亡くなりになったのですよ。先月、脳梗塞で」

 「なに?」

 ご隠居はあっけにとられたような顔をしたが、やがて、そうかと言ってうつむいた。

 「やだねぇ。俺の知らないところでも人が死んでやがる。今年は厄年だな。うぅん、しかしそうか。和田の爺さんがなぁ・・・」

 「ええ。和田さんにもよく買ってもらっておりましたからね。手前も父と一緒に葬式には行ったんですが、そのあとで息子さん夫婦から、骨董を一部処分したいと電話がありまして・・・」

 「ああ。そういえば爺さん、かび臭くて嫌だと息子の嫁が骨董集めに文句言ってるとかぼやいてたっけな。まぁ、それもしかたないだろうな。捨てちまうよりはましだろう。で、それをお前が?」

 「全部じゃありませんがね。ただいくつか掘り出し物があったので、それはしっかりと。その像はおまけみたいなものですよ。ご隠居と同じく、妙に気になってしまいましてね」

 ご隠居はふぅんと言って、像の顔をしげしげと見つめた。

 「こいつは・・・たぶん、狸の像じゃねぇかな。たしかに耳はないし、青いし、尻尾も変な形してるが、顔はまるっきり狸だ。腹も太鼓腹だしな」

 「まぁ・・・そうですね」

 「同類相憐れむってやつじゃないのか、お前さんがこれを仕入れたのは? 仲間がこのまま埃をかぶっていくのは考えるだに忍びない、ってことで」

 「また馬鹿なことを・・・」

 ニヤニヤ笑ってそんなことを言うご隠居から、山王丸はそっぽを向いた。

 本人は嫌がっているのだが、山王丸という男を動物に例えれば、十中八九狸だという答えが返ってくるに違いない。山王丸はたしかに、狸に似ているのだ。顔つきもたしかに狸っぽいのだが、全体を見ても狸っぽい。太っているわけでもないがなんとなくずんぐりとした体型や、どこかぼんやりとしているように見える風貌が、世間一般の抱く童話の狸のイメージと妙に符合するのだろう。

 「よぅし、お前さんの気持ちはよくわかった。この狸像、俺が買おうじゃないか」

 「え?」

 ご隠居がそんなことを言い出したので、山王丸は思わず顔を上げた。

 「たしかに、仲間が埃をかぶるのは嫌だろう。この狸は俺が毎日しっかり磨いてやるから、それならお前も一安心だろう?」

 「・・・余計なお世話ですよ」

 「すねるなって。まぁとにかく、よくよく見ればなかなか愛嬌のある顔してるじゃねぇかこの狸は。見てるだけで笑えてくる、なんとも間抜けな像だ。気に入ったぜ。だから買うと言ってる。お前は売り物としてこれを店に出してたんだから、買う客がいて金を出してさえくれれば、それで文句はないはずだ。さぁ、売れ」

 「まったく・・・。まぁいいですよ。買ってくれるなら相手は誰でもいいというわけではございませんが、ご隠居なら、まぁよろしいでしょう」

 「まぁってのはなんだ。で? いくらなんだ?」

 ご隠居はそう言って、懐から財布を取り出した。

 「・・・」

 しかし、山王丸は像を前にしてしかめ面をした。

 「なんだよ。いくらで売るか決めてなかったのか?」

 呆れたように言うご隠居。

 「なにしろ、値段を決める手がかりが全くと言っていいほどなかったのですからね。さて、いくらで売ろうか・・・」

 「まったく、たいした骨董屋だよ。これなら珍品堂はこれからもお家安泰だな」

 「待ってくださいよ。今決めますから・・・」

 そう言って山王丸は像を見ていたが、やがて言った。

 「5万円でいかがです?」

 「高い。3万にまけろ。これを逃したら、そんな狸の像を買おうなんて奇特なやつはたぶん現れんぞ。さっさと売っちまえ」

 「4万ならよろしいですよ。それでもちょっとまけすぎですけど」

 「まぁ、そのへんで手を打つか。こういうのは大体それぐらいが相場だろうからな」

 ご隠居はそう言うと、財布から4枚の札を出してポンと山王丸に渡した。

 「はいよ。貴重な収入だ。大事に使うように」

 「たしかに。お買い上げありがとうございました」

 山王丸は狸の像を丁寧に紙に包むと、それをご隠居に手渡した。

 「はいどうぞ。他に、なにかついでは?」

 「あいにくだがそれはないな。今日はこれだけで終わりにさせてもらうよ。そんじゃあ、先代もいないことだし、今日はこれでおいとまさせてもらうよ。それじゃあな」

 「毎度」

 狸の像を持って、ご隠居は珍品堂から出て行った。再び珍品堂の中は、がらんとした静けさに包まれる。山王丸はカウンターの上に上体を乗せ、鳥かごの中でときおり鳴く文鳥をぼんやりと見つめていた。

 バタバタとあわただしい足音とともにその客が入ってきたのは、ご隠居が去ってから十分も経たないうちのことだった。

 「す、す、す、すみません!!」

 男は駆け込んでくるなり、息も切れ切れにそう言った。いくら珍品堂が160年にも及ぶ長い歴史をもっているといっても、こんなあわただしい様子でこの店に駆け込んできたのは、たぶんこの男が初めてではないだろうか。山王丸は目を丸くし、思わずカウンターから立ち上がった。

 「こ、こ、こ、こちらに、た、た、た・・・」

 よほど全力疾走してきたのだろうか、青息吐息である。見れば白髪交じりの壮年の男だ。こんな歳の男がこんな店にこうも急いで、一体何の用があるというのだろう。しかし、男は今にも倒れ込みそうだ。とりあえず山王丸はカウンターから出てきて、男の体を支えた。

 「まぁまぁ、落ち着いて。ここはバーゲン会場なんかじゃないのですから、そんなに急いで来るようなとこじゃないんですよ?」

 「し、し、しかし・・・わ、私は・・・」

 「ほらほら。満足に口も回ってないじゃありませんか。とにかくこちらへ。今お水をお持ちしますから」

 山王丸は店の隅の椅子に男を座らせると店の奥に引っ込み、水道の水をコップにくんで戻ってきた。

 「さぁ、お飲みに」

 「す、すみません・・・」

 男はそう言うと、一気にそれを飲み干した。

 「あぁ、だからゆっくりと・・・まぁいいです。そのまま深呼吸でもしてください」

 「はい・・・」

 男は言われるままに深呼吸をしたが、それもどこかテンポが速かった。よほどせっかちなのか、それとも、急ぎの用事がこの店にあるのか・・・。

 「なんとか落ち着かれたようですね。それで? そんなに急がれて、この店に何かご用ですか?」

 「そ、そ、そうなんです」

 先ほどよりは呼吸が落ち着いているとはいえ、やはり早口で男は言った。

 「し、知り合いからつい何時間か前に聞いたのです。この店に、狸のような変な木像が置かれていたと・・・」

 「あぁ」

 あの像のことだ。

 「あの耳のない青狸ですか」

 「ああっ、そ、そうです! やはりあるのですね! どこにあるのですか!?」

 男はそれはもううれしそうに、うわごとのように山王丸にそう言った。しかし、山王丸は顔を少しゆがませて、言いにくそうに言った。

 「え・・・ええ。それがですね・・・。つい先ほど、あの像はお売りしてしまったのです。お探しでしたのなら、申し訳ございません」

 「な、なんですって!?」

 まるで天国から一気に地獄まで叩き落されたように、男は驚いた。気絶するんじゃないかと思ったほどである。男は貧血でも起こしたかのようにふらふらとしていたが、やがてややヒステリックに言った。

 「な、なぜですか!? なぜ売ってしまったんですか!?」

 「な、なぜって・・・それは、手前どももこれが商売ですので。商品を買いたいというお客様がいて、それに見合ったお金をお支払いいただければ、それを売るのは当然でしょう。それは全ての商いの道理というもの。もっとも手前どもの場合、お客様自身の品定めも売るか売らないかを決める際にすることがありますが・・・」

 あまりにも当然で普段なら決して言うことなどないであろうことを、山王丸は馬鹿丁寧に言ってみた。

 「す、すみません。そのとおりです。当たり前ですよね。あぁ、でもなんということだ。せっかく見つけたというのに・・・」

 男はハッとした後すぐ謝ったが、今度は頭を抱えてしまった。つくづく大仰な男である。

 「お見受けしましたところ、ずいぶんとあの像を・・・」

 「ええ、そうなのです。長年探し歩き、それでも見つからなくて・・・。昨日この店で買い物をしたという友人から偶然に話を聞かなければ、ここへ来ることもなかったでしょう。だから、ここにあの像があると聞いたときにはすぐに家を飛び出し、一直線にこのお店へ来たのです。あぁ、それなのに売れてしまったとは・・・。なんということだ・・・」

 悲嘆にくれる男。詳しい事情はわからないが、よほどあの像に執心していたようだ。こうなると、商売人として至極当然なことをしただけだとはいっても、罪悪感を感じてしまう。こんな男がいることなど知らなかったとはいえ、ここまで欲しがっているこの男に売らず、面白半分のご隠居にあの像を売ってしまった。たしかに責任はないが、骨董屋の主人として、はたしてそれはしかたないで済むことなのだろうか。
 山王丸はしばらく黙りこんだあと、男に声をかけた。

 「あの・・・」

 その言葉に、男が憔悴しきった顔を上げる。

 「お売りしてしまったものそれ自体は、たしかに手前にはもうどうすることもできないかもしれません。ですが・・・買い戻すことはできるかもしれません」

 「ほ、本当ですか!?」

 男はまたしてもこちらの思う以上の大きな反応を示した。

 「はい。あの像をお売りしたのは、手前どもの得意様の一人でございまして、住所や連絡先もわかっています。その方と交渉して、あの像を買い戻してみてはいかがでしょうか? 話のわかる人ですから、事情によっては売っていただけるかもしれません。ただ、最初の売値よりも高くなってしまうことは仕方がないかもしれませんが・・・」

 「お、お金など問題ではありません!! いくらでもお支払いします!!」

 いったい何がよくて、あんな像のためにそこまでするのだろう。あまりに気の毒なのでこんな提案をしたものの、山王丸はそう思わずにはいられなかった。

 「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、特別にお教えしましょう。お望みでしたら、手前も仲介役などさせていただきますが・・・」

 「いえ、住所を教えていただけるだけでけっこうです! ご主人のおっしゃるとおり、ご主人は自分の仕事をしただけです。責任はありません。あの像のありかを教えていただけるのですから、むしろ感謝しています!」

 「はぁ・・・」

 山王丸はやや間抜けな声を出したが、すぐにメモ用紙にご隠居の住所を書いて渡した。大きな品を郵送することもあるので、住所は書き慣れている。

 「ここから電車で駅2つ先の町に住んでいます。そうわかりにくい場所ではないので、すぐにわかると思いますが・・・」

 メモ用紙を渡すと、男はひったくるようにそれを受け取った。

 「あ、ありがとうございます! 早速行ってみますよ!! それでは、お世話になりました!!」

 男はそう言うと、言い終わらないうちに再びあわただしく珍品堂から出て行ってしまった。また息が切れますよと山王丸は注意しかけたが、そのときにはすでに、男の姿は見えなくなっていた。

 「・・・」

 山王丸は呆然と誰もない店の前のとおりを見つめたが、やがてため息を吐くと、店の中へと戻っていった。



 翌日も、店は開店休業状態だった。そして、やはり昼過ぎごろのことである。一人の男が、珍品堂の中に足を踏み入れた。

 「いらっしゃいませ」

 山王丸はあいさつをしたが、男は一瞥をくれただけで、かまわずに店内をうろうろと歩き出した。細かい格子模様の入った高そうなスーツを着ているが、どこか着崩れている。人相もあまりよくない。あまり歓迎したくない種類の客だと、山王丸はすぐに思った。

 「おい」

 男が見た目どおりにややドスのきいた声でそう言ったのは、ひとしきり店内を見回ってからのことだった。

 「なんでございましょう?」

 山王丸がそう答えると、男は店の奥からカウンターの前へとやってきた。

 「ちょっと探してる品があってな。ここにあるって聞いたんだが・・・」

 山王丸はなんだか、嫌な予感がした。

 「どんな品でしょうか?」

 「像だ。木でできた像だよ。それも、えらく変わってる。短い手足の生えた達磨みたいなかっこうで、青く塗られた狸の像だ」

 まただ、と山王丸は思った。一体何なのだろう。なぜあの像を求めてこうも変なやつがこの店にやってくるのだろう。

 「棚にはどこにも見当たらなかったが・・・おい、まさか」

 男が人相の悪い顔に、さらに恐い表情を浮かべる。そんな顔をされたところで、答えられることは一つしかない。

 「申し訳ございません。その品はすでにお売りしてしまいました」

 「売っただとぉ!?」

 男は素っ頓狂な声をあげて、噛み付くように山王丸をにらみつけた。

 「はい。何しろ、手前どももこれが商売ですので。ものを売らないことには、生計が立ち行きません」

 山王丸はまたしても言うまでもないことを言う羽目になった。男はちっと舌打ちをすると、不機嫌そうな顔で山王丸に尋ねた。

 「しかたねぇや。それで? あれを売ったのはいつなんだ?」

 「昨日でございます」

 「そうか。一足違いだったな。けど、それならまだなんとかなるか。いいよ、直接そいつから買い取る。おい、そいつの連絡先を教えろ」

 昨日の男に勧めたことと同じことを、男は自分で言った。しかし、山王丸は答えた。

 「申し訳ありません。その方がどこにお住みなのか、手前も存じていないのです」

 山王丸は嘘を吐いた。純粋にあれを欲しがっていただけの昨日の男ならまだしも、どう見てもなにか裏があってあの像を追っているとしか思えないこんなごろつきのような男を、ご隠居のところに行かせるわけにはいかない。

 「なんだと!? 知らないだぁ!?」

 「はい。なにぶん初めてやってきたお客様でしたので」

 ちっ、とんだところで売られちまったもんだと、男は悪態を吐いた。先ほどからの男の言葉に山王丸はカチンとし通しだったが、そんなことはおくびにも出さなかった。

 「わかったよ。ねぇとわかったんなら、ここにはもう用はねぇ。買った奴がどこにいるかは、自力で探すとするか。邪魔したな」

 ちっともすまないという感情の感じられない言葉を残して、男は珍品堂から出て行った。山王丸は大きなため息を吐くと、ゆっくりとカウンターへ戻り、自分の席に腰を下ろした。そして、考えた。

 今の男といい、昨日の男といい、なぜあんな像にこだわるのだろうか。どちらも全く違うタイプの人間だったが、いずれにせよ、ただの骨董好きではあるまい。考えられるとしたら、可能性は一つしかない。
 あの像には何か、自分の知らない秘密が隠されているのかもしれない。

 そこまで考えたとき、山王丸の脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ。緑色の美しい髪をもち、形のいい唇にも同じ色の口紅を塗った美しい女性。それは、山王丸の知人であり、常連客の一人であった。彼女は山王丸よりもずっと若いが、考古学や民俗学についての知識は、山王丸をはるかに上回る。由来のよくわからない骨董を手に入れたときに何度か彼女にそれを尋ねたことがあるが、そのたびに彼女は年齢からは信じられないほどの深い知識をもって、見事にその由来を解き明かしたのである。今回も棚に並べる前に、彼女に見せておけばよかったか。山王丸はそう思ってちょっと後悔したが、それも仕方のないことだった。彼女は骨董屋よりもさらに特殊な仕事についていて、さらに骨董屋の数百倍は忙しい。だからなんとなく、そんなことを頼みに行くのは気が引けていたのだ。
 しかし、と山王丸は思う。こうなってしまったからには、やはり気になる。今からでもなんとか、その由来なりとも知ることはできないだろうか。
 ダメもとだ。山王丸はそう思いながら、カウンターに置かれている、現代となってはもはや化石を通り越して伝説にさえなっている黒電話の受話器をとり、ダイヤルを回し始めた。



 SMS第1小隊の隊員寮の駐車場に乗りつけたのは、あと十分ほどで午後8時となるという頃だった。

 駐車場はそれほど広いとはいえない。駐車スペースは、車4台分なのだ。本来は隊員専用の駐車場なのだから仕方がない。ただ、この寮の7人の住人のうちマイカーを持っているのはたった一人だけで、駐車場に停まっているのはその一台だけだった。もう一人、バイクに凝っている青年がいるのだが、そのバイクは直接寮に置いてあるとかで、ここにはない。駐車スペースは3台分もあるので、俺はらくらくとその一つへと、新たな愛車である中古車を停め、鍵をかけると隣にある第1小隊隊員寮へと歩き出した。



 SMS・・・正式名称をSpecial Machinery Securities、「特機保安隊」というその組織は、2085年に正式に活動を開始した、警察、自衛隊に続く第3の治安維持組織である。その創設には今日のかつてないほどの科学の急成長が密接に関わっている。科学の急速な発展はたしかに人々に大きな繁栄をもたらしたが、同時に諸刃の剣のように、凶悪犯罪や大事故といったかたちで、弊害をももたらしているのである。そしてその多くは、旧来の警察や消防といった組織に対応させるにはあまりにも多様かつ複雑なものであった。そうした新たなる犯罪や事故に対しても、柔軟かつ迅速に対応し、速やかに解決することができる新たな治安維持組織・・・。その設立のために様々な人々が尽力し、その結果誕生したのが彼らSMSなのである。選び抜かれた優秀な人材というソフトと、最高峰の技術をもつ企業や研究所から供与される最新鋭機材というハード。その両方を兼ね備えたこの組織は、その設立目的に際して多くの人々が彼らに向けた期待に押しつぶされることなどなく、むしろそれを大きく上回る働きを見せているのである。

 世間でSMS、それも東京都SMS第1小隊といえば、これは一種の英雄のような扱いを受けている部隊である。それも当然というもので、彼らは今でこそ日本各地の主要大都市には必ず配置されているSMSの第1号であり、今まで彼らの力によって解決を見た事件は怪事件は数知れず、精鋭揃いのSMSの中でも最強の部隊との誉れも高い。2088年の3月、SMS第2、第3小隊を壊滅させ、初芝重工のテクノタワーを占拠した謎の2体のVJを激闘の末倒したのも彼らである。

 多くの人がそうであるように、俺の中でも所詮ブラウン管の中の存在であった彼らと俺が知り合うことになったのも、やはりあの企業グループの事件のことであった。
 しかし残念ながら、その初接触はお世辞にもかっこいいとは呼べないものだった。なぜならば俺は、こともあろうに彼らによって不審者として任意同行を求められることになったからである。当時俺はその事件の謎に深く関わっている人物と接触していたのだが、あるときその人物が突然行方不明になってしまった。その行く先など見当もつかず、しかたなく俺は彼の妻子の住むマンションの前で張り込みをしていたのである。今思えばもっと別な方法もあったのだろうが、まぁこれはどうでもいいことだ。ところがである。実はその奥さんというのが第1小隊の副隊長を務める女性の高校の先輩であり、その縁を通じて彼女に夫探しを依頼し、その流れで第1小隊はその捜索に乗り出していたのである。そして、彼女たちを見張っていた俺はその副隊長に簡単に見つかってしまい、不審者として任意同行を求められたのである。そして結局は自分の知っていることの全てを彼らに明かし、彼らとともに事件の解決に乗り出したのである。その大詰めの段階で、俺は副隊長やようやく見つけ出したその人物とともに、問題の企業グループの非合法内務処理部隊によって拉致され、危うく殺されかけるという目にもあったものの、結局再び彼らに助けられることになった。そのあいだ俺はずっと気絶していたのだから、ますますもって情けない。

 そういうわけで、現在俺がこうして何とか生きているのも、とりあえず食うに困らない生活を手に入れることができたのも、ひとえに彼らのおかげだといっても過言ではないだろう。当然彼らに対しては頭が上がらないわけで、俺は取材などで第1小隊の置かれているこの巨大な浮島「海上区」に足を運んだ際には、必ず顔を出してお礼を言うことにしている。いい加減彼らもしつこいと思っているかもしれないとは思うのだが、そうしないとなんだか恩知らずのような気がして落ち着かないのだから仕方がない。幸い彼らも、どうやら俺の度重なる来訪を迷惑などとは考えていないようで、いつも笑顔で迎え入れ、その後仕事はどんな調子ですかなどと気遣ってもくれる。そうしているうちに、俺と第1小隊の面々とは、いつしかかなり打ち解けた関係となりつつあった。考えてみれば助けられたことに対する義理はもう十分果たしたとも考えられるが、それでもなお第1小隊へと足を運んでしまうのは、俺自身も彼らのことを好きだからなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は第1小隊隊員寮の門をくぐった。考えてみれば、いつも顔を出すのはここからすぐのところにある分署の方で、ここへ来るのははじめてである。そう思うと、なぜか急に緊張した。

 「あら・・・?」

 そんなとき、突然背後で女の声がしたので、俺は思わずどきりとしてしまった。

 「萩野さんじゃないですか」

 俺がその声に振り返ると・・・そこには、剣道着に身を包んだ長身の女が立っていた。藍染めの手ぬぐいで髪をまとめた彼女は、切れ長の目をやや細めてこちらを見ていた。右手には木刀を提げている。

 「こ、こんばんは仁木さん。あの・・・何をなさっていたんですか?」

 俺が彼女にそう尋ねると、彼女は少し恥ずかしそうに言った。

 「すみません、こんな格好で。少し稽古をしていたものですから・・・」

 「こんな寒いのにですか?」

 日はとっくに暮れていて空気は冷え込んでいるし、俺自身も暖かいフライトジャケットを着込んでいる。それに対して彼女が身につけているのは、薄手の剣道着だけだ。

 「ええ。鍛錬を積むのに、夏も冬も関係はありませんから」

 平然とそんなことを言いながら、彼女は頭に巻いていた手ぬぐいをはずした。美しい青いストレートロングの髪が、さらりと垂れる。その言葉に俺は、あらためて彼女という人物と、彼女が自分自身と自分の仕事に対してどのような姿勢で臨んでいるのかを痛感した。
彼女の名は、仁木葉子。SMS第1小隊の副隊長で、第1小隊の創設時から活躍しているメンバーの一人である。聞いたところによると警察学校を主席で卒業し、ロンドン警視庁行きの話を蹴ってまでSMSに参加したというほどの人物だという。彼女という人間がどういう人物なのか、それは今この瞬間にも発せられている凛とした雰囲気が全てを物語っている。言ってしまえば第1小隊というのは個性の塊のような人間の集団である。そんな個性派揃いの隊員たちをまとめあげるというのは想像以上に大変なのだろうが、そんな仕事を、彼女は立派にこなしているのである。彼女は自分に与えられたそんな役割を常に立派に果たそうとし、そのためにはどんな努力をも惜しまない。ようするに、まるで昔の侍のように真面目なのだが、真面目であるがゆえに彼女もまた個性派だといえるのである。

