『もう手遅れだ』それが、男を救出に来た隊員達の率直な感想だった。
I CPOからの緊急連絡を受け、連絡のあったICPO捜査官の救出に来た『陰陽寮』の隊員達の目に映ったその捜査官を表現するのに『重体の怪我人』だとか『満身創痍』といった人間を形容するような例えは適切でなく、むしろ『無残な骸』だとか『ヒトガタに固めた挽肉』といった、損壊した死体を指すような言葉が適切であるように思われた。
 鎮痛な面持ちで隊員の一人が無駄だと思いながらも捜査官の意識を確認しようと、その『ひき肉』に近づいたその時だった。

「え?」

 ピクリ、と捜査官の指先が動いたように思えたのだ。
 急いで捜査官に呼びかける。

「音河さん、大丈夫ですか!? 分かりますか!?」

 興奮した様子で隊員はその捜査官、音河釣人に尋ねかける。意識の確認は救急の基本だ。

「問題……ありません……」

 息も絶え絶えだが、しかししっかりとした返答が返る。
 それを受け隊員は脈拍と呼吸の確認に移る。いずれも弱弱しく、危険な状態だ。喋るたびに砕けた歯が彼の口内を傷つける。

「担架だ!それと渡辺隊長を!」

 隊員は振り返り、他の隊員へ指示を飛ばす。その時、隊員は自分の肩に違和感を覚えた。

「それも必要……ありません……それよりも……敵は……十三は何処ですか?」

 隊員の肩を掴んだ音河の目は虚ろなそれから徐々に光を取り戻し、言葉も聞き取りにくいそれからしっかりとした発音へと変わっていく。その様子に一瞬、救出に来た隊員は安堵するが、改めてその異常さに気が付く。

「な、何を言っているんですか。その状態で戦いなんて無理ですよ。も、勿論命に別状はありませんが」

 吃音しながらも、隊員は作り笑いを浮かべながら音河を静止しようとする。命に別状は無いといったが、勿論それはウソだ。
 むしろ隊員には音河が何故、未だその意識を現世に繋いでいられるのかが不思議だった。
 音河の身体は目、耳、鼻、さらには全身の毛穴。人体のうちおおよそ『孔』と呼称可能な部分からは全て血液が流れ出しており、そこから 流れ出した血液の量は、失血死に至るに十分な量であろう2リットルを十分に超過しているように見えた。
 そもそも耳の穴から出血があるということは、脳に大きなダメージを受けている可能性が大きい。後遺症の類は間違いなく残るはずだ。
 また、両足の太ももの部分は肉がこそげ落ちており、そこからは真っ白な骨さえ見えていた。物理的に立ち上がることすら不可能であろう。

「意識も……ある。命に別状も……無い。ならば戦士が向かうのは……戦場。そうでしょう」

 音河はそういうと、立ち上がろうとする。

「な、なにやってるんだ、止めてください! アンタ、自分の両足がどうなってるのか見えないんですか!?」

「貴様ら凡人と、僕を一緒に……するな!」

 そう叫ぶと、音河は立ち上がった。音河の両足の筋肉は断裂しているはずなのに。

「な……馬鹿……な…」

 あっけに取られている隊員の肩を締め付けるようにつかみ、音河はその丹精な顔を血に塗れさせながら、すごんで見せる。

「もう一度だけ聞く! 十三は何処だ!」

「ひ……」

 血に塗れて尚、美しい音河に怒鳴られた隊員は、立ち上がった音河とは逆に尻餅をついてしまう。

「まぁいい……自分で探しますよ」

 筋肉が断裂しているはずの両足で、音河は一歩、二歩とその足を進める。
 精神が肉体の限界を凌駕する、それは呪術や魔術といった精神的なエネルギーに由来する技術で戦闘を行う『陰陽寮』の隊員達にとって、そういった事象が存在することは知識として保有していた。しかしそれをこうも目の前でまじまじと見せられた時彼らは、ただただ驚く以外のすべを持たず、ゾンビのように血を垂れ流しながらゆっくりと歩む音河に視線を送る以外の行動を取ることが出来ないで居た。

「音河さん、止まってください。貴方の身体は戦闘を継続することが出来る身体ではありません」

 その時だった。音河以外のすべての時間が止まったかのような空間で、音河以外に動く影があった。
 その影は音河や彼を取り囲む隊員達と比較してずいぶんと小さく、また線の細い影だった。
 束ねた長い黒髪を風でなびかせ、戦場には似つかわしくない高校の制服のような、というか制服そのものの、闇に紛れるような藍色のブレザーとグレーのスカートに身を包み、そして小さいとはいえ『彼女』の身の丈ほどもある金色の鞘に包まれた太刀を携えていた。
 その小さな『彼女』は音河の目の前に立ちふさがると、その美しくも強い視線を音河へと向ける。見た目こそ10代の少女であるが、しかし纏う雰囲気は大人びており、それどころか修羅の風格すら漂う。

「……邪魔です。どいてください」

 砕けた歯を吐き捨てると、音河はそんな『少女』の言葉に全く耳を貸す様子も無く、そのまま歩みを進めようとする。

「行かせることは出来ません。私達の任務ですから」

「なら無理矢理通るまでです」

 目の前の少女を小馬鹿にしたように音河は鼻で笑うと、とても瀕死の重傷人が放てるとは思えない鋭い左フックを放つ。少女はそれを身を小さくかがめて避けると、手にした刀の柄で音河の鳩尾をカウンター気味に突く。

「っ……」

 一つ息を吐くと、音河はその場で気絶する。
 本来、鳩尾を突いて気絶させるというのは高等な技術である。少しでも打点がずれれば内臓破裂を引き起こし、さらに加減を間違えれば心臓麻痺を引き起こす。それをこうも簡単に行えるということは、彼女が見た目通りの普通の少女でないことの証明に他ならない。
 そして崩れ落ちる音河を、彼女は自身が血に塗れることにも躊躇せずに支える。

