彼はそこに立ち尽くした。何も考えられない。ただ鉄臭い臭いが鼻を突くだけだ。
 現実を受け入れられない。
 そんな中、突然電子音が頭の中で響く。機械的に合成された女性のような落ち着いた音声で、淡々と響く。

 『固体No.13についての定期報告です。推奨されるデータ測定時間148800時間を超過しました。育成段階における最終報告書を作成します。戦闘訓練プラン照合、推奨されたプランとは測定時間113880時間を経過時点から大きな齟齬を確認。しかし、本固体に期待された戦闘能力値と比較し、約13%の余剰分を確認。余剰分についての解析を要請……応答無し。本情報収集及び独自解析電子頭脳『イノーベーター・チップNo.13』はマニュアルに沿い独自の解析を開始します。

 解析中
 解析中
 解析中

 解析結果、応答あり。本固体No.13は、固体名『サラ・コルトレーン』護衛を戦略的目的に独自に設定、目的達成の為の余剰訓練を課したと思われる。また、それに伴うメンタル面における著しい活性化も見られる。山口博士が提唱した『普遍的人間性による戦闘能力の向上』論との同一性を確認。外部データベースにアクセス不能な現状を鑑み、以降の考察は行わない。
続いて、No.13が敵対行動を取るべきターゲットを設定してください。

 待機中
 待機中
 待機中

 入力が行われません。マニュアルに沿い、これより『イノーベーター・チップNo.13』は本固体No.13に対して行われた教育より、敵性ターゲットの推測を行います。

 推測中
 推測中
 推測中

 推測結果。本固体No.13に対する敵対行動が40034件見つかりました。この結果より、推測される敵性ターゲットを仮にHSと呼称。しかし、HSをターゲットと仮定した場合、それを相殺する因子を3566件発見。また、本固体No.13はHSに対する利敵行動を7146件確認、しかし本固体がHSへ利敵行動を行った直後に、HSが本固体へ敵対行動を起こす確率は90%を超過。非論理的であるため、利敵行動に関する因子は現時点では排除。
 これらを総合し、ターゲットの敵性優先レベルは最低のレベル1とし、本部による再入力を最大優先事項とする。それらを踏まえたうえで、現時点での攻撃目標を設定。
 攻撃目標HS、ホモ・サピエンスを本固体No.13の敵性固体とする。以上、解析を終了します』

「うぉおおおおおおおおおおおおおおお!」

 人の心を持った化け物が、機械的な冷徹さを伴って、感情を爆発させた。



♯6
Wake me when it’s over


 パシャリという音をたて、一人のサラリーマン風の背広の男が金髪をかき乱して、雨上がりの、ぬるい粘液のような肌触りの暗い夜の街を疾走する。
 パンツの裾が濡れるのもかまわず、水溜りを踏んで駆けていく。

「ヒィ、ヒィイ……」

 普段の彼ならば決して口にしないような情けない声が思わず出てしまう。周りの風景が、此方も普段の彼ならば決して踏み入れないような貧民街のそれになっていることにも気が付かず、一心不乱に走り続ける。
 しかし、そんなプライドや体面をかなぐり捨てた男の努力をあざ笑うように壁が立ちふさがる。男は袋小路へと走ってしまっていることに気が付かなかった自分自身の無能を呪った。

「ブシュゥウ……」

 そんな彼の後ろに黒い死神が立ちふさがる。
 むせるような臭いを立ち上らせたそれは、二本の大きな角を持ち、その死神と同種の生命体の中でも一際肥大化した、爆発せんばかりの筋肉を持つ。
 漆黒の体に面長すぎる顔に鋼鉄の蹄を両手両足に持ち、まるで細いピアノ線の先に鏃が着いたような形状のシッポを持つ。
 その容貌は二本足で立つ真っ黒な牛、とでも形容するのが相応しい異形だった。

「ブシュゥウ……」

 その黒い牛は鼻だと思われる機関から、高温のスチームのような蒸気を噴出し、男の背後に立ちふさがる。
 男は震えた足で後ずさるが、数歩歩んだところで冷たく硬い感触が背中に感じられる。

「く、く、くくく」

 来るな、と大声で叫びたいが、震えてまともに声を出すどころか巧く呼吸することすら出来ない。
 そして一方、黒い牛はますます鼻から噴出させる蒸気 −おそらくは鼻息− の量をさらに増大させ、今にも飛び掛らんとしていた。
そのときだった。

「な、なんだ?」

 突然、ヘタクソなアルトサックスの音色が響き渡る。音は不安定で安定せず、まるで壊れた洗濯機に付いた乾燥機を回したときのような不協和音が辺り一面に響く。

「待て!」

 そしてその音色と声がした方角を振り向くと、そこにはサックスを持った少年が、男が背にしている壁のうえに立っていた。
 背丈やまだ声変わりを迎えたばかりの声で少年だと分かるが、顔は不気味なまでに明るい今宵の満月の逆光のせいでよく見えない。

「変・身っ!」

 少年は両腕を真っ直ぐ男から見て左に伸ばしたかと思うと、反時計回りに頭上を越え大きく反対へと回す。そして間右へと両腕が達すると一泊置き、左腕は袈裟懸けに空を切り、右腕は腰へと引き戻すという奇妙な動作をする。

「キシャアアアアアアアア!」

 するとその少年の体が一瞬にして黒い昆虫のような異形へと姿を変える。まるで人間が内側から別の何かに食い尽くされるようなおぞましい様は、変身直後の咆哮と相まって、男に背筋に虫がうごめくような感触を覚えさせた。

「ひぃぃ! も、もう一匹増えた!」

 男は恐怖のあまりへたりと背広が濡れるのもかまわずに座り込んでしまう。
そしてそのもう一匹増えた、ゴキブリのような黒い異形は壁から飛び降りると男の前に着地し、ちらりと大きな複眼で男を一瞥すると黒い牛へと立ちふさがる。