 「ところで・・・なぜこんな時間にここへ?」

 彼女はそう尋ねてきた。

 「ええ。実は、桐生さんに用事がありまして・・・」

 「亜矢さんに?」

 「はい。電話で約束はしておいたのですが・・・戻ってきてますか?」

 俺は寮を見ながら尋ねた。

 「ええ。今日は夜勤の新座君と服部さん以外は、もうここへ戻ってきていますよ。私も今日は亜矢さんと一緒に戻ってきましたから」

 「そうですか。ところで、桐生さんのお部屋は・・・」

 「私の隣の部屋です。ついてきてください」

 そう言って、先を歩き出す仁木さん。俺は黙って、そのあとについていった。

 「ところで、今日はどんな用なのですか? わざわざ寮まで足を運ぶなんて、やはりお仕事でしょうか?」

 仁木さんは歩きながら俺に尋ねた。

 「えぇ、まぁ・・・そんなところです。たいした用事じゃないといえばそうなんですが、相談できる相手が桐生さんしか思いつかなかったし、ちょっと混み入った話なんで電話で済ますわけにもいかなかったので・・・」

 俺は頭をかきながら適当にそう言った。もっと詳しい内容は、ちょっと恥ずかしくて正直には言えなかった。話を聞くと仁木さんは、亜矢さんはあれでけっこう親切ですからきっと力になってくれますよ、と言って、一枚のドアの前で立ち止まった。

 「ここが、亜矢さんのお部屋です」

 ドアプレートには「桐生 亜矢」の文字がかかっていた。

 「ありがとうございました」

 「いえ。お悩みが解決するといいですね。それでは・・・」

 仁木さんは会釈をするとその隣の部屋のドアへと歩き出したが、あぁそうでしたと言って振り返った。

 「何と言えばいいのか・・・一応、ご忠告しておきたいのですが・・・」

 珍しく歯切れの悪い口調で、仁木さんは切り出した。なんだか知らないが、どう説明すればよいか、本当にわからないようだ。やがて、意を決したように彼女は言葉を継いだ。

「・・・亜矢さんの部屋では何が出てくるかわかりませんから、気をつけてくださいね」

 「そ、それは・・・どういうことですか?」

 「言葉どおりの意味・・・としか、言いようがないですね。びっくり箱のような、オバケ屋敷のような・・・とにかく、見たことのないようなものがいきなり出てくることがありますので、あまり驚かれないように・・・」

 普通の人が聞いたら、どういうことなのだろうと余計にわからなくなるだろう。仁木さんもそんな説明しかできないことに四苦八苦しているようだった。しかし、亜矢さんという人の人となりをだいたい知っている俺は、なんとかそれでも彼女の言いたいことは理解した。

 「わ、わかりました」

 仁木さんはすまなそうな顔をしてもう一度頭を下げると、隣の部屋のドアを開けて中へと入った。俺は目の前のドアに向き合うと、呼吸を深くついて、それをノックした。

 「はい・・・」

 ドアの向こうで、静かな声がした。

 「こ、こんばんは。萩野です・・・」

 なぜだか知らないが、声が上ずったものになってしまった。しかし、そんなことは関係なく、目の前のドアはゆっくりと開いた。そして・・・

 「こんばんは、萩野さん・・・。お待ちしていました」

 ドアの間から顔を出したのは、美しい女性だった。日本人形のように整った顔立ちのうえに、非常に理想的なバランスで顔のパーツが配置されている。特に印象的なのは、やや細めの双眸である。その双眸はどこか物憂げな雰囲気と、覗き込むと魅入られる深淵のような不思議な深さを持っている。

 「ど、どうも・・・」

 今までに何度も顔を合わせているのだが、顔つき合わせて話すのは今回がはじめてである。こうして目の前に立つと、特にやましい思いなど抱いていないというのに、なぜか目のやり場に困ってしまい、俺は落ち着きなく視線を躍らせてしまった。

 「どうぞ・・・中へお入り下さい」

 しかし、彼女はそんなことはかまいもせず、肩口まで伸ばした美しい緑の髪と同じ色の口紅を引いた形のよい唇にわずかに笑みを浮かべ、俺を部屋に招き入れる仕草をした。

 そのとき俺は・・・なぜか、蜘蛛の巣に捕らえられようとしている蝶の姿を思い浮かべた。



 彼女・・・桐生亜矢の部屋のイメージは、俺が思っていたものとはずいぶんと異なっていた。

 今まで第1小隊のメンバーと接してきた中で彼女に抱いたイメージから、俺はその部屋も一度足を踏み入れたら生きては帰れないような、そんな魔境のようなイメージを抱いていたのだった。人から見れば何をばかばかしいと言われるかもしれないが、実際そんなことがありそうな人なのだから仕方がない。

 しかし・・・実際の桐生さんの部屋は、実に整然としていて、想像していたようなおどろおどろしい雰囲気などはまったくなかった。壁にかけられた古い能面やどこか南洋の神様か何かのお面、何かの物語を刺繍したような絵柄のタペストリー、額縁に入れられた年代物のタロットカードなど、装飾として飾られているものはたしかにごく一般的な若い独身女性の基準からは大きく外れるものだった。しかし、少し照明が薄暗いことを除けば魔境のような雰囲気はまるでなく、むしろ、博物館か民俗学を研究している大学教授の研究室といった雰囲気の部屋だった。
 それを見たときは、さきほどの仁木さんの言葉はもしかして脅かしかと思ったのだが・・・

 「・・・!」

 俺はダイニングに足を踏み入れたとき、思わず驚きの表情を浮かべてしまった。

 ダイニングの椅子には、一人の男が腰掛けていた。太ってはいないが全体的に丸っこい体型の男で、背もやや低い。ただ妙なのはその格好で、この時世だというのにこげ茶色の和服をきっちりと着こなしていた。
 何が出てくるかわからないとは、こういうことなのだろうか。

 「・・・」

 その男は俺たちの方に顔を向けたまま、なんとも形容のしがたい表情をしていた。初対面で失礼ではあったが、その表情はちょっと間抜けなものだった。この男が俺にとって予期せぬ先客であったのと同時に、どうやらこの男にとっても、俺は予期せぬ訪問者だったらしい。

 「あ、亜矢さん、その方はもしかして、あの神谷グループの事件の・・・」

 男は目を丸くして俺を見つめた。

 「失礼しました、ご主人・・・。今お話しようとしていたところでしたが・・・思っていたよりも早く到着なされたので・・・」

 桐生さんはそう言って、その男に微笑みかけた。

 「ご紹介しましょう・・・。フリージャーナリストの・・・萩野俊作さんです・・・。ご主人もご存知だったようですが・・・例の、神谷グループの事件解決の立役者です。私たちとはあの事件以来の縁があり・・・今でも時々ご挨拶にきてくれているのです」

 「はぁ・・・さすがは亜矢さん。お顔の広さは計り知れないと存じておりましたが、こんな有名な方ともお知り合いでしたとは・・・」

 男は心底驚嘆したような顔で桐生さんと俺とを見比べた。まだ男の紹介もされていないうちから、俺は戸惑ってしまった。事件解決の立役者、有名人とは、ずいぶん買いかぶられたものである。たしかに俺はあの事件の解決に当たって重要な役割は果たしただろうけれども、実際の解決はほとんど亜矢さんたちSMS第1小隊がやったものである。たしかにテレビにも何度か出演させてもらったが、芸能人などと並べて語られるほどの有名人でもない。

 「あ、あの、桐生さん・・・」

 俺が思わずそう言うと、桐生さんは今度は俺に微笑を向けた。

 「失礼・・・。萩野さん・・・こちらは私の知人で、三軒茶屋で骨董屋を経営している山王丸浩平さんです」

 桐生さんの言葉に顔を向けると、いつのまにかその山王丸という男は立ち上がっていた。

 「どうも、はじめまして萩野さん。今しがた亜矢さんからご紹介されたとおり、手前は三軒茶屋で「珍品堂」という小さな骨董屋を営んでおります、山王丸というものでございます。以後、よろしくお願いします。お付き合いのある方からは、本名よりも屋号で呼ばれることの方が多いので、「珍品堂」と呼んでいただければ幸いです」

 「はぁ・・・よ、よろしく。萩野俊作といいます」

 俺は困惑した表情で、やけに丁寧でしかも時代がかった話し方をする目の前の男を見た。妙な男である。ただ、決して卑屈ではない。言葉遣いもその所作も、相手に対する礼儀を純粋に重んじた結果なのだろう。

 「実は、ご主人・・・」

 と、そんな俺たちを見ていた桐生さんが口を開いた。

 「萩野さんがここに来ることは・・・3日前に電話で約束をしていたのです」

 「あ・・・そうだったのですか。しかし亜矢さん、それならそうと、昨日電話でお話したときにおっしゃっていただければ、私の話など後日に回せたのに・・・」

 山王丸は眉をひそめてそう言った。どうやら山王丸は、ここに来ることについて昨日アポをとったらしい。俺がアポをとったのは彼女の言ったとおり3日前だから、たしかに先約は俺の方ということになる。

 「もしご迷惑でしたら、手前はまた都合のつく日に出直しさせていただきますが。手前の用事など、お話しするのはいつでもいいようなことですので・・・」

 そう言って、山王丸はドアの方に歩き出そうとした。

 「ちょ、ちょっと待ってください!」

 俺は慌ててその前に立った。

 「そちらのご用件は知りませんが、いつでもいいというならそれは俺の方も同じです。たしかに俺のほうが先約かもしれませんが、だからといってお帰りになるのは・・・」

 「しかし・・・」

 「萩野さんの言うとおりですよ、ご主人・・・」

 と、桐生さんがそう言った。

 「時間が足りなかったので、お二人には伝えられずに悪かったと思っていますが・・・私は、お二人のお話を同時に聞きたいと思っていたので・・・あえてご主人のお話を先延ばしにせずお受けしたのです。同じ理由で・・・萩野さんにも、ご主人が来ることは伝えていませんでした。申し訳ありません・・・」

 そう言って、頭を下げる桐生さん。そう言われてもなぜ彼女がそんなことをしたのかわからず、俺と山王丸は顔を見合わせた。

 「はぁ・・・。まぁ、別に人に聞かれてまずいという話じゃないですし・・・」

 「それは、手前も同じです」

 山王丸もそう言ってうなずいた。

 「しかし桐生さん、どうしてそんなことを?」

 俺がそう尋ねると、桐生さんは言った。

 「実は、おそらくお二人のお話は・・・お互いに非常に関係の深いものなのです」




 こうして、お互いに面識もなかった俺たち二人は桐生さんの言うままに着席したのである。桐生さんは自ら煎れた玉露のお茶を俺たちに出すと、自分も着席しながら言った。

 「それでは・・・どちらからお話しますか?」

 「あ・・・どうぞ。そちらから先にお話し下さい。先ほども言いましたとおり、手前の用事は、それほど大したものではございませんから・・・」

 山王丸は、馬鹿丁寧かつ遠慮がちにそう言って俺に勧めた。

 「はぁ・・・」

 そう言われると、自分がここへ来た理由も大したものでないといえば大したものではないので、ちょっと困ってしまうのだが。すると・・・

 「そうですね・・・。それでは・・・萩野さんの方から・・・先にお話していただけませんか? お見かけしたところ・・・萩野さんの方が、深刻なお顔をしているようですので・・・」

 緑の唇が、再びそう言った。

 「そう・・・ですかね。まぁ俺の方も、切羽詰ってるとか手も足も出ないとか、そういうわけじゃないんですが・・・」

 俺はそう言って、再び狸顔の男に目をやった。山王丸は小さく、首をすくめた。俺は、お言葉に甘えることにした。

 「電話でもちょっと話しましたが、3ヶ月・・・いや、4ヶ月前のことですね。雑誌の編集をやってる知り合いから、インタビューの仕事を請けまして・・・」



 そうして俺は、話を始めた。話とはもちろん、士農田から話を聞いて興味がわき、自分から探すことを買って出てしまった、例のへんてこな狸の木像についてである。

 士農田と別れた後、俺は早速、調査を開始した。特に進捗状況を報告するような義務もないので、不真面目にやっていたわけではないが、仕事の合間を縫っての気楽な調査となった。
 しかし・・・すでに3ヶ月あまりが経っているというのに、青狸の像についての情報は、まったくつかむことができなかった。調査を始めたときにはいくつかあてはあったものの、蓋を開けてみれば結局そのいずれもが像には結びつかず、俺の当ては完全に外れる結果となってしまった。
 仕事ではないし、士農田に頼まれて探しているわけではないので、見つからなかったと言っても別に怒られるようなわけではない。かといって、探すと言ってしまった以上、せめて消息についての情報一つでも入手しなければ面目が立たないだろう。俺はさんざん困り果てたあげく、自業自得と言われることを覚悟の上で、最後の切り札として残しておいた伝・・・桐生さんに相談することにしたのである。

 忙しい仕事で疲れているところにわけのわからぬ狸の像の相談などを持ち込んでは、いかに彼女と言えども少なくとも迷惑そうな素振りぐらいはするかもしれないと電話のボタンを押しながら思った。しかし、話をして返ってきたのは思わぬリアクションだった。彼女は時々相槌を打つ以外は黙って俺の話を聞いていたが、それを聞くと

 「その話が本当だとしたら・・・すごいことになるかもしれませんよ・・・」

 と、わずかに驚きのこもった声でそう言ったのである。俺自身はそのリアクションにそれ以上に驚き、「何かご存知なのですか?」と尋ねた。しかし彼女はそれについてはその場で語らず、少し込み入った話になるので、お互い都合のよい日に会って話をしたいとそう言ったのである。俺は驚きながらも、結局桐生さんの仕事の都合に合わせて3日後の今日にこの部屋を訪れることにしたのである。

 そして、俺はあの像を探すきっかけとなったあの日から今に至るまでの経緯を話した。山王丸にとっては初めて聞く話なので、出来る限り順序よく整理した話をすることを心がけた。が、話がいよいよ、士農田が狸の像について語るくだりに入ってすぐのことである。

 「狸の像ですって!?」

 桐生さんと同じく、今まで黙って静かに耳を傾けていた山王丸が、突然素っ頓狂な声をあげた。俺が驚いて顔を見ると、山王丸は目をまん丸に見開いたさらに滑稽な顔で俺を見ていたが、すぐに言った。

 「そ、それはもしかして、耳のない青い狸の像なのですか!?」

 「え・・・!?」

 俺の話はまだ、例の像の特徴を話すところまで来ていなかったのである。

 「ど、どうしてそのことを・・・!?」

 狸によく似たこの男は、あの像について何かを知っているのか? いや、知っているに違いない。何も知らない人間が狸の像と聞いて、耳のない青い狸などというあのふざけた姿の像を連想できるわけがない。信楽焼の狸がいいところだろう。だとしたら、一体何を知っているんだ?
 俺はさらに質問の言葉を吐こうと、身を乗り出したが・・・

 「萩野さん・・・お気持ちはわかりますが、今はとりあえず最後までお話してください・・・。ご主人も・・・話はそれからです」

 黙って聞いていた桐生さんが、突然そんなことを言った。今までと同じく静かな口調だったが、なんとなく有無を言わさないような何かがあった。しかたなく俺は、やや気持ちの悪さを感じながらも、口に出そうとしていた質問の言葉を飲み込んだ。山王丸を見ると、彼も怪訝そうな表情を浮かべながらも、黙って椅子に座りなおした。

 「さぁ・・・続きをお話になってください」

 彼女がそう進めたので、俺は続きを話し始めた。先ほどのこともあったので、俺は話をしながらも山王丸の様子をちらちらと見ていた。すると案の定、何か新しい事実が出てくるたびに驚いた表情を浮かべている。やはり、何か知っているのだ。

 「・・・ということなんです。結局当ては全部外れてしまって、最後の頼みとして桐生さんに相談にきたのです。俺が興味本位で引き受けたことで桐生さんにまで手間をかけさせてしまうのは気が引けたのですが・・・」

 ようやく俺の話は、現在へと行き着いた。俺が話を締めくくると、桐生さんは微笑を浮かべた。

 「いえ・・・そんなことはありませんよ。むしろ・・・とても興味深い。それはご主人にとっても同じだと思いますが・・・どうですか、ご主人?」

 桐生さんはそう言って、山王丸に目を向けた。山王丸はもう驚いた表情を浮かべてはいなかったが、そのかわり、やけに真剣な表情で桐生さんに言った。

 「・・・ようやくわかりました。萩野さんをご同席させたのは・・・こういうことだったのですね?」

 萩野のその言葉に、亜矢は微笑を浮かべたままうなずいた。

 「しかし・・・信じられません。本当にあの像が・・・」

 「ええ・・・そうですね。こういうこともあるのでしょうが・・・縁というのは異なものです」

 「ちょ、ちょっと待ってください!!」

 なぜか全て納得したような話し振りの2人に、俺は慌てて言った。

 「2人とも、あの狸の像についてなにか俺の知らないことを知ってるみたいですけど、勝手に2人で納得されても俺には何がなにやらわかりませんよ! 俺はまだ蚊帳の外なんですから」

 すると、桐生さんは言った。

 「失礼。もちろん・・・それはそうでしょう」

 そう言って桐生さんは、山王丸に顔を向けた。

 「全てを明らかにするには・・・やはりご主人のお話も必要なようです。だいたいの事情はお二人から電話をもらったところでわかりましたが・・・私もまだ、細部まで把握しているわけではありません。ご主人・・・お願いできますか?」

 「ええ、喜んで」

 山王丸はそう言って、人懐こい笑顔を浮かべた。



 話を聞き終わったときの俺の表情は、きっとさっきまでの山王丸と同じく、滑稽なほど驚いたものだったに違いない。しかし、それもしょうがないことだったろう。自分の探していた、半世紀近く前に行方不明になった変な狸の像をほんの数日前、この狸に似た骨董屋が常連である好事家のご隠居に売っていた、なんて話を聞かされれば、誰だって言葉を失うに決まっている。

 「とても・・・信じられませんよ」

 そして、話し終わって桐生さんに感想を求められた俺の第一声も、さっきの山王丸のものと瓜二つだった。

 「ええ・・・それは、手前も同じです。手前がご隠居に売ったあの狸に、まさかそんな由来があったとは・・・」

 山王丸自身、まだ信じられないと言うような口ぶりでそう言った。すると、桐生さんが静かに言った。

 「たしかにこれは信じられない話ですが・・・お2人の話は、どちらも実際に起こった話であり、事実です。それならば・・・そう受け止めるしかないのでしょう。つまり・・・その像には士農田さんのお父さんの遺産のありかが隠されているけれども・・・行方不明になってしまった。しかし、士農田さんがおっしゃったとおり・・・像は消失したりしたわけではなく・・・おそらくは持ち主を変えて、全国を転々としていたのでしょう。そうしているうちに・・・像はご主人の店に流れ着いた。そして・・・そんな事情など知らないご主人は、その像をお得意さんに売ってしまったと・・・こういうことでしょう」

 桐生さんは俺たちの顔を交互に見た。俺も萩野も長い話だったが、骨になるまでそぎ落としてしまえばそんな話なのである。

 「そして・・・萩野さんはその像の行方を探していて、ここへたどり着いた。ご主人もあの像を求める人が連続して現れたので・・・像の由来が気になって私へ相談を持ちかけてきた・・・」

 すると、山王丸が言った。

 「おっしゃるとおりです。これもきっと、何かの巡り合わせでございましょう。それなら亜矢さん・・・もしかしてあなたも、あの像については何か知っているのではないのですか?」

 たしかに、桐生さんは俺と山王丸が同じものについての情報を求めていることを知ったうえで俺たち2人をここへ招いたはずだし、だからこそそれぞれの知っていることを最後まで話させたのだろう。ならばやはり彼女も、あの像について何か知っているか、そうでなくとも一角でない関心を持っているのではないだろうか。

 「ええ・・・おっしゃるとおりですよ、ご主人」

 桐生さんはそう言った上で、吸い込まれそうな深さをもつ瞳で俺たちを見ながら言った。

 「実を言うと・・・お二人が電話をしてくるずっと以前から、私はあの像について知っていました」

 「え・・・!?」

 その言葉に、俺達二人は同時に声をあげた。

 「正しく言えば・・・知識だけは持っていた、ということです。ですから私は・・・あの像に士農田さんという方のお父さんの遺産の秘密が隠されているなどということは知りませんでしたし・・・それどころか、あの像が現存していることさえ知りませんでした」

 静かにそう言う桐生さん。やがて、山王丸が尋ねた。

 「お聞かせ願えないでしょうか、亜矢さん。あの像は一体、なんなのですか?」

 「いいですか・・・。あの像に士農田さんのおっしゃるような秘密が隠されていたとしたら・・・たしかにそれは、すごいことです。しかしそれ以前から・・・あの像は行方不明になったあとも、一部の研究者がその存在を信じ、探し続けているのです」

 「一部の研究者? 桐生さん、それは一体・・・」

 すると、桐生さんは一度深く息を吐いてから言った。

 「・・・その像の通称は、「稲荷青狸像」。日本で唯一・・・狸を使いとしているとされていた風変わりな稲荷明神の社に置かれていた・・・世にも珍しい狸の姿をした稲荷の遣いの像なのです」

 「狸の姿の稲荷の遣い・・・ですか?」

 俺の言葉に黙ってうなずくと、桐生さんは立ち上がって本棚に近づき、一冊の本を取り出して戻ってきた。

 「ここに・・・その像について記した本があります・・・」

 桐生さんはそう言って、その本をテーブルの上に置いた。味も素っ気もない、古びた茶色い表紙の本だった。どうやら、学術書らしい。

 「昭和30年ごろに書かれた・・・「本邦狐狸伝承考」という民俗学の学術書です。タイトルからもわかるとおり・・・わが国における狐・狸に関する民話や俗信についての研究書なのですが・・・」