「担架を!」

 彼女は他の隊員達へ指示を飛ばし、なるべく頭を揺らさないようにそっと気絶した音河を担架へと寝かせる。
 そして自身はブレザーの内ポケットから不可思議な文字が書かれた、というよりは描かれた一枚の古びられたトランプより少し大きい和紙のようなものを気絶した音河へとかざす。

「十二之式、天后!」

 彼女がそう叫ぶと、手にした『和紙のようなもの』が眩い光を放つ。すると音河に刻まれた傷が少しずつ消えていく。光が消えた後には、音河の傷は全快とまでいかないものの、比較的回復しているように見えた。
 これこそ、彼女の得意とする『十二神将の使役』。和紙のように見えるものは十二神将が封じられた霊符。術者の霊力を使用して様々な奇跡を起こす符術は彼女の十八番だ。
 そして今使って見せたものは『天后』。治癒の力を持ち、死人でなければ致命傷であっても回復させるというシロモノだ。

「よし、急いで陰陽寮の集中治療室へ運んでくれ」

「了解です、渡部隊長」

『渡部』と呼ばれたその少女は、音河を乗せた救急車両が走り去っていくのを見届けると、ぐらり、と大地へとひざをつく。

「……大丈夫ですか、奈津はん」

 突然、今迄その場にはいなかった女性の声が響く。おそらくは少女の名前であろう奈津という名で親しげに彼女の安否を気遣うが、その姿は見えない。

「……いや、問題ない」

 そう強がって見せると、彼女はなんともなかったかの用に立ち上がる。しかし、声の主はやはり心配そうだ。

「無理せいでおくれやす。ただでさえ、このところ『ヴァジュラ』なっとの活動が活発になっとるさかえ」

「私は無理などしてはいない。しかし……最初局長に私も救援へと行くように言われた時は疑問に思ったが、こういうわけだったとは……音河さん、か」

 話を無理矢理打ち切り、奈津と呼ばれた少女は自分が気絶させた相手の名前を感慨深く呟いたのだった。



♯8  two weeks at Blue Note
A part


 陰陽寮本部にある客間の一つに、えらく『雰囲気』を放つ二人の男女が向き合っていた。
 一人は黒いジャケットとパンツに身を包み、そして対照的なアクセントとなる白いスカーフを巻き白いギターを背負った男。
 もう一人は銀髪の軽くウェーブがかかった髪の上品な、しかしどこか冷淡な印象も同時にあたえる初老の女性。

「正直、貴方が現れるとは思っても見なかったわ」

 銀髪の初老の女性が呟く。その様子は『男』に対して、やや呆れ気味でもあり、そして少し嬉しそうでもある。

「自分の教え子が命を、自分の存在をかけて戦う時が来たんだ。見届けに来ないわけにはいかんでしょう。それに他にも幾つか伝えたいこともある」

 そういうと、男は白い歯を見せてにっと笑ってみせる。

「あの子には……瞬には会っていかないの?」

「ああ。今はその時じゃない。それよりも、十三と音河君は?」

 その男、山口十三の師匠である風見志郎は、やや心配した様子で陰陽寮の集中治療室に運び込まれた二人の男について尋ねる。それに対して彼女、この陰陽寮の最高責任者である『局長』、神崎紅葉は髪を掻き揚げながら答える。

「二人とも重体よ……どちらも息をつないでいるのが最早不自然なレベルの。何時涅槃へ旅立ってもおかしくはないわ」

 ため息をつきながら、彼女はカルテを見せる。そこにはありとあらゆる致命傷へいたる怪我の名が羅列されていた。しかし、それを軽く流し見た風見は軽い口調で流してみせる。

「なぁに、あの二人なら問題は無いさ。音河君の身体能力は君のところのなっちゃんに匹敵するし、十三は、殺したって死にそうにないさ。あの通りね」

 それを聞いた神前の顔が、苦虫を噛み潰したようなそれへと変わる。

「十三君の変身体は未だに慣れないわね。見ずにいられるなら見ないでおきたいわ」

 しつこいようだが山口十三=仮面ライダーFAKEのベースになった生物はゴキブリである。そして彼女は、ゴキブリを大の苦手としていた。
 しかし、これは彼女が十三そのものを醜い存在、または悪しき存在として見なしているわけではない。むしろ彼女は十三の事を、純粋に高い志を持つ戦士『仮面ライダー』の一人としてみているからこそ、こういった個人の嗜好に縁った私見を堂々と吐くことが出来るのだ。

「しかも、妙にウチの副局長が彼の事を気に入っているのよ……『十三君のジャズは古典(クラシック)でいい』とか。なんだか矛盾しているような気がするけど。私も彼の音楽は嫌いじゃないけれど、どうもあのスウィングを聞くたびに変身した姿を思い出してしまうのよね……」

 そういう彼女をよくよく見てみると、鳥肌が立ち顔が青ざめているようにも見える。おそらくは自分で話しながらFAKEライダーの姿を思い出してしまっているのだろう。そんな彼女を見ながら、風見は笑いをこらえながら下を向くが、神崎に睨まれて表情を正す。

「まぁ苦手なものはしょうがないさ。しかし、いいのかい? 今回の事件、深く追求されれば不味いんじゃないのかい?」

 今回十三が起こした事件は、公式の文章においては『未確認生命体第F号がSAULによって討伐された』となっている。その第F号たる十三が、陰陽寮に保護されているというのは不味いというわけだ。とくに、今回風見が日本に来ることになった『理由』とあわせて。

「ええ、確かに彼を保護するということは、もしかしたら私達の立場を悪くするかも知れない。だからもしかしたら、その時が来たら私は彼を人身御供に差し出すかもしれない。だけど……」

