「よしっ!」
そう自分自身に言い聞かせるように言うと、顔を両手で叩く。
そしてサラの部屋に置かれていたソファから飛び起きると、洗面所へ行き顔を洗う。冷水が寝起きの肌に気持ちよく感じ、十三がこの数年感じることがなかった生きる活力が沸いて来るかのようだった。
「ええと、冷蔵庫にはベーコンと卵か」
そういいながら十三はそれらを取り出すと、火にくべて暖めていたフライパンにベーコンと卵をぶち込み朝食のベーコンエッグを作り始める。
十三は、サラの家に住み込みでサックスを教えてもらうことになった。
ただし、住まわせてもらう代わりに家事一切を押し付けられた。今思うと、彼女の方から『借りを返したい』と言い出したのに交換条件があることに疑問を感じなくもなかったが、そのときは生きることの嬉しさとこれから生きるための方法が見つかった嬉しさで舞い上がっていた十三は、二つ返事で引き受けていた。
十三が朝食を作り終えるころ、サラが起きてきた。
「おはよう。良い臭いね」
その姿を見て十三は思わず顔を赤らめそむける
だが、サラはそんな十三に気を止めることなく冷蔵庫を開けると、牛乳を取り出してパックに直接口をつけて飲み干す。
「あ、ああああ朝ごはんは出来てるから」
顔を背けたまま十三はサラにそういうと後ろを向く。そしてぎこちない動きで与えられた自分の部屋へ戻ろうとするが、それをサラは引き止める。
「どうした?食べないの?」
(食えるかぁぁぁぁぁ!)
十三は心の中でそうツッコむ。なぜなら、彼女は寝起きのままの下着姿だったからだ。
山口十三、当時まだ13歳。女性の下着姿は刺激が強すぎた。
♯5 It is easy to remember the yesterday
C PART
股間で張ったテントを隠しつつなんとか朝食を十三は終え、片付けをする。その後、サラが着替え終わるのを待ち、十三は早速音楽について教えを請う。
すると、彼女は十三を近くの公園へと連れ出した。まだ早朝といっても良い時間帯だからか、人が殆どいない。
そして二人はベンチに腰掛けると、まずはサラの座学が始まる。
「最初に言っておきたいことがある。それは、絶対に練習をしているときはイメージを持っていること」
「イメージ?」
「そう。具体的なものでなくてもいい。漠然とでいいから自分はどんな音楽を響かせたいのか、それを念頭において欲しい」
そうサラに諭すように言われるが、十三は首をかしげる。
「どんなって言われても・・・」
ただ、素晴らしいと思えるような『曲』を響かせればそれで、と十三は続けると、サラは呆れたようにため息をついた。
「『ジャズに名曲はなく、名演奏あるのみ』なんて言葉を残した人がいる。名前は忘れてけれど、たしか君と同じ日本人が残した言葉。ジャズというのは、音楽のカテゴリを示す言葉では無く、その演奏がジャジーであるか、そうではないか。それで判断するものだということ」
口調は静かだが、そこには強い意志と音楽への愛が溢れた声で野川香文の名言を語り、それに解釈をつける。
「私はこの言葉に100%同意できるわけではないけれど、ジャズが他の音楽に比べて、よりプレイヤーの、なんていうか、そう、魂がむき出しになる、ならざるを得ないジャンルであることは確か。なぜなら、たとえスタンダード・ナンバーだろうと自作の曲だろうと『FAKEすること』が求められるから」
「FAKEする?」
「曲を自分の思うがままにアレンジすること。例えば」
そういってサラはケースからサックスを取り出し、ストラップをつけると演奏を始める。
「これがビル・エヴァンス」
そういって、『枯葉』を演奏する。
元々はフランスのシャンソンとしてこの世に生を受け、後にアメリカ合衆国でジャズを含む様々なジャンルにおけるスタンダード・ナンバーとなった曲である。
そして今彼女が吹いているのは、ビル・エヴァンス版の枯葉だ。
よくもまぁアルトサックスでピアノのアレンジが施された曲を再現できるものだ、と感心しながら、教えを受けている『過去の十三』と感覚を共有している『現在の十三』は思う。
そのアレンジは軽い感じで、やや早めのテンポ。しっとりとした印象を受ける。
「次はマイルス・デイヴィス」
やはりこれもアストサックスではなくトランペットの曲なのだが、それもなんなく再現してみせる。
今度は、ゆっくりとムーディな雰囲気で。一般的に一番聞き覚えのあるヴァージョンであろう。
「最後はサラ・ヴォーン。私と同じ名前ね」
そう微笑んで、演奏を始める。その微笑に十三はまるで心臓を射抜かれたような気分になり、思わず演奏どころではなくなったのだが、聞こえてきたメロディにそんな気分はぶっ飛んだ。
ポップス調で激しいリズムに、縦横無尽に曲が跳ね回る。まるで原曲をとどめていないそれは、『曲はどれも同じ曲、違うのは巧いか下手か』という十三の価値観を引き裂いた。
さらにこれは本来、リフ物(メロディーだけの曲)ではなく歌物(歌詞つきの曲)で、超高速のスキャットが入っているのを後年十三が聞いたとき、さらにぶっ飛んだ気分になった。
「そ、そんなのアリなの!?」
吹き終わったサラに飛び込むような勢いで十三は尋ねる。
「さぁ、少なくとも批判がまったくないわけではないわ。でも、ジャズはこうやって曲に自分なりのアレンジを加えて、初めて成立するもの。そしてこのアレンジが彼女のFAKE。だからこうやって歌った彼女と同じ名前であることを少し、誇りに思ったりする」
そういうと、彼女は少し嬉しそうな顔をする。
