東南アジアの雑踏の中を、一人の日本人が闊歩していた。その様はまさに『風を切るように』といった形容をそのまま具象化したようであり、まさしく『嵐の男』と呼ぶに相応しい風格を兼ね備えていた。
 そしてその男が特徴的なのはその動きだけでは無かった。全身を黒い皮のジャケットに同じ色のパンツ、それに革靴、極めつけは真っ黒なテンガロンハットに純白のスカーフとギター。まさしく『気障』という言葉以外当てはまらないその格好も、何故かその男が着ていれば嫌味が抜けていた。

「やぁ、すまないがいつものヤツをいただこうか」

 そういって白い歯を見せて笑いかけ、なじみとなった屋台の店主の肩をたたく。そして話しかけられた屋台の店主はその声で主を判断し、慌てた様子で振り返える。

「は、早川さんじゃないですかい!こりゃお久しぶりです! すぐ用意しますんでお待ちを」

 そういって店主は屋台の奥へといそいそと戻っていく。そんな様子を『早川』と呼ばれた男は微笑を崩すことなく見送ったが、次の瞬間男の表情が険しいものとなる。

「すいません、今日の分は切らしちゃったみたいで……って、あれ?」

 そして店主が目を離した数瞬のうちに、男の姿は影も形もなくなっていた。

「やはり解放してしまったか。だが、十三。ソイツは君が人として生きていく上で決して避けては通れない道って奴だ」

 そして男は、その屋台から何百メートルも離れた人気の無い崖の上に立っていた。男は腰に下げた短いパイプのような物体に手をかけると、それを天に掲げる。

「V3ホッパー!」

 そう叫んで、その『パイプのようなもの』についたスイッチを押すと、その先端から勢い良く、同じように細長い物体が飛び出す。
 そして飛び出した物体は成層圏ギリギリまで飛翔すると三枚の羽を開き停止する。超低空を飛行する小型・高性能の偵察衛星といえるそれは、男の視覚とリンクし、男が求めている視覚情報を捕らえる。

「やはり日本か。やれやれ、久しぶりの帰国と洒落込みますか」

 彼の出来の悪い生徒にもきっちり受け継がれている軽口を叩くと、文字通り『不可視』の速度で走り去った。

「十三、俺は信じている。君も真の仮面ライダーになれる素質を持っているってね。君が自身の弱さを『否定』できるようになれば」



♯7  MAD CRAB PARTY 


「これが『マスターテープ』のイノベーターの力か……」

 高層ビルの屋上から十三と音河、そしてメルヴテュルカイが戦っている様子を小柄な少年の『ような』男が双眼鏡を使って覗いていた。その男、マツモト・リョースケはいつものような、意識して作っている子供のような口調と声色ではなく、彼本来の年齢である還暦をとっくに迎えた成人男性に相応しい貫禄と口調で感嘆する。

「腕が痺れるな、これは……正直、想定以上だ」

 先ほどから震えの止まらない掌を軽く開閉させ、そして急に血がにじむほど拳を握り締める。

「だが、気に入らないな。それが、その程度で壊してしまうのが貴様の『ルール』か。山口十三っ!」

 その顔には部下であるメルヴテュルカイが作戦をある程度成功させた喜びではなく、自身が強敵だと見誤った相手への怒りと失望が浮かんでいた。





バキバキバキ……

 音をたてて十三は高く掲げた機械を握りつぶす。ついでその機械と十三の肉体を繋ぐコードを引き千切ると、それを投げ捨てる。

「あえて言わせて貰うぜ、後悔しやがれ。人の心ん中勝手に踏みにじったことをな」

 憎しみをこめて十三はメルヴテュルカイへ吐き捨てる。

「一体何が起こるのかしら。楽しみだわ」

 だがメルヴテュルカイはそんな十三を楽しげな様子で見つめている。
 そして十三の体が、人でない別の『何か』に浸食され始める。その侵食する速度は今までの十三がFAKEへと変化する速度の何倍も速く、10秒と立たずに変身を完了する。

「じゅ、十三……なんですか?」

 それを見ていた音河は思わず息を呑む。なぜならば、その姿は彼が知る『仮面ライダーFAKE』とは大きく異なっていたからだ。
 FAKEライダーの触覚はあんなにも太く、長い高電圧コードのようなそれではなかった。
 FAKEライダーの両腕・両足から生えるカッターはあんなにも巨大で、稲妻のような形ではなかった。
 FAKEライダーの目は、いくつもの個眼が集合した、赤黒い血の色をした複眼ではなかった。
 FAKEライダーの口吻部は、左右上下からなる金属質の4枚のクラッシャーからなるものではなかった。
 FAKEライダーには琥珀色をした、身体の急所各部を守る生態装甲など存在しなかった。
 ただその姿は、FAKEライダーと同じように人に嫌悪感を与える醜い姿であった。

「へへ、何年ぶりだ? この姿になんのは」

「それがFAKEライダーの真の姿……」

「離れてろつったろうが音河ぁ!」

 十三に駆け寄ろうとした音河を、十三は一喝して退ける。その声に音河は驚愕を覚えた。その怒鳴り散らした声量やその内容ではなく、十三が『怒鳴り散らした』という事実そのものに。
 音河も十三も、わけ合ってまだ十代のころから命の遣り取りをする場へ身をおいてきた。そのせいか、敵が強ければ、追い詰められれば追い詰められるほどに二人は冷静になり、決して取り乱したり慌てたり、ましてや声を荒げ周囲に当り散らすという事は決してなかった。
 そして、敵が強大な『悪』であればあるほど彼らは熱くなった。しかし、その『熱さ』は真っ赤な炎を燃え上がらせるような無駄な熱さではなく、刀鍛冶が鉄棒を熱するように真っ白な輝きを放つ、内に秘める熱さであった。
 だが、この十三は声を荒げ周囲に当り散らしている。悪によって蹂躙された自らの心に、真っ赤な炎を上げてしまっている。
その事実が、音河には信じられなかった。そしてその理由の一端が、十三自身の口から語られる。

「……今の俺はあの七面鳥のクソ尼よりもなぁ、テメーをぶっ殺してぇ気分なんだよ、『人間』であるテメーをなぁ!」

「っ!?」

 十三の威嚇に対して音河は本能的に迎撃体制を取った。距離を取るためにバックステップしながら、弾の切れたリボルバーにカートリッジを使い再装填する。そしてさらに重電磁警防『ヘビーアクセラー』を、拳銃を持った右手とは逆の手に構える。

「どういうわけか知りませんが、今の君は十三であって十三ではない、そして君が容赦するなっていったのはこういう訳ですか」

 ならば容赦はしない、といった言葉を飲み込み、音河はその整った顔の額にきつい皺を刻み、敵意の視線を十三とメルヴテュルカイ双方へと送る。不測の事態に何時までも狼狽しているほど、音河釣人という人間は間抜けでもなければ甘くも無かった。
 そしてその様子を見た十三は、ゴキブリをさらに凶悪にしたかのような仮面の下でニヤリと笑ってみせる。

「流石だぜ、それでこそ俺の知る音河釣人だ。まぁまだギリギリ山口十三ってとこだ。今はまだ生かしておいて欲しいな」

 誰が聞いても分かる引きつった声で、無理して軽口を叩いてみせる。

「馬鹿言っている場合か。僕に分かるように説明しろ」

 目を鋭く尖らせた音河が、某A級囚人のように理由を問う。

「へへ、さあな。良く俺も分からねぇ。ただな、今の俺は殺したくてしょうがねぇんだよ。メルヴゲフをじゃなくて、人間をだ。今はなんとか抑えていられる。だけどもしもの時は……頼む」

 そこまで言って十三は黙り込む。それに対して音河はそんな十三を心底小馬鹿にしたようなため息を吐くと、イラついたように髪を掻き揚げ端正な顔に皮肉った表情を浮かべる。

「やれやれ、自分のコントロールを出来ないようなクズの後始末なんか、僕はしたくないんですけどね。いいでしょう、今回はただでやってあげますよ」

「お? ツンデレか?」

「ええ。最近の流行に乗ってみました。だからこのあとはキチンとデレて始末をつけてあげます」

「出切れば再起不能程度で済まして欲しいんだが」

 そういった音河を見て、十三は心底安堵する。ここで『自分を殺すことを誰かに懇願する』人間に対して、この音河釣人という男は狼狽するでもなく、怒るのでもなく、安易な慰めを言うのでもなく、ただ失望感を露わにする。そういう人間だからこそ十三は自分を止めることを頼めるのだ。なぜなら彼は、本当に『もしも』のときが訪れたら、一切の容赦を加えることなく、十三の息の根を止めてくれるのだろうから。
 そして少しだけ、女々しい感想を付け加えるならば彼は十三のことを覚えていてくれるだろうから。
 そんな様子を見ていたメルヴテュルカイは退屈そうにため息をついた。

「はぁ、ようやくお話は終りかしら? それにしても・・・・・」

 あざけるような調子で彼女は十三を見やる。

「まったく、何かと思えば姿が変わっただけじゃない。まぁ確かに力は強くなったみたいだけど、私の能力をきちんと把握しているのかしら?単純なパワーや技で倒せるようなら、とっくにそっちのお兄さんが私を殺しているわ。それにずいぶん辛そうだけど大丈夫かしら?なんなら救急車を呼んであげてもよくってよ」

