『朧車』

むかし加茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり
出てみれば異形のもの也
車争の遺恨にや

「鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺 中之巻 霧』」



 墨を流したように真っ黒な夜空に、霞のような薄い雲が幾筋もかかっている。夜空に浮かぶ三日月は、ぼうっとした光を放ちながら、朧にその姿を雲間に見え隠れさせている。

 その夜空の下を走る、交通量のほとんどない深夜の高速道路の上を、一台の青いエアカーが疾走していた。

その男は、車内に流れるハードロックにあわせて鼻歌を歌いながら、ハンドルを握っていた。

 まずまずの調子だ。

ハンドルを握りながら、彼はそう思う。彼の乗るエアカーは、彼自身の手でかなり手が加えられている。睡眠時間を削り、収入の多くをそのチューンナップに費やしただけの手ごたえを、エンジン音から、車体の振動から、彼は感じ取っていた。

深夜の高速道路は行き交う車も少なく、さながら闇に包まれたサーキットのようである。

 サーキットだったのだ。

 彼はそう思った。彼、いや、彼らにとってたしかにここは、以前はサーキットであったのだ。あの頃は今のように、自分一人でハンドルを握っているようなことはなかった。ヘッドライトからほとばしるハイビーム。闇をつんざくクラクション。そして、体の中まで震わすようなエンジン音。今でもありありと思い出せる。体が覚えている。かつて彼は、仲間達とともにこのサーキットを舞台にレースまがいの危険な遊戯を楽しんだものである。しかし・・・

 よそう。

 彼は首を振って、追憶を中断した。彼の昔の記憶は、いつもそのように中断される。いや、中断しているのだ。

 ヘッドライトの光に、高速道路にまたがる案内板がすぅっと浮かび上がった。その案内板は、この先にインターチェンジがあることを告げている。

 次のインターで降りて、今日は帰るか。

 さすがに少し疲れを感じてきた男が、高速から降りようと、外側に車線を変更したその時。

 バックミラーの中で、パパッとヘッドライトの光がまたたいた。

 見なれないデザインの車が、しきりにパッシングを繰り返している。

 なんだ? あの野郎・・・チャレンジャーかよ?

 男は、先程まで感じていた疲れも眠気も忘れて、ハンドルを握る手に力をこめた。

 チューンナップしたばかりのエンジンは、気持ちのよい音を響かせている。

 おもしれぇ。

 男はバックミラーに写る車に嘲るような笑みを浮かべると、思いきりアクセルを踏み込んだ。

 身体が、ぐぐっとシートにめり込むような感覚がやってくる。この感覚だ。ひさしぶりに自分の身に戻ってきたその感覚に、男は愉悦に口元をゆがめた。

 2台の車はたちまちインターチェンジを、高速道路を駆け抜けていった。



 それは最初、偶然かと思われた。

 あの車は、先ほどから男の車にピタリと追走してくる。

 「な・・・なんなんだよっ!」

 それが偶然では無いと気がついた時、男は背後からじりじりと迫るような恐怖を感じていた。

 車は、男の車を追走している。

 すでに、時速は180キロを超えている。

 ハンドルを握る男の手が、脂汗でぬるりと滑った。

 その時、突然追走する車が速度を上げた。

 「!?」

 必死でハンドルを握る男をあざ笑うかのように、車はすっと男の車の左へと滑り込むと、全く同じ速度で並走をはじめた。

 「な・・・っ!?」

 そのとき・・・それまでそのレースに必死だったため、じっくりとその姿を見ることのできなかった男の目に、灯火の姿に浮かびあった車の全体像が映った。

 それは、真っ赤なエアカーだった。炎のように・・・血のように、鮮やかな赤が。

 「あ・・・ああ・・・!?」

 わけのわからないうめきの言葉とともに、男の目が驚愕と恐怖に見開かれた。

 嘘だ。

 そのうめき声に続けて、言葉がそう続けて出ようとしたそのときだった。

 「!?」

 突然、エンジンが異常な音を立て始めた。アクセルは一定に踏み込んでいるというのに、ダッシュボードのスピード計はぐんぐん数字をあげていく。タコメーターに表示されるエンジン回転数も、それは同様だった。そればかりではない。ウィンカーが勝手に点滅し、ワイパーも勝手に動き始める。ヘッドライトが狂ったように点滅を繰り返す。

 「お・・・おい!! なんだよこれ!?」

 半狂乱になって、いろいろなスイッチをいじる男。しかし、車の異変は収まることがなかった。そればかりか・・・

 ググッ・・・

 「!?」

 ハンドルが、突然右へと曲がり始めた。短く悲鳴のようなものをあげ、全身の力を両腕に込めてそれに抗おうとする男。しかし、ハンドルはびくともしない。車はだんだんと、車線を外れていく。そして・・・

「あっ・・・が!?」

はっと気がついた時、男の目前には、中央分離帯が迫っていた。



朧車



 萩野俊作がSMS第1小隊の分署を訪れたのは、梅雨も真っ只中の6月の末のことだった。

 来客用の駐車場に車を停めた萩野は、大急ぎで傘を広げた。バケツをひっくり返したような大雨が降っている。もたもた広げていては、傘を広げるわずかな時間の間にもかなり濡れてしまいそうだ。彼は車内に雨が吹き込まないようにドアもすばやく閉めると、雨に煙る第1小隊の分署へと、水溜りをよけながら足を進めていった。




 目の前で金属のドアがスッと音をたてて開くと、そこには見慣れた青年の顔があった。

 「こんにちは、萩野さん。大丈夫ですか、濡れたでしょう?」

 青年はそう言うと、萩野のそれほどおしゃれとは言えない姿をひとしきり見渡した。

 「いやぁ、ひどい雨ですよ。いくら梅雨だからって、こんなに降ることなんてないでしょうにね。傘なんかほとんど意味がない。たしかに上は濡れませんけど、足元から濡れちまうんですから」

 萩野はそう言いながら、自分の足元を見た。灰色のズボンの裾がぐっしょりと濡れ、黒ずんで見える。いくら傘をさしていても、地面に跳ね返って足元を濡らす雨は防ぎようもない。

 「とにかく、入ってください。立ち話もなんですから」

 「すいません。特に用があるってわけでもないのに・・・」

 萩野は恐縮しながら、青年に促されて部屋の中へと足を踏み入れた。

 室内は、非常に整然とした印象を受ける部屋だった。正面には、壁から垂れ下がっている巨大なモニター。その脇に、大きな窓を背に一つの机が置かれている。そしてモニターの前には大きな円卓が置かれ、並べられた椅子の前に同じように端末が並べられている。

 「やあ・・・いらっしゃい・・・」

 静かな声とともに、そのうちの一つにかけていた女が、体ごと彼に向けて挨拶をする。肩口より少し長めに伸ばした美しい緑の髪が、さらりと揺れた。

 雪のように白い肌をもつ、日本人形のように整った顔立ちのうえに、非常に理想的なバランスで顔のパーツが配置されている。特に印象的なのは、やや細めの双眸である。その双眸はどこか物憂げな雰囲気と、覗き込むと魅入られる深淵のような不思議な深さを持っている。
桐生亜矢というこの女性は、その全身から神秘的な魅力を発しているように見えることがある。萩野はすでに何度もこの女と会っているというのに、いまだに彼女の見せる些細な表情の変化や仕草にどきりとさせられることがある。

 「難儀でしたでしょう・・・。この降り方では・・・」

 亜矢はその目を窓の外に向けながらそう言った。

 「すいません。いつもと同じく、ちょっとご挨拶をして帰るつもりですから・・・」

 萩野はそう言ったが、青年は首を振った。

 「せっかく来たんですから、ゆっくりしていって下さいよ。雨宿りでもするつもりで」

 「いや、しかし・・・皆さん、仕事中でしょう?」

 「たしかにそうですけど、今のところは何も起きてませんからね。お相手はできますよ。どうぞ、そこに座ってください。ひかると聡美さんは、今日は非番ですから」

 青年はそう言って、いつも自分が座っている右隣の席を萩野に勧めた。

 新座圭介というその青年も、亜矢と同じくこの東京都SMS第1小隊の隊員であり、萩野とも顔見知りである。第1小隊の中では同期入隊の服部ひかると同じく最もキャリアは浅いのであるが、かつて世間を騒がせたとある犯罪組織の重武装ジャケットのうち一人を倒したことをはじめ、すでに数々の手柄をあげているというあたり、精鋭揃いのSMSに採用されたにふさわしい優秀な人材であるようだ。のみならず、聞くところによるとパートナーであるひかるとはプライベートな面においても、すでに結婚を約束しあったような中だというから、公私ともに人もうらやむような状況にあることは間違いない。

 「新座君の言う通り・・・ゆっくりしていってください。どうも新座君も・・・仕事がなくてひかる君もいない梅雨時の昼下がりというものは・・・退屈でしょうがないようですからね。よかったら、話し相手になってあげてください・・・」

 「あ、亜矢さん!! 俺は何も、そんな・・・」

 顔を赤くしてそう言う圭介に、亜矢はおかしそうに微笑を浮かべた。すでに結婚まで誓い合った人までいるというのに、まるで初恋をからかわれたように初々しいリアクションである。根が純朴なのだろう。そういったあたりにも、萩野は他の隊員と同じく彼に好感を覚えていた。萩野はただ小さく笑うと答えた。

 「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。ところで・・・今は、お二人だけなんですか?」

 萩野はやや閑散とした室内を見渡してそう言った。普通ならこの部屋には、7人の人間がいる。誰かがいないとしても、モニター脇の席の主である、40過ぎのやや風采のあがらない外観の中年親父に見えるここの隊長は、たいていはその席に陣取っていて、気の抜けた声で彼を迎え入れてくるものであった。しかし、今この部屋には彼ら3人以外の姿はない。

 「隊長は定例の報告会で、本部まで行ってます。副隊長と小島さんも、ちょっと今は外出中なんです。すいませんね」

 「いえ、勝手にお邪魔してるのはこっちですから」

 そのとき、亜矢がスッと立ち上がった。

 「ちょっと・・・お茶をいれてくるよ・・・」

 「あ、いいですよ亜矢さん。俺がやりますから」

 圭介が慌ててそう言ったが、亜矢はフッと笑った。

 「ひかる君に代わって・・・お昼ご飯を作ってくれたからね。お茶ぐらいは・・・私が煎れさせてもらうよ・・・」

 「そうですか? それじゃあ、すいません」

 「それじゃあ、ちょっと待っていて。萩野さん・・・ひかる君の席におかけになっていてください」

 亜矢はそう言って、オフィスから出て行った。

 「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 「ええ、どうぞ」

 萩野はようやく、ひかるの席に腰を下ろした。圭介も自分の席に座る。

 「・・・こうなってしまうと、なんだかこの部屋もがらんとして見えますね」

 萩野は部屋を見渡しながら言った。

 「ええ。特に、小島さんと聡美さんがいないっていうのは。普段はご存知の通り、うるさく感じることの方が多いんですけど、いなきゃいないでどうも寂しい感じがしますね。すっかり慣れちゃってるんですよ、もう」

 圭介はそう言って、少し小声になってさらに続けた。

 「・・・実を言うと、萩野さんが来て助かったっていうのは本当なんです。今までは、亜矢さんとこの部屋で二人きりだったわけですから。つまり、その・・・」

 「ああ・・・」

 言いにくそうに苦笑いを浮かべる圭介を察したように、萩野はうなずいた。

 「わかります。たしかに、桐生さんと二人きりというのは、なかなか難しいでしょうね」

 「ええ。一緒にいるのが嫌とか、そういうんじゃないんです。ただ・・・」

 「何を話題にすればわからないんですね?」

 圭介はそうですと言ってうなずいた。

 「わかりますよ。たしかに、桐生さんはSMSの隊員とかそういうのを抜きにしても、人間としてすばらしい人だと思います。ただ・・・俺達と共通項を見つけるのが難しいと、そういうことでしょう?」

 「そうなんです。趣味とか好みとか、そういうのがあまりにも俺達とは違いすぎてて、こんなふうに二人きりになったりしたときには、何を話題にすればいいかわからないんですよ。だから、特に必要もないのに勝手に居心地悪く感じたりするんです。もちろん、亜矢さんのせいじゃないんですけど・・・」

 「そうでしょうね。それは俺も同じです。学がないからなおさらですよ」

 「俺だって学があるわけじゃありませんよ。とにかくそんな感じで、亜矢さんと二人きりの時はお互いに本を読んでたりして、どうしても静かなものになっちゃうんです。さっきまでもそうだったんですよ。ほら」

 圭介はそう言って、萩野の座っている席の右隣である席を指差した。その上には、一冊の古い和綴じの本が開かれた状態のまま乗っていた。

 「ははぁ、さすがは桐生さんだ。こういうときの読書も、なんだかすごい本を読んでるみたいですね」

 萩野は本を見ながらそう言ったが、圭介は言った。

 「たしかに、それは古い本ですけどね。でも、俺も見せてもらったことがありますけど、そんなに難しい本じゃないですよ。載っているのは、ほとんど絵ですから」

 「絵?」

 「妖怪の絵です。よく見てください」

 圭介にそう言われ、萩野は開かれた紙面に目を落とした。



 奇妙な絵だった。夜の絵である。

 背景、やや上方に描かれているのは、月である。大きく丸い、満月だ。ただ、その月には雲がかかっている。その雲のために満月はところどころが隠されており、下半分はほぼ見えない。雲にその姿を隠され、時折その雲間からぼんやりと姿を現す満月。
「朧月夜」とは、こんな月のかかった夜のことを言うのだろう。

 その月の下に、異形の者がいる。

 萩野はそれを、歴史の教科書の中でしか見たことがない。平安時代、貴族など身分の高い人々が、乗り物として牛に牽かせていた車・・・「牛車」というのだろう。本物を見たことなどない。京都にでも行けば、祭りなどの折に今でもまだ見られるのかもしれないが、少なくとも世間一般では、すでに日常にあるものではない。
 そこに描かれているのは、牛車だった。それだけならば、怪奇でもなんでもない。だが、その正面・・・本来ならば御簾が垂らされ、中に乗る高貴な人がそこから外をうかがうべき場所に

 顔があった。

 巨大な顔である。それも、ただの顔ではない。牛車の中にぎっしりと詰まった巨大な頭が、御簾のあるべき場所から、文字通り顔を出している。そんな印象である。
しかも、その面相は非常に恐ろしい。強いて例えるなら、まるで般若のような面相である。ぎょろりとした目を大きく開け、口はまるで笑っているかのように開いている。まるでもつれあった糸のような髪が、まるで生きているように牛車の外へとうねうねと伸びている。

 巨大な頭が中から顔を出した牛車が、朧月の下たたずんでいる。そんな、奇怪な絵だった。



 「「今昔百鬼拾遺」というらしいですよ」

 萩野がその絵に目を釘づけにしていると、立ち上がって近づいてきた圭介がそう言った。

 「江戸時代の本で、鳥山石燕という浮世絵師が描いた本らしいです。石燕という人はこんなふうに妖怪を描いた画集を何冊も出していて、いくつもシリーズがあるらしいんです。これは「今昔百鬼拾遺」というシリーズのうちの一つで・・・」

 圭介はそう言いながら、本の表紙をひっくり返して見た。

 「ああ、これは「中之巻」ですね。シリーズはどれも3巻で一つらしいんですけど、これは「今昔百鬼拾遺」の中巻というわけです。石燕の描いた妖怪画集は、特に亜矢さんのお気に入りみたいですよ。こんなふうに、よくここで読んでます。隣に座ってるひかるは怖がりますけどね」

 圭介はそう言って笑った。

 「江戸時代の本ですか・・・。勝手に触ったりして、大丈夫なんですか?」

 「かなりたくさん出回った本らしくて、今でも手に入れるのはそれほど難しいというわけでもないらしいです。乱暴に扱ったりしなければ大丈夫ですよ。もっとも、亜矢さんにとっては大事な本らしいですけどね」

 萩野は再び、あの絵に目を戻した。

 「しかし・・・これはおっかない妖怪ですね。ほんとにこんなのが目の前に現れたら、肝が縮み上がりそうですよ」

 「ええ。俺もその本は見せてもらいましたけど、特にその絵は怖いですね。ひかるもいつにもまして怖がってました」

 「絵の横に、何か書いてありますね」

 牛車の妖怪は画面の左側よりに描かれており、そのために全体像は明らかでない。ひたすらに、巨大で恐ろしい顔が目につく。その右側にはなにやら文字が書いてある。当然ながら江戸時代に書かれたものなので、その全部は読み解くことができなかったが・・・

 「「朧車」・・・これが、この妖怪の名前かな?」

 数少ない読める文字である、その一番最初の二文字を口にする萩野。ルビもふってあるので、読みやすくはあった。

 「むかし加茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。出てみれば異形のもの也。車争(くるまあらそい)の遺恨にや・・・」

 「「わぁっ!?」」

 突然背後から聞こえた声に、2人は飛び上がらんばかりに驚いた。

 「お待たせしました・・・」

 そこには、湯気の立つ3つの湯飲みを盆に載せた亜矢が、いつのまにか立っていた。

 「驚かせてしまったかな・・・?」

 「当たり前じゃないですか! そういうのはやめてほしいって、いつも言ってるでしょう! ほら、萩野さんだってびっくりしてるじゃないですか。すいません」

 「い、いえ・・・」

 萩野は心臓の鼓動を抑えるように、すっと胸に手を当てた。

 「失礼・・・。萩野さんがその妖怪に・・・興味を持ったように見えたので・・・」

 亜矢は小さく笑いながら、萩野や圭介に湯飲みを渡し、自らもそれを冷ましながら口へと運んだ。

 「え、ええ・・・。興味・・・というんですかね。ただ、強烈な印象のある絵であることはたしかですね。ここにある「朧車」というのが、この妖怪の名前ですか?」

 「その通りです・・・」

 「それじゃあ、さっき桐生さんが言ったのは、その名前に続いてるこの・・・」

 「むかし加茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。出てみれば異形のもの也。車争の遺恨にや・・・」

 萩野が「朧車」の名前に続く記述を指で指すと、亜矢はもう一度そう言った。

 「おっしゃるとおり・・・そこにはそう書かれています。それほど難しい意味ではないとは思いますが・・・」

 「昔、賀茂の大路で、朧月夜に車の軋る音がしたという。表に出てみると、それは異形のモノであった。車争いの遺恨だろうか・・・直訳すれば、そんなところでしょうか?」

 「正解です・・・。さすがは萩野さんですね・・・」

 「いや・・・ガキの頃は国語と社会だけが得意科目だったんですよ」

 萩野はそう言って、照れ笑いを浮かべた。

 「でも・・・意味のわからない言葉もありますね。賀茂の大路というのは、やっぱり道の名前なんですか?」

 「ええ・・・昔の京都にあったという、大路の名前ですよ・・・」

 亜矢は席につきながらそう言った。

 「今の京都には・・・そんな名前の道はないのですけれど・・・。しかし・・・「賀茂」というのは、京都にある上賀茂神社、下賀茂神社という二つの神社の総称です。時にはこの神社の祭・・・葵祭というのですが・・・それをそう呼ぶときもあります。ですから・・・賀茂の大路というのはおそらく、その二つの神社の近くの大通り・・・もしくは、祭の行列が練り歩く道のことを指すと言われています・・・」

 「ということは、これは亜矢さんの地元に出た妖怪・・・ということですか。たしかに牛車の妖怪っていうのは、いかにも京都らしい感じがしますね」

 圭介がそう言った。

 「わからない言葉はもう一つあります。「車争い」というのは、なんですか? まさか、牛車同士でレースみたいなことをしたとか・・・」

 「牛車はそういうことをする乗り物ではありませんよ」

 亜矢は笑いながら首を振った。

 「車争いとは・・・「源氏物語」の「葵の巻」にある、六条御息所と葵上にまつわる出来事のことです」

 「六条御息所というと・・・あの、生霊になって葵上を殺したという? 詳しくは知りませんけど」

 萩野の言葉に、亜矢はそうですとうなずいた。

 「その2人の確執を決定的にしたような出来事が・・・車争いなのです」

 「確執の原因・・・? どういうことですか?」

 「先ほど・・・賀茂神社では葵祭という祭が行われていると言いましたが・・・これは古くは、賀茂祭と呼ばれていました。この葵祭に祇園祭、時代祭を加えたものが、京都の三大祭なのですが・・・」