 神崎は風見の目を真っ直ぐに見据え、そして微笑んだ。

「命を懸けて正義の為に戦ってきた男を見殺しにするような組織の長として、私は有りたいと思ったわけではないわ」

「フッ……」

 それを聞き、風見もまた柔らかな微笑を還す。

「それで、私に伝えたいことがある……と言ったわね? それを聞かせてもらえるかしら」

 神崎は腕を組みなおし、風見へと問いかける。それに応じて風見の顔から笑みが消え、真剣な表情へと移り変わる。

「ああ、重大な話だ」






 それから10日後、頑丈な作りのさっぱりとしたドーム状の部屋に、一人の男が立っていた。高級そうな背広に腕を通し、オールバックに固めた髪形、さらに丹精な顔立ちの男、先日陰陽寮によって救出された音河釣人だった。

「さて、十三の師匠が僕に何のようですかね……」

 陰陽寮の集中治療室へと繋がれた音河は、それから三日の後に目を覚ました。常人ならば三日どころか、そのまま眠るように旅立ってもおかしくは無い怪我と出血量であったが、陰陽寮が誇る数々の医療技術と、音河自身の超人的な回復力によって目をさましたのだ。加えて、渡部奈津の『天后』による効果も大きいだろう。
 さらに驚異的なのは、それからたった一週間で歩けるまでに回復した事だ。いや、勿論歩けるというのは『物理的に可能』というだけだ。両足の筋肉がなんとか張り繋がっただけで、全身の骨には細かい亀裂が未だ残っているし、背広の下の彼の肢体はくまなく包帯でコーティングされているような状況だ。当然、一歩歩くだけで全身を凄まじい痛みが走る筈だが、彼は平然とした顔でこの部屋の真ん中に立っている。

「やぁ、久しぶりだね」

 その時、突然入り口のドアが開き黒ずくめの男が入ってくる。

「風見さん、こちらこそお久しぶりです」

 音河はさも驚いたような様子も見せず、その男の名を呼ぶ。風見はにこやかに笑いながら音河に近づいてくる。

「身体の調子はいいのかい? まだ2週間と立っていないが」

「ええ……問題ありません」

 そういった彼の顔を、風見は覗き込むように見る。覗き見られた音河は皺一つ動かすことなく、憮然とした表情でいるだけだった。

「ふむ……その割には浮かない顔をしているじゃないか」

 そういうと、音河にリストウォッチを投げて渡す。黒い皮のベルトにねじり、あとはそっけなく3時と9時の部分に数字が刻まれているだけのシンプルなデザインだった。

「これは……?」

「今回僕が日本に来た理由の一つがこれさ。ICPO本部から君にこれを渡すように言われてね」

 音河は腕にその投げ渡されたリストウォッチを巻く。シンプルな見た目に反して、付けてみるとかなり重たい。

「で、これは一体何なんです? ICPOから、しかもわざわざ貴方ほどの人間が渡しに来るということは、ただの腕時計ではないんでしょう? それにどんな代物であれ、これを運ぶに至った理由も」

「まぁ待ちなさいって。まずはそれの使い方を説明する。そのリストウォッチはICPOが開発した新型の強化スーツの起動キーだ。装着されるスーツは君の動きにアジャストされていて、君の身体能力を数倍に引き上げることが出来る」

「数倍に……? へぇ、凄いですね」

 口ではそう言ったものの、音河はあまり興味のなさそうな様子で風見に応える。しかし風見はそれに気付いたのかいないのか、調子を変えず飄々とした口調のままで説明を続ける。

「起動方法は簡単だ。そのリストウォッチのスイッチを押し、起動コードを叫ぶだけだ。起動コードは君が自由に登録してくれ」

 そう教えられた音河は早速リストウォッチのスイッチを押し、とりあえず暫定的に決めた登録名を叫ぼうとする。だが突然風見はそれを、手を広げて静止する。

「待った。ただしその強化スーツは特殊な精神感応技術を使用していてね、もし装着者の精神が不安定な時に装着を強行した場合、装着のエネルギーが装着者に逆流し危険な場合がある。それでもやるかい?」

 そう聞かされた音河は、それに対して返答する前におもむろにリストウォッチのベルトを外し、普段の嫌味なまでに紳士風に振舞う彼らしくない、乱雑な粗暴で風見に投げ返す。

「言い方が回りくどいな……要するに僕にはその強化スーツとやらは扱えないってことですか」

 キッと強い敵意の視線を音河は風見へと向ける。しかし風見はさも気にした様子もなく、被っている黒い山高帽の位置を人差し指で直すと、意味ありげに不適に笑ってみせる。

「その通りだ。流石は音河釣人、物分りがいいじゃないか」

 ニヤっと不適な笑いを浮かべて、空中で投げ返されたリストウォッチを人差し指と親指だけでキャッチする。

「ならこんなものどちらにせよ必要ありません。僕はそもそも道具の類をあまり信用してないんですよ、どれほど高性能であってもね。失礼します」

 そう言って出て行こうと背中を向ける音河に、風見は視線も向けようともせずこう言い放った。

「ICPOの捜査官の仕事ってのは、道具に文句をつけて死にに行くことだったのかい」

「なんですか……?」

「分からないかい? 今のままじゃ君はあのイノ・クラッベどころか、おそらくは十三のデータから作り出される新たなメルヴゲフにも勝てないという事だ」

 こめかみに血管を浮き上がらせながら、音河が風見を睨みつける。風見はその先程よりも強い敵意の視線を、帽子の隙間からのぞいてみるだけだ。

「ロートル過ぎて判断力って奴も経年劣化させてしまいましたか? 風見さん。申し訳ありませんが、かつて貴方の部下だった香川先輩ほど僕は貴方に敬意って奴を持っていませんので。根拠の無い『妄言』は聞けないんですよ」

「だが事実……君はリミッターを解除した十三に負けた。それでもと言うなら試してみるかい?」

 そう風見が言い終わるか終わらないかのウチに、音河は常人ならば目で追うことすら出来ないリードブロウ(ジャブ)を風見の顎目掛けて一直線に放つ。その速度は拳が空気との摩擦で焦げた臭いを放つほどだった。

「ふふ、いいジャブだ。だが、日本じゃあ二番目だ」

「くっ!」

不意打ちに近いパンチだったにも関わらず、音河のリードブロウは完全に風見の左手で受け止められ、それどころか音河の顎のすぐ下には風見の拳が髪の毛一本挟めるかどうかという位置で寸止めされていた。