「だから、こうやって自分を表現しなければならない。そのためには、どうあってもいい、理想とする音楽へのイメージが絶対に必要になる」
「理想とするイメージ・・・サラは、どんなイメージをしているの?」
十三がそう尋ねると、サラは微笑を浮かべただけで答えなかった。十三ははぐらかされたように感じたが、サラの微笑が2回も見られたことが嬉しくなり、それ以上は詮索しなかった。
「それじゃ、心構えも分かったところでこれ。今日はこれをこなしたら終り」
サラはそういって十三に一枚の紙を渡す。
「なにこれ? 腹筋100回×50とか、5km走りこみとか」
「知らない? サックスに限らず、吹奏楽全般って走りこみしたりするの」
「いや、知ってるけどそれってあんまり本当は関係ないって聞いたんだけど・・・」
吹奏楽を行う人間は、筋トレや肺活量を増やす為の走りこみをする人間は多いと知ってはいたが、それでも期待していただけに口調がやや非難するようなそれになる。
「ええ。だけどやりなさい。吹奏楽の基本は肺活量と筋力」
「え? だから関係ないんじゃ・・・」
「やらないんなら教えない。私は仕事に行ってくる」
そういってサラは十三の不満など意に介さずに去ってしまった。一人残された十三は、渋々準備運動を始めたのだった。
「やっと終わった・・・」
肩で息をしながら十三がサラのアパートへ戻ると、もう日が暮れ始めていた。
「ただいま〜」
『ただいま』、そういった十三は、この言葉を一年以上言っていなかったことをふと意識する。
そうだ、これからは自分には帰ってよい場所があるのだ。麻薬と暴力という名の枷につながれたゴミ捨て場とは違う。自分の意思で戻ってこられる場所。
そう、十三が感慨に浸っていると妙に露出の高い衣装で着飾り、くらりとするような香りを振りまく香水を纏ったサラがふと彼の目の端に入った。
「ちょうど良いタイミングね、書置きせずにすんだ」
濃い化粧でまるで能面のような表情を彼女は作ると、その顔と同じように感情をこめない声で十三にそう言い放った。
サラは、昼間は近くの小さな喫茶店でウェイトレスをしていたが、それともう一つ。彼女は所謂、『夜の街に立つ女』だった。
勿論、そのことは十三にもある程度予想は付いていた。
彼女の纏う雰囲気は、あまり綺麗とはいえない生活を1年間続けてきた十三には感じなれたものであったし、貧相な部屋の片隅に似つかわしくない高級ブランドのバッグや貴金属類、それに趣味もサイズも大きく異なる男性物の衣服が、まるでアステカの水晶髑髏のように不自然に存在していたからだ。
「戸締りはしっかりとね。それからもし私が誰かと帰ってきたら音を立てないで。あと姿も見せないで欲しい。夜は一人で食べて」
「・・・そんな事、言われなくても分かってるよ」
声をトーンダウンさせ、不機嫌にサラの言うことに十三は頷く。
だがサラはそんなことは全く意に介さない様子で「それじゃ、行ってくる」とだけ言うと、普段とは違う、歩幅を小さくゆったりさせた歩みで出て行った。
「・・・畜生」
ばたん、とそっけない音をたててアパートの二重扉が閉められ、一人残った思春期の少年は一言、そう呟いた。
そういった生活が数ヶ月続いた。これは十三の生涯の中で最も充実した期間であった。ただ一つ、サラが街に立つ夜を除いて。
想像できるであろうか。片思いの女性が週に何日か男を連れ込み、その音を別の部屋で聞かされる。十三にはとても耐えられなかった。
故に十三はサラが街に立つ夜は、彼は人気のないスクラップ置き場へと向かい、行き場の無い悔しさをぶつける様にひたすら体を鍛えていた。
「ごじゅう・・・ご、ごっ・・・じゅうろく、ごじゅっしち、ご・・・・じゅう・・もうだめだ」
片腕立てをしていた十三が滝のような汗を流しながら、その場にうつ伏せで倒れこむ。
「・・・なんでこんな鍛えてるんだっけ」
十三はそう呟き、ごろりと寝返りを打つ。夜空に輝く星が目に入る。い汗をふき取り、特に何をするわけでもなく街で時間を潰し、明け方に帰る。いつもならばそれで終わるだけの夜が、今夜は違った。
「!」
十三の耳に銃声が飛び込む。この街ではそう珍しくないことであったし、だから普段ならば十三も気にはしない。
しかし、このときは違った。
「なんの声だ・・・コレ!?」
金属同士のこすれる音に似ているが、それらに比べてもっと『悪意』を感じさせるそれは、十三が未だかつて聞いたことのない音であった。
『音』と言うのは、『光』よりも多くの情報を提供することが出来る。音の反射速度の差や比率だけで物体の形状や材質を非常に高い精度で判定することが可能であるし、直進しか出来ない光に比べ、周波数を変化させることによって、さまざまな形状の測定波を発振することが出来る。
だから、ただ一般的な生活をしているだけでもほとんどの音が『既知の音』となる。
しかし、こんな音は金輪際聞いたことが無かった。強いて言えば、コガネ虫が硬翅を開く音に似ていなくもない。しかし、その音の主は人間ほどの大きさを感じさせるのだ。人間大の昆虫など存在しうるわけが無い。
だが、それ以上に重要な『既知の音』があった。
人間の悲鳴だ。助けを求める中年の女性と、彼女の胸の中で震える子供。親子であろうか。
「ここからじゃ・・・!」
助けに行かなくては。そう思い行動するが、ここからではやや遠い。間に合わないかもしれない。そう思って周囲を見渡す。そしてそこに一台、乗り捨てられた原動機付自転車、スーパーカブが目に入った。