 亜矢は唐突に話題を変えた。しかし、これもそれから本題につながっていくことなのだろう。

 「かつては、次の天皇に主権が移ると「斎院」 と呼ばれる人が新しく選ばれていたのです」

 「斎院とは?」

「新しい天皇一代の間、神社に奉仕する未婚の皇女のことで・・・新天皇即位の度に選ばれました。斎院となった皇女達は・・・まず加茂川で身を祓い清めます。これを 「初度の御禊」 といいます。そして足掛け3年の間潔斎を保ち・・・4月吉日を選んで再び加茂川で身を清めます。これを 「二度の御禊」 と言います。そして・・・今話した賀茂祭の日に、初めて賀茂神社にお参りし、祭事に従われるのです」

 「なるほど。ただのお祭じゃないんですね」

「ええ・・・。そして・・・斎院が賀茂神社に向かう時には、多くの殿上人が付き添います。それも・・・大儀ですので、選ばれるのは当代きっての貴公子達ばかり。教養も高く、見目麗しい貴公子たちの行列とくれば・・・京中の女性達が騒がない理由はありません。皆、牛車に色々の装飾をして見物に向かうのです。さて、「源氏物語」なのですが・・・あるときの斎院の行列に、あの光源氏も選ばれたのです。光源氏というのがどんな人かは・・・ご存知ですか?」

「まぁ、国語の時間で習ったぐらいには。絶世の美男子だと聞いてます。当然のようにご婦人方にももてもてで、正妻がいるにもかかわらずあちこちの貴婦人達と枕を供にしたとか・・・」

 亜矢はうなずくと、圭介の顔を見た。

 「あまり機嫌のいい顔ではないね、新座君・・・。君はひかる君一筋だからね・・・」

 「え!? あ、いや・・・」

 圭介は少し慌てた。

 「気持ちはわかるよ・・・。しかし・・・それは当時の貴族達の間にあっては、ごく当たり前な恋のかたちの一つだったんだよ。現代の基準に照らし合わせて、浮気性とか女たらしとか・・・そう片付けてはならないことは、心に留めておいてほしい・・・」

 「ええ、わかっています。すいません」

 亜矢はうなずくと、先を進めた。

 「詳しくは「源氏物語」を読んでもらうよりないのですが・・・ここでは、萩野さんがおっしゃったようなことだけわかっていれば、それでも事足りるでしょう。さて・・・萩野さんがおっしゃった、光源氏と枕を供にした貴婦人たちの中に・・・六条御息所という女性がいました」

 話は再び、六条御息所へと戻った。

 「六条御息所もまた、かつては光源氏に寵愛を受けた女性だったのですが・・・彼女はその頃、彼が以前のように自分のもとへ通ってこなくなってしまったことに、不安を感じていました。それも、漠然とした不安ではなく・・・彼女が光源氏よりも十も年上であることや・・・正室である葵上に子供ができたことも・・・このまま自分は捨てられるのではないか、という不安を抱かせるものだったのです」

 「まぁ、俺みたいに女性にはとんと縁のない男が言うのもなんですが・・・恋人が相手にしてくれなくなってきたら、誰だってそう思いますよね」

 萩野はうなずいた。

 「実際・・・光源氏が彼女の元に通わなくなってから、ずいぶん長いことになっていました。原因としては、彼が昇進して軽率な行動はとれなくなったことや・・・葵上の懐妊などいろいろあったのですが・・・一番の原因はやはり、彼が六条御息所に飽きてしまっていたことでしょう」

 「飽きた?」

 「源氏は六条御息所に魅力を感じなくなってしまっていたんだよ・・・。彼女の不安は・・・悲しいけれど、的中していたんだ」

 「そんな・・・!」

 「たしかに・・・これは酷いかもしれないね。男女の間では・・・何が起こるかわからない。どれだけ愛し合っていた2人でも・・・やがて相手に魅力を感じられなくなるようなことも、世の中ではいくらでもあることだよ。恋愛は・・・ハッピーエンドばかりではないのだからね・・・。しかし・・・たとえそういうことになったとしても、かつては愛し合った者同士だ。それならば・・・そんな相手へのせめてもの礼儀として・・・けじめのひとつはつけるべきだろう・・・。それを放っておくというのは・・・たしかに、酷いことかもしれない・・・」

 憤ったような表情の圭介に、亜矢は滔々と語った。

 「そんなとき彼女の耳に入ってきたのが・・・源氏が、賀茂祭の行列に加わるという噂だったのです」

 亜矢は言った。

 「当日・・・京中の女は、一目でも光源氏を見ようと、場所取りに余念がありませんでした。その中には・・・お忍びでやってきた六条御息所もいたのです」

 「なぜです? 彼女も、光源氏が自分に飽きてることは、ある程度気がついていたんじゃないんですか? それなのに・・・」

「もちろん・・・彼女はそれに気づいてはいたよ。それどころか・・・恨んでもいたけれど・・・」

 納得のいかない表情を浮かべる圭介に、亜矢は顔を向けた。

「でもね・・・うわべでは源氏を恨んでいながらも、彼女は、彼の姿を一目見たいという気持ちを抑えられなかったんだよ。それは彼女自身も驚くような・・・そんな気持ちだったんだよ・・・」

 今も昔も恋心とは複雑だからねと、亜矢は言った。

 「一方で・・・源氏の正室である葵上も・・・この祭見物にやってきていました」

 「え? でも、身重だったんじゃ・・・」

 「そうです。それに、彼女は人ごみが嫌いでした。だからできれば行きたくはなかったのですが・・・母親に言われて、しぶしぶ行くことにしたのです」

 「どういうことです?」

 「実際に行きたがっていたのは彼女ではなく・・・彼女の取り巻きの女房達だったんですよ。彼女たちは葵上のお供をすることで、周囲の羨望の眼差しを集めたがっているということを理解してやれと・・・こう母親に言われたのです」

 「大変だったんですね・・・」

 「そうだね・・・。そうしてしぶしぶながら出て行ったわけだけれども・・・当然、そういう事情だから前もって場所取りなどしていない。あたりは牛車でひしめきあっている。そこでお供の下人たちは権力を振りかざし・・・どけどけとわめきながら道を開けさせようとしはじめたのです。しかし・・・それに応じない牛車がありました」

 「もしかして、それが・・・」

 「・・・下人たちはお神酒で少し酔っていたこともあり・・・力ずくでその牛車を、押しのけてしまったそうです。押しのけられた車は、他の牛車にのしかかるような格好になってしまい・・・非常に、体裁の悪い姿になってしまったようです」

 亜矢はそう言った。

 「葵上は・・・車に乗っているのが誰か、わかっていたようです。車に施されていた飾りが・・・質素ながらも、高貴な人のお忍びであることは明白でしたから・・・。しかし・・・下人たちの横暴を仲裁すると、あとあと面倒なことになりそうだと・・・放っておいたのです。愛人の肩を持つというのも、おかしな話だと・・・」

 「酷い話ですね・・・」

 酷い話ですと、亜矢はうなずいた。

 「自分はこんな屈辱を味わうためにこんなところまでやってきたのかと・・・葵上の下人たちに押しのけられた六条御息所の心中は、情けない気持ちでいっぱいでした。いっそこのまま帰ろうにも・・・牛車がひしめき合っていて、抜け出す隙間もない。そんなとき・・・いよいよ行列がやってきたという声が、牛車の中へと届いたのです。そして・・・そんな思いまでしているというのに・・・彼女は思わず、行列に源氏の姿を探してしまったのです。そして・・・行列から遠く離れたところにいる彼女の牛車に気づくこともなく、彼は通り過ぎていきました。飽きられてしまっている、もはや彼の心に自分はいない・・・そうはわかっていても・・・彼女の頬には、どうしようもない涙が伝ったそうです。この出来事を人々は後に・・・車争いと呼んだのです」

 「悲しい話ですね・・・」

 車争いという簡単な言葉からは想像もつかない、複雑怪奇な恋心の絡み合った出来事。萩野は心の底から、悲しいことだと思った。

 「そして・・・それがきっかけのように、その後六条御息所と葵上の身に起こったことも・・・どうしようもない恋心の生んだ、悲しい出来事でした・・・」

 亜矢は言った。

 「ここからは萩野さんの言った通り、有名な話なのですが・・・葵上のお産の際に、六条御息所の生霊が彼女に取り憑き・・・彼女は男の子を出産したものの、その後それがもとで死んでしまったのです。しかも・・・彼女は葵上に取り憑いている物の怪が、自分の生霊であるということを・・・世間の噂で知ったのです。それは彼女にとって・・・なによりも恐ろしいことでした」

 「どういうことですか?」

 「彼女はその噂を聞いて初めて・・・自分の本心の恐ろしさを知ったのです。それは・・・自分では源氏を恨んでいると思っていたのに・・・実際には葵上を恨んでいたということに他ならないからです。葵の上さえいなければ、源氏は・・・という、源氏ではなく、彼に愛される女達を妬み、恨むような、浅ましい気持ちが・・・生霊となって葵上に祟っていたのですから・・・」

 亜矢は「朧車」の絵に目を戻した。

 「長くなりましたが・・・この詞書にある「車争」とは、六条御息所と葵上にまつわる・・・そんな出来事のことなのです。つまり、「朧車」とは・・・六条御息所の遺恨の念が牛車にのりうつったものか・・・あるいは、牛車そのものに化けたものだろうかと・・・そう書かれているのです」

 「なるほど・・・」

 「でも・・・それって、ちょっとおかしくないですか?」

 圭介が言った。

 「「源氏物語」っていうのは、紫式部の書いたフィクションでしょう? 遺恨もなにも、実際に起こった出来事じゃないじゃないですか。そんな架空の出来事が、現実の世界に妖怪になって出てくるなんて・・・」

 「新座君・・・それは、無粋というものだよ・・・」

 亜矢は圭介を横目で見ながらそう言った。

 「つまりは、この妖怪は・・・どうしようもないほど恋に焦がれた人の想いが行き着く果ての恐ろしさを表しているようなものなんだ・・・。六条御息所に限った話ではなく・・・現実にそんな恋をするようなことになれば、誰もがこの妖怪に取り憑かれたようなものなんだよ・・・。現実の話かどうかなんて・・・たいした問題じゃない。人目をはばかる朧月夜に、どこからともなく聞こえる牛車の軋る音・・・。そんな怪異に・・・人々が六条御息所の情念を思い浮かべたと・・・そういうことなんだ」

 「人の想いの象徴・・・みたいなものですか」

 萩野がそう言うと、亜矢はうなずいた。圭介も何も言わなかった。萩野は改めて、「朧車」の絵を見た。

 「いやぁ、いつもながら、桐生さんのお話はためになりますね。妖怪って言っても、奥が深いものです。まさかこの妖怪に、源氏物語に由来するような、人の情念にまつわる逸話があるなんて・・・」

 「だからこそ・・・妖怪は面白いのですよ」

 亜矢はそう言って微笑を浮かべた。

 「最初に見たときには、牛車の化物だという以外、何も思い浮かびませんでしたよ。言ってしまえば、平安時代の幽霊自動車っていうところですかね」

 「幽霊自動車ですか・・・。それもまた・・・あながち間違いではありませんね。人の情念が・・・車のかたちをとって現れたという点で言えば・・・」

 「そういえば・・・」

 萩野は何かを思い出したような顔をした。

 「幽霊自動車と言えば・・・お2人とも、ご存知ですか? 最近出るって言う、真っ赤な幽霊自動車の話・・・」

 萩野のその言葉に、2人は妙な表情をして顔を見合わせた。萩野はそれを知らないと受け取ったのか、さらに先を続けた。

 「出るらしいんですよ。ドライバーが誰も乗っていない真っ赤なエアカーが、夜の道路に。で、それに出会ってしまうと事故を起こすという・・・。これだけなら、桐生さんでなくても誰でも知ってる怪談話・・・というより、都市伝説ですかね。ところが、どうもそうじゃないらしいんです」

 「・・・というと?」

 圭介がそう尋ねたので、萩野はうなずいた。

 「実はこのあいだ、取材をしていたときに偶然、ある自動車事故の直後の現場に出くわしたっていう人に出会ったんです。その人が言うにはですね、炎上している車を残して現場を走り去る、真っ赤なエアカーを本当に見たと・・・。しかも、現場にはスプレーみたいなもので、なにか落書きがされていたっていうんですよ。警察署のすぐ近くだったんで、そのあとすぐ現場は封鎖されてしまって、それ以上は何も見ることはできなかったらしいんですけど・・・お2人とも、何もご存知ありませんか?」

 萩野は尋ねた。すると・・・

 「その話は・・・事実ですよ」

 「亜矢さん!」

 圭介は困ったような顔で亜矢を見たが、彼女は笑って首を振った。

 「心配はいらないよ・・・。萩野さんは・・・ジャーナリストとして信用できる人だからね・・・。ふさわしい時が来るまで・・・みだりに口外するようなことはしないよ・・・」

 萩野は戸惑った。やはり、彼らは何かを知っているらしい。口ぶりからすると、どうやらそれについて教えてくれるようだが、亜矢の言葉からは、その代わりみだりに口外するなという暗に込められた意味が受け取られた。

 「萩野さんがお会いになった方が見たという事故は・・・いつの話ですか?」

 「え、ええ・・・たしか、2週間ほど前だと言ってましたが・・・」

 「それなら・・・2番目かな?」

 「そうですね。たぶん、そうだと思いますよ」

 亜矢が顔を向けたので、圭介はうなずいた。

 「2番目?」

 「巷で言われている、その真っ赤な幽霊自動車によるものと思われる事故・・・。それは、全部で3件起こっています。1件目は・・・1月ほど前。2件目は・・・2週間前。その人が見たというのは・・・その事故でしょう。そして・・・3件目は、昨日の夜・・・」

 「昨日の夜? あっ・・・もしかして、高速の中央分離帯に激突して、ドライバーは即死したっていう・・・」

 「さすがに・・・耳が早いですね。それです」

 亜矢はかすかに笑みを浮かべた。

 「とにかく・・・その幽霊自動車が絡んでいると思われる事故が、すでに3件発生しているのです。いずれも・・・ドライバーは即死してしまっています・・・」

 「即死ですか・・・。しかしそれなら、どうして3件とも幽霊自動車の仕業と? 2件目以外の事故でも、真っ赤なエアカーが目撃されてるとか?」

 「真っ赤なエアカーの目撃証言は、萩野さんが言った2件目だけです。他の2件は残念ながら、目撃証言はありません。しかし・・・3件とも、現場に共通した特徴があるんですよ」

 「共通した特徴?」

 「萩野さんがおっしゃった・・・現場の落書きですよ。3件とも・・・現場には赤いスプレーで書かれた落書きがあったんですよ・・・。マスコミにはまだ・・・公表は控えられていますけどね・・・」

 亜矢はそう言うと、萩野を見た。

 「萩野さん・・・これは幽霊自動車の仕業などではありませんよ・・・。真っ赤なエアカーは幽霊などではなく・・・現世のものです。SMSも警察も・・・これは単なる事故ではなく・・・何者かによる破壊工作だと見て、捜査を行っているのです・・・」

 亜矢は窓の外に目を向けた。

 「副隊長と小島君が出ているのも・・・実は、それに関係しているのですよ・・・」

 窓の外ではまだ、激しい雨が降りしきっていた。



 「「Christine」・・・「クリスティーン」ですね、どう見ても」

 手元にある3枚の写真をとっかえひっかえ見ながら、助手席の小島はそう言った。

 写真はいずれも、とある事故現場を撮影したものである。ただ、写っているのは原形をとどめぬほど壊れた自動車の残骸でもなければ、路面に飛び散ったおびただしいガラスの破片でもない。現場にあったコンクリートの壁、あるいはアスファルトの路面である。

 そこに、赤いスプレーのようなもので、文字が書かれていた。はっきりと読み取ることができる。「Christine」と・・・。

 「クリスティーンっていえば、アメリカの大御所ロックバンドですよ。ってことは犯人は、その熱狂的なファン?」

 「短絡的な推理ね。根拠も何も、ほとんどないじゃない」

 運転席でハンドルを握っている仁木が、にべもなくそう答える。

 「言ってみただけですよ。そんなことはわかってます。結びつけるには無理がある」

 小島はあっさりと今言った説を放棄すると、写真をダッシュボードの上へと置いた。

 「しかし、ロックバンドじゃないとしたらなんなんでしょうかね、クリスティーンって。わざわざこんなふうに書き残すぐらいですから、伊達や酔狂でやってるわけじゃないでしょう」

 「何か意味はあるとは思うわ。ただ、この落書きから真相をたどっていくのは難しそうね。今のところこの落書きは、3件の事故が同一犯による事故に見せかけた破壊工作ではないかと推定される根拠でしかないわ。実際に何が起きているかは、もっと別な方向から進められているところよ」

 「事故車の分析ですか。昨夜の事故車も、科学部の方に?」

 小島の言葉に、仁木はうなずいた。

 「現場検証が終わった時点で、すぐに研究所の方に送られたわ」

 「3件目ともなると、手回しも早いですね。それで、今のところはどんなことがわかってるんです? 1件目も2件目も、分析はずいぶん進んでるって聞いてますけど、何かわかったことはないんですか?」

 「直接真相に結びつくようなものは、まだ何も見つかっていないわ。ただ、これがただの事故ではないことはどうやら間違いないようね」

 「というと?」

 「破壊工作らしいと言っても、その真っ赤なエアカーに横からぶつけられたり追突されたりしてハンドル操作を誤り・・・というわけではないようね。それなら現場にはぶつかった方のガラスや塗料の破片が残るはずだし、事故車の方にも、そういったことでついた損傷は見られないそうよ。事故車が自分から壁や中央分離帯に突っ込んだことは、間違いないらしいわ」

 「それじゃあ・・・」

 「それでも、ただの事故ではないのよ。科学部からの経過報告によるとね、車の制御コンピュータの方に異常が見られたらしいわ」

 「制御コンピュータ?」

 「そう。自動運転システムや、エンジンその他のメカニズムを制御するコンピュータになんらかの異常が発生して、コントロール不能になったらしいの。あの事故はその結果・・・ということらしいわ」

 「そんなことって、よくあることなんですか?」

 「あるわけはないわ。たとえ制御コンピュータが壊れたとしても、コントロール不能に陥るようなことにはならない。だからこそ、SMSにも協力要請が来たんじゃないの」

 「まぁ、それはそうでしょうけどね・・・」

 「とにかく、事故車の分析の方は引き続き進められるそうよ。そちらの方は科学部に任せて、私達や捜査部は、別の方向からのアプローチをするべきね」

 「人間相手ってことですか。しかし村松さんも、昨日の今日だっていうのによく調べてくれましたね。被害者のなじみのパーツショップなんて・・・」

 小島はそう言いながら、カーナビの画面に目を向けた。

 「昨夜の事故車は改造車だったらしいわ。だからすぐにもとが割れたそうよ」

 「なにかわかりますかね」

 「そればかりは、行ってみないとわからないわね・・・」

 仁木はウィンカーを点灯させながら、ハンドルをゆっくりと左へ切っていった。



 国道沿いにある、一軒のパーツショップ。規模は中ぐらいのものだが、今日は店内にも客の数は少ない。こんな激しい雨の日には、たとえ車でも外出には二の足を踏むだろう。

 自動ドアが久しぶりに開いた。

 「いらっしゃ・・・」

 常連客らしい若いカップルと談笑していた金髪の店員は、笑みを浮かべたまま入ってきた客へと顔を向けたが・・・

 「い・・・?」

 彼はその場で固まってしまった。傘を閉じながら入ってきたのは、灰色の制服に身を包んだ男女だったからである。特に都内に住んでいる者にとっては、その制服は有名なものである。

 「お仕事中申し訳ありません。少し、こちらにお伺いしたことがあるのですが・・・」

 青いストレートロングの美人が、なれた手つきで懐から手帳を取り出し、店員に見せる。その表紙には、「SMS」という文字の入ったロゴが刻まれていた。

 「SMSの方・・・ですか」

 わかっていたことだが、店員は戸惑ったような表情でそう言った。

 「そんな鬼でもやって来たような顔しないでください。あ、そちらのお客さんも、どうぞお構いなく」

 女性隊員の横に立っていたなんとなく軽そうな雰囲気を持つ茶髪の男が、妙に愛想良く店員とカップルに愛想をふりまく。女性隊員は彼を横目で見ると、引き続き店員に言った。

 「お手間はとらせません。この方が・・・こちらの常連さんだったとお聞きしましたので・・・」

 仁木はそう言いながら、手帳に挟んでいた一枚の写真を店員に手渡した。20代後半ほどの男の顔が写っている。

 「ああ、カズ・・・あ、失礼。下澤和樹・・・さんですね」

 「やはり、こちらの常連さんで?」

 「ええ。このあいだもいろいろと、うちでパーツを買い込んでいきましたが・・・彼が何か?」

 店員は不安そうな表情で仁木と小島を落ち着きなく見た。

 「実は・・・昨夜、高速道路の事故でお亡くなりになりました」

 小島は言いにくそうにそう言った。

 「えっ・・・カズまで!?」

 後半の部分はつぶやきのような小さな声だったが、2人はそれを聞き逃さなかった。

 「まで・・・?」

 「あ・・・! いや、その・・・」

 仁木が鋭い視線を投げかけると、店員は視線をそらして口ごもった。

 「何か・・・ご存知なのですね?」

 「・・・」

 仁木が静かにそう言ったが、店員は黙り込んだままだった。

 「教えてください・・・お願いします!!」

 小島はその肩に手を置いてまっすぐに店員の顔を見つめ、強い口調でそう言った。店員はそのまま目を逸らしていたが、やがて小島の顔をちらと見て、しぶしぶといった様子ながらも口を開いた。

