いつものように、目が覚めた。目を開くと同時に、白い壁紙の張られた天井が目に入ってくる。

 「ん・・・何時だ・・・?」

 うめきながら布団の中から手を伸ばし、枕元に置いてある時計をつかみ、顔の前まで持ってくる。時刻は、7:30になろうとしていたところだった。

 「もうちょっと・・・ゆっくりしていられるかな・・・」

 圭介はそうつぶやくと、時計を枕元に戻し、再び頭を枕の上に投げ出した。一度目を閉じたが、再び目を開く。

 「・・・?」

 その時、圭介は妙な違和感を感じた。目に入ってくるのは、白い天井のみ。見慣れたはずのものだった。しかし・・・なにかが違う。何かが、いつもの自分の部屋の天井とは違うのだ。

 ムク・・・

 圭介はゆっくりと、布団から身を起こした。そして、周囲を見回したが・・・

 「!?」

 圭介は一瞬にして目が覚める思いがした。目に飛び込んできたのは、昨日の夜眠りにつく前にはまったくなかったものばかりだった。壁に貼られた大きなスポーツカーのポスター。机の上に製作途中で置かれたままのロボット。窓際に置かれたCDプレイヤーと、そのまわりに散らばったCDの数々。いや・・・それだけではない。

 「この部屋・・・」

 違っていたのは、部屋に置かれているものだけではない。部屋そのものが、自分が住んでいる寮の部屋ではなかった。そのことに気づいたとき、彼は思わず口に出していた。

 「なんでだ・・・。なんで俺が、この部屋で寝てるんだよ!?」

ミニプレ

Out of the ordinary



 朝起きたら、いつのまにか見知らぬ部屋のベッドの上だった。しかも、自分の隣には既に冷たくなった女の体が・・・。

 チープなサスペンス映画では、よく見かけるシチュエーションである。そういったシチュエーションに巻き込まれた主人公はたいてい慌てふためくものだが、このときの圭介もまた、それとよく似た心理状態にあった。

 しかし、違っているところもあった。一つは、女の死体など彼の横にはなかったこと。そしてもう一つは・・・その部屋は、彼にとって見知らぬ部屋というわけではなかったこと・・・。

 「落ち着け、よく思い出してみるんだ・・・」

 圭介は必死に自分を落ち着かせながら、昨夜のことを思い出した。

 「ゆうべ、確かに俺は風呂からあがったあとで、自分の部屋の自分のベッドに横になって、そのまま寝た。それは間違いないが・・・」

 圭介は、もう一度周囲を見回した。

 「なんで俺は・・・実家の俺の部屋で寝ているんだ・・・?」

 そう。そこは彼にとっては見慣れた部屋だった。なにしろ、物心ついてから消防署で働くようになるまでの十数年間を過ごした、練馬の実家の彼の部屋だったのだから。

 「どうなってんだ・・・?」

 彼は思わず、自分の頬をつねったみた。

 「痛い・・・」

 たしかに痛みを感じたことを確認し、彼はまた考えた。

 「寝る前に飲んだ酒が、まだ残ってるとか・・・? いや・・・小島さんの酒盛りにつき合わされたならわかるが、ゆうべはビール一本しか飲んでない・・・」

 圭介は昨夜の行動を必死に思い出しながらも、ベッドから下りて、本棚に飾ってあった模型飛行機を手に取った。木のもつ確かな手触りと、丁寧に塗られた塗料とニスの匂いまで、はっきりと感じることができた。紛れもなく、彼が中学校のときの模型コンテストで優勝したときの作品である。

 「夢とか幻覚とかいうわけじゃないらしいな・・・。となると、ここは本当に実家か・・・。しかし、なんでまた・・・」

 圭介は考え込み、やがて、ある仮説に思い至った。

 「もしかして・・・ドッキリか? うちには亜矢さんがいるからな。亜矢さんなら、寝てる間に俺を実家に瞬間移動させるぐらい、朝飯前だろうし・・・」

 普通の人なら一番ありえない仮説だが、圭介には一番信憑性があるもののように思えた。と、そのときである。

 「圭介、いつまで寝てんの!? いいかげん起きなさーい!!」

 「!?」

 ドアの向こうから、聞き覚えのある叫び声が聞こえた。

 「今の、まさか・・・お袋か!?」

 ドアの方を見て、ギョッとする圭介。

 「・・・そうだよな。ここが実家なら、お袋がいて当然だし・・・。でも今のって、明らかに俺がここにいることを知っての上だよな・・・」

 圭介は少し考えると、意を決したような表情を浮かべた。

 「よし、こうなったらお袋に事情を問い詰めてやる。ひょっとしたら、お袋もぐるだってことも考えられるからな・・・」

 圭介は真剣な表情を浮かべると、ドアノブをつかんで力強く開けた。



 ドアを開けた先に広がっていたのも、間違いなく、見慣れた実家の風景だった。ドアを開けてすぐ左にあるドアは、姉の部屋。真正面の廊下を進んだつきあたりにあるのがトイレで、そこを右に曲がると、1階へと下りる階段がある。圭介は改めてここが実家であることを確認すると、ゆっくりと階段を下りていった。

 「・・・」

 階段の先にあったのも、これまた見慣れた光景である。階段を下りると、すぐそこには食卓の置かれたLD。その向こうに対面式キッチンがあり、そこには・・・

 「おはよう。あら、いつもみたいにひどい顔で下りてくると思ったら、なんだかシャキッとした顔じゃない」

 お玉で味噌汁をお椀にすくっている母・里佳子が、あっけらかんとした様子で声をかけてきた。

 「ほら、早く座っちゃって。もうお味噌汁もお魚もできてるし、ご飯だってよそっちゃったんだから。早くしないと、また間に合わないわよ」

 食卓の上にはほかほかと湯気の立つご飯と焼き魚、それに、煮豆やかぼちゃの煮つけ、漬物といった朝のおかずがすでに用意されていた。しかし・・・

 「それどころじゃないだろ、お袋!?」

 圭介はキッチンの里佳子へとつかつかと歩み寄って叫んだ。

 「なんで俺がこんなところにいるんだよ!?」

 「ハァ・・・? 朝からなにとんちきなこと言ってるのよ。ここがあんたの家だからに決まってるじゃない」

 里佳子はぽかんとした表情で、息子にそう言った。

 「そうじゃない! 俺はもうここじゃなく、海上区の寮で暮らしてるんだ! それなのになんで、朝起きてみたらここの俺の部屋で寝てるんだよ!?」

 「寮? 何言ってんのよ」

 「とぼけるな! 誰の仕業かは知らないが、みんなで示し合わせて夜中に俺をここへ運んで、俺が驚くのを見て面白がるっていう魂胆だろ!? とぼけようったってそうはいかないぞ!!」

 すごい剣幕でまくしたてる圭介。里佳子はそれに動じず、黙って圭介の顔を見ていたが・・・

 「・・・シャキッとした顔で下りてきたと思ったけど、いつも以上に寝ぼけてるみたいね。いいかげんに、目を覚ませバカ息子!」

 ビシッ!

 「ギャッ!!」

 里佳子の放った強烈なデコピンに、思わず圭介はのけぞって額を押さえた。

 「これで目が覚めたでしょう? それなら早く食べちゃって。もうお父さんもいずみも出かけちゃったんだから。早くしないと、また学校に遅れるわよ」

 「が、学校!?」

 その言葉に、思わず圭介は叫んだ。

 「何言ってんだよ!? 学校なんてとっくに卒業してるじゃないか! 今の俺は社会人として立派に・・・」

 「まだ寝ぼけてんのあんたは!? まだ高校も卒業してないくせに何言ってんの!?」

 ビシッ!!

 「ッ!!」

 再びデコピンをくらい、うずくまる圭介。

 「つべこべ言わずにさっさと食べなさい! あたしだって今日は用事があるんだから、早く済ませてくれないと後片付けが長引いちゃうでしょ!!」

 里佳子にほとんど背中を押されるような感じで、圭介はムリヤリ食卓につかされた。

 「・・・」

 改めて、目の前の料理を見る。疑問や釈然としないものはいくらでもあるが、これ以上何かを言っても、またデコピンを食らうだけである。

 「・・・いただきます」

 「よろしい。最初からそうしてればいいのよ」

 圭介はとりあえず、食事をとることにした。まず、味噌汁を冷ましながら、ゆっくりと口へと運ぶ。

 「・・・」

 口の中に、ややしょっぱい味噌汁の味が広がる。間違いなく母の味噌汁だと、圭介は思った。里佳子と姉・いずみはこれでちょうどいいと言うが、圭介にとっては少ししょっぱさが強い。父・正晴はすでに慣れてしまったのかいつも何も言わなかったが、圭介はいつまでたってもこの味になじめなかった。



 バタン・・・

 「・・・」

 背後でドアが閉まり、圭介はため息をついた。とりあえず食事を終え、洗顔と歯磨きをしてから自分の部屋へと戻ってきたが・・・

 「どうなってんだ、一体・・・。絶対におかしい・・・。お袋のあの様子・・・ほんとに俺が、昔ここに住んでた頃とおんなじだったし・・・」

 圭介は、わけのわからない心境だった。

 「それに、学校とか言ってたな・・・。 !! まさか・・・」

 圭介は慌てて、壁に貼ってあったカレンダーへ駆け寄った。そして、年号を確認するが・・・

 「2088年・・・。年はそのままだな・・・」

 圭介はそう言って、自分の心に一瞬浮かんだ、「タイムスリップ」という仮説を打ち消した。何かの理由で、自分が高校に通っていた頃にタイムスリップしてしまったのではないか、と。しかし、カレンダーは今年のものだったし、洗面台の鏡に写った自分の顔も、寝る前の自分の顔と同じだった。

 「いくら亜矢さんでも、時間を巻き戻すなんてことは無理だよな・・・。でも、だとしたら・・・これはいったい、どういうことなんだ?」

 考え込む圭介。すると、視界の隅に洋服ダンスが飛び込んできた。

 「・・・」

 圭介は黙ってそれを見ていたが、やがてゆっくりと歩み寄ると・・・

 ガチャッ

 それを開けた。

 「!?」

 その瞬間、圭介は驚いた。洋服ダンスの中には、シャツや靴下のほかに、高校の制服らしきブレザーとYシャツ、それにネクタイが、きれいにかかっていたのだ。

 「な、なんだこれ・・・こんなもの入れた覚えないぞ!?」

 圭介はまたも混乱しながら、おそるおそるブレザーを取り出した。しかし・・・

 「こんな制服・・・見たことないぞ。俺の高校の制服とも違うし・・・」

 たしかにどこかの高校の制服のようなデザインではあったが、圭介が通っていた男子校の制服とは、明らかにデザインの違うものだった。圭介が混乱していると・・・

 「早く着替えなさい!!」

 またもや階下から、里佳子の声が飛んできた。

 「・・・ええい、知るか!!」

 圭介はほとんどやけくそになりながら、その制服を身につけていった。



 「ようやっと、準備できたようね」

 階段から下りてきた圭介に、里佳子はそう言った。

 「なぁ、お袋・・・」

 「なに?」

 「俺・・・変じゃないかな? この年になって制服なんてさ・・・」

 圭介は自分の姿を見ながらそう言った。きっちりと制服を身につけ、手には教科書の詰まったカバンまで持っている。

 「何言ってんのよ。17で着ないんだったら、この先いつ着るっていうのよ?」

 「じゅ、17!?」

 どうやら里佳子は、圭介が17歳だと思っているらしい。

 「とにかく、間に合ってよかったわ。今日は待たせなくて済みそうね」

 そんな圭介にかまわず、里佳子は満足そうに言った。

 「待たせる・・・?」

 圭介はなんのことかわからず、ぽかんとした表情を浮かべた。と、その時・・・

 ピンポーン・・・

 インターホンの音がした。

 「おっと、噂をすれば! ほら、来たわよ。いきなさい」

 「き、来たって、誰が・・・」

 ビシッ!