「これ、動くか!?」
見たところ、くたびれてはいるが特に壊れた様子は無い。
恐らく、どこかの子供が盗んで乗り回して遊んでいたが、飽きてここに放置したのであろう。
実際、鍵の部分が壊され変わりに金属板と針金で細工された後が見て取れた。十三がストリートギャングで小間使いにされた当時に、同じようなことをしていたためすぐに分かった。
「だけどコレ、ガソリンが無い・・・」
ならば、と今度は近くのゴミの山に走るとアルミ製の缶に詰められた油を探し出す。これは大衆食堂で使い古されたサラダ油だ。
十三はそれをカブのタンクに注ぎこむ。
「これでぇ!」
そういって思いっきり本体を蹴りつける。するとキュルルと乾いた音がし、カブのエンジンがかかる。
十三は以前、TVの実証番組で、カブが使い古されたてんぷら油で本当に動いていたのを思い出したのだ。
「おお! よし、さすが!!」
そういってカブに跨ると、アクセルを全力で開ける。正直な話遅い。しかし、走るよりは早い。
二つの影が走る。一つは小さく、もう一つは酷くくたびれている。
その影はしっかりと手を繋ぎ、ひたすら街の光を目指して走っていた。
「はぁ、はぁ、・・・いやぁ!」
影の主である母子は、少し離れた村から、街の教会で祈りを捧げたあとの帰りに、『それ』に出会った。
その村から教会へと通う人間はその親子だけではなく、他にも何人かいたが、みんなそれに切り刻まれてバラバラにされた。
猟銃を持った男もいたが、生き残ったのはこの二人だけ。街と村の間を繋ぐのは人気の無い峠道。助けを呼んでも誰も来ず、ただ逃げることしか出来なかった。
なぜだ、と母は思う。
夫は子供がまだ小さいうちに死に、それでも信心深く、つつましい生活を母子二人で送ってきた。今だってその祈りを神に捧げた帰りだ。
なのに、なぜ神は自分達にこのような試練をあたえるのか。
考えながらも、彼女は走る。彼女達を追う悪魔から逃れるために。
「あっ!」
急に後ろに引っ張られたかと思うと、手を繋いで走っていた娘が、石につまずいて転んだ。
急いで起き上がらせようとすると、突然、『音』が聞こえてきた。
金属同士をこすれ合わせるような音をたてて、『それ』は闇の中から現れた。
三角形の頭。
異常に肥大化した胴体。
そして両腕は人間のようなものを掴むための五本指ではなく、獲物を切り裂き、捕縛する鎌。
まさに、巨大なカマキリと形容するに相応しい死神は、いままさにその母娘を切り裂かんと現れたのだ。
母は、その生物と目が合ったとき、ふと悟った。
こいつは見た目こそ巨大なカマキリであるが、カマキリとは違う。
昆虫は悪戯に殺したりはしない。ただ生きるために殺す。
だが、これはまるで暴走したシステムが無意味な演算を繰り返すように、なんの意味も無く『死』を振りまきに来ただけだ。だからこそ、これには慈悲も何もありはしない。
そう悟った瞬間、彼女は神に祈るのを止めた。だが、唯一つ、願いを誰かが叶えてくれるならば、今自分の胸の中で震えるこの子だけは。
(だれか!)
そう心の中で叫んだ瞬間、その少年は現れた。
ブロロロロロロ・・・
騎兵隊の汽笛と言うにはいささかのんびり過ぎる、くたびれたスーパーカブのエンジン音を立てながら現れたタンクトップ一枚の少年は、ノーヘルで跨っていたカブの勢いを殺すことなく死神に錆びた車体を叩きつけた。
叩きつけられた死神はたまらずに吹き飛び、同じくそれに跨っていたアジア系の少年も放り出される。
「大丈夫ですか!?」
そのアジア系の少年、山口十三は体に付いたジャリを払いながら起き上がると、母子に声を掛ける。
言葉をかけられた母子は震えたまま答えない。
ならばと十三は思いなおし、吹き飛んだ死神をにらめつける。あの程度で死ぬとは思えなかったからだ。
そして案の定、その巨大カマキリは自分の体に乗っかったカブを吹き飛ばすと、目を赤く染め、闘争心をむき出しにして十三を睨む。
(こいつ!)
その様を見て十三は母親と同じ感情を覚える。こいつは生物の体をしているが、生命ではない。あの時、自分が始めて人を殺したときに出会ったあの白い彫刻のような異形 ―彼があの異形、オルフェノクについて知るのはもっと後の話である― とも違う。これは人を殺す機械だと。
だがそれとは別に、彼は奇妙な既視感を覚えた。というよりも、『似ている』のだ。自分の『変身した姿』と、この巨大カマキリが。
いうなれば、同じデザインコンセプトで描かれた絵というか、別の曲を同じコンセプトでアレンジした感覚というか。
「キシャッ!」
そのカマキリ、メルヴマンティスは一言鳴き声を上げると、血糊の付着した鎌を振り上げ、十三の血もその血糊に加えようと振り下ろす。十三はそれをバックステップで紙一重で避ける。
「ていうか、なんで僕はここにいるんだ・・・?」
その一撃の恐怖が十三の興奮状態を覚ましたのか、ふと冷静になる。
そもそも、ここへ来てどうしようと言うのだ。思わず悲鳴と、得体の知れない奇妙な音を聞いてここへやって来たはいいが、何をしようと言うのだ。
ふと背後へ目をやると、そこには震えたまま動かない母娘がいた。この母娘を助けようというのか?何故?どうせ助けたところで感謝はされないだろうし、ようやく平穏を享受している今、揉め事はゴメンだ。
そもそもこの巨大カマキリはなんだ?銃声が聞こえてここへ来たが、このカマキリが平然と立っているということは、これは銃弾を浴びせても平然としている程度にバケモノだということだ。そんなバケモノに勝てるのか?