「確かに君は強い。生身の人間と言うのが信じられないほどにね。本来ならばたとえ十三が全力だったとしても、君ならば分けも無く一蹴できる実力がある筈だ。しかし君は負けた。何故だか分かるかい、いや、既に分かっているはずだ」

 その音河にとって屈辱的な体制のままで、風見は淡々と語り始める。それに耐えられなかったのか、音河は腕を大仰に振って拳を元の位置に戻す。

「今の僕には迷いがあるとでも仰りたいんですか?」

 脳の活動が運動能力を大きく上下させるというのは事実だ。例えばスポーツにおいて『諦め』という感情を持った時、大きく運動能力が低下することは実験により観測されている。

「少なくともイラついているのは事実だろう?普段の君ならこの程度の挑発、受け流してしまうさ。それにさっきの『強化スーツ』だって、例えああ言われたとしても、いつも通りの君ならば笑顔の一つでも見せて装着してしまうだろうね」

 そういうと、もう一度リストウォッチを音河に投げて渡す。音河がそれを反射的に掴み取ったのを見ると、今度は風見が振り向いて扉から出て行こうとする。

「これだけは言っておこう。君は十三じゃない。その時計は本当に必要がないと思えば燃えないゴミにでも出せばいいさ」

 それだけ言い残して風見は、音河を置いて何処かへ風のように去っていってしまった。そして一人残された音河は掴み取ってしまったリストウォッチを見つめながら、憎憎しげに呟く。

「僕は十三じゃない? 何を当たり前の事を……」







 その後風見と別れた音河は、廊下からガラス越しにベッドに拘束されているもう一人のけが人を見つめていた。音河はおもむろにそのガラスへ近づくと、握った拳を軽くガラスに押し付ける。

「ふん……強化ガラスか。まぁ当然でしょうけどね……」

 その強化ガラス越しにベッドに拘束され、未だ眠り続ける山口十三を見据えて音河は呟く。この強化ガラスも十三を拘束する器材も彼が目覚めた時、もし暴れだしたときの保険のためのものだ。

「僕が君と違う? そんなもの当たり前ですよ……ですが君の師匠は嫌な男だ、全部当たってやがる」

 そう音河は目覚めてもいない、例え目覚めていたとしても防音機能も備えたガラスの壁の前では意味が無いと分かっていながらも十三へと話しかける。

「君は正義を守るために戦う……なら僕は自分の愛するものを守るために戦う……だけど君は自分の愛するものを守れなかった……その結果君は人類に牙を剥いた」

 そこまで呟いて、音河は次の言葉を声に出せなかった。『もし自分もまた人類に愛する妻と娘を奪われたら、十三と同じように自分もまた人類に牙を剥くのではないか』と。もし言葉に出してしまったら、心が折れてしまいそうだったから。

「勿論、風見さんが言いたいことは分かります……僕が同じ状況になったとしても君と同じ行動を取るわけでは無いと……」

 だが、それでも心にかかったモヤは晴れない。くだらない思考ゲームに過ぎないと自覚しても、この答えを出さない限り自分は前に進めない。そしてその性でいらつき、普段の彼らしくない行動を取ってしまう。先ほどの風見への行動も、自分で思い出して自分の愚行に腹が立つほどに。

「ふむ、本来は絶対安静のはずですが……」

 突然、思案している音河へと声がかけられる。音河がそちらへ振り向くと、何とも形容のしがたい格好の男が佇んでいた。
 年のころは三十路か20代後半と言ったところか。珍しい緑がかった髪をやや長めに伸ばしており、それだけで人目を引く容姿だといえるのだがそれ以上に『高級』というよりは『上等』と表現したくなる和服の上に、医者や研究者が着る白衣を羽織るというなんともキテレツな格好だ。加えてやや痩せ気味でなかなかに整った顔立ちをしており、音河と向き合っている姿を見た若いミーハー趣味な女性ならば黄色い声を挙げそうだ。

「桐生博士……園児救出の際は有難う御座いました」

 音河が桐生と呼んだこの男は、この『陰陽寮』において新たな装備の開発を引き受ける男、桐生春樹である。いくつかの博士号と企業にパテントを持ち、その殆どが表社会にはフィードバックされぬものであるものの、理工学において天才の名をほしいままにしている若き科学者である。しかもその専門は理工学ではなく考古学だというから頭が下がる。

「専門外の仕事でしたが、お役に立てたようで何よりです。未来ある子供達を人質にとるような社会常識の無い卑劣な連中を懲らしめる手伝いが出来たのなら、それは良識ある一市民にとってこの上の無い喜びですよ」

 そういって、彼は緑の髪を揺らしてニコリと微笑んで見せる。
 専門職でもないのにあれほどメルヴゲフに対して有毒性が強く、かつ人間に対して無害な毒ガスを精製できる考古学者を単なる『良識ある一市民』と呼称するかどうかの是非は兎も角、音河もその微笑に対して作り笑いを浮かべてみせる。

「それで……病室へ戻られた方が良いと思いますが? 僕が記憶する限り、10日前貴方は瀕死の重傷を負って運ばれてきたばかりの筈だ。とてもまだ歩けるような身体ではないはずですよ、普通なら」

やや『普通』という言葉を強調しつつもその柔らかな物腰を崩すことなく、音河を気遣ってみせる。音河はその捉えがたい雰囲気に何か圧倒されるようなものを感じながら、それでも尚自分のペースを保とうとする。

「ただベッドに縛り付けられているよりは、多少の荷重を加えてやったほうが骨折やヒビは治りが早い、というのは医学的に事実なのはご存知でしょう」

 とだけ言うと、音河はその場で十三が寝かしつけられている方へと向き直り、左中段の逆直突きを放ってみせる。拳圧が風を巻き起こし、数メートル離れた場所に立っている春樹の白衣と、直前で拳が止められた防弾ガラスを揺らす。