「キシキシ……」

「ブシュゥウウウ……」

 二体の異形は互いの正面を見据えて向かい合う。そして緊張、ピクリとも動かない。
 そんな二体を尻目に、襲われていた男はなんとか立ちふさがる二体の隙間をすり抜けられないか伺うが、腰が抜けたこの足では素早く動けそうもない事を悟る。ただ巻き込まれないように少しでも遠くへ離れようと、壁にへばり付く。

「ッ!」

「ブモォッ!」

 そして瞬間、限界まで振り絞られた弦が千切られたかのように、二体は弾け動く。

 そして一閃の後、決着は付く。
 『ゴキブリ』は、黒い牛の角を自らの左腕に合えて突き刺させ、右腕から生える巨大な鋸のようなキザ付いた刃で牛の喉笛を突き刺したのだ。

「悪いな、カウンターのリズム取りだけは自信があるんだ……」

 牛の耳元でそっとそう黒い異形は呟くと、抉るようにして強引に右腕のカッターを引き抜く。鮮血が引き裂いた後から噴水の如く噴出し、黒い牛はゆっくりと後ろへ倒れていく。
 そして牛を倒した『ゴキブリ』は、ゆっくりと男の方を振り向く。

「ヒ、ヒィィ! ま、待ってくれ!」

 その複眼に見据えられた男は取り乱し、急いで自分のサイフからありったけの紙幣とクレジットカードを差し出す。

「き、君は言葉が分かるんだろう!? た、頼む! これで命だけは助けてくれ!まだ私には妻も息子もいるんだ!頼むぅ!」

 ひざまずくように頭を下げ、ひたすらクレジットカードと紙幣を持った右腕だけを千切れんばかりに伸ばして男は必死に懇願する。

「別に金が欲しくて……」

「へっ!?」

 一言、搾り出すような悲しい声で『ゴキブリ』は呟く。それに驚いた男が顔を上げると、そこには『ゴキブリ』も黒い牛の死骸も無く、ただ男が非日常に巻き込まれた証拠にもならない、濡れた背広の気色の悪い肌触りだけがそこに残った。









 すちゃり、と音を立てて人気の無い廃ビルの窓枠に、『ゴキブリ』が着地する。
 そしてそのビルに入り、右手に掴んでいた『黒い牛』の死体を投げ捨てると、その『ゴキブリ』はまるで朽ちた家屋の塗料が剥がれ落ちていくかのように変身を解き、人間の姿へと戻る。

「痛たたた……」

 人目で東洋系と分かるその少年、山口十三は、『黒い牛』の角が突き刺さった左腕を消毒すると、ガーゼで穴を塞ぐ。変身を続けたままであれば、止血さえすれば暫く放って置くだけで跡も残さすに治癒するのだが、十三は一分一秒でも早く変身を解きたかった。

「思ったよりキツイな、これ……」

 そして壁にもたれかかると、うずくまるように自身の体を抱え込む。
 『カマキリ』との戦いから数ヶ月、十三は『人助け』を続けていた。『敵』の正体はついぞ分からなかったが、なぜか意識を集中すると半径約2〜3キロほどの範囲でのことならば、あの人を襲う動物を模したような『バケモノ』のいる場所が分かることに気が付いたのだ。
 その力を持って、敵の存在を感知し次第、それらを片端から倒してきた。そしてその過程で、その『敵』に襲われていた人々を助けることは幾度もあった。
しかし、彼らから感謝の言葉をかけられることは無かった。

「何でだろうな……」

 勿論、その理由は十三だってわかっている。
 十三自身、確信は無いが、明らかにあの『敵』と自分は同種の存在だ。細部のデザインコンセプトとでも言うべきものが似通いすぎているし、そもそも自分が『敵』を感知できることだって、何の関係もないのならばおかしな話だ。

 余談だが、そういった自身に対する疑惑があったからこそ、この14年後にメルヴヴォルフから十三が彼らと同じく『メルヴゲフ』だということを知らされても何の感慨も無かったのだ。

 そして言うならば、十三は醜すぎた。その姿は『ゴキブリを擬人化した姿』という言葉以上に、異常なまでに生々しいまるで内臓のような四肢。
 それとのアンバランスな生態装甲や、野太く長い触角、妖しく油光する巨大な両手・両足から生える巨大な鋸状のカッター。

 これらを総合して、変身した十三をとても『人助けに来たヒーロー』と判断できる人はいまい。

「でも、しょうがないしね!」

 そう叫んで、十三はすっくと立ち上がる。
 別にだれかに礼を言って欲しくて、見返りが欲しくて戦っているわけではない。
 自分はサッチモのように『世界そのものへの感謝』なんていう感情は流石に持てないけれど、目の前で人が死んでいくのを見過ごすわけにはいかない。
 そしてそれのみが、人を殺めたことへの唯一の贖罪になる。

 そしてそれ以上に、ただこの素晴らしき世界に、彼女が、サラ・コルトレーンという人間がいる限り戦い続けよう、どうなっても彼女だけは守ってみせる。そう決心したはずだ。

 ガソリンを『黒い牛』の死骸へと振り掛けると、火をつけたマッチをそれに向かって投げ捨てる。そして燃え尽きたのを確認すると、廃ビルの前に泊めておいたカブに跨り、帰るべき場所へと走り去っていった。






 サラはソファに腰掛けて頬に手を当て、足を組んで目を閉じている。
 そんなサラを前にした十三は冷や汗を掻きながら、黄金色に輝くアルトサックスを持ち、ストラップをはめ吹く準備を整える。