 再び炸裂するデコピン。

 「痛っ!! だからやめろって、それ!!」

 「あんたがいつまでたっても寝ぼけてるのがいけないんでしょ! ほら、さっさと行った行った!」

 やや乱暴な手つきで背中を押され、玄関まで押し出される圭介。

 ガチャ

 言われるがままに靴を履き、ドアを開けると・・・

「あ・・・おはようございます! 圭介君」

 そこには・・・ズボンとスカートという違いはあるが、圭介と同じ制服を着たひかるが、にっこりと笑顔を浮かべて頭を下げていた。

(イメージ:間津井店長さん)

 「ひ・・・ひかる!?」

 圭介はひかるのその姿を見て、仰天した。

 「ど・・・どうしたんだよ!? お前までそんなかっこうして・・・」

 「え・・・?」

 戸惑いの表情を浮かべるひかる。と、その時

 ボカッ!!

 「ぐえっ!!」

 圭介は思い切り後頭部を殴られた。

 「いきなり何てこと言うのあんたは!?」

 圭介の後ろには、握りこぶしを固めた里佳子が立っていた。

 「お、おはようございます、おばさん・・・」

 「あ・・・ご、ごめんなさいひかるちゃん! 朝からお見苦しいとこ見せちゃって・・・やだわあたしったら、オホホホ・・・」

 ごまかすようにわざと笑う里佳子。

 「あの・・・私の顔に、なにかついてますか? それとも、制服になにか・・・」

 そう言って、自分の制服をあちこち調べるひかる。

 「ううん、そうじゃないの。ただ今日の圭介、いつにも増して寝ぼけてるみたいで、さっきからとんちんかんなことばっかり言ってるのよ」

 「イテテ・・・。だから言ってるだろ? 俺は寝ぼけてなんか・・・」

 「あんたは黙ってなさい! とにかく、こんな調子なの。いつもよりもっと迷惑かけるかもしれないけど、よろしくお願いね」

 「は・・・はい!」

 ひかるはしっかりとうなずいた。

 「それじゃ、行ってらっしゃい。今日はいつもみたいに走らないでも済みそうだけど、あんまりのんびりしないでね」

 「はい。行ってきます」

 ひかるがそう言って頭を下げると、里佳子は家の中へと戻っていった。

 「なぁ、ひかる・・・」

 「なんですか?」

 「なんでお前が、こんなところにいるんだ?」

 圭介がそう言うと、ひかるはきょとんとした表情を浮かべた。

 「なんでと言われても・・・お向かいさんなんですから、当たり前じゃないですか」

 ひかるはそう言って、圭介の家の向かいにある家を見た。圭介もそれにつられてそちらを見ると・・・

 「な・・・!?」

 そこには、歩道を挟んだ真向かいに立つ、「服部動物病院」と書かれた看板を掲げた白い建物が立っていた。

 「なんでだよ!? 旭川にあるはずのお前の実家が、どうして練馬の俺の真向かいにあるんだよ!?」

 混乱した様子で叫ぶ圭介。すると・・・

 「圭介君・・・大丈夫ですか?」

 ひかるが心配そうな顔で、圭介の顔を覗き込む。

 「おばさんは寝ぼけてるとか言ってましたけど・・・熱とかあるんじゃないですか?」

 そう言って、圭介の額に手をあててくるひかる。思わず圭介の顔が赤くなるが・・・

 「バ・・・バカ! 俺はいたって健康だ!」

 「! ご、ごめんなさい・・・」

 慌てて手をひっこめるひかる。圭介はハッとして、ひかるに声をかけた。

 「ご、ごめん・・・。ただ、心配しないでくれ。本当に、大丈夫だから・・・」

 「そう・・・ですか。それならいいんですけど・・・」

 ゆっくりと顔を上げるひかる。

 「でも、たしかに今日の圭介君、ちょっと変です。私のおうちは北海道なんかじゃなくて、昔から圭介君の家のお向かいにあるじゃないですか。それにここは、練馬なんかじゃありません。海上区です」

 「そ、そうか・・・」

 圭介はとりあえずそう答えたが、頭の中は大混乱だった。

 (昔から俺の家の向かいに住んでた!? それに、ここは練馬じゃなく海上区だって・・・!?)

 「圭介君、本当に大丈夫ですか・・・?」

 再び顔を覗き込むひかるだったが、やがて、何かを思い出したような表情になった。

 「もしかして・・・期末試験までもう1週間しかないから、また徹夜で勉強を始めたんですか?」

 「あ、ああ・・・。そんなところだ」

 「ダメですよ、それじゃ体によくありません! もっと前から少しずつ勉強したほうが疲れませんし、集中もできるっていつも言ってるじゃないですか」

 「ごめん・・・」

 とりあえず、話をあわせる圭介。ひかると話をしているうちに、だんだんと落ち着きを取り戻してきた。

 (なんなんだ、これは・・・。現実とも思えないし・・・やっぱり、夢なのか・・・?)

 「とにかく、行きましょう。早くしないと、また遅れちゃいますよ?」

 「あ、ああ、そうだな。行こう」

 ひかるに小さくうなずき、家の前から出発する圭介。

 (とりあえず、とうぶん様子を見よう・・・。こうなったらとことんつきあって、夢なのかなんなのか、じっくりと見極めてやる・・・)

 圭介はひかると並んで歩きながら、そう決心した。



 家を出てから少し歩くと、なぜか坂道があった。

 「なんだか、寮から分署への道に似てるな・・・」

 「え?」

 「いや、なんでもないんだ」

 慌ててそうごまかしつつも、圭介は妙な予感がぬぐえなかった。異常な出来事にも少しずつ慣れてきたが、今までのパターンからすると、坂道を登った先には、おそらく・・・

 「やっぱり・・・」

 圭介の予感は的中した。坂を登りきったところに建っていたのは、見慣れた分署ではなく・・・学校だった。



 生徒たちが次々に校門を通り、あちこちで「おはよう」の声が聞こえる。

 「都立海上高校・・・」

 校門のところにそう書かれた校名に、圭介は思わず絶句した。

 「今日は間に合いましたね。よかったです」

 一方、ひかるはホッとした表情を浮かべて、足を踏み出そうとする。

 「なにしてるんですか? 圭介君」

 「あ、ああ・・・。すぐ行く」

 圭介が慌てて、ひかるのあとを追おうとしたそのときだった。

 「ほお、珍しいこともあるもんだ。お前が時間どおりにくるなんてな」

 「?」

 聞きなれただみ声に顔を向けると、そこには・・・

 「お・・・おやっさん!?」

 作業着を着て箒を持った楢崎が、そこには立っていた。

 「お、おやっさんまで! なんてカッコしてんですか!」

「何言ってんだよ。俺はいつでもこの格好じゃないか」

 怪訝そうな顔でそう言う楢崎。

 「おはようございます、楢崎さん」

 そう言って、ぺこりと頭を下げるひかる。

 「おう、おはよう。今日はずいぶんと余裕があるみたいだな。少しはこいつも、早起きを覚えてきたかな」

 圭介の背中をバンと叩く楢崎。

 「おっと、忘れるとこだった。圭介、昼休みでいいんだが、ちょっと校舎裏の物置まで来てくれないか? どうも草刈り機の調子がおかしくて、直すのをちょっと手伝ってほしいんだが・・・」

 「わ、わかりました・・・」

 思い出すように言った楢崎の言葉に、圭介はとりあえずうなずいた。

 「ありがとよ。それじゃ、またあとでな」

 そう言って、楢崎は箒を担いで去っていった。

 「いつも大変ですよね。でも、それだけ頼りにされてるってことですから、やっぱりすごいですよ、圭介君」

 「そ、そうかな・・・」

 ひかるの言葉にあいまいにうなずきながら、圭介は楢崎のうしろ姿を見送った。

 (おやっさんはここでは用務員か・・・)

 「いきましょう、圭介君」

 「うん・・・」

 再び足を進め始める二人。と、そのときだった。

 「隙ありぃっ!!」

 「!?」

 背後から突然、大きな叫び声が聞こえた。驚いて圭介が振り返ると・・・

 ブォォォォッ!!

 視界に、猛スピードで突き出される拳が入ってきた。

 「!!」

 バシィッ!!

 とっさに顔の前で手を交差させ、それを受け止める圭介。すると・・・

 「お見事!!」

 という声とともに、その拳が手から離れていった。圭介も呆然としながら、構えた手をゆっくりと解くと・・・

 「さっすが新座君! 今のパンチを受け止めるなんて、並の反射神経じゃないね」

 そこには、ひかると同じ制服を身につけた聡美が、両手を腰に当てていたずらっ子のような笑顔を浮かべていた。

 「さ、聡美さん・・・」

 思わずつぶやく圭介。すると、聡美は首をかしげた。

 「聡美さん? なぁに、急にそんな・・・。1年から同じクラスだってのに、そんな改まった言い方しないでよ。なんだか、背中がかゆくなっちゃう」

 「あ、ああ、ごめん。(聡美さんは同級生か・・・。ってことは、タメ口でいいってことかな・・・)」

 だいぶこの状況に慣れてきた圭介は、すぐにそう考えることができた。

 「そんなことより、いきなり圭介君にそういうことするのはやめてください! 怪我したりしたらどうするんです!」

 ひかるがちょっと怒ったように言う。

 「ごめんごめん。でも、ちょっと今日の新座君の調子を確かめたかったから。ほら、今日の6時間目はアレじゃない」

 「アレ・・・?」

 「でも、そのぶんならだいじょぶそうね。安心しちゃった。頼りにしてるよ、新座君」

 わけのわからないままの圭介の肩を叩く聡美。と、そのときだった。

 キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン・・・

 校舎から、のんびりとしたチャイムの音が聞こえてきた。

 「いっけない! ちょっとゆっくりし過ぎちゃった! いそご、二人とも!」

 そう言って、かばんを手に持ったまますさまじいスタートダッシュを切る聡美。

 「あ・・・もう! 待ってください! いきましょう、圭介君!」

 「お、おう・・・」

 少し遅れて、二人も正面玄関へと向かって走り始めた。



 ドサッ・・・

 「はぁ・・・間に合いましたね」

 隣の席の机の上にカバンを置きながら、乱れた息を直すひかる。

 「そうだな・・・」

 圭介もそれにとりあえず相槌をうちながら、カバンを開けて中の教科書類を取り出す圭介。すると・・・

 「よう。今日はちゃんと間に合ったみたいだな」

 後ろの席から声が聞こえた。振り返ると、そこには圭介と同じ制服を着た小島が座って、ニヤニヤと笑っていた。
 (小島さんも同級生か・・・)

 もはやそういったことには驚かなくなった圭介。

 「ん? どうした? 俺の顔に何かついてるか?」

 自分をじっと見る圭介に、小島は怪訝そうな表情を浮かべた。

 「いや・・・なんでもないよ。おはよう」

 圭介はとりあえずそう答えておいた。

 「しっかしまぁ、毎朝よく懲りもせず遅刻するよな。ちょっとは学習しろよ、お前も」

 小島がそう言う。

 (なんか俺・・・遅刻常習犯みたいだな。なんでそんなことになってんだよ・・・)

 不条理な状況の中のさらに不条理な現実に、納得のいかない圭介。小島はさらに言った。

 「ま、それもしかたないか。愛する人と語り合うには、夜はいくら長くてもあまりにも短すぎる・・・ってところかな。ロマンチックでいいねぇ」

 「な・・・!?」

 「!!・・・」

 小島がにやつきながらそう言った言葉に、圭介とひかるの顔が真っ赤になる。が・・・

 ボガッ!