数刻の間、様々な考えが十三の頭の中をぐるぐると回っていた。そしてふと、サラの言葉が脳裏によみがえる。
『君は人を救うことが出来る。サッチモと同じに』
十三ははっとなる。
そうだ、何を迷っている。今この場には助けを求める、牙も爪も持たない無力な二人。そしてバケモノと人は言うかもしれない、しかし、人を救えるかもしれないバケモノの力が自分にはある。
なら、答えは一つ。
「さぁ、いくぞ化け物!山口十三が相手だ!」
この十三の人生の中で、彼は最も気迫をこめて吼える。するとなぜか、全身に力が満ち溢れ、戦う気力が沸いてくる。先ほどまでの弱腰とはとても同じ人間には思えないほどに。
だからこそ分かる。今自分が何をするべきなのか。どのような動きで『スイッチ』を入れ、どのように叫べばそのプログラムが走るのか。
「見せてやる・・・」
十三はタンクトップを脱ぎ捨て、両腕を真っ直ぐに右方向へと伸ばすと、反時計回りに両腕を大きく回す。
「変っ・・・」
回した両腕が間左へと達すると、左腕は袈裟懸けに空を切らせ、右腕は右腰へと引き戻す。
「身んん!」
そして叫ぶは、『変身』の二文字。
十三の肉体を構成する細胞一つ一つが活性化をはじめ、人間から別の異形へと変態を始める。
その際には細胞が一瞬にして別の細胞に食われ、筆舌にしがたい痛みを生む。
「う、ぐ、キシャァァァァァァァァ!!」
痛みにたえかねて、彼はこの世のものとは思えぬ咆哮をあげる。
それは一瞬にして人間、山口十三から黒い異形へと初めて自らの意思で生まれ変わった、産声でもあった。
「はぁ、はぁ、出来た、自分の意思で変身できた・・・」
十三は足元の水溜りに移る自らの姿を凝視する。
額から皮膚を突き破って生えるのは、野太く長い高電圧コードのような触覚。
胸や脛など、各部急所を保護するように生成されるウィスキーのような琥珀色の生態装甲。
直翅目特有の複眼と、両腕・両太ももから生える、長い鋸のようなカッター。
その醜いゴキブリのような、いつもならば自分自身ですら嫌悪するような、見るものすべてが一目で不快感を抱く醜悪なその姿がこの夜ばかりはなぜか、誇り高く思えた。
「ギギィッ!」
巨大カマキリことメルヴマンティスが再び鎌を振り上げて突っ込んでくる。だが今度の十三は冷静に対処する。
「さっきより・・・動きが遅く見えるっ!」
その鎌を、突進するようにかわすと、そのままマンティスの胴体を取りタックルする。そして倒れこみ、胴体に馬乗りになりマウントポジションを取る。
「うぉぉおおおおおおお!!」
ガガガガガガガ!
そして馬乗りになったまま、十三はひたすら打つ。この時の十三にきちんとした武術の心得などないため、稚拙な手打ちを何度も何度も繰り返し打つ。
だが変身した十三の膂力は人間のそれをはるかに凌駕しており、そんな稚拙な打撃ですらマンティスに十分な傷を蓄積させていった。
「ギ、ギィィ!」
だが、マンティスも何時までも殴られっぱなしではない。しっかりと極められていないマウントポジションなど、抜け出す方法はいくらでもある。
ましてや、人間の関節とは構造も自由度も大きく異なる昆虫の節をもつマンティスは、十三の予想もしない行動に出る。
「うっ!?」
マンティスの足が180度回転し、馬乗りになっている十三を逆にがっちりとホールドする。
そしてマンティスの背中の翅が開き、十三を抱えたまま空高く舞い上がる。
「嘘だろっ!?」
本来、カマキリというのは飛行がニガテだ。グライダーのように風に乗って真っ直ぐに飛ぶのが関の山だ。
それがこのように自在に飛ぶなどありえないし、そもそもこの状態で垂直上昇をやってのけるなど、航空力学的にもありえない。
十三は改めてこの生物が自然の産物ではなく、何か人為的な手段を持って生み出されたものだと確信する。
「くそ、離せよお前!」
細いメルヴマンティスの胴体を何度も殴打するが、流石に大地に足が着かない状態で繰り出されたそれはマンティス相手に何の意味も持たない。
「ギギィ・・・」
感情があるかすら定かではないが、マンティスは十三を子馬鹿にしたような声で鳴く。
そして十三は、突然重力が逆転したような感覚に陥った。
「おおおおおっ!?」
マンティスは、街の光が蛍の火のように見える高度まで上昇すると、空中で十三への戒めを解く。当然、十三は急速に落下していく。
毎秒速9.8メートルの速度で加速しながら、十三は虚空で両手足をジタバタさせる。
「離せっていったって、こんなところで離すなぁぁぁあああああ!!」
とりあえず体を目いっぱい広げ、空気抵抗を最大限にしてみせるが、当然そんな事は何の意味も持たない。このままでは数秒後に待つ運命は『死』のみ。
「いやだ・・・・」
十三の複眼からいくつも水滴が光るように溢れ、空気抵抗を受け上空へと弾け飛んでいく。
ほんの数ヶ月前まで自殺を考えていた自分が、こうも生を望むことに内心驚きを覚えつつも感情を爆発させる。
「サラに告白するまで・・・死ねるかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