 メルヴテュルカイの挑発に十三は向き直ると、やはり誰が聞いても無理をしていると分かる声で軽口を叩いてみせる。

「ああ、呼んでおけよ。ただし呼ぶのは救急車じゃあねぇ。テメーが乗る霊柩車だっ!」

 そう十三が叫ぶと同時に彼の装甲の隙間から、蒸気が噴出するような音がし始めた。その噴出の勢いは時間の経過と共にますます強まり、その噴出する風のようなエネルギーは十三自身を包んでいく。

「生意気を言う子にはお仕置きね。私が今迄、貴方たちが話しているのをただ、じっと見ているだけだと思った?」

 そういうと、彼女は幻覚を展開する。ふと十三と音河がメルヴテュルカイのたたずむ足元を見ると、そこから中心に光が広がってゆく。

「へえ、今度は風景で姿をくらます気ですか」

 十三と音河を包む風景が、夜の峠道から別の風景へと変わっていく。星空が輝く夜空は太陽がさんさんと照りつける真夏の青空に、無機質なコンクリートの道路はむせるほど木々が立ち並ぶ森林に。さらにガードレールを隔てて、切り立った崖だった場所は青い湖で埋め尽くされていた。その光景は、七面鳥本来の住家であるカナダ南部の混合林を彷彿とさせた。
 だが、それほどまでに凄まじい幻覚を展開させたメルヴテュルカイに対して、最早やる気が失せて人事のような態度で音河は、確かにこれほど広範囲に幻覚を展開させるのを許す程度には話し込んでいたっけなと思った。

「これがあの女本来のテリトリーと言うわけか」

 音河は銃を仕舞いながらやる気無く周囲を見渡す。が、メルヴテュルカイは見当たらない。
 メルヴテュルカイの催眠術によって作り出された日差しはじりじりと肌を焼き、森林の臭いでむせ返る。足元からは踏んだ草の感触が伝わり、ここがコンクリートで舗装された夜の峠道だという事を音河は忘れそうになる。
 そして一方の十三から発せられるエネルギーの量は増していた。

「そこだぁ!」

 突然十三が吼え、何もない大地へとその拳を振り下ろす。すると一拍置いてその場の風景が元の無機質な峠道の風景へと戻る。

「あ、危ないわね。どうして気付かれちゃったのかしら?」

 そこに、紙一重で十三の拳を避けたメルヴテュルカイの姿が露わになる。

「ガァッ!」

 メルヴテュルカイの問いに答えず、もう一撃十三は拳を振り下ろす。テュルカイは拳を手にした大鎌でそれをいなすと、再び幻影の風景の中に姿を隠す。そして息を殺し思考をめぐらせる。

(ふぅ、危ない危ない。さて、これはどうして私の催眠にかかった状態で私を見つけることが出来たのか……まずはそれを探る必要がありそうね)

 勿論、肉体的な限界が迫っている以上、ゆっくりと考える時間があるわけではないが、それでも敵の能力が分からないまま突撃するという愚行を犯すよりは数段マシだ。

(さて、考えを整理しましょう。考えられるのは、まず単純に私が術をミスった……これはありえないわね。現に彼は私がこの幻覚を展開させたとき、こちらへ向かってくる足を止めたし、さっきも精確に私を捉えたわけじゃなかった。と、なると当然気になるのは彼がさっきから出している湯気?のようなものだけど……)

 その時、ふわりとそよ風が吹いた。

「ガァァァァ!」

 それと同時に十三が弾けるように動き、メルヴテュルカイ目掛けて真っ直ぐ、弾丸のように突っ込んでくる。

「!?くっ!」

 メルヴテュルカイはなんとかその一撃を、苦悶の声を漏らしながら再び大鎌で受け止める。

(今の風……まさか触覚や肌触りで風の動きを感じて、それで私の動きを掴んでいると!?)

 そこまで思考したところで、彼女は考えを止める。なぜなら、催眠とは皮膚感覚だとか視覚だとか聴覚だとか、そういうものを騙すものではないからだ。
 例えば、「二本の平行線があり、それに色のコントラスト差を激しくすることによって平行に見えなくする」という、所謂フットステップ錯視とて眼球の水晶体にはあるがままの姿が映っているし、集団心理を利用した悪徳商法に引っかかった被害者とて、平時の状態でならば不当だと直ぐに判断できただろう。
 つまりは、催眠術が騙すのは『脳』であるのだ。それにかかっている以上、たとえ気配といった物を掴んだとしても、それをメルヴテュルカイだと判断できるはずがない。

「くうっ! ふん、思ったより大したことは無いじゃない! 何故私の居場所が分かるか、それはこの際どうでもいいわ!」

 そういうと彼女は正面から力押しで十三を弾く。そういえば、十三がリミッターを解除しパワーが上がったからといって、必ずしも自分を上回っているとは限らない、もしかしたら下回っているという可能性を考えるのを止めていた。
 そもそも自分はブートレグといえど精兵、対して相手は『マスターテープ』といえど初期型。同じ『描き込み』を行った『イノベーター』同士ならば、力で負ける道理はない。

「いいわ、力で正面からねじ伏せてあげる!」

 そういって大鎌を担ぎ上げて十三へと襲い掛かろうとする。その時だった。

 ボトリ

「……何?」

 乾いた砂の塊が崩れるような音がしたかと思うと、メルヴテュルカイの手の中で、鎌の柄の部分が経年劣化して風化したかのように、ぼろぼろに崩れていた。

ベタリ

 続いて、何か粘液を耳元で垂らしたような音がする。反射的に耳を探り、その手を見ると、そこにはべっとりとメルヴゲフ特有の緑色の血液が付着していた。

「え?」

 そして、突然重力が反転したかのような感覚を味わうと、自分の意思とは関係なく倒れこむ。そして彼女は初めて気が付いた。

(何時の間に、なんで私は血まみれなの?)

 気が付いたときには、彼女は全身の穴と言う穴から血を噴出していた。

「あれは……なるほど、十三の能力は『振動子』か」

 それを見た音河が、今迄閉ざしていた口を開く。
 十三の全身を覆う風、あれはおそらく微細な硬化させた角質、つまり我々人間でいうところの爪や歯を、さらに細かく硬くしたものを圧縮させた空気に混ぜ放出していたのだろう。それ自体には何の攻撃能力も無い。だが、十三自身が指向性を持つ振動子だとしたら、話は変わってくる。
 振動子とは、かいつまんで言えば高周波数で振動し超音波を発生させる装置だ。その超音波によって起こった『波』にのって、細かい角質は十三が目標としたものにたいして幾度も衝突を繰り返す。こう書けば大したことの無いように思われるが、工業用の17~60[KHz]程度の周波数、振動幅たった10μmと髪の毛一本分にも満たない程度の振幅ですら、スペースシャトルの外装にも使用される、大気圏突入の衝撃にも耐えうる強固なファインセラミックスをグングン加工していくのだ。人間ほどのサイズの振動子から放たれる『波』の威力たるや推して知るべきである。

 そして、その強力な『角質付き超音波』を纏わせた一撃は、受け止めようとしても受け止められるものではなかった。
 『角質付き超音波』は、メルヴテュルカイが手に持った大鎌を媒介に伝播を続け、彼女の全身にくまなく細かい、しかし深く穿つような傷をつけた。

「そしてそれを伝播したそれではなく、直接その身に受けたとしたら……」

 音河が呟いたのに同調したかのようにゆらり、と十三は倒れこんだメルヴテュルカイを見下ろすように佇む。そして足を高々と振り上げ、その踵には『風のようなエネルギー』に見える『角質付き超音波』がいままでにない密度で収束する。それを見たメルヴテュルカイの目は大きく見開かれる。

「うそでしょ……やめてよ」

 脅えた声でメルヴテュルカイはそう搾り出した。だが、帰ってきたのは無機質な一言だった。

「死ネ」

 ぐしゃり、などという無粋な音が響くことはなかった。
 超高速・ミクロの視点でもし、このときのメルヴテュルカイの肉体を見ることが出来たのならば、踵落としが顔面へと炸裂したのと同時に彼女の肉体に超音波は高速で伝播、十三の踵が彼女の頭を踏み砕く前に硬質・超微細な角質粒子が彼女の頭部を分解・超高速で風化させ、その勢いは十数キロを誇る頭部を完全に砂化させたに留まらず、彼女の上半身を同じように持ち去った。
 後に残ったのは無残な血まみれのミンチなどではなく、まるでミイラのような下半身だった。

「さて、と」

 そういうとガードレールにもたれ掛かかっていた音河は、ホルスターに収まっていた銃を手に取り弾倉を回転させる。そして同時に電磁警防『ヘビーアクセラー』のスイッチを入れ、紫電を纏わせる。

「さて、お待たせしました。第二ラウンドと行きましょうか。十三、いや、『メルヴシャーベ』とでも呼ぶべきかな」

 そう呼ばれて振り向いた十三、否、『十三だったもの』、ゴキブリのメルヴゲフ、『メルヴシャーベ』は金属質の硬いクラッシャーの口元を展開させ、白い息をよだれと共に吐いた。
 音河には、それはまるで笑っているように見えた。
 メルヴシャーベは身を腹が大地にこすれるほど低く掲げ、両腕を大きく広げる。その構えは、人間の『武道』を基にしたFAKEライダーの構えとは大きく異なり、野生動物が他者を威嚇するときのそれに似ていた。

「おおっ!」

 音河が叫びと共に引き金を絞り込と、銃口から空気が円錐形の軌跡を描きながら弾丸が走る。それを黒い異形は、まるで瞬間移動したかのように音河の視界から消え、弾丸を避ける。

(速い!)