 「ひでぶっ!?」

 「なぁに朝っぱらからバカなこと言ってんの!!」

 隣の席から飛んできた聡美の拳が、見事小島の頬にクリーンヒットした。

 「岸本てめぇ! いきなり何しやがる!」

 「変なこと言って困らせるあんたがいけないんでしょ!」

 「だからっていきなり殴るかこの女ケンシロウ!」

 「なんですってぇ! うら若き乙女に何てこと言うのよ!!」

 「や、やめてください二人とも!!」

 派手な喧嘩を始める二人と、慌ててそれに止めに入るひかる。

 (ここでもこれはおんなじか・・・)

 目の前で繰り広げられる見慣れた光景に、圭介がそんなことを思った、そのときだった。

 「やめなさいっ!!」

 教室中に、女の声が響き渡った。全員がその声にビクッと身を引きつらせ、声の方向を向くと・・・

 「教室で喧嘩なんてもってのほかだと、何度言えばわかるの二人とも! もうチャイムは鳴ったんだから、おとなしく席に着きなさい!!」

 ひかるや聡美と同じ制服に身を包んだ仁木が、こちらに怒りの表情を向けて立っていた。

 「ご、ごめん、委員長・・・」

 そう言ってうつむく聡美。小島もまた、さすがに反省の表情を見せる。

 (副隊長はクラス委員長か・・・)

 圭介は妙にその登場の仕方に納得した。と、そのときだった。

 「お〜っす。今朝もにぎやかだな」

 能天気な声が、教室の入り口から聞こえた。そこから入ってきた人物を見て、それまでおしゃべりをしていた生徒たちが慌てて自分の席へと戻る。

 「さあさ、席へついたついた。今日も楽しい一日の始まりだよ」

 そう言いながら教壇に立ち、手を叩く中年男。言うまでもないが・・・それは、スーツ姿の小隈であった。

 「起立!」

 ガタッ!

 仁木の号令で、全員が一斉に立ち上がる。

 「礼! 着席」

 全員が席に着くと、小隈は言った。

 「おはよう、諸君。今朝もいつもの漫才で幕が開けたようだな」

 小隈がそう言うと、聡美と小島が自分の席で縮こまる。

 「先生、笑い事じゃありません」

 仁木がそれをたしなめる。

 「ま、たしかに。期末テストも来週に迫ってることだし、お前たちもそろそろ、形だけでも真面目な態度を見せてもいいんじゃないかな?」

 「俺はいつだって真面目にやってますよ!」

 「そ、そうですよ! あたしだってちょっと前から、コツコツ始めてるんだから!」

 そう言って頬を膨らませる二人。

 「けっこうだ。今度の成績を楽しみにしてるよ。それじゃあ、出席といこうか」

 そう言って、出席簿を広げる小隈。

 「それじゃ、元気よく答えるように。相沢」

 「はい!」

 「秋元」

 「はい!」

 「宇田川」

 順調に名前を読み上げていく小隈。

 「岸本」

 「はーい」

 「返事は短く。さて、次は・・・と」

 小隈はそう言うと、ちらりと仁木の隣の席を見た。他は全員出席しているが、その席だけ、まだ誰も座っていない。

 「まだ来てないな。早く来ないと、遅刻になっちゃうよ〜。名前呼んじゃおっかな〜」

 と、軽い調子で言いながら、小隈は言った。

 「桐生」

 と、そのときだった。

 スゥッ・・・

 突然教室の中が、朝だというのに真夜中のように闇に包まれる。

 「はい・・・」

 その闇の中から、静かな声が聞こえた。そして、その闇が晴れると・・・

 「出席・・・と」

 いつのまにか、仁木の隣の席に座っていた緑の髪の女生徒をちらりと見て、小隈が出席簿にチェックを入れた。

 「・・・いつも言っているけど・・・なぜもっと早く、普通にここへ来られないの、亜矢さん」

 仁木が頭を抱えながら、隣の女生徒に言う。

 「ゆうべもつい・・・実験で夜更かしをしてしまって・・・。希望に添えるように・・・できるだけ努力はしてみますよ・・・」

 薄ら笑いを浮かべながら、あまり反省した様子もなくそう言う亜矢。

 (あの人は何にも変わらないな・・・)

 と、圭介はこれまた自然に受け止めることができた。その後も出席確認は続き、やがて、小隈はポンと出席簿を閉じた。

 「よし、今日も全員出席か。なによりだ。さっきも言ったが、期末テストはちょうど来週からだ。全力で頑張るように・・・と、言いたいところだが、徹夜なんかして体を壊しちゃ元も子もないからな。気を引き締めて楽にするように。以上だ。今日も頑張ろう」

 「起立! 礼! 着席」

 再び一連の動作をする生徒たち。小隈はそれを見届けると、教壇から降りた。と・・・

 「やあ、星野先生。今日もよろしくお願いします」

 「ええ、先生も。それじゃ」

 小隈は英語の教科書をもって入ってきたスーツ姿の星野とにこやかに言葉を交わし、教室から出て行った。



 キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン・・・

 「それじゃ、今日はここまで」

 4時間目終了のチャイムが鳴る中、化学教師の木戸は机の上で教材をまとめながらそう言った。

 「起立! 礼! 着席」

 仁木の号令とともに終了する4時間目。

 「ふぅっ・・・」

 圭介は席に座ると、思わずため息をついた。

 「どうしたんですか圭介君? ため息なんかついちゃって・・・」

 「いや・・・なんだかちょっと、疲れちゃってさ」

 圭介はそう答えた。

 (ひかるは幼馴染だし、亜矢さんや聡美さんや小島さんは同級生だし、副隊長は委員長だし、挙句の果てには隊長が先生・・・。まるっきり学園マンガの王道じゃないか。どうなってんだよ、一体・・・)

 だいぶ慣れてはきたが、不条理な状況であることにはかわりない。と・・・

 「ちょっとぉ、そんなこと言わないでよ新座君。6時間目は大活躍してもらわないと困るんだから」

 聡美がそんなことを言ってきた。

 「6時間目・・・?」

 「とにかく、しっかりお昼ご飯食べて力つけといてよね。ひかるちゃん、頼むよ」

 「は・・・はい!」

 そう言ってうなずくひかる。

 「おーい、何してんだ? 早くしないと、焼きそばパン売り切れちまうぞ?」

 「あ、ちょっと待ってよ!」

 教室の入り口から声をかける小島に、慌てて走っていく聡美。圭介はそれを見送りながら、ひかるに尋ねた。

 「なぁ、6時間目って、なんだったっけ?」

 「忘れちゃったんですか? あれだけ練習してたのに」

 ひかるがちょっと呆れたように言った。すると

 「2組との男女混合バレーボール試合でしょう。だから岸本さん、あんなに張り切っているんじゃない」

 前の席に座る仁木が圭介にそう言った。

 「バレーボールの試合・・・?」

 「そう・・・勝った方は・・・秋の球技大会でのシード権がもらえる・・・。新座君と聡美君・・・それに、委員長は・・・1組の主力だからね・・・。みんな・・・頼りにしてるんだよ・・・」

 その隣に座る亜矢もそう言う。

 「でも、岸本さんの言うとおりね。ちゃんと食べておかないと」

 「そうですね」

 カバンの中から弁当を取り出しながら言う仁木の言葉に、ひかるがうなずく。

 「そっか、もうお昼なんだな。あ、でも俺、弁当持ってきてないや・・・」

 ハッとした顔になる圭介。しかし、仁木が言った。

 「心配する必要はないんじゃないかしら。そうなんでしょう? 服部さん」

 「は、はい・・・」

 そう言いながら、顔を赤らめたひかるがどこからともなく取り出したのは・・・

 「今日は頑張ってほしくて・・・いつもより張り切っちゃいました・・・」

 見るも立派な、三段重ねの見事な重箱入り弁当だった。あっけにとられる圭介。

 「フフ・・・幸せ者だね、新座君は・・・」

 ほくそえむ亜矢の言葉通り、クラスの男子の羨望の視線が、圭介に集中する。

 「そ、そういう亜矢さんはいいんですか? 学食にいかなくて・・・」

 「大丈夫・・・持ってきたから・・・」

 キュッ・・・キュッ・・・

 亜矢はそう言うと、何を思ったか机の上に白いチョークで、三角と丸で構成されたような奇妙な模様を描いた。そして、さらにカバンからパンやハムやチーズ、ジャム、卵といったものを取り出し、その上に置くと・・・

 「錬成開始・・・」

 そうつぶやいて、両手を机の上に置いた、次の瞬間

 バチバチバチッ!! ボンッ!!

 机の上に激しい電流が走り、小さな爆発が起こった。そして、その煙が収まると・・・

 「成功・・・」

 そこには、きれいに作られたサンドイッチが載せられていた。

 「いただきます・・・」

 そう言って、そのサンドイッチに手を伸ばす亜矢。圭介達はそれを、あっけにとられながら見るしかなかった。



 そして、6時間目がやってきた。すでに1組、2組の生徒は全員体育館に集まり、準備体操はおろか、ネットを張る作業まで終えていた。しかし・・・

 「んもう! なにやってんのよ先生は! もう準備は終わってるっていうのに!!」

 聡美がいらいらした様子で言う。準備は整ったというのに先生が現れないので、試合が始められないのだ。

 「ほんとよ、このまんまじゃ日が暮れちゃうわよ」

 2組の生徒である真由美も同じくいらついた様子で言う。

 「なにか用事でも入ったんじゃないか?」

 「誰か呼びに言ったほうがいいかもしれないわね・・・」

 ともにクラス委員である須羽と仁木が落ち着き払った様子で言う。

 「いいよ。あたしが呼びに言ってくる!」

 そういい残し、聡美が俊足をいかして体育館を出て行こうとした、そのときだった。

 ドンッ!!