「それじゃサラ、いくよ」

 十三はサラからアルトサックス練習の課題曲として与えられた『星に願いを』を吹き始める。
 ゆっくりとした曲調のこの曲を十三は懸命に吹くが、サラの表情は徐々に曇ってゆく。

「もういい、止めて」

 そういうとサラは手を振って十三に演奏を止めさせる。

「十三、君、ロングトーンの練習をサボったね?」

 その口調は問い詰めるようなものではなく、寧ろ穏やかさすら感じさせるようなものであったが逆に十三はそれに脅えあがった。

「……うん」

 誤魔化すようなことは言わず、サラが指摘した事実を十三は認める。十三の冷や汗は、サラに曲を聞かせる前の量の何倍にもなっていた。

「さらに言えば、それを誤魔化そうとしてとりあえず曲だけはなんとか吹けるように。君の国の言葉でいえば、なんていったかしら。サケツケバ?だったかな」

「付け焼刃だよ、サラ……」

 さらには対面だけ繕おうとしたことすら簡単に看破されてしまう。
 それに対してサラはため息をつく。十三はあの醜い姿に変身して『バケモノ』と戦うことを恐怖に感じたことは無いが、サラが怒る姿を見ると真に縮み上がった気分になる。
 彼女は声を荒げるようなことをしたことは一度も無いが、常に冷静に相手を叱り、時には深い絶望感すら露わにする。そしてさらに恐ろしいことにそれらはすべて、怒るべき対象に対しての深い優しさから来るものであるのだ。
 真に優しさを伴う怒りというのは、こうも人を落ち込ませることがあるのだと、十三はひしひしと感じていた。

「十三、音楽を殺さないで」

「殺す?」

 サラの比喩表現に十三は首をかしげる。そんな十三を無視して彼女は続ける。

「確かに君が今、一生懸命なのは分かってる。その体を皆の為に使おうって心は立派だと思う。ついでに言えば家事と昼間のアルバイト、その合間をぬって練習をしなければいけないのは本当に大変だと思うわ。だけど、君は何のために音楽をしようと思ったの?だれかに強制されたから?死ぬまでの暇つぶし?違うでしょう?君は君の魂に答えるために音楽をしたいと思ったんでしょう」

 そういってソファから立ち上がると十三の両肩に手を置き、額を近づける。
 十三の顔は真っ赤になるが、サラは十三の目を真っ直ぐに見据えたままそらそうとしない。

「私を誤魔化そうとしたことはどうだっていい。でも音楽を作業にするのだけは止めて。音楽って言うのはね、自分の心を掴んで、外へ放りだすようなものなの。それを作業にして、殺してしまってはね、その心まで殺してしまうことになってしまう」

 ロバート・ジョンソンの言葉を引用して十三をサラは諭す。

「ごめん……反省する」

 十三は暗い声色でサラにそういうと、バイトで金を溜めて買った自分のサックスをとぼとぼと片付け始める。それを横目で見ていたサラは突然、いつものように別の事を話し始める。

「昔、ヤードっていう凄いジャズマンがね、『人生は楽譜だ』っていったの。運命が描き込まれたリード・シートってね」

 突然の話に十三は振り向き、顔を傾ける。そんな十三に対してサラは「お互い酷いシートを貰っちゃったわね」と微笑むと、話を続けた。

「運命からは逃れられない。だけど、それをフェイクすることは出来る。そしてフェイクするのはその人自身でなければならない。そうでなければその楽譜は真実を響かせない。それどころか他人が強制的に『死』なんていうピリオドを、曲の途中に描き込むなんてことは絶対に許されない。君は、そういうことをしようとしてる奴らが許せないと思ったから、その体で戦おうと思ったのでしょう。それはとても気高いこと。さっきは言い過ぎてしまったけれど、君はもう私が言った事、本当は分かっていたはず。だから大丈夫」

 そういうと彼女は十三の頭を、まるで弟か息子のように数回なでる。

「こっ、子供扱いしないでくれよ!ぼっ、僕だってその気になればサラだって、守って……」

「そういう事を言うのが子供って証拠。さてと、昼食はどうする?今日は久しぶりに二人で食べれそうだし」

「いい!練習するっ!」

 そういって十三は顔を耳どころか足まで真っ赤に染めたまま乱暴に扉を開けて出て行こうとする。

「それ、二重扉よ?」

「ぶっ!」

 アメリカではごく一般的な透明なガラス製の二枚目の扉を開け忘れるのを失念した十三は、猛烈な勢いで鼻をぶつける。

「大丈夫?薬箱とってこようか?」

「〜〜〜〜っ、いいっ!」

 声にならない声を上げたあと、恥ずかしさを隠すために声量を大きくして断ると、鼻を腫らしたまま十三は勢い良く出て行った。

「まったく、わかりやすいんだから」

 それを見送ったサラは、可笑しそうにクスリと笑うのだった。









 それから数年の月日が流れ、時は1993年の11月。
 粉雪が舞う街の一角にて、十三はサックスを吹いていた。
 その目はかつての淀んだそれとは似ても似つかないほど力強さに溢れ、体格も細いそれから、良く鍛えられ引き締まった体になっていた。
 吹く曲の曲調は明るく軽快。悲しさや哀れさなど微塵も感じさせないそれは、音楽に溢れた街に住む耳の肥えた住人達すら引き付ける魅力を携えていた。

「すげえファンクだったぜ! アンタ本当にイエローかい? 地肌は黒いんじゃないか?」

「凄くクールだったわ、今度ウチの店で演ってもらいたいぐらい」

 聴衆は興奮した様子で口々に賞賛の言葉を送る。

「へへ、サンキュー。それじゃあ今日はこれで仕舞い、また今度」

 十三は照れくさそうに頭を掻きながら、サックスを片付け始める。そこへ、顔見知りの中年が親しげに話しかけてくる。サラが昼間働いている喫茶店のマスターであり、十三自身も色々と世話になったことのある相手だ。