 桐生さんはメガネをかけながら本のページをめくった。あらかじめ付箋がつけられており、どうやら前もって読んでおいたらしかった。

 「ご覧下さい・・・。お二人が探しているのは・・・この像なのではないですか・・・?」

 桐生さんはそう言うと、本を俺達に見える向きに回して俺達の目の前に滑らせた。俺と山王丸が思わず、そのページを凝視すると・・・

 「こ、これは・・・!?」

 「!!」

 俺は思わず、声をあげてしまった。山王丸は声こそ出さなかったが、やはり目を丸くしている。
 そこには、一枚の写真が載っていた。小さい写真だったので細部の判別まではできなかったが・・・俺は急いで財布から士農田さんから預かった写真を取り出し、その写真と見比べた。

 「ま、間違いありません。この本の写真は白黒ですけど、色なんか見なくたって一目瞭然ですよ。耳がなくて、ダルマみたいで、団子みたいな手をしてる・・・。こんな像、他に二つとあるわけがない」

 そう、そこに写っていたのは士農田の写真と全く同じ、耳のない狸の像だったのである。

 「・・・手前の売った狸の像も、これに間違いありません。こんな像が他にあるという話も聞いたことはありませんし・・・」

 山王丸もその写真を見つめながら、しっかりとそう言った。

 「そうですか・・・。お二人のおっしゃるとおり・・・こんな奇妙な姿の像は、この世に二つと存在しないでしょうから・・・お二人の見たものはやはり・・・この像だったと考えていいようですね・・・」

 桐生さんは優美な曲線を描いている顎に手をやりながら、静かにそう言った。

 「亜矢さん・・・この像は一体、なんなのですか? 先ほど、狸を遣いとしていた稲荷神社の像だと言っていましたが・・・」

 山王丸がそう尋ねると、桐生さんはうなずいた。

 「この写真を見てください・・・。小さな社のようなものの中に・・・安置されているでしょう?」

 桐生さんの言うとおり、その写真の像は他の神社でよく見かけるように、注連縄のかけられた小さな社のようなものの中に入れられていた。

 「この像はもともと・・・このように神社に祀られていたものなのです。東京は練馬の、とある小さな村にあった稲荷神社で・・・一般にはほとんど知られてはいませんでしたが・・・民俗学者の間では当時、「狸を遣いとする稲荷神社」として、なかなか有名だったようです・・・。私の知る限りでは・・・そんな稲荷神社は他にはありませんから・・・」

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 俺は口を挟んだ。

 「士農田さんから聞いた話ですが、四国には狸を祀っている有名な神社があるとか・・・。それとはまた、違うんですか?」

 しかし、桐生さんは口を挟まれたことを気にする様子もなく微笑んで答えた。

 「ええ・・・おっしゃるとおり、四国には狸を祀った神社がいくつもありますね。一番有名なのは・・・「阿波の金長狸」を祀った、徳島の小松島港近くにある「金長大明神」でしょう」

 「金長大明神?」

 「天保年間といいますから、江戸時代も末・・・1830年から1844年の間のことでしょうね。阿波で染物業を営んでいた大和屋茂右衛門という商人の屋敷の裏に・・・狸が住み着いたのです。奉公人達は殺してしまおうと騒いだそうですが・・・茂右衛門は、「狸は恩義を知る生き物だから、大事に養えばきっと一家を繁盛させてくれる」と言ってそれを制して、毎日巣穴の前に握り飯や油揚げを供えたんですよ」

 「狸にねぇ。それで?」

 「茂右衛門の言ったとおり・・・それ以来大和屋はさらに繁盛するようになり、忙しくなってきました。そんなある日のこと・・・萬吉という名の店の職人が茂右衛門の前にやってきて、こんなことを言い始めたのです。自分はあなたにお世話になっている狸で、名を金長という今年で206になる古狸である。先の洪水で家を壊されここに避難してきたが、ご主人のご厚情で眷属一同安全に暮らすことができ感謝している。その恩義に報いたく、商売繁盛に努めているので、今後もよろしくお願いしたい、と。狸が萬吉の口を借りて・・・お礼を言いに来たのですよ」

 「恩返しをしたうえにお礼まで言いにきたんですか。律儀な狸ですね」

 桐生さんはそうですねと言って微笑むと、先を続けた。

 「それからますます大和屋は繁盛したのですが・・・それからしばらくして修行に出かけた金長は、1年ほどで帰って来ました。そして、茂右衛門にとある狸と決戦をしなければならないと言ったのです。その狸というのが、四国の総大将と自称していた六衛門狸という狸で、これは金長の師匠にあたる狸だったのですが・・・人をだまして物を奪ったりする性悪狸でしてね。金長はこの狸との関係の齟齬から戦争をすることになってしまったのです。そして決戦の日はやってきて・・・金長と六右衛門はそれぞれの配下を引きつれ、鎮守の森で激突したのです。この戦いは、大勢の者が激しく争う声だけが聞こえる不思議なもので・・・俗に「阿波の狸合戦」と呼ばれている出来事です」

 俺はそんな話は聞いたことがなかったが、実力者の狸同士がやくざの抗争のように激突したというのは、なんだか妙に人間臭かった。

 「翌朝になってみると・・・そこには無数の狸の死骸が累々と重なっていたそうです。そしてその中に・・・ひときわ大きな狸の死体が・・・」

 「そ、それはどちらだったのですか? 六右衛門ですか、それとも・・・」

 山王丸が身を乗り出して尋ねる。完全に桐生さんのペースにはまっているようだ。

 「死体は・・・六右衛門でした」

 桐生さんは簡潔にそう答えた。

 「死闘を制したのは・・・金長だったのです。しかし自身も深手を負い・・・それがもとですぐに亡くなってしまったのです。金長はそうなることを決戦の前に覚悟していたようで・・・茂右衛門に自分が死んだときはよく弔ってほしいという遺言を遺していたのです。忠義を尽くしてくれた金長の死を大いに悼んだ茂右衛門はその遺言に従い・・・「金長大明神」として大切に祀り、供物を絶やさなかったそうです。金長大明神を祀った金長神社は今でも小松島にありますし・・・毎年5月5日には大祭が行われています。私も詣でたことがありますが・・・たしかに狸の像が奉じられていましたね。戦前には「阿波の狸合戦」を映画化した倒産寸前の映画会社が・・・その作品のヒットによって経営を建て直したという話もありますから・・・強運と招福の神とされているだけのご利益は・・・たしかにあると思いますよ。ご主人も一度・・・お参りされてはいかがですか?」

 山王丸は機会があればぜひと、すっかりその気になったような表情でうなずいた。

 「四国は狸の本場と言っても過言ではないほど・・・とにかく狸についての民話や伝承が多いのです。名のある狸というのも・・・金長だけではありません。例えば・・・香川県には「屋島の禿」という通称の古狸が住んでいました。本名は太三郎といったそうですが・・・これが屋島寺本尊の御用狸として善行を積んだため、四国の狸の総大将と崇められるようになり・・・衰山大明神という大層な法名までいただいたそうです。源平の屋島の合戦の際には高い木の上からその様子を見物し・・・人に憑いては義経の八艘飛びや那須与一の弓流しの様子を面白おかしく語ったといいますから・・・きっと気のいい狸だったのでしょう。愛媛には隠神刑部という名の有名な狸がいました。四国八百八狸と呼ばれる多数の眷属を従えた大物で・・・松平城主から位を賜って家中から信仰され、土地の人たちとも縁が深かったそうです。しかし松平家のお家騒動に巻き込まれた際に・・・悪玉に味方してしまったことが原因で、その後は勢力が衰えてしまったようです」

 出世したり逆に没落したり、話を聞いているとまるで人間のことのようだ。

 「四国には他にもたくさんの狸についての話がありますが・・・有名なのはそういったところですね。もちろん、有名な狸の話は他にも日本全国にあります。佐渡島には金長と同じぐらい有名な団三郎という親分狸の話があって・・・この狸も二ツ岩神社という神社の神として祀られ、毎月12日に縁日が行われています。四国とは瀬戸内を挟んだ岡山県の御津郡にも、火雷神社、久保田神社という二つの神社があり・・・どちらにも「魔法様」という名の狸が祀られています。この狸は日本の狸ではなく、戦国時代に日本にやってきた伴天連にくっついてきたという変り種でして・・・観光旅行のようにあちこちを遊び歩いた末に御津郡へとたどり着き、地元の人と仲良くなったそうです。やがてこの狸は村人への恩返しとして、牛馬を守り火難盗難を予告して村人を助けると宣言し・・・村人達も、これを大切に祀ったそうです。さらに・・・鎌倉の建長寺には寺の修復のために僧に化けて勧進をして回ったという、絹狸という名の狸の話が・・・」

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 俺は慌ててさらに語ろうとする彼女の言葉をさえぎった。放っておけばその手の位の高い狸の話を延々と聞かされそうである。

 「四国を中心に、狸を神様として祀っている神社がたくさんあることはよくわかりました。だったら、あの狸の像がそんなふうに祀られているのも不思議ではないのかもしれませんけど・・・他の神社とその神社とは、どこがどう違うんですか?」

 「大きく違いますよ。金長や団三郎、魔法様などは、狸そのものが神として祀られています。日本の神は八百万とも呼ばれることからもわかるように・・・木であろうと石であろうと、そこに神性さえ見出されれば、神として祀られる資格はどんなものにもあるのです。狸を祀った神社も、そのバリエーションの一つであり・・・そんな神社が多いことは、それだけ狸が古くから日本人にとって特に身近な動物であったということの表れでもあったでしょう。しかし・・・」

 そう言って、桐生さんは本の狸の像の写真に目を落とした。

 「・・・この狸の場合、狸そのものが祀られているわけではありません。これを祀っていた神社は、あくまで稲荷神社であり・・・信仰の主体は、あくまで稲荷明神。狸はその遣いに過ぎないのです」

 「稲荷神社というのは、普通狐を遣いにしていますよね。だからこそ、狸を遣いにしていたその神社は珍しかったのですか?」

 山王丸がそう尋ねると、桐生さんはそうですと言ってうなずいた。

 「油揚げでご飯を巻いて作ったお寿司のことをお稲荷さんと呼んだり・・・会社のビルの屋上に小さな祠があったりすることからもわかるとおり・・・稲荷信仰というのは、日本人にとってもっとも身近な信仰の一つであるといえるでしょう。実際、日本の神社の3分の1は、稲荷神社に属する神社とも言われています。しかし・・・赤い鳥居と狐という特徴が有名である割には・・・稲荷大明神というのがどんな神なのか、なぜ狐と関係が深いのかといったことは、一般の人にはほとんど知られていない」

 なるほど、たしかにそうかもしれない。

 「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)・・・すなわち、稲荷神を祀る稲荷信仰というのは特に東日本で盛んなのですが・・・その起源は私の地元である京都の渡来系の地方豪族、秦氏一族が奈良時代に稲荷山に祀った農耕神・・・つまり、稲の神であるといわれています。稲荷山には現在、神道系の稲荷信仰の総本山である伏見稲荷大明神があるのですが・・・まぁそれは置いておいて、その後平安時代・・・仏教と結びついたことが稲荷信仰の全国への拡大のきっかけとなりました。そこで大きな役割を果たしたのが弘法大師・・・すなわち、空海なのですが・・・彼は稲荷神を稲荷山の山頂から麓へと遷して、東寺の鎮守としました。空海といえば真言密教の開祖としても有名ですが・・・その真言密教の広まりとともに、稲荷信仰も全国へと広がっていったのです。この際に稲荷信仰とは神道系と仏教系とに分かれ・・・伏見稲荷は神道系の総本山です。そして仏教系の総本山は・・・これも有名な、豊川稲荷です。また・・・稲荷信仰が仏教やキリスト教などのあの世での幸福を目指す宗教とは異なり・・・現世利益信仰であったことが、中世から近世にかけてのわが国での商工業の発展という時代背景にマッチしたことも・・・稲荷信仰の普及の大きな要因ですね・・・」

 「はぁ、お稲荷さんも奥が深いんですね・・・。しかし、狐と稲荷神が縁が深いのはどうして?」

 「そもそも農耕神・・・稲の神を祀ることは、秦氏に限らず全国各地に一般的にみられる土着の信仰だったのです。真言密教系の稲荷信仰が各地に広まる際に,各地の固有の稲の神と稲荷神とが結びつきました。土着の稲の神信仰では狐を神の使者、あるいは稲の神そのものと考えることが多かったため・・・稲荷神と狐が結びつけられ、狐を稲荷神そのものと考えるようにまでなったのです。加えて真言密教は・・・荼枳尼天(だきにてん)と稲荷神とを同一としました」

 「荼枳尼天?」

 「インドのダキニという女神を密教の天女として迎え入れたものです。もとは破壊の女神カーリーの従者で人肉を喰う恐ろしい魔神だったのですが、釈迦の説法を受けて改心したそうです。真言密教はこれと稲荷神とを同一のものとしたのですが・・・荼枳尼天は、白い狐にまたがり、剣と宝珠をもった天女の姿で描かれるのです」

 「ははぁ、それで狐が・・・」

 「実際、稲荷系の神社の中には狐を使役する呪法を使うものも存在します。飯綱権現というのがそれにあたるのですが・・・」

 桐生さんはそう言うと「実物をお見せしましょう」と言って、服の胸元に手を差し入れた。そして、それを引き抜くと、そこには青い竹筒が握られていた。

 「先ほどから狸やお稲荷さんの話をしているものですから・・・この子も少し騒いでいるようですね・・・」

 微笑を浮かべながら桐生さんは、その竹筒の蓋を外した。すると・・・

 「コンッ!!」

 「わっ!!」

 突然鳴き声をあげ、何か白いものがその中から飛び出してきたために、俺は大きな声を出してしまった。

 「大丈夫・・・。この子は私の言いつけをちゃんと守りますから・・・」

 そう言いながら桐生さんは、肩にとまったそれを優しくなでていた。
 それは・・・小さな狐だった。ただ、大きさはイタチほどと普通の狐より小さく、尻尾の先端が二股に分かれていた。奇妙な白い狐は桐生さんになでられながら、目を細めて気持ちよさそうな表情を浮かべていた。

 「この子の名前は、管狐・・・。尾の先が二つに裂けていることから・・・「オサキギツネ」とも呼ばれることがあります。飯綱権現では・・・この管狐を従者として使役するのです。この子も私が・・・そこに仕える神官の方から譲り受けたものです」

 「と、ということは・・・普通の狐じゃ、ない?」

 「とても役に立ってくれていますよ。人の姿に化けたり、人に憑かせたりもできますが・・・」

 この人はどうしてそんなとんでもないことを無表情で語れるのだろうか。やはりこの人は怖いと、俺は思った。

 「・・・三輪山の神と蛇、日枝神と猿、八幡神と鳩、春日神と鹿、そして、熊野神と烏・・・。神と縁の深い動物・・・神獣というのはたくさん存在しますが・・・稲荷信仰と縁の深い動物といえば、それはやはり狐なのです。特に稲荷の狐は、そういった神獣の中でも別格です。たとえば・・・伏見稲荷では狐の神霊は命婦神と呼ばれ・・・それ自身が神としての扱いを受けています。狐は時には非常に多忙な稲荷神に代わり・・・ご利益を授ける役割まで仰せつかっているのです。それだけ・・・稲荷神と狐との関わりは深いもの・・・。ですから・・・狐ではなく狸を遣いとする稲荷神社というのは、本当に珍しい。本当は稲荷神社ではなく別の神を祀った神社ではないかと・・・疑われたこともあるほどです」

 「なるほど・・・。ところで、その神社はどんな神社なのですか?」

 先ほども言ったとおり、小さな村の小さな神社ですよと桐生さんは言った。

 「日本ならどこにでもあるような・・・小さな村でした」

 「小さな村だった・・・過去形と言うことは、もしかして・・・」

 「ええ・・・。現在そこは、練馬区のとある町です。残念ながらその神社も・・・高度経済成長期の土地区画整理事業の際に・・・取り壊されてしまったそうです」

 桐生さんはそう言った上で、話を続けた。

 「それはたしかに残念なことですが・・・とりあえずそれは置いておいて、その村の稲荷神社になぜ、狐ではなく狸の姿の遣いの像が置かれるようになったか・・・それこそが重要でしょうね」

 「ええ・・・そうですね。なぜなのです?」

 「詳しいことは、この本に書いてあることなのですが・・・その神社のあった村は近隣でも特に貧しい村で・・・いわゆる庄屋や富農といった裕福な家はなく、どの家も貧しい生活を送っていたようです。したがって・・・この像に関する由来を記すような教養のあった人はなく、その由来については全て口伝で伝えられたとされています。長い年月の間に変質した可能性があり、オリジナルとは全く違ったものになっている可能性があると断った上で・・・作者は村の古老から聞いたという、この像についての由来を語っています・・・。由来といっても、昔話や民話の類と言ってもよいものなのですが・・・」

 桐生さんは「本邦狐狸伝承考」を見つめた。

 「その村は先ほども言ったように貧しい村で・・・村人達は痩せた土地にしがみついて生きるような生活を強いられていたようです。ある年・・・日照りの影響があって、水不足から稲が育たないという災いに村が襲われました。さらに悪いことに・・・村人の一人が熱病にかかって倒れてしまったのです。医者のいるところまでは山道を遠くまで歩かねばならず・・・村人達は、途方に暮れたそうです。ところがそんなとき・・・村に突然現れたのが・・・」

 「青い狸・・・だったのですか?」

 山王丸がそう言うと、桐生さんはうなずいた。

 「その狸は・・・次々と不思議な術を使ったそうです。最初にやったことというのが・・・小さな太陽を作って暗かった家の中を明るくした、というのですから面白いですね。次に狸は術を使って村人の病気を治し・・・不思議な食べ物を与えたそうです。さらに狸は雨雲を呼んで大雨を降らせたり・・・地面に突き刺せばどこからでも水の出る不思議な管や、モグラのように地面を自在に掘れる手袋といったものを・・・次々とお腹にある袋から取り出して、村の問題を解決していったそうです」

 「腹の袋・・・? ああ、これは袋なんですか」

 俺は像の写真を見ながらそう言った。像の腹には、奇妙な半円型のものがついていた。一体これはなんなのかと思っていたが、どうやらこれはその袋を表したものらしい。

 「もちろん村人は、その狸に感謝しました・・・。しかし・・・どうやらその村一体には、四国ほど狸が人助けをするという考え方や伝承はなかったようですね・・・。村人にとってそんなことをしてくれる者として考えられるのは・・・村にある稲荷神社しかなかった。ですから村人は・・・その狸を、稲荷神社が何かの事情で狐の代わりに遣わした遣いであると・・・そう考えたのです。これが四国や佐渡ならば・・・その狸も何がしかの名前を与えられて、神様として祀られたのでしょうけれど・・・。面白いのは・・・その村人の態度に狸は怒ったということです。もしかしたら彼は・・・稲荷の遣いでもなければ、狸でさえなかったのかもしれません。正体は不明ですが・・・とにかくその狸は、袋から出した道具だけを残して、どこへともなく姿を消してしまったそうです。しかし、村人達は村のためにいろいろとしてくれたその狸に対する感謝の心を忘れず・・・稲荷神社にその狸の姿をかたどった像を奉納して・・・祀るようになったそうです。つまり・・・」

 「その像が・・・これというわけですか」

 俺と山王丸は、写真の狸を穴が開くほど見つめた。

 「明治維新後・・・この国ではいわゆる廃仏毀釈と呼ばれた寺社仏閣の破壊が行われましたが・・・さすがにそれも、こんな小さな稲荷神社には及ばず、その後も無事に存続し続けました。やがて、廃仏毀釈のような活動を生んだ極端な西欧思想化の風潮も収まり・・・本邦の文化を改めて見直す動きが生まれてくると・・・この像を祀っていることから「狸稲荷」とも呼ばれるようになっていたこの神社は・・・戦前から戦後にかけて、ごく少数ではありますが、民俗学者たちの関心を集めるようになりました。この本が書かれたのもその時期なのですが・・・1960年代に入り、この神社のあった地域では区画整理が相次ぎ・・・この村もその計画の範囲内に入ってしまったかと思うと・・・あっというまに、取り壊されてしまったそうです・・・」

 「では、神社は・・・」

 「ええ・・・いまや、影も形もありません。しかしこうして、像がまだ存在していたということは・・・」

 桐生さんは写真を見つめた。

 「きっと・・・どさくさまぎれに像を持ち出した人がいたのでしょう・・・。学会では取り壊しと同時に行方不明になったとされているので、驚きましたが・・・」

 「なるほど。すると・・・その持ち出した奴がどこかへ売り払ったものが、流れ流れて士農田さんのお父さんのところにたどり着いたわけですね。そこでしばらくは落ち着いてたものの、士農田さんのお父さんがそれを預けた神社が地震で倒れたところを火事場泥棒が盗んで、また紆余曲折を経た末に、珍品堂さんのところへ・・・というところでしょうかね?」

 俺がそこまで聞いて導き出した推理を披瀝すると、桐生さんはうなずいた。

 「おそらく・・・それで正しいのではないでしょうか」

 「なんとも大きな話ではありますが・・・手前もそうとしか思えませんな。いやはや、ここへ来たときには、まさかここまで話が大きくなるとは・・・本当に、縁というのは異なものです」

 山王丸も大きくうなずきながらそう言った。妙に味のある仕草である。

 「さすがは狸・・・それも、世にも珍しい稲荷の遣いの青狸の像です。こうも長きに渡って人を化かし続けているとは・・・やはり、只者ではないということでしょうか・・・」

 桐生さんはそう言って微笑んだ。なぜかとても上機嫌なように、俺には思えた。



 ブォォォォォォ・・・

 俺の中古エアカーがやってきたときには、すでに山王丸は「珍品堂」の前で待っていてくれた。俺が車の中から会釈をすると、山王丸は車の横へと回ってきて、助手席に乗り込んできた。