「ならば無理をしない程度に運動した方が良い、と。確かに軟骨は衝撃によって栄養を関節液から補充しますからね。それに、その調子なら心配は無用のようだ」

 そう説明を付け加えると、春樹もまた防弾ガラスへと視点を移す。そして互いに目をそらしたままの暫くの沈黙。居心地の悪い空気が二人の間に流れるが、どちらも動こうとはしない。

「お一つ、いかがです?」

 そしてその沈黙を破ったのは春樹だった。音河に対してなにやら緑色の物体を差し出してみせる。

「これは……?」

 突然の出来事にあっけに取られる音河に、春樹は少し自慢げに説明を続ける。

「草餅です。美味しいですよ、なにせ一日に限定百個しか販売しない草餅ですから」

 甘い食べ物があまり好きではない音河はどうしようかと一瞬迷ったが、好意を無駄にするのは悪い、というよりは『これからの付き合い』というやや打算的な、しかし音河らしい考えの上で受け取ることにした。
 礼を言ってその草餅を受け取り、そして口へ運ぶ。

「ん……これは……」

 口の中にやや抑えられた上品な餡の甘みが音河の傷だらけの口の中に広がる。モチモチした皮の歯ごたえが食感を刺激し、ヨモギの香りが鼻腔一杯に充満し、心地よい気分を誘う。

「成程、確かに限定百個だけの事はありますね。美味い」

「ふふ……初めて微笑いましたね」

 そう言った春樹に音河は少し驚き、ばつの悪い表情をして見せる。

「まいったな……さっきのは作り笑いだってバレていましたか。どうして分かったんです?」

「そうですね……目の動きや頬の筋肉の緩ませ方の違和感等、色々と理由はありますが……最も大きな違和感は、まるで能面のように貼り付けられた『仮面』に感じたから……と言ったところでしょうか」

 袖の中で腕を組み、目を閉じながら今度は自慢する風も無く春樹は説明する。

「……何か、お悩みがお有りのようですね」

「やれやれ、感情を読まれないようこれでも結構訓練したんですけどねぇ。天才は何につけても天才というわけですか」

 そういうと、大仰に両腕を広げて音河はため息をつく。

「もし僕で良ければ、悩みをお聞きしますよ」

 やわらかい物腰で音河ににこやかに話しかけるが、音河はまだ迷っている様子を見せる。

「いえ……ですが」

「あまり深い仲では無い方が、返って客観的な解決策がお出しできるかもしれませんよ。勿論、無理にとは言いませんが」

「そう、ですね……」

 そう言われ、音河はそんなものだろうかと思いながらも話す決心をする。なんにしても、今は迷いを無くすために最大限の努力をすべきだと思ったからだ。
 そして目一杯深呼吸をすると、視線を防弾ガラスに映る自分の目へ向けて語りだす。まるで春樹に聞いてもらうためというよりは、まるで自分自身と向かい合うためのように。

「桐生博士、貴方は……人類と言う生き物は、守るに値する生き物だと思いますか?」

 音河の問いに春樹の柔らかい表情が若干、憂いを帯びたそれへと変化する。それを音河は見ようともせず、話を続ける。

「僕自身は正直、この問いに答えを出すことは出来ません。それどころか否定的ですらある。僕はICPOの特殊捜査官という仕事上、数多くのゴミを見てきました。大勢の人間の死を食い物にする死の商人、高らかに政治思想を謳いながらやることはただの山賊なテロリスト共、子供を自分の性のはけ口にする富豪、金のために一家を皆殺しにしたストリートチルドレン……資本主義だとか社会主義だとか、金持ちだとか貧民だとか、老若男女関係なくゴミはいました」

 防弾ガラスに映る音河の美しい顔は、まるで人形のように動かない。ただ機械的に音河の声に合わせて口が開閉するだけだ。

「そんな連中ばかり見ていると人間の本性は、もしかしたら此方が本当の姿なんじゃないかと思えてくることがあります。普段は理性や道徳で押さえ込んではいますが……それは単に社会という都合の良い場を構成する上でそうすることが強いられているだけであり、その必要が無くなった人間は、たちどころに本性を現してしまうのではないか、と」

 そこまで音河の話をただ黙って聞いていた春樹が、ここで口を開いた。しかしその表情はただの人形のような音河と違い、その目には強い意志が表れているように見えた。

「確かに……僕も考古学者という仕事を通して、人間の心に住む悪を何度か見ることがあります。世界中を発掘のために旅しましたが、戦争や侵略によって滅ぼされた都市の遺跡は、どこにだってありましたよ」

春樹もまた目線をガラスに映る自分のへとやる。自分という人間の中にも、悪魔が存在することを確かめるように。そしてそんな考古学者に、捜査官は核心を問う。容疑者を追い詰めるような問いかけではなく、懺悔する信者が神父に助けを求めるように。

「ならば、何故貴方はこの『陰陽寮』で人類を守る戦いに身を投じるのですか? 貴方ならただ大学の研究室に引きこもって論文の二、三も書き上げれば一生を食べていくにも困らない金と名誉を得られるでしょう。しかし、この『陰陽寮』で発見した新しい出土品や技術は『表の世界』において評価されることはない。それどころか、防衛組織のVIPとして命すら狙われ続けることになる。それを理解しない貴方ではないでしょうに、何故ですか?」

 もう一度強調しよう。音河が戦う理由、それは自分の家族を守るためだ。しかし十三は自分の家族を守れなかった。彼はその為に人類に牙を剥いた。自分も、そして春樹もまたそうならないと断言は出来ない。
 ここで音河は視線を鏡の中の自分から春樹へと移す。その真っ直ぐな視線を全身に感じながら、春樹は力に満ちた表情で言葉をつむぐ。

「確かに人間の内には悪は数多く存在します。ですが『この世で最も悲しい事実の一つは、様々な事を知りながら無力のためにそれをどうにも出来ない』と思い込むことです。自分の悪を自覚して尚、戦おうと前に進む力。それを僕は正義と呼ぶのだと思います。もしくは『良識ある大人の義務』とも」