「そういえばジューゾー、お前『スラッシング・コンテスト』で三次選考まで残ったそうじゃないか。次で最終選考だな」

『スラッシング・コンテスト』とは、この地方で年に一回だけ行われるジャズ・ミュージシャンのコンテストだ。ローカルな大会なので出る賞金はあまり高くないが、ジャズの本場ニューオーリンズの近くのこの街で行われるだけあって知名度は高く、さらにプロも参加可能なオープンコンテストとあって参加者のレベルはきわめて高かった。アマチュア・セミプロならば『最終選考に残った時点でメジャーデビューは確実』とまで言われる程だ。

「まったく、さっきの客じゃあないがよくもまぁチビのイエローのガキが、ここまでファンクな音楽をやるようになるとは思わなかったぜ。さっきの演奏も最高だったしな」

 言葉は悪いが、店長はにこやかな顔で十三をほめ、頭をわしわしと押さえつけるようになでる。

「な、なんで知ってるんです?それから頭をなでるのはやめろって!」

 十三は店長の手を振りほどきながら驚く。

「ああ、審査員にワシの知り合いがいてな、こないだこっそり見せてもらった名簿の中にお前の名前があったんで驚いたってわけだ。ま、最終選考まで残ったらゲストで入れろよ、見に行くからよ」

 豪快に笑いながら店長はまるで自分の事のように嬉しそうな顔をする。

「サラにはいわないでくださいよ、最終選考に残るまでは言わないつもりなんですから」

「私がどうかした?」

「うわっ!?」

 良く見知った声で反応があり十三は後ろへ転ぶ。

「おう、サラか」

「いててて、サラ、も、もしかして聞いてたのか」

「こんにちは、マイヤーさん。……それにしてもずいぶん良くなったものね。昔は狂った山鳩みたいな音しか出せなかったのに」

 転んだ十三にサラは手を差し出し、十三はそれを掴んで立ち上がる。

「そんな風に思ってたのかよ。ま、でも褒めてもらえるって言うのは嬉しいね」

 十三は内心『なんだ、音楽の話か』と重い安堵しながら体に付いた雪を払うと、十三は嬉しそうに笑う。逆に店長は少しつまらなそうだ。
 だが、サラの基本無表情な顔が、数年一つ屋根の下で暮らしてきた十三にはあまり愉快な顔をしていないことが分かった。同じくそれに気が付いた店長はそっと逃げ出す。

「で、それはそうと何時になったら頼んだ買出しは終わるのかしら? それに店長、は逃げ出したか」

 その表情の理由がサラ自身の口から飛び出す。

「あっ! 悪い、忘れてた!」

 そういうと十三は急いで片付けかけだった自分のサックスを分解して仕舞うと、カブに乗り表道へ走り出していった。





「えと、ビールに玉葱とサーモンにヴォーグの新刊に……」

 十三はメモを見ながらカートに次々と頼まれたものを放り込んでいく。と、いっても家事全般は十三が取り仕切っているのでメモに書かれているものは殆どサラの嗜好品だ。あと幾つか十三自身が忘れないようにメモしておいたものがあるだけだ。

「あ、あと電球が切れかけてたから買い足しとくか」

 十三は両手で紙袋を抱え、カブをスーパーマーケットに駐輪したまま直ぐ近くの小さな電気店へと歩いていく。風を切るように疾走するのではなく、ゆっくりと空気の中を泳ぐのもたまには悪くないと思ったからだ。
 そうして歩いていく途中、妙に人だかりが出来た場所があった。『KEEP OUT』と記された青いビニールテープが張られ、その前には人相の悪い警官が睨みを利かせている。

「なぁ、何かあったのか?」

 十三は野次馬の中に知り合いの、パーカーを着た同世代の白人の青年がいることに気が付き話しかける。

「ん? ああ、ジューゾーか。なんでも強盗が押し入って金を奪ったあと、住人を殺して逃げたらしいぜ」

 プア・ホワイトの白人の例に漏れずエミネム風のファッションに身を包んだ彼は、少しばかり興奮した様子で答える。
 この街ではさして珍しくも無いような事件に、十三は顔を歪める。

「やりきれないな……」

「へっ、お前は相変わらずイイコチャンだな」

 この街では生真面目すぎる十三に対して白人の青年は茶々を入れるが、彼を含めて十三のこの街での友人達はその生真面目な所を案外気に入っていた。
 出合った当初は夢見がちのジャパニーズのたわ言だと思っていたが、知り合ううちにそれが単なる世間知らずから来るものではないと分かったからだ。
 そんな事は露知らずの十三本人は、彼の茶々に反抗する。

「何だと? 人が死んだのを悼んで何が悪い」

「おっと、そうマジになるな。それよりも気にならないか?」

 十三の表情が本気で怒っているのを見て、彼は両掌を前に突き出し、話題を変える。

「何が?」

「わからないか? この街じゃあそう珍しくない事件なのに、なんでこんな人だかりが出来ていると思う?」

 そういって下卑た笑いを浮かべると、青年は自分が見知った情報を十三に話し始めた。

「そうだな、まず犯人は何人かの武装した強盗集団だって話だ。目撃された奴の中にはやけに背が高い奴やら小太りの奴が居たってことぐらいで、たいした手がかりにはなってないらしい。そんで本題は殺された被害者がその後どうなったかという事だが……」