 「隠して意味があるわけじゃないからお話しますけど・・・俺がしゃべったってのは、内緒ですよ?」



 「3:30過ぎか。今日はいつもよりも早く終わりましたね」

 腕時計に表示される時刻を見ながら、SMS第3小隊長、木戸が言う。

 「早く終わってよかったわ。今日みたいな土砂降りの日はひどい事故が起きてもおかしくないから、できれば分署からは離れたくなかったから」

 窓の外でいまだ降り続く雨の様子を見ながら言うのは、SMS第2小隊長、星野。

 「全くです。特にうちは今日、指揮車ドライバーが休みだからね。事件が起きたら、俺が運転せにゃならん。こんな日にあれを運転するってのは、やっぱり俺には酷だ。できれば、御免こうむりたいね」

 前髪を後ろへとかきあげながら、SMS第1小隊長、小隈がそう言う。彼ら3人の小隊長はたったいま定例の報告会を終え、それぞれの分署へ戻るため、正面エントランスへと戻るところだった。守衛の敬礼に送られ、自動ドアをくぐると、とたんに激しい水音が耳に飛び込んでくる。

 「あらら、ますますひどくなってきちゃったな。こりゃほんとに早く帰ったほうがよさそうだ」

 ここへ来たときよりもさらに強くなっている雨脚を見ると、小隈は星野と木戸に向き直った。

 「それじゃ星野さん、木戸さん、お疲れ様」

 「ええ。今日はこれで・・・」

 「また来月も、頑張りましょう」

 3人は互いに別れの挨拶を交わすと、本部の正面エントランス前に待機していたロボットタクシーへと乗り込んだ。ゆっくりと発車し、それぞれ別の方向へと道を曲がっていくタクシー。と・・・

 「ん」

 懐から聞こえる電子音に気づいた小隈は、そこに手を差し入れた。懐から取り出されたのは、SMSの隊員が携行している高性能携帯端末、通称「Sナビ」である。

 小隈がスイッチを入れると、それは貝のようにパカリと開き、小型モニターとスイッチ類が目に入る。モニターには「着信アリ:ニキ コジマ」と表示されていた。小隈はそれを見ると、スイッチの一つを押した。

 「小隈だ」

 彼がそう答えると同時に、モニターの映像が切り替わる。二分割された画面の右に仁木、左に小島の映像が映る。

 「小島です。隊長、ご苦労様です」

 「仁木です。報告したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 「ああ、報告会は今終わったところだ。かまわんぞ。報告したいことというのは、例の事故についてか?」

 小隈がそう言うと、モニターの仁木はうなずいた。

 「はい。事前にお伝えしていた通り、捜査部の村松さんが調べてくれた3番目の事故の被害者、下澤和樹が常連だったパーツショップへ行って話を聞いてきたのですが・・・新たな事実がわかりました」

 「なんだ?」

 「それがですね、隊長。常連だったのは、下澤だけじゃなかったんです。最初の被害者も2番目の被害者も、同じ店の常連だったんですよ」

 「なに?」

 小隈は片眉を吊り上げた。

 「今でも通っているのは下澤だけだったんですけど、最初の被害者の河合英、2番目の被害者の金子俊秀も、以前はこの店の常連だったんです。あの店は店を開いてからけっこう経ってて、俺達が話を聞いた店員というのもその頃からの勤めで、3人とは顔見知りだったんですが・・・」

 「正確に言うなら、河合と金子が店に通っていたのは7年ほど前までだったようです。それ以来店に来るのは、下澤だけになったそうです」

 仁木がそう補足する。

 「気になるな。なんで急に来なくなったんだ?」

 「店員さんの話ですが、足を洗ったそうです」

 仁木はそう答えた。

 「足を洗った? なにかヤバイ商売でもしてたのか?」

 「商売じゃありませんが、ヤバイのはたしかですね。被害者3人は3人とも、同じチームだったんです」

 「チーム?」

 「ローリング族だったんですよ」

 「ローリング族というと・・・あの、夜の高速とかでレースまがいのことをしてる迷惑な連中だったな。ヘソリンガスの事件のときも、あのガスを使った奴らが暴走して事故が多発したことがあったが・・・」

 小隈がそう言うと、仁木は表情を厳しくしてうなずいた。

 「そうです。被害者3人もまた、かつては改造車を乗り回して首都高でレースを行っていたローリング族で、3人とも、同じチームに所属していたというわけです。けれど7年前、そのチームは解散したそうです」

 「足を洗ったっていうのは、そういうことか。でも、下澤についてはまだその店の常連で、パーツとかも買い込んでたんだろう? 事故車も改造車だったというじゃないか」

 「そのとおりです。下澤も他の2人と同時にチームを辞めたんですが、個人的にはまだレースがやめられなかったらしいんです。夜の高速を突っ走る快感が忘れられないと、店員さんには常々語っていたらしいですよ」

 「ふむ・・・」

 小隈は顎に手をやった。

 「隊長、やはりこれは・・・」

 「偶然・・・じゃあないだろうな。同じチームに所属してた人間が2人死んだなら偶然かもしれないが、3人続けてともなると・・・これは、必然と考えたほうが筋が通る」

 「私も、そう考えます」

 モニターの中で、2人がうなずく。

 「仁木。そのチームに所属していたのは、死んだ3人だけなのか?」

 「いえ、他にも何人かメンバーはいたそうです。ただ、その店員さんが知っているのは店の常連だった3人だけで、あとのメンバーは顔を見たこともないそうです。3人はたまたま住んでいるのがそのパーツショップの近くだったというだけで・・・」

 「そうか、わかった。2人とも、ご苦労だった。捜査部には俺の方から、そのチームについて調べてもらうように頼んでおく。仁木、そのチームの名前は?」

 「「ジャガーノート」といったそうです」

 「「ジャガーノート」か・・・。わかった。2人とも、ひとまず分署に戻ってくれ。俺もすぐに戻る」

 「「了解!!」」

 敬礼をする2人の返事が聞こえた直後、モニターはフッと消えた。小隈はSナビを折りたたんで元通りしまうと、シートにもたれて息を長く吐き出した。



 それから、数週間後・・・。

 夜の道路を疾走する、目にも鮮やかなブリティッシュグリーンのエアカーの姿があった。ドアの横には黄色、ピンク、ライトグリーンの三色に染められた「SMS」のロゴがペイントされている。

 「そろそろかしらね・・・」

 助手席に座る金髪の女がそう言ったので、運転席でハンドルを握る青年は彼女に目を向けた。

 「そろそろって・・・何がです?」

 「決まってるじゃない。「クリスティーン」よ」

 女はそう言った。

 「「クリスティーン」による事件は、今までだいたい2週間おきぐらいのペースで起こっているわ。前回の事件からもう2週間過ぎているし・・・」

 「だからまた事件が起こると? 先輩、それは不謹慎じゃ・・・」

 「不謹慎なんかじゃないわよ。楽しみにしてるわけじゃないもの。ただ、今までに増して用心する必要があるんじゃないかって言いたいの。次の犯行までは用心して間をとっているとも考えられるじゃない」

 「まぁ・・・それはたしかに間違いじゃないでしょうけど・・・」

 運転席の青年・・・SMS第2小隊実動員、浪平健は、助手席の金髪の女・・・同じく第2小隊管制員、リーナ・ストリームに対して、そう曖昧に返事をした。

 「そういえば、今までの被害者が所属していたっていう例のチーム・・・あれについてはどうなってるんですか?」

 「「ジャガーノート」のこと? あれならもう、他のメンバーのことならわかってるわよ」

 「本当ですか?」

 「「ジャガーノート」のメンバーは、死んだ3人のほかにチームリーダーも含めてあと3人いたらしいわ。チームとしては少ない人数だったらしいけど、けっこう有名だったみたいよ。ローリング族の間ではまだ覚えてる人がたくさんいたみたいで、3人とも名前も顔もわかってるわ」

 「そうですか。それじゃあ・・・」

 「それがね・・・。どうも、そう簡単に保護するとか事情を聞くとか、そういうふうには運びそうにないらしいの」

 「どういうことです?」

 「誰もその3人の行方を知らないのよ。それは死んだ人も同じだったみたい。3番目の被害者はまだ改造車乗り回してたみたいだから、今でも知っている人は多かったみたいだけど・・・」

 健はその言葉を聞いて、少し黙り込んだ。

 「本当に・・・この事件は、その「ジャガーノート」の元メンバーを狙ったものなんでしょうか。誰が、一体何のために・・・」

 「さぁ・・・。でも、被害者の間に紛れもない共通点があるのは事実だから、残りのメンバーを見つけて保護して事情を聞くという捜査方針は間違ってないと思うんだけど・・・」

 仁木と小島の聞き込みにより判明した被害者達の共通点は、ただちに報告された。これを受けた警察・SMSは、今回の一連の事故が何者かによる破壊工作・・・もしくは、殺人事件であるという見解をより確かなものにした。そして直ちに「ジャガーノート」についての情報を集め、行方不明になっている他のメンバーを見つけ出して保護し、彼らがなにか狙われるような覚えがあるかどうか調べる・・・。これが、今回の件についての当面の方針として打ち出されたものであった。同時に今回の事件を起こしている犯人と思われる、真っ赤なエアカーのドライバーに対しては、現場に残された落書きから「クリスティーン」という仮称が与えられた。

 「他にも、気になることはありますね。たとえば、「クリスティーン」っていうのは一体何なのか。ローリング族への聞き込みでは何もわからなかったんですか? 彼らの間で使われている、何かの隠語とか・・・」

 「残念ながら、それはわからなかったみたいね。「クリスティーン」って聞いて真っ先に思い浮かべるのは、健も知ってると思うけど、アメリカのロックバンドだもの。彼らの間にもファンはいるみたいだけど、事件につながりそうなことは、何もわからなかったようね」

 「そうですか・・・。それに、もう一つ。これも肝心なことなんですけど・・・「クリスティーン」はどうやって、車に事故を起こさせたんでしょう?」

 「それも現在調査中。車の制御コンピュータに異常が発生したのが直接の原因だとしかまだわかってないわ」

 「その異常の原因っていうのがわからないんですよ。最近の車は、そういう制御系についても頑丈にできてますからね。それをあんなふうに事故を起こさせるほど狂わせるなんて、どうやったらそんなこと・・・」

 「そうね・・・たしかに気になるわね・・・。あ、健。信号赤」

 腕組みをしていたリーナだったが、前方の信号が赤になっていることに気がついて健に言った。停止線できっちりと止まり、信号が変わるのを待つウィンディ。が・・・

 ドガァァァァァァァン!!

 「「!?」」

 突如、右手の曲がり角から大きな爆発音が聞こえた。同時に、そこに立ち並ぶビルの壁が一瞬赤く染まる。

 「健!!」

 ギュオオオオオオオオオン!!

 リーナに答える間もなく、健はアクセルを踏み込み、ハンドルを右に切っていた。急カーブを描いて、右の道へと入り込むウィンディ。

 「「!?」」

 そこで2人の目に飛び込んできたのは、まさに地獄のような情景であった。

 街頭も少ない夜のビル街の谷間の一角が、赤々と染まっている。その光源は・・・ウィンディのちょうど前方数十mのところでもうもうと煙をあげながら燃え盛っている物体・・・おそらく、もともとは車だったと思しきもの・・・だった。そして、その脇に並んでいるものがあった。

 炎のように・・・血のように・・・真っ赤なエアカー。そして・・・

 燃え盛る車の脇に・・・人影。

 「あいつが・・・!!」

 「クリスティーン!?」

 驚く二人。が・・・

 「!?」

 フロントガラスの向こうに、ウィンディが入ってきたことに気づいて急いで真っ赤なエアカーに乗り込む人影の姿が見えた。そして・・・

 ギュオオオオオオオオン!!

 真っ赤なエアカーは、すさまじい音を立てて急発進した。

 「逃がすか!!」

 すぐにこちらも発車しようとする健だったが、それをリーナが止めた。

 「待って、健! 私は降りるわ! あの車のドライバーが・・・」

 リーナは燃え盛る車を見つめていた。到底ドライバーが助かっているとは思えなかったが、それでも、放っておくわけにはいかない。そう言っている間にも、助手席のシート下に収納されたメディカルキットを手早く取り出している。

 「わかりました! 先輩、ここは頼みます!!」

 「Leave it to me!!」

 リーナはドアを開けて飛び出すと、すぐにそれを閉めた。

 ギュオオオオオオオン!!

健はリーナと視線を交わすと、アクセルを目いっぱいに踏み込み、燃え盛る車の横を駆け抜けていった。

 ウィンディが走り去ると、リーナは消防署へと連絡してすぐに燃え盛る車へと駆けていった。が、ある距離まで近づいたところで、思わず立ち止まった。

 「すごい熱・・・」

 燃料のドライ・ライトを入れたタンクが事故の衝撃で壊れ、中のドライ・ライトが一斉に気化したのであろう。周囲には灼熱地獄のような熱が立ちこめ、その熱で車体が燃えている。真っ黒な煙をあげて燃え盛る車に、もはや原型はない。異形の物体は、金属の燃える嫌な臭いを放ちながら燃え続けている。

 「これでは・・・」

 やはりダメかもしれない。そうは思ったが、それでも諦めるわけにはいかない。リーナは車内を覗き込めるところはないか、車の周囲に回りこみ始めた。と・・・

 「うう・・・」

 かすかに、うめき声のようなものが聞こえた。車の燃える音にかき消されそうな小さな音で、一度は幻聴かと思った。しかし・・・耳に神経を集中して少しすると、それは再び聞こえた。それも・・・燃えている車ではなく、外から聞こえるらしい。

 「もしかして・・・!!」

 リーナははっとして、急いで声のもとと思しき方向へと、車を回り込んだ。すると・・・

 車から少し離れた路面に、全身に大やけどをした男が倒れこんでいた。

 「!!」

 リーナはすぐに、その男へと駆け寄ってその脇にかがみこんだ。

 「大丈夫ですか!? しっかりしてください!!」

 リーナは必死に呼びかけたが、男はやはり、かぼそいうめき声しかあげなかった。リーナはその姿をはっきりと見て、眉をひそめた。重症である。全身には大やけどを負い、あちこちから血がどくどくと流れ出している。骨も折れているかもしれない。おそらく、事故の衝撃でフロントガラスから飛び出し、ここへ投げ出されたのだろう。今こうして息をしているのも不思議なほどの重症である。間に合わないかもしれない。助けたいと願いながらも、目の前の現実はリーナにそんな絶望的な思いを抱かせずにはいられなかった。

 「しっかりしてください。今、手当てします」

 リーナは医療の専門家ではない。たとえそうだったとしても、この怪我人に対してメディカルキットの装備では、できることはたかが知れている。それでも彼女はそのケースを開け、必要な薬品や器具を取り出し始めた。

 「お・・・れじゃ・・・な・・・」

 重症の男の口がパクパクと動き、か細い声でそんなことを言ったのは、そのときだった。

 「しゃべらないで」

 体力を消耗させないようにそう告げると、リーナは手当てを続けた。が、男はなおも続けた。

 「お・・・じゃな・・・んだ・・・。いやだっ・・・んだ・・・。あ・・・おんな・・・ころすな・・・んて・・・」

 「!?」

 思わず、リーナの手が止まる。男の言葉は今にも消えそうだったが、発音ははっきりとしたものだった。そして・・・

 「ヤ・・・ス・・・コ・・・」

 男は最後の力を振り絞るようにそう言うと、激しく痙攣し・・・そのまま、動かなくなった。

 「!!」

 リーナはそれを見るとすぐに心臓マッサージにとりかかり、同時に、人工呼吸も行い始めた。しかし・・・何をしても、男が再び息を吹き返すことはなかった。やがて、処置をやめたリーナはしばらくの間呆然としていたが・・・胸の前で十字を切り、手を組んで死んだ男に祈りを捧げた。そして・・・

 「ヤスコ・・・?」

 冷たくなった男を見ながら、彼の最後の言葉を反芻するリーナの耳に・・・こちらへと近づいてくる、消防車と救急車のけたたましいサイレン音が聞こえ始めた。



 人気のない夜の道路を舞台に、カーチェイスが行われている。前方を走るのは、夜の闇にも映える真っ赤なスポーツタイプのエアカー。それを追うのは、けたたましいサイレンをあげつつ回転灯を輝かせながら疾走するウィンディである。

 「繰り返す!! そこの車、停車しなさい!!」

 健の声が手にしたウィンディのスピーカーを通じて、夜の空気に響き渡る。しかし、真っ赤なエアカーはまったくスピードを緩めようとはしない。

 「ナンバーも隠してる・・・。これじゃ調べようもないか・・・」

 前方を走るエアカーの後姿を見つめながら、健は唇をかんだ。ナンバープレートは黒く染められていて、読み取ることができない。逃走時にナンバープレートを特別なコーティングで覆ってしまう新手の犯罪技術であり、SMSでもこれに対する対抗策を検討中である。

 「力ずくってのは、好きじゃないんだけど・・・こうなったらしかたない!!」

 ギュオオオオオオオオオン!!

 健はさらにアクセルを踏み込んだ。たちまちウィンディとエアカーとの間の間隔が狭まっていき・・・やがて、エアカーと並走を始める。

 「・・・」

 ちらりと左を走るエアカーに目を走らせる健。運転席を初め、窓は全てスモークガラスで覆われており、ドライバーの姿をうかがうことはできない。

 「手荒になるけど、悪く思うなっ!!」

 健はそう言うと、ハンドルを左へと切った。そして・・・

 ガシャァァァァァァァァァァン!!

 ウィンディとエアカーは、その車体の腹を激しくぶつけあった。火花が散り、剥がれた塗料の破片が路面に散らばる。さすがに、エアカーのコントロールが乱れたように見えた。

 「もういっちょう!!」

 健は再度エアカーに体当たりをしかけるため、一旦間隔をとった。そして、もう一度ぶつけようとハンドルを切ろうとした、その瞬間

 ガガガガガガガガガガガガ!!

  突然、スピーカーから耳をふさぎたくなるような激しいノイズが流れ始めた。それだけではない。計器はすべてでたらめな表示を始め、ウィンカーが勝手に点滅し、ワイパーも勝手に動き始める。ヘッドライトが狂ったように点滅を繰り返す。

 「こ・・・これは!?」

 健は驚いて、ブレーキを踏み込んだ。しかし、ウィンディは全く減速しない。計器の数字も、でたらめなままである。焦った健はハンドルを動かそうとしたが、それもかなわなかった。ハンドルはまるで岩のように、健の力ではびくともしない。ウィンディは・・・完全にコントロールを失っていた。

 「う・・・うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 ザザザザザザザザザザザザ!!

 コントロールを失ったウィンディはそのままカーブを曲がりきれず、その先にあった夏草が伸び放題になっている何かの建設予定地へと、そのままのスピードで突っ込んでいってしまった。激しく振動する車体に、なす術もなく揺さぶられる健。そして・・・

 ズズゥゥゥゥゥン!!