 音河が驚嘆するのも無理は無い。例えばバッタやノミが人間大の大きさになったと仮定したとき、彼らは単純計算で高層ビルを軽々と飛び越えるという。それと同じようにゴキブリが人間サイズになったと仮定したとき、『新幹線こだま』と同じ速度、時速270キロで走るという。それに対して人間は100メートルを10秒で走ったところで時速36キロ。とても速度という点で勝ち目は無い。
 いかに音河の身体能力が常人を凌駕しているとはいえ、それは彼とて同じだ。

「だけどそれだけで勝てると思うな!」

 音河が左腕を目一杯伸ばすと、袖口から小さな仕込み銃が飛び出した。それが掌に収まると同時に彼は引き金を引く。

「キシャオ!?」

 上げ調子の語尾の奇声が上がる。それと同時に音河はその声がした方向とは真逆の方向へステップする。そして十分に距離を取ったところで初めて音河はそちらへ視線を向けると、そこでは大きな右複眼を抑えて悶絶するメルヴシャーベの姿があった。

「……人間には爪も牙も無い。だけど知恵がある」

 ゴキブリというのは、攻撃を避ける際、攻撃を中心点としてそこから0度〜180度の半円を描くような位置へ避ける性質があると言われている(当たり前だと思われるかもしれないが、それを証明するために十分に実験を重ね真顔で学会で発表した学者がいる)。
 さらにそこへ、異常に攻撃的なメルヴゲフの性質を考え避けた後すぐさま反撃できる場所へ逃げると音河は考えた。とすると、逃げる場所は人間の死角となる真右か真左。そこで音河は右手に銃を持っているから、彼の左方向へと飛ぶと予想したのだ。そこへ適当に当てずっぽうに仕込み銃を放ったのだ。

「相手の思考を読み、攻撃を先読みし、自分より遥かに高い身体能力を持つ相手と互角以上に渡り合う。どこかの誰かさんみたいでコソコソとセコイ戦法ですよねぇ」

 音河は誰とも無しに語りかける口調でにやりと笑って見せ、同時に単発の仕込み銃を投げ捨てる。中折れ式のこの仕込み銃は高速で動き回るメルヴシャーベ相手にリロードする時間は取れないだろう。ならば投げ捨てたほうがマシだ。
 そしてそんな短銃によって予想外のダメージを受けたメルヴシャーベは音河を警戒してか、右目を手で押さえたまま動かないままでいる。

「いつまでそうしているつもりです……?」

 音河はそう呟くと、手に持ったヘビーアクセラーを振りかぶり、当然右目が『使えない相手には』死角となるであろう右方向からメルヴシャーベに殴りかかる。
 そして命中する瞬間、アクセラーをメルヴシャーベは目を押さえていた右手で精確に掴み取ったのだ。そしてその手が離れたことによって露わになった右目には傷一つのこっていなかった。

「やっぱりか」

 音河はそう、予定調和といった様子で薄く笑って見せる。
 高圧電流がメルヴシャーベに流れ、焦げ臭い臭いがあたり一面に漂い始める。ダメージを受けているのが音河には見て取れたが、彼は急いで手を放す。
 そして一瞬遅れて、メルヴシャーベは振動波を発生させ、彼に捕まれたアクセラーが振動波を受けて粉々に砕け散っていく。もし手を放すのがあとほんの1秒でも遅れていたのなら、音河の身体を振動波が蝕んでいただろう。

「再生能力……その高い生命力もゴキブリ譲りってわけですか」

 そう冷静に分析しながら、銃をメルヴシャーベへ向ける。だが電磁警防の間合いという近距離にも関わらず、メルヴシャーベは首を動かして避けてみせ、さらにそのまま大きく腕を振りかぶって音河へ殴りかかる。

「ぐぅっ!」

 それを音河は両腕を顔面の前で組み合わせ、そのパンチを防御する。

「ちっ、非力なゴキブリ野郎のパンチなんぞで僕がガードを固める必要があるとは……」

 砂埃を上げながら、80kgを軽く超える音河の身体が後退する。アラミド繊維で編まれ、十三のシルベールのスーツほどではないにしても強固な防御力を誇る音河の背広の腕部分は、パンチを受けた部分を中心に破れている。さらには一瞬とは言え振動を伝播された音河の両腕には、無数の細かな穴が出来ていた。
 だが、音河はそんな傷を気にするそぶりすら見せることなく、再び銃を乱発する。だが、既に銃弾を見慣れたのか、『避ける』というモーションをほんの僅かにして、メルヴシャーベは再び頭から突っ込んでくる。

「目が慣れたのはお前だけじゃあないッ!」

 音河はそう咆哮すると、時速270kmの体当たりを紙一重で避けてみせる。

「キシュ!?」

 驚きの声を上げるメルヴシャーベの腕を取ると、足を払って転倒させる。時速270kmの速度で転倒したメルヴシャーベの顔面は、5.97×10の24乗kgという巨大な質量を持つ鈍器、大地に衝突し緑の血しぶきを上げる。

「まだだぁ!避けてみろ!」

 音河はその倒れこんだ十三に銃を押し付けると、そのまま引き金を弾倉が空になるまで撃ち続ける。
 どくどくと、メルヴシャーベの身体を中心に緑の血溜りが出来る。しかし音河は油断しない。弾を捨てながらバックステップして距離を取る。そしてその一瞬送れて、イナズマのような形をした巨大なカッターが生えたメルヴシャーベの足が、音河が持った拳銃を切り落とす。もしもう少し後退するのが遅れていたならば、銃といわず腕ごともって行かれたであろう。

「さて、零距離で全弾打ち込んでも致命傷には至らずか……」

 そういって、銃身が切り落とされた拳銃を投げ捨てる。
 そして同時に、両腕部が破れたジャケットを脱ぎ、ついでネクタイを緩めて投げ捨てる。そして代わりに、細かく砕かれたダイヤモンド片が大量にしこまれたオープンフィンガーグローブを両手に装着する。

「……?」

 メルヴシャーベはそんな様子を不思議そうに眺め、攻撃してこないならば幸いと自分の背中に指を突っ込み、弾丸を摘出する。
 そして音河は両手を軽く開閉させ、その後拳を握って両手に『ボックス』を作る。

「昔からそうだった……一番頼りになるのは銃でもナイフでもない……」

 さらに音河は利き足を軽く下げ、さらにその方向へと体を約4。5度傾け半身を取る。両手を顎の位置まで上げ、トン、トンと小気味良いリズムを刻むステップを踏む。

「さぁて、その超再生を加えるには、それ以上の攻撃を加えるか、君の脳を揺らすかしかない……かかって来いよ、十三」

 突き出した右手の中指を、メルヴシャーベへ向けてくいっくいっと振る。銃では出来ずとも、自分の肉体でならばそうできるといわんばかりに。

「キシャアアアアアアア!」

 その行為を侮辱と受け取ったのか、単に再生が終了したからなのか、メルヴシャーベは昆虫の節を持つ足だからこそ可能な前傾姿勢を再び取ると、同じように猛烈な勢いで突っ込む。

「舐めているじゃあないっ! 節足動物がっ!」

 音河の叫びと共に、グシャア、という自分の頬骨から下顎骨にかけての骨が砕ける音をメルヴシャーベは聞いた。

「!?!?!?!????」

「言ったはずだ。どんなに速かろうが、何度も見れば目も慣れるさ」

 突然の事で、何がなんだかメルヴシャーベには理解が出来なかった。メルヴシャーベに内臓されたイノベーターチップは、今起こった不可解な事象の確認作業の為にフル稼働する。

『武器を紛失し、脅威となる攻撃手段の無くなったターゲット(音河)が意図不明の行動を行った為、攻撃に移った。人間という種のデータからターゲットは本固体(メルヴシャーベ)の速度についてくることは不可能だと推察される。にも関わらず、ターゲットは本固体の動きを見慣れたと発言し、それどころか現在本固体は下顎骨中心に深刻なダメージを受けた。生じた頬骨その他の亀裂の形状から推察されるターゲットの攻撃手段は……である』

「シッ!」

 空気を吐き出しながら、音河がメルヴシャーベにも劣らぬ速度で迫る。
 そしてその高速の踏み込みは地鳴りを起こし、アスファルトの大地に足跡すら残す。
 踏み込んだ左足とは逆の、体重の楔から開放され抜け出し身体にトルクを加えるモーターと化した右足は、地面を穿つほどに高速で捻りを加えられる。
 そしてその捻りによって生じた円運動は、腰の回転によってさらに増幅され、さらに左拳を後ろへ引き抜くことによる振り子運動によって、さらに大きなエネルギーの一点集中と化す。
 紀元前648年には既に誕生していたというパンクラチオンから、19世紀にある程度の完成を見る近代ボクシングまでの歴史、おおよそ人類の格闘技の歴史である約2000年をかけて誕生した、人体の構造をフルに活用した『人類の必殺技』の一つ。