そう叫んだ瞬間だった。
十三は背中の皮膚、というか装甲が突っ張るのを感じた。
「痛ったぁ!?」
そして、強烈な痛みと共に背中の装甲が左右へと真っ二つに引き裂かれ、緑色の人外の血が噴出す。
否、それは引き裂かれたのではない、十三自身が引き裂いたのだ。十三自身が始めて明確に意識した『生命の危機』に反応し、彼の肉体が『メルヴゲフ』として今迄使用されていなかった機能をここで初めて発現させたのだ。
そして、十三は自身の落下速度が急速に低下していくのを感じる。
「なんだコレ・・・気持悪」
その低下していく速度を疑問に思い背中を見ると、その引き裂かれた背部の生態装甲が空気を掴む『鞘翅』と化し、さらにその中から、ウィスキーのような琥珀色の、飛行の為の推力を生み出す後翅が飛び出し、高速ではばたいていた。
「気持ち悪いけど、これ・・・凄い!」
自分の体が空中で完全に静止したのを確認すると、十三は興奮気味に叫ぶ。
さらに、四枚の翅が自らの意思で自在に動くことを確認すると、キッと上空でホバリングするマンティスを見つめ、猛然と上昇を始める。
「うぉおおおおお・・・・・ってアレ?」
咆哮を揚げながら上昇するが、その咆哮ほどのスピードは出てはいなかった。寧ろゆっくりと、のんびりしたイメージすらある。いくら重力に逆らって飛んでいるとはいえ、これでは全力で地面を疾走したときの方が速いのではないのかとすら思わせる。
これは、十三自身は知らぬことだが、十三は陸戦用のメルヴゲフとして作成されたことによる。
十三のベースになったゴキブリは、飛行はあまり得意ではない。むしろ彼らの戦力として目されていた部分は、驚異的な生存能力と頑丈な肉体、敏感な振動感知能力と聴覚、さらに地上の疾走速度だ。
ならばなぜ、単なるデッドウェイトにしかならない翅を残したかと問われれば、それらゴキブリの驚異的な脚力による。
ゴキブリがトラウマになった原因は何か、と問われればかなり多くの人が『前方へと襲い掛かるように飛ぶ姿』だと答えるのではないだろうか。
その姿は『近い種族であるバッタに匹敵する脚力で前方へと蹴り出しながら、その向かい風を利用してグライダーのように飛ぶ』という原理で飛行することから生じる。
ちなみに余談だが、現在十三が戦闘しているマンティスのモチーフになったであろうカマキリも、全く同じ原理で飛ぶ。これはカマキリとゴキブリもまた近い種類であるためだ。
十三を製作した科学者達はこれに着目した。強大な脚力で飛翔し、その後の空中での姿勢制御用として翅を残したのだ。故に、最大推力でやっと垂直上昇が出来る程度の筋肉しか割り振られてはいない。
閑話休題。
その飛行する十三を見て、マンティスはぎょっとした。
確実にしとめたと思った相手が突然、新たな能力を発言させ、自分へと追いすがってくるのだ。
だが、冷静になって観察すると、マンティスはその能力は脅威には値しないと判断した。
相手の空中でのスピードは鈍く、さらにこっちは地の利、言い換えるならば相手よりも大きなポテンシャル・エネルギー、もっと分かりやすくいえば相手よりも高所にいるのだ。
自分の鎌による攻撃の精度ならば、このまま高速で落下、ゆったりとしたスピードで飛んでくる十三をすれ違い様に切断してやればそれで終りだ。
「ギギギッ!」
そうマンティスは判断すると、生物的なためらいを全く見せることなく、機械的な判断に沿って行動に移す。
風を切る音を立てて、弾丸のようなスピードで十三へと突っ込む。
「うえっ!?」
その突っ込むマンティスを見て、十三は間抜けな声を上げる。新しい力を得て少し調子に乗っており、自分から攻撃することはあっても、相手から攻撃されることはないという、余りにも未熟で間抜けな思い込みだった。
(やばいっ!あんなスピードで攻撃されたら見切れないし、受け切れない!)
内心焦るが、それと同時に十三は場違いなことを考えていた。
マンティスが風を切る音、それがまるでドラムロールのように聞こえていたのだ。表彰式や発表会で、ドラムが『ドドドドドド・・・ドン』とやるアレだ。これはところどころノイズが入りやや安定しないが、風がマンティスの体にぶつかりはじけるリズムは一泊の中に4回、つまり16ビートだ。
そしてふと思った。
(もしかして、こっちの動きでずらして調整してやれば・・・・)
ドラムロールの最後の『ドン!』は適当に叩かれているわけではない。一小節叩き終わった後に、締めで叩くのだ。だからこそ心地の良い快感を聴衆へと提供することが出来る。
というよりも、リズムに乗った行動をしてしまっているときに、寧ろそのリズムから外れて行動することの方が難しい。カラオケやライブの中で手拍子を打つとき、流れている音楽から外して打つことは逆に意識しなければ出来ない。
(だったら!)
勿論、このままぷかぷかと浮かんでいればリズムなど関係無しに、すれ違い様に両断されてしまうだろう。
だが、こちらが相対的に動いて調整してやれば?