 さらに一月が過ぎた12月の寒空の朝。本格的な冬が到来し、辺り一面雪化粧の白一面の風景のなか、十三は顔を洗うと寝ぼけ眼で朝刊を取りにポストへ向かう。そしてポストから朝刊を抜き取ると、新聞と共に一枚の紙がぱさりと白い雪の上に落ちた。その紙を拾い上げて寝ぼけた目でそこに書いてある英字を読み取る。
 そして読み取り終わったあと、よく文面が理解できていないのではないかと思い、もう一度読み直した。
 さらに今自分は寝ぼけているのだと思い直し文面をこと細かく読み直した。
 今度は自分が夢の中にいるのではないかと思いポストの上にたまった雪を救い上げ、自分の鼻に思いっきり詰め込んで苦痛を十二分に味わったあともう一度読み返した。
 そしてそれが理解不足でも読み間違いでも夢でもないと分かった十三は雄叫びを上げた。

「騒がしいわね……どうしたの?」

 十三の声に目を覚ましたサラが、いつも通りの下着姿で起きてくる。そんなサラを見つけた十三は、闘技場の牛もかくやという勢いでサラへと突進していく。

「サラ! サラサラサラサラサラ!」

「そんなに何回もよばれなくっても、かくも長き不在じゃないんだから自分の名前ぐらい覚えてる。だからどうしたの?」

「と、通った! 『スラッシング・コンテスト』の最終予選に通った!これ見て!」

 そういうとサラは言葉を失う。ただ十三が手渡した手紙を奪い取るようにして取ると、文面を読み取る。そして十三と同じように三回読み直すと、今までのそれのような、微妙な変化のそれではなく、誰が見ても分かる微笑を浮かべるとサラは十三を抱き寄せた。

「おめでとう、十三。心から祝福する」

「サ、サラ、ちょっと言いたいことがあるんだ!」

 そういうと抱きしめられていた十三はサラを引き剥がす。そして試合前の格闘家のように両手を腰の前に組み、気合を入れる。そしてなぜか顔を耳元まで真っ赤に染めると、空気を力いっぱい吸い込んで、こう吐き出した。

「サラ! もしこの『スラッシング・コンテスト』で入賞したら、お、俺と、けっ……じゃなくて……つきっ……でもなくて……お、男として見てくれ!」

 ヘタレ純情野郎、一世一代の告白であった。それでも『結婚してくれ』でも『付き合ってくれ』でもなく、『男として見てくれ』という未だスタートラインにすら立っていない告白は、やはりヘタレといわざるを得ないだろう。

「え……?」

 そして言われたサラも、美しいエキゾチックな顔を意外なまでに赤くする。よくよく考えれば、彼女もまた肉体経験はあってもまともな恋愛をしたことが無いのだ。さらに異常なまでに濃密な人生経験のせいで大人びて見えるが、彼女とてまだ20代半ば。彼女が今迄十三を弟もしくは子供のように扱ってきたのは、彼女の男性経験が豊富であるからではなく、むしろそれが欠損していた証拠であったのだ。

「え……と……」

「……」

 朝っぱらからの告白に、二人の時間が止まる。
 十三はサラが余裕な態度で返してくるかと思っていただけに、ますます気まずくなる。
 サラはビジネス的な乾いたそれではなく、ある意味初めてぶつけられる『異性』からの好意へ戸惑う。

「うん……分かった」

 十分に時間をとった後、顔をほんのり赤く染め、短く承諾の返事を十三へ送る。そしてそれを聞いた十三の顔が黄金色にぱあっと輝く。

「俺、絶対優勝するから!」

 それだけ言うと、十三は雄叫びを上げながらどこかへ走り去っていった。




 それから最終選考会が始まる数日の間、二人は妙にもじもじしながらぎこちない会話を繰り返したり、仕事が何も手につかなかったり、サラが一度も夜の街へと立たなかったり、にもかかわらず何故か十三はい辛そうにどこかへ出て行ったりしながら、ついに運命の日を迎えた。くしくもこの日は十三の誕生日であった。

「じゃ、頑張って。私も後から見に行く」

 サラはチケットをかざして十三にエールを贈る。

「うん。俺、絶対優勝するから」

 最終選考はライブ形式で行われ、さらに選考には客の票が大きく左右するシステムになっている。勿論、ここまで残るようなジャズメンには自身の音楽への誇りがあり、その友人達もそのことを理解しているため知人の有無や数が有利不利に働くようなことにはならない。

「十三、待って」

 カブの荷台にサックスケースを載せ、シートに跨ろうとした十三をサラは呼び止めた。そして十三の顎を掴むと瞳を閉じ、彼と唇を重ねた。
 一秒、二秒、三秒……
 十三は時間をこんなにも長く感じたことは無かった。そして何も分からなくなった。ただ分かるのは、今自分はおそらく世界中でも上から数えて30番以内ぐらいには幸せだろうという事だけだった。

「続きは帰ってきてからね」

 少しだけ顔を赤らめるが、表情は勤めて無表情をサラは装う。
 そして十三は異常なまでに時間を長く感じた後、その分を補うかのように加速し始めた脳細胞がフル回転し、そして何故かガッツポーズを取った。

「い、行ってくりゅぅおぉおうがぁなだっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 興奮しすぎて雄叫びなのか舌が回っていないのか良く分からない声を十三は上げながら、カブのアクセルを目一杯絞って走り出していった。





 カブで走り出した十三は交差点での信号待ちで突然、ほんのり温まっていた額に激しい痛みを一瞬感じた。

「うわっ! これはっ!?」

 あの『バケモノ』が人を襲っているときに感じる『サイン』だ。しかし、いままでにこんな大きなサインを感じたことは無かった。そして経験的にこの『サイン』の大小は、大きければ大きいほど手ごわい『バケモノ』、もしくはバケモノの数が多いという事を十三は知っていた。
 そして交差点の信号が赤から青へと変わる。直進すればライブ会場、左折すれば『バケモノ』がいる場所だ。

(どうする!?)