 「うぷっ!!」

 「おっと、危ないじゃないか」

 聡美はそこで、黒いスポーツウェアを身につけた男にぶつかった。慌てて離れると、男はすまなそうな笑みを浮かべつつも、明るい声を出しながら体育館へと入ってきた。

 「いやぁ、ごめんごめん。急に電話が入っちゃってね」

 彼はそう謝りながら、すでに準備の整った生徒たちと体育館の様子を見てうなずいた。

 「準備万端みたいだね。それじゃ、時間ももったいないし、はじめようか。1組と2組の代表選手は集合!」

 体育教師、尾崎がそう声をかけると、1組、2組の生徒たちの中からそれぞれ6人の生徒が出てきて、尾崎の前に並んだ。

 「1組代表選手、全員揃っています」

 仁木がそう報告する。1組の代表選手は仁木、聡美、小島、健、リーナ、それに圭介の6人である。

 「同じく2組代表選手、1名欠席なので、補欠を入れて全員です」

 須羽もそう報告する。2組の代表選手は須羽、真由美、島田、梨恵、百合子、それに、本日風邪で欠席の三葉に代わって入った高畠の6人である。

 「よし。それじゃあみんな、準備をして」

 「はいっ!!」

 元気よく答え、それぞれのコートに走っていく選手たち。それぞれの組の生徒から、声援がかけられる。

 「頑張ってくださいね、圭介君!!」

 「頑張るんだよ・・・みんな」

 ひかると亜矢も声援を送る一方で、2組からも大きな応援の声が響く。

 「みんな、がんばってねー!!」

 「ファイトやでー!!」

 やがて、2つのチームはそれぞれのコートの真ん中で円陣を組んだ。

 「いよいよね。みんな、今までの血のにじむような特訓の成果を見せてあげましょ!」

 「OK! チームワークがあたしたちの最大の武器だものね!」

 明るくそう言う聡美とリーナ。

 「ええ。お互いに声を掛け合って、お見合いだけはしないようにしないと」

 仁木もうなずく。

 「それに、チャンスだぜ。向こうは正規メンバーが一人休みで補欠だ」

 小島がちょっと悪党的な笑みを浮かべながら、2組チームをちらりと見やる。

 「なんにしても、全力を出さないとね。・・・新座君、大丈夫? 今日はなんだか、朝から様子が変だけど・・・」

 健が圭介の顔を覗き込む。

 「あ、ああ、大丈夫。こうなったら、とことん全力を出し切ってやるさ」

 吹っ切れたようにそう言う圭介。

 「そうそう、やっといつもの調子が戻ってきたみたいだね。あたしと委員長、それに新座君がこっちの戦力の要なんだから、しっかりしてもらわないと」

 聡美がそう言いながらうなずく。一方、2組チームでは・・・

 「向こうは意気が上がっているみたいだな・・・」

 1組チームの様子を見ながら、須羽がつぶやく。

 「ったく三葉君も、こんなときに風邪で休むなんて・・・」

 「ほんとだぜ。カボチャをちゃんと毎日食っていないからこんなことになるんだよ」

 不満げに口を尖らす百合子と島田。すると・・・

 「ご、ごめん。僕じゃやっぱり、力不足かな・・・」

 高畠が決まり悪そうに小さくなる。すると・・・

 「ちょっと百合子、島田君! そんなこと言ってもしょうがないでしょ! 高畠君だって気にしちゃうじゃない!!」

 「そうよ。大丈夫だよ、高畠君。高畠君だってあれだけ練習したんだから、立派に三葉君の穴を埋められるって」

 高畠をかばって怒ったように言う真由美と、優しく慰める梨恵。

 「ごめん、たしかにそうよね・・・」

 「すまねえ、頭に血が上っちまった・・・。ごめんな、高畠」

 申し訳なさそうに謝る百合子と島田。

 「とにかく、こっちもチームワークが欠けちゃいけない。三葉だって悔しいはずだ。あいつのためにも、負けるわけにはいかないな」

 1組チームを見つめながらそう言う須羽。全員が深くうなずく。そして、1組チームも2組チームも、誰からということもなく手を前に差し出して重ね合わせた。

 「1組、ファイト!」

 「オーッ!!」

 「2組、ファイト!」

 「オーッ!!」

 気合の声とともに円陣を解き、コートへ散っていく選手たち。声援がさらに強くなる中、首にホイッスルをかけながら、尾崎がネットの前へと歩いてくる。

 「それでは、これより2−1対2−2の男女混合試合を始める! 両チームキャプテン、前へ!」

 尾崎はそう高らかに宣言した。尾崎の声に応じて、1組チームからは仁木、2組チームからは須羽が、それぞれネットまで歩み出てくる。

 「ルールはラリーポイント制、15点1セットの3セット制。それじゃ、サーブ権をジャンケンで決めてくれ」

 尾崎の言葉にうなずき、仁木と須羽はネットを挟んで向かい合った。

 「「最初はグー! ジャンケン、ポン!」」

 それぞれの生徒から、喜びと落胆の二つの声が小さくあがる。

 「よし。先攻は1組ということで」

 そう言って、手に持ったボールを仁木に渡す尾崎。仁木はコートへ戻ると、バックライトのポジションにいた聡美にボールを手渡した。

 「頼んだわよ」

 「ありがと。絶対に一発目は決めてみせるんだから」

 笑顔でボールを受け取り、サーブ位置まで下がる聡美。そして・・・

 「それでは・・・試合開始!」

 ピーッ!

 尾崎のホイッスルの音が、体育館に高く鳴り響いた。



 「いいわね? いくわよっ!!」

 ボンッ!!

 頭上高く放り投げたボールを力いっぱい叩く聡美。無論、ボールはすさまじい速さでネットを越え、相手コートへと突入した。

 「任せろっ!! どりゃあっ!!」

 ボンッ!!

 しかし、そのサーブはちょうど島田のところへ飛んできて、腰を低く構えた彼のレシーブによって弾かれた。

 「いくよっ! 梨恵っ!!」

 ポンッ!

 そのボールを、さらに百合子がトスし・・・

 「エイッ!!」

 バスッ!!

 高くジャンプした梨恵が、渾身のアタックを放つ。だが・・・

 「ッ!!」

 バンッ!!

 圭介のとっさのブロックにより、ボールは彼の手に激しくぶつかって、2組のコートへ跳ね返った。

 ボンッ!!

 その勢いには誰もついていけず、ボールは2組コートへ突き刺さった。

 ピーッ!!

 「ポイント、1組!」

 そう言って、左手を1組に向ける尾崎。1組生徒たちが歓声をあげる。

 「ナイスブロック! 新座君!!」

 「よくやった!」

 「その調子ね!」

 チームメンバーもまた、彼を褒め称える。

 「ああ、ありがとう・・・」

 圭介はそれに答えつつも、先ほどのブロックで真っ赤になった手のひらをジッと見つめた。

 (さすがに本気モードだな・・・よし!)

 圭介は両手をギュッと握り締めると、相手コートをキッと見つめた。

 「見てください、圭介君・・・」

 「ああ・・・いつもの調子を・・・取り戻してきたようだね・・・」

 本気の表情になってきた圭介を見て、亜矢はひかるにうなずき返した。



 ピーッ!!

 「ポイント、2組!」

 時間は流れ、2セット目に移っていた。第1セットは2組が途中から猛追を見せたものの、序盤でのリードを維持したまま、1組が15−9で逃げ切った。試合はすでに、2セット目の中盤へと差しかかっていた。と・・・

 「やってますな」

 審判台の下からの声に、尾崎が顔を向けると、そこには背広姿の陸奥が立っていた。

 「あ、教頭先生」

 尾崎は審判台の上から頭を下げた。

 「どうです、試合の方は?」

 「ええ、いい試合ですよ。スコアを見てください」

 陸奥がスコアボードを見ると、「8−7」と表示されていた。

 「なるほど。これならば秋の球技大会も、白熱した試合が見られそうですな」

 満足そうにうなずく陸奥。すると・・・

 「先生! 早く笛吹いてくれよ!!」

 早くサーブを打ちたくてうずうずしているといった様子の島田が、待ちくたびれたように尾崎に言った。

 「ああ、ごめん」

 ピーッ!!

 尾崎はそう言うと、再び笛を吹いた。

 「そーら、よっ!!」

 ズバンッ!!

 力強い音とともに放たれるボール。それは矢のように宙を飛び、相手コートへと飛び込んだ。

 「健、いったわよ!!」

 「くっ・・・!!」

 上半身から滑り込みながら、なんとかそれを打とうとする健。しかし・・・

 バンッ!!

 ボールは無常にも彼の手の上をすり抜け、ラインギリギリのところに落下した。

 ピーッ!!

 「ポイント、2組!!」

 2組サイドから歓声があがり、反対に1組サイドからはため息が漏れる。

 「へへっ、またまた大当たり。俺もすっかりサービスエリアだな」

 返ってきたボールを床とバウンドさせながら悦に入っている島田。

 「それを言うならサービスエースでしょ!!」

 と、そこへコートの外からツッコミが入る。

 「うるせえぞ戸狩! 外野は黙ってろ!!」

 そのツッコミをいれた戸狩に対して、島田は怒鳴った。一方・・・

 「くそっ、またとれなかった・・・」

 島田のサーブを止められなかった健が、悔しそうにつぶやく。

 「たしかに、あのサーブは強力ね。このままじゃ、あのサーブだけで得点をとられ続けかねない・・・」

 仁木も島田の方を見ながら苦い顔をする。その時

 「とにかく、あのサーブを止めないと! 大丈夫、気合の問題でなんとかなるって!」

 聡美が全員を励ますようにそう言う。

 「またそれかよ。お前の言うことには、どうも根拠ってものがないんだよな」

「うるさいなぁ。どんなに体力や技術があったって、結局最後にものを言うのは絶対に勝つっていう気合なんだから。男だったらぐずぐず言わないで、胸のエンジンに火をつけなさい!!」

 呆れたような小島の言葉を、聡美は一蹴した。

 ピーッ!

 ホイッスルが響き渡ると、島田はボールを放り上げた。が・・・

 ベコッ!

 「やべっ!!」

 島田の顔がゆがむ。彼の腕はボールの芯をとらえることができず、あまり歯切れのよくない音を出して、高い弧を描いて相手コートへと入った。

 「きたきたきたぁ!!」

 絶好のチャンスに、聡美がはしゃぐ。ボールの下には、素早くリーナが走りこんだ。

 「Leave it to me!!」

 ボンッ!!

 リーナのレシーブによって、空中に上げられるボール。

 「頼むわっ!!」

 トッ!!

 それを仁木が、ネット際へと軽くトスする。そして・・・

 「まーかせてっ!!」

 ダッ!!

 聡美が気合とともに、床を蹴った。相手コートの須羽と梨恵が、ブロックにかかるが・・・

 「必殺! 稲妻重力落としぃっ!!」

 バスッ!!

 聡美が放った強烈なスパイクは、見事に二人の間をすり抜け、2組コートの床に叩きつけられた。

 ピーッ!!

 「ポイント、サーブ権、1組! 8−8」

 「やったぁ!!」

 湧き上がる1組チーム。

 「よぉし! このまんまガンガンいくわよぉ!」

 聡美が握りこぶしを固めていると、ボールが仁木のところへと戻ってきた。バックライトの位置に立つと、彼女はスッとボールを放り上げた。

 スパンッ!!

 小気味よい音とともに、彼女の手から放たれるボール。それは弾丸のように、2組コートへと突っ込んだが・・・

 「くっ・・・ぼくだって!!」

 ボンッ!!

 そこへ素早く割り込んだ高畠が、見事にレシーブした。

 「ナイス、高畠さん!!」

 喜ぶ真由美。と・・・

 「真由美、お願いっ!!」

 そのボールを、百合子が真由美に向けてトスした。

 「OK!!」

 ダッ!