そこにスピードやパワーは関係ない。問題になるのはリズムであり、リズムさえ分かれば攻撃の頭を押さえることは出来る。
そう考えると、十三の複眼の光が消える。視覚を閉じたのだ。
下手に相手の動きが見えていたのでは、攻撃への恐怖や錯覚によって相手の攻撃を見誤りかねない。
ついでに言えば、実際に目を閉じ視覚が使えない状態においては他の四感がより鋭くなる、という説をどこかで見た覚えもある。
ドドドド・・・ドドドド・・・ドドドド・・・
『風』が聞こえる。相手との距離が分かる。一泊で約10メートル距離が詰まる。ここからは単純な計算。相手との距離もまた、音の反射速度の差から理解する。
その時、マンティスも、月光もそれを覆い隠す雲も、彼らの足元で震える母娘もすべて、この世界を構成する『音』になった。
そして十三がそれらを操る『奏者』と『鳴った』時、彼は黄金の光を見た。そして世界は彼のものになった。
ギャリン!
鋼鉄と鋼鉄の咆哮。
「ぎぎぎっ!!???」
「やっ・・・たぞ! 出来た!!」
マンティスの鎌を、十三は交差させた両腕の、そこから生えたカッターで掴み取る。
そのカッターは受け止めた衝撃で、刃の半分が腕の根元から千切れ飛ぶ。そこから噴水の如く緑血が噴出す。しかし十三はその痛みに躊躇することなく、交差した腕の甲でそのまま鎌を挟み込み、逆方向へと力任せにねじ上げる。
「うわぁぁぁぁあああああああああああっ!」
「ギギギギギギギギギギギッ!」
空中でねじ上げたマンティスの首を片足で踏みつけ、もう片足で翅が開かないようその背中を踏みつける。
そして同時に自身の翅も閉じる。
「落ちて・・・砕けろっ!」
再び、重力加速度に身を任せての落下。但し今回、十三は十二分に衝撃を抑えられるようにマンティスをクッションにした体勢で。逆にマンティスは思いっきり踏みつけられる体勢で。
そして十三の体から『風』のようなエネルギーが噴出する。十三自身と、それに触れているマンティスを削り取りながら落下を加速させ、猛烈な勢いで二対の異形を大地へと叩きつける。
ドォン!
暗い闇夜で眠り込んだ森をたたき起こすような、あたり一面に響き渡る轟音。
砂埃が立ち昇り、大地に亀裂が走る。ついで閃光と爆音。
そして震えていた母娘がそうっと、二体が落ちた場所へと首を回す。未だ立ち昇る砂埃に、一陣の風が吹いた。
そして砂埃が晴れたそこには粉々になったマンティスと、一人の傷だらけで、しかし力強く立ち尽くす少年の姿。
その少年、山口十三は振り返ると、何も言わずにレッグガードがグシャグシャになったカブを起き上がらせそれに跨り、走り去ろうとした。
「ねぇ、サラって誰?」
突然、あどけない声が張り詰めた緊張を崩す。
その声に反応して十三が思わず振り返る。
「え?」
「ねぇ ?誰なの? 好きな人なの?」
「なっ、なんで!?」
先ほどまで震えていた母娘のうち、まだ幼い娘が屈託のない純粋な好奇心から来る質問をぶつける。
だが、なぜ十三はその名前がこの娘から出てくるのか分からない。
「あの、さっき貴方が大声で叫んでいましたけれど・・・」
その疑問を、今度は母親の方が答える。
「え!? もしかして・・・聞こえてました?」
「それは・・・あれだけ大きな声で叫べば」
「ああ、そう、ですか」
しどろもどろになりながら、十三は女の子へと近づくと、「僕の片思いの相手だよ」と小さく教える。すると彼女はふーんと頷くと、今度は元気一杯の声でこういった。
「助けてくれて、ありがとう!」
そういって円満の笑みで十三へと笑いかける。それを見た十三は感じた。そうだ、自分が求めていたのはこれだったのだと。
すると今度は、母親の方が一歩前へと進み出る。
「私は、ごめんなさい。貴方に謝らなければいけない」
「え?」
「最初、貴方が私たちを助けに来てくれたとき、私はなんとかこの子を助けようと思った。貴方をおとりにしてでも」
娘を自分の方へと抱き寄せながら、沈痛な面持ちで彼女はぽつりと語った。
「そして貴方があの姿へと変わったとき、バケモノがもう一体に増えただけだと思ってしまいました。でも、それは間違いでした」
そういって、彼女は少しからかうような笑みを浮かべる。
「だって、バケモノが好きな女の子の名前を叫ぶはずないものね」
そういわれ、十三の顔がかぁっと赤面する。
彼女は抱き寄せた娘の頭をなでながら十三の正面を見据える。
「だから、私は人と人の関係として、こういわなきゃいけない。『ごめんなさい』そして『ありがとう』。私たちを、命を懸けてまで救ってくれて」
その親子を見送った後、十三は考えていた。
助けた自分を撃ったストリートギャングのボス。
自分の非を認め、十三に礼と侘びをした親子。
どちらが人間の本質なのだ?