 「どうも、萩野さん。先日はありがとうございます。本日は、よろしくお願いします」

 「いえ、こちらこそ。本当なら関係のないはずの珍品堂さんまで巻き込んでしまって、恐縮です」

 「お気になさらず。無理を聞いていただいたのは、こちらのほうなのですから」

 そう言う山王丸にもう一度頭を下げてから、俺は珍品堂に目をやった。

 「もしかして、お店の方は・・・」

 「ええ、まぁ・・・。うちの開店・休業というのは主人がいるかいないかということだけと、創業以来の基準となっていますので。店は帰ってきてから開ければよいのです。そんなものでもなんとかなっているのですから、世の中不思議ですな。ともかく、今日はお付き合いさせていただきますので、よろしくお願いします」

 「ええ、こちらこそ」

 2日前、偶然にも同じ像を追っていた俺と山王丸は、その日桐生さんによってその正体を知ることができた。俺も彼もそれを知ることが目的だったのだから、それで目的は達せられたと考えてもよかっただろう。
 しかし・・・それでも、俺の中のあの像に対する興味はまだ衰えることはなかった。理由は言うまでもなく、あの像に隠されたもう一つの秘密・・・士農田のお父さんが遺したという遺産の秘密である。桐生さんの話を聞いたあとすぐに、俺は士農田に電話をして事の次第を報告した。彼はとても驚いていたようだったが、なんとか出すことのできた調査結果に満足してくれたようだった。俺はそれを聞いて、さらなる調査の続行、つまり、遺産の謎を解き明かすところまでやらせてはもらえないだろうかと、彼に依頼した。もちろん、遺産が見つかったとしても、それは全て本来の相続人である士農田が相続するだけであって自分には一文も転がってこないことを承知のうえである。幸い士農田も、いまさら遺産などには未練も執着もないが、そこまでしてくれると言うのならとそれを快諾してくれたので、俺はさらにあの像の足取りを追うことにしたのである。
 そのためにはどうしても、最後にあの像を売った山王丸の協力が必要だった。俺が山王丸に電話をすると、彼もまた像については気になっていたようで、協力を約束してくれた。しかし彼の話によると、ご隠居はあの像を売った次の日から、広島に旅行に出かけてしまっているという。戻ってくるのは今日ということだったので、俺達二人は直接彼に話を聞くために、珍品堂のある三軒茶屋からは電車で二駅離れた町にあるご隠居の家へと向かうことになったのだった。

 「ところで萩野さん。ついさっき、ご隠居が旅行から戻ってきているかどうかの確認も兼ねて、ご隠居の家に電話をかけてみたのですが・・・」

 車を出してからすぐに、山王丸はそう言った。

 「ええ、どうでした?」

 「はい。ご隠居はたしかに帰ってきていました。もちろん、像は今どうなっているかも尋ねましたが・・・」

 山王丸はそう言って、顔を曇らせた。

 「・・・ご隠居の手元には、もうないそうです」

 「ない? というと、もしかして・・・」

 俺には大体、その理由の見当がついた。

 「ええ・・・。このあいだお話した、ご隠居の後にあの像を買いに来た方・・・。あの方があのあとすぐ、ご隠居のところにやってきたそうです。あの方はご隠居にも、あの像を売ってくれるように熱心に頼み込んだそうです」

 「それじゃあ・・・」

 「はい。ご隠居も、あの像をもっと必要としている人がいるなら、道楽で買った自分などよりもその方が持っていたほうが、像にとっても幸せだと・・・そう思って売ってしまったそうです。その方も、買値よりもずっと高い金額を出してくれたそうですが・・・」

 「そうですか・・・」

 俺はそうつぶやいたが、この展開はある程度予測していたので、そう落胆はしなかった。俺達以外にも像を探している人間がいることは山王丸の話でわかっていたことだ。問題なのは、彼らがどんな目的でその像を探しているかということだが・・・。

 「一足遅かったようですね。でも・・・とにかく、そのご隠居さんに話を聞かせてもらいましょう」

 「そうですね」

 俺は山王丸の案内で、そのご隠居さんの住んでいる家へと車を飛ばした。



 「しかしまぁ、世の中には物好きな奴がいるもんだな」

 ご隠居は座敷に通された俺達の顔を交互に見ながら笑った。

 「あんな狸を欲しがる奴がこうも何人も現れるなんざ、よほど世の中にはくだらない物好きが多いと見える」

 「そもそも最初にあれを買われたのはご隠居ですよ。自分を棚に上げてそんなことを言うのはいかがかと存じますが・・・」

 山王丸が顔を曇らせてそう言った。丁寧な口調の割りに、言うことは手厳しい。

 「まぁ、たしかにそうだがな。だが、俺の場合は単なる道楽よ。お前さん達やこのあいだ来たあの男みたいに、目の色変えてあの狸を探してたわけじゃねぇ」

 「そう、それですよ!」

 俺はそう言った。

 「ご隠居さんからあの像を買っていったという男・・・それは、どんな男でしたか?」

 「どんな男って言ってもなぁ・・・。6代目からも聞いてると思うけど、白髪混じりのぼさぼさ頭の、見てくれはあんまり風采のあがらない男だったぜ」

 ご隠居は山王丸を見ながらそう言った。

 「いえ、外見がどんなかはたしかに珍品堂さんから聞いてます。知りたいのは名前とか、仕事とか、なぜあの像を欲しがってたのかとか・・・そういうことは、お聞きになりませんでしたか?」

 「聞いたよ。あんな像のために血相変えてこんなところに来たんだからな。そりゃあ気になったよ」

 ご隠居は手に持った年代物の煙管に一度口をつけた。

 「名前は・・・小野とかいってたな。学者さんらしい。なんでも、全国の珍しい仏像とか神様の像だとかを集めて研究してるとかで、あの像はずいぶん長い間探し回ってたものだって言ってたぜ。どこかの村の稲荷神社にあった狸の像だとか言ってたが、妙な話だな。お稲荷さんと言ったら、狸じゃなく狐だろうに」

 (あの像の正体を知っていたのか・・・)

 俺と山王丸は、無言で目を合わせた。

 「像が欲しかったのは、純粋に学術目的だと・・・?」

 「そういうことになるだろうな。嘘言ってるようには見えなかったぜ。ありゃあ本当に、学者さんだよ。それ以外に他意があったとは思えんがな。まぁいくら珍しくても、あんな像じゃ売りさばいたところで大した金にはならないだろうよ。ずいぶんたくさん払ってくれて、こっちが恐縮しちまったぐらいだ」

 (ということは・・・遺産のことまでは知らなかったのか・・・)

 俺と山王丸は考え込んだ。

 「なぁ、あの狸はいったい何なんだ? そんなに必死になってるってことは、お前さんたちもなにか知ってるんだろう? どうにも解せないんだよなぁ。大の大人があんな不細工な像を追い回してるってのが。お前さんたちもあの学者さんも・・・それに、俺の留守中に来た男も」

 「留守中に来た男?」

 「おう。お前さんからあの狸を買って、それをまたあの学者さんに売った二日後だから・・・おとといだな。俺は広島に行ってたわけだが、俺の留守中に変な男が訪ねてきたって、息子の嫁が言うんだよ」

 「変な男? どんな男ですか?」

 「嫁の話じゃ、あんまり関わりたくない筋の人間みたいな感じだったそうだ。身なりはわりとよかったが、なんだか品がなくて人相の悪い顔をしてたらしい。そんな奴が俺の留守中にやってきて、やっぱり狸の像を買いたいってぬかしやがったらしい。一人だけじゃなく二人もそんな奴が次々に現れて、そこへ今度はお前さんたちだ。気になるのもわかるってもんだろう?」

 「珍品堂さん、もしかして、その男っていうのは・・・」

 「ええ・・・。たぶん、あの次の日にうちへ来た方ですよ」

 「なんだ? そいつも店に来てたのか? まさか、そいつにもうちの場所を教えたわけじゃないだろうな? 困るぜ」

 ご隠居は山王丸を軽くにらんだ。

 「め、滅相もございません! たしかにその小野さんという方には紹介はしましたが、その人相の悪い方には何も教えてはいませんよ。私もこれでも、客商売ですからね。上得意のご隠居に、そんな迷惑をかけるようなことはしませんよ」

 「まぁ・・・それは信じるよ。それにしたって、あれがただの木の像じゃないってのは確かだろ?」

 「ええ、まぁ・・・」

 俺は言葉を濁し、さらに質問をすることにした。

 「もう一つ伺いたいのですが・・・その小野さんという方がどこに住んでいるか、そういったことはお訊きになりませんでしたか?」

 「いいや。たしかに変わっちゃいたが、別段怪しい奴ってわけでもなかったし、代金だってずいぶんくれたからな。それ以上は何も訊かずに、像を渡してあとはそれっきりだ」

 俺と山王丸は互いに顔を見合わせ、やや落胆の色を浮かべた。



 「結局、わかったのは名前だけ・・・ということでしょうか」

 「そういうことになりますね」

 ご隠居の家からの帰り道。助手席の山王丸がそう言ったので、俺はそう答えた。

 「でも、手がかりにはなると思いますよ。名前を頼りに、引き続き居場所を探してみますよ」

 「そうですね。それと・・・やはり亜矢さんにも、協力をお願いしたほうがいいでしょうか?」

 俺は少し考えたが、やがてうなずいた。

 「そう・・・ですね。なんだかお世話になってばかりですけど、ご隠居さんが聞いた通り、仏像とかの研究者なら桐生さんが知っている可能性も高いでしょうし・・・」

 「それでは、亜矢さんの方には私からお願いしておきましょう」

 「よろしくお願いします」

 俺と山王丸はそのままあの像についておしゃべりをしていたが、やがて山王丸が言った。

 「ところで、ここまで首を突っ込んでしまってから言うのも変だとは思うのですが・・・」

 「なんでしょう?」

 「ええ。狸の像がそのありかを握っているという、士農田さんのお父さんの遺産とは、いったいどんなものなのでしょうね?」

 山王丸はもっともな疑問を口にした。むしろ、これまで口に出さなかったのが不思議なほどである。遠慮深そうな性格なので、まだ見つかってもいないお宝について語るのはなんとなくはばかられていたのかもしれない。

 「ええ。もちろんそれは、俺も気になってました。桐生さんのところに行くまで像の正体についての情報はわかりませんでしたが、そっちの方の情報については、いくつか集められました」

 「と、申しますと?」

 「士農田さんは美術商界の大物ですからね。その士農田さんが、血眼になっているわけではないにせよ、探し出したいと思っている像です。さらにそれには、彼のお父さんが遺したという遺産のありかまで隠されているという。ここまでくれば、その像を探し出して士農田さんに恩を売ったり、あるいは遺産そのものを見つけようと考える人間が出てきて、当然じゃないですか?」

 「ええ。儲け話があれば人が動く。当然のことでしょうね」

 「そうなんですよ。で、あの像についていろいろ調べているうちに、やっぱり同じようにあの像を探してる男に出会ったんです。その男の場合、目当ては士農田さんに恩を売ることではなく、遺産の方でしたけど。で、その男はその遺産というのがなんなのか、かなり信憑性の高い情報を持っているというんです」

 「信憑性の高い情報?」

 「といっても、そいつだけが言ってることかもしれませんけどね。でも、一応知っておく価値はあると思って、聞き出してみたんです。長い間芽が出なかった分、そういうのを聞き出すことに関しては、けっこう自信がありますからね。実際しかけてみたら、もともと口の軽い性格だったらしくて、もったいぶってた割には案外すんなりと聞き出せたんです。それによるとですね。遺産の正体というのには、士農田さんのお父さんの仕事が深く関わっているというんです」

 「仕事・・・というと、たしか、科学者だか技術者だかとおっしゃってましたね? そういえば、具体的にはどんな仕事をしていたのですか?」

 「ええ。そっちのほうについては、実際に調べて裏づけもとりました。士農田さんのお父さん、孝之さんというのは、材質工学の研究者だったんですよ」

 俺はそう言った。

 「材質工学というと・・・詳しくは存じませんが、新素材などを開発する・・・」

 「新素材だけには限りませんけど、平たく言えばそんなところですね。実際、孝之さんはかなり優秀な研究者だったようで、現在も宇宙船などに使われている合金をいくつも開発しています。その特許のおかげでかなりの財を築いたそうですが、お話した通り、その財産のほとんどは彼の死後あちこちに寄付され、特許も手放されてしまったわけです」

 「なるほど・・・。狸が在り処を知っているという遺産も、もとはその遺産のうちということなのでしょうか?」

 「たしかにそうなのですが、どうもそれは他の遺産とは違って、彼が稼いだりしたものではないようです。どうやら、「見つけたもの」らしいんですよ」

 「見つけたもの?」

 俺はうなずいた。

 「孝之さんは亡くなる9年前・・・今から数えると、60年前ということになりますが、ある調査のために北海道へと出かけたらしいんです。その調査というのが・・・行き先であるとある村に、明治時代に隕石が落下したという噂を聞いて、その隕石を見つけることが目的だったのです」

 「隕石・・・ですか」

 「孝之さんという人は隕石についても造詣の深い人だったようで、隕石の調査中に未知の鉱物を発見したことも何度かあったそうです。そういうわけで、どこかに隕石があると聞けば出向いていって掘り起こし、分析するというのを何回もやっていたそうです。ほとんどの場合は、隕石そのものが見つからなかったそうですけど。ところが・・・北海道のその隕石の場合、彼はその隕石を掘り起こすことに成功した。しかも・・・その隕石には、極めて特殊な鉱物が含まれていたらしいと、その男の話では、そういうことらしいのです」

 「特殊な鉱物を含む隕石・・・。しかし、孝之さんはそれを発表されたのですか? そんなものを見つけたら、すぐに発表するのが普通だと思うのですが・・・」

 「ええ。しかし奇妙なことに、孝之さんはそれを発表しなかった。発見したものの、特別な事情があって発表できなかったらしいと、そいつは言っていました」

 「特別な事情というと、例えば?」

 「特殊な鉱物だからといって、未知の物質とは限りませんからね。たとえば・・・極めて純度の高いウラニウムであるとか・・・」

 「放射性物質の塊ですか・・・。たしかにそれは危ないですけれど、それはそれで発表しなければまずいでしょう」

 「ええ、俺もそう思います。実際その男も、それが何なのかについてはわからなかったようです。しかし、孝之さんがその財産の悉くを処分してしまった以上、それでも息子に残すようなものがあるとすれば、考えられるのはその隕石しかないと・・・その男はそうにらんで、あの像を探しているんです」

 山王丸は俺の言葉に少し考え込んでいたようだが、やがて言った。

 「もし、遺産の正体がその隕石だとしたら・・・それは、やはり大変な値打ちのあるものなのでしょうか?」

 「金になるかどうかは、それこそ獲らぬ狸の皮算用ってやつですけどね。ただ、遺産の正体が隕石という説は、あれを探している連中の間でもどうも有力なもののようです。根拠の全くない話にも飛びつくほどバカな連中とも思えませんから、あながち切って捨てるようなものでもないかもしれませんよ」

 「そうなると・・・ご隠居のところにも押しかけたというあの人相の悪い男も、やはりそれを狙って・・・」

 「小野という人は像そのものがただ欲しかっただけでしょうけど、その男の方は、遺産目当てということでたぶん間違いないでしょうね。しかも、あの像には俺達と同じぐらい近い位置にいることになる。これはやはり、競争のようですね。どっちが早く、狸のところへにたどり着けるかの・・・」

 たしかに、バカらしい話かもしれない。しかし俺も山王丸も、そこで止める気などまるでなかった。あるいは・・・化かされていたのかもしれない。



 それから3日後のこと・・・。俺ははやる気持ちを抑えながら、再び「珍品堂」への道を飛ばしていた。「珍品堂」へと続く角を曲がると、細い路地をお構いなしに走り続ける。

 ブシュウウウウウ・・・

 やがて、エアブレーキの音とともに俺の愛車は「珍品堂」の前で急停車した。すると、店の中から山王丸がすぐに出てきた。

 「珍品堂さん、早く!!」

 「ちょ、ちょっと待ってください。お店を閉めないと・・・」

 山王丸はやや慌てた様子で店の扉を閉め、鍵をかけて「休業」と書かれた木の板を下げると、車へと乗り込んできた。

 「出しますよ!!」

 ブォォォォォォ!!

 俺は山王丸がシートベルトをつけるとすぐに、アクセルを踏み込んだ。

 「は、萩野さん落ち着いてください!!」

 隣で山王丸がそう言ったが、俺はやや荒くハンドルを切り、一気に本道へと乗り出した。本道を走り始めたところで、ようやく車は安定した走行に入った。

 「お気持ちはわかりますけど、もっと落ち着いてください。事故を起こしたりしたら元も子もありませんよ」

 「いや、すいません。でもですね・・・」

 山王丸の言うことはもっともである。しかし俺は、はやる気持ちを抑えることができなかった。ようやく、小野という名の研究者の住所を突き止めたのである。

 ご隠居の家で小野の名前を知ってからすぐ、俺はその居場所を突き止めるべく調査を開始した。そしてつい数時間ほど前、俺は民俗学のとある研究団体の研究名簿の中に、小野という男の名前とその顔写真を発見した。急いでその写真を山王丸にメールで送って確認してもらったところ、間違いなく「珍品堂」を訪れたあの小野であることがはっきりしたのである。俺は山王丸からの返信のメールを受け取るやいなや、車に飛び乗って山王丸を拾うべく「珍品堂」へと飛ばしたのである。

 「とても落ち着いてなんかいられませんよ」

 「そこをなんとか・・・。しかし、よく探し当てられましたね」

 「手がかりは仏像や神像の蒐集家というだけでしたからね。その筋を特定できるような資料を片っ端から当たってみたんです。かなりラッキーもありましたけど、探し当てることができてよかった・・・」

 「ええ、本当ですね。実は先ほど、亜矢さんにも見つかったことをご報告したのですが、彼女も驚いていました。ここ何日か忙しく、調査に割く時間がなかったのでお役に立てなくて申し訳なかったとおっしゃっていました」

 「いや・・・元はと言えば、俺が言い出しっぺですから。そうそうお世話になってばかりじゃ、悪いですからね」

 俺はそう言いながら、ちょっと得意げな顔をした。

 「ところで・・・その小野という方は、実際のところどんな方だったのですか?」

 「ご隠居さんの言った通り、簡単に言ってしまえば仏像・神像の蒐集家兼研究者です。ダッシュボードの中に詳しい経歴とかを書いた資料が入ってるんで、それを見てください」

 俺がそう言うと、山王丸はそれを取り出して眺め始めた。

 「・・・なるほど。都内の高級住宅地に、親から相続したマンションを所有しているわけですか。あくせく働く必要のないご身分ということですね」

 「大金持ちと言うわけではありませんが、時間はあるし経済的にも余裕があるから、悠々自適といった暮らしぶりではあるようですね。だからあくせく働かずとも、仏像や神像の研究に没頭できる。そして・・・どうもこの人にとってあの狸の像は、長い間喉から手が出るほどほしかったもののようです」

 「それをようやく手に入れ、今は幸せの絶頂・・・なのでしょうか?」

 「たぶん。しかし、あれがただの像でないことを、小野さんは知らない。俺達はそこに隠された秘密を探ろうとしているわけですが・・・少なくとももう一人、同じ理由で彼に近づこうとしている人間がいる」

 「あの・・・人相の悪い男ですか」

 「そこまで欲しがっていた像を、小野さんが手放すとも思えませんが・・・先手を打つことができますかね」

 俺は少し表情を曇らせながらも、再びアクセルを踏み込んだ。




 やがて俺は、とある閑静な住宅街へと車を乗り入れた。

 「10m先、左です」

 カーナビの音声が、小野の住む家へと続く最後の曲がり角を示す。俺は指示された通りに、次の角でハンドルを左へと切った。

 「小野さんはご自宅にいらっしゃるでしょうか?」

 「ここへ来る前に電話をしてみたんですけど、そのときには留守でしたね。その時には・・・戻ってくるまで張り込むつもりです」

 俺は覚悟を決めながら、車を進め続けた。

 やがて、目的地である家が見え始めた。たしかに普通の家よりは大きいかもしれないが、それほど大金持ちというようには見えない。どこにでもあると言われればあるような気のする、そんな家だった。

 「あれですか?」

 「ええ、あそこです」

 俺はそう言うと、その家のやや手前でブレーキを踏み、壁沿いに停車させた。

 「到着です。珍品堂さん、行きましょう」

 山王丸はうなずくと、すぐに助手席から降りた。俺も運転席から降りて、ドアを閉める。と・・・

 「ん・・・?」

 俺は、小野邸の玄関前に一台の灰色のエアカーが停まっているのに気づいた。と、そのときだった。

 ダダダダダ!!

 突然、小野邸の門の中から一人の男が飛び出してきた。髪を角刈りにし、茶色いスーツを身につけた男である。男はその腕に、何かを抱えていたが・・・

 「あれは・・・!!」

 男の腕の影から、わずかに青い球体のようなものが見えた。と、そのとき

 「あ・・・!!」

 山王丸が声を上げたので、男はこちらへと気づいた。そして、慌てたように表に停めてあった車の運転席のドアへと駆け寄る。

 「萩野さん、あの人です! ご隠居や小野さんの次の日に来た人ですよ!!」

 山王丸がその人相の悪い男の顔を見て叫んだとき、さらに別の声がした。

 「ドロボーッ!!」

 その声は、小野邸の中から聞こえてきた。驚いて見ると、先ほど男の飛び出してきた門の中から、ぼさぼさの髪をした初老の男がよろよろと出てきた。が・・・

 ブルルン!!

 エンジンの音がした。見ると、すでに男は車へと乗り込み、エンジンをスタートさせていた。

 「・・・待てっ!!」

 像の行方を追う人相の悪い男。男の持っていた青いもの。そして、先ほどの声。断片的な情報で状況を推測した俺は、それがしっかりとした考えに頭の中で固まる前に、そう叫んで走り出していた。だが・・・

 ブォォォォォォォォォォッ!!