 床を蹴る真由美。しかし・・・

 ダッ!!

 それを止めるため、圭介も飛んでブロックに入る。

 「くっ・・ゴルディオン・ハンマー!!」

 バスッ!!

 それにかまわず、スパイクを放つ真由美。しかし・・・

 ボガッ!!

 「ぐあっ!!」

 なんと、そのスパイクは圭介の顔面を直撃した。

 ドタッ!!

 そして、圭介はバランスを崩して床へと落ちた。

 「!?」

 「新座君!!」

 「圭介君!!」

 たちまち1組、2組の両チーム選手、尾崎や陸奥、それにひかる、亜矢が駆け寄る。

 「しっかりしろ、新座!!」

 「大丈夫!?」

 うずくまったまま動かない圭介に、心配そうに声をかけるチームメイト。と・・・

 「う、うう・・・」

 圭介がうめきながら、片手で顔面を押さえたままゆっくりと顔を上げた。

 「新座!」

 そして、ゆっくりと彼が手を顔から離すと・・・

 「きゃあっ!!」

 ひかるが悲鳴をあげた。ゆっくりと顔から離したその手のひらには、血がべったりとついていた。だが・・・

 「いてて・・・大丈夫、心配しないで下さい。ただの鼻血ですから・・・」

 圭介はそう言って、無理に笑顔を作った。

 「そういう問題じゃないだろ! すげえたくさん出てるじゃねえか!!」

 「ごめん、新座君!! あたしが無茶なスパイク打たなかったら・・・」

 真由美もそう言って、泣きそうな顔で謝る。そのとき、陸奥と尾崎が彼に近づいてきた。

 「とにかく、すぐに診てもらわないと。尾崎先生」

 「ええ。誰か、新座君を保健室へ!」

 尾崎がそう言うと、すぐにひかるが手を上げた。

 「私が付き添います!」

 「うん、頼むよ、服部さん。さあ、新座君」

 「え、ええ・・・。すまん、ひかる」

 「いいんですよ。いきましょう」

 「本当にごめんね、新座君・・・」

 全員が心配そうに見守る中、圭介はひかるに付き添われて保健室へと向かった。



 保健室の前に来ると、ひかるはドアをノックした。すると

 「は〜い」

 中から、のんきな女の声がした。

 「よかった。先生いました」

 ひかるは圭介にホッとした表情を浮かべると、ドアを開けて中へと入った。

 「失礼します」

 それに続いて、圭介も手で鼻を押さえながら入ってくる。すると・・・

 「あら。誰かと思ったら、2−1名物カップルのお二人じゃないの」

 白衣に身を包んだ沙希が、机の上で日誌を書いている姿勢のまま、顔だけ二人に向けて言った。どうやらここでは保健の先生、養護教諭ということらしい。

 「こんなときにからかわないでください! 圭介君が大変なんです!」

 しかし、ひかるはいつものように顔を赤らめるより先に、圭介を沙希に見せた。

 「あらら、これはすごい鼻血ね。二人ともその格好っていうことは、体育の授業中に?」

 「はい、バレーボールで。圭介君がブロックしようとしたら、スパイクが顔に当たって・・・」

 「ついてないのね・・・わかったわ。そこへ座って」

 言われるままに、沙希の目の前の椅子に座る圭介。

 「とにかく、鼻血を止めないと。口の中に血が流れ込んでたら、これに吐いて」

 沙希はとりあえずやわらかい布で圭介の鼻血をぬぐうと、金属製の洗面器を差し出して、圭介の顔を下に向かせた。言われたとおりに、そこへ口の中に流れた血を吐き出す圭介。それと同時に、沙希は慎重な手つきで圭介の鼻を触る。

 「・・・うん、大丈夫。骨は折れてないわ」

 うなずいてそう言う沙希。ひかるがホッとした表情を浮かべる。一方、沙希は金属の缶の中から止血綿を次々に取り出した。

 「ちょっとかっこ悪いけど、我慢してね」

 そう言って、圭介の鼻の穴に止血綿を詰める沙希。彼女はさらに、圭介の手に自分の鼻をつまませた。

 「しばらくは、そういうふうにちょっと強めに押さえてて。血が止まるまでね」

 沙希はそう言うと、タオルを水に浸してしぼり、その一本をひかるに渡した。

 「うなじに当てて」

 「はい」

 言われたとおりにするひかる。沙希もまた、もう一本の濡れタオルを額にあてた。

 「これでよし。あとは、このまま血が止まるまでしばらくここで安静にすることね」

 「すいません・・・」

 「ありがとうございました」

 頭を下げる圭介とひかる。沙希は苦笑しながら言った。

 「ま、あんまり張り切りすぎないことね。あんまり女の子を心配させるもんじゃないわよ、新座君。でも、そこまで心配してくれる人がいるっていうのもうらやましいわね。あ〜あ、あたしの前にも早く現れてくれないかしら、そういう人」

 そんなことを言いながら、頬杖をつく沙希。圭介とひかるは顔を赤くして、互いの顔を見合わせるだけだった。



 そして・・・数十分後

 「は〜い、着席」

 小隈がのんびりとした声を出しながら、教室へ入ってきた。

 「今日も一日、ご苦労さん。6時間目のことは、俺も聞いている。大変だったな、新座」

 「は、はい・・・すいません」

 小隈にそう言われ、圭介が恐縮する。すでに鼻血は止まっているが、まだ鼻の部分は少し赤く腫れていた。

 「若いうちになんでも一生懸命取り組むのはいいことだ。ま、それはいくつになってもいいことなんだが・・・だからといって、無茶はいかんな。無理はいいが、無茶はいかん。今回はどっちかというと、むこうの無茶が原因だったようだが、これは誰にでもいえることだ。たかがスポーツ、されどスポーツ。ま、そんなふうに思って、これからも怪我だけはせんようにな」

 小隈の言葉に、教室中がしんとなる。

 「・・・と、お説教はここまで。あとは・・・お知らせだな。まず、今日中止になってしまった試合は、来週の月曜日に持ち越しだと尾崎先生が言っていた。それから・・・あとは、これだな」

 小隈はそう言うと、プリントの束を持って教壇から降り、机の最前列の生徒たちに配り始めた。

 「うしろに一枚ずつ回してってくれ」

 後ろへ回されていくプリント。

 「進路アンケート・・・?」

 圭介がそこにかかれていた文字を見てつぶやく。

 「期末試験の準備で大変だとは思うが、そろそろみんなの進路を本気で考えなければならん時期に来ている。そういうわけだから、試験が終わった後から進路について二者面談を行うことになった。そのときのために、漠然としたものでもいいから、これに希望の進路を書いておいてほしい。面談の資料に使うものだから、ちゃんとそのときまでには完成させておいてくれ」

 教室中からうんざりした声やらため息やらが聞こえてきたが、やがて、それはおさまった。

 「それじゃ、今日のホームルームはこれでおしまい。よい週末を」

 小隈はそう言うと、席からたちあがった。

 「起立!」

 ガタッ!

 仁木の号令で全員が立ち上がる。

 「礼! さようなら」

 「「「さようなら!」」」

 「はい、さよなら」

 そして、小隈は教室から出て行った。再び教室が、生徒たちの明るい声で満たされ始める。

 「あーあ。結局来週へ持ち越しかぁ」

 聡美がつまらなそうに言う。

 「いいんじゃないか。負けてたし、こっちにとっては仕切りなおしのほうが好都合だと思うんだが」

 「それに、先生が言っていたように、無茶はよくないわ。私たちも熱くなりすぎていたところがあったし、少し頭を冷やしたほうがよいのかもしれないわね」

 「球技会が中止にならなかっただけでも・・・よしとしたほうがいいんじゃないかな」

 小島、仁木、亜矢がそう言うが、聡美はなおも不満げだった。

 「でもさぁ、なんか中途半端なところで終わっちゃって、不完全燃焼なんだよねぇ。このやり場のないエネルギーを、どこへ向けたらいいのか・・・」

 と、そんなことを言っていると・・・

 「ねぇねぇ、そういうことなら、みんなでカラオケにいかない?」

 そこへ、リーナと健がやってきた。

 「カラオケ?」

 「このあいだ、駅前に大きな店がオープンしたんだよ」

 「健といってきたんだけど、部屋数が多くて予約なしでも待たされないんだ。曲も多いし、フラストレーションが溜まってるなら、思いっきり歌って解消しない?」

 聡美と小島は顔を見合わせたが、すぐにうなずいた。

 「カラオケかぁ・・・いいねぇ!」

 「おっしゃあ! 乗ったよ、その話!」

 「ちょっと二人とも、来週は期末テスト・・・」

 「かたいこと言わないでよ委員長。期末前の最後のお楽しみってことにするから」

 「そうそう。ここでストレスをからっぽにして、一気に猛チャージ!って寸法ですよ」

 「フッ、なるほど・・・。そういう方法も・・・あながち間違いではないね・・・」

 「亜矢さんまで・・・」

 「あまり根を詰めすぎるのも・・・よくないよ。せっかく明日は休みなんだから・・・息抜きをしても、いいんじゃないかな・・・」

 「そうだよ委員長。たまには一緒にどう?」

 「委員長がどういう歌を歌うのか、あたし聴き〜たい!」

 健とリーナもそう言ったので、仁木は困った表情をしたが・・・

 「・・・わかったわ。一緒にいきましょ。ただし、私はあなたたちがあんまり夜遅くまで羽目を外さないように、監視役として見張りますからね」

 「はいはい。ま、それでもOKでしょ」

 聡美はそう言うと、圭介とひかるに顔を向けた。

 「新座君とひかるちゃんはどうする?」

 「行きたいんですけど・・・今日は、お母さんが用事で留守なんです。だから、これから晩ごはんのおかずを買って帰って、晩ごはんをつくらないと・・・」

 「そっか・・・。それじゃしょうがないね。じゃあ、新座君は?」

 圭介は少し考えていたが、やがて言った。

 「悪いけど、遠慮するよ。今日はひかると一緒に帰る」

 圭介の言葉に、ひかるが彼の顔を見た。

 「お前のことだから、どうせたくさん買い物するんだろう? お前一人じゃ運ぶの大変だろうから、手伝ってやるよ」

 「そんな・・・いいですよ。圭介君も、カラオケに行ってください」

 遠慮するひかる。しかし、小島が言った。

 「新座がそうしたいって言ってるんだから、聞いてあげなよ、ひかるちゃん」

 「そうそう。二人が来ないのは残念だけど、今日の新座君は災難だったし・・・一つぐらい、お願い事をかなえてあげてもいいんじゃない?」

 聡美にもそういわれ、まだ迷っている様子で圭介を見るひかる。圭介は、笑顔でうなずき返した。

 「・・・わかりました。それじゃあ、すみませんけど・・・」

 「うん。二人の分も、しっかり歌ってくるからね」

 「それじゃあな」

 「また来週会いましょう」

 「また来週・・・」

 「Good Bye!!」

 「さよならぁ」

 手を振りながら、教室から出て行く聡美達。彼らを見送ると、圭介はひかるに言った。

 「それじゃあ、いこうか?」

 「はい」

 夕焼けに美しく染まった空を、カラスが少し物悲しい鳴き声をあげながら飛んでいく。海上区のスーパーには、夕食の材料を買い求めにやってくる人々の車が次々に入ってきて、そして、次々に出て行く。と・・・