「ヘロドトス……ですか?」

「半分は僕のオリジナルですが、ね」

 春樹は古代の歴史家の言葉を引用し、自分の意思を音河へと渡す。音河がそれを受け取るか否かは問題ではなく、今自分の立っている場所を確認するために。彼もまた、ここまで来るのに唯安穏に過ごしてきたわけではないのだろう。

「立ち止まっては……ならないんでしょうか。僕達は」

 そしてそれを受け取った音河は、春樹の言葉から自分の戦いを『再認識』する。そう、風見が言った通り音河とてどう戦えば良いか分かっている。だがそれは余りにも重く、そして揺らぎやすい。そしてその認識は、もしかしたら自分と言う人間の単なる一人よがりなのではないのか、自分の弱さなのではないか。その疑惑を打ち消すために。

「山口さんの事は……僕も聞きました。彼が貴方やSAULに牙を剥くに至った理由も。そしてそうなる危機は……『悪』は、僕にも貴方にも潜んでいます。その『悪』との戦いを止めることをそう表現するのなら、『僕ら』は立ち止まってはならないでしょう」

 そして十三にも、音河にも春樹にも共通するのが、一般人をはるかに凌駕する力を持ってしまっているという事実だ。
 十三は異形の肉体を、音河は超人的な身体能力を、春樹は天才的な頭脳を。それらを持つ者がもし、心の中の『悪』が首を擡げた時、何千何万人をも巻き込む悲劇を生むだろう。

「何かもっと抽象的な……自分の悪を押さえつける個の『正義』ではなく、もっと大きな、ある意味絶対的な『正義』を心の拠り所にすることは不可能なのでしょうか」

「難しい……と思います。少なくとも『人間』である僕達には。もし自分の愛する妻や仲間を守るという動機や、自らの信念を超越したところで戦えるようならば……そのメンタリティは人間のそれとは言えないのかもしれません」

 音河の仄かな希望を春樹は否定する。勿論、音河の言うような『絶対的な正義』を掲げた人物は歴史上に何人か存在した。しかし彼らの殆どは所謂『独裁者』であり、その他の少数の例外は力なき思想家達であった。どちらも、音河が真に求めた答えにはなりえない。
 そして再び二人の間に沈黙が流れる。だがある意味諦めにも、もしくは悟りにも似た空気は先ほどの沈黙と違い肌に心地が良かった。

「……すみません。どうも暗い気分にさせてしまって。ですが、少しだけ前に進めた気がします」

 今度は音河が沈黙を破り、春樹に謝罪するが、春樹は顔の前で手をヒラヒラと振って否定する。

「いえ、僕自身も自分の肩にかかっているものを再認識することが出来ました。有意義な時間でしたよ」

 そういって二人は互いに微笑む。
 別に二人は何か新しい真理を手にしたわけではない。しかし己の心の内を再認識すること、それは重要な作業だ。

「あと草餅、ご馳走様でした。今度は僕がおいしいバスク料理の店を紹介しますよ」

「ほう、それは楽しみです。そういえば音河さんはフランスのご出身でしたね」

 重苦しい話から、内容がくだらない雑談へと移っていったその時だった。コツコツコツと、静かな廊下に足音が響く。

「桐生博士! ここにいらっしゃいましたか」

 廊下の南側の通路から、小さな身体の少女がこちらへ歩いているのが見える。音河はその少女の姿に見覚えがあった。

「やぁ、なっちゃん。どうしたんだい」

 春樹はにこやかにその『なっちゃん』と呼んだ少女に話しかけるが、一方のその話しかけられた『なっちゃん』は顔を赤くして不機嫌を露わにする。

「ですからその呼び方はやめてください! 私は奈津です! 何度も言わせないでください!」

 と、小さな身体で彼女は用件も音河の存在も忘れて猛烈な勢いで春樹に抗議を開始する。理由は分からないが、彼女は『なっちゃん』という呼ばれ方が相当気に入らないらしい。おそらく彼女はかなり幼い頃から厳しい生き方をしてきたのだろう。しかしそれに反して、まだ年相応の女の子らしい精神性も持ち合わせている。その二律背反が葛藤となり過剰な反応を見せてしまうのだろう。
 しかし彼女の必死さに反して、当の春樹は何処吹く風だ。そして突然のその光景にあっけに取られていた音河はたまらず笑い出す。

「くくく……あの夜はまるで修羅か何かのようだと感じましたが、まさか素顔がこんなかわいい女の子だとはね」

 その笑い声に、彼女は我を取り戻す。そしてその小さな顔を真っ赤にしたのは恥ずかしいからか、それとも音河に『かわいい』などと言われたからか、どうにも判断のつかない様子を見て、音河は二、三わざとらしそうに咳をする。

「ゴホン、あの夜はどうも。渡部奈津さん。おかげで今僕はこうして歩いていられます」

 彼女の名は渡部奈津。音河を救出に来た際、彼を気絶させた少女が彼女である。あの時音河は半錯乱状態で、無理にでも止めなければ彼は間違いなく死んでいただろう。
 しかし、こう明るいところで彼女の姿をこうマジマジとみるとある意味、異常さすら音河は感じた。
 どういう理由かは知らないが何故か何処かの高校のブレザーを着用し、春樹の鳩尾ほどしかない小さな背丈。顔を真っ赤に染めるその姿は、とても自分を気絶させられるような高度な武術を有する少女には見えない。

「いえ、お元気になられたようで何よりです。そ、それよりもお恥ずかしい姿をお見せしました」

 そういって恥ずかしそうに頭を垂れる。
 どうやら彼女はまだまだ春樹のような人間にあまり慣れていないらしく、調子が狂うようだ。おそらくはあの晩見せた修羅のような姿が寧ろこの『陰陽寮』内での彼女の素の姿なのだろうが、どうにも巧くいかないらしい。もしも、十三のようなノリで春樹のような頭脳を持つ人間がいたらきりきり舞いしてしまうだろうな、と音河は思ったその時だった。