 「うわっ!?」

 俺の目前で、エアカーは急加速をした。

 「萩野さん!!」

 着物姿に草履履きの山王丸がようやく追いついてくる。

 「大丈夫ですか!?」

 山王丸はそう言って、思わずしゃがみこんでいた俺を助け起こした。

 「だ、大丈夫ですよ。しかし珍品堂さん、今のはもしかして・・・」

 「ええ・・・」

 走り去っていくエアカーの後姿を俺達は呆然と見つめた。と、そのとき・・・

 「う・・・うう・・・」

 「!!」

 うめき声がしたのでそちらへと顔を向けると・・・門柱にすがりつくように、先ほどの初老の男が地面に倒れこんでいた。俺と山王丸はすぐに、その人へと駆け寄った。

 「小野さん!! 大丈夫ですか!?」

 山王丸が手を差し伸べながらそう言うと、男はゆっくりと顔を上げ、山王丸の顔を見て目をしばたかせた。

 「うぅ・・・あ、あなたは・・・骨董屋さん・・・」

 「ええそうです! しっかりなさってください! 何があったのですか!!」

 「ぬ、盗まれました・・・。狸稲荷の像を・・・今の男に・・・」

 やはりそうか。俺はそう思った。

 「何者ですか、あいつは!!」

 「わ、わかりません・・・。ただ、いきなりやってきて像を売ってくれと・・・。何度か押し問答をするうちに、態度が強くなっていって・・・私がどうしても売るつもりがないとわかると、いきなり私の顔を殴りつけて・・・」

 たしかに、小野の顔には何箇所か強く殴られた痕があった。まさかとは思っていたが、ここまでする相手とは・・・。

 「・・・珍品堂さん、すぐに救急車を。この人をよろしく頼みます」

 俺はそう言うと、立ち上がった。

 「は、萩野さん、まさか・・・」

 「あいつを追います。こうなったら像をとられたとかそういうのじゃなく、許しちゃおけませんよ。今ならまだ、追いつけるかもしれない。珍品堂さん、あとをよろしくお願いします!!」

 「萩野さん!!」

 俺は山王丸の返事も聞かず、自分の車へと向かって走り出した。



 「見つけた・・・!!」

 俺があの男の車を見つけたのは走り出してから少しあと、国道への合流車線でのことだった。どうやら男はこの交差点での右折待ちに捕まったらしく、そこで俺はその姿を捉えることができた。幸いなことに、俺の方はその交差点へ着くと共に車が流れ始めた。

 「逃がすもんか・・・!!」

 俺はぐっとハンドルを握り締めた。そして・・・

 ブォォォォォォォォ!!

 思い切りアクセルを吹かし始めた。かくして、俺は男の車を追い始めた。男の車の方は俺が追っていることにはまだ気づいていないらしいが、早く像を安全なところにでも持ち帰りたいのか、やはりかなりのスピードを出している。俺は国道を走る他の車をすり抜けながら、そのあとを追い続けた。カーチェイスというほどではないが、それに近いものはある。

 「どこまで行く気か知らないが、最後まで追いかけてやる!!」

 俺がそう言って、さらにアクセルを踏む力を強めようとしたそのときである。

 WOWWOWOWOWOWOW!!

 「!?」

 突如背後から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。それとほぼ同時に

 「そこの車、停車しなさい!! スピード違反です!!」

 拡声器越しのそんな声が聞こえてきた。こんなときに。俺は舌打ちをして、バックミラーを見たが・・・

 「!?」

 そこに写っていたものを見て、驚いた。けたたましいサイレンを鳴らし、うしろから猛スピードで追走してくるのは・・・俺もよく見慣れた、ブリティッシュグリーンのエアカーだったのだ。

 「こちらは東京都SMS第1小隊です!! 走行中の青いエアカーに警告します! ただちにスピードを落とし、路肩へと停車しなさい!!」

 しかも、警告の声の主は俺もよく知った人である。とても逆らえるものではない。俺はやむなくブレーキを踏み、ハンドルをゆっくりと左へと切っていった。やがて・・・俺が路肩へと車を寄せると、ブリティッシュグリーンのエアカーはそのすぐ後ろへと停まった。

 「・・・」

 俺が車を停めたままシートに座っていると、案の定、エアカーからよく見知った二人の女性が降りてきて、こちらへと近づいてきた。そして・・・

 「制限速度40kmオーバーです。免許証を・・・あら?」

 青いストレートロングの髪を垂らしたその女性は、運転席から俺の顔を覗き込んでそう言ったまま驚きの表情を浮かべた。

 「どうも・・・。申し訳ありませんでした」

 俺は開け放した窓から謝ると、自分も車から降りた。

 「萩野さん・・・一体何をしているんですか? こんな交通量の多い道路で、あんな運転をするなんて・・・困ります」

 青い髪の女性・・・仁木さんは本当に困ったような表情を浮かべた。

 「す、すいません・・・。でも、これには事情がありまして・・・」

 「あんな運転をするなら、それなりの事情はあるでしょう。しかし、違反は違反です。私達としても、ルールは守らなければいけません。免許証を」

 俺は仁木さんの言葉に、素直に免許証を差し出した。と、そのとき・・・

 「萩野さん・・・」

 もう一人、別の女性の声がした。そちらを見ると・・・桐生さんが、まるで白昼の幽霊のようにその場に静かに立っていた。

 「こ、こんにちは。この間はどうも・・・」

 「いえ・・・。そんなことより・・・その事情というのは・・・? あなたは、あの像を買った方のところへ行かれたのではなかったのですか・・・?」

 「ええ、それなんです! 桐生さん、大変なことが・・・」

 俺はそう言って、つい先ほど小野の家の前で起こった顛末について語った。それを聞いた桐生さんの顔が、見る見るうちに深刻そうなものへと変わっていく。

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 そのとき、仁木さんが話に割り込んできた。

 「狸の像だとか、詳しい事情はわかりませんが・・・つまり、萩野さんはその家の人を殴ってその像を盗んだ男を追いかけていた、ということですか? もしかして、萩野さんの前方を走っていた、もう一台のスピード違反車が・・・」

 「ええ、そうです。あれがその犯人の車です」

 俺がそう言うと、仁木さんはさらに深刻そうな顔をした。

 「そうですか・・・。そうなると・・・」

 「副隊長・・・私達も、すぐに追いかけるべきです」

 桐生さんがそう言うと、仁木さんはうなずいて俺の顔を見た。

 「ええ、そうね。萩野さん、違反の処分の手続きは後回しです。今はその男の車を追う方が先決でしょうから」

 「あ、ありがとうございます。しかし、あの車はもう・・・」

 俺は国道の先の方を眺めた。とうの昔にあの車の姿は見えなくなっている。しかし・・・

 「萩野さん・・・その車のナンバーを・・・覚えていますか?」

 「え、ええ、もちろん・・・」

 俺がそのナンバーを口にすると、桐生さんは仁木さんとうなずきあった。

 「了解しました・・・。どうぞこちらへ・・・」

 俺は招かれ、後ろに停まっているウィンディへとやってきた。

 第1小隊分署のガレージに停まっているのを見たことは何度もあるが、その内部まで見るのは今回がはじめてである。といっても、運転席などはほとんど市販のスポーツカーと代わりない。大きく違うのは、助手席のダッシュボード近辺である。通信装置やモニターやキーボードといったものが、所狭しと埋め込まれている。桐生さんは助手席に座ると、手馴れた手つきでキーボードをすばやく入力した。やがてモニターに「検索中」という表示が流れる。

 「車が盗難車でなければ、データベースに登録されている車の登記簿から持ち主と現住所を割り出すことができます」

 横に立っている仁木さんがそう言った。その直後、「検索終了」という表示とともに、一人の男の顔写真といくつかのデータが表示された。その写真を見て、俺は息を呑んだ。

 「この男・・・!!」

 そこに映っていたのは、まぎれもなくあの男だった。

 「梅宮博也、37歳・・・東京都昭島市在住・・・職業、不動産業。犯歴等はありませんが・・・この男に・・・間違いありませんね?」

 「ええ・・・この男です!!」

 桐生さんの問いかけに、俺は自信をもってうなずいた。

 「了解しました。我々は、この男の家へ向かいます。萩野さんは申し訳ありませんが、自宅で待機を・・・」

 しかし、それは承服しかねた。

 「すいませんが・・・俺も、一緒に連れて行ってくれませんか? 絶対に、邪魔はしませんから・・・」

 俺がそう言うと、仁木さんは少し困ったような顔で桐生さんを見たが、彼女は微笑を浮かべてうなずいた。

 「・・・わかりました。ただし、これは犯罪捜査です。くれぐれも、こちらの指示に従ってください」

 「ええ、もちろんです」

 「それでは・・・私達の後ろについてきてください」

 仁木さんはそう言うと、運転席へと回り込んだ。俺も自分の車へ戻り、エンジンをかける。

 WOWOWOWOWOWOWOW!!

 再びサイレンを鳴らしながら、ウィンディが発進する。俺はそのすぐあとについた。

 「緊急車両が通行します! ご迷惑をおかけしますが、車線を明けて下さい!!」

 とたんに、車がすいすいと左へと道をあける。ウィンディの先導つきで、俺は再びあの車を追い始めた。




 しばらく車で走った後、ウィンディがある家の前で停車したので、俺もその後に続いて停車した。ちなみに、サイレンは少し前に鳴らすのをやめている。俺が車から降りるのとほぼ同時に、仁木さんと桐生さんもウィンディから降りてきた。

 「仁木さん、桐生さん、ここは・・・」

 「梅宮という人の自宅です。自動車の保管場所登録は、ここの車庫となっていましたので・・・」

 仁木さんはそう言うと、家に近づいた。俺と桐生さんもそれに続く。

 不動産屋というだけあって、なかなか豪勢な生活をしているようだった。家は立派なものだったし、車庫は車を2台入れられるぐらいのスペースはある。庭も広いのだが、倉庫のような建物が建っているのが妙に気になった。

 「萩野さん・・・あの車・・・」

 と、桐生さんが車庫に停まっている車の一台を指差した。見ると、たしかにあの灰色の車である。

 「ええ、間違いありません。ナンバーもこの通りです」

 俺はそれを見ながらうなずいた。それを聞くと、仁木さんは家の様子を伺ってから桐生さんと向かい合った。

 「・・・まだ中にいるようね。萩野さんの話では、梅宮という人はその小野さんという人を殴って像を奪ったわけだから、傷害、強盗ということになるわね」

 「道交法の違反手続きということで・・・警察署まで任意同行させましょう。信号無視もしているようですからね・・・。傷害や強盗については・・・萩野さんや珍品堂のご主人、それから小野さんという方を呼んで証言してもらえれば・・・立証できます。それから逮捕することもできるでしょう・・・」

 「そうね。それでいきましょう」

 二人は手短に打ち合わせを終えると、俺に顔を向けた。

 「萩野さん、あなたは車の中に戻っていてください。顔を見られたりすると、面倒なことになりますから」

 「わ、わかりました」

 俺は言われた通りに、車へと戻っていった。一方、二人は門柱をくぐって玄関へと入っていく。俺が車に戻ると、そのとき二人は玄関でインターホンを押していた。車の中からは、玄関前の様子がよく見えた。

 二人は何度かインターホンを押していた。どうやら、なかなか出てこないらしい。と、何度目かインターホンを押したときに、ようやくドアが開いた。

 あの男だ。ドアの隙間からぬっと突き出された顔は、間違いなく像を奪ったあの人相の悪い男・・・梅宮という男だった。男はドアから顔を突き出したまま、突然訪問してきた二人の女性に不審そうな表情を見せていた。それでも仁木さんは頓着することもなく、微笑を浮かべたまま口を開き、懐から何かを取り出した。SMS手帳である。

 そのとたん、唐突に状況は動き始めた。いきなり男が顔を引っ込め、ドアがバタンという音と共に閉められたのである。仁木さんが驚いた表情でドアに取り付くのが見えた。しかし、どうやら鍵がかけられたらしく、開けることができない。俺は思わず車から降りようとしたが、思いとどまってもう少し状況を見守ることにした。すると・・・

 庭に面した別の部屋の大きな窓が突然開き、ボストンバッグを持った梅宮が飛び出してきた。2人もすぐに気づいたが、二人のいる玄関前からは少し距離がある。そのあいだに梅宮は、年齢の割にはすばやい動きで庭をかけ、車庫のあるこちら側へと向かった。

 「まずい!!」

 俺は反射的に車のドアを開けると、車庫へと向かって駆け出した。

 「梅宮!!」

 俺が大声で叫ぶと、梅宮はこちらに顔を向けてギョッとしたような表情を浮かべた。どうやら、向こうもこちらのことを覚えていたらしい。しかし、そのときすでに車のドアの脇にまで来ていた梅宮はそのまま車に乗り込み、そしてエンジンをかけた。そして・・・

 ギュオオオオオオオオオン!!

 そのまま、俺をひき殺すことも厭わないかのように思い切りアクセルを踏み込んだ。俺の目に、こちらに突っ込んでくる灰色のバンパーが見る見るうちに大きく映る。

 「うわぁっ!!」

 俺は思わず両腕で顔をかばった。次の瞬間

 ドガァッ!!

 重いもの同士がぶつかり合う、重い音が聞こえた。我がことであるはずなのに、まるで別の世界のことのように聞こえる。俺はのんきにも、そんなことを思った。

 が・・・しばらくすると、ようやくおかしいことに気がついた。車に撥ね飛ばされたというのに、衝突された痛みも、地面に落下する衝撃も、いつまで経ってもやってこない。

 「車から降りてはダメと・・・言っておいたでしょう・・・」

 俺の耳に桐生さんの声が聞こえたのは、そんなときだった。ようやく顔を覆っていた両手をどけ、声のした方に顔を向けると・・・そこには、桐生さんと仁木さんが立っていた。

 「き、桐生さん・・・俺は・・・」

 車に撥ねられたはずではないか。そう言おうとすると、桐生さんはすっと指を前方に向けた。それは、俺の目の前を示していたが・・・そのときようやく、俺は目の前で起こっていることに気がついた。

 目の前にいたのは・・・灰色の車のバンパーを力いっぱい押さえつけている、3人の屈強な大男たちだった。いずれも、古代ギリシアの戦争を描いた映画に出てくる兵士のような鎧に身を包んでいる。そんな男達が、梅宮の灰色の車のバンパーを押さえつけている。梅宮は恐怖の表情を浮かべてなおもアクセルを踏みつつけているようだが、車は全く前に進もうとしない。

 「まぁ・・・萩野さんが気を引いてくれたおかげで・・・スパルトイを出す時間を稼げたのですからね・・・。それについては・・・感謝します・・・」

 桐生さんはそう言うと、まだアクセルを踏み続けている梅宮の乗った運転席の脇へと、ゆっくりと歩いていった。

 「今のは明らかに・・・殺人未遂の現行犯です・・・。さぁ・・・降りてきてください。これ以上足掻いても・・・仕方のないことでしょう・・・」

 桐生さんはゾッとするほど冷たい響きのある言葉でそう言った。窓ガラス越しにもその言葉の冷たさは届いたのか、梅宮の表情が恐怖で凍りつくのがよく見えた。と・・・

 ォォォォォォォォン・・・

 激しく響いていたエンジンの音がようやく止まる。車の動きが止まったのを確認してか、鎧の男達もようやく車を押さえていた手を離したが、姿勢だけはまだすぐに動ける状態にある。が・・・

 ガチャ・・・

 運転席から、すっかり憔悴したような表情の梅宮が降りてきた。

 「あ・・・あんたたちは・・・」

 「梅宮さん・・・もうよろしいでしょう。もっと穏便に話をつけたかったのですが・・・こうなっては仕方がない。ここでお認めになってしまったほうが・・・よろしいでしょう。その助手席の・・・」

 桐生さんはそう言って、車の助手席を覗き込んだ。

 「ボストンバッグの中に入っているもの・・・。あなたがそれをどれだけ求めてきたかは知りませんが・・・他人を傷つけてまで奪うのは犯罪です。すぐに返さなければならない・・・」

 「い、嫌だ!! これには鍵が・・・巨万の富の在り処が・・・」

 しかし、梅宮は取り乱したようにぶんぶんと首を振った。だが・・・

 「いい加減になさい・・・往生際です!!」

 桐生さんのその言葉は、周囲の空気に竹を打ったようにカンと響いた。空気が小刻みに震えたように、言葉が鋭さをもって耳を貫いた。梅宮を見ると、金縛りにあったように車にへばりつき、パクパクと口を動かしていた。桐生さんはそれを見届けると、俺を見た。

 「萩野さん・・・すみませんが、助手席に回ってそのバッグを取り出してくれませんか?」

 俺は言われた通り、助手席に回ってそこに置かれていたボストンバッグを拾い上げた。そして、それを開けると・・・

 「あ・・・!!」

 そこには・・・あの青い狸の像が入っていた。

 「この人が小野さんを殴って奪った像というのは・・・たしかに、その像ですね?」

 桐生さんはそう尋ねてきた。

 「ええ・・・間違いありません」

 俺がうなずくと桐生さんもうなずき、後ろで黙って見守っていた仁木さんを振り返った。

 「副隊長・・・お願いします」

 「あなたに任せるのは、話が早く進むのはいいのだけれどね・・・」

 仁木さんはため息混じりにそう言うと、手錠を取り出した。

 「梅宮博也・・・殺人未遂現行犯、ならびに傷害、強盗の容疑で逮捕します」

 ガチャッ!

 梅宮の両手首に、手錠がしっかりとかけられた。

 「さて・・・人を化かす青狸の騒動・・・これで落着と運びますかね・・・」

 桐生さんはボストンバッグから取り出した青狸の像を見ながら、謎めいた微笑を浮かべた。



 「少し早く着きすぎたでしょうか」

 「いえ、そんなことはないでしょう。もうすぐ来ると思いますけど・・・」

 俺は時計を見ながらそう言った。隣に立っているのは、裾の長い茶色いコートに身を包んだ士農田である。俺の方も、余所行き用の灰色のコートを羽織っていた。

 「特急の発車時刻にはまだ余裕がありますから大丈夫ですよ」

 俺がそう言うと、士農田はそうですねと言って近くのベンチに腰を下ろした。

 きれいに磨かれた石の敷かれたホームの上を、老若男女、様々な人たちが往来している。彼らは時に立ち止まり、ホームに備え付けられた電光掲示板で自分の乗る列車の発車時刻を確認していた。

 あの日からおよそ一週間後・・・。俺は桐生さんからの電話で、なぜか伊豆のとある温泉旅館に出向くことになった。しかも、士農田、それに山王丸との同行である。

 あの事件の後、取り戻された狸の像は無事に小野のもとへと返され、梅宮も警察の手に引き渡された。しかし、梅宮に関する展開には少なからず意外なところがあった。
 実は梅宮は、警察にマークされていたのだという。最近、中国で盗難された書画や骨董が国内で発見されるという事件が頻発しており、警察や税関は美術品窃盗団とそれを日本へ輸出する密輸業者の組んだ大がかりな組織犯罪の可能性を見込んで捜査をしていたという。そして、その中国人美術品窃盗団と日本の密輸業者との仲介役の闇ブローカーとして捜査線上に浮かび上がってきたのが、梅宮だったのだ。表向きは不動産業を営んでいる梅宮だったが、彼の売却した倉庫の中に、密輸品の一時保管所として使われていた形跡のあるものが見つかったのがそもそもの発端だった。そこで警察は、梅宮を最重要の標的としてマークしはじめたばかりだったという。しかしそこに、そんなことは全く知らない俺達が踏み込んで、そんな事情とはまったく関係のないことで梅宮は御用となってしまったのである。結果的に梅宮の身柄確保は早く進んだわけだが、警察もこの予想もつかない展開には開いた口がふさがらなかったという。その後梅宮の自宅への家宅捜索も行われ、そこから密輸業者との取引の記録が次々と発見された。このことをきっかけに、密輸業者の摘発も時間の問題となりつつあるという。

 ところで、狸の像である。梅宮があの狸の像のことを知ることになったのも、その裏稼業が発端だったという。美術品の密輸に関わっているうちに、そういった方面の知識にも堪能になっていった梅宮はあるとき、士農田が探しているという狸の像の話を耳にした。最初はその像を探し出して士農田に売れば幾ばくかのぼろ儲けにはなるだろうという気だったらしいが、調べを進めるうちに、どうやらその狸には士農田さんのお父さんの遺した遺産の秘密が隠されているということを知り、そちらの方に興味が向けられたのだという。そうして何年もの間探し回っているうちに、彼はある骨董屋にそれらしき狸の像が売られているという話を耳にし、急いで飛んでいったのである。その店というのが珍品堂だったというわけで、あとは俺達も知ってのとおりだったわけである。

 ともあれ、狸の像は無事に取り返され、小野さんのもとへと返還された。もともとの所有者は士農田さんであったわけだが、士農田さんにそのことについて連絡をすると、やはり像そのものにはそれほどの執着がないらしく、あんな像にお金を払って大事にしてくれる人がいるのならその方がよいと、結局像は小野さんのものとなったわけである。ただ、俺は彼に遺産の正体を突き止めるところまではやると言明していたので、それだけは果たさせてもらうことにした。そうして俺はその像をあれこれ調べてみたのだが、なかなかその隠し場所らしきものは見つからなかった。すると、その場にいた桐生さんが少しの間預かって調べさせてもらえないかと言った。小野さんはそれを承諾し、桐生さんは像を持ち帰ったのである。

それから何日かは、誰からも何の連絡もなかったのだが、昨日、突然桐生さんから電話があった。聞けば、狸に隠された謎が解けたという。俺は気がはやって遺産はなんなのか、それはどこに隠されているのか尋ねたが、桐生さんはそれはその場に言ってみてからのお楽しみと楽しそうな含み笑いをして、明日伊豆のとある温泉旅館に行くから、泊まる準備をしておいてほしいとだけ言って電話は切れた。相変わらず何がどうなっているのかわからなかったが、とりあえず従っておいて損はない。取材旅行などで泊まりの準備には慣れているのですぐにとりかかると、今度は士農田からの電話がかかってきた。なんでも、桐生さんは彼にも電話をかけたようである。しかも、行き先の温泉旅館とは彼が昔から常宿にしているところだというのである。当然彼も何がどうなっているのかわからなかったが、俺はとりあえずそのとおりにしましょうと言ったので、俺は士農田とともに待ち合わせ場所の東京駅に来ることにした。その次にはやはり同じ電話を受けた珍品堂から電話がかかってきた。こちらは桐生さんのやり方をよく理解していたので、明日は桐生さんと一緒に東京駅に向かうとだけ俺に伝えた。