 ガーッ・・・

 スーパーの自動ドアが開き、買い物袋を下げた高校生の男女が出てきた。

 「買い忘れたものはないな?」

 「はい。大丈夫です」

 ひかるは圭介にそう答えた。

 「すいません、圭介君。こんなにたくさん買ってしまって・・・」

 「いいんだよ。これだけあれば、いろいろ作れるんだろ? それならいいじゃないか」
 「はい・・・」
 そう言って、小さくうなずくひかる。二人はスーパーから出て、家への帰り道に足を向けた。

 「圭介君」

 「なんだ?」

 ひかるに顔を向ける圭介。

 「帰りに渡された進路アンケート・・・圭介君は、どんなこと書こうと思ってるんですか?」

 ひかるはそう尋ねた。

 「やっぱり、高校を出たら大学に行って、おじさんと同じように技術者になるんですか?」ひかるにそう尋ねられ、圭介は少し面食らったが・・・

 「・・・うん。たしかに、それもいいとは思うんだけど。親父だって、反対はしないだろうし・・・」

 「なにかほかに、やりたいことがあるんですか?」

 「ああ・・・。たしかに技術者になって、いろいろなものを作って、世の中の人の役にたってみたい・・・。そういう気持ちはあるよ、ずっと昔から。でも・・・俺はもっと、自分の手で人を助けられる仕事につきたいって思ってるんだ」

 「それって、たとえばどんな・・・」

 「うん・・・消防士なんか、いいと思ってる。責任は重いし、大変だし、自分の命の危険だって覚悟しなきゃならない、危ない仕事だけど・・・きっと、やるだけの価値はあると思うんだ」

 ひかるはそれを、黙って聞いていた。

 「・・・こんなこと言い出したら、きっといろんな人に反対されるだろうな。親父とか、お袋とか、姉貴とか・・・。お前にも・・・それは同じかな?」

 尋ねる圭介。すると、ひかるは静かに首を横に振った。

 「たしかに、圭介君が危ない仕事につくのは心配です。でも・・・圭介君のやることは、圭介君の決めることですから。それができなくて後悔する圭介君なんて、私、見たくありません」

 「・・・」

 「ちょっとびっくりしましたけど・・・圭介君なら、きっと大丈夫です。消防士さんになって・・・きっと、たくさんの人を助けられますよ」

 そう言って、ひかるはにっこりと笑った。

 「ありがとう・・・」

 圭介はそれに、微笑を浮かべてうなずき返した。ちょうど交差点に差し掛かり、歩行者用信号が赤信号に変わったので、二人は立ち止まった。そこへ、一匹の子犬をつれた小さな女の子が一人走ってきて、二人と一緒に信号を待ち始める。ひかるはそれを、微笑を浮かべながら見つめた。

 「・・・お前こそ、どんな進路を考えてるんだ? お前なら、いくらでも考えられると思うけど。お前の料理の腕なら、今からでもレストランを開いたり、料理学校の先生になったりできるんじゃないか? 大学で獣医学を勉強して、おじさんのあとを継ぐことだって・・・」

 「はい。もちろん、そういうのも考えています。けど・・・」

 ひかるはそれっきり、黙り込んだ。

 「お前にも、他になにかやりたいことがあるのか?」

 圭介が尋ねると、ひかるは小さく

 「はい・・・」

 と答えた。

 「なんだ? 何をやりたいんだ?」

 「いいですよ・・・。恥ずかしいですから・・・」

 そう言って、別の方向を向くひかる。

 「なんだよ。俺だってちゃんと話したんだから、そんなのずるいだろ」

 「だって・・・」

 「いいから。絶対に笑ったりしないからさ。頼むよ」

 そう言って頼む圭介。すると、ひかるはわずかに顔をこちらに向けた。

 「・・・笑われるとか、そういうのとは違うんですけど・・・」

 と、ひかるが口を開いた、そのときだった。

 ワンワンワン!!

 「あっ!! チロ!!」

 圭介達の隣に立っていた女の子がつれていた犬が、いきなり首紐ごと彼女の手を振り切って、横断歩道へと飛び出してしまった。それを追って、彼女も飛び出す。しかし・・・

 ブブゥーッ!!

 信号はまだ、赤だった。そして・・・そこへ、交差点を曲がってきた大型トラックが、クラクションをけたたましく鳴らしながら突っ込んでくる。

 「!!」

 それを見た圭介の行動は、反射的なものだった。

 ドサドサッ!! ダッ!!

 その手からカバンと買い物袋を放り出し、彼もまた、横断歩道へと飛び出した。

 「圭介君っ!!」

 背後からひかるの悲鳴が聞こえたが、まるで別の世界のことのように思えた。彼の意識にあるのは、目の前でようやく犬を捕まえた少女。そこへ突っ込んでくるトラック。

 ドンッ!!

 圭介は彼女を犬ごと弾き飛ばした。そして、ぐんぐん大きくなっていくトラックのバンパーの銀色が、目の前に来たとき・・・彼の意識は、中断した。



 「あ、起きた」

 圭介は、目を覚ました。

 見上げた天井は飾り気一つない真っ白なもので、全体が光り輝いている。圭介がそのまぶしさに目を細めながら、どこに目の焦点を合わせたらいいかわからず、フラフラと視線を動かした。と、そのときだった。

 「圭介君!!」

 ガバッ!

「うわっ!?」

突然なにかが、ベッドに横たわった自分の上に覆い被さってきた。驚いて顔を胸の上に向けると・・・そこには、圭介の胸の上に覆い被さるように泣いているひかるの姿があった。

「よかった・・・・っ・・・ううっ・・・」

 泣き笑いの表情で、嗚咽をあげるひかる。

「お、おい・・・ひかる・・・」

 はて、どこかで見たような・・・と、デジャヴのような奇妙な感覚を感じつつも、圭介はベッドから手を出して、その赤い髪をぎこちなくなで始めた。

 「おいひかる。泣くな、泣くなって・・・」

 迷子になった子をなだめるように、ひかるに声をかけ続ける圭介。やがて、ひかるのすすり泣きはおさまっていき・・・涙を拭いて、にっこりと圭介に笑いかけた。

 「よかった・・・。このまま、目を覚まさなかったりしたら・・・どうしようかと思いました・・・」

 「な、なぁ、俺どうなって・・・」

 まだ意識がはっきりせず、そう尋ねる圭介。すると・・・

 「海上区中央病院。交差点で女の子をかばってトラックにはねられた後運ばれてかつぎこまれたあとすぐに手術。骨の何本かは折れてたが、脳や脊髄には異常なし、だそうだ。ちなみに今は、それからちょうど丸一日あと」

 「でもって、あんたはそのためにいろんな人にご迷惑をおかけした張本人よ。他に何か、訊きたいことはないかしら?」

 視界にぬっと小隈と里佳子の顔が入ってきて、思わず圭介は身を引いた。

 「お、お袋・・・先生まで・・・」

 「目が覚めたならさっさと先生に謝りなさい。なにしろあんたには、謝らなきゃならない人がたくさんいるんだからね」

 「いやいやお母さん、その必要はないですよ。新座は誉められることをしたんですから。たしかに、無茶なことですが・・・ま、許される無茶ってのがこの世にあってもいいんじゃないですかね」

 小隈はそう言って、手をひらひらさせた。

 「ご迷惑をおかけしました・・・」

 そう言って、頭を下げる里佳子。小隈は圭介に近づいた。

 「心配したぞぉ。いや、ちょうど帰る前に目を覚ましてくれてよかったよ」

 彼らの言葉によって、圭介はだんだんと状況を思い出し始めた。

 「そうだ・・・! あの子は!?」

 圭介はガバリと起き上がった。その拍子にあばらに激痛が走り、思わずうめき声をあげる。ひかるは慌てて彼をベッドに寝かせた。

 「ダメですよ、まだ安静にしていないと・・・」

 「ああ、すまない・・・。でも、あの子は・・・」

 「大丈夫です。圭介君のおかげで、ちょっとすりむいただけで助かりました。もちろん、ワンちゃんの方も元気でしたよ」

 そう言って、笑顔を浮かべるひかる。

 「そうか・・・よかった」

 安堵のため息をつき、枕に頭を任せる圭介。

 「ま、あんたの無茶はいつものことだけど・・・今度ばかりは見逃してあげるわ。でも、いろんな人に心配かけたのは本当だからね。退院したらちゃんとお礼を言いなさいよ。皆さんあんなに、お見舞いを持ってきてくれたんだから」

 そう言って、サイドボードを指差す里佳子。そこを見ると、そこにはたくさんのお見舞いの品が置かれていた。花束や果物、寄せ書きなどはもちろんのこと、「また一緒に競争しよう!!」と、聡美の字で書かれたメモのついた新品のスニーカーや、亜矢が自作したと思しき、美しい聖母マリア像のようなものまで置かれている。

 「みんな、圭介君のお見舞いに来てくれたんですよ?」

 ひかるがそう言う。

 「そうだったのか・・・。わかった。退院したらちゃんと、お礼参りはするよ」

 圭介はそう言ってうなずいた。

 「一番お礼を言わなきゃならないのはひかるちゃんよ。昨夜だって面会時間が終わるまで、あたしと一緒にずっといてくれたんだから」

 里佳子がそう言うと、

 「当たり前ですよ・・・。本当に・・・心配だったんですから・・・」

 また泣きそうになるひかる。

 「わかった! 本当にごめん! だから泣くな、泣くなって! な!?」

 慌ててひかるを慰める圭介。小隈と里佳子はそれを見て、苦笑しながら顔を見合わせた。

 「それじゃお母さん、新座も気がついたみたいなんで、私もこれから帰ります。生徒たちにもこのことを、早く伝えてやらないといけませんからね」

 「先生も、ありがとうございました。すみませんが、よろしくお願いします・・・」

 深々と頭を下げる里佳子。

 「それじゃ、お大事に」

 小隈はスーツの上着をもつと、病室から出て行った。

 「さて、と・・・。あたしも、こうしちゃいられないわね。すぐに父さんやいずみにも電話しないと。ひかるちゃん、悪いけど少し、圭介を見ててやってくれない?」

 「はい、わかりました」

 「それじゃあね。すぐに戻ってくるから・・・」

 そう言って、里佳子も病室から出て行く。そして病室は、圭介とひかるの二人だけになった。窓の外ではすでに日が落ち、夜の闇が空を覆い始めていた。

 「心配かけちゃったみたいだな・・・あんな話してたそばから・・・」

 圭介はすまなそうにそう言った。

 「はい・・・。とても、苦しかったです。でも・・・」

 ひかるは少しうつむいた。

 「でも・・・はっきりしました」

 「はっきりしたって、なにが?」

 圭介がそう尋ねると、ひかるは少し黙ってから、言った。

 「あの時話してたことの続きです。私の進路・・・」

 「ああ、そのことか・・・。はっきりしたって、その進路のことか?」

 「はい・・・」

 「そうか・・・。よかったら、教えてくれないか? どんな仕事なんだ?」

 「・・・仕事とか、そういうのとは違うんですけど・・・」

 ひかるは彼をじっと見た。

 「私は・・・圭介君のそばにいたいんです。これからも、ずっと・・・」

 ひかるは顔を赤らめながら、圭介にそう言った。

 「ひ、ひかる・・・」

 「圭介君が意識を取り戻さない間、ずっとお祈りをしてたんです。どうか、圭介君が目を覚ましますようにって・・・。もし圭介君が目を覚ましてくれたなら・・・私はこれからずっと、圭介君を支えられる人間になる・・・私は、そう決めたんです」

 思いもかけないひかるの言葉に、圭介は驚いた。

 「だ、だけどひかる・・・」

 「迷惑かもしれないってことはわかってます。もし私が圭介君の迷惑になるようだったら、私はすぐに、圭介君から離れます。でも・・・圭介君が危ない目にあっているときに、なんの力にもなれないなんて・・・そんな女の子でいたくないんです」

 「・・・気持ちは嬉しいよ、ひかる。でも、お前の人生は、お前のやりたいことをするべきなんだ。俺を支えるだけの人生なんて・・・」

 「それが、私のやりたいことなんです! 今度のことで、あらためて気づいたんです。私にとって一番大事なもの・・・一番好きなものは・・・圭介君なんだって・・・」

 ひかるはそう言った。

 「ひかる・・・」

 「だから私は・・・その大事なもののために生きていこうと思うんです。それが、私の夢なんです。ずっと昔から・・・」
 ひかるは、圭介をじっと見つめた。

 「お願いです・・・。私の夢を・・・かなえさせてください・・・」

 「・・・」

 圭介はそれをジッと見つめていたが・・・やがて、ゆっくりとうなずいた。

 「わかったよ・・・。俺も・・・お前の夢を裏切りたくはないから・・・。どこまでできるかわからないけど・・・きっと、お前の夢にふさわしい男になる。約束するよ」

 「圭介君・・・!」

 ガバッ!!