『繰り返す。本固体が受けた攻撃手段は『右ストレート』である。ただし、その威力は人間と定義される存在が発揮可能とされる衝撃を遥かに凌駕』

 メルヴシャーベの顔面にもう一撃、音河の拳が突き刺さる。

「シュウウウウッ!」

 音河は顎にダメージを受けたメルヴシャーベに対して、手を休めることなく攻撃を続ける。
 畳み掛ける嵐のようなワン・ツーが黒い異形の脳を揺らし、次は身体全体をうねらせ、拳を振りかぶることなく、厚板を打ち抜くようなイメージで放たれる左ストレート。踏み込んだ左足が、今度はアスファルトを完全に踏み砕く。
 アドレナリンが大量に放出されすべての光景がハイスピードカメラで撮影された映像に見えている音河には、たたき付けた拳が黒い異形の顔面を大きく歪ませたのが見えた。

『理解不能。人間という生物が生身で可能とされる戦闘能力を大きく逸脱。仮想的『人間』に対して際検討する必要あり』

 そんな状況の中で、唯一冷静にメルヴシャーベに搭載されたイノベーターチップは記録を続ける。
 そして音河は続いて身体を一瞬小さくちぢこませるようにかがめ、その反動でアッパーを放つ。次の攻撃にさらに繋げるために大振りにならないように意識しつつも、稲妻のようなアッパーを容赦なく心臓辺りへ放つ。
 さらにアッパーを放った腕を戻しつつフックを放つ。腰を回転させ小さく放ったそれは地味ながらも再び異形の顔面を歪ませる。それを受け異形はよろよろと後ろへ後退し、倒れそうになるのを踏みとどまる。だが、それは寧ろ倒れてしまったほうが彼にとっては幸運であった。

「オオオオオッ!」

 音河は雄叫びを上げながら、左フックを戻す。そしてその振り子運動を利用した全力の右ストレートを放つ。『グシャリ』という音がはっきりと音河の鼓膜を揺らし、緑色の血液の飛散が音河の網膜に映る。そして殴られた異形が腰から崩れ落ちると、昏倒し意識を手放す。

「もう一度言う! 舐めてるんじゃあないっ!」

 昏倒したメルヴシャーベに対して、今度は追撃することは無く、意識が戻るのを待つ。それは油断からではない。むしろそれよりも性質の悪い、しかし音河自身のアイデンティティの源、強さの根源であるといえる『傲慢さ』からであった。





 音河の傲慢さは、彼が育った環境による。

 音河釣人。フランスで生まれ育った彼の最も古い記憶は、生まれた数時間後まで遡る。
 その記憶とは、彼を蔑むような目で、わずらわしいものを見る目で自分を毛布で包んで、汚らしいバスケットにいれ、教会の前に放置する自分の母親らしき女性の後姿だ。そしてその時、彼が感じた感情は悲しさでも寂しさでもない、屈辱だった。
 母親に置いていかれるという、それほどまでに自分は価値の無い人間だと強制的に思い知らされたのだ。

 彼の屈辱は続く。

 彼が3歳か4歳になるころ、彼はいくつも自分より年上で、体躯も何倍もいい少年達に囲まれた。そして足腰が立たなくなり、熱が出て何日も寝込むほど殴られた。理由は、『親もいない貧弱な日系人のガキは、最高のストレスの解消相手』それだけだった。

 小学校に上がるころになると、クラスメイトの親や先生達が噂をしているのが耳に入った。
 曰く、売女の子供
 曰く、誰にも祝福されない子供
 曰く、ウチの子供と同じ空間にいることすら許せない子供
 もし、音河があまり利発でない少年であれば幸運であったであろう。しかし彼はそうではなかった。

 10歳になるころ、音河は大人の女性どころか男性ですら振り向くほどの美少年に成長していた。
 彼はある日、自分を育ててくれていた教会の神父に押し倒され、無理矢理組み敷かれた。それは何日も続いた。

 そして12歳になるころ、彼の人生に転機が訪れる。
 彼がいつものように年上の少年達 ―とはいっても最早何人かは成人していたが― に殴られていた。するとそこへ、一人の男が止めに来た。今思えば高校生ぐらいであったと思うが、その時の音河にはその男はとても大きく見えた。
 その男は両拳を顔の正面に掲げる所謂ピーカブースタイルと呼ばれる構えを取り、逆上してナイフまで出した音河を殴っていた者達を一瞬にして叩き伏せて見せた。そして音河を見てこう言ったのだ。『情けないガキ』と。

 悔しかった。生まれてからこの方、封印してきた『悔しい』という感情があふれ出してきた。理由は分からない。もしかしたらその男の『強さ』というものに憧れ、その憧れの対象から浴びせられた言葉だったからかも知れない。

 それから音河は自分を鍛えようと思った。最初は独学で、男のフォームを真似た。男は典型的なインファイターで、それ故に音河もそれを真似た。日系人である音河は、日本人としてならばやや大きめな身長であったものの、白色人種達と比べれば小さい。故にこの選択は意図せず正解であった。

 そして彼は数ヶ月の間、学校へ通うことも無く、教会へと帰ることも無く己を鍛え続けた。恐るべきことに、彼の直感的な独学の選択によるトレーニングは所謂根性論的な無理矢理な物ではなく、理論体系として適切なものであった。

 天性の才能もあったのであろう、彼の貧弱だった筋肉は鋼のように硬く、柳のようにしなやかなそれとなっていた。そして彼は最初に、自分を殴り続けていた不良少年のグループを襲撃した。
 彼らは最初、音河を見たとき誰か分からず戸惑ったが、すぐに『貧弱な日系人』だと分かるとニヤニヤと笑いながら殴りかかってきた。
その時音河は初めて、自分の才能に気が付いた。パンチがまるで鈍く見え、そして何故あんな千鳥足のような不安定なステップで殴りかかるのか彼らに聞いてみたくなる程だった。そして軽く、本当に軽く打ったブローは相手の腹部に鋭く突き刺さり、打たれた相手は目を回し泡を吹いて倒れこんだ。
 それを見た他の男達は、音河に一斉に殴りかかったが、全員音河が軽く放ったパンチで倒されてしまった。

 そして音河はこのとき、一種性的興奮にも似た快感を覚えた。
 力とは、すべてを圧倒する、我侭を押し通す権利であると、彼はそう実感したのだ。現在の彼の傲慢な性格の起点は、ここにあると言っていい。

 泣きながら謝る男達全員を二度と歩けない体にすると、次は教会へ行き、神父も同じ目にあわせた。
 そして家を飛び出すと外人部隊に入った。理由は当然、新たなフランス国籍を獲得するため。勿論すでに戸籍は持っていたが、彼は今までの、弱かった自分に類するもの総てを捨て去りたかった。年齢や戸籍と言ったものは誤魔化して入隊した。ちなみに『音河釣人』とは本名ではなく、彼がここで得た名前だ。
 彼の傲慢な性格は、戦場でさらに磨かれた。
 戦場はただ強いものが生き残り、弱いものが死ぬ場所ではなかった。勿論、弱いものと強いものでは強いものの方が生き残る『確立』は高かった。
 しかしそれ以上に、本当に兵士それぞれ個人の力量に因らない、『運』が良い奴が生き残り、悪い奴が死ぬ。音河はどんな戦場でも生き残った。
 彼は、自分が神に選ばれた存在であると錯覚した。

 そうした紆余曲折を経て、音河釣人という人間は形成される。このまま行けば、音河は全てを見下した人間になる。それは誰の目にも明らかだった。
 しかし、彼はとある人間との出会い、そう、山口十三との邂逅を経て、自分以外の人間の価値と言う物を認めることとなる。





「キィ……キィ……」

 クラッシャーを開閉させ金属がこすれるような音を立てながら、メルヴシャーベが立ち上がる。それを見た音河は、ダイヤモンド粉が入った指貫のグルーブをはめた手で、メルヴシャーベを指差す。

「はじめて会った時、僕は君に言いましたよね。『君は僕に勝っている部分は何一つない』ってね」

 人間である音河釣人が、メルヴゲフであるメルヴシャーベを見下ろす構図を取りながら、音河は距離を詰める。そして両拳で顔の正面、面中をかばうような、ボクシングでいうところのピーカブースタイルを取る。

「それをもう一度ようく叩き込んでやる。これは対等な戦いなどではない、僕がお前へと施す教育だ。もう一度お前が僕に勝っているものなど何一つ無いことを教えてやる」

 額と額が触れ合うのではないかと思わせるほど接近した人間と異形は一瞬、互いに足を止める。

「キシャア!」

 そして次の瞬間、意趣返しのつもりであろうか、それともその攻撃方法に何か特別な秘密でもあるのかと勘違いしたのか、見様見真似のワン・ツーがメルヴシャーベから放たれる。
 それを音河は、上半身を左右に振るウィービングを持って音河は容易く避けていく。