 そして当日である。乗る予定の特急の発車時刻はあと10分となっていた。さすがにsろそろ着てくれないと危ないと思い始めたそのとき・・・

 「お待たせしました!」

 甲高い声にそちらに顔を向けると、いつものこげ茶の着物に藍染めの羽織を羽織った時代錯誤な格好の珍品堂が、こちらへとやってくるところだった。そして、珍品堂とともに並んでやってくるのは・・・白地に桔梗の模様の染められた和服に身を包み、薄桃色の衣を肩にかけた、まるで絵の中から出てきた和装美人のような桐生さんであった。

 「すみませんでした・・・。出発のときに少しばたばたしてタクシーを使ったのですが・・・事故の渋滞に巻き込まれてしまいました。間に合ってよかったです・・・」

 桐生さんはそう言って頭を下げた。俺は気にしないでくださいと言ってから、士農田に言った。

 「士農田さん。ご存知とは思いますが、この方がSMS第1小隊の桐生亜矢さんです。今回の件でもとてもお世話になった・・・というより、ほとんど桐生さんのおかげで解決したと言えるぐらいなんですけど・・・」

 「そんなことはありませんよ・・・。私は・・・狂言回しのようなものですよ・・・」

 俺が恥ずかしそうにそう言うと、桐生さんはほくそ笑みながらそう言った。桐生さんを紹介された士農田は、彼女に挨拶をした。

 「はじめまして。士農田忠之と申します」

 「こちらこそはじめまして。桐生亜矢と申します・・・」

「ご活躍は拝見しております。お忙しいでしょうに、このたびはどうも、私の父のおかしな形見のおかげで萩野さんや山王丸さん共々ご迷惑をかけてしまったようで・・・」

 「いえ・・・私も萩野さんも珍品堂さんも・・・迷惑だなどとは思っていませんよ。士農田さんはそれほど執着はされていないようですが・・・親が子のために遺すものというのは、何にせよ貴いものです。それを誰もが忘れ去った闇の中から掘り出してあげることは・・・とりもなおさず、親を敬うことにもつながります。それは決して・・・損なことではないでしょう?」

 「なるほど・・・。たしかにそうですな。今の私があるのも、ある意味では父のおかげでもある。どんなものを遺したかは知りませんが、せっかく遺してくれたものをこのまま探しもせずに時のかなたへ葬ってしまうのは、たしかに親不孝かもしれませんな」

 士農田さんはうなずきながらそう言った。

 「ところで桐生さん・・・。これから伊豆の旅館に行くというのは、やはりそこに遺産は隠されているということなんですか? どうしてそこに? それに、遺産とは一体・・・」

 二人の挨拶が済んだところで、俺は早速桐生さんに尋ねてみた。しかし、桐生さんはいつもの謎めいた微笑を浮かべて言った。

 「慌てなくても・・・遺産は逃げはしませんよ・・・。もう少し狸に化かされてみるというのも・・・また一興だと思いますよ・・・」

 俺と士農田さんはそれこそ狸ならぬ狐につままれたような顔をした。そのとき・・・

 「1番線の電車は、10:13発伊豆行き、特急おどりこ16号です・・・」

 ホームにアナウンスが流れ始めた。俺達が乗るはずの特急だ。

 「どうやら・・・もうすぐ出るようですね・・・。行きましょうか・・・」

 桐生さんはそう言うと、着物の裾をふわりと翻して歩き始めた。そのあとに、ボストンバッグをもった珍品堂が続く。俺と士農田は顔を見合わせたが、すぐにそれに続いた。



 東京駅を出発してもなお、車窓はしばらくのあいだ、灰色の無機質な都市を映し続けている。あと1時間も走れば、この四角い枠の中にも緑の占める割合は多くなっていくのだろうかと、窓際に腰掛けながらそんなことを考えていた。
 特急に乗ると俺達は二人ずつ、向かい合うように座った。俺の隣には士農田が座り、その向かいには桐生さんが山王丸と並んで座っている。

 「それでは・・・」

 桐生さんと士農田の間での、お互いを知るための世間話がひとしきり済むと、彼女は話を切り出した。

 「ここまで来たうえでこんなことをしてもらうというのも・・・おかしな話かもしれませんが・・・」

 そう言いながら桐生さんが山王丸を見ると、彼は事前に承知していたように手際よくボストンバッグの中から何かを取り出した。

 「小野さんに許可をいただいて・・・お借りしてきました・・・」

 それは、あの狸の像であった。桐生さんは山王丸の手から重々しくそれを受け取った。

 「おお・・・!」

 士農田はそう声を漏らしながら、目を大きくしてその像を見つめた。

 「この像以外に、これと同じような像があるということはないでしょうけれど・・・念のため、ご確認いただきたいのです。これが本当に・・・士農田さんのお父さんが持っていた像であったのかどうか・・・」

 「わかりました。拝借します・・・」

 桐生さんが手渡してきた狸の像を、士農田は恭しく受け取り、それをしげしげと見つめ始めた。俺達がじっと見つめる中、士農田は狸の像をくまなく調べていたが・・・

 「おおっ・・・!」

 やがて、彼が目を開いて声をあげたので、俺は身を乗り出した。

 「なにか?」

 「あ、ありましたよ! 前にもお話しましたでしょう? 私しか知らない、本物の像であるかどうかを見分ける方法が・・・」

 興奮気味にそう言いながら、士農田さんは像を背中向きにして俺達に見せた。

 「実は、私がまだ子供の頃にこの像を持ってふざけていたことがあったのですが、あるときこの像を持って庭を走っているときに転んでしまったのです。その拍子に像は私の手から放り出されてぽーんと飛んでいってしまったんです。そしてそのまま像は庭の敷石にぶつかってしまい・・・」

 士農田さんは像の丸い後頭部あたりを示した。

 「そのときぶつかった場所がこのとおり、青い塗料がはげて十円禿のようになってしまったのですよ。あとで親父に見つかったときには大目玉を食らったあげくに拳骨まで頂戴しましたけどね」

 士農田さんは懐かしそうに笑いながらそう言った。たしかに、像の後頭部にはまるで十円禿のように、円形に青い塗料が剥げて下地の木の色がむき出しになっている箇所があった。

 「この傷のことは、私以外には死んだ父と母しか知りません。この像を撮った写真も、出回っているのはおそらく、正面から撮ったものだけでしょう。ですから・・・この後頭部の傷は、私以外の人間が知るはずがないのです」

 「どれだけ精巧に贋物を作ったとしても、その二つがなければ須らく贋物・・・ということでございますね? つまり、この像は・・・」

 「ええ。間違いなく、私の家にあった本物の像です。まさか本当に、再びこの目で見ることができようとは・・・」

 士農田は感慨深げに手の中にある狸の像を見つめた。見つかればよい、程度に思っていたとしても、いざ見つかればやはりそれはそれなりに感慨深いものがあるのだろう。

 「そうですか・・・。それを聞いて・・・安心しましたよ・・・」

 桐生さんは言葉どおり、ホッとしたような表情を浮かべた。

 「き、桐生さん、確証がなかったんですか? これが本物だからこそ、俺達は今こうして伊豆に向かっているんじゃ・・・」

 俺が慌ててそう言うと、彼女はクスリと笑った。

 「もちろん・・・確証は得た上での行動ですよ・・・。そうでなければ・・・お忙しい皆さんに、伊豆の旅館に行こうなどとは言い出すはずもありません・・・」

 「それでは、やはり・・・」

 「ええ・・・。この像に隠されていた、士農田さんのお父さんの遺産の隠し場所は・・・あらかじめ、確認させていただきました・・・。さて・・・もったいぶるのも、このあたりまでにしておきましょう。この狸に・・・秘密を明かしてもらいましょう・・・。すみませんが士農田さん・・・像を・・・」

 桐生さんがそう言うと、士農田はそれを返した。像を受け取った桐生さんは自分にその正面を向けると、おもむろにその腹に指を伸ばし、袋をかたどったものであるという部分に指をかけ、力をこめると・・・

 パカッ!!

 「「!?」」

 なんと、その袋の部分がまるで引き出しのように開いたではないか。

 「ひ、開くのですか、そこは!?」

 士農田が驚いたように言った。どうやら、この仕掛けは彼でさえ知らないものだったらしい。

 「開くのです。気づかなかったとしても・・・無理はありません。言い伝えの狸がお腹に持っていたという袋を模ったこの小さな引き出しは・・・見た目にはわからないほどピッタリとはめこまれていましたからね・・・。たしかにおかしな姿の像ですが・・・この像を作った人はなかなかの腕の職人か・・・相当に手先の器用な人だったのでしょう・・・」

 桐生さんは像を見ながらそう言った。

 「実は・・・萩野さんやご主人からこの像についての話を聞いて気になったので・・・「本邦狐狸伝承考」以外にもこの像について記録しているものがないかどうか・・・調べてみたのです。そうしたら・・・あったのですよ。「本邦狐狸伝承考」以前に、この像について記述したものが・・・」

 そう言うと桐生さんは、膝の上に置いていたハンドバッグから、古そうな和綴じの本を大事そうに取り出した。

 「大正2年となっていますから・・・書かれたのは「本邦狐狸伝承考」よりもさらに古い。表題は「地域祭祀研究」という、非常にわかりやすいものです。書いたのは仙台にあった大学の民俗学研究者で、ほとんど名前の知られていない人ですが・・・なかなか、優秀な方だったようです。日本全国をフィールドワークして収集した様々な祭りや風習について・・・実に興味深い内容が記されています。そしてその中に・・・狸稲荷の祭礼というものについての記述があるのです」

 「狸稲荷・・・というと、この像が祀られていた?」

 士農田の腕の中の像を見て、俺は尋ねた。

 「どうやらあの神社では・・・この狸の像を使った一種の祈祷が行われていたようなのです。これは・・・私にとっても初耳です。おそらく、他の研究者にとってもそうでしょう。狸稲荷の存在が研究者の間で知られるようになったのは戦後からのことですが・・・もしかすると・・・戦争をきっかけにその風習もなくなってしまったのかもしれませんね」

 「で、その風習というのは?」

 「この本では、次のような記述をしています。文語体で書かれているので、かいつまんで内容を説明させていただきますが・・・作者はこの村の稲荷神社では奇妙な狸の像が祀られているという事実を述べた上で、こう記しています・・・」

 桐生さんは本を広げた。

 「狸の像は田植え前に廟から取り出され、収穫を願う儀式に使われる。神主は像を取り出すと、その腹につけられた引き出しを開け、その中に「五穀豊穣」と書いた紙を納め、再び廟へと戻す。そして田植えが終わると再び像を取り出して腹の引き出しを開けると、田植え前に狸に納めた紙を、豊作を願う祝詞をあげながら村のある家の竈で燃やすのである。紙を燃やした煙は天に届く。こうすることで、天におわする稲荷神に収穫への願いを聞き届けてもらうための風習であると、神主は私に語ってくれた・・・」

 桐生さんはそこまで語って顔を上げた。

 「狸の腹に願いを書いた紙を入れ、再び出す・・・この行為の由来については、民話で村を救ったという青狸が、腹の袋から不思議な道具を取り出したということに由来するのだろうと・・・作者はそう考えたようです。いずれにせよ、この狸の像はただの偶像ではなく・・・神に願いをするための入力デバイスとして使われていたのです。腹の袋を模したこの引き出しも・・・そのためのものだったのです」

 「父は・・・そのことについて知っていたのでしょうか」

 士農田がつぶやくようにそう言うと、桐生さんは少し間を置いて、おそらく偶然でしょうと言った。

 「お話を聞く限りでは・・・士農田さんのお父さんは、この像を大変お気に召していたとか・・・」

 「その通りです。わが親ながら、趣味がわかりませんよ」

 士農田は苦笑した。

 「それならば・・・おそらく、手にとって鑑賞したりしているうちに・・・偶然この引き出しについて知ったのではないでしょうか。もちろん、その本来の使われ方などは知らなかったでしょうけれど・・・これは面白いと思い、遺産を隠す段になって、その格好の隠し場所としてこれを利用することにした・・・そんなところではないでしょうか」

 桐生さんがそう言うと、私もそれが一番ありそうなことだと思いますと士農田は言った。

 「それじゃあ、遺産の在り処はやはりその引き出しの中に?」

 俺がそう尋ねると、桐生さんは微笑を浮かべながら

 「ええ・・・入っていました」

 そう言いながら、懐からいくつにも折りたたまれた紙片を取り出した。

 「先に読ませていただいてしまい、失礼しましたが・・・士農田さん。これはあなた宛の、お父さんの手紙です。どうぞ、お読みになってください・・・」

 桐生さんはスッとそれを士農田さんへと差し出した。士農田はわずかに緊張した表情を浮かべながら、無言でそれを受け取り、慎重に開いていった。

 「これを読んでいるのが忠之かどうか、残念ながら私には確認はできない。ただ、もし読んでいるのが忠之ならば、それはやはり商売はうまくいかなかったということか」

 士農田は冒頭の部分をそう読むと、おあいにくさま、商売は大成功しているよと言って苦笑して、先を続けた。

 「ただ何はどうあれ、お前が私のたった一人の息子であることには違いなく、そんな息子に野垂れ死にされては、私もあの世であったときに寝覚めが悪い。そこで遺産を一つだけ残すものである。しばらくはそれを使って、こっちへ来るまでの時間を先延ばししてほしい。
 遺産が何であるか、それは実際に見てみてから確認してほしい。この像と同様、遺産はある男に託している。伊豆の桃源泊といえば、もう説明するまでもないだろう。遺産はあそこの主人に預け、お前がこの手紙を持って尋ねてきた時にだけ渡すよう、全ての事情を話してある。あの主人はお前も知っての通り実直で口の堅い男であるから、遺産を他人に渡してしまうようなことはない。ただし、それまで遺産を預かってもらうお礼として、お前があの遺産を受け取るまでは、それを自由に使ってもらってかまわないと約束した。心配することはない。お前に遺す遺産は、決して減るようなものではないのだから。それでは、あとは主人に聞くように」

 士農田は手紙を読み終えた。

 「・・・やれやれ。最初の手紙に輪をかけてひどい内容ですね。結局、遺産が何かについてはまだ明かさない。ずいぶんもったいぶらせますよ。あの親父らしい」

 士農田さんは苦笑した。

 「伊豆の桃源泊というのは・・・士農田さんの常宿であるとお聞きしましたが・・・」

 桐生さんがそう尋ねると、士農田はうなずいた。

 「ええ。あそこは明治創業の老舗中の老舗の温泉旅館なんですが、もとは親父が常宿にしていたのですよ。親父が死んでからは私もそんな余裕がなかったのでしばらくは足が離れていましたが、なんとか商売が軌道に乗って懐が暖かくなってくると、私も常宿にさせていただきました。今では私の息子達も常宿にしており、親子三代にわたって、あの旅館にはお世話になっております。宿や露天風呂も天下一品なのですが、何といっても食事に出される自家製の漬物というのがまた格別でしてね」

 「なるほど・・・」

 「しかし・・・親父の言っている主人というのは、もうずいぶん前に亡くなった先代の主人のことでしょうけど・・・親父の言う遺産は、まだ桃源泊で預かっているのでしょうか。私もすでに何度も足を運んでいますが・・・今の主人は私にはそんなこと一言も・・・」

 士農田が手紙を見ながらそう言うと、桐生さんは言った。

 「心配なさることは・・・ありません。遺産はまだ・・・その旅館で大事に預かっているそうですよ・・・」

 「え・・・?」

 「実は・・・その手紙を読んで、桃源泊さんに電話をかけて、直接ご主人に伺ってみたのです。話すととても驚かれましたが・・・先代の息子さんである今のご主人は、先代から全ての事情を聞かされると同時に、その遺産の管理も託されたそうです。彼は今でも・・・大事に遺産を預かっていますよ・・・。ただ・・・」

 「ただ?」

 「その手紙にもありますように・・・遺産の引渡しの条件は、あくまで士農田さんがその手紙を持って桃源泊さんを訪れたときに限る・・・とおっしゃっています。そうでなければ、たとえ士農田さんであろうとも・・・手紙を持たない人間には、遺産を渡すどころか、それが何なのかさえ明らかにしてはならないと・・・先代は士農田さんのお父さんから、そう厳命されたそうです。そして今のご主人も・・・そっくりそれを受け継いでいる。ですから・・・遺産が何かを知るには、こうして士農田さんにご足労願うよりほか・・・方法がなかったのです。おわかりになられたでしょうか・・・」

 「なるほど・・・。いや、そんな仕掛けになっていたとは。見つからなければそれでもよしと思っていたものですが・・・やはりこうなってくると、是が非でも知りたくなってきましたよ」

 士農田は納得したようにうなずいた。俺も山王丸も、ようやく全ての事情を把握することができ、すっきりとした表情を浮かべることができた。残された謎はただ一つ。遺産の正体はなんなのか。最初からの謎にして、最も重要なことである。

 「いずれにせよ・・・桃源泊に着けば、最後の謎も解けるでしょう。ここまで人を化かし続けた青狸・・・最後にどんなものを見せてくれるのか、楽しみですね・・・」

 狸の像を見つめながら笑みを浮かべる桐生さんを見て、やはり一番楽しんでいるのはこの人ではないかと、俺は思った。



 場違いな場に通されてしまったようで、慣れない正座をしながら、俺は恐縮していた。

 桃源泊という宿は、修善寺温泉の温泉宿の一つとして営業している老舗旅館だった。駅に降り立つとすでに、士農田が手配してくれていた車に乗り換え、俺達4人は桃源泊へとたどりついたのである。

 明治創業というだけあり、桃源泊の建物はおそろしく年季の入った、立派なものであった。士農田はこの宿の常連の中でもとびきりの上得意らしく、到着した俺達は玄関先にずらりと並んだ仲居達に出迎えられながら、女将に案内されて特に大事なお客が通されるという広い和室に通された。

 黒光りする立派な床柱といい、鴨居の上にかけられた高名な書道家の作と思しき書といい、嫌みにならない程度に飾られ、全てが一つの部屋の構成要素として一体になっている。そんなところに入り込むと、どうにもその調和を乱すような気がして、不必要に恐縮してしまう。一方、他の3人はまったくそんなことはない。士農田はすでに何度もこの部屋に通されているらしく泰然としているし、桐生さんや山王丸も、正座してすっかりこの部屋の雰囲気に溶け込んでいる。和服を着ているからというだけではないだろう。

 「失礼します」

 そのとき、廊下と部屋とを隔てる障子に影が映り、声がした。士農田が返事をすると商事はスッと開き、これまた着物に身を包んだ50代ほどの男が入ってきた。彼は無駄のない所作で一旦座ると障子を閉じ、再び少し歩いて俺達の前に来たところで座り、そして頭を下げた。

 「士農田様、よくお出でくださいました」

 「ああ、こちらこそお世話になります。去年はこっちに来ることもできないぐらい忙しかったが、おかげでリューマチの具合が悪くなってしまった。何日かお世話になりながらここのお湯につからせてもらって、養生させてもらうよ」

 士農田は笑みを浮かべながらそう言うと、俺達に顔を向けた。

 「それはそうと、ご紹介しよう。骨董屋の山王丸浩平さん、フリーライターの萩野俊作さん、それに、SMS第1小隊の桐生亜矢さん。桐生さんと萩野さんは有名だから、ご主人もご存知だと思うが・・・」

 紹介された俺達が頭を下げると、男は「ご活躍は拝見させていただいております。私、この桃源泊の主人でございます」と、山王丸に負けないくらい丁寧に頭を下げた。

 「3人とも、最近あることについてお世話になったのだが、そのあることというのは・・・」

 「存じております、士農田様」

 士農田が言い終わる前に、主人は真剣な表情で桐生さんを見た。

 「こちらにお出でになる事情については、すでにそちらの桐生さんからお電話でお伺いしております」

 「うん。私もそれは聞いている。それならお聞きするが・・・」

 士農田はうなずいてからやや緊張したように一拍置くと

 「私の親父から、先代のご主人が遺産を預けられ・・・それを、ご主人が引き継いで今も預かっているというのは、本当かね?」

 と言った。その問いに、主人は澱みなくすぐに答えた。

 「おっしゃるとおりです。先代は士農田様のお父様、孝義様より忠之様への遺産を預けられ、私は桃源泊を継ぐと同時に、その管理も受け継ぎました。今までお話せずに、申し訳ありませんでした」

 頭を下げる主人だったが、士農田は諌めた。

 「いいんだよ。親父の手紙は読んだ。そっちは私の親父から頼まれた仕事を守ってくれていただけだ。こっちこそ、あんな道楽親父の酔狂な頼みごとをこんなに長い間守ってくれたことを感謝しなければならん。今までは遺産などどうでもいいと思っていたが、親子二代にわたってそれを守ってくれていたなら、もっと早くから、本腰を入れて探すべきだったな。まったくあの親父は、本当にろくなことをしない・・・」

 士農田はそう言って苦笑いを浮かべたが、やがて真剣な表情になって言った。

 「・・・今日ここへ来たのはほかでもない。長い間待たせてしまって申し訳なかったが・・・親父が預けたというものを、引取りに来た。引取りに必要なのは、これなのだろう?」

 士農田は懐からあの手紙を取り出すと、それを主人に渡した。主人は恭しくそれを受け取って広げ、しばしその文面に目を走らせたが・・・

 「・・・たしかに、間違いございません」

 そう言ってうなずき、手紙を士農田に返した。

 「先代が孝義様から聞かされた遺産引渡しの条件というのは、ご存知の通り、忠之様がその手紙を持ってこの桃源泊を訪れたとき、というものでした。拝見させていただいた手紙は、紛れもなく本物でございます。条件は整いました。お約束どおり・・・孝義様よりお預かりしたものを、お返しいたします」

 主人はそう言うと、手を二度ほど高く打った。すると・・・

 スッ・・・

 障子が開き、そこには1人の料理人が正座をして廊下に座っていた。

 「あれをこちらへ」

 主人が短くそう言うと料理人はうなずき、後ろに置いてあった何かを抱え、部屋の中に入ってきた。そして・・・

 ドンッ・・・

 それを重そうに俺達と主人との間に置くと、そのまま一礼をして出て行ってしまった。

 「これが・・・お預かりしていたものでございます」

 主人は目の前にあるもの・・・一抱えほどもある石・・・を見つめて、きっぱりとそう言った。

 「こ・・・これが・・・」

 「遺産・・・なのですか?」

 俺と山王丸はほぼ同時にそんなことをつぶやいた。そう・・・目の前に置かれていたものは、どこかの川原に落ちていたとしか思えないような、灰色の大きな石だったからである。