「まだまだ奈津はんも修行が足りまへんなぁ」

 その場にいない第三者の声が響いたのだ。なんだか色気のある女性らしい声で、しかも何故か京都弁。
 本能的に音河は身構えたが、おそらくは自分と同レベル以上の身体能力を持つであろう奈津が構えるどころか、何故か呆れるというか嫌な表情をして頭を抑えていること、そして春樹が楽しそうな顔をしていること、さらには声の主に敵意を感じなかったことから音河は構えを解く。

「黒百合」

 そう奈津が呼ぶと、なんと彼女の『影』からするすると一人の女性が現れる。
 声通りの独特の色香を持った女性で、おそらくは20代後半と思われる音河よりも十三好みの中々の美人だ。そして服装はなんと時代劇や歴史的な資料の中、もしくは女歌舞伎の舞台等でしか見ることの出来ない『太夫』。しかもその煌びやかな『筈』の服装にも関わらず彼女には『色』が無かった。まるでモノクロ映画の女優のように白と黒だけで構成された彼女の出現に、さすがの音河もあっけにとられる。

「な……な……?」

「ふふふ……そうそう、この反応。やっぱり驚いていただけるんはお化けの本懐ですなぁ」

 その様子を見て、黒百合と呼ばれた彼女は嬉しそうに笑う。音河はそうクスクスと上品に笑う彼女に呆然としていたが、すぐに気を取り直して顔を真顔に戻す。流石は生来の格好付けといったところか。音河は否定するが、ここら辺は十三と似ている。

「私は音河釣人と申します。失礼ですが、お名前を伺えますか。セピア調のレディ?」

 そういって音河は黒百合に跪く。それを見た黒百合は短く微笑むとごほんと息を整え自己紹介をはじめる。

「あらあら、ご丁寧にどうも。黒百合と申します。以後、よろしゅうお願いします。音河さんでしたか、ええ男ですなぁ」

 彼女は跪く音河の正面で正座すると、丁寧に三つ指をつきお辞儀をする。

「よく言われます」

 普通ならば謙遜するかお世辞と受け取るべき部分を音河はさも当然と受け取り笑顔を返す。それを見た黒百合もまったく動じることなくふふふと笑う。今度はその光景に奈津があっけにとられながらも、彼女についての説明をする。

「黒百合はご覧の通り人間ではありません。我が『渡部家』に150年前から使えている妖怪『影女』で、今は私の従者をしています。妖怪といっても、特に敵意はありませんのでご安心を。最も、この通り口は減りませんが」

「影女?」

 音河は聞きなれない単語に怪訝な顔をする。それについて、今度は奈津ではなく黒百合自身から説明が入る。

「『影女』ちゅうのは、妖怪というても化け猫やら大百足やらの物騒な衆とちゃうて、ただ障子や襖なんかにすっと映るだけの大人しい妖怪です。詳しい事情は省きませていただきますけど、訳あって退治されそうになったところを奈津はんのご先祖様に助けられたわけでして」

 コテコテの京都弁を駆使し、音河に聞かれていないことまで含めて説明する。従者と言うには少々我が強いような気もするが、別段不快感を抱くわけではない。完全に冷静を取り戻した音河はにこやかに答える。

「成程、それにしても勿体無い。もし僕が結婚していなければ、貴方をお茶の一つにでも誘ったのに」

「ま、お上手ですなぁ」

 音河と黒百合の軽口の応酬に奈津が頭を痛めている傍ら、春樹は楽しそうな顔をしていたがそろそろ話が進まないと思ったのか、奈津へと身体の向きを変えて話かける。

「それでなっちゃん、どうしたんだい?」

「いえ、何か用があるわけではありませんが、あまり私の傍を離れないでいただけませんか。私は博士の護衛を仰せ付かった身です。もしも博士に何かあった時、奥様や局長に申し訳が立ちません」

 そう言って、奈津は真剣な表情を作る。それに対し、春樹は少し苦笑しながら言葉を返す。

「だけど、ここは陰陽寮の本部じゃないか。もしもの事が起こらない……などと言うつもりはないけれど、そう気を立てなくてもいいんじゃないか」

「しかし……」

「奈津はん、うちが言うのもなんですけど、ちびっと緊張しすぎほなおまへんか」

 再び彼女は音河の存在など忘れたように、春樹と黒百合を交えて舌戦を開始する。その遣り取りを置いていかれたように見ていた音河は、というか音河でなくとも彼女は生真面目すぎる嫌いがあると判断するだろう。勿論、その実直さは素直に好感が持てるが、しかし一方ではわずらわしくもある。特に、春樹のような人間と付き合っていくにはもう少し余裕を持ったほうが良いだろうと思った。
 おそらくは黒百合が茶々を入れるのも、そういった余裕を彼女に持って欲しいという気持ちの現われかも知れない。無論、単に楽しんでいる可能性もあるが。

(それにしても……)

 その余裕の無さは置いておくとして、これが本当に『渡部奈津』かと思う。
 その名前は聞き及んだことは何度もあった。妖刀と符術を用いて、生身の五体で改造人間を屠る少女が極東に居ると。
 確かに、凛とした『かわいい』よりは『美しい』と表現できる顔立ちはまるで名工の打つ業物のそりを彷彿とさせ、スカートから除く足をよく見れば細いながらも引き締まった筋肉がついている。そしておそらくは柔術の類も使うのだろう、耳も潰れている。
 何よりもあの晩、音河を一撃で気絶させたその力量は本物であり、その時音河が感じた戦士の雰囲気は決して勘違いなどではないだろう。それは桐生春樹というVIPの護衛と言う任務についていることからも明らかだ。

 だが、こうして一人の考古学者と従者の扱いに苦慮するその姿は、ただの生真面目な少女の姿そのものだ。音河が想像していた『渡部奈津』は長身で隆々とした筋肉を持つ大女であり、こんな小さな背丈の少女では無かった。