「容姿!」

 そのワン・ツーに対して、音河は二発目のパンチに合わせて自身は避けながらのクロス・カウンターを見舞う。

「学歴!」

 続けざまに左ストレート。

「才能!」

 今度は握っていた拳を開き、ボクシングの技では無い、古流武術や少林寺拳法などで見られる、小指から親指に向かって指を弾くように打つ『虎爪』もしくは『目打ち』と呼ばれる打撃をメルヴシャーベの複眼へと放つ。

「社会的地位!」

 左中段正拳。

「かわいい嫁と娘!」

 喉への貫き手。

「そして何よりも、プライド!」

 そして勢いのまま上段後ろ回し蹴りが、これ以上無いというほどに精確に決まる。軸足の足元から高速回転によって生じた黒い煙が立ち上り、むせるような臭いが立ち込める。

「それら全てが! 君は僕よりも劣っている!」

 そう叫ぶと同時に、音河の全身の穴と言う穴から血が噴出す。
 当然である。メルヴシャーベの身体は何度も言うように巨大な振動子である。それに素手による攻撃を仕掛けるという事は、回転するノコギリに自ら触れに行くに等しい。
 打撃の際のほんの刹那の接触。一回や二回ならば大したダメージとはならなかったかも知れない。しかし短い間隔の間で何度と無く繰り返せば、伝播した振動は音河の身体に細かい無数の穴を穿つ。
 そんな事は音河にだって分かっていた。しかし音河は、自らの身体に降りかかるダメージなど気にしてはいなかった。

「立てぇ! 十三ぉっ!」

 音河の叫びに発破を掛けられたかのように、うずくまっていたメルヴシャーベは、足に振動子を集中させて飛び上がる。
 空中から放たれる蹴りを音河は体を半歩ずらしただけで避ける。避けられた蹴りは地面に着弾し、アスファルトを灰に変える。

『理解不能。人間が人間の身のままに顕在させうることが可能な運動能力を遥かに凌駕』

 そして着地した片足を軸足に取り、メルヴシャーベは回し蹴りを音河に見舞う。しかし音河は肘と拳でその蹴りを掴みとり、そのまま押し潰す。

「きしゃあぁぁぁぁ!」

 足先から血を噴出しながら、挟まれた足を切断し、メルヴシャーベは急いで背中の翅を広げ空中へと逃げる。それと同時に、再び振動子による攻撃を受け止めたことによって、音河の肘先と拳の甲に抉られたような傷が出来る。

「逃がさないっ!」

 だが音河は自身に出来た新たな傷を厭う事などせず、全身から滝のような汗と血液を垂れ流しながら、人体にはおおよそ不可能な領域の跳躍を行い、メルヴシャーベの足を掴む。

「ギシュ!?」

 そしてその足を掴んだまま力任せに叩きつけ、大地へとリングを戻す。そして仰向けに倒れたメルヴシャーベに馬乗りになりマウントポジションを取ると、その首を左手で万力のような力で掴む。

「もう一度言う! 容姿! 学歴! 才能! 社会的地位! そういったもの全てが僕はお前よりも勝っている! にも関わらず十三、僕はお前に尊敬と言う概念を持って接してきた! なぜだか分かるかぁ!」

 マウントポジションを取るという事は、メルヴシャーベと音河の肉体が最大限に接触しているという事だ。当然、メルヴシャーベはここぞとばかりに振動を発生させ、その振動は容赦なく音河を傷つける。

「それは十三! そういったもの全てを持ち得ないお前が、それでも尚、それでも尚気高く無償で! 『正義』などという自己満足以外の何物でもない行為に全てを捧げていたからだ! その行為は! 学歴や才能や……力さえあれば全て手に入ると思っていた僕に! 新しい価値観をあたえてくれたからだ! そんなお前が!」

 振動はますます音河を傷つける。馬乗りになった足付近は、既に服は完全に破れさり、その下の皮膚をズタズタに切り裂き、筋肉を繋ぐ繊維は千切れ、その下の真っ白な骨すらも見えている。
 それでも音河は逃げない。

「そんなお前が、常に正義に! 他人に! この『what a wonderful world(この素晴らしき世界)』に! 敬意を払っていたお前が! こんなことでいいんですか!」

そう叫んだ瞬間、振動が止まった。そしてメルヴシャーベは一言だけこう言った。

「……後ハ頼ンダゼ、音河」

「うわぁぁあああああああああああっ!」

そして音河の下段突きがメルヴシャーベの頭部を完全に叩き潰した。頭を潰した拳は、その下敷きになっていたアスファルトに型すら残した。





「ふぅ……糞、足の筋肉がやられたせいで立てやしない」

 そう音河は悪態をつくと、匍匐前進で横倒しになっていたブラストチェイサーまで移動し、後部のボックスから予備の携帯電話を取り出す。そしてあらかじめ登録しておいた、ICPO日本支部へと連絡する。

「もしもし、僕です。スミマセンがすぐに衛生班をよこしてもらえませんか?ちょいと予想外のダメージを受けまして、はい。……ええ、両足の筋肉が抉られちゃって、立つことも出来ないんですよ、物理的に。ええ、急いで。場所は……」

 そこまで言いかけた音河は突然、腹部に強い衝撃を受ける。何物かに蹴り飛ばされ、猛烈な勢いで壁に衝突する。

「ガハッ!? だ、誰だ?」

 そういって自分が蹴り飛ばされた方向を見る。するとそこには『頭部が潰されたままのメルヴシャーベ』が佇んでいた。

「ば、馬鹿な! 頭を潰されて生きている生き物など存在するはずが……」

 そこまで言った音河は、ある一つの可能性に気が付く。

「『食道下神経節』か……」

 ゴキブリの胸部には『食道下神経節』という四肢のコントロールを行う機関が胸に存在する。所謂『頭がなくなってもゴキブリは死なない』というのは、頭が潰れてもこの機関が健在であれば、ゴキブリは動き続けるためそう勘違いされるのだ。
 そして、音河は今迄の出来事に全て得心が行った。十三のリミッターは、この『食道下神経節』に取り付けられていたのだ。
 だからこそ、『仮面ライダーFAKE』から『メルヴシャーベ』へと変化した際、最も大きく上昇したのはスピードであったし、メルヴテュルカイの催眠に『脳』は催眠にかかっても、『食道下神経節』は催眠にかかることなく、敏感に周囲の動きに反応して見せた。

「くそ……それにしたって脳が砕けても動くとは……誤算だった……砕くべきは胸だったか……」

 そう音河は言い捨てた。
 そして閉じゆく彼の瞼に移ったのは、頭部を再生させながら拳を振りかぶるメルヴシャーベの姿だった。

「油断しすぎた……」

 みしり、という音をたてて音河の肉体が、寄りかかった壁にめり込む。そして暫くすると寄りかかったままぴくりとも動かなくなった音河の足元に、赤黒い水溜りが出来る。
 それを再生した頭部に出来た新しい目で見た『黒い異形』は、特にこれといった反応を見せることなく踵を返す。

『目標ノ活動停止ヲ確認、北西200mニ人間ノ反応ヲ多数確認。攻撃ニ移ル』

 そういうと、その場から姿を消した。






 大きなスクランブル交差点の信号が赤から青に変わると、大勢の人々が一斉に歩き出す。老若男女、様々な年代、性別の人々が家へと帰るべく足を進ませる。

「ああ、うん。へぇ、メバルが釣れるんだ。うんうん、楽しみにしてる。それじゃ」

 塾帰りらしき中学生ぐらいの少年が、友人からかかってきた電話を打ち切って、ケータイをカーゴパンツのポケットへ仕舞う。私立の進学校へと進んだこともあって、疎遠になっていた昔の友達からの電話とあって心を躍らせ、そのせいか家への足取りが軽い。

「ゆーめーわだーつとーきそらに〜」

 加えて、今日帰ってきたテストの結果が非常に良好だったことも手伝って、ついついお気に入りの曲を口すさんでしまう。
 むかしからそうだった。何故かいいことは起こるとそれが二重・三重に重なるのだ。
 その時だった。グシャリ、という音が聞こえ、少年がそちらを振り向く。道を急いでいた人々も同じように足を止め、そちらを振り向いた。
最初は何か分からなかったが、徐々に『それ』の輪郭がはっきりし始めた。そう、つい4年前から現れ、人々を恐怖のどん底に陥れた存在。

「未確認だ!」

 誰かがそう叫ぶと、人々は蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。車に乗った者たちは一斉にアクセルを踏み、車同士の接触事故が相次ぐ。同時に走り出した人の波に呑まれ、多くの人がケガをする。
 そしてその未確認 ―メルヴシャーベ― の一番近くに居た少年は、その迫力に腰を抜かす。自然に涙が溢れ、尻餅を付いた体を支える腕がガクガクと震えだす。

(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない!)

 心の中でそう叫ぶが、とても声が出ない。恐怖のあまりどうしようもなく、彼はただ目をギュッと瞑った。

「目標、多数確認。コレラニ対シテモ排除活動ヲ行ウ」

 そう機械的な音声をその黒い異形は発すると、一番近くに居た少年へ手を振り上げる。その時だった。

パシャ!