 鈍い音と衝撃とともに、ウィンディは何かに乗り上げたように、ようやく停止した。

 「はぁ・・・はぁ・・・」

 健はしばらくの間、運転席のシートにぐったりともたれたまま荒い息をついていたが・・・

 ガチャ・・・

 やがて、シートベルトを外してドアを開け、よろよろと外へと出た。

 ウィンディは、地面が盛り上がって小さな丘のようになった場所に乗り上げるようにして止まっていた。掘った土砂を積み上げてあったものだろう。バンパーの下のほうが大きくへこんでいたが、それ以外にウィンディに大きな損傷はなかった。健はほっとしたように息をついたが・・・

 「!!」

 すぐに我に帰り、丘の上へと駆け上がって道路の方に目を凝らした。

 他に走るものとてない夜の道路を流れていく、ヘッドライトの朧な光が・・・遠くに、亡霊のように見えた。

 「あの不調・・・まるで・・・」

 健はその光を見つめながら、つぶやくようにそう言った。



 またか。TVでそのニュースを聞いたときの男が思ったのは、そんな思いだった。もちろん、驚いてはいる。しかし、最初に河合が死んだときに比べれば、その驚きは薄らいでいることはたしかである。というより、冷静にニュースを受け止めることができるようになっていた。

 「またも不審事故 4件目」

 目の前のパソコンのモニターに表示されているのは、短いそんな見出しだった。その見出しの下に、真っ黒焦げになった車の残骸らしきものの写真と、事件の詳細を伝える記事が載っている。
 事件が起きたのは、夜の間はほとんど交通のないオフィスビル街のとある路地。ここでビルの壁に激しく衝突し爆発炎上したと思われる車が発見された。ドライバーはその際に車から投げ出されて地面に叩きつけられた。少しの間は息があったが、全身の骨折と外傷による大量出血、内臓破裂、重度の火傷と・・・およそ考えられるだけの傷を負い、ドライバーはまもなく死んだという。そして・・・ドライバーの名は、またしても知ったものであった。

 高津裕二郎。

 街頭の巨大ビジョンに映るビジョンで事件を知り、家に戻ってからつなげたネットでその名を見たとき、やはり男はこう思った。

 「またか・・・」

 男はそう思いながら、さらに記事を読み進める。ここまでならば、これまで世間を騒がせている一連の不審な自動車事故のニュースとなんら変わりはない。が・・・そのニュースは、それまでとは大きく異なっていた。

 まず・・・事故車を発見したのは、ちょうどパトロール中だったSMS第2小隊の隊員2名だったということ。そして彼らは見た。燃え盛る事故車の脇に止まった、真っ赤なエアカー。そして、事故車の近くにたたずむ人影・・・。
 それまでもその事故については、奇妙な噂がつきまとっていた。曰く、誰も乗っていない血のように真っ赤な幽霊自動車が都内の道路を走り回り、出会った車を次々と事故に遭わせている。これまで事故に遭った3台の車もそのために事故を起こしており、事実、2番目の事故では走り去る真っ赤なエアカーが目撃されているという噂が、ネット上には流れていた。
 手垢のついた怪談話である。もちろん警察もSMSもそんなものは相手にせず、一連の事故もあくまで事故として捜査を行っていると発言していた。しかし・・・今回の目撃者は、よりにもよってSMSの隊員である。のみならず、隊員の一人はもう一人の隊員を現場に残してそのエアカーとカーチェイスを行ったものの、突如発生した謎のトラブルによって追走できなくなり、車を逃してしまったと言うのである。不思議なことに、その際の車載カメラの映像記録もきれいさっぱり消えてしまっていたというのだから、これはたしかに怪談じみている。ことここに至って警察は、一連の事故がただの事故ではなく、何者かの手による破壊工作の可能性を視野に入れて捜査を行っていくことを発表した。もっとも、ネットの噂ではすでに何週間も前から警察もSMSも、そんな方針で捜査を進めているというが・・・。

 どういうことだ。

 今までとは異なった展開を見せているニュースを伝えるモニターを見つめながら、男はそう思った。

 河合、金子、下澤、そして、高津。

 全員、忘れようと思っても忘れられない名前である。この数年間、その名を思い出さなかった日は一日たりともない。
 そんな男達が、次々と死んでいる。いや・・・殺されている。

 どういうことだ。それに・・・

 伝えられるニュースには、他にも彼の心を激しく震わせるような要素があった。現場に残されているという、落書きである。

 「Christine」と・・・どの現場でも、スプレーでそう殴り書きがされていたという。今回の現場でも、それは見つかった。もっとも、書いている途中でSMSに見つかったためか、そこに残されていたのは「Christ」という書きかけのものだった。

 クリスティーン。そして

 赤いエアカー。

 この二つの言葉は、否応なく彼の脳裏に一つの光景を思い浮かばせるものだった。カモメが空に飛び交う海辺。海風が潮の香りとともに、激しく吹きつけてくる。海をバックにそこにあるものは・・・

 目の覚めるような鮮やかな赤に染められた、スポーツタイプのエアカー。そして・・・海風にウェーブのかかった髪を押さえながらも、その前に立っている・・・女の笑顔。

 幽霊自動車。

 そんなものはあるはずはない。幽霊など、この世にいるはずはない。たとえいたとしても・・・これみよがしに、あんな落書きをするはずがない。しかし・・・

 誰だ。

 誰がこんなことをしている。

 あのことを・・・あの女のことを知っているのは、この広い世界でも、7人だけである。自分と、殺された4人、そして・・・

 どういうことだ。

 男は再びそう思いながら、頭を抱えた。

 どれだけそのままの姿勢でいたか。男がそこから起き上がったのは、ひどく喉が渇いていることに気がついたからだ。この部屋に戻ってきてから、スーツの上着を脱ぎ捨てただけでそのままパソコンの前に座ってから、どれぐらいたっただろう。男が時計を見ると、すでに時刻は午前2時を回っていた。それまでのあいだ、男は食事もとらず、ずっとパソコンに向き合っていた。

 ようやく時間の感覚を取り戻した男は、椅子からよろよろと立ち上がり、冷蔵庫へと歩み寄った。そして扉を開けたが、普段水代わりに飲んでいる缶ビールは、一本もそこには並んでいなかった。朝家を出るときは帰りに買ってこようと思っていたのだが、あのニュースのためにそんなことは頭から吹き飛んでしまっていた。
 男は他に何か飲み物はないかと冷蔵庫の中を探ったが、あいにく、それは見つからなかった。男は続いて流しに目を向けたが、すぐに顔を逸らした。ただの水を飲む気にはならなかった。
 男が続けて目を向けたのは、窓だった。梅雨ももう終わりごろだが、窓の外では激しい雨が降っている。今年の梅雨は、特に土砂降りが多い。だからこのごろは、仕事でも外へ出るのはおっくうである。しかし・・・
 男は結局、近くにあるコンビニまで酒を買いに行くことにした。着替えるのもおっくうだったので、カバンから財布と鍵だけを抜き出し、玄関で靴に履き替え、傘を持ってドアを開けた。

 バタン

 背後でドアが閉まると同時に、ガチャリという音がする。それほど立派なアパートではないが、いまやオートロックはどこも標準装備である。男は念のためドアノブを回して鍵がかかっていることを確認すると、人気のないアパートの廊下を歩き出そうとした。

 ガバッ!!

 後ろから抱きつかれたのは、そのときだった。同時に手で口もふさがれたため、悲鳴もあげることはできなかった。同時に添えられたのは、手だけではない。首元に・・・硬質な金属を押しつけられる、冷たく嫌な感触が走る。

 「ドアを開けろ」

 背後から、低い男の声が早口でそう言った。首を動かすことはできないので、その顔をうかがうことはできない。ただ・・・男は酷く興奮しているようで、その熱い息遣いが首筋にかかり、非常に気持ち悪い。密着されている背中からは、Yシャツごしにぐっしょりと濡れた男の衣服を感じることができた。
 男はどうやら、非常階段に隠れていたらしい。階の一番端にある男の部屋はその非常階段とすぐ隣だったが、ここは5階であるため、男はいつもそれとは反対側にあるエレベーターを使っている。今回も、そのエレベーターへと向かおうと非常階段側に背中を向けたとたん・・・そこに隠れていたこの男に、後ろから襲われたようだ。

 「早くしろ!」

 男は静かながらも語気を荒げてそう言った。強盗か、通り魔か。とにかく、ここは言う通りにするしかない。男はまだポケットにしまわず手に持っていたままだったカードキーを掲げると、それをドア横のスロットに通した。電子音とともに、鍵の開いた音がした。

 そのとたん・・・後ろの男は前の男の口をふさいでいた手を離してドアノブをつかむとドアを開け、さらに部屋の中へと男の背中を突き飛ばした。一瞬のことでわけもわからず、突き飛ばされた男は玄関に転がり、うめき声をあげた。一方、後ろの男もそれに続いてすばやく部屋の中に滑り込み、後ろ手のままドアに鍵をかけた。

 「な・・・なんだお前は!?」

 玄関に尻餅をついたまま体だけを起こし、男は玄関に立っている男にそう叫んだ。電気が消えているため男の顔は見えず、黒いシルエットとして闇に浮かんでいるだけである。

 「なんだお前は・・・だと? 忘れたとは言わせねぇぞ。声聞いてわからねぇか」

 闇の中から、どこまでも低い声がした。その声に、男はハッとした顔を浮かべた。

 「ま、まさか・・・」

 「覚えててくれたか。うれしいなぁ」

 男の含み笑いが玄関に響く。と、黒い影は玄関の壁にあるスイッチへと腕を伸ばした。

 パチッ

 乾いた音とともに、玄関の照明が灯る。それによって、それまで闇に包まれていたものの全てが、その姿を取り戻した。

 「お・・・折口・・・!!」

 男は玄関に立つ男の顔を見て、呆然とした表情でそう言った。男は笑った。

 「そうさ。そうだよ。折口竜司だ。久しぶりだなぁ、上杉」

 男は碁盤のように四角い顔に下卑た笑いを浮かべながら、冷酷に上杉と呼んだ男を見下ろした。

 「どうした? 幽霊でも見たような顔だな? そうじゃねぇだろう? お前にとって、俺達ゃ幽霊なんかじゃねぇ。もっとも・・・俺達にとっちゃ、お前は幽霊みたいなもんだったがなぁ」

 「・・・」

 「おいおい、どうしたよ? 何とか言えよ。そんな追い詰められた鼠みたいな情けねぇ面するんじゃねぇよ。そうじゃねぇと・・・そんなお前を一度は右腕と頼んでた俺の株も下がるじゃねぇか」

 折口が蔑むようにそう言ったとき・・・上杉の顔に、ようやく感情らしいものが浮かんだ。怒り・・・あるいは、憎しみである。

 「・・・ああ。そのことは・・・あれからずっと後悔し通しだ」

 上杉はそう言いながらゆっくりと立ち上がり、狼のような目で折口をにらんだ。

 「そうそう、その目だよ。お前は鼠なんかじゃねぇ。お前はやっぱり、狼じゃねぇと。そうじゃねぇと・・・「銀狼」の名もすたるってもんだぜ」

 「そんな名前は・・・とっくの昔に忘れた!」

 上杉はさらに強く折口をにらみつけた。

 「何の用だ・・・折口」

 上杉がそう言ったとき・・・下卑た笑みを浮かべていた折口の表情が、がらりと変わった。

 「何の用だ・・・だと? 寝言言ってんじゃねぇ!!」

 折口は悪鬼のような顔でそう叫んだ。

 「・・・てめぇ、一体どういうつもりだ。7年も何の動きも見せなかったってのに、ここに来て急にあんなことを始めるなんて・・・あの女の七回忌だからなんて言うんじゃねぇだろうな!?」

 折口の言葉に、上杉は顔中に嫌悪感をあらわにして、短く言った。

 「知らねぇよ」

 「知らねぇわきゃねぇだろ!? てめぇが殺して回ってるんだろうが!! 河合も、金子も、下澤も・・・それに、高津も!! てめぇ以外に誰がやる!? しらばっくれるのもたいがいにしやがれ!!」

 「知らねぇもんは知らねぇよ。それに・・・やるにしたって、あんなまだるっこしい手は使うもんか。やるとしたら・・・今のお前みたいなやり方で十分だ」

 上杉はそう言いながら、折口の手にしているナイフを見た。

 「お前らをぶち殺したい気持ちはあるさ、今でもな・・・。ただ・・・それをしなかったのは、俺が寝てる間にお前たちがあんまりうまく雲隠れしちまったからだ。誰か一人でも目の前に立っていたら・・・俺は間違いなく、そいつをぶち殺してるだろうよ。今のお前みたいに、な・・・。けどな・・・あれをやってるのは、俺じゃねぇ。あいにく、頭が悪いからな。あんな手の込んだ仕掛けにお前ら嵌めて殺すような器用な芸当は、持ち合わせちゃいねぇ」

 「信じられっかよ!!」

 上杉の言葉をかき消すように、折口は叫んだ。

 「だったら、誰があんなことをしやがる!! あの女が化けてやってることだとでも言うのか!? えぇ!?」

 「俺もお前も、幽霊なんか頭から信じちゃいないだろうがよ。どこの誰だか知らねぇが、あれをやってんのは生きてる人間だよ。どっかの誰かが、あいつの仕業に見せかけてお前ら殺して回ってんだ。俺にはそれが・・・我慢ならねぇ。俺はな、お前らだけじゃなく、そいつだってぶっ殺してやりてぇ気分なんだよ。あれは、俺の仕事だ。それなのに・・・」

 「黙れ黙れ!!」

 折口は首を激しく振りながら叫んだ。

 「さてはてめぇ!! てめぇじゃ俺達一人も見つけられないからって、どっかの悪党に頼んでこんな仕掛け考えやがったな! そうだろう!? そうに決まってる!!」

 「馬鹿なことほざくんじゃねぇよ。たしかに今はこんな暮らしだが、自分の尻も自分で拭けねぇほどふぬけちゃあいねぇよ」

 「うるせぇぇぇぇ!!」

 折口は狂ったような叫びを上げて、ナイフを構えて上杉へと突進した。

 「!!」

 玄関は狭かった。しかし、上杉は背中を壁に押しつけるようにして、なんとかその凶刃をかわした。

 ダダッ!

 そして、その隙を突いて廊下から台所へと走ると・・・

 シャッ!!

 そこから柳刃包丁を取り出すと、それを逆手に構えた。

 「てめぇ・・・いい加減にしやがれ!!」

 よろよろとした動きで、そこに入ってくる折口。2人は互いの得物を持って距離を置いたままゆっくりと移動し・・・居間で、その動きは止まった。

 「あんまり俺をなめるんじゃねぇぞ・・・。俺達の居所一つも見つけられずに、堅気に戻ったような面して生きてきたような野郎に、この俺が殺せるもんかよ!! てめぇに殺られる前に・・・てめぇを殺っちまえば、それで済むこった!!」

 「確かに俺は、お前らの居所は6年かかっても一人も見つけることもできなかったさ。我ながら情けねぇ。だがな、こうして俺の前にのこのこ出てきたんなら、話は別だ。どこのどいつだか知らねえが、このまんまじゃお前だってそのうち殺られるだろうさ。そうはさせるかよ。てめぇだけは・・・誰にも殺らせるもんか。てめぇを殺るのは・・・この俺だ」

 互いに得物を構えたまま、闇に包まれた部屋の中で対峙する二匹の獣。そして・・・

 「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 獣は咆哮をあげながら・・・互いに向かって突進した。



 「まさか・・・こんなかたちでご対面とは、思ってもみませんでしたね」

 小島が目の前に横たわっているものを見ながらそう言ったが、仁木は何も答えることはなかった。

 目の前に横たわっているものは、一人の男・・・いや、「男だったもの」である。それはかっと目をむいた悪鬼羅刹のような顔のまま、固まっている。その厚い胸板には、一本の包丁が深々と突き刺さっている。床は一面血の海だったが、今はその上に新聞紙が敷かれ、歩いても大丈夫なようになっている。部屋はそれほど広くはなかったが、あちこちで鑑識の人間達が作業を行っているので、余計に狭く感じる。

 「死因は確かめるまでもありませんね。ここまで深々と突き立てられたんじゃ、即死だったでしょう」

 小島はさらにそう言ったが、仁木はそれにも何も言わず、隣に立っている中年の男に尋ねた。

 「指紋の確認はとれたのですか?」

 「ええ、たった今。やはり、折口竜司に間違いありません」

 「そうですか・・・。それで、犯人の方は?」

 「ええ。上杉潤一です。このアパートの住民からも、裏づけがとれました」

 SMS捜査部の村松は、仁木の質問に簡潔に答えていった。

 「本当に・・・これは、予想外の展開だったわね・・・」

 仁木はようやく、さきほどの小島の言葉に答えるようなことを言った。その目の前で、鑑識班が死体に白い布をかける。

 「しかし・・・これは一体どういうことでしょうかね」

 担架に載せられ運ばれていく死体を見送りながら、小島が言った。

 「「ジャガーノート」の元リーダーだった男が、同じチームのナンバー2だった男の部屋で、死体で発見されるなんて・・・。しかも、あんな死に方で・・・」

 第1小隊分署に、都内のとあるマンションで変死体が見つかったという知らせが入ったのは、その日の始業からまもなくのことであった。最初は誰も、なぜそんな知らせが自分達のところへ来たのか、わからなかった。しかし・・・被害者の名前と、その死体が発見されたアパートの部屋の住人の名前を聞いたとたん、全員の顔色が変わった。
 変死体として発見された男の名前は、折口竜司・・・。あの「ジャガーノート」の元リーダーだった男として、警察とSMSが最優先でその行方を追っていた男である。そして・・・その死体が発見された部屋の住人の名は、上杉潤一・・・。かつて、「ジャガーノート」のナンバー2だったという、これも重要な参考人だった。自分達の追っていた男が、予想もつかないところで、予想もつかないかたちで見つかった驚きもそこそこに、仁木と小島はただちに現場に急行したのである。

 「犯人はやはり、上杉なのでしょうか?」

 「状況から考えれば、間違いはありませんね。死体の第1発見者は、このアパートの管理人です。とはいっても、彼を呼んだのは隣に住んでいる大学生でしてね。彼は昨夜、徹夜でレポートを書いていたらしいんですが、夜中の2時ごろに突然、この部屋から男のわめき声や口論する声が聞こえてきた。さらにドタバタという音まで聞こえてきたから、文句を言いにこの部屋のドアの前に来たんですよ。そうしたら、いきなりドアの向こうからこの世のものとは思えないような絶叫が・・・」

 「断末魔ですか。あの仏さんを見る限り、死んだのはたしかにそのぐらいの時間でしょうね」

 小島がそう言いながらうなずく。

 「すっかり青くなった学生さんは、こりゃただごとじゃないと、管理人さんを呼びに1階まで駆け下りていったんです。で、鍵を持った管理人さんと一緒に戻ってくると、さっきの断末魔を聞きつけた同じ階の他の部屋の人たちも、この部屋の前に集まっていた。で、管理人さんが鍵を開けて、おそるおそる部屋に入っていくと・・・あれがあったんですよ」

 先ほどまで死体が転がっていた床を見下ろしながら、村松は顔をしかめた。

 「その時には、もう?」

 「ええ。部屋には誰もいませんでした。窓の鍵も全部閉まってたそうです。たぶん、学生さんが管理人さんを呼びに行って、他の部屋の人たちがここに集まってくるまでの間に抜け出して、非常階段を使ってアパートから出たんでしょう」

 「非常に短い時間ですね。男を殺してすぐに出て行ったのでしょう」

 「それじゃあ、今も返り血のついた服着て街を?」

 今度は小島が顔をしかめたが、村松は首を振った。

 「いえ。調べてみてわかりましたが、タンスが開いていて何着か服が持ち出されていました。下に停めてあった車もなくなっています。もっとも・・・車の方は、ここからそう遠くないところで乗り捨てられてるのが発見されています。すぐに足がつきますからね。車内からは、返り血のついた服も発見されたそうです」

 たしかに、上杉が折口を殺したことは間違いないようである。発見された服についた返り血というのが折口のものだったら、それは余計にはっきりすることだろう。

 「何か揉め事があった・・・っていうのは間違いないでしょうけど。もしかして、他の被害者をやったのも・・・?」

 「それはないと思うわ」

 仁木はそれにはすぐにきっぱりと答えた。

 「これはどう考えても、深い考えがあっての犯行ではないわ。折口がここへ来たのも、前もっての約束にしては時間が遅すぎるし・・・上杉にとっても折口は、本当に予期せぬ来客だったんでしょう。そこで、小島君の言う通り・・・なにか揉め事があって、その末に殺してしまったように見えたわ。そんな殺しをする人間と・・・わざわざ幽霊自動車に化けて、事故に見せかけて人を殺していくような人間とは、どうも結びつくとは思えないわ」