 「わっ・・・!」

 感極まったひかるが抱きついてきて、圭介はベッドの上に押し倒された。

 「イテテ! こら、やめろって!」

 圭介がそう言ったので、慌ててひかるは離れた。

 「ご、ごめんなさい! つい・・・」

 「・・・いいよ。気にするな」

 圭介はふっと笑って答えた。

 「ありがとな、ひかる。そこまで思ってくれるなんて・・・うれしいよ、本当に」

 「・・・」

 ひかるはそれに、満面の笑みを浮かべてうなずいた。と、その時、圭介の目にデジタル時計の表示が飛び込んできた。

 「・・・お前も、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか? 夕飯の手伝いとか、いろいろあるんだろ? 期末の勉強だってしなきゃいけないし・・・」

 「え? で、でも・・・」

 「俺なら大丈夫だ。あんまり遅くなると、おじさんやおばさんも心配するだろうし・・・早く帰ってやれよ。じゃないと、俺も恨まれちゃうからな・・・」

 苦笑い交じりにそう言う圭介。

 「わかりました・・・。それじゃ、今日はこれで帰りますね」

 ひかるは少し黙ってからそう言うと、床に置いてあったカバンをとった。

 「明日も、学校が終わったら来ます。ゆっくり休んでくださいね」

 「ああ。なんだか、また眠くなってきた。ちょっと寝かせてもらうよ。それじゃ・・・」

 「はい。おやすみなさい・・・あ、圭介君」

 ひかるが思い出したように言った。

 「なんだ?」

 「あ、あの・・・目を閉じてください」

 「・・・?」

 怪訝に思いながらも、言われたように目を閉じる圭介。少しの間、静寂が流れたが・・・

 「・・・!?」

 突然、やわらかく暖かいものが触れた感触が額に走った。驚いて、圭介が目を開けると・・・

 「・・・」

 そこには、顔を真っ赤にしたひかるがいた。

 「ひ、ひかる・・・もしかして、今・・・」

 「あの・・・お、おまじないです。早く、よくなってくださいね。それじゃ・・・さよなら!」

 ひかるはそう言うと、逃げるように病室から駆け出していった。

 「・・・」

 圭介もまた、顔を真っ赤にしながら、思わず額に手をやったが・・・

 「サンキュー、ひかる・・・」

 口元に微笑を浮かべると、再び、ゆっくりと目を閉じた・・・。



 いつものように、目が覚めた。目を開くと同時に、白い壁紙の張られた天井が目に入ってくる。

 「あれ・・・?」

 圭介は、妙なデジャヴを感じながら体を起こした。

 「俺の・・・部屋・・・?」

 圭介は周囲を見回しながらそうつぶやいた。彼が目覚めた場所。それはまぎれもなく、いつも圭介が寝起きしている第1小隊隊員寮の彼の部屋だった。

 「今のは・・・夢だったのか? やっぱり・・・」

 先ほどまでのことを思い出し、そうつぶやく圭介。たしかに、今の圭介には包帯も巻かれてなく、あばらに走る痛みもない。先ほどまでのことを示す痕跡は、何一つ自分の周りにはなかった。しかしそれでも、彼には今までのことが夢だったとは、どうしても思えなかった。

 「そう・・・君が見たのは・・・夢だよ」

 「!?」

 枕元から声がしたのは、そのときだった。圭介が驚いて振り返ると・・・

 「やぁ・・・おはよう」

 そこには、白いワンピースに身を包んだ亜矢が、いつのまにか立っていた。

 「あ・・・亜矢さん!?」

 「失礼とは思ったけど・・・勝手に入らせてもらったよ・・・」

 亜矢は静かにそう言ったが、圭介は彼女をややにらみながら言った。

 「さては・・・さっきのは、亜矢さんの仕業だったんですね!?」

 亜矢はその言葉に少し驚いたような表情を浮かべたが・・・すぐに、フッと笑った。

 「仕業とはまた・・・ずいぶんな言われようだね・・・。私はちゃんと・・・昨夜君に承諾を得たはずだが・・・覚えていないのかい・・・?」

 「承諾・・・?」

 圭介がポカンとした表情を浮かべる。その様子を見た亜矢は、さらに圭介のベッドから、あるものを拾い上げた。

 「これだよ・・・」

 「あ・・・!!」

 それを見たとき、圭介の頭の中に、昨夜のある出来事の記憶が甦った。



 プシュッ・・・

 部屋の中に、空気の抜ける音がした。圭介はその音の主である缶ビールをゆっくりと口へと運ぶと、それを傾けた。ゴクゴクと喉を鳴らしながら、ビールが喉の奥へと流し込まれていく。

 「ハァ・・・」

 やがて、缶から口を離してため息をつく圭介。その顔には、とても満足そうな表情が浮かんでいた。

 「なんだかんだいっても、やっぱり風呂上りのビールっていうのが一番うまいな。・・・これから太らないように、気をつけなきゃいけないけど」

 圭介は苦笑しながら、さらにビールを口に運んだ。と、そのときだった。

 ピンポーン・・・

 ドアのインターホンが音を鳴らした。

 「ん・・・はぁい!」

 慌てて缶から口を離し、ドアに向かって叫ぶ圭介。すると・・・

 「桐生だよ・・・。ちょっといいかな、新座君・・・」

 「あ・・・ちょっと待ってください!!」

 ドアから亜矢の声が小さく聞こえたので、圭介は慌てて身の回りに散らかったものを片付け、ドアへと走ってカギを開けた。

 ガチャ・・・

 「やぁ・・・すまないね・・・。少し話があるんだけど・・・入ってもいいかな・・・?」

 「ええ、どうぞ。こんな格好だし、散らかってますけど・・・」

 パジャマ姿の圭介は恥ずかしそうに言うと、亜矢を部屋に招きいれた。

 「よかったら、亜矢さんも飲みますか?」

 ビールを取り出そうと、冷蔵庫へ歩む圭介。しかし、亜矢はそれを止めた。

 「いや・・・ありがたいけど、けっこうだよ。用事が済んだら・・・すぐに出て行くから・・・」

 二人はダイニングのテーブルをはさんで座った。

 「それで? こんな時間に話っていうのは・・・」

 圭介がそう言うと、亜矢は小さくうなずいて口を開いた。

 「夜も遅いし・・・明日も仕事があるからね・・・。単刀直入に言おう。私の発明品の・・・モニターになってほしいんだ・・・」

 亜矢がそう言うと、圭介はひきつった表情を浮かべた。

 「じ、実験台・・・ですか?」

 「失礼だね・・・。モニターだと・・・言っているじゃないか・・・」

 少しむっとした表情を浮かべる亜矢。

 「す、すいません。で、その発明品っていうのは?」

 「これだよ・・・」

 ドンッ

 亜矢はそう言うと、あるものをテーブルの上に置いた。

 「枕・・・?」

 その物体から直感的にイメージした言葉を、圭介は口にした。そう。たしかにそれは、枕に非常に近い形をしていた。ただ、本来頭を乗せる部分の下に、なにやら樹脂製の台座のようなものがついていて、やや背が高い。そしてその台座には、CD−ROMドライブのような細いスリットと、スイッチやダイヤルのようなものがついていた。

 「見た感じは、ちょっと変わった枕ですけど・・・新しい安眠枕かなにかですか?」

 圭介はそれを手にとり、しげしげと見つめた。

 「少し違うね・・・。睡眠をより快適なものにするという点では・・・同じかもしれないけれど・・・」

 「睡眠をより快適に?」

 圭介の言葉に、亜矢はうなずいた。

 「突然だが・・・君は、夢を思い通りに見ることができればと・・・思ったことはないかい・・・?」

 亜矢に突然尋ねられ、圭介は面食らったが・・・

 「え、ええ・・・。楽しい夢なら、毎日だって見たいとは思いますけど・・・」

 「そうだろうね・・・。これは・・・その夢をかなえるための機械なんだよ・・・」

 そこまで聞いて、圭介はハッとした。

 「それって、つまり・・・この枕は、自由に夢を見ることができる枕なんですか!?」

 「完全に自由というわけには・・・いかないけどね。それに近いものと・・・考えてほしい」

 亜矢は笑みを浮かべながらそう言った。

 「すごい発明じゃないですか! でも、そんなことをどうやって・・・」

 すると、その質問を見越していたように、亜矢は再び何かを取り出した。

 「これを使うんだよ・・・」

 それは、たくさんのディスクだった。

 「この夢ディスクには・・・いろいろな夢が記録されている・・・。これをこのドライブに挿入して、この枕に頭をつければ・・・あとは自動的に、その夢を見ることができる・・・というわけだよ」

 枕についたドライブを示しながら、亜矢はそう言った。

 「なるほど。夢を見るって言うよりは、眠っている間に映画を見るとか・・・そんな感じですかね?」

 「まぁね・・・。でも、映画のように、ただ黙って見るだけじゃないよ・・・」

 亜矢はそう言って、ディスクを見た。

 「このディスクに記録された夢には・・・ある程度のあらすじや登場人物は記録されているけれど・・・細かい設定や詳細な展開は・・・夢を見る人それぞれの理想的なものに・・・変わっていくんだ・・・」

 「ふぅん・・・。ただの映画じゃなく、自分も脚本を自由にいじれるっていうことですか」

 「そういうことだね・・・。登場人物は、夢を見る人にとって身近な人物に吹き替えることもできるよ・・・」

 亜矢はそう言った。

 「なるほど・・・。それで、これのモニターを俺に?」

 「ああ・・・。ぜひ頼みたいのだけれど・・・」

 しかし、圭介は少し迷った。

 「面白そうだとは思いますけど・・・安全性は、大丈夫なんですか?」

 「それについては・・・安心していい。実際に私が・・・何度も使ってみたからね。脳に影響が出るとか・・・そういうことは心配しなくていいよ」

 「じゃあ、なんのためにモニターを?」

 「実は・・・この枕を「ドリームプレイヤー」という名で商品化しようと思ってね。もしヒット商品になれば・・・特許料や商標権料で・・・SMSの活動を少しばかりサポートできると思うんだけど・・・」