 目を瞑った少年の頭に、水が降りかかった。冷たくて心地の良い清流だった。

「キシャァアアアア!?」

 続いて聞こえたのは、その黒い異形が発した奇声。恐る恐る目を開けて、上目遣いで異形を見やる。すると、そこには左腕を吹き飛ばされた黒い異形が立っていた。

「立てる?」

 そして突然、まるで瞬間移動して現れたのかのように、隣に自分よりいくらか幼い、おそらく小学生ぐらいだろうか?それぐらいの男の子が少年に声を掛けた。

「え、うん、あ、ありがとう」

 その『小学生くらいの男の子』は少年の手を引っ張って起こす。その『男の子』は当然『少年』よりも幼い容姿だったにも関わらず、何故か少年には自分よりももっと大人びて、というより、学校や塾の先生よりも大人に見えた。

「そうか。じゃあ、ここから逃げたほうがいい。ここは戦場になる」

 そういって、ニコリと笑って見せる。少年はその『男の子』に君はどうするのか、と聞こうとしたその時だった。けたたましいサイレンと共に、大型のトレーラーがメルヴシャーベの陣取るスクランブル交差点の中心へと進入してくる。

「SAULか……速いな、流石に優秀だ」

 そしてそのトレーラーのコンテナから、3人の男達が降りてくる。みな、科学技術の粋を集めた現代の鎧、ダークブルーに金のライン、二つの眼が赤く輝く鋼の強化装甲服、音河もかつて装着し戦闘を行った『G5』を一様に着込んでいる。人類の平和を脅かす未確認生命体に対する人々の盾として組織された『SAUL』の正式装備だ。

「何をしているんだ! 早く逃げなさい!」

 降りてきたG5隊の隊員の内一人が此方へ向かって走ってくる。
 まずは一般市民の避難が先だというわけか、感心だ、などとその『男の子』、マツモト・リョースケは心中で笑う。

「はいはい、じゃあ逃げようか」

 と、指示された通りにマツモトは少年を連れ立って逃げる振りをする。
 そして見えなくなったところで少年と別れると、近くのビルの屋上へと瞬間移動し、G5隊とメルヴシャーベの戦いを見物する。

「あれは……まさか『未確認生命体第F号』か!?」

 そして一方、メルヴシャーベを見たG5隊の隊員一人が驚いたように言葉を口にする。余談だが、この国で山口十三こと仮面ライダーFAKEは『未確認生命体第F号』としてナンバリングされ、何度かSAULと交戦している。無論、十三が人を襲っていたという事実は無く、幾つかの彼特有の不幸が重なった結果である。

「ケッ、随分体がでかくなったじゃねぇか」

 G5は搭載された、装着者によって機体のサイズを変更可能な『オートフィット機能』により強化服の上からでも装着者の体躯がある程度分かる。そしてその内の、大柄なG5隊員は忌々しげな様子ではき捨てる。

「油断するなよ、前回の交戦データでは大した戦闘能力は無いことは分かっているが、この様子だとどうなっているか分からん」

「おう」

「フォーメーションで仕留める。行くぞ!」

 三機のG5のうち、二機は手に持ったG5用アサルトライフル『GR-12サジタリウス』をフルバーストで発射し、弾幕を張る。しかし、メルヴシャーベは文字通り『目にも留まらぬ速さ』で、二機の視界から消える。

「消えやがった!?」

 G5隊員の一人が驚愕しセンサーで周囲を探る。

「標的、レッドゾーン内……へ!?」

 センサーが示した位置は、その隊員のすぐ真後ろだった。

「菅野ッ! 危ないっ!」

 メルヴシャーベのカッターが振り下ろされそうになったそこへ、G5用サブマシンガン『スーパースコーピオン』を持った隊員がすかさずフォローする。
 三点バーストで発射されるも、一発も影にすら着弾することなくメルヴシャーベは悠々と逃げ延びる。

「っと、羽田、助かったぜ。しかしどうなってんだF号の野郎、データとは比べ物にならないぞ!」

 安堵のためか、隊員二人は一瞬気をそらす。その次の瞬間だった。僚機と同期したセンサーが警報を鳴らす。発信源は三号機。ふとそちらを振り返る。

「羽田……菅野……逃げろ……コイツは……化け物だ……かな……わない……」

「佐橋ィィィィィッ!」

 1秒に満たぬ時間、ほんの気をそらした瞬間、G5隊員の一人が全身から火花と血液を散らしながら、ゼンマイの切れたおもちゃのようにガシャリと音を立てて倒れる。
 そしてその倒れた影に重なるように、メルヴシャーベが姿を現す。

「野郎!」

 逆上した隊員の一人がサジタリウスを乱射する。だがそれは先ほどと、そして音河がやった時と同じように一発も当たることもなく、アスファルトやビルの窓ガラスを傷つけていく。

「羽田! 今のうちに佐橋を! まだ息はある!」

「分かった!」

 だが、その乱射も敵に当てることが目的ではなく援護の弾幕である。とりあえず倒れた隊員をトレーラーまで運ぶことが先決だ。

「来い化け物!」

 弾幕を張っている隊員は勇ましく叫び、注意を自分に引こうとする。当たらなくてもいい、とりあえず動きを封じることが出切ればいい。そう思った矢先、メルヴシャーベの姿が消えた。

「なっ!」

「キシャア!」

 そして次の瞬間には、メルヴシャーベは自分のすぐ正面に立っていた。隊員は苦し紛れにサジタリウスの銃底で殴りつけ、それをメルヴシャーベは腕で受け止める。しかし。

「なんだこりゃあ!?」

 殴りつけたサジタリウスは、メルヴシャーベに触れた先から砂のようにボロボロになっていく。振動子を発生させたメルヴシャーベは、腕に振動を集中させ強力な振動波をサジタリウスに伝播させたのだ。

「くそったれぇ!」

 そういうと、G5の左腕に収納されている電磁ナイフ『GK−06ユニコーン』を引き抜いて切りかかろうとするが、それよりも早くメルヴシャーベのパンチがG5の腹部に突き刺さる。

「……」

 殴られた隊員はうめき声一つ上げることなく、体を『く』の字に折り曲げた後、最初にやられた隊員と同じように全身から火花と血柱を上げながら膝から崩れ落ちる。

「菅野までっ……! 俺達三人がこうもやられるとは、コイツ、並みのメルヴゲフじゃあない……」

 負傷した隊員をGトレーラーまで運び終わった隊員は、目の前の光景に愕然とする。
 SAULが設立されてからこちら、このチームで何体もの未確認を倒してきた。そこから生まれた歴戦のチームと言う自覚と誇りは、ほんの一分も立たないうちに崩れ去ってしまう。

「くそっ!」

 自身の死を明確に意識しながら、彼はもう一度スーパースコーピオンを構え発射する。当たらないとは分かっていながらも、そうすること以外どうしようも無かったのだ。

「キシュシュシュシュッシュッシュ!」

 そんな必死な様子を嘲笑うかのような奇声を上げ、メルヴシャーベは弾丸を避けながらあっという間に間合いを詰め、足払いを仕掛ける。

「うわっ!?」

 接近され、足払いによって転ばされてみっともなく尻餅をついたG5隊員のカメラアイに移ったのは、腕に振動を集中させ自分に殴りかかろうとしている姿だった。

(死っ……)

ズガン!

 轟音が響いた。
 何時までも衝撃が伝わってこないことに疑問に思った隊員は目を開ける。そこには、先ほど自分が非難なせた男の子、マツモト・リョースケがその拳を正面から受け止めていた。

「君は……?」

 驚きのあまり、そういうのが精一杯だった隊員に対し、マツモトは振り向くことなく淡々と、その幼い容姿に似つかわしくない口調で答える。

「自分は先日、極秘裏に結成された陸自の対『怪人』部隊、『MtM』の松本良輔二等陸佐だ。現状を分析した結果、この場はSAULの想定範囲外と判断した。ここは自分が引き受ける。撤退しろ」

 そういいながら、マツモトはメルヴシャーベを蹴り飛ばす。吹き飛んだメルヴシャーベはビルに衝突し、壁面を砕き、瓦礫の山に埋もれる。

「陸自の特殊部隊!? そんな話は聞いていない! それに君はどう見たって……それに現場に二佐クラスが出てくるわけが」

 突然の出来事に混乱し、隊員は大量の疑問を一度にぶつける。

「すぐに部隊について正式な連絡が届くはずだ。加えて自分は一種の染色体異常と甲状腺機能低下症でな、エロビデオ一つ借りるにも苦労する。階級については触れないでくれ」

 それらの疑問に対して、マツモト、いや松本は全く見た目にそぐわない、しかし実年齢通りの威厳をたっぷりに含んだ口調で丁寧に還す。

「そ、そう言われても……はっ、はい、了解しました」

 さらに疑問を付け加えようとした隊員に、本部からの通信が入る。それは松本のいった通り、本部からの撤退の指示と、怪人に対しては松本に一任するように、との命令だった。
 それを聞いた隊員は、すぐさま態度を改める。

「はっ! 了解しました。SAULはこれより本件に関する捜査権限を放棄、MtMに一任いたします!ご武運を……くっ」

 そう内容自体は素直なそれだが、口調には自分の仲間達を倒した相手を目の前にして、逃げることしか出来ない歯がゆさと、理不尽な嫉妬だとわかってはいるが、目の前の子供に対する様々なマイナスの感情が篭っていた。
 それを松本は汲み取ったのか、こう付け加える。