そしてそれはサラにもいえる。
今、夜の街に立つ売春婦としてのサラと、昼間は真っ当な仕事をし、音楽を通して死の淵から自分を救ってくれたサラ。
売春婦という仕事は『今現在の十三』ならば兎も角、一年間汚い仕事をしてきたといっても、いや、寧ろギャングの仲間達が女を買う様を見て、通常以上に嫌悪感のあるものとして感じていた、まだまだ若い13歳の少年十三には、酷く薄汚れたものとして移っていた。
だが、昼間は自分に音楽を教えてくれ、母の様に優しく見守ってくれている彼女もまた、同一人物だ。
ここへきて、十三は『人間とは清濁併せ持つ生き物なのではないか』という当然の感情に至る事が、ここへ来て初めて出来たのだ。
「じゃあ、僕は人間のどちらを信じればいい?」
十三は自問自答する。だが、その答えはすぐに出た。
「決まってる。出来るだけいい部分を信じたいじゃないか」
サラのアパートへと戻った十三は、その夜、一人で帰ってきたサラにそのことを話した。
だが興奮気味な十三に対して、彼女の反応は淡白だった。「そう」とだけ言うと、さっさとシャワーを浴びるために浴室へと入ってしまった。
十三はその反応が少しだけ寂しかったが、後ろを振り向いた彼女が微笑んでいたのには気付かなかった。
そして浴室からサラが出てくると彼女は椅子を引いて腰を掛け、十三に唐突に語り始めた。
「前に、君は私に聞いたよね。私がサックスを吹くとき『何をイメージしているか』って」
「え、うん」
今までの話と突然関係のない話をされ始め、十三は要領の得ない顔をする。
「私はね、昔バークリーの音楽学校にいたの」
サラは窓の外から見える優しい月明かりに顔を向ける
「私の父は、良く知らないし知ろうとも思わないけれど、どこかの資産家だったみたい。そして母は、父の屋敷で働いていたメイドだった。そして私はその二人の行きずりの子。私が出来たことがわかった父は、はした金を渡して母を追い出したそうよ」
まぁ、その時その場所にいたわけじゃないから、本当はどうだったのかわかんないけどね、と冷めた声で笑う。
「そして生まれた私は、ネイティブと黒人のハーフの母と、白人の父。三つの血が混ざり合った私は、三つのどの人種からも仲間はずれにされたの。私はたまたまそこにあったサックスだけが友達だった」
そういって昔の事を語り続けるサラを見て、十三はサラが自分を受け入れてくれた理由を悟った。
十三の目を見て、すぐに昔の自分と重なったのだろう。自分が何物でもない、少なくとも周りの人間とは違う肉体を持った異物が抱える心の闇をすぐに見抜いたのだろう。
「そんな私を見て、母はますます自分への自己嫌悪のようなものを強めていったわ。そんな時、私は近所のジャズ・バーに来ていた、とある高名なジャズメンの前でサックスを聞かせる機会があったの。そのジャズメンには今でも感謝してる。彼のおかげで、きちんと音楽と正面から向き合うことが出来たから」
今までの乾いた能面のような表情から、血の通った人間のそれになる。
「私はそこでも才能を伸ばしていった。自慢するわけじゃないけど、私、『神童』なんて呼ばれていたこともあったのよ。でもね、それがいけなかった。そこでまた私に流れる3種類の血が、足を引っ張った」
サラはここまでで最も沈痛な表情を見せると、ギュッと自分自身を抱きしめた。
「私ね、そこで同期の男子生徒にね、乱暴されたの。純粋な黒人でもない女が生意気だったのね」
ガン、とハンマーで殴られたような衝撃が十三を襲った。
ついで世界が壊れるような感覚に陥り、そして次に襲ってきたのは全身を焼くような今まで感じたことのないような怒り。
そして最後に感じたのは湖のそこへと沈んでいくような途方もない絶望感だった。
「さらに、そこに飛び込んできたのは母の死。過労死だったわ、私の学費を稼ぐためにね。私は学校を去らざるを得なかった。奨学金を貰うっていう選択肢もあったけれど、とてもそんな気にはなれなかった」
サラは自分の話を聞いて今にも泣きそうな顔をしている十三を見て、安心させるようにふっと笑う。
「話が大分それちゃったわね。それから生きるすべを知らなかった私は、今のように体を売るしかなかったってわけ・・・皮肉な話ね。でも、そうなっても音楽への情熱は忘れられなかった。音楽は恋しいでしょう? 薬物では得られないスリル、盛り上がり叫びながら踊る客、興奮のるつぼ!!」
映画『ブルース・ブラザーズ』のセリフを引用しながら、彼女は天を仰ぐ。
「だから私はね、最初は世界へ喧嘩を売るつもりで街角でサックスを吹き続けたの。へこたれるものか、神が、世界がどんなに私を嫌おうと私には音楽がある。だから私は負けない。生まれという過去が私の今を奪っても、私は未来を見据えているってね。今思うと我ながらマッチョな考えしていたと思う」
そういって一呼吸起き、冷蔵庫をあけ中から2本の缶ビールを取り出し、一本のタブを開ける。よほど良く冷えていたのか泡は殆ど立たず、それを口にすると美味そうに喉の渇きを潤す。
そしてもう一本を十三の前におき、それを十三も受け取り同じように口をつける。
「そうしていたらね、いろんな人が私の音楽を褒めてくれた。吹いている本人はただヤケクソになっていただけなのにね。それでも皆、『アンタの音楽は綺麗だ』『あんたの演奏を聴いていると心が安らぐ』ってね。そして、いろんな人に会った。今私たちが暮らしているこのアパートも、音楽を続けていたから出会うことが出来た人が、格安で貸してくれた。今、私が昼間働きに行っている喫茶店のマスターも、音楽を続けていたから出合えた」
また一口、缶に口をつける。