 「まぁねぇ・・・。しかしそうなると・・・」

 わっけわかんないなぁと言いながら、小島は片手で髪をかき乱した。そのとき、村松は携帯がなったので一旦部屋から出て行った。

 「それに・・・それとは別に、気になることがあるわ」

 仁木が真顔で言った言葉に、小島は顔を向けた。

 「何ですか?」

 「あの殺され方・・・見事すぎるとは思わなかった?」

 「見事すぎる、って・・・」

 「急所を正確に、一撃で、深くまで突いていたわ・・・。死体はナイフを握っていたけど・・・突然襲いかかってきた男に、素人がめちゃくちゃに包丁を振り回しているうちに偶然刺さったにしては、あれは正確すぎるわ」

 「素人じゃない・・・。上杉は刃物の扱いに慣れてたか・・・あるいは、人を殺したこともある、とか・・・?」

 「あの折口という男も、詐欺や密売で何件か指名手配されていたって、村松さんも言っていたでしょう? もしかすると、上杉も・・・」

 仁木は腕を組んだ。

 「「ジャガーノート」という集団・・・ただのローリング族なんかじゃないわ。きっと・・・何かある」

 「・・・」

 真剣な表情でそう言う仁木に、小島は緊張の表情を浮かべてごくりとつばを飲み込んだ。そのとき、村松が戻ってきた。

 「どうもすいません。実は、上杉のその後の足取りなんですが・・・」

 「なにかわかりましたか?」

 「ええ。車の乗り捨ててあった場所からそう遠くないところにあるATMで、貯金を全額引き出してます。監視カメラにも映ってますが、やはり上杉に間違いないようです。しかしその後は、また足取りがふっつりと消えてしまってますが・・・」

 「副隊長・・・」

 小島は仁木を見た。

 「言うまでもないけれど・・・上杉は危険ね。彼が犯人かどうかは疑わしいけれど・・・人一人殺しているのは間違いないわ。一刻も早く確保する必要がある。それと・・・「ジャガーノート」の7人のうち、上杉を除けばただ一人、まだ見つかっていない男・・・」

 「たしか・・・平野とか言いましたね?」

 「そう・・・。彼も、一刻も早く確保しなければならない。こうなってはもう、猶予はないわ。すぐに隊長にお願いして、捜査体制の強化を・・・」

 と、仁木が言いかけたそのときだった。仁木と小島の懐で、同時に電子音が鳴り始めた。2人がSナビを取り出して蓋を開けると、モニターには「着信アリ ハットリ」と表示されていた。2人はすぐにスイッチを入れた。

 「もしもし、仁木です」

 「あ、服部です。お疲れ様です」

 モニターの中でひかるが、にっこりと笑う。殺伐とした状況の中では、見れば救われるような笑みである。

 「お疲れ様。何かあったの?」

 「はい。大ニュースです」

 「大ニュース?」

 「行方不明になっていた「ジャガーノート」の最後の一人・・・平野克己さんが、見つかったんです」

 「なんだってぇ!?」

 口を大きく開ける小島。仁木もまた、目を見開いたまま何も言えずにいた。



 薄暗い取調室の中。その男はまるでさらに自分の中へ中へと入りたがっているように、もともと小柄なその体をさらに縮こませながら、椅子にポツンと座っていた。

 「もう一度ご確認します・・・。平野克己さん・・・ですね?」

 テーブルを挟んで向かいに座った亜矢が静かな声でそう言うと、男は小さな声ではいと答えてうなずいた。亜矢の近くには聡美が壁にもたれて立っており、ドアの近くには先ほどまでこの男の取調べを行っていた刑事が立っている。


 平野克己はこの警察署の管区内のビジネスホテルに泊まっているところを保護されたという。しかし、その際に起こった一騒動は、保護という言葉の響きとはまるで似つかわしくないものだったという。ビジネスホテルにやってきた刑事達を見るなりこの男は逃走を図り、数十分にも渡って追いかけっこを繰り広げたそうである。しかし、警察とてこの男を黙って見過ごすわけにはいかない。「ジャガーノート」のメンバーは、確実に狙われているのである。リーダーだった折口が殺された以上残っているのは平野のほかは上杉だけであり、その上杉こそ折口殺害犯であり、他のメンバーの殺人についても疑われている。もし上杉が「クリスティーン」でなくとも、「クリスティーン」の矛先が2人に向けられることは明白なのである。狙われている人間を、野放しにしてはおけない。それに、平野は犯人のターゲットであると同時に、重要参考人でもある。これほどまでに「ジャガーノート」の元メンバーばかりが狙われるということは、彼らにもそれなりの理由があったとしてもおかしくはない。平野を確保しなければならない理由は、いくらでもあった。だからこそ・・・刑事達は大立ち回りの末、ようやく平野を「保護」したのである。
 捕まえてしまえば平野も一転して借りてきた猫のようにおとなしくなり、この警察署まで連れてくるのはスムーズにいった。しかし、その後の事情聴取ともなると、再び刑事達は苦労することになった。なだめてもすかしても、平野は何もしゃべろうとはしなかったのである。
 そこへやってきたのが、小隈の命を受けた亜矢と聡美だった。彼女達は元々平野の口から聞き出された情報をもらうためにここへ来たのだが、肝心の平野の口からはまだ何も聞き出されてはいなかったのである。それを聞いた亜矢は、自分に事情聴取をやらせてほしいと言い出したのだった。果たして彼女に事情聴取などできるのか、難色を示す刑事達も多かったが、平野の潜伏場所の情報をつかんだのが村松たちSMS捜査部だったこともあり、結局その願いはかなえられた。そして、亜矢は取調室の椅子に腰を下ろしたのである。

 「SMS第1小隊の・・・桐生亜矢と申します・・・。ここからのお話は、私が引き受けますが・・・こちらの刑事さんからもお聞きしていると思いますが・・・最初にお断りしておきたいのは、私達は、あなたを逮捕したというわけではないということです。あなたにとっては同じことかもしれませんが・・・私達が行ったのは、あなたの逮捕ではなく保護であると・・・それだけは、お断りしておきましょう」

 まっすぐに平野を見て話す亜矢。平野は相変わらず、下を向いたまま何も言わずにいる。

 「河合英・・・金子俊秀・・・下澤和樹・・・高津裕二郎・・・」

 「!!」

 それまでジッとしていた平野の様子が変わったのは、亜矢が死者の名前を次々に呼び始めたときだった。

 「上杉潤一・・・そして、折口竜司」

 亜矢はさらに、2人の名前を言った。

 「皆さん・・・あなたのよくご存知の方ですね?」

 「・・・」

 「そして・・・そのうちの5人は・・・残念ながら、すでに彼岸へと旅立たれてしまいました。それも・・・いずれも、世間一般の方が迎えるのとは大きく異なる最期を迎えております。私は・・・いえ、私達は、それらは偶然などではないと・・・そう考えています。これは・・・明らかに必然なのです。そして・・・」

 亜矢は平野の顔をまっすぐに見つめながらそう言った。

「このままでは、あなたも同じような不幸な目に遭ってしまう可能性が高い・・・」

 平野はびくんと肩を震わせた。

「だからこそ私達は・・・あなたには不本意なことであるかもしれませんが・・・保護と称してあなたをここへと連れてきたのです。もっとも・・・これには、法的拘束力があるというわけではありません。どうしてもというのであれば・・・鍵は開いていますので、今すぐにでも・・・」

 亜矢は後ろを振り返りながらそう言うと、平野に目を戻した。いつのまにか、平野はぶるぶると震えている。それを見て、亜矢は言った。

 「何をそんなに・・・恐れているのですか?」

 「!!」

 平野は顔を上げて、驚いたように亜矢を見た。

 「あなたがそんなに恐れているものは・・・なんなのですか? 世間では・・・幽霊自動車の仕業などと・・・騒がれているようですが。たしか・・・名前は「クリスティーン」とか」

 その言葉に、平野がまた肩をびくりと震わせた。

 「そ、それは・・・」

 「あなたが恐れているのが幽霊自動車なのだとしたら・・・それは、要らぬ心配というものです。これは・・・幽霊の仕業などではない」

 平野は何か言おうとしたが、亜矢はそう言った。

 「幽霊の・・・正体見たり、枯れ尾花。枯れ尾花を幽霊と見せるのは・・・ほかならぬ、それを見る人の心です。幽霊など信じない、おそれないという人には・・・いくら見たところで、枯れ尾花は枯れ尾花なのです。死人が化けて出るなど・・・普通の人間にとっては、ありえないことでしかありません。そんなありえないものであるはずのものを見てしまうというのは・・・それだけの理由が、それを見てしまう者の心の中にあるのです。目は所詮、心の鏡・・・。鏡に曇りがあれば・・・見えるはずのないものも見えましょう」

 亜矢の顔を見つめたまま、放心したようなだらしのない表情を浮かべている平野に、亜矢は言った。

 「お、俺は・・・!」

 「あなたの鏡に映っているものは・・・一体、何なのですか? そして・・・あなたにそれを見せている曇りは・・・何なのですか? それがわからなければ・・・私達には、それは祓えない。そのままでは・・・」

 亜矢は静かにそう言った。

 「わ、わかった! 話す! 全部話すよ! 話すから・・・」

 そのとたん、平野は堰を切ったように叫び始めた。

 「助けてくれよぉ! 俺をあいつから・・・ヤスコから!!」

 狂ったようにわめく平野を、亜矢は静かに見つめながら、ちらりと横にいる聡美に一瞥をやった。聡美は苦笑いを浮かべたまま、無言でサムズアップをして見せた。



 「なんだって!?」

 平野の口から出た言葉に、それまで黙っていた刑事が素っ頓狂な声をあげた。

 「おい!? それは本当か!? もし本当だったら・・・」

 「こんなことになってまで嘘なんてついたってしょうがないでしょう。お話しする前に断っておいたでしょう。俺がこれからする話は、全部本当だって。時効には程遠いし、逮捕されることなんてよく承知のうえだ。それでも・・・殺されるよりはマシですよ」

 平野は刑事に目だけ向けながらそう言った。話を始める前に比べると、別人のように落ち着いている。

 「しかしな・・・。いきなりそんな話をされても・・・」

 刑事は腕組みをしてうなった。

 「刑事さん、本当かどうかなんて、あとでいくらでも確かめられますよ。それより今は、この人から話を聞きだすほうが先決でしょ? せっかく話す気になってくれたみたいだし」

 「えぇまぁ・・・それはそうですけどね・・・」

 刑事は聡美の言葉にもさらに何かごにょごにょと言っていたが、聡美はそれを無視して亜矢を見た。亜矢はうなずき返し、顔を平野に戻した。

 「一応・・・今おっしゃったことを確認させていただきます。7年前・・・都内の繁華街を中心に、若者達の間で非合法の高感度化ドラッグが出回る事件があり・・・そのドラッグを売りさばいていた売人の中心的存在であったのが・・・あなたたち、「ジャガーノート」のチームメンバーだったと・・・そうおっしゃったのですね?」

 「そうですよ。その頃はまだ24,5そこそこだった俺達は・・・チームリーダーの折口さんを中心に、ローリング族仲間にドラッグを売りさばいてた。あの事件のドラッグは、そこから流れてったものだ」

 亜矢はそれを聞くと、刑事に振り返った。

 「刑事さん・・・その事件については・・・ご存知ですか?」

 「ああ・・・よく覚えてますよ。担当じゃあなかったが、俺はその頃からここにいましたし、この署の管轄内でも、そのドラッグを買って持ってた奴が何人か逮捕されてましたよ。たしかにあのドラッグの出所は、どうやら首都高でレースごっこやってる奴ららしいと、聞いたことはあるが・・・たしか、捜査はそこまでで止まってしまったと聞いてますが・・・」

 「・・・」

 亜矢は平野に向き直った。

 「殺された折口竜司は・・・今回の事件が発生する以前から、詐欺や恐喝などの疑いで手配がされていましたが・・・あなたの話が本当なら、それ以前にさらに大掛かりな犯罪に手を染めていたことになる・・・」

 「あの人は引き際を見定めるのが得意な人だったんですよ。いよいよやばいとわかったら、もたもたせずにさっさと手を引く。7年前もそうだった。警察の手がいよいよ自分達の周りにまでちらつき始めたから、とっとと「ジャガーノート」を解散させたんだ」

 「「ジャガーノート」は、折口がそのドラッグを売りさばくために結成したんですか?」

 聡美がそう尋ねると、平野は首を振った。

 「「ジャガーノート」そのものは、その商売を始める前から折口さんがリーダーでやっていたものですよ。ただ、その頃から折口さんはいろいろと小さな悪事に手を染めていた。あの商売を始めたのも、そんな伝を通じてどこかの密売組織と知り合ったのがきっかけだと話してましたよ。詳しいことは知りませんけどね。ただ、それは折口さんにとっても初めて手がけるでかい仕事だった。だからあの人は「ジャガーノート」を密売の隠れ蓑として使い、俺達にもいい小遣い稼ぎになると、その話の片棒担ぎを持ちかけたんです。俺達ゃバカで金に飢えてましたから、その話に飛びつきましたよ。折口さんの言った通り、しばらくはその商売はうまくいっていた。ところが・・・あるとき、俺達の間でいざこざが起こった。仲間の一人が、足を洗いたいと言い出したんですよ」

 「仲間の一人?」

 「上杉です。上杉潤一」

 平野は言った。

 「上杉という男は・・・「ジャガーノート」の中でも、折口さんとの付き合いは一番古かった。その頃からいろいろと荒事には慣れてて、「銀狼」なんていう二つ名までとっていた。折口さんはあいつを用心棒代わりにして、ドラッグの売買でもその右腕と頼んでいたんですよ。そんな奴がある日突然・・・いや、その前から様子はおかしかったんだが・・・「ジャガーノート」を抜けたい、この商売から足を洗いたいと、そう抜かしたんです。折口さんも俺達も、大騒ぎになった」

 「なぜ・・・そんなことを?」

 「当然、俺達も問いただしましたさ。ただ、奴はやめるの一点張りで、何も話そうとしちゃくれない。だから俺達は折口さんに言われて、なぜあいつがそんなことを言い出したのか調べたんです。そうしたら・・・原因は、なんということはない。よくある話でしたよ。女でした」

 「女・・・?」

 「ええ。あいつは・・・そのとき付き合っていた女が原因で、そんなことを言い出したんですよ」

 平野は続けた。

 「上杉に女がいたことは、実際に会ったことはなかったが俺達も知っていた。しかし、どこで調べたか聞いたか知らないが、その女は自分の付き合ってる男がどんな奴らとどんな商売を裏でしているか知ってしまった。だからあの女は、そんな商売からは足を洗うように、あいつを説得していたんですよ。あいつもその女と付き合ってるうちに性格が丸くなってたのか、足を洗って真人間になってみようかと考え始めてた。そう考えるには、もう一つ理由があった。女の人の前でこんなこと言うのもなんだが、実は・・・」

 「赤ちゃんが・・・いたのですね? その方のお腹の中には・・・」

 亜矢の言葉に平野は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。

 「お察しの通りです。あいつも、その女も、堕ろすつもりはなかった。人の親になるつもりだったんですよ。だからあいつは・・・足を洗いたいと言い出した」

 「・・・」

 「だが・・・当然、折口さんはそれを許そうとはしなかった。今までうまい汁吸わせてやってきた恩を女やガキができたぐらいで忘れるとは、何様のつもりだ、と。今まで目をかけてきただけあって、可愛さ余って憎さ百倍といったところでしたよ。だが、上杉の決心は固かった。いくら折口さんが怒鳴ろうが殴ろうが、足を洗うの一点張りだった。あの2人の間の関係はそのまま平行線をたどることになったが・・・その間にも折口さんは、だんだんと焦り始めた。そっちの刑事さんがおっしゃったとおり、警察の捜査の手は出所である俺達にだんだん近づき始めていた。いつもの折口さんならとっくに手を引いててもおかしくはなかったが、生まれてはじめてのでかいヤマを手放したくなかったのか、それでもまだ続けるつもりだった。女は俺達の商売を知っている。話せば上杉までお縄になるようなことを女が警察にしゃべるとも思えなかったが、折口さんにとっては自分達の仲間じゃない奴が自分達の商売について知ってるってだけでも気が気じゃなかった。それでも、上杉の決心は揺るがない。折口さんの焦りは日増しに強くなっていった。そして・・・その果てに・・・」

 「まさか・・・!!」

 聡美がその先を読んだように、目を大きく見開いた。亜矢はただ無表情のまま、平野を見ている。

 「・・・殺しちまったんですよ。自分で車に細工をして・・・車ごと、事故に見せかけて・・・」

 「ひどい・・・! お腹には赤ちゃんもいたんですよ! それなのに・・・」

 聡美が顔中に嫌悪感をあらわにしてそう言った。

 「ああ、酷い話ですよ。俺達もさすがに、それについては折口さんに詰め寄った。ただ・・・赤ん坊ごと女を殺したことへの罪悪感より、人殺しなんかしたらよけいにやばいんじゃないかと、あの時はそう思っていた。なによりそんなことをしちまったら、上杉が黙ってるわけがない。そして・・・案の定、上杉はすぐに折口さんのところへ殴りこんできた。今でもはっきりと思い出せますよ、あのときの上杉の、鬼のような形相は・・・」

 平野は目を細めた。

 「・・・ですがね、本当の鬼は、折口さんだった。あの人は、頭に血の上った上杉がそんなふうに殴りこんでくることなんて、百も承知だった。それで・・・あの人は、上杉も返り討ちにしちまった。俺達も手伝わされましたよ。どんなにあいつが腕っ節が強くったって、6人がかりで袋叩きじゃどうにもなりませんよ。さすがに俺達も、女や子供とられて殴りこんできた奴をそんな風にするのは嫌だった。でもね・・・逆らえなかったんですよ、折口さんには。許してほしいとは・・・言えませんがね」

 平野はそう言って、うつむいた。

 「しかし・・・上杉は死んではいません。彼は名前を変えてこの東京で暮らしていましたし・・・折口を殺したのも、彼だ」

 亜矢がそう言うと、平野はうなずいた。

 「もちろん、そんなことは知ってますよ。俺達はあいつを袋叩きにしたあと、橋の上から川に投げ捨てて殺した気になっていたが、ところがあいつはそのあと夜釣りをしていた釣り人に助けられて、病院まで運ばれてたんです。しかし、しばらくのあいだはそのまま意識不明で、病院のベッドの上で寝たきりだった。あいつがまだ生きてることを知った折口さんは、奴が目を覚まさないうちに今度こそ殺してやろうと考えていたらしい。だが・・・その矢先に、俺達の商売について決定的な出来事が起こった。折口さんがドラッグを仕入れていた密売組織が、ついに警察に摘発されたんです。こうなるともう、これ以上商売を続けることはできない。派手なこともできない。折口さんもついに諦めた。「ジャガーノート」は解散し、ほとぼりの冷めるまでの間、俺達はバラバラになって、しばらくの間は身を隠すように生きてきたんです。しばらくしてから上杉が意識を取り戻したという噂も聞こえてきて、あいつから身を隠す意味もあった。そんなことがあってから7年・・・。突然俺の耳に、河合が死んだという知らせが、高津からあった。最初はただの偶然かと思った。でも・・・さらに、金子が死んだ。しかも・・・赤い車にやられたって・・・。その上、下澤まで死んだと聞いたときには、もう間違いないと思った。あの女が・・・あの女が、俺達を殺しに、地獄から戻ってきたんだって・・・」

 平野の声が、また震え始めた。

 「・・・亡くなった高津さんは・・・死ぬ間際に「ヤスコ」という言葉を言い残したそうです。先ほどあなたも・・・同じ名前を口にした。ヤスコ・・・それが、折口の殺した人・・・上杉の恋人・・・そして・・・あなたの怯える、幽霊の名ですか・・・」

 対して亜矢は、冷静極まりない声でそう尋ねた。

 「そう・・・そうだ。吉井靖子・・・それが、あの女の名前です」

 震える声でそう答えながら、平野は何度もうなずいた。

 「下澤が殺されて・・・俺は、折口さんに連絡をとったんだ。あの女の亡霊が、俺達に復讐を始めたんだって。だがあの人は、そんなこと信じちゃいなかった。ふざけるな、死人がどうやってあんなふうに人を殺す。こんなことをするのは人間・・・それも、あのことを知ってる奴しかいない。それなら・・・犯人は、上杉に決まってる。俺達がうまく雲隠れしていたせいであの男は今まで動きを見せなかったが、どうにかして俺達の居所を知って、こんなことを始めたに決まってると・・・あの人は、そう信じて疑わなかった。殺される前に殺してやる。あの人は狂ったようにそれだけ言うと、電話を切ったんです。あの人と話したのは・・・それが最後でした・・・」