 十三は迷った。時間に余裕があるように出てきたが、それにしたってこれだけ大きな『サイン』だ。少なくともリハーサルには間に合わないだろうし、本番に間に合ったとしても曲を吹ききるだけの体力が残るかどうか分からない。さらに、このサインはただ感じただけで、そこに助けを求める人がいるかどうかすら分からない。
 そして十三は可能な限り考え抜くと、交差点を左折した。







 拳銃の銃声が、暗い林の中に響いていた。

「くそっ! 何だあのバケモノ共は!」

「畜生、今日は『仕事』の日だってのに!」

と ある一団が、数年前人助けを始めたばかりの十三が戦った『黒い牛』のバケモノの群れに襲われていた。そのあまり質のよくなさそうな集団のうち何人かは何故か釣りなどに持っていくクーラーボックスを幾つか肩にかけており、そうでない人間は手に持った拳銃を乱射する。
銃弾が眉間や心臓と言った急所に当たればその『黒い牛』のバケモノといえど崩れ去るが、そうでない場合の効果は人間に対するそれとは大きく異なり、殆ど気にした様子も無いままに、より闘争心を燃え上がらせて突っ込んでくる。

「うわっ!」

 その一団のうち、やや小太りな黄色いアロハシャツを着た男が、逃げる途中で躓く。

「うわああ! 置いていかないでくれぇ!」

 その男は背を向けて逃げてゆく一団に向けて悲痛な叫びを浴びせるが、彼らはまるで聞こえないといった風に振り返ることも無く走り続けていく。
 そしてそんな様子はしったことは無いとその黒い牛『メルヴリント』は、『群れから脱落した弱い固体』であるその男を取り囲む。

「ひあああああ!」

 男は悲鳴を上げながら、手にした拳銃の引き金を震えた指で引くが、そんな状態ではまともな狙いなど付けられるわけも無く、高速で飛ぶ鉛は本来の目標へとくらいつくことも無く虚空へと消えていく。
 そして拳銃のスライドが後退しきり、戻らなくなる。そうなると引き金をいくら引いても弾は発射されることは無い。弾切れだ。そしてそれを見たメルヴリントの一匹が、最早恐れるものは無いと一歩前に出る。

「ひぃぃいい!来るな!来るなぁああ!」

 そういうと男は弾の出なくなった拳銃を投げ捨て、手に触るものを幸いにメルヴリントへと投げつけるが、そんなものではこの黒い牛の歩みは止まらない。鼻腔から蒸気を噴出させ、男へと飛び掛る。そして男は絶望の中で目を閉じた。

 しかし、いつまでたっても男にメルヴリントの狂角が降り注ぐことは無かった。疑問に思った男がこわごわに薄く目を開けると、そこには一人の少年、山口十三がメルヴリントを蹴り飛ばす光景が広がっていた。

「おっさん、さっさと逃げな」

 十三は振り向くことも無くその男に言い放つ。そういわれた男は頭を抱えながら、十三が突っ込んで来たことで穴の開いたメルヴリントの包囲網から逃げ出す。

「さぁて、こんなに数が多いとは思わなかったぜ……これは間に合わないだろうな」

 このころになると戦闘中であっても軽口を叩く余裕が出てきた十三は、獲物を逃がしたことでさらに興奮するメルヴリントの群れへ、にやりと笑みを浮かべる。

「だけどいいさ! 後悔しなくて済んだから!変・身!」

 横目で男が逃げたのを見送りながら、十三は変身のスイッチとなるポーズを取りながら叫んだ。









(なぜあんなことを言ったんだろう……)

 出て行った十三を見送ったサラは、一人自問自答していた。
 別にいままで、十三を『男』としてみたことなど無かった。十三が自分の事をそういう目で見ていることをサラは何ともなしに感じてはいたが、それでもサラからすれば十三はせいぜい『恩人』、または音楽を教える『生徒』。悪くて結構便利な『家政夫』、良くて『弟』か『息子』。
 しかし、十三から告白された時は、サラは不覚にも体が高揚するのが抑えられなかった。頬が紅く染まるのを自分でも恐ろしいほど冷静に感じ、あの時の感情をどれだけ冷静に解析したとしても『歓喜』としか形容できなかった。そしてその感情は今でもそうだ。

(冷静になりなさい、サラ・コルトレーン。貴女は何も知らない生娘じゃないの。相手はまだ子供、それに男を作っては、夜の仕事は続けられない)

 サラは自省しようと試みるが、それでもいろいろな妄想が止まらない。一緒に買い物へ行ったり(この数年で何度も行ったのだが)、映画を見に行ったり、遠くに旅行へ行ったり、子供は何人欲しいだとか、ここでは書けないエトセトラだとか。

 ボフン、という音を立てて彼女の頭がショートする。前述するように、無駄に肉体経験が豊富であっても、音楽一筋で生きてきた彼女に恋愛経験は殆ど皆無だった。その相乗効果か、ピンク色の妄想が色々と広がっていく。その時の顔は普段の冷静な彼女を知る人が見たならば、とても同一人物には見えなかっただろう。

 数分悶絶した後、彼女は冷静になりきれない頭でこう考えた。

(サラ・ヤマグチ……、いや、山口沙良? 悪くないかもしれない……)

 そこまで考え再び熱暴走モードに入ろうとした彼女を、インターホンの音が現実へと引き戻す。
 だれだろう、と彼女は玄関ののぞき穴から確認しようとした。









「うぉおおおおお!」

 十三の後ろ回し蹴りがメルヴリントの一体の顎を捉える。
 強烈な打撃によって脳が揺らされたメルヴリントは千鳥足になり、視界がぐるぐると回る。そしてその隙を見流さない程度には、十三は戦士として成長していた。