「了解した。……警部補、そう悔しい顔をするな。君と同じ感情を我々は、4年前のアンノウンの研究所襲撃で味わっている。その思いをバネに我々は再び力を蓄え、こうして立ち向かうことが出来るようになったのだ。君達も今回を教訓に再び強くなれ!」

『まぁ、その為にメルヴゲフのような化け物を何体も作り出し、数え切れない程の人間を犠牲にしたがね』とは付け加えず、心の中で留める。そんなことを知る由もないG5隊員は、びしりと松本へ向けて敬礼する。

「ハッ! 肝に銘じます」

 晴れやかな声でそう返答する。

「ああ、それとちょっとした業務連絡だが、今回の事件は他言無用だ。事件そのものはSAULが解決したことにしてくれ給え。上層部に話は言っている筈だ。当然、貴官が自分と会った事についても閉口令を敷く。もし、守られぬ場合は懲戒免職、最悪の場合は実刑も免れぬものと思ってくれ」

「っ! 了解しました!」

 そういうと再び松本へやや動揺した様子で敬礼し、G5隊員は撤退した。

「さてと、僕が前線に出るならば今回の任務の成功は確実、なんて信頼してくれるのは嬉しいんだけど、ちょっと見切り発車がすぎるんじゃないかな、ヤマシタめ。いくら根回しの方は殆ど完了しているとは言え、この段階で僕らが『公機関』として活動を始めるのは……」

 完全に隊員の姿が消えたことを確認すると、松本の口調がいつもの軽薄なそれになる。最も、今迄の口調が演技か、そしてこの口調が素かといわれれば違うのだが。

「まぁ、スカルスコーピオンが壊滅し、ヴァジュラの動きも活発になっている。なんでもスマートブレインを襲撃するだとかいう噂まであるし……それに「エニグマ」の日本上陸も間際だと聞く。スケジュールを早めたほうがいいのは確かか。それにしてもICPOでのコードネームをそのまま僕らの正式名称にしてしまうなんて、本当にアイツ、人が悪いよなぁ。あ、人じゃなかったか」

 と、一人で呟きセルフツッコミを入れる。そうしていると爆音が明後日の方向から轟く。

「やれやれ、やっと目を覚ましたのかい。強く蹴りすぎたのかと思って心配したよ」

 その音がした方向へと顔を向けると、瓦礫を派手に吹き飛ばし、瓦礫の山の中からメルヴシャーベが復活する。

「キシャアアアアアアアアッ!」

 突然の乱入者に二度も獲物を奪われ、さらに自分の自慢の一撃を苦も無く受け止められ、さらに強烈な蹴りを浴びせられたことに怒っているのか、クラッシャーを全開に広げ、体を震わせながら松本へ向かって咆哮する。

「醜い姿だね……」

 そんな様子を見た松本は、言葉通り醜い物を見下すような口調で呟く。

「いや、外見の話じゃないさ。君は、山口十三にはルールがあった。正義の為に戦い、その戦いに一般人は決して巻き込むことを良しとせず、そしてその行為に対しての代価は決して、そう、単なるあどけない笑顔であっても受け取らないという徹底したルール。そのルールを守ろうとする姿は、真に美しかった」

 メルヴシャーベに対して語りかけるような口調で、松本はしみじみと語る。その時だった。突然、メルヴシャーベのそれではない、機械的に合成された女性のような音声がメルヴシャーベから発せられる。

『警告! 前方のクラッベタイプのメルヴゲフに告げる。本固体は他のメルヴゲフと戦闘を行う任務を帯びていない。作戦目的を明確に提示し離脱されたし!』

 そう言われた松本は、驚いた顔を作ると残念そうに頭を掻く。
 勿論、ヤマシタからイノベーターチップの停止コードは教えてもらっているし、そうすればスマートな回収が可能だ。しかし少なくとも松本には今、戦う理由があった。

「う〜ん、作戦目的かぁ。そうだな、『ルール』を守ろうとしない相手へのペナルティって奴かな」

 そういうと、松本の全身が水に包まれ、そしてその水が弾ける。
 その後には少年のような松本の姿は無く、薄いグリーンと霞みがかったホワイトに彩られた強固な装甲を持ち、両腕は歪な形をした鋏。その重厚な装甲と両手の得物とは裏腹に、スレンダーなシルエットを持つ史上最強の蟹メルヴゲフ、イノ・クラッベがたたずんでいた。

『敵対意思有りと判断、排除します』

 感情の篭らない淡々とした声で、イノベーターチップがメルヴシャーベの声帯を使いそう告げると、メルヴシャーベはお決まりの前傾姿勢を取り、一瞬でイノ・クラッベの視界から消える。

 フッ…と風が吹いたかと思うと、轟音が響いた。

「ギシャア!!」

「くっ、スピードだけは一人前か!」

 メルヴシャーベの突きを、イノ・クラッベは鋏を使って間一髪で受け止める。その膂力自体は貧弱で、イノ・クラッベの装甲ならば何の問題も無く受け止められる攻撃だ。しかし、その突きを受けたクラッベはひざを着く。

「……振動子による攻撃っ! 触れるだけでこうも!」

 そう苦悶の声を漏らしながら、イノ・クラッベは鋏を振り払いメルヴシャーベを弾く。猛烈な勢いで弾かれるも、メルヴシャーベは空中で翅を開きホバリングすることによって激突を避ける。
 そして一方、振り払ったイノ・クラッベの鋏には、一本の亀裂が入っていた。

「出来れば近づきたくない、か。ならっ!」

 そう呟くと、右鋏を左上へと掲げる。するとクラッベの鋏に水が纏わり付いていく。

「オール・ブルーズ!」

 必殺の叫びと共に、水を纏わせた右手をメルヴシャーベへと振るう。まさに豪腕といった膂力で開放された右手、それに纏わりついた水は高速で四方八方へと飛散し、水滴は大口径のショットガンと化す。

 ガガガガッ!

 そしてその水弾は、無人のビルやシャッターへ無数の穴を穿つ。それらは単に穴を作成しただけに留まらず、着弾の衝撃が建造物を支える支柱を破壊し、次々と建物を崩壊させていく。

「どうだ!?」

「キッシャアアアアアア!!」

 だが、メルヴシャーベはその倒壊する建物群が上げる砂煙の中から、四肢の一部を欠損させながらも突っ込んでくる。

「コイツ、傷みを感じていないのか!?いや、脳は感じているが、神経節が肉体をコントロールしているのかッ!」

 そして足首の先が損失した左足で、大地を踏みしめ空高くジャンプする。

「キッシャアァ……」

「飛んだ!?」

 さらに空中で口のクラッシャーを展開させ、そこから高温高圧の蒸気が立ち上る。激しい運動と高速振動によって上昇した体温を下げるための廃熱だ。そして姿勢を変え、足先に振動を集中させる。
 そしてその振動を集中させた足先をクラッベに向け、猛烈な飛び蹴りをイノ・クッラベに浴びせる。

「避けっ……!?」

 そのとき、避けようとしたクラッベの目の端に、茶色い物体がうごめくのを捕らえる。その『茶色の物体』の為にクラッベは避けることが出来ず、その蹴りをまともに浴びる。

ドガァァァァァァン!

「ぐあっ……!」

 イノ・クラッベの肉体に、イノベーターへと変化してから此方、初めて感じる強烈な痛みが走る。両腕を交差させて飛び蹴りを防いだものの、APSFDS(戦車用徹甲弾)にすら身じろぎしないクラッベの身体が砂埃を上げて後退し、ビルへと押し付けられる。
 さらに押し付けられたビルと、両足を基点に蜘蛛の巣状の亀裂が放射状に走り、地面が沈みビルが崩壊する。雪崩落ちる瓦礫がイノ・クラッベへと降り注ぎ、その体を埋めていく。
 そしてメルヴシャーベは蹴りの反動を利用して倒壊するビル片から逃れ、くるくると着地する。

「……」

 メルヴシャーベは瓦礫の山へとちらりと目を向けることもせず、踵を返す。しかしその時だった。

バシュ!