 枕を見つめながら、亜矢は言った。

 「ハードの性能には、自信がある。ただ・・・ソフトである夢ディスクの方は、私がプログラムしたものだからね・・・。市場に受け入れられるかどうか・・・何人かにモニターしてもらって、それで確かめたいんだよ・・・」

 「なるほど・・・」

 圭介は枕を見ていたが、やがてうなずいた。

 「わかりましたよ。SMSのためにもなるみたいだし・・・モニター、引き受けます」

 「本当かい・・・? ありがとう・・・」

 亜矢は笑みを浮かべた。

 「それじゃあ、ちょうど寝ようと思ってたところですし・・・早速始めますか。どんな夢があるんですか?」

 「話が早いね・・・。いろいろあるけど・・・こういうのはどうだい?」

 そう言って亜矢が取り出したのは、「プロジェクトY」とジャケットに書かれたディスクだった。

 「企業の商品開発プロジェクトの技術者の一人となって・・・仲間と試行錯誤を繰り返しながら・・・新型ロボットを開発するまでを描く・・・ドキュメンタリータッチの夢だよ・・・。技術に詳しい新座君なら・・・楽しめると思うけど・・・」

 しかし、圭介は渋い顔をした。

 「たしかに、そういうのは好きですけど・・・なんだか、かたそうですね。夢を見るなら、もうちょっと気楽なのを見たいんですけど・・・」

 「それもそうだね・・・。それじゃあ・・・こういうのはどうかな・・・」

 亜矢が次に取り出したのは、「タワー・アローン」とジャケットに書かれたディスクだった。

 「テロリストに占拠されたハイテクタワーにたった一人で取り残された刑事として・・・テロリストたちを退治していく・・・一大アクション作品だよ・・・」

 しかし、圭介はこれにも難色を示した。

 「普通の人なら楽しんでくれそうですけど・・・俺達の仕事の場合、日常でそういうことが珍しくないですからね。そういう夢を見ても、かえって疲れちゃいそうで・・・」

 「なるほど・・・。それは考えてなかったね・・・」

 「亜矢さんが特におすすめする夢っていうのはないんですか?」

 「私のおすすめ・・・そうだね・・・これなんかどうかな・・・」

 そう言って亜矢が出したのは、ジャケットに丸い円の書かれた「わっか」というタイトルのディスクだった。

 「この夢は怖いよ・・・。なにしろ、見ると一週間以内に死ぬという呪いの・・・」

 「もういいです。それもたぶん、俺にとっては悪夢になっちゃいますから」

 「それは残念・・・。なかなか新座君も・・・夢の好みにはうるさいんだね・・・」

 「というか、適度に明るくてあんまり激しくない奴がいいんですよ。アクションとかSFみたいに激しい奴でもなく、かといってホラーじゃ悪夢になっちゃうし・・・」

 「ふむ・・・そうすると・・・これなんかどうかな・・・?」

 そう言って亜矢が取り出したのは、「これが青春らしいぞ!」と書かれたディスクだった。

 「学園ものですか・・・。うん、これならちょうどいいかもしれませんね。学生時代の気分に戻るっていうのも、ちょっと懐かしくて面白いし・・・」

 「気に入ったようだね・・・。じゃあ・・・これにするかい?」

 「はい」

 「よし・・・。それじゃあ、ベッドへ・・・」

 二人は、寝室へと移動した。



 「それで、俺は何をすればいいんですか?」

 とりあえずベッドに入った圭介は、亜矢に尋ねた。

 「ただいつもどおり・・・眠ればいいんだよ。複雑なことは・・・一切不要だからね・・・」

 そう言って、枕をドリームプレイヤーと取り替える亜矢。

 「それじゃあ・・・また明日の朝来るよ・・・。そのときにどうだったか・・・感想を聞かせてほしい」

 「わかりました」

 「それじゃあ、おやすみ・・・。いい夢を見られるといいね・・・フフ」

 フッ・・・

 一瞬部屋が真っ暗になり、再びもとへもどると、すでに亜矢の姿はそこにはなかった。

 「夢を楽しめる枕か・・・。亜矢さんも面白いものを作ったな。よし、それじゃ早速・・・」

 圭介は部屋の明かりを消すと、枕へと頭をゆっくりと乗せた。すると・・

 「・・・」

 圭介はたちまち、深い眠りへと落ちていった・・・。



 「思い出しました・・・」

 亜矢の手の中にあるドリームプレイヤーを見て、圭介は全てを思い出した。

 「その様子では・・・夢であることも忘れていたようだね・・・」

 「ええ・・・。夢を見ている間は変だなとは思っていたんですけど、とても夢とは思えないぐらいのリアリティで・・・」

 それを聞いて、亜矢は満足そうにうなずいた。

 「それはなにより・・・。それで、肝心の夢のほうは・・・どうだったんだい?」

 興味津々といった様子で、圭介の顔を覗き込む亜矢。一方、圭介は夢の内容を思い出して、思わず顔を赤くした。そのまましばし、答えに窮したが・・・

 「ええ、その・・・面白かったですよ。ひかるや亜矢さんたちも、同級生として出てきて・・・。隊長なんか、担任として出てきましたからね」

 「ふむ・・・」

 亜矢としてはもう少し詳しい感想を聞きたかったが、とりあえず、納得することにした。

 「では・・・楽しむことはできたということだね・・・?」

 「ええ、それはもちろん。大丈夫ですよ亜矢さん。きっとそれはヒットします」

 圭介はそう言ってうなずいた。

 「ありがとう・・・。少し自信が出てきたよ・・・」

 亜矢はそう言われ、嬉しそうに笑みを浮かべた。

 「まずはモニター試験第1弾・・・成功ということだね・・・」

 「第1弾って・・・もしかして、他のみんなにも?」

 「できるだけいろいろな好みの人に・・・試してもらいたいからね・・・。その意味ではこの寮は・・・最適の場所じゃないかな・・・」

 「まぁ、たしかに・・・」

 「それじゃあ、どうもありがとう。モニター料は・・・何がいいかな? 音楽会のチケットぐらいなら用意できるけど・・・ひかる君と一緒に・・・どうだい?」

 「モニター料なんていいですよ。楽しい夢を見させてもらっただけで十分です」

 「そうかい・・・。ありがとう。それじゃ・・・またあとで・・・」

 部屋が闇に包まれる。その闇が晴れると、亜矢の姿はそこにはなかった。

 「ふぅっ・・・」

 ドサッ

 圭介はため息をつき、ベッドに腰をおろした。

 「ん・・・? 待てよ・・・」

 圭介はふと思った。

 「あの夢にはあらすじはあっても、細かいストーリーは夢を見る奴によって変わってくるって言ってたよな・・・。ってことは・・・あの夢の展開は、みんな俺の理想ってことか!? ん、んなバカな! あんな恥ずかしい夢が、俺の理想だなんて・・・」

 圭介は夢の内容を思い出して思わず顔を真っ赤にし、ベッドに顔を押しつけた。が・・・

 「・・・でも・・・」

 圭介は、ベッドの上でゴロンと転がった。白い天井が、目に入ってくる。

 「ああいう高校時代も・・・楽しかったかもな・・・」

 圭介のつぶやきが、彼の部屋に静かに響いた。



 「フッ・・・まずは成功・・・ということだね」

 亜矢の部屋。彼女はテーブルの上に置いたドリームプレイヤーを見ながら、満足そうに笑みを浮かべた。

 「それに・・・もう一つの成果も・・・ちゃんと手に入ったしね・・・」

 亜矢はそう言うと、ドリームプレイヤーにつけられたスイッチを押した。すると・・・

 ウィィィィ・・・ン

 静かな音とともに、ドライブから2枚のディスクが吐き出された。1枚は「これが青春らしいぞ!」とレーベルの貼られたものだったが・・・もう一枚のディスクには、なにも貼られていなかった。亜矢はそれを手にもつと、朝日の光にかざしながら、満足そうにそれを見た。

 「夢の再生だけでなく・・・夢を録画し・・・映像としても夢としても楽しむこともできる・・・。この道具はドリームレコーダーでもあるんだ・・・。悪いね、新座君・・・。君がどんな夢を見たか・・・あとでゆっくりと見させてもらうよ・・・。教えなかったのは悪かったけど・・・このことを教えていたらたぶん・・・協力してはもらえなかっただろうからね・・・」

 亜矢はそう言って、自嘲気味に小さく笑った。

 「さて・・・そろそろ朝ご飯を作らないとね・・・」

 と、亜矢が席を立とうとした、そのときだった。

 ピンポーン・・・

 「ん・・・?」

 ドアに目を向ける亜矢。すると・・・

 「すみません亜矢さん、服部です」

 「ああ・・・今行くよ」

 亜矢は足早にドアへと向かうと、カギを開けた。

 ガチャ・・・

 「おはようございます、亜矢さん。すいません、こんな朝早くから・・・」

 そこには、エプロン姿のひかるが立っていた。

 「おはよう・・・。いったいどうしたんだい・・・?」

 「朝ご飯を作ってたんですけど、お味噌が足りないんです。買っておくのを忘れちゃって・・・。悪いですけど、ちょっと分けてもらえませんか?」

 「ああ、お安い御用だよ・・・」

 亜矢はそう言うとキッチンへと引っ込み、味噌の入った袋を持って戻ってきた。

 「これを使うといい・・・。実家から送られてきた白味噌だけど・・・たまにはいいものだよ・・・」

 「わぁ、ありがとうございます! あ、そうだ! 亜矢さん、朝ご飯まだですよね? よかったら、一緒に食べませんか?」

 「いいのかい・・・?」

 「ええ、もちろん!」

 「フッ・・・それじゃあ、お言葉に甘えようかな・・・」

 「ありがとうございます。それじゃあ、急いで準備しますね!」

 そう言って、部屋へ戻ろうとするひかる。

 「あ・・・ひかる君」

 亜矢が何かを思いついたような顔をして、ひかるを呼び止めた。

 「なんですか?」

 「実は・・・ちょっと面白い映像ソフトが手に入ったんだけどね・・・。もし時間があったら・・・あとで一緒に、見てみないかい・・・?」

 「なんですか? その映像ソフトって・・・」

 「私もまだ・・・見てはいないんだけどね・・・。でも、ホラー映画なんかじゃないから・・・安心してほしい。きっと・・・ひかる君も楽しめるものだよ・・・」

 ひかるはちょっと迷う様子を見せたが、やがてうなずいた。

 「わかりました。それじゃ今夜、お仕事が終わったら・・・」

 「ああ・・・。私も、楽しみにしているよ・・・」

 バタン

 今度こそひかるが去り、ドアは閉じられた。

 「フフッ・・・やはり私は悪い女・・・なのかな・・・?」

 亜矢はダイニングに置かれているドリームプレイヤーを振り返りながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


おまけ
(イメージ:間津井店長さん)


Predawnトップへ戻る

inserted by FC2 system