「これで十八匹目! のこり四ッ!」

 腕のカッターをメルヴリントの心臓に付きたてながら、十三は吼える。自身を奮い立たせるために。
 すでに十三の体は満身創痍であった。何度も放った突きのおかげで両手の指の爪はすべてひび割れ、腕のカッターですら残っているのは右腕だけで、左腕のそれは何度もメルヴリントの角による攻撃をいなしたせいで既に根元から折れていた。
 全身の打撲は当然の事、骨こそ折れてはいないものの、内蔵を痛め何度も緑色の血を吐いている。
 もし、これらすべて倒し終わったとしても、とてもではないが全力の演奏をするような余力は残らないだろう。

「だけどさっ!」

 突きたてたカッターを抜き、血をほとばしらせて十三は構え直す。左からのメルヴリントのタックルを受け止めきれず倒れこみ、そこへもう一体のメルヴリントが組み伏せようと襲い掛かる。

「後悔はしていないっ! あそこでもし『真っ直ぐ』いったら、俺は二度と自分を許せなかったから! 『左折』したからこそ、俺は人間を守れた!うぉおっ!」

 気合で自分を一喝すると、下半身のバネを使い回転するようして上体を起こし、メルヴリントの押さえ込みを解く。吹き飛ばされ尻餅をついたメルヴリントの一体の首を、太ももから生えるカッターで刈り取る。

「さぁ! 残り三っ! かかって来い!」













 メルヴリントを倒し終わった十三は、急いでコンテスト会場のライヴハウスへと向かったが、当然ながら既にコンテストは終わっており、血まみれの十三は門前払いを受けることになった。

「やっぱり少しショックだな……サラに謝らなきゃ」

 そう呟き、ライヴハウスの辺りでたむろしている客の中からサラの姿を見つけようとするが、その姿は見当たらなかった。超聴覚を使いサラの声を群衆の中から見つけ出そうとするが、それでも彼女は見つからなかった。

「あれ? 怒って先にかえっちゃったかな……」

 そう思い、十三は急いで彼女の住むアパートへと向かった。
 そして彼女のアパートに着いた十三は、ふと『やけに静かだな』と思った。最もこの近辺は普段から閑散としており、あまり『音』も多くないため、さして気にすることも無く十三は彼女の部屋へと急いだ。









 そして悲劇は起こった。いや、もう既に十三があの交差点を『左折』した時にはもう、悲劇は『起こっていた』のだろう。

 十三がアパートの扉を開いた時、鼻に鉄のような臭いが飛び込んできた。それはよく十三が知った臭い、血の臭いであった。
 そして次に十三の耳に飛び込んできたのは、数人の人間が息を殺して動く衣擦れの音と、なにやら指示を飛ばす声。
 そこから少し進んでリビングの扉をあけ、十三の目に飛び込んできたのは、物言わぬ死体だった。

 サラ・コルトレーンの、十三が世界で一番守りたいと思っていた女性の変わり果てた姿だった。

「あ、お前は……」

 そしてこの場にそぐわぬ間抜けた声が十三の耳に届く。
 その声を発したのは、先ほど十三がメルヴリントから助け出した一団の中に居た、小太りの男性だった。
 十三が助けたこの一団は、十三が数週間前知り合いから聞かされた武装強盗集団だったのだ。
 そして彼らの手口は住人を皆殺しにした後、その住人の『内臓』に至るまで強奪したというもの。
 つまり彼らが持っていたクーラーボックスは内臓を入れるためのものであり、あの大量のメルヴリントは血の臭いに引かれて集まったというわけだ。

 そしてそこまで考えが整理されると、一つの現実が導き出される。

『自分が栄光を捨ててまで助けた人間が、世界で一番大切な女性を殺した』

 その現実を十三は受け入れられない。
 そんな中、突然電子音が頭の中で響く。機械的に合成された女性のような落ち着いた音声で、淡々と響く。

『固体No.13についての定期報告です。推奨されるデータ測定時間148800時間を超過しました。育成段階における最終報告書を作成します。戦闘訓練プラン照合、推奨されたプランとは測定時間113880時間を経過時点から大きな齟齬を確認。しかし、本固体に期待された戦闘能力値と比較し、約13%の余剰分を確認。余剰分についての解析を要請……応答無し。本情報収集及び独自解析電子頭脳……』

 だが、そんな声は聞こえていても、十三の頭には全く入ってこなかった。いや、今の十三にとってはどうでも良かったのだ。

 彼の目に映る彼女は、今までの被害者と同じように腹を割かれ内臓をいくらか抜き出されていた。
 十三はうつろな目をした彼女に近づくと、その無残な遺体をそっと抱きしめた。

「これが……俺が守ろうとしたものの正体か……」

 そう十三は呟く。
 そんな十三を、強盗達は狂人を見るような目で見ていたが直ぐに我に変える。

「おい、めんどくさい、コイツも殺して抜き取っちまえ」

 そう指示された強盗の一人が、サプレッサーのついた銃と、ちょうど拳銃の口径程度の穴が開いたクッションを持ち、死体を抱く十三に近づく。にも関わらず十三はぴくりとも動かない。ただひたすら二つの考えだけが頭の中で回っていた。