 一閃の水流が迸り、メルヴシャーベの腕を吹き飛ばす。驚いて振り向くと、そこには瓦礫の山の頂上に雄雄しく立つ、イノ・クラッベの姿があった。そしてその腕には何故か、茶色いモコモコとした物体の正体、子犬が抱えられていた。

「どうした? 僕が生きているのがそんなに不思議かい? 僕を単なる特殊な性癖を持ったカニの連中と一緒にしてもらっては困る」

 全身の装甲の隙間から緑色の血液を垂れ流しつつも、余裕のある声色でイノ・クラッベはメルヴシャーベを挑発する。

「キシャ!」

 その挑発に乗ったというわけではないだろうが、メルヴシャーベはくるりと体の向きを変え突進する。

「さて、遊びはここまでにしておくかな」

 そうイノ・クラッベは呟く。だがそんな事は気にせず、メルヴシャーベは勢いのまま隻腕をクラッベの顔面に叩き付けた。

 グシャリ。

「キシュウァ!?」

 疑問を込めた叫びを上げ、メルヴシャーベが悶絶する。叩きつけられたクラッベの顔面には傷一つ残っておらず、代わりに叩きつけたメルヴシャーベの拳が砕けている。
 そして悶絶するシャーベを尻目に、クラッベは淡々と語り始める

「やれやれ、いいかい、もう君には僕の装甲を穿つことは出来ない。今の一撃を受けて分かった」

 そうクラッベが話している内に、メルヴシャーベの全身の傷が再生していく。先ほど吹き飛ばした腕も、もう生え変わっている。そんなシャーベの姿を見て、納得したようにクラッベは頷く。

「ふーん、成程。どうやら君は、リミッターで力を抑えている分の力が開放されたとき、押さえ込んでいた力が余剰分として上乗せされるのか。さっき人間に潰された頭が再生していたのを見た時は疑問に感じていたけど、これで納得がいったよ。いくらシャーベ(ゴキブリ)タイプのメルヴゲフと言えど、頭を潰されては再生は難しいからね。それにいくら振動子による破壊が強力とはいえ、ビルを倒壊させられるほどの威力だって出ないはずだからね。だけどリミッターで押さえ込んでいた役10年分のパワーが加味されているとすれば、それも道理だ」

 そう語りながら、小脇に抱えていた子犬を放す。先ほど倒壊したビルの間に、ダンボールに入れられ捨てられていたらしい。甘える子犬を振り払い、クラッベは再生が完了したメルヴシャーベと向き合う。

「さて、話の続きに戻ろう。なぜ今、装甲の隙間から血を垂れ流している僕が、君に勝てると確信できたのか……」

 そう淡々と話し続けるクラッベ目掛けて、メルヴシャーベは振動を集中させた腕部のカッターで切りかかる。

「それはね、『山口十三』はルールを守る人間だった、しかし今の君はただのケモノだ、ルールなんてある筈も無い。もしも君が『人間と抵抗するものだけを殺す』というルールを遵守することが出来たならば、僕を倒すことが出来たかもしれないけれどね」

 切りかかったカッターが折れ、刃が宙を舞う。そしてその折れた刃は、先ほどクラッベが何故か守った子犬のすぐ傍へと落下する。

「いいかい、『ルール』とは、掟と読み替えてもいい……『掟』とは鎧だ。常に自分を縛りつけ、動きを制限し、体に重くのしかかり付加を掛け続ける」

「キシャアアアアア!」

 ならば、と言わんばかりにメルヴシャーベは雄叫びを上げると、猛烈なラッシュを見舞う。だが、イノ・クラッベはピクリとも動かない。

「しかしだ、その頑丈な『鎧』は、時に外からの攻撃に対して、硬く身を守ってくれる……今迄自分を律してきたその『掟』は鋼の精神を構築し!外からの理不尽かつ無秩序な暴力に対して! 鉄壁の防御を構築する! 今このようにな!」

「キイ!」

 メルヴシャーベは今、一種の恐怖とも言える感情を味わっていた。
 先ほどまで通じた攻撃が、何故か突然、一切通用しなくなったのだ。無論、センサーが感知するイノ・クラッベの戦闘力は先ほどまでと変わってはいない。しかし、この全身に刺すように感じる圧迫感はなんなのだ?

 それは、ただの本能しか持ち得ないメルヴシャーベと、1と0でしか判断不可能なイノベーターチップには、永遠に理解することが不可能な力。
 それは先ほど、ICPOの捜査官に人間にはおおよそ出すことが不可能な戦闘力を与え、今目の前のクラッベタイプのメルヴゲフの装甲を強固なものへと変えた力。

 あえて古典的な呼び名を関するならば『心の力』。自分自身を支えてきたプライドが、己の人生を律してきたルールが、物理的に可能な限界以上の力をあたえているのだ。

 それは単なる根性論ではない。
 生理的な領域での話ならば、過剰に分泌される脳内麻薬が筋肉と感覚のリミッターを外し、打撃の一撃一撃が問題にならぬほどに筋肉が硬質化する。
 量子的な領域での話ならば、未だ決定されぬ勝利への確立を、強い認識によってより顕在化させ、物理的に装甲の強度が上昇する。

「そう、『掟』とは『理』。決して単なる理不尽や自己満足による力ではない。一種の論理性に基づいた、一つの必然!」

 そう叫ぶと、最早攻撃のためではなく己の恐怖心を和らげるために攻撃し続けていたメルヴシャーベを、腕をふるって吹き飛ばす。

「そして今度は攻撃という形で君に『理』の力を見せよう」

 そういうと、右の鋏を180度真っ直ぐに開く。そしてそこへ、水が集まり水によって構成される巨大な鋏が出来上がる。

「『鋏』はその刃で切るんじゃない……二つの刃を繋ぐ番が支点となり、刃の長さがモーメントを生み、作用点で爆発的なせん断力を生む!」

 その巨大な鋏を見たメルヴシャーベは、その巨大な複眼を白黒させ、生物的な生存本能に従い『撤退』を選択する。

「逃がすか……蟹がぁ! いつまでもぉ! わけの分からん! 性癖持ちのぉ! ヘタレで甘んじていると思うなぁ!!」

バシュウッ!

 巨大な鋏が振るわれる。巨大な二本の刃は、イノ・クラッベの右腕よりも高い位置にある物体の存在を許さず、半径50mに渡って大規模な破壊をもたらした。
 そして閉じられた鋏の先端には、メルヴシャーベから抉り出された『イノベーターチップ』が器用につかまれていた。そのイノベーターチップにはメルヴシャーベの内臓が幾つか付着しており、それらは体内から抉りだされたというのに元気に波打っていた。

「やっぱりね、これだけ生命力が強くなっている状態なら、無理矢理抉り出したって他の臓器と一緒に取り出せば、臓器は生き続け生態電流はイノベーターチップへと供給され続ける……ミッション完了だ」

 そう呟くと、イノ・クラッベは蟹の怪人の姿から、人間・松本へと変身を解く。そして懐から取り出した専用のケースに、イノベーターチップを内臓ごと入れると、すたすたとメルヴシャーベが逃げていった方向へと歩んでいく。

「まだ息があるのか……」

 そういって松本が見下ろした先には、上半身と下半身が泣き分かれになった上、心臓付近がごっそり抉られ、それでも息のあるメルヴシャーベ、否、変身が解けた『山口十三』の姿があった。

「せめてもの情けって奴かな……」

 そういって松本が手を振り上げたその時だった。

 キィン!

 金属音が響き、紙一重で飛んできた『何か』を松本は避ける。地面に刺さったそれは、紛れも無く一般家庭用の『ハサミ』だった。

「松本良輔……」

 すると突然、今迄ここには存在しなかったはずの第三者の声が響く。その声がした方向へと松本は思わず振り向く。そこには、黒ずくめに白いギターを背負った男が立っていた。

「何物だい? 僕を知っているとは……」

 松本は思わず問いかけると、その男はその問いに淡々と答える。

「よおく知っているさ、メルヴゲフを率いる謎の秘密結社『MtM』所属のナンバー2、カニのメルヴゲフで闇の世界でも屈指のハサミ使いだって話だ」

「ま、まさか君は……」

 そう、感嘆や歓喜にも似た呟きを松本は放つと、一瞬ニヤリと笑い、地面に刺さったハサミを広い男へ向かって投げつける。
 風を切って飛ぶハサミを男は、いとも感嘆に二本の指で挟んで受け止める。

「だが……日本じゃあ二番目だ」

「君は……『伝説の白い鳥人』! 『アオ』! 『第三の男』! ククク、まさかこんな所で立ち会えるとは思わなかったぞ!」

 そう叫ぶと松本は右腕だけを鋏へと変化させ、男へと切りかかる。男は指で挟んだハサミを持ち変えると、分厚い鋼鉄すら鋏み切る松本の鋏と互角に打ち合ってみせる。
 そして二人の影は空中で数合打ち合い、何合目かで一際甲高い音を立てたかと思うと、同時に着地する。そして数瞬置いて、松本は自分のポケットを探る。するとそこには、見事な切り絵と化した松本のハンカチが入っていた。

「この技量……間違いない! はじめまして、そして何の用だい、風見志郎!」

 松本は男に向かってそう叫ぶ。その黒ずくめの男、風見志郎は人差し指でテンガロンハットをクイッと持ち上げると、松本を見てニヤリと笑って見せる。

「ヒュウ、そう叫びなさんな。ま、今はアンタ達とやりあうつもりは無いさ。ただ俺はそこに寝転んでいる男を助けに来ただけさ」

「そちらにやりあうつもりが無くとも……いや、いいよ。別にもうその男は何の障害にもならない。もって行きたければもっていけばいい」

 そういうと自分の腕を鋏から人間のそれに戻し、ポケットに両手を突っ込む。

「ただ一応、忠告しておくよ。もうその男は使い物にならない。『仮面ライダー』としてね。だから僕はもう留めを刺そうとは思わない」

「どうかな? 人間ってヤツは、敗北から蘇ったとき強大な力を発揮するもんだぜ?」

 松本に対して、風見は自身たっぷりに返答してみせる。それを聞いた松本はにやりと笑ってみせる。

「ならば一応こういっておこうか、『覚えていろ』とね」

 それだけいうと松本の身体は水に包まれ、そして弾ける。弾けた後に松本の姿は残らず、後には黒服の男が二人、夜明け前の最も暗い夜の闇へ吸い込まれていった。








つづく


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