「だからそれから私は、今度は世界に感謝をこめてサックスを吹くことを決めたの。こんな世界でも、こんな汚れた女にも、音楽を残してくれてありがとう神様って。そそう思って私は、街角で吹き続けた。そうしていたら、私はもっといろんな人に会えた。そしてもっと感謝をこめて吹いていたら、今度は君に出合えた」
サラは誇らしげな顔で十三を見つめる。
「あのとき、男共に襲われたとき、私はまた絶望しそうになった。でも、今度は君が私を助けてくれた。君はあんまり意識していないみたいだけど、絶望にまみれた私には本当に救いになった」
そういって、彼女はゆっくり立ち上がった。
「そして、今夜君が親子を助けたときの心は、きっと私が感じたものと同じ。その心を、できるなら忘れないでね。じゃ、おやすみ」
それだけ言って、彼女は十三の頬に軽くキスをし、ベッドに入った。
キスをされた十三は時が止まったまま全身を赤く染めて、一晩中立ち尽くしていた。
次の朝が来た。
朝食の用意が出来、サラが起きてくるのを十三は待っている。
以前、先に食べ始めていたところ、サラに少しだけ寂しい顔をされたため朝食は基本的に二人で食べるようにしていた。尚、このころになると彼女の寝起きの下着姿にも慣れていた。
しかし、ただ待っているのも手持ち無沙汰なため、ポストに入っている、この地域で取っているのは珍しい朝刊を取りに行き、ダイニングテーブルに腰掛けて一面を開いた十三は、ぎょっとして目を見開いた。
「大量殺人、犯人は薬物中毒の男!?」
そう見出しに書かれていたそれは、間違いなく昨夜、メルヴマンティスが引き起こした事件であった。
しかし記事によると逮捕されたのは薬物中毒のホームレスが、刃物を持って次々と襲い掛かっていったという。
「そんな馬鹿な!」
殺された人々の中には猟銃を持った人もいた上に、袈裟懸けに両断された遺体や上半身と下半身が泣き分かれになった遺体まであるのだ。
業物を持った剣豪であるまいし、薬物中毒の男にそんな芸当が出来るわけがない。
さらに読み進めていくと、唯一生き残った親子のインタビューがあった。
「あの二人だ・・・」
すぐさま震えていた二人の姿が十三の脳裏に浮かぶ。
そしてそのインタビューには、その男が刃物を持った男が次々と人々を切り刻んで言った様子が正確に証言されていた。そう、そんな切羽詰まった状況でそうまで冷静かつ正確に人間は記憶できるのだろうかと疑問に思われるほど克明に。
まるで良く出来た映画の脚本のようなその証言を読んで、十三が一つの考えに至るのに要した時間は刹那といってよかった。
この世界には、何かただ生活しているだけでは決して見えてこないような、強大な力を持った『悪』が存在すると。
それはきっと、あのギャングたちを殺した彫刻 ―オルフェノク― や、自分に似た巨大カマキリ ―メルヴマンティス― もまたその氷山の一角に過ぎないのだろうと。
そしてそいつらは人が何人も死ぬような事件を起こしても、その事件をもみ消してしまえるような力まで持っているのだ。
そいつらに対抗できるのは・・・
「僕のような人間じゃない、バケモノだけ」
新聞を持つ手に力が入る。こいつらは、きっと人が死んだところで何とも思わない。いや、それどころか人が死ぬようなことを進んで行っているのかもしれない。
そしてその魔の手は、いつ何処で、誰に差し向けられるか分からない。それはそう、彼の愛しい人へとかも知れない。
「ン・・・おはよう」
そこへ、サラが目をさすりながら起きてきた。
最初は眠そうな目でいつも以上に気だるそうな、ある意味妖艶な雰囲気を放っていたが、すぐに十三のただならぬ様子に気が付く。
「・・・どうしたの?」
「サラ、僕は決めたよ」
そういって新聞をぴしゃりとテーブルの上に叩きつけるように乗せ、サラへと十三は振り向く。新聞を載せたショックで殻の剥かれていないゆで卵がころころと転がる。
「僕は人間を、貴方を守るために戦う。絶対に守り抜いてみせる」
ゆで卵が落ち、ぐしゃりと音をたて殻が割れた。
まるで十三が、強烈な外部からの衝撃によって成長したことを象徴するかのように。
まるで十三が、その決意により再び心を壊すことになることを象徴するかのように。
メルヴゲフ解説
・メルヴマンティス
カマキリのメルヴゲフ。
鋭いカマが武器。本来はこれほどの戦闘力を持つ個体ではないが、何物かによって人為的な改造が加えられており戦闘力が増大したものが脱走したもの。改造したものがどの組織だったのかは今となっては不明だが、当時アメリカで猛威を振るっていたSKKK、もしくは勢力拡大をもくろんでいた「エニグマ」南米支部、はたまたゴルゴム・ネロス帝国等への対抗の為に軍備拡張を急いでいたペンタゴンなどのうちのいずれかだと思われる。
これは本来、山下の反乱によって崩壊した山口零の研究所から逃げ出した試験体のメルヴゲフのうちの一体が野生化・繁殖したもののうちの一匹である。なお、現在世界に溢れているメルヴゲフもすべてこの反乱の際に逃げ出したものが繁殖したものである。
また、メルヴゲフが他の動植物を襲うのは捕食のための行動ではなく(彼らはエネルギー効率が非常によいため、殆ど他者を捕食する必要がない。#5Aパート参照)、暴走した闘争本能と組み込まれた嗜虐性のためである。
・十三変身体
この数年後、「赤い仮面の仮面ライダー」とダラスにおいて交戦することになるものと同一の固体である。現在の仮面ライダーFAKE以上の膂力や『風』のような破壊エネルギーを噴出させる能力を持つが、純粋な格闘能力は素人。また生態装甲やFAKEのそれよりも巨大なカッターを両手・両足に持つ。軽い飛行能力を持つ。