『自分が彼らを助けなければ、サラは死なずに済んだ』

『自分が守った人間が、サラを殺した』

 十三は驚くほど冷静だった。そしてふとこんな一節を思い出した。

『明確な殺意は、最早感情ではない。それは冷徹な意思である』

 彼はサラの遺体を抱いたまま立ち上がると、銃を持った男を乾いた目で見据えた。銃を持った男はその余りにも虚ろな目に一瞬たじろぐ。

「ねぇ、サラは言ったよな。音楽は、自分の心を掴んで外に出すようなものだから、自分の心を殺しちゃいけないって。そうでないなら、音楽は真実を響かせないって」

 そういって初めて感情の篭った目で、強盗たちを睨む。

「俺は! お前達を! 殺したい! 俺が守ろうとした人類すべてをブッ殺したい!!」

 そう叫ぶと同時に、十三の体が変化していく。

「うぉおおおおおおおおお!」







「あははははははは! 傑作ね! 貴方がこの娘を殺したの! もう一度言うわ、貴方が殺したのよ!」

 狂ったような嘲笑を、メルヴテュルカイは十三へと浴びせかける。十三は座り込んだまま何も言わない。

「それだけじゃないわ、何が『人類の自由と平和を守る仮面ライダー』よ! 貴方この後、この男達をどうしたか覚えているわよねぇ!? それに最初に殺した男だって……さぁ、これで終りじゃないわ、もう一度忘れないためにも最初から見ましょうか!」









「もう止めろぉぉおおおおおおお!」

 今迄、糸の切れた人形のようにピクリともしなかった十三が立ち上がり、狂ったような声が夜の峠道に響く。

「十三!?」

 その声に驚いた音河は思わず振り向く。

「ああ! そうだよ! テメーの言う通りだよ! 俺は人を何人もぶっ殺した! サラだけじゃねえ! あの強盗の連中だって塵にしてやったさ! ああ、塵になったさ、あははははははははははは!」

「十三、一体どうしたんですか!? しっかりしろ!」

 音河は急いで十三に駆け寄りその肩に手をかけるが、十三は音河の手を跳ね除ける。そんな様子を見たメルヴテュルカイは嘲笑を浮かべる。

「無駄よ、その男の心は私が壊したわ、何度も何度も過去を見せてあげたの。彼自身が逃げたがっていた、忘れようとしていた過去をね」

「貴様!」

 そのメルヴテュルカイへ音河は怒りのまなざしを向けるが、メルヴテュルカイはそんな音河を鼻で笑う。

「あら? 何か不都合が合ったかしら? 再確認させてあげただけよ。偽善ぶった男に、自分が過去に何をしたかをね」

 メルヴテュルカイはばさりと翼を広げ、月光を背に宙へ舞う。

「貴方も大変ね、そんな出来損ないの、『偽者』の仮面ライダーのおもりをさせられているんだから。そんな偽者だから、この程度で心を壊しちゃおうのよ」

「……誰が心を壊したって?」

 いままで狂ったように高笑いを続けていた十三は、ぴたりとその高笑いを止め、明確な意思をもった声と視線をメルヴテュルカイへと向ける。

「テメー、なんか偉そうに説明してたよなぁ。お前の催眠術は強力な『意思』ってヤツを持って見れば破ることが出来るって」

「十三?」

 音河は思わず彼の名を呼んだ。
 彼がここまでの強烈な殺意を孕んだ声を発したことが、未だかつてあったであろうか。とても音河が知る彼とは同一人物には思えない声だった。
 そんな音河の声も無視し、十三は淡々と続ける。

「テメーみてーな人の心を理解しねぇ奴にゃあ分かんねぇだろうが、『殺意』って奴はさ、ただの感情じゃあねえんだ。突発的な殺意ってのが大体だろうが、それにしたって真の憎しみって奴がなきゃあ抱けねぇもんだ。つまりよ、殺意ってのはある意味、何よりも強い『意思』の一つなんだよ」

 そういって十三は上着を脱ぐ。そしてここで初めて音河を見る。

「音河よぉ、わりい、金返せねぇわ。あとちょっと離れててくれ」

「あ? どういうことです? 言っておきますけどどうあっても返してもらいますよ」

 そう軽口で十三と音河は遣り取りするが、音河は背筋に肌寒いものを感じていた。

「じゃあアレだ、俺のサックスとカブでも売っ払ってくれ。あ、あともしもの時は容赦すんなよ。まぁお前なら問題ねーとは思うけど」

「なんだと! おい、何をするつもりだ!」

 音河は、彼にはありえないほど声を張り上げる。それもある意味当然だ。なぜなら十三が自分のサックスを売り払えなど世界がひっくり返らない限りありえない。それに『容赦するな』とは一体、どういう意味であろうか。

「何をするつもりか知らないけれど、心を壊せなかったっていうならしょうがないわ。なら二度と動けないほどに痛めつけて持ち帰ってあげる!」

 メルヴテュルカイは大鎌を構え直し、さらには分身を展開する。感覚を騙すそれは、偽りではない『殺意』を伴い十三と音河、二人の男に襲いかかる。
 だが十三は構えることなく、自身の胸を、心臓の辺りを自身の腕で突き刺した。自分で自分の心臓を抉ったのだ。

「なっ!?」

「なんですって!?」

 音河とメルヴテュルカイは同時に驚愕の声を上げる。
 そして十三は突き刺した腕を引き抜くと、腕を高く掲げる。そしてその手には、心臓の辺りに繋がるコードが延びた機械が捕まれていた。
 それを見た音河とメルヴテュルカイは、それが何であるか気が付く。

「リミッターを!」

 そして高く掲げたそれを、十三は握りつぶした。

「もう後戻りはできねーぜ、お前も俺もなぁ……変身」

 そう呟いた十三の体が、おぞましい変化を起こしていった。






つづく


メルヴゲフ解説

・メルヴリント
黒い牛のような姿をしたメルヴゲフ。メルヴゲフの中でも強靭な膂力を持つ。武器はその怪力と角で、本編中では披露しなかったが、その角を飛ばすことも出来る。
また、メルヴゲフは同士討ちをするため群れることは、何物かに統制されていない限りありえないが、メルヴリントのようにモデルとなった生物が群れを作る性質を持つこと、そして攻撃対象から多大な興奮を引き起こすような何か(例えば臓物の血の臭いなど)があること、等の条件がそろうと群れを作ることがごくまれにある。


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