 「・・・」

 「・・・許されないことをしちまったことはわかってます。何をしたところで、俺達のしたことは許されることじゃないでしょう。こんなこと頼めた義理じゃない。ですが・・・」

 平野はそう言うと、机に擦りつけた。

 「お願いです! 俺は・・・俺はまだ、死にたくないんですよ! だから・・・助けてください! あの女から・・・あの女の、亡霊から・・・!!」

 亜矢はそれを黙って見つめていたが、やがて、口を開いた。

 「もう一つ・・・お伺いしたいことがあります」

 亜矢のその言葉に、平野は顔を上げた。

 「「クリスティーン」という言葉に・・・聞き覚えはありませんか?」

 「そ・・・それは、吉井靖子の乗っていた車の愛称です。上杉から聞いたんです。靖子とは、靖子の車がエンスト起こして立ち往生してるところを直してやったのが縁で知り合ったと。靖子はアメリカのロックバンドの「クリスティーン」の大ファンで、いつもその曲をかけながら走ってて、自分の真っ赤なエアカーにも、「クリスティーン」と名前をつけて大事にしていたそうです。あの女は・・・「クリスティーン」に乗ったまま死んだんです。だから・・・あいつらを殺した赤いスポーツカーは、やっぱり・・・」

 平野は頭を抱えたままうずくまり、ガタガタと震え始めた。亜矢はそれを、冷ややかな眼差しで見つめていた。



 「亜矢さん・・・」

 ウィンディに向かって歩いていく亜矢の背中に、聡美は声をかけた。

 「どうなのかな、今回の事件・・・。やっぱり、その靖子さんっていう人の・・・」

 「そうではないよ」

 亜矢はきっぱりと答えた。

 「あの人にも最初に言ったじゃないか・・・。これは・・・幽霊自動車なんてものの仕業じゃないよ」

 「でも、幽霊はいるんでしょう? 前に沖縄に行った時だって、亜矢さんたくさんの幽霊を成仏させたって言ってたじゃない」

 「幽霊はいるよ・・・。しかしね・・・幽霊には幽霊の復讐の仕方がある・・・。車を事故に遭わせて殺すだけならまだしも・・・現場に見せしめのようにスプレーでサインを残す・・・。そんなことをする幽霊が・・・いると思うのかい? 幽霊はそんな回りくどい・・・これみよがしな殺し方なんてしないよ。これをやっているのは・・・人間だよ」

 「うーん・・・亜矢さんがそう言うのなら、そうかもしれないけど・・・」

 聡美は腕を組んだ。そんな聡美に、亜矢は振り向かずに言った。

 「聡美君・・・私は・・・この犯人だけは、なんとしてでも捕まえたいんだ・・・」

 「え・・・?」

 「死んだ靖子さんの亡霊に見せかけて、殺人を犯す・・・。犯人はきっと・・・それで靖子さんの無念は晴れるとでも・・・考えているのだろう。だが・・・それは違う」

 亜矢は助手席のドアの横で止まった。

 「それは・・・大きな思い上がりだ。それどころか・・・冒涜だよ。心安らかに眠らせておいて然るべき魂の名を騙り・・・こともあろうに、殺人を繰り返す・・・。そんなことが・・・死んだ人の無念を晴らすことになどなるものか。手厚く弔い・・・安らかに眠らせてあげることが・・・死者に安息を与えるための唯一の方法なんだ・・・。それを踏み外し・・・あまつさえ、死者を傷つけるようなことを繰り返す・・・それが私には・・・我慢ならない」

 「亜矢さん・・・」

 「聡美君・・・すぐに戻ろう。このことを・・・隊長に報告しなければ・・・」

 「うん・・・」

 聡美は亜矢の言葉にうなずくと、彼女とともにウィンディへと乗り込んだ。と、そのときだった。亜矢の前にあるダッシュボードの通信装置が、受信音をたてはじめた。

 「はい・・・こちらウィンディ」

 亜矢はすぐにそれに答えた。

 「小隈だ。どうやら、そっちは片付いたようだな」

 「はい・・・。そのことなのですが隊長・・・早速ですが、報告したいことが・・・」

 「ああ、そうだろうな。だが、ちょっと待ってほしい。お前達、今どこにいる?」

 「平野の事情聴取を終えたばかりです・・・。まだ、警察署ですよ・・・」

 「そうか。それは好都合だった。すまないが2人とも、分署に戻ってくる前に、科学部の研究所に寄ってきてくれないか?」

 「科学部の研究所っていうと・・・たしか、例の事故車を分析してるとこですよね? このあいだ「クリスティーン」を追って故障した第2小隊のウィンディも運び込まれてたはずですけど・・・」

 聡美が思い出すようにそう言った。

 「そのウィンディも含めて、事故車の分析が終了したそうだ。さっき所長の原さんから連絡があったんだが、重大なことがわかったらしい。できれば直接来てほしいらしいんだが、そういう役に一番ピッタリな桐生は外出中だったからな。もう終わったかと思って連絡してみたが、今終わったならちょうどいい。桐生、すまないがちょっと行って、話を聞いてきてくれないか? 報告はそれから、まとめてしてくれていいから」

 「了解しました・・・。研究所を回ってから帰還します・・・」

 「すまんな、頼んだぞ」

 それっきり、小隈からの通信は切れた。

 「聞いての通りだよ、聡美君・・・。お願いできるかな・・・?」

 「りょーかい。電話急げってやつね」

 聡美はそう言うが早いかシートベルトをすばやく締めると、ウィンディのエンジンをかけた。



 「やぁどうも。お呼びたてしてしまって、申し訳ない」

 受付で取り次いでもらって数分後。ロビーにやってきた口ひげを蓄えた中年の男は、亜矢と聡美に笑みを向けながら近づいてきた。

 「いえ・・・ちょうど別の場所から、分署に戻る途中でしたので・・・」

 亜矢はそう言うと、真剣な表情を浮かべた。

 「それよりも原所長・・・例の事故車やウィンディから・・・興味深いことがわかったとお聞きしましたが・・・」

 亜矢がそう言うと、SMS科学捜査研究所の原所長はうなずいた。

 「ええ、遅くなってしまったが、ようやくわかりましたよ。しかしね・・・桐生さん、岸本さん、こりゃあきっと、大事ですよ」

 なぜか眉間にしわを寄せる原。

 「大事?」

 「ええ。私らもまさか、こんな結果が出るとは思わなかった。まぁ、こんなところで立ち話をしていてもなんです。実際に見てもらった方が早い。どうぞ、こちらへ」

 原はそう言うと、先導をしながら歩き始めた。2人は顔を見合わせたが、すぐにそれを追い始めた。



 研究室の一つのドアが開くと、そこでは数人の研究者達が働いていた。

 「マツ、いるか?」

 原がそう言うと、一人の研究員がその中から小走りに出てきた。

 「なんです? 所長」

 「出番だ。あれについて説明してやってほしい」

 原がそう言いながら2人を見ると、その研究員も2人を見て笑顔を浮かべた。

 「ああどうも、はじめまして。松山といいます」

 研究員はそう言って、握手を求めてきた。研究員とはいってもフットワークも性格も軽そうな感じの男で、白衣もあまり似合っているとは思えない。どことなく、コマネズミのような印象を受ける男である。

 「お2人ははじめてでしたね。このマツは、去年の秋に民間から採用したんですよ。見ての通りのお調子者ですが、まぁよく働いてくれてますので、どうかよろしく」

 「ひどいなぁ、所長。もうちょっと気の利いた紹介をしてくださいよ。まぁとにかく、よろしくお願いします」

 「桐生です。よろしく・・・」

 「岸本です。よろしくお願いします!」

 2人はそれぞれ、松山の握手に答えた。

 「早速だがマツ。例のものをお2人に見せてやってくれ」

 「了解。さぁ、どうぞこっちへ。散らかってますけど」

 2人は言葉どおりあまり整理整頓されているとは言えない研究室の中を松山のあとに従い、パソコンのいくつも並んでいるブースの前にたどりついた。

 「事故車やウィンディの分析結果から・・・興味深いものが出たと聞きましたが・・・一体、何が見つかったのですか?」

 亜矢がそう尋ねると、松山はそうですねぇと言ってから答えた。

 「言ってみるなら、幽霊の残りカス、ってところですかね」

 「幽霊の残りカス?」

 「おいマツ。そんな言い方じゃ説明になってないだろう」

 聡美が変な顔をしたのを見て、原は顔をしかめた。

 「わかってますよ。短期は損気。田んぼじゃとれないサザエのつぼ焼き、です」

 松山はわけのわからないことを言いながら、対称的に手馴れた手つきでキーボードを叩き始めた。

 「ですがまぁ、ちゃんと説明しましょう。お2人も、一連の事故の直接の原因が、車の制御コンピュータが狂ってコントロール不能に陥ったことだというのは、聞いてますね?」

 「はい」

 2人がうなずくと、松山はうなずいた。

 「それで、ですね。このあいだ例の幽霊自動車を追って同じようにコントロール不能に陥った、第2小隊さんのところのウィンディ。あれも調べてみたんですよ。幸い、ウィンディの方は大した損傷もなく止まってくれましたから、内部の電装系がほとんど無傷で、スクラップ同然の事故車に比べるとずっと調べやすかった。で、おかげでわかったんです。結論からいいますとね。事故車の制御コンピュータが狂った原因は、ハッキングです」

 「ハッキング?」

 思わぬ言葉が出てきたので、2人とも怪訝な表情を浮かべた。

 「そうです。事故車に対してもウィンディに対しても、無線ラジオやGPSの電波の周波帯を利用した電波によって、内部の制御コンピュータに対してハッキングが行われていたんです。車が言うことをきかなくなったのは、そのせいなんですよ。これだけなら、まぁありえなくもない。でもですね・・・」

 松山はマウスを操作した。モニターに、一見して意味不明の数字や英字を羅列したコードがいくつも表示される。

 「事故車やウィンディのコンピュータには、そのハッキングの痕跡が残っていた。さっき幽霊の残りカスって言ったのは、このことなんです。こいつを調べれば、ある程度犯行に使われたのがどんなものか、検討もつくでしょう。そう思って調べてみたんですが・・・どうやらこれは、とんでもないものが関わってるらしいですよ」

 松山はそう言うとモニターの前からやや椅子を引いて、まぁ見てくださいと言って亜矢を見た。小隈が亜矢をうってつけの人間と言ったのは、彼女がシステムの専門家であるからだったのだろう。亜矢は無言でモニターの前に立ち、机に手を突いてモニターを凝視し始めた。

 「!! これは・・・!!」

 と、それからそれほど時間を置かずして、亜矢が珍しく驚きの表情をあらわにして松山を見た。

 「・・・そりゃあ、驚くでしょう。こいつに使われたのが、あれだとしたら・・・大変なことですよ」

 松山はそう言って、先ほどまでとは打って変わった深刻極まりない表情を浮かべた。



 「サイバーフリーザーだと!?」

 亜矢の口から出た言葉を聞いた小隈は、そう叫んで思わず立ち上がりかけていた。他のメンバーも、一様に驚きの表情を浮かべている。

 「私にも・・・信じられません。しかし・・・どうやら、間違いはないようです。一連の事故車・・・それにウィンディのコンピュータに残されたハッキングの痕跡を調べた結果・・・それに使われたものはサイバーフリーザー・・・あるいは、それに非常に近いものとしか考えられないのです」

 重々しい口調で、そう答える亜矢。

 「サイバーフリーザーっていうのは、あの、第2小隊の浪平さんの・・・」

 「そう・・・専用装備だ。無線電波やタキオン、マイクロ波、レーザー・・・ありとあらゆる通信手段を内蔵し・・・それを使ってあらゆる機械の制御コンピュータに侵入・・・。大量の情報を洪水のように一気に流し込んでシステムをパンクに追い込み、フリーズさせる・・・超高性能のハッキング装置だよ・・・」

 ひかるの言葉に、亜矢は丁寧にそう答えた。が・・・

 「んなことはわかってますよ。俺達が知りたいのは、それはどういうことかってことです。事故車やウィンディのコンピュータを狂わせたのがサイバーフリーザーなんて・・・それじゃあ浪平さんは、自分の装備のせいであんな目にあったっていうんですか?」

 小島は納得のいかない様子でそう言った。当然である。だが、亜矢は相変わらずペースを崩さずゆっくりと答えた。

 「もちろん、サイバーフリーザーそのものではないよ・・・。浪平さんが「クリスティーン」とカーチェイスをしていたそのときも・・・サイバーフリーザーは浪平さんのVJのバックパックの中にあったんだからね・・・」

 「それじゃあ、何だって言うんですか?」

 「そうだね・・・。幽霊ばかりで恐縮だが・・・これもまた・・・サイバーフリーザーの幽霊・・・とでも言うべきものかな・・・」

 亜矢が少し考えるような表情でそう言ったが、全員が怪訝な表情を浮かべた。

 「無論・・・サイバーフリーザーが現に第2小隊にあるというのに・・・それが犯罪に使われるなんてことは・・・普通は考えられない。だから研究所の原さんは・・・考え方を変えてみた。もしも・・・サイバーフリーザーがもう一つ存在するとしたら・・・」

 「もう一つ・・・?」

 「しかし・・・サイバーフリーザーは超高性能であるがゆえに・・・その構造は複雑を極める・・・。ブラックボックス化されている部分も・・・中にはあるからね。個人はもちろん・・・生半可な技術力の組織でさえ、おいそれとコピーを作ったりすることはできない・・・。そんなことができるところがあるとして、考えられるのは・・・製造元だけだ」

 「製造元? サイバーフリーザーの製造元って、たしか・・・日本ではなかったわね?」

 「はい・・・。アメリカのシアトルにある・・・ケインズ・エレクトロニクスという会社です・・・」

 仁木の問いに、亜矢はそう答えた。

 「原さんは・・・直接この会社に問い合わせたそうです。そうしたら・・・とんでもないことがわかったそうです」

 「とんでもないこと?」

 「はい。初動捜査の混乱から・・・まだこちらへは伝わっていなかったのですが・・・」

 亜矢は深刻そうにうなずいて、口を開いた。

 「サイバーフリーザーの開発時・・・試作機として開発された、ハッキング装置が・・・持ち出されていました」

 「なんだって!?」

 亜矢の言葉に、普段は冷静な小隈も驚きの声を上げた。

 「じゃあ・・・今回の犯行に使われてるっていうハッキング装置は・・・」

 「ああ・・・。その試作機と見て・・・間違いないだろうね・・・」

 「でも・・・どうして、その試作機が日本に?」

 「それは・・・犯人と関係しているようだ・・・」

 「犯人、もうわかってるんですか?」

 ひかるの質問に答える代わりに、亜矢は目の前の端末を操作した。全員の端末のモニターに、一人の男の写真と経歴が表示される。

 「賀茂博正・・・31歳。ケインズ・エレクトロニクス社の研究員で・・・サイバーフリーザーの開発にも・・・開発スタッフとして深く関わっていた男です・・・」

 「この男が犯人と、断定できているの?」

 「はい・・・。試作機が研究所から消えたのとほぼ同時期に・・・姿をくらましています。また・・・その直後、どうやらこの日本へ戻ってきたようで、飛行機の搭乗記録が残っています。入国後の足取りまでは・・・まだつかめていないのですが・・・」

 亜矢の言葉に、全員が沈黙を浮かべた。

 「しかし桐生・・・そうなると、この男が「クリスティーン」ということになるが・・・。「ジャガーノート」の連中や、死んだ吉井靖子という女との関係はどうなんだ? こいつが「クリスティーン」だとしたら、当然「ジャガーノート」や吉井靖子とも、なんらかの関係があると思うが・・・」

 「残念ながら・・・そちらについても、まだ詳しいことはわかっていません。捜査部が現在調査を行っていますが・・・念のため・・・個人的判断で、もう一人助っ人を頼んでおきました」

 「助っ人?」

 「はい・・・。こういったことに関してはプロですから・・・頼りになると思いますよ」

 小隈の問いに、亜矢はいつものにやりという笑みを浮かべた。



 「プロねぇ・・・。まぁたしかに、これが仕事なんだけど・・・」

 愛車である中古エアカーのハンドルを握りながら、萩野はそんなことを一人つぶやいていた。

 「・・・ま、いいだろう。いい機会だ。いつもお世話になってばっかりっていうのも悪いし、せっかく恩返しのチャンスをくれたんだから、頑張らないとな」

 「200m先、左折です」

 「おっと、もうすぐだな」

 カーナビの声に、萩野は視線を道の先の方へと向けた。「桐原学院大学」と書かれた標識が、道路の上に架かっていた。



 数日後・・・

 ♪〜

 亜矢の机の上で、突然彼女の携帯が着メロを流し始めた。

 「あ・・・!」

 それに気づいた隣の席のひかるがすぐに手を伸ばし、通話ボタンを押す。

 「はいもしもし。SMS第1小隊です・・・・」

 時刻は午後8時を回ったところ。オフィスには、夜勤のひかると亜矢しかいない。その亜矢も先ほど、ちょっと席を外している。

 「はい、服部です。・・・いえ、そんな。このあいだこそ、お相手できなくてすいませんでした。いえ・・・。はい。亜矢さんなんですけど、ちょっと今席を外してて・・・」

 と、ひかるが言いかけたそのときだった。

 プシュー・・・

 オフィスのドアが開き、亜矢が中に入ってきた。

 「あ、今戻ってきました。ちょっと待ってください」

 ひかるはそう言うと、携帯を持って小走りに亜矢に近づいた。

 「亜矢さん、萩野さんからです」

 「ああ・・・」

 亜矢は無表情だった表情を少し変えると、携帯に出た。

 「はい、桐生です・・・。ええ、すみませんでした。それで・・・もしかして・・・」

 亜矢は電話に答えながら、自分の席へと座った。時にうなずいたり、深刻な表情を浮かべたり、ひかるの視線が彼女の顔に向けられる。

 「・・・なるほど、そういうつながりでしたか・・・。ええ、非常に参考になりました・・・。こちらの捜査部がつかんだ情報とも・・・符合します。よく調べてくれましたね・・・」

 亜矢はそう言って笑った。

 「とにかく・・・ありがとうございました。これでようやく・・・全てがはっきりしたというところです。後ほど・・・お礼はさせてもらいますので・・・。いえ、そう言わずに・・・」

 亜矢はそんなことを言っていたが・・・

 「それでは・・・ありがとうございました。失礼します」

 そう言って、携帯を切った。

 「助っ人さん・・・ですか?」

 ひかるがそう尋ねる。

 「ああ・・・やはり、萩野さんはプロだね。3日だけでよく調べてくれたよ・・・」

 「そうですか。じゃあ、わかったんですね? 「クリスティーン」・・・賀茂と、「ジャガーノート」や吉野靖子さんとの関係が。やっぱり、関係があったんですか?」

 「うん・・・。一言で言ってしまうことは、できるにはできるのだけれど・・・」

 と、亜矢が言いかけたそのときだった。

 Trrrrrr・・・

 机の上の電話が、けたたましい音をたてはじめた。ひかるがすばやく受話器を取る。

 「はい、SMS第1小隊ですが・・・ええっ!?」

 ひかるが大声を出したので、亜矢が彼女を訝しげに見た。が、彼女は受話器を押さえて亜矢に言った。

 「亜矢さん、大変です! 警視庁ですが、逃走中の上杉を発見したそうです!」

 「!?」

 「港区で警邏中のパトカーが盗難車らしい車を発見したのですが、どうやらその運転手が上杉らしいんです。上杉は警官の制止を振り切ってそのまま逃走し、現在パトカー隊が逃走中の上杉の車を追跡中です! 第1小隊にも、部長から出動命令が出されました!」