 「はい。50年以上前、孝義様は先代の主人であった私の父にこの石を預けました。そして、忠之様がその手紙を持って現れるまでは、忠之様にはこの石のことは話してもいけないと、孝義様はそうおっしゃられたのです。先代はこの桃源泊が経営危機に陥った際に孝義様から援助をしていただいた恩義もありましたので、忠実にそのお願いを守り続けました。そして私がこの旅館を継ぐ際に、この石をお預かりする義務も、この旅館の主人の義務として引き継いだのです」

 主人はそう答えた。

 「むぅ・・・しかしあの道楽親父、どういうつもりでこんな石を・・・」

 さすがに士農田も、それを前に首をひねった。

 「あの・・・」

 そのとき俺が言葉を発したので、全員の目がこちらに向けられた。

 「これは噂話として聞いたのですが・・・遺産の正体というのは、孝義さんが北海道で発見した隕石だという説があるそうです。もしかしたら・・・これはその隕石なのではないですか?」

 「隕石・・・?」

 それは初耳だったらしく、士農田は驚きの表情を浮かべた。すると・・・

 「なるほど・・・それならば、調べてみましょう」

 桐生さんはそう言って、バッグからバーコードリーダーのようなものを取り出した。

 「それは?」

 「ハンディアナライザーです。市販されているものに私が手を加えましたので・・・市販品とは比べ物にならないぐらい、性能は向上しています・・・。こんなこともあろうかと・・持ってきておいてよかった・・・」

 この人はどこまで用意周到なのだろう。常に物事の先の先まで読んで行動しているようにさえ見える。半ば呆れる俺だったが、桐生さんはそれを尻目に、ハンディアナライザーと携帯端末をケーブルでつなぎ、アナライザーを石に当てた。静かな電子音がし始め、LEDが明滅する。同時に送られてくる情報が端末に次々に表示され、桐生さんはキーボードを叩きながらそれを注視していた。と・・・

 「これは・・・!」

 桐生さんが小さな声を発した。

 「なにか?」

 思わず身を乗り出す俺達。その直後

 「Analyze Complete」

 赤い表示がモニターに出され、桐生さんはキーボードを叩くのをやめた。

 「桐生さん、その石は・・・」

 俺が尋ねると、桐生さんはにやりと笑って言った。

 「萩野さんがお聞きになったという噂話・・・もしかすると、本当かもしれませんね・・・」

 「そ、それじゃあ!」

 「隕石かどうかは別として・・・この石の正体はわかりました。この石は・・・ある鉱物を豊富に含んだものです。その鉱物の名は・・・ガルマナイト鉱石」

 「ガルマナイト鉱石?」

 俺は怪訝な表情をして山王丸たちの顔を見回したが、他の3人もみな同じような顔をしていた。どうやら、桐生さんを除けば全員聞いたこともないようなものらしい。

 「その、ガルマナイト鉱石というのは、どんなものなのでしょう?」

 山王丸がそう尋ねると、桐生さんはうなずいて説明を始めた。

 「2021年・・・フランスのガルマンという地質学者が、中央アフリカのとある地域の地質調査中に偶然発見した・・・隕石と思しき岩塊から発見した鉱物です。ガルマンの名を採ってガルマナイト鉱石と命名されたわけですが・・・この鉱物には、ある非常に顕著な特徴があったのです」

 「顕著な特徴?」

 桐生さんはうなずくと、やや間をためてから言った。

 「ガルマナイト鉱石は・・・地球上のどんな物質よりも、硬かったのです」

 その言葉に、全員が驚いた。

 「ど、どんな物質よりってことは・・・もしかして、ダイヤやチタンなんかよりも?」

 「ええ・・・それどころか、当時はまだ発見されていなかったスペースチタニウムやチルソナイトよりも硬いのです。ガルマナイト鉱石よりも高い硬度をもつ鉱物は・・・今もって発見されていません」

 「す、すごいじゃないですか! でも、そんな鉱物の名前は聞いたことがありません。それとも、俺が知らないだけで、実際はどこかで使われているのですか?」

 「残念ながら・・・そうではありません」

 しかし、桐生さんは首を振った。

 「ガルマナイト鉱石を使った商品というのは・・・今まで一度も作られたことはありません」

 「一度も作られたことがない? でも、どんなものより硬い鉱物なんでしょう? そんなものを鉄鋼会社やその他の材質関係の企業なんかが見逃さないなんて、信じられませんよ」

 すると、桐生さんは言った。

 「ええ・・・たしかに、どんなものより硬いです。しかし・・・ガルマナイト鉱石は、あまりにも硬すぎたのです」

 「硬すぎた・・・?」

 「・・・金属というものを材料として使うためには・・・加工をしなければなりません。例えば鉄の場合・・・溶鉱炉で鋳溶かしてどろどろにしたものを圧延や切断によって成型し・・・その後、鉄鋼や鉄板などの形状に加工することによって、はじめて商品としての価値を持つようになるのです。これは他の金属を加工する場合にも、だいたい適用される方法です。しかし・・・」

 桐生さんは俺の目を見て言った。

 「ガルマナイト鉱石は、他の金属のような融点では、決して溶けないのです」

 「溶けない・・・?」

 「誰でも知っていることではありますが・・・物体は固体・液体・気体という・・・三態と呼ばれる3種類の状態のいずれかで存在しています。それぞれの状態の境目となる温度を融点・沸点と呼ぶのも科学の基本ですが・・・もちろんこの境目は、物体を構成する物質によって異なります。水はその温度が融点である摂氏0℃より下ならば氷・・・上ならば水と呼ばれ・・・沸点である摂氏100℃より上ならば、水蒸気と呼ばれるわけです。これがもっとも一般的に知られている融点・沸点ですが・・・その温度が極端な物質は、いくらでも存在します。たとえばヘリウムの場合・・・その融点はマイナス272.3℃という、絶対零度に極めて近いような温度です。そして沸点はマイナス269.93℃ですから・・・ヘリウムが固体の状態でいられる温度帯というのは、非常に狭いわけです。逆にダイヤモンドの次に硬い物質であり、電極などに使われるタングステンの場合・・・融点は3380℃、沸点が5555℃。これを液体や気体の状態へ変化させるには・・・これだけの高温状態を作り出さなければならないのです。ですからこの金属は他の金属のように溶かして精錬することはできず・・・粉末に樹脂を混ぜるなどして精製して加工するのです。ところが、ガルマナイト鉱石の場合・・・タングステンの沸点をさらに3000℃近く上回る温度でなければ、溶かすことができないのです」

 「そ、それじゃあ・・・」

「・・・桁外れに融点が高く、これを精錬できるような設備を作るのは、明らかに採算が合わないのです」

 「し、しかし・・・タングステンの場合は、粉末を精製して材質として使用しているんでしょう? 溶かして精錬できないからといって・・・」

 「残念ながら・・・その方法も役には立ちません。何度も言うようですが・・・ガルマナイト鉱石は、硬すぎるのです」

 桐生さんはきっぱりと再びそう言った。

 「ガルマナイト鉱石を削って粉末にするためには・・・当然ガルマナイト鉱石よりも硬い物質が必要になります。ところが・・・ガルマナイト鉱石よりも硬い物質は、発見されていない。もちろん・・・レーザーを使えば、いかにガルマナイト鉱石といえども切断加工は可能です。その欠片を金属加工工具の刃先にでも使えば・・・ダイヤモンドカッターよりも優れた切れ味をもつ工具とはなるでしょう・・・。しかし・・・萩野さんもよくご存知とは思いますが、現代の金属加工技術は、そんなものを使わなくとも在来の技術でほとんどあらゆる材質を加工することが可能なのです。つまりこれも・・・採算に合わない」

 「・・・」

 「そして致命的なのは・・・ガルマナイト鉱石は地球には存在せず、宇宙にしか存在しない金属・・・それも、スペースチタニウムのように資源衛星から豊富に採掘できるものでもなければ・・・珪酸アルミニウムの一種であるチルソナイトのように人為的に作り出せるものでもない物質であるということです。それにもかかわらず・・・加工にも困るほどの硬さをもつという以外は・・・ダイヤや金のような希少価値はなんらもたない・・・。何をするにも、とにかく採算が合わない・・・。ガルマナイト鉱石とは、そんな金属なのです」

 「つまり、やたらに硬いだけで煮ても焼いても食えない・・・そんなどうしようもない金属、ということですかな?」

 士農田がそう尋ねると、乱暴な言い方をしてしまえばそうなりますと桐生さんは答えた。

 「それでも・・・珍しい金属であることは事実ですから、学術的価値はいくらかはあったのですけれどね。しかし・・・30年ほど前にアステロイドベルトで発見された小惑星のひとつが、ほぼ丸ごとガルマナイト鉱石でできていることが発見されたため・・・研究用の資料としての価値も、これでがくんと落ちてしまいました。今おっしゃったとおり・・・煮ても焼いても食えないというのが、ガルマナイト鉱石に対するほとんどの業界からの現在の評価です。もっとも、それはガルマナイト鉱石の分析が終了した時点でほぼ決まっていた結論でしたから・・・それは孝義さんがこの石を発見したときも、同じようなものだったのでしょう。最初の発見から10年ほどの間に、ガルマナイト鉱石のサンプルがいくつか発見されてニュース性も失われましたから・・・孝義さんがこの石の発見を学会に発表しなかったのも・・・やはり、発表するほどの価値を感じなかったのかもしれませんね」

 桐生さんに釣られるように、俺たちは石を見つめた。しかし、それでも釈然としない思いは残った。

 「しかし・・・それなら、なぜ孝義さんはそんな何の役にも立たないような石を、わざわざ遺産としてこちらに預けたりしたんですか?」

 「やはり・・・この遺産についても、親父の悪ふざけだったのでしょうかね。私は慣れているから別にかまいませんが・・・もしそうなら、そんなものを親子二代に渡って預けられたここのご主人は・・・」

 俺の言葉に士農田が主人を見ながらそう続けたが、主人は笑顔で首を振った。

 「滅相もございません。私も先代も、ただ孝義様に頼まれたことを守ってきただけです。それに・・・この石は、決しておっしゃるような役立たずなどではありません。私も先代も、この石と、それを預けてくれた孝義様には感謝しているのです」

 「え・・・感謝?」

 なぜこんな石に感謝しなければならないのか、俺達はわからなかった。すると、主人は続けた。

 「先代にこの石を預けたとき、孝義様はこうも言ったそうです。これを忠之様に返すまでは、この石はこの桃源泊で使ってくれてかまわない。まだ知られていないが、この石にはすごい力があるのだ、と・・・。そして孝義様は先代に、この石の持つ力というものについて教えてくださったのです」

 「すごい力? しかし・・・」

 この石は役立たずな石ではないのか。そう続けようとしたとき・・・

 「ほぅ・・・。そこまで見抜いていたとは・・・」

 桐生さんの声に顔を向けると、彼女は珍しく驚いたような表情を浮かべていた。そして、彼女は士農田に顔を向けた。

 「士農田さん・・・。やはりあなたのお父さんは・・・悪ふざけでこの石をあなたに遺したわけではありませんよ。あなたのお父さんは彼なりにあなたのことを考えていましたし・・・それに、優秀な研究者であったようだ・・・」

 「ど、どういうことです?」

 俺達は身を乗り出したが、桐生さんは旅館の主人に顔を向けた。

 「ご主人・・・士農田さんからお聞きしましたが・・・こちらは宿や温泉だけでなく・・・こちらで作られている漬物も、訪れる方たちの評判のようですね・・・」

 主人はそれに驚いたような表情を浮かべたが、すぐに答えた。

 「はい。士農田様もそうですが、おかげさまでここを常宿にしていただいている方たちには、どなたにもご好評をいただいております。漬物を目当てにお泊りに来られる方もいるので、たいへんありがたく思っております」

 「なるほど・・・。そんなにおいしい漬物ならば、自宅へ取り寄せてみたいという泊り客の方もいるとは思いますが・・・漬物の発送は、こちらではやっていないのですか?」

 「残念ながら、そのお願いはお断りさせていただいております。その漬物は、この旅館でお食事として出すだけの量を作るのが精一杯で、そういったお願いにはお応えすることができないのです」

 「そうだ。私もこの旅館の漬物は大好きだから、ここへ来るのもそれが目当ての一つでもあるのだが・・・それにしても、考えてみれば不思議だな。きっと秘伝の漬け方のようなものがあるのだろうが、それはたくさん作るのには不向きなのかな? どうなのかね、ご主人?」

 「それなのですが・・・」

 主人は何かを言おうとしたが、それより早く再び桐生さんが口を開いた。

 「士農田さん・・・あなたは子供の頃から、ご両親と一緒にこの旅館にはお泊りになっているようですが・・・」

 「そうです。なにしろ、父も常宿でしたから」

 「ではお聞きしますが・・・そのときからすでに、その漬物はこちらの旅館の名物となっていたのですか?」

 「それは・・・いや、そうじゃないな。私が子供の頃はまだ、ここはまだ漬物をうりにはしていなかったな」

 士農田は視線を上げて思い出すようにしながら答えた。

 「親父が死ぬ前に最後にここへ来たのは高校2年の夏だったが・・・そのときにはたしかに、漬物はここの名物じゃなかった。その次にここへ来たのが、商売が軌道に乗って暮らしにゆとりが出てきたころだから・・・親父が死んでから、15年くらい前のことだったかな。たしかそのときには、漬物はもうここの名物になっていた。そうすると・・・あの漬物が作られだしたのは、そのあいだということになるな。ご主人、ここであの漬物を作り出したのは、いつごろのことなのかね?」

 「今年でちょうど、50年目となります」

 主人はきっぱりとそう答えた。そのとき

 「なるほど・・・。これでパズルのピースが・・・全て揃いました」

 桐生さんが一人合点したように、深くうなずきながら言った。

 「き、桐生さん・・・どういうことなんですか?」

 俺はまだよくわからない。山王丸や士農田も、怪訝そうな表情をしている。桐生さんは俺達を見て言った。

 「さきほど士農田さんがおっしゃったように・・・こちらの漬物は、特別な方法によって漬けられているようですね。そうなのでしょう、ご主人?」

 「その通りです」

 主人の方も、桐生さんが何を考えているかはすでに察しているようだ。すぐにうなずく。

 「しかし・・・おそらくそれは、秘伝のコツのようなものではありません。そういったものは長年培われて生まれるものであって・・・ある日突然生まれるものではない。そうですね?」

 「何もかもご存知のようですね・・・」

 微笑を浮かべてそう言う主人に、桐生さんは微笑み返した。

 「ご主人にお聞きします・・・」

 桐生さんは尋ねた。

 「ここの漬物の秘密は・・・この、漬物石にあるのですね?」

 そう言って桐生さんが見たのは、士農田孝義の遺産・・・役立たずと言われた、あの石だった。

 「はい。その通りです」

 主人は素直にうなずいた。

 「き、桐生さん! どういうことです!?」

 「これが・・・漬物石?」

 俺達はなんだかよくわからず、ただ彼女に尋ねた。

 「言葉どおりの意味ですよ・・・。こちらの漬物がおいしいのは・・・この石を漬物石として使っているからなのです。逆に言えば・・・この漬物石で漬けなければ、その漬物は作れないのです。だからこそこの旅館の漬物は・・・そういっぺんにたくさん作ることはできないのです」

 桐生さんは淡々と答えたが、俺達にはさっぱりだった。

 「つ、漬物石が漬物作りの秘密? なぜですか? 漬物石というのは、漬け込んだ野菜などから余分な水分を押し出すための重石であって、適当な重さでさえあれば、どんな石であってもかまわないのではないですか?」

 山王丸がもっともなことを言った。桐生さんはうなずいた。

 「たしかに・・・普通の漬物石ならば、ただの重石で十分です。しかし・・・こちらではそうではない。この漬物石でなければダメなのです。そうですね、ご主人?」

 主人はうなずいた。

 「石を預けに来たとき、孝義様はこうもおっしゃったそうです。この石はいろいろ苦労して掘り出したものだが、調べてみた結果、珍しいがほとんど価値のない鉱物でできた石であることがわかった。面白くないので家の漬物石として使っていたのだが、なぜだかはわからないが、これを漬物石に使うようになってから、漬物の味が見違えるようにうまくなった。いろいろと調べてみてわかったことだが、どうやらその鉱物からは、ある種の微生物の活動を促進する微弱な電磁波が出ているらしい。それが漬物を発酵させる微生物にも影響を与え、その発酵作用を促進しているようだ。この石を作って作った漬物は、売り物としても申し分のない味だ。だから預かっている間は、これを使って作った漬物をここで食事に出せば、きっと評判になる、と・・・」

 「そんなことが・・・」

 俺達は驚いたが、その先は桐生さんが継いだ。

 「孝義さんが言ったことは・・・本当のことです。しかも・・・これはつい最近になって発見された事実であり、電磁波が活動を促進する微生物の中には・・・漬物の発酵菌として使われる乳酸菌も含まれます・・・。私がさきほど、孝義さんを優秀な研究者だと言ったのは・・・50年以上も前に、その事実に気がついていたからです」

 俺達が何も言えずにいると、主人が口を開いた。

 「孝義様が忠之様にこれを遺産として遺したのは・・・たとえ商売に失敗して食うや食わずの身になったとしても、これを使って漬物屋を始めれば、とりあえず喰うには困らないだろうと考えたからだと・・・孝義様は、そうおっしゃったそうです」

 「たしかに、変わった人ではあったようですが・・・やはり彼は彼なりに、あなたのことを心配なさっていたのですよ、士農田さん・・・」

 桐生さんはそう言った。士農田は黙って聞いていたが・・・

 「フフッ・・・」

 やがて、笑みを浮かべた。そして・・・

 「ハッハッハッハッハッハッハッハ!!」

 士農田は腹を抱えて、大きな声で笑い始めた。哄笑が広い座敷に乾いて響く。俺達は呆然とそれを見つめていた。いろいろな意味で、ショックだったのだろうか。しかし、やがて笑いをおさめて口から出した言葉は、俺には意外なものだった。

 「いや、こんなにおかしいのは久しぶりだ! いかにもあの道楽親父らしい!!」

 心底おかしそうな様子でそう叫ぶ士農田の表情は、それでいて非常にすっきりとしたものだった。

 「なんだかんだ言って、いろいろと気になっていた遺産とやらですが・・・その正体が漬物石だったとは。悔しいですが、今回もあの親父にはいっぱい食わされたようだ。生きている間に一度でもこっちが担ぐことができなかったのが、急に悔しくなってきましたよ」

 「士農田さん・・・」

 俺達はどんな顔で彼を見たら言いかわからなかったが、やがて彼は俺達に向き直った。

 「萩野さん、山王丸さん、それに、桐生さん・・・。このたびはこんな馬鹿なことにつきあわせてしまって、申し訳ありませんでした。しかし・・・おかげで、長い間心にこびりついていたようなものが取れたような気がしました。やはり私も・・・親父が私に遺してくれたものには、私なりにこだわっていたようです。皆さんのおかげで、ようやくそれがなくなったように思います。本当に・・・ありがとうございます」

 士農田はそう言って、俺達に深々と頭を下げた。

 「し、士農田さん、そんな・・・!」

 「そ、そうです! 手前どもはただ・・・」

 「興味本位というわけではありませんが・・・私達はただ、調べただけです。たいしたことでは・・・ありませんよ」

 うろたえる俺達に代わって、桐生さんが冷静に言った。しかし、士農田は頭を上げると、今度は主人にも頭を下げた。

 「ご主人・・・あなたにも、礼を言おう。親子二代にわたって、これを大事に預かってくれた。ありがとうございます」

 「め、滅相もない! お礼を言わなければならないのは、こちらの方です! ですから忠之様、お顔を上げてください!」

 士農田はようやく頭を上げた。5人の男女だけが座る広い座敷に、しばし、沈黙が流れた。

 「さて・・・これでようやく、本来しなければならないことができますね・・・」

 沈黙を破ったのは、やはり桐生さんだった。

 「本来しなければならないこと?」

 「そうです。士農田さんはここへ・・・あの手紙を持ってやってきた。つまり、今こそが孝義さんの約束を果たすべきときなのです。そうですね、ご主人?」

 「はい。そのとおりです」

 主人はそう言うと、石を士農田の方へ推し進めた。

 「お聞きになった通り・・・孝義様の勧めに従ったまでとはいえ、これまで50年もの間、漬物石として使ってきたものです。すっかり漬物の匂いも染み付いてしまいましたが・・・お返しさせていただきます」

 「むぅ・・・しかしな・・・」

 士農田は腕を組んで表情を曇らせた。

 「それがなければ、もう自慢の漬物を作ることはできないのだろう? そうなってしまえば、客足にも少なくない影響があるだろう。遺産だからといって、おいそれと受け取れるようなものでは・・・」

 士農田がそう言うと、主人は笑って答えた。

 「お気になさらないで下さい。まがりなりにもこの桃源泊は、明治以来この修善寺に腰を下ろしている宿です。漬物が作れなくなったぐらいで潰れるようでは、ご先祖様にも申し訳がたちません。桃源泊はそんなに薄っぺらな宿ではありません。私達はただ、なによりもお客様を大事にするだけです。そしてこの石も、孝義様からお預かりして、忠之様にお返しすることを約束したものです。ですから・・・どうか、お受け取り下さい」

 「むぅ・・・」

 士農田は腕組みをしたまま、桐生さんに目を向けた。桐生さんはわずかに口元に笑みを浮かべただけだったが・・・それを見て士農田は、なにかを決めたようにうなずいた。

 「・・・わかった。たしかに、そんな心配はここに対する失礼かもしれない。親父の遺産・・・たしかに、もらい受けよう」

 士農田はそう言って、石を自分の方に引き寄せた。

 「ありがとうございます・・・」

 頭を下げる主人。だが・・・

 「それでは・・・改めてこの石を、桃源泊に進呈しよう」

 そう言って、士農田はすぐに石を主人へと押し返した。

 「え・・・? そ、それは・・・忠之様」

 「たしかに私は今、石を受け取った。そのうえで、この石を桃源泊に譲ろうと言っているんだ。何も問題はないだろう?」

 士農田は微笑を浮かべながらそう言った。

 「しかし・・・」

 「知っての通り、私も漬物は大好物だからな。あの漬物を思う存分食べられるというのは、たしかに魅力的だ。しかし・・・物というものには、それにふさわしい場所というものが必ずある。この石にふさわしい場所というのは・・・私のところではあるまい。おいしい漬物を作ってお客を喜ばせ、それによってこの旅館も繁盛する・・・。それこそが、この石のあるべき姿なのではないかな? これまでと同じように・・・」

 「忠之様・・・」

 「それに・・・食事は楽しく食べるものだ。私が独占することによってあの漬物を食べられなくなった人たちがいると思うと・・・とても気分よく食べられるとは思えないじゃないか」

 士農田はそう言って笑うと、さらに石を主人へ進めた。

 「つまりは、そういうことだ。これは、これからも桃源泊にあるべきものだ。これからも、これを使ってお客さんを喜ばせてほしい。あの道楽親父も、その方が本望だろう・・・」

 「・・・」

 主人は黙って石を見ていたが・・・

 「わかりました・・・。ありがたく、頂戴させていただきます・・・」

 恭しく頭を下げると、石を自分のほうへと引き寄せた。士農田は満足そうにうなずいた。俺はそれを見て、笑顔を浮かべた。見ると山王丸も、そして、桐生さんも笑っていた。

 「これにて一件落着・・・ですね?」

 桐生さんが微笑を浮かべながらそう言うと、士農田はその通りですと言った。

 「さぁて・・・一件落着したら、急に小腹がすいてしまった。ご主人、すまないが、例の漬物とご飯を用意してくれないか?」

 「はい、もちろんです。皆さんがお越しになってから、いつでもお出しできるように用意はしておいたので、すぐにでもご用意させていただきます」

 「ありがとう。萩野さん、山王丸さん、桐生さん、よろしいですね?」

 「ええ。それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」

 「いただきます。手前も、漬物は好物ですので」

 「私も・・・いただかせてもらいましょう・・・」

 俺達がそう答えると、主人はうなずいて立ち上がった。

 「それでは・・・すぐに運ばせますので、少しお待ちを」

 主人はそう言うと、入ってきたときと同じく崩れのない動作で部屋から出て行った。

 「おお、そうだ」

 と、士農田が何かを思い出したように言った。

 「どうかしましたか?」

 「いや・・・実は前々から、もしこういうときがきたらやりたいことがあったのを思い出しまして。失礼ですが、今ここでそれをやってもよろしいですか?」

 「はぁ・・・」

 何を始めるかはわからないが、俺達はとりあえずうなずいた。士農田はではと言うと、何を思ったか漬物石を両手で持ち、そのまま座敷の大きな窓へと歩き、それを大きく開け放った。そして、石を両手で空に掲げて、息を大きく吸い込んだ。

 「聞こえてるか親父! 遅くなったが、たしかに遺産は受け取った! いかにも親父らしい遺産だが、私にはとっくにこんなものは必要なくなっていたんだ! 悪いが、これは世のため人のため、これからもこの旅館で使ってもらう! ざまぁみろ!!」

 士農田の大声は、雲ひとつない青空に高く響き渡った。あぁ、すっきりしたと言って振り返った士農田の顔は、とにかく晴れやかだった。



 パチン

 目の前で黒く丸い石が、縦線と横線の交錯する点の上に小気味よく置かれる。はっきりした音だったが、どこかそれは、遠くからの音のように聞こえた。

 パチン

 半ば機械的に、俺も同じように白い石を盤の上に置く。碁盤の向こうに座る山王丸の表情を見たが、そこには何の変化もなかった。

 「なんというか・・・」

 パチン

 再び碁石を置きながら、山王丸は言った。

 「狸に化かされたというか・・・そんな感じがしますな。いや・・・まだ化かされているような気さえします」

 「もしまだ化かされているなら、気がつくとこの旅館は影も形もなくて、二人で野原の真ん中に座ってるかもしれませんよ?」

 パチン

 俺が笑いながらそう言うと、山王丸も笑いながら言った。

 「昔話ではよくありますな。道に迷った旅人が山の中で立派な屋敷を見つけて・・・」

 「そこには綺麗な女主人がいて、うまい酒やらごちそうやらを振舞ってくれる。そうして宿を借りて、朝になってみると・・・」

 「屋敷は影も形もない。さては狸に化かされたか。酒やごちそうと思って食べたのは、泥饅頭や泥水だったかと、そこでようやく気がつく・・・」

 パチン

 再び山王丸が碁石を置く。俺達は桃源泊の広い庭に面した廊下におかれた低周波マッサージチェアにかけながら、碁を打っているところだった。

 「亜矢さんからも聞いたことがあるのですが、その手の話はそれこそ数限りなくあって、戦後にはまだまだあちこちで聞かれたそうです。狸が人を化かすというのは・・・実際にあることなのでしょうか?」

 「ある・・・と言えば、あるのでしょうね。俺達が今こんなところで碁を打っているのも、狸に化かされたようなものじゃないですか」

 パチン

 「それもそうですね・・・」

 山王丸はそう言って笑ったが、俺が置いた碁石の位置を見て、少し考え込みはじめた。と・・・

 「やっていますね・・・?」

 いきなり横で声がした。驚いて顔を横に向けると・・・そこにはいつのまにか、桐生さんが立っていた。

 「桐生さん・・・士農田さんとご一緒じゃなかったんですか?」

 「士農田さんは部屋でマッサージを受けています・・・。こちらは庭も自慢だとご主人から聞いて、拝見しに来たのですが・・・」

 桐生さんはそう言うと、庭とこちらとを隔てる大きなガラス扉に近づいた。

 「なるほど・・・たしかにすばらしいですね。あの松・・・樹齢は数百年を数えているでしょう。国宝級です。あれだけのものだと、よそから移してきたとは考えにくいですから・・・あの松が生えていたところに、この旅館を建てたのかもしれませんね。まるで・・・絵のようだ」

 庭を見ながら桐生さんは歌うようにそう言った。たしかに、見事な庭である。いや、迫力があるというべきか。なにしろその庭の中央には、樹齢何百年ともつかない松の巨木がでんと鎮座し、丸太のように太い枝を四方八方へと伸ばしているのだ。それらの枝の先には、青々とした松の葉がまるで雲のように塊をなしている。夜空にかかった月に照らしだされた松の姿は・・・桐生さんの言う通り、一枚の絵のようだった。

 「勝負を・・・拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」

 と、桐生さんは振り返りながらそう言った。

 「ど、どうぞ・・・」

 俺がそう言うと、桐生さんは音もなく歩いてきて、碁盤の横に置かれていた椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 「桐生さん、山王丸さん・・・」

 俺はそこで、二人に声をかけた。二人の顔が、同時にこちらを向く。

 「俺からも、お礼を言わせてもらいます。今回はいろいろと助けていただいて、ありがとうございます。特に桐生さんには、またご迷惑をおかけしてしまって・・・」

 「お気になさらずに、萩野さん。それに・・・手前があの像を売ったことも、そもそもの始まりではあります。その意味では、手前も同罪ですよ」

 「私も・・・それは同じです。楽しかった・・・というのは、不謹慎かもしれませんが・・・私も、非常に興味深いことをいくつも知ることができました。そのうえでお役に立てたのなら・・・光栄です。それに・・・これもいただくことができましたからね・・・」

 そう言って桐生さんは、手に持っていたビニール袋を軽く掲げた。

 「もしかして、あの漬物ですか?」

 「特別に・・・分けていただきました・・・。うちもみんな・・・漬物は好物ですからね。特にひかる君は・・・喜んでくれるでしょう」

 二人はそう言って笑った。俺は再びありがとうと言って、もう一度だけ頭を下げた。

 「萩野さんこそ・・・いろいろと大変だったでしょう。やはり今回のことも・・・記事になさるつもりなのですか?」

 「はぁ・・・。最初はそのつもりで、士農田さんにも許可は得ていたんですが、まさか、こんな結果になるとは・・・。こうも突拍子もない結末じゃあ、残念ながら記事にするには俺の手には余ります。本当に、あの青い狸に化かされたような感じですよ」

 俺は頭をかきながらそう言った。

 「士農田さんは結局満足したみたいですし、俺も決して損をした気分じゃないですが・・・それにしても、いろいろあってようやくわかった遺産の正体が、漬物石とは・・・。梅宮がそのことを聞いたら、どう思うでしょうね。その遺産にこだわったせいで、結局身を滅ぼすことになってしまったわけですから・・・。彼にとってはあの狸は、とんだ性悪狸なんじゃないでしょうか」

 「そんな風に思われては・・・あの狸もいい迷惑ですね・・・」

 桐生さんはそう言ってわずかに笑った。

 「とにかく今回は、化かされたような妙な感じばかりですよ。こんなご時世に狸に化かされるなんて、思ってもみませんでした」

 俺はそう言った。しかし・・・

 「さて・・・それはどうでしょうかね・・・」

 「え・・・?」

 桐生さんが謎めいた声でそう言ったので、俺は思わず彼女を見た。

 「化かされるということは・・・それほど非日常なことなのでしょうか・・・」

 「亜矢さん・・・それでは、狸が人を化かすというのは本当で、今もあることなのだと・・・そう言いたいのですか?」

 桐生さんは小さくうなずいた。

 「そうとも言えますが・・・少し違います。私は・・・狸に限らず、人は常に何かに化かされていると・・・そう思っているのです」

 「常に・・・化かされている? 一体何に?」

 俺がそう言うと、桐生さんは山王丸に顔を向けた

 「ご主人・・・ご主人は、あの狸の像を売ったとき・・・どんなことをしましたか?」

 「どんなこと、と申しましても・・・いつもどおりでございます。私は商品の値をお伝えしました。そして、ご隠居がそれをお支払いになってくれたので、狸の像をお渡ししました。当たり前のことですが・・・」

 桐生さんはそうですねと言ってうなずいた。

 「ものを買うときには、お金を支払う・・・。当たり前のことです。しかし・・・よく考えてみてください。なぜご主人は・・・狸の像とお金とを交換しなければならないのですか?」

 「な、なぜ、と言われましても・・・」

 山王丸は困ったように俺を見たが、俺にも気の利いた答えは思いつかなかった。桐生さんはなおも言った。

 「もし・・・ご主人の売っているものが骨董品ではなく・・・例えば、パンだったとしましょう。その場合にもやはり・・・ご主人はパンを売るのと引き換えに・・・お金をもらうことになる。しかし・・・考えてみてください。お金とパンとは・・・本当に、同じ価値のものなのですか?」

 「そ、それは・・・」

 「お腹がすいたとき・・・パンを食べれば、お腹は膨れます。しかし・・・お金は食べられません。紙幣なら食べられないこともないでしょうけれど・・・栄養はありませんし、体にもよくないでしょうね」

 桐生さんは笑った。

 「ところで・・・狸にまつわる民話には、パターンの一つとして、「木の葉のお金」というものがあります」

 そこまで言って、桐生さんは話題をそんな方向へ変えた。

 「人間に化けた狸が蕎麦屋などに出かけて食べ物を食べ・・・お勘定として、お金に見せかけた木の葉を渡す。このパターンの話では・・・あとになって蕎麦屋の主人が売り上げの中に木の葉が混じっているのを見て、あれは狸だったのかとなって終わるか・・・さらに、また人間に化けてやってきた狸を蕎麦屋がこらしめたり殺してしまったりするか・・・結末は、おおよそそんなものです。有名なパターンの話ですから・・・お二人もご存知でしょう?」

 「え、ええ・・・」

 「しかしです・・・。我々の使うお金も・・・よく考えてみれば何の価値もない、腹の足しにもならない紙片や金属片です。その意味で言えば・・・木の葉だって同じことです。木の葉が私達の間ではお金として通じないのは・・・ただ、紙幣や硬貨ではないというだけの話です。だからこそ狸は・・・我々のルールにあわせて、木の葉をお金に見せかけるのです。もし私達が、木の葉をお金として使っているのなら・・・狸がそんなふうに人を化かす必要など、ないのです。そこで考えるのは・・・なぜ私達は、お金を使うのかということです」

 桐生さんはそう言った。

 「大昔・・・人が自分の手に入らないものを手に入れる方法の一つであったのが、物々交換でした。海の近くに住む人は、魚を獲って山へと出向き・・・その魚と引き換えに、山で暮らす人たちから、山で採れるものを手に入れていたのです。しかし・・・この方法では、あまりに不便すぎる。いちいちものを持っていって交換するのは不便ですし・・・その時々や交渉する人によって、交換のレートも変わってしまう・・・」

 「そうですね・・・」

 「ところがそんなとき、誰かがとんでもない思いつきをしました。今となってはどこの誰とも知れませんが・・・その人は、ものの価値というものを一つに統一して、それによってものを交換する方法というものを考え出したのです。それこそが・・・貨幣経済というシステムです。それ以来我々の社会というものは・・・その人が考え出したものと、本質的にはなんら変わりのないシステムによって動き続けているのです。人間が生み出したシステムの中でも・・・最古のものの一つと言ってもいいでしょう・・・。しかし・・・このシステムが正常に機能するためには、どうしても守られなければならないルールがあります」

 「ルール?」

 「貨幣の価値というものを・・・誰もが信じることですよ」

 桐生さんは続けた。

 「冷蔵庫をあげる代わりに蕎麦をもらうとしたら・・・何杯ならよろしいですか? 車をあげる代わりにやかんをもらうとしたら・・・何個必要でしょう? 本来、そんな交換は不可能です。ものの価値というものは・・・本来は決して、ひとつの定規で測れるようなものではないのです。貨幣経済というシステムは・・・それら多種多様な価値を貨幣と言うひとつの統一化された基準に変換し・・・それらを比較することによって、ものを流通させるシステムを言うのです。したがって、それが正常に機能するためには・・・貨幣というものに、その統一化された基準としての価値があることを・・・人々が信じることが必要なのです。貨幣などただの紙切れだ、金属だとみんながその基準を信じなくなってしまえば・・・システムは機能しなくなります。だから、そのシステムを推進しようとする人たち・・・豪族であったり皇帝だったり、政府だったりしたのですが・・・そういった人たちは、貨幣に金や銀を使ったり、紙幣に細かな細工の印刷を施したりして・・・貨幣にはその価値があるということの演出をしてきたのです。どんなことをしようとも・・・結局それが、紙や金属であることには変わりありません」

 「・・・」

 「しかし現実に・・・システムは動いている。人々は、紙や金属がもっている・・・いえ、持っているとされている、統一化された基準としての価値というものを信じているのです。つまりこれは・・・」

 桐生さんは一拍置いた。

 「"化かされている"・・・ということにはならないでしょうか」

 化かされている・・・たしかに、そうかもしれない。冷静に考えてみれば、あんな紙や金属片に、そんな価値などあるはずがないのだ。そればかりか、お金というものはもはや目に見えるかたちで存在しないことさえ多い。大量の金がコンピュータのネットワーク上を数字というかたちで流れるようになってから、どれだけの時が流れただろうか。そんな実体のないものさえも信じて、俺達の世界は動いているのである。

 「経済だけではありません・・・。政治も、法律も、宗教も・・・我々が生活を送るうえで信じているものの多くは・・・冷静に突き詰めていけば、綻びだらけであることに気づくようなものばかりなのです。それも当然でしょう。人間は・・・不完全な生き物です。不完全な生き物に・・・完全なシステムなど作ることはできません。しかし・・・人が人として生きるには・・・そんな不完全なシステムにも、頼らなければならないのです。だからこそ・・・冷静に考えればおかしなことも、この世では往々にしてまかり通るのです」

 「それで、手前どもは常に何かに化かされている、と・・・」

 山王丸はつぶやくように言った。

 「紙や金属や、あるいは、電気信号でしかないお金が、時にはパンに、時には土地やビルに・・・時には、人の体や命にまで化けるのです。ものを売ってお金を手に入れるとは・・・相手に化かされること。ものを買ってお金を支払うとは・・・相手を化かすこと。私達はそれと気づかず、日常的に・・・人を化かしたり、化かされたりしているのです。狸に狐、狢や猫・・・果ては河童や天狗まで・・・人を化かすと言われる魑魅魍魎は数知れませんが・・・もっとも巧みに人を化かせるのは・・・やはり、人をおいて外にはないのですよ・・・」

 桐生さんはそう言った。

 「それじゃあ・・・俺達は、昔話に出てくる旅人みたいなものなんですね。一歩外から見れば、野原の真ん中で狸を前にうまいうまいと、泥饅頭を食わされているような・・・」

 「そう悲観的になることはありませんよ・・・。化かすといっても、普通の人間はそうひどい化かし方はしないものです。私達が買って食べる食べ物は泥饅頭などではありませんし・・・ゆうべまで寝ていた家が朝になったら消えていた、などということもありません。人の化かし合いは・・・ルールに従う限り、それに見合った実体のあるものを得ることができるのです。だからこそ・・・人はいまだに、化かされ続けているのです」

 俺がなんだかやりきれない心でそう言うと、桐生さんは笑った。

 「そう・・・この化かし合いにも、ルールというものが存在するのです。狸とは違い・・・ご馳走と偽って泥饅頭を食わせるようなことは・・・人の化かし合いにおいてはルール違反です。私達の仕事は・・・そのルールを破る性悪狸を捕らえて、その理を守ること。化かし合いそのものを止めることではありません。化かし合いの片棒担ぎと・・・言えなくもありませんね・・・。ですから・・・私もまた、狸なのですよ」

 微笑を浮かべる桐生さん。こんな美しい狸など、果たして、いるものなのだろうか。

 「私達はそんなふうに・・・化かし化かされながら、毎日を生きているのです。時には、ないものをあると思い・・・時には、あるものをないと思う・・・。化かす、化かされるというのは・・・普通の人が思っているよりもずっと・・・私達のそばにあるのです。ですから・・・」

 桐生さんは言った。

 「浮世は常に化物だらけ・・・百鬼夜行なのです」

 つぶやくようにそう言った桐生さんの表情は・・・実に楽しげだった。

 「化物だらけ・・・でございますか。なるほど。考えてみれば、今も昔も世の中で変なことが起こるのは絶えたことがありませんね。それもそういった化物の仕業だとするなら・・・亜矢さんたちのお仕事は、そんなこの世の化物を相手にしていると、そう言えないわけでもないのですね?」

 山王丸は納得のいったようにそう言って、桐生さんの顔を見た。

 「化物の全てが・・・悪いわけではありませんからね・・・。私達が退治するのは・・・人に仇なす化物のみです」

 桐生さんは笑いながらそう言った。

 「その点から言えば・・・あの青狸は、決して悪い化物ではありませんよ。むしろ・・・民話で病気の村人を治し、日照りの村に雨を降らせたというだけあって・・・なかなかよい狸ではなかったのではないでしょうか。紆余曲折はありましたが・・・結局あの狸は、私達をここまで導いてくれたのですから。おかげで・・・すべては収まるべき場所へ収まったのです。士農田さんのお父さんから遺産のありかを託されて以来・・・足かけ50年にわたる大化かしが・・・ここに成就したわけです。狸にしても・・・狸冥利に尽きるのではないでしょうか・・・」

 足かけ50年の大化かし。そう言われてみると、今までいろいろと振り回されてきたのもまんざらではなかったような気がして、俺は妙な気分になった。やはり・・・まだ化かされているのかもしれない。

 「そうそう・・・。言い忘れていましたが・・・もう一つ、面白いことがわかりました」

 俺がそんなことを考えていると、桐生さんは思い出したようにそう言った。

 「お稲荷様の遣いに祀り上げられ・・・今に至るもこうして私達を化かしたぐらいですから・・・もしかしたらこの狸にも、金長や団三郎のように名前があるのではないかと・・・そうも考えていたのです。そうしたら・・・」

 「あったんですか? あの青狸にも、名前が」

 俺がそう言うと桐生さんはうなずき、あの「地域祭祀研究」を取り出した。

 「狸稲荷の祭祀の様子だけでなく・・・作者はやはりこの村で、あの狸の名前をも知ることができたのです。それによると、あの狸の名は・・・銅鑼右衛門といったそうです」

 「どらえもん・・・ですか」

 「他の名のある狸と比べても・・・少し変わった名前ですね。もっといろいろ知りたいところなのですが・・・残念ながらこの本には、その名前と例の民話しか記されてはいませんでした」

 桐生さんは本をパタンと閉じた。

 「名前も力もある狸というのは・・・総じて何百年も生きている古狸です。その割には狸というものは・・・どうも生来、お調子者のようでもあります。もしまだ生きているのならば・・・案外、こんなふうに歌ったら出てくるかもしれませんよ」

 そう言うと桐生さんは、顔を夜の庭へと向けた。そして・・・

 「たーぬきさん、たーぬきさん、あーそぼーじゃなーいかぁ♪」

 「いーまご飯の真っ最中♪」

 俺と山王丸は、思わず耳を疑った。そして、庭に目を向けた。

 庭の風景は、先ほど見たものとまったく変わってはいなかった。相変わらず、化物じみて見えるほどに立派な松の木が、満月のかかった夜空へと、大きく枝を伸ばしていた。そんな松の下に・・・

 それは、いた。スイカを縦に二つ重ねたような、ダルマのような体型。やけに短い腕の先には、指のない団子のような手。短い脚の下にこれまた指のない鏡餅のような偏平足がついている。全身は真っ青だが、顔面と腹、それに手足は、白粉を塗ったように白い。その白い顔には、大きな丸い目と赤い団子鼻、やたらにでかい口と、6本の細い髭。腹にはなぜか、カンガルーのような袋をつけている。そして・・・首に巻きつけた赤い首輪に、小さな鈴。あれが・・・

 銅鑼右衛門狸。

 ちりん。

 鈴の音が聞こえた。そのとたん・・・夜の庭は、元の姿へと戻った。銅鑼右衛門狸の姿は、どこにもなかった。

 「き、桐生さん、今のは・・・」

 俺と山王丸は桐生さんの顔を見たが・・・彼女はただ、庭へ顔を向けて楽しそうな表情を浮かべるばかりだった。

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