(こんな娘が……僕を気絶させた……)

 その時、音河は彼女の姿がとある男に被って見えた。おそらくはもう、二度と戦うことが出来ないであろうあの男に。

「渡部さん」

「ですから、聞いているのですか桐生博士……は、はい、何でしょう!?」

 急に音河に呼び止められ、驚いて彼女は振り向く。

「そうですね……不躾ですが二週間後の今日、デートしませんか? もしご都合がよければですが」

 ま、と黒百合が口を押さえた。





 それから三日後、音河は陰陽寮のトレーニングジムの控え室に居た。服装はいつもの高級そうな背広ではなく、上着はタンクトップ一枚に下はアーミーパンツ。そして両腕に今、バンテージを巻いている最中だ。

「さてと……もう一度基礎から徹底的に鍛えなおさないと」

 バンテージを巻き終わった音河は、その場でジャブを軽く幾つか放ってみせる。そしてコンビネーションの締めのストレートを放ったと同時に、控え室の入り口の扉が開く。

「風見さん! ……先日は失礼しました」

 扉を開けて入ってきた風見に向かって、音河を知るものにとって貴重とすらいえる殊勝な表情をし、風見へ頭を下げる。風見は頭を上げるように音河に言うと、その顔を3日前と同じようにまじまじと覗き込む。

「ふむ、前に会ったとはまるで別人のような顔をしているじゃあないか。まさかたった三日で立ち直るとはね。さすがは天才と言うべきか」

 そういわれた音河はバンテージをしっかりと締めながら、何か思いにふけっているような表情をしてみせる。

「三日……ではありませんよ。答えなんてICPOに入った頃から持ち合わせていたんです。ただ、十三が……僕が最も良く知る『仮面ライダー』だと思っていた男は『仮面ライダー』では無かった。その事実にちょっとばかし、挫けそうになったってだけです。自分で『偽り』とか名乗ってたってのにね」

 『天才』といわれたことをまったく否定せずに流した音河に苦笑しながらも、風見は自分の帽子に手をかけて少しずらし下ろし、自分の目線を隠しながら音河に答える。

「そう、十三はまだ『仮面ライダー』ではない。その意味を君は分かっているのだね」

 そこまで風見が言うと、音河はすくっと立ち上がる。最早これ以上話すことは無いと言外にしながら。反省するという思考ルーチンを持ち合わせていても、やはりこの男の基本は傲慢だ。

「それでは失礼します。これからの僕は『仮面ライダー』無しでも戦いぬける強さが必要ですから」

 そういうと音河は風見へ背を向け、ジムへの扉の方へ歩いていく。その背中に向かって風見は声をかける。

「信じてやってはくれないか、十三もまた『仮面ライダー』になる素質を持った男だと」

 それに対し、音河は振り返ることなく答える。

「僕は山口十三と言う男がもう戦えるとは思っていません、いや、もう彼は戦うべきではない」

 そういうとジムへとつながる扉のドアノブに手をかける。

「だからこそ、僕は強くなる必要がある。今よりももっと」

 そういうと、音河は首をすこしだけそらして振り返り、いつもの音河らしい余裕のある微笑を風見に返すと、控え室から出て行くのだった。




 その日、『MtM』の本部である海底基地は喜びに沸いていた。普段は暗く息苦しい廊下は色とりどりの飾りつけが行われ、そこを行きかう職員達はみな晴れ晴れとした顔をしている。
 そして基地中央付近に位置する、普段は作戦会議室として使用される大ホールは機材の類が部屋の隅へと追いやられ、その代わりに安い組み立て式のパイプ机とパイプ椅子が立ち並び、そのパイプ机の上には豪華な料理と酒が立ち並んでいた。

「安い発泡酒など出すな。今日は無礼講だ、ビールだせビール」

「おい、俺の一発芸セットの鼻メガネとトマホーク何処やった?」

 背広姿のいかつい肉体をした彼ら……改造され、人間であることを捨てた『メルヴゲフ』も、そうでないものも皆口々に笑いあい、誰も彼も楽しそうにしている。
 そしてその中で一際背丈が大きく目付きの鋭い男が、目をふと観音開きになった入り口の扉へと目をやる。

「どうやら主賓のご登場のようだ」

 そういうと、その入り口扉から一人の子供のような男が入ってくる。

「我らの英雄、マツモトリョースケ二等陸佐のご登場だ」

 一斉にその場の視線がマツモトへと注がれ、そして盛大な拍手と賛美の渦が巻き起こる。

「マツモト二佐!」

「おめでとう御座います!」

「よっ! 最強のメルヴゲフ!」

「蟹の星!」

 その賛美の声にまんざらでもなさそうな表情をしながら、マツモトは人垣で作られた歓迎の花道を通り、壇上に立つ背の高い大男の前へと歩いていく。そして壇上にたどり着くと、その大男、MtMが首魁ヤマシタとしっかりと固い握手を交わす。

「よくやってくれたな松本。あの時、お前を引き込んでおいて本当に良かった」

 普段は目付きの鋭い山下も、この時ばかりは微笑を浮かべ松本を賛美する。
 そう、この日は松本が十三から『イノベーターチップ』を奪取した記念のパーティが開かれていたのだ。

「さぁ、主賓のスピーチだ。しっかりと頼むぞ」

そう促され、松本はマイクを握るとゴホン、と一息セキをする。

「みんな。良く今日まで僕と山下についてきてくれた。今までは苦労をかけたね、これからは……あー、面倒なことは止めだ。これからも僕と山下についてきて欲しい、一緒に世界征服をしよう!以上!今日はパーティを楽しんでいってくれ」

 戦意高揚の演説というか単なる子供が考えたスローガンのようなスピーチであったが、それであっても歓声と拍手の渦が巻き起こる。
 皆、今迄『勝利』の二文字に飢えていたのだ。弱小の寄生虫の如き組織であるため、派手な破壊工作も起こせず実戦の機会も同属である野良メルヴゲフや『ヴァジュラ』や『スカルスコーピオン』の斥候