 「わかったよ・・・。すぐに出動する、そう伝えて。隊長も・・・文句は言わないだろうから」

 「了解!」

 ひかるはそう言うと、再び電話に耳を当てた。一方、亜矢も受話器を取って内線ボタンを押す。

 「桐生です・・・。お休みのところ、申し訳ありません。実は、警察から・・・」



 「ご苦労さん。いよいよ出番か。相手はやっぱり、例の幽霊自動車か?」

 ガレージに駆け込んできた小隈達を見るなり、楢崎はそう言った。

 「いえ。ですが・・・あれが現場に現れる可能性もあると思います。それでなんですが、おやっさん・・・」

 「わかってるよ。俺達だって遊んじゃいない。指揮車については、ちゃんと手を打っておいた。VJも積み込み済みだ。安心して出動してくれ」

 「感謝します。よし、全員搭乗!」

 「了解!!」

 敬礼をすると、メンバーはあわただしく指揮車へと乗り込んだ。そしてそれぞれ自分の持ち場につくと、それぞれの作業を始める。

 「新座君・・・」

 直通回線で亜矢の声が圭介のVJのヘルメットの中に響いたのは、圭介がVJを装着し終わってからすぐのことだった。

 「なんですか、亜矢さん?」

 「実はさきほど・・・萩野さんから連絡があったんだ。「クリスティーン」・・・賀茂博と、今回の事件関係者たちとの関係について・・・」

 「! それで?」

 「現場に到着するまで時間がないから・・・全ては話せない。ただ、一言で言ってしまうなら・・・復讐だ」

 「復讐?」

 「そう・・・。新座君・・・「クリスティーン」は、幽霊自動車なんかじゃない。あれは・・・「朧車」だ」

 朧車―――情念の化身。

 「え・・・? それは、どういう・・・」

 「詳しい話は・・・またあとにしよう。でも・・・これだけは言っておきたい。たぶん・・・賀茂は、今回の現場に現れる。あの車が走れば・・・不幸が起きる。だから私達は・・・あの「朧車」を止めなければならない。私やひかる君は、ここからのサポートしかできないけれど・・・君達には・・・なんとかあれを止めてほしいんだ。それだけは・・・言っておきたかった」

 「亜矢さん・・・」

 相変わらず何を知っているのか、何を考えているのかわからない言葉だったが、少なくとも、賀茂という男を止めなければならないという思いだけは、亜矢の言葉からしっかりと伝わってきた。圭介はうなずいた。

 「・・・わかりました。賀茂のことについてはあとで聞かせてもらいますけど、そういうことなら心配無用ですよ。ここにいる人間は、全員同じ思いです。朧車だろうとなんだろうと・・・絶対、止めてみせます」

 「ありがとう・・・。そうだね、頑張ろう・・・」

 「ええ・・・」

 亜矢の通信は、それきり切れた。「クリスティーン」が「朧車」・・・その言葉の意味は図りかねたが、圭介はとにかく、気合だけは新たに入れなおした。

 「発進準備完了。全員、シートベルトはしっかり装着してるね?」

 運転席の聡美の声が聞こえたのは、そのときだった。全員が返事をする。

 「よし。第1小隊、出動!」

 「了解! 指揮車、発進します!!」

 ヒィィィィィィィィィン・・・

 静かな音をたてて、ゆっくりと指揮車がガレージから進出していく。

 「車は現在、国道を本牧ふ頭方面へ逃走中だそうだ。そちらへ進路を向けろ」

 「了解!!」

帽子を振る整備員達に見送られながら、指揮車は夜の空を滑るように飛行し始めた。圭介はふと、背後にある窓を振り返って外を見た。

「朧月夜・・・か」

雲に隠れながら朧な光を放つ満月を見ながら、圭介はつぶやいた。



 狂ったようにクラクションを鳴らしながら、一台の青いスポーツカーが、深夜の道路を危険な程の速度で走行していた。けたたましいサイレンの音が、その車の背後から徐々に迫ってくる。バックミラーに映った、自分を追う数台のパトカーを見ながら、上杉潤一はハンドルを握る両手に生ぬるい脂汗が浮かんでくるのを感じていた。

「くそっ! ここで捕まるわけにゃいかねえってのに!!」

赤信号の交差点に突っ込んだり、歩道に乗り上げたり、道路を逆走したりといった、自分の命すら顧みないような無謀な運転を続けながら、上杉は、すでに一時間近く必死で逃げ回っていた。

「「クリスティーン」とかいうふざけた野郎を、ぶっ殺すまでは・・・!!」

そう吐き捨てるように言って、上杉はハンドルを握る手に力をこめた。



「現在、被疑者の車両は本牧ベイサイドラインを南下中! 周辺配備の各警邏車両は、至急現場に急行されたし!」

吹きこむ風とローターの回転音に負けまいとする大きな声で、その若い巡査はヘルメットのレシーバーに思いきり怒鳴った。

「警視庁」の文字が大きく機体に描かれた、首都交通管制センター所属のその擬似反重力ヘリコプター「おおたか」は、朧月の輝く夜空から、上杉の運転する車を追跡し続けていた。

「限界です! これ以上飛んだら、戻れなくなる!」

パイロットが、これも負けじと怒鳴った。

「交代のヘリが来るまで、もう少し保ちませんか!?」

「無理ですよ!」

巡査の問いかけに、パイロットが再び怒鳴り返したその時。2人のヘルメットの無線に、突然冷静な声が聞こえてきた。

「あとは我々が交代します」

はっとしてヘリの後方を見た巡査は、そこに音もなく高速で接近する飛行物体を見つけた。

「SMS!!」

銀色の巨大な箱・・・SMS第1小隊の指揮車が、一直線にこちらに向かっていた。

指揮車はあっという間にヘリの隣までやってきた。運転席の窓ガラスの助手席に座る男が、こちらに敬礼をするのが見えた。

「あとは頼みます!」

巡査とパイロットも、うなずいて敬礼を返す。

「了解!」

指揮車の返答を聞いて、ヘリは大きく機体を翻して去っていった。

 「よし、引継ぎ完了。岸本、被疑者の車の動きは?」

 「無茶苦茶ですよ。これ以上公道走られたらますます・・・ん? あれれ?」

 運転をしながら地上カメラにも目を走らせていた聡美が、変な声を出した。

 「どうした?」

 「急に曲がりました! 港に逃げ込む気です!」

 「ふむ・・・。一般車への被害は少なくなるだろうが、見失うリスクもあるな。注意しろ」

 「わかってますって。この岸本聡美ちゃんからは、誰だって逃げられないんですから!」

 聡美は口元に笑みを浮かべながら、操縦桿を前へと倒していった。



 カーチェイスの舞台は、すでに夜の港へと移り変わっていた。大型トラックも自由に通れるほどに広くとられたアスファルトの地面の上を、まず青いスポーツカーが猛スピードで駆け抜ける。そしてそれに続き、何台ものパトカーがサイレンを鳴らしながらそれを追っていく。

 「だいぶ追い詰められてきたな・・・。よし、そろそろけりをつけるとするか。岸本、指揮車を先回りさせて着陸だ。お前達、出番だぞ」

 「了解!!」

 振り向きながらの小隈の声に、実動員たちは声をそろえて答えた。

 「りょーかい! 着陸します!」

 聡美が答えながら、さらに高度を下げ始めたそのときだった。

 ブォォォォォォォォォォォ!!

 「!?」

 突如、ドライ・ライトエンジンの轟音が周囲に響き渡った。驚いた彼らが、音のした方向を見ると・・・

 グォォォォォォォォン!!

 突如、倉庫と倉庫の間から、一台のエアカーが猛スピードで飛び出してきた。すかさず指揮車が、その姿をサーチライトで照らし出す。強力なライトの光に照らし出されたのは・・・

 炎のように・・・血のように真っ赤な、スポーツタイプのエアカーだった。

 「あ・・・あれが・・・」

 「クリスティーン・・・!?」

 唖然とする第1小隊をよそに、「クリスティーン」はハンドルを大きく切ると急加速し、地上で繰り広げられている上杉と警察とのカーチェイスに乱入した。



 激しいエンジン音が響く車内。ダッシュボードには何枚もの男の顔写真が、セロハンテープで無造作にとめてある。写真は全部で6枚。そのうちの5枚には、赤いマジックで大きく「×」が描かれている。

 「平野を警察に保護されてしまったのは痛恨だったが・・・いたしかたあるまい。その代わり・・・」

 ハンドルを握る男は、目の前を走る青いスポーツカーをにらみつけた。

 「上杉潤一・・・。お前だけは・・・絶対にこの手で殺す・・・!!」

 男は右手でハンドルを音がするほど握り締めると、左手で写真をもう一枚ダッシュボードに貼りつけた。写っているのは・・・上杉潤一。それを貼り終わると、男はバックミラーに目を転じた。背後から追ってくるパトカーの赤いパトランプが、まぶしく反射している。

 「目障りだ、警察。お前達などに・・・奴らを裁かせるものか!!」

 男はバックミラーをにらみつけながらそう言うと、右手でハンドルを握りながら、器用にも助手席との間に設置されたキーボードをカタカタと叩いた。そのとたん、ダッシュボードに設置されているモニターに、次のような表示がされた。

 「Cyber Freezer System set up」

 ウィィィィィィィン・・・

 それと同時に、「クリスティーン」のルーフに設置されていたブレードアンテナが、ゆっくりと展開する。それは方向を変え、背後を走るパトカー隊へと向けられた。

 「Target Lock」

 タンッ!

男はその表示を見ると、エンターキーを押した。

 ゴゥン・・・

 不気味なうなりとともに、ダッシュボードのランプ類が激しく点滅を始めた・・・。



 地上の異変は、空から追う指揮車からは一目瞭然だった。

 「クリスティーン」のアンテナが向けられたその直後。それまで一糸乱れぬ動きで上杉の車を追い詰めていたパトカーたちが、突如まるででたらめのような動きを始めた。1台のパトカーが大きくバランスを崩すとそのまま横転した。アスファルトと車体が擦れあって、火花と共にすりガラスを引っ掻くような不快な音が辺りに響いた。その後を走行していた数台のパトカーがブレーキを踏んだが、ブレーキは全く作動せず次々追突し、たちまち折り重なるようになって動かなくなってしまった。

 「あ、あれが・・・」

 呆然とそれを見つめる第1小隊。そんな中、亜矢は冷静にキーボードを叩いてから言った。

 「やはり・・・サイバーフリーザーのデジタルフラッドに酷似したサイバー攻撃です。多チャンネルでパトカーの制御コンピュータにハッキングし・・・その機能を狂わせたようです」

 「くっ・・・岸本! もっと「クリスティーン」に寄せるんだ!」

 「了解!!」



 「ようやく出てきやがったか・・・!」

 「クリスティーン」の突然の乱入を見ても、上杉はまったく動じなかった。いや・・・こうなることは、あらかじめ予測済みである。むしろ、こうなってほしいとさえ思っていたほどである。

 「来やがれ!! どこのどいつか知らないが、死人の・・・それも、あいつの姿を借りなきゃ復讐もできねぇような奴なんか、ぶっ殺してやる!!」

 グォォォォォォォォォン!!

 その言葉を聞いたように、「クリスティーン」はさらに加速し、上杉の車と並走を始めた。

 「こいつっ!!」

 ドガァン!!

 上杉は急ハンドルを切ると、車の側面を「クリスティーン」へとぶつけた。が、塗料の欠片がわずかに飛び散っただけで、「クリスティーン」のボディにはまったく傷がついていなかった。

 「このっ・・・!!」

 ドガァン!!

 もう一度、車をさらに激しく「クリスティーン」へとぶつける上杉。その衝撃に、サイドミラーが粉々に砕け散って外れる。しかし・・・それでも「クリスティーン」は動きを乱すことも、ボディに傷がつくこともなかった。

 「な・・・なんなんだこいつ!? 一体、何で出来てやがるんだ!?」

 上杉は平然と走り続けるその姿に、初めて恐怖の表情を浮かべた。



 「ふん・・・」

 男はそれをあざ笑うと、再びシート横のキーボードをカタカタと叩いた。

 ウィィィィィィィン・・・

 「Target Lock」

 ブレードアンテナが、今度は横を走る上杉の自動車へと向けられる。男はそのままエンターキーに指をかざし、それを押そうとした。そのとき・・・

 ガガガガガガガガガガガ!!

 「!?」

 突如銃声とともに、ボンネットに激しく火花が飛び散った。見ると・・・前方十数mの空中に浮かんだSMS第1小隊指揮車の後部ハッチが開き、そこから身を乗り出した3体のVJが手にした銃でこちらに射撃を行っていた。

 「無駄なことを・・・邪魔はさせん!!」

 男は目を再びキーボードに戻した。そして・・・

 「靖子の苦しみ・・・存分に味わうがいい!!」

 タンッ!!

 エンターキーを力強く押した。



 グォォォォォォォォォッ!!

 その瞬間、上杉のスポーツカーも先ほどのパトカーと同じ動きを見せ始めた。まるで意思の働きの見られない、でたらめな蛇行運転を繰り返し、そのあげく・・・

 ガッ!!

 海沿いの貨物用道路を走っていた上杉の車は、勢いよくそこから海の上へと飛び出し・・・

 ザボォォォォォォォォォォン!!

 すさまじい水音と水しぶきをあげて、海へと飛び込んでしまった。

 「ああっ!!」

 それを見て、ひかるが悲鳴のような声をあげる。

 「くっ・・・!!」

 圭介はそれを見つめて一瞬うなったが、すぐに聡美に叫んだ。

 「聡美さん!! 今あの車が落ちた場所の上まで寄せて!!」

 「ちょ、ちょっと新座君、どうする気?」

 「助けるに決まってるじゃないですか! 早く!!」

 「で、でも圭介君、水中で自由に動くためには、セルキーが・・・」

 「セルキーがなくたって、なんとかなる! 聡美さん、お願いします!!」

 圭介が叫ぶ。聡美は困ったような表情を小隈に向けた。

 「隊長・・・」

 「新座の言う通りだ。このままじゃ、あの車は海の底に沈むぞ。新座、行動を許可する。服部、セルキーがない分の水中活動の不自由は、お前がサポートでなんとかしてやれ。2人とも、頼むぞ」

 「了解!!」

 「わ・・・わかりました!!」

 「もう・・・」

 聡美はやや不安そうな表情を浮かべたが、すぐに指揮車を転進させ、先ほど上杉の車の落下したポイントの上に制止した。

 「それじゃ行きます! みんな、あいつのことは頼みます」

 圭介はそう言いながら、走り去っていく「クリスティーン」を見つめた。

 「オッケー! あたしのドラテクから逃げられるなんて十年早いってこと、思い知らせてあげるわ」

 「了解。あとは私達に任せておいて」

 「お前こそ、自分がどざえもんになるんじゃないぞ」

 聡美たちの声にうなずくと、圭介はプラットフォームから身を乗り出した。

 「いくぞ、ひかる!!」

 「はい!!」

 バッ!

 そして、圭介はそこから闇の中へと身を躍らせ・・・

 ザボォォォォォォォォォン!!

 水しぶきとともに、夜の海の中へと突入した。水面にはしばらく泡が立っていたが・・・

 「よし、岸本。俺達もすぐに追うぞ!」

 「りょーかい!!」

 ブォォォォォォォォォォォォォ!!

 その泡が静まるのを見届ける暇もなく、走り去った「クリスティーン」を追った。



 ブォォォォォォォォ・・・

 「・・・」

 無表情のまま、「クリスティーン」のハンドルを握り続ける男。と・・・

 ヒィィィィィィィィィィィィィン!!

 「!」

 その耳に、かすかな音が聞こえ始めた。すると・・・

 ゴォォォォォォォォォッ!!

 ルーフ上数mという超低空を、指揮車が追い抜いていった。そして、指揮車は前方数mの間隔を保ったまま、併走を始めた。

 「しつこい連中だ・・・。あくまでも追いかけるつもりなら・・・」

 カタカタ・・・

 ウィィィィィィィィィン・・・

 男はキーボードを操り、ブレードアンテナを前方へと向けた。

 「Target Lock」

 「自分達の武器で・・・落ちろ!!」

 タンッ!!

 勢いよく押されるキー。

ゴゥン・・・

 不気味なうなりとともに、ダッシュボードのランプ類が激しく点滅を始める。男は前方を飛ぶ指揮車の様子に注視した。が・・・

 「・・・!?」

 指揮車は、まったく変わらない様子で併走を続けている。

 「な・・・なぜだ!? なぜ狂わない!?」

 男はそれを見て、激しく狼狽した。


 「サイバー攻撃を感知・・・。ですが・・・システムへのダメージは0%です・・・」

 亜矢が静かな声で報告する。

 「さっすがおやっさん。いい仕事してくれてるなぁ」

 小島が感心したように言うと、聡美もうれしそうな笑みを浮かべた。

 「へぇんだ、ご愁傷様。あいにくだけど、そっちがそういうことしてくるのわかってて何の対策もしないほど、こっちもおバカじゃないんだから。突貫工事だったけど、この指揮車にもVJにも、電装系にはおやっさんが対デジタルフラッド用の絶縁コーティングを施しておいてくれたんだもんね。見たか! これが職人の仕事って奴よ!!」

 聡美はなぜか偉そうにそう言った。

 「2人とも、浮かれるのはもう少しあとよ」

 が、仁木は冷静にそう言うと、小隈に言った。

 「隊長、どのようにしましょう?」

 「そうだな・・・。あれが暴走しない程度に、車の動きを止められるようなポイントを狙い撃ちにはできないか? エンジンも危ないからターゲットからは外してほしいが・・・」

 「難しいですね。ですが・・・了解!!」

 ガシャッ!!

 仁木は答えると、バックパックからヨイチを取り出して、それを構えて「クリスティーン」を狙った。

 「亜矢さん・・・ボンネット内の各種機関の予測配置図、出せるかしら?」

 「あれは改造車ですから・・・市販のタイプとは配置も違っていると思いますが・・・」

 亜矢の言葉とともに、それはすぐに表示された。

 「エンジンなどの配置の仕方は限られていますから・・・それほどの違いはないと思われます」

 「そうね。車をコントロール不能にして事故らせない程度に、車の走行機能に障害を与えられるポイントとなると・・・」

 仁木の目が、一点に留まった。

 「・・・熱エネルギー伝道チューブ・・・ここしかないわね」

 ガチャッ!!

 仁木はそこにポイントを定め、スコープを覗き込んだ。

 「岸本さん、指揮車の飛行をできるだけ安定させておいて!」

 「任せてください!!」

 聡美にそう言い置き、狙いを定め始める仁木。しかし、「クリスティーン」も彼女を見てその狙いに気づいたようで、くねくねと蛇行運転を始める。照準レティクルの中の「クリスティーン」が、落ち着きなく左右に動き、照準が定まらない。

 「・・・その程度で!」

 しかし仁木は焦ることなく、微妙な腕の動きでその照準を捕らえようとしている。そして・・・

 ピピッ!!

 電子音とともに、照準レティクルが赤く染まる。

 「!!」

 仁木はためらうことなく、引き金を引いた。

 ガァン!!

 「クリスティーン」のボンネットに、火花がひとつ散る。

 「貫通したの!?」

 マルチリボルバーの銃弾は弾き返した装甲なので、聡美は心配だったが・・・

 「ええ・・・。手ごたえはあったわ」

 仁木はヨイチを構えたまま、確信に満ちた様子でそう言った。と・・・

 グォォォォォォォォォ・・・

 その言葉どおり・・・「クリスティーン」は閉じたボンネットの隙間から白煙をあげはじめ、ゆっくりとそのスピードを落とし始めた。

 「・・・」

 仁木はそれを見て、ようやく構えていたヨイチを下ろした。

 「往生際のようですね・・・」

 亜矢の言葉が、静かに響く。

 「よし岸本、着陸準備だ。仁木、小島、用意しろ」

 「了解!!」


 ヒィィィィィィィィン・・・

 ゆっくりと、空から舞い降りてくる指揮車。

 ズゥン・・・

 やがて、静かで重い音とともに、指揮車は完全に着陸を終えた。そのすぐそばには「クリスティーン」が、ボンネットから白煙をあげながら完全に停止していた。

 ガチャガチャガチャガチャ!!

 マルチリボルバーを携えた仁木と小島がその運転席の横へと駆けつけ、銃を突きつける。

 「SMS第1小隊だ! おとなしく、車から降りなさい!!」

 仁木がマルチリボルバーを向けながら叫ぶ。中からの声はなかった。しかし・・・

 ウィィィィィィィィン・・・

 少しの沈黙の後、ゆっくりと、パワーウィンドウが開き始めた。仁木は注意深く、その中を覗こうとしたが・・・

 バッ!!

 「!?」

 突如、その隙間から黒く太い金属の筒が、ニュッと突き出された。

 「副隊長!!」

 ドガッ!!

 横に立っていた小島が叫びをあげ、とっさに仁木の肩を突き飛ばす。

 ドォン!!

 その筒が火を噴いたのは、仁木が倒れこんだその直後だった。その筒の先端の穴からは、何か黒い物体が煙を引いて飛んでいき・・・

 ドガァァァァァァァァン!!

 その向こうに立っていた倉庫の屋根に落ちて、爆発を起こした。

 「野郎っ!!」

 が、小島はその爆発を見届けることもなく、電光石火の勢いで窓から手を突っ込み・・・

 ベキベキッ!!

 片手で運転席のドアを強引に引き剥がした。そして・・・

 「こいつ・・・外へ出やがれ!!」

 運転席には、片手に引き金のついた筒のようなものを持った男が座っていた。小島は片手でその筒をつかみ、片手で男の襟首をつかむと、強引にその男を車の外へと引きずり出した。

 「放せっての!! こんな物騒なもの持ちやがって!!」

 そして、男が持っていたものを取り上げるとそれを地面にほうり捨て、すかさず男を後ろ手にねじり上げて地面へと組み伏せた。男の口から、くぐもったうめき声があがる。

 「副隊長!!」

 男を押さえたまま叫ぶ小島。すでに立ち上がっていた仁木は、バックパックから手錠をかけて、それを男の両手首にかけた。

 「さっきはすいません、副隊長。大丈夫でしたか?」

 「ええ、ありがとう小島君。助かったわ」

 仁木は例を言うと、地面に転がっていたものを拾い上げて眺めた。

 「グレネードランチャーか・・・」

 「・・・ったく、往生際が悪いにもほどがあるぜ。どこで仕入れてきたんだ、こんなもん」

 男を見ながら吐き捨てるようにそう言う小島。仁木はそれを「クリスティーン」のシートへと放り込むと、組み伏せられている男の前に移動して、かがみこんだ。

 「顔を上げなさい」

 「・・・」

 しかし、男はうつむいたままだった。

 「・・・」

 仁木は無言のまま、その顎に手を当てて顔を上げさせた。さしたる抵抗はなかった。

 「賀茂博正、ね?」

 「・・・」

 男は答えなかった。

 「1件の窃盗・・・4件の器物損壊及び殺人容疑・・・公務執行妨害現行犯、および・・・1件の器物損壊、殺人未遂の現行犯で、逮捕します」

 静かにそう宣告する仁木。そのとき

 「・・・未遂?」

 加茂が初めて、2人の前で口を開いた。

 「未遂じゃない。殺人の間違いだろう?」

 仁木をにらみつけてそう言う賀茂。しかし・・・

 「いいえ、未遂よ。というより・・・未遂にしてみせる」

 「俺達の仲間をなめんなよ。少しでも罪状軽くしてやるんだ。ありがたく思え」

 仁木と小島は、不適にそう言った。



 その頃・・・

 バシャッ!

 突堤沿いに折り重なっているテトラポットの一つを、海水に濡れた赤い金属に覆われた腕が、しっかりとつかんだ。そして・・・

 ザバァッ・・・

 それに力を込めて、圭介は海中からその身を起き上がらせた。

 「ハァ・・・やっと出た。やっぱきつかったな、セルキーなしの海水浴は・・・」

 「だから言ったじゃないですか」

 「しょうがないだろ。一刻一秒を争ってたんだから」

 「もう・・・。それより、上杉さんはどうなんですか?」

 ちょっと困ったようなひかるの声に、圭介は脇に抱えているものを見た。

 「意識はない。だが、おかげで海水もそう多くは飲み込んでない。すぐに処置を開始するよ。ひかる、小島さんをこっちに呼んでくれ」

 「了解!!」

 ひかるに答えながら、圭介は急いでテトラポットから突堤の上へとジャンプした。そして、ぐったりとしている上杉の体をゆっくりと横たえると、メディカルキットを取り出して治療を始めた。と、そのとき・・・

 サァッ・・・

 「・・・」

 視界が、少し明るくなった。ふと夜空を見上げると・・・先ほどまで雲に覆われていた月が、雲が流れてその姿をあらわにしていた。

 「止められたのか・・・? 俺達は、「朧車」を・・・」

 圭介はそうつぶやくと、蘇生の作業を始めた。



 「すみませんね・・・。正式な協力要請ではないので・・・こんなかたちでしかお礼ができなくて・・・」

 羊羹とお茶の載ったテーブルを挟み、私服姿の亜矢がそう言った。

 「いえ、お気になさらないで下さい。桐生さんみたいな美人とお食事ができるってだけでも、男としてはうれしい限りですよ」

 「お上手ですね・・・」

 その向かいに座っている萩野の言葉に、亜矢は笑みを浮かべた。

 事件から数週間後・・・。ようやくお互いに都合のつく時間を設けることのできた2人は、亜矢の行きつけの店であるという和風喫茶で会っていた。このあいだの捜査協力の礼・・・というのが、亜矢の言う理由だった。

 「それよりも・・・」

 萩野は真剣な表情になった。

 「俺は今回、本当に役に立ったんでしょうか? 俺のしたことといえば、桐生さんに言われた通り、あの賀茂という男と吉井さんという方の過去の関係を調べただけですが・・・」

 「とんでもない・・・。萩野さんは・・・私の見込み以上の仕事をしてくれましたよ」

 亜矢は笑顔を浮かべて首を振った。

 「もちろん・・・。うちの捜査部が収集した情報も有効なものでしたが・・・ことプライベートな話題に関することとなると・・・SMSという肩書きが邪魔になって、深いところまで掘り下げられないことがありますから」

 「その点、しがないフリージャーナリストならそのへんの抵抗感も少しは薄れる・・・ということですか?」

 萩野がそう言うと、決して萩野を軽視しているわけではないと亜矢は答えた。

 「ええ、わかってますよ。気になんかしません。事実ですし。ただ・・・」

 萩野は一旦、言葉を切った。

 「そういうことで、今回の事件にも一部関わらせてもらったわけですけど・・・正直、断片的な情報だけで、今回の事件の全体像というのがまだ見えてないんです。もしよければ・・・そのへんのことを、教えてほしいのですが」

 「・・・そうですね。たしかに、今のままでは気持ちが悪いでしょう・・・。しかし・・・事件というものは、全体像を知ったからといって必ずしもすっきりするものとは・・・限りませんよ?」

 「わかってます」

 果たして本当にわかっているのか。萩野も胸を張って言えるかどうかは自分でも怪しかったが、そう後味のよい事件ばかりこの世の中では起こっているわけではないということは、自分でもわかっているつもりだった。だから彼は、うなずいた。

 「・・・わかりました」

 亜矢はしばらく萩野の目をジッと見てから、お茶を一口口に運んだ。

 「・・・賀茂博正と・・・死んだ吉井靖子さんとの関係は・・・ご自分で調べましたからご存知ですよね?」

 亜矢の言葉に、萩野はうなずいた。

 「ええ・・・。賀茂博正と、吉井靖子・・・。2人はかつて同じ桐原学院大学に通っていた。2人が出会った当時、賀茂は既に大学院生・・・吉井靖子は学部3年生だった。そして・・・」

 萩野は言った。

 「賀茂は大学で見かけた吉井靖子に・・・一目ぼれをしてしまった」

 萩野の言葉に、亜矢はうなずいた。

 「その通りです・・・。しかし賀茂は・・・そのことを彼女に打ち明けることはできなかった・・・」

 「ええ、その通りです」

 萩野は大学時代の2人を知る人間達から聞いたことをおさらいするようにそう言った。

 「それに、賀茂はその頃はまだ知らなかったが、吉井さんにはその頃、つきあい始めていた男がいた。これも確認したいのですが、その男と言うのは・・・」

 「お察しの通り・・・上杉潤一です。吉井さんの家は資産家で・・・彼女は両親が買ってくれたスポーツカーでのドライブを趣味としていたそうです。上杉と吉井さんが出会ったのも・・・そのスポーツカーがエンジン故障で立ち往生して困っていたところに、上杉が通りかかって直したというのが・・・そもそもの始まりだったそうです」

 「そして、お互い車好きの2人は意気投合・・・というわけですか」

「その通りです・・・。ちなみに彼女は・・・そのスポーツカーに、自分の好きなロックバンドの名前をつけていました。それが・・・「クリスティーン」」

 「ああ、そういうことだったんですか。「元祖クリスティーン」は、吉井さんの車だったんですね。それは初耳でした」

 萩野は感心したように言うと、さらに続けた。

 「とにかく、吉井さんに恋人がいることさえ知らずに賀茂は、一人でうじうじと考えこんでいた。どうやら彼は・・・自分に対して深く、コンプレックスを持っていたようです」

 「・・・」

 「彼は、自分に自身がもてなかったんです。吉井さんは実家は資産家だし、本人も非常に利発で明るい人でした。それに比べて自分は容姿もさえないし、実家が金持ちというわけでもない、貧乏大学院生だ。とても彼女につりあうような人間ではないと・・・賀茂はそう考えたようですね。もちろん実際の彼女は、自分につりあうとかつりあわないとか、そんなことで相手を決めるような高飛車な女じゃなかったわけですから、これは賀茂の誤解だったわけですが・・・」

 「そうですね・・・」

 「とにかくそんな調子だったから、彼はいつまで経っても吉井さんに話しかけることさえできなかった。でも・・・あるとき、このままではどうにもならないと、ついに一念発起した。今の自分が彼女につりあわないのなら、彼女につりあう人間になればいいじゃないか、と。具体的には、もともと電子工学の専門家として非常に優秀な院生だった彼は、大学院卒業を前に自分をアメリカのシステム会社に必死に売り込んで入社し、そこで立身出世を図ろうと、渡米した。俺が聞き込みで入手した情報は、そこまでなんですが・・・」

 萩野は怪訝そうな表情を浮かべた。

 「そこまで聞くだけなら、恋した相手の愛を勝ち取ろうとする気の毒なほど内気な青年科学者のけなげなまでの努力・・・という感じの美談として受け取れなくもない話なんですが・・・。そんな男が今回のように、死んだ吉井さんの自動車の名を騙って「ジャガーノート」の連中を殺して回るようになったのは、やはり吉井さんの死が関わっているんですかね?」

 亜矢は少しの間目を閉じて萩野の言葉に耳を傾けていたが、やがてその目をゆっくりと開いた。

 「おっしゃるとおり・・・賀茂という男には、一途なところがあるようです。その一途さが・・・今回の事件の元凶の一つであると・・・言えないわけでもないのですが・・・」

 「やっぱり・・・。教えてください。渡米してから今回までのあいだ・・・賀茂に何があったんですか?」

 「そこからのお話は・・・うちの捜査部が調べてくれました。その情報と、萩野さんが調べてくれた情報のおかげで・・・賀茂という男が今回のようなことに及ぶまでの道程が・・・なんとか、見えるようになったのです」

 亜矢は羊羹を一切れ楊枝で切り取り、それを口に運んだ。

 「渡米した賀茂が就職したという会社は・・・正確にはシアトルにある、ケインズ・エレクトロニクスという会社でした。そしてこの会社は・・・私達とも浅からぬ関係があります」

 「浅からぬ関係?」

 「ええ。第2小隊に所属している隊員が、その専用装備として使用している、超高性能ハッキング装置・・・。SMSの依頼を受けてそれを開発したのが・・・ケインズ・エレクトロニクス社です。おっしゃるとおり・・・賀茂はこの会社で、優秀な技術者となりました。そして・・・この装置の開発スタッフにも、彼は名を連ねていたのです」

 「高性能のハッキング装置? それじゃあ、今回の事件に使われたのも・・・」

 「そうなのですが・・・それについては、またのちほど」

 亜矢は手を差し伸べ、一旦萩野の言葉を制止した。

 「入社以前からの努力が認められ・・・アメリカを代表するような電子系企業で、重要な開発プロジェクトのメンバーとして選ばれるほどの人物に・・・彼は若くしてなったわけです。これならばもう、少なくとも吉井さんとつりあいの取れない人間とは言えないだろうと考えるのは・・・彼でなくても、おかしくはないことです。彼はすぐにでも日本に戻り、吉井さんに会いたいと考えていた・・・。しかし、皮肉なことに・・・彼女とつりあいのとれる人間になりたいと努力してきた結果は・・・彼をなかなか、その目的へと近づけさせてはくれませんでした」

 「つまり・・・あんまりにも会社に重宝されすぎて、日本に帰る暇さえなくなってしまったと?」

 「帰るどころか・・・電話をかける暇さえなかったようですよ・・・。もっとも・・・彼は今萩野さんがおっしゃったような調子でしたから・・・吉井さんに電話をかけたくとも、電話番号は知らなかったのですが・・・」

 「それじゃあ、本末転倒ですね。でも、いくらなんだっていつまでも働かされ通しというわけじゃないでしょう?」

 「ええ・・・。会社もさすがに、彼の疲労ぶりを見かねて・・・休暇を出したのです。しかし彼は、家でのんびりすることなく・・・その日のうちに荷造りを整えて、成田行きの飛行機に飛び乗ったそうです。しかし・・・日本へ帰った彼を待っていたものは・・・」

 「・・・吉井さんの死・・・ですか?」

 萩野の言葉に、亜矢は重々しくうなずいた。

 「それが去年のこと・・・。吉井さんの死から・・・すでに6年もの年月が過ぎていました・・・」

 「そのあいだ賀茂は・・・そんなことも知らずに、懸命に働き続けていたわけですか? 努力する目的であるその人は、もういなくなっていたというのに・・・。それじゃあ・・・」

 報われないでしょうねと、亜矢はその言葉を継いだ。

 「彼がどれだけのショックを受けたのか・・・私には、それほどまでに誰か一人を想ったことなどありませんから・・・わかりません。しかしその後彼が数ヶ月近くものあいだ、会社にも行かずにほとんど廃人のような状態になっていたという捜査部の調べた情報から・・・その心情の断片なりとは想像はできるでしょう」

 「それで、賀茂は・・・」

 「ですが・・・彼はある日突然、立ち直りました。理由は彼にもわからないようですが・・・彼女につりあう男になると一念発起したときと同じように・・・。しかし・・・彼女のことをすっぱりと忘れ去ったというわけでは、もちろんありません。彼は・・・彼女がどうして亡くなったのか、そのことについて、もっと詳しく知りたいと思ったのです。それほどまでに想った女性の最期なら・・・そう思うのも、無理はないでしょう」

 「それで、調べてみた・・・?」

 「調べました。内気な人が普段自分の中へと向けているエネルギーは、いったん外へ向けられるとすごいものなのですよ・・・。そうして彼は・・・真相にたどり着いてしまったのです」

 「ああ・・・」

 萩野はうめくような声を出した。吉井靖子という女がどんな最期を迎えたのか、それについては事件後に亜矢から電話で聞いている。

 「彼にとっては・・・もう一度どん底へと自分を叩き落すような・・・すさまじい衝撃だったようです。6年もの間その死さえ知らず、懸命にその人のために働いた・・・。しかしその人には・・・彼の知らない男がいたのです。しかも彼女は・・・その男の子供を宿していて・・・その男が彼女とその子供のために悪から足を洗おうとするのを助けようとしたがために・・・殺されてしまったのです」

 「男としては・・・とても、心穏やかなものではないでしょうね。いや・・・賀茂の場合は、とてもそんなものじゃなかった・・・」

 「その通りです。彼の心の中で、「朧車」が走り出したのは・・・まさに、そのときからなのです」

 朧車―――情念の化身。

 「それからの彼は・・・誰にも止められなかったのです。上杉や折口をはじめ・・・「ジャガーノート」のメンバーの居所と現在の状況を全て自力で調べ上げ・・・彼女の乗っていたものと同じタイプのエアカーを手に入れ・・・オリジナルとは比較にならないほど強力なものに改造を施した。そうして作り上げた新たな「クリスティーン」に・・・先ほど言った、ハッキング装置の試作型を搭載し・・・」



 「彼は・・・「朧車」になってしまったのです」



 萩野は、何も言うことができなかった。

 「そして、現実のものとなって走り出した「朧車」は・・・「ジャガーノート」の元メンバー達を次々と殺していったのです。吉井靖子の・・・亡霊として・・・」

 「六条御息所の生霊のように・・・ですか?」

 「ええ・・・。実際、彼を動かしていたのは・・・ほかならぬ彼自身の生霊のようなものです・・・。殺していたのは、死んだ吉井靖子ではなく・・・生きている賀茂博正だったのですから」

 亜矢はそう言った。

 「計画は順調に進み・・・「ジャガーノート」元メンバーのうち、4人は彼によって殺されました。しかし・・・事件が自分達に恨みを抱く上杉の仕業だと思い込んだ折口は、彼を殺そうとして乗り込んだところ逆に刺殺され・・・平野もまた、彼が殺す前に警察が保護してしまった。残るターゲットの最後の一人であり・・・最も殺したかった相手、上杉潤一・・・。彼をも手にかけようとしたところで・・・ようやく、「朧車」は止められたのです」

 亜矢は一旦言葉を切ってから、吸い込まれそうに深い色をたたえる瞳で萩野の目を見た。

 「これが・・・そもそもは幽霊自動車の噂話から始まった、今回の事件の真相です・・・。すっきりなさいましたか・・・?」

 萩野はその言葉には答えられなかった。たしかに、真相は全て明らかになった。だが・・・同時にその中にもやもやとしたものの生まれた心は、すっきりしたと言えるものには程遠かった。

 「いえ・・・。ですが、後悔はしてません」

 萩野は思ったことを、正直に答えた。が、すぐに表情を曇らせて口を開いた。

 「しかし・・・なんだか、やりきれませんね。賀茂のしたことは、たしかに許されないことですが・・・元はといえば彼は、純粋に靖子さんを愛していただけなんでしょう? 「ジャガーノート」が彼女を殺してしまったことが、行き場を失った彼のその想いの行き先を決定づけたとしたら・・・彼も、被害者だったということなんでしょうか」

 「そうではありませんよ・・・」

 亜矢はきっぱりと言った。

 「彼はああすることが彼女のためであると信じていたようですが・・・復讐という行為に走ることを決定したのは他ならない、彼自身の意思です。復讐をするもしないも・・・彼が自分の判断で選ぶことのできたものです。しかし・・・彼は復讐を選んでしまった。彼は自らの意思で4人もの人間を殺し・・・最後の1人もまた、殺そうとしたのです。理由はどうあれ・・・たとえ正当防衛でも、殺人は忌避すべき行為・・・してはならない行為です。それを自らの意思で行った彼は・・・やはり、加害者なのです。同じように・・・「ジャガーノート」もまた、靖子さんを殺したからといって、殺されても仕方ないという理由にはならない。だから彼らは・・・被害者なのです。殺した、殺されたという事実だけは・・・事実なのです」

 「それはそうですが・・・もっと別の展開はなかったんでしょうか? そもそも・・・2人が大学にいた頃、もし彼がもっと自分に対する自信や、告白するための勇気をもっていて、靖子さんに告白していたとしたら・・・今回のことはどうなっていたんでしょう? その頃既に彼女は上杉とつきあっていたわけですから、たぶん断られていたと思いますけど・・・それでも彼は、今回のような凶行に走ったのでしょうか?」

 「過去や歴史にIfはありませんよ・・・。ですが萩野さん・・・彼の凶行の原因を、彼の内向性に求めるということだけは・・・やめた方がよろしいですよ・・・」

 亜矢は少しとがった目つきで萩野を見たが、萩野はすぐにうなずいた。

 「ええ、わかってます。内気な人の内向性が犯罪の原因になるなんてことは、ジャーナリストとして、いや、人間として言っちゃならないことです。でも、そうすると今回の事件は・・・」

 「萩野さんのおっしゃったとおり・・・靖子さんに対する、賀茂の純粋な想い・・・。それが行き場を失ってしまったことが・・・今回の事件の原因となってしまったのです。それゆえにこれは・・・誰にでも起こり得ることです。なぜなら・・・」

 亜矢はそう言った。

 「人に恋することは・・・誰にでもできるからです。しかし・・・その恋の炎があまりに激しく燃え上がると・・・本人の思いもよらぬ事態が起こってしまうこともあるのです。それは・・・誰にでもありうること・・・。そこまで想うことのできる相手さえ現れれば・・・」

 「今回だけに限らない・・・誰だって、「朧車」を走らせることはある・・・と?」

 「ええ・・・その通りです。この世に恋のある限り・・・朧車はいつでも、誰の心にでも、現れるかもしれないのです。ですから・・・」

 亜矢は言った。

 「浮世は常に化物だらけ・・・百鬼夜行なのですよ、萩野さん」

 亜矢はそう言ってから、窓の外へと目を向けた。幹線道路からは大きく離れたところにあるこの和風喫茶は、静けさに包まれている。

 「朧車とは・・・恋する情念の化したもの・・・。その正体・・・やはり、哀しいものでした・・・」

 亜矢がそう言ったそのとき。


 ぎいぎい。ぎしぎし。


 「!!」

 どこからか・・・木でできたものがきしむような音が、物悲しく聞こえてきた。萩野は亜矢に目を向けたが・・・彼女は窓の外を見つめたまま、悲しい表情を浮かべていた。その視線の先には・・・雲に隠れて朧に輝く、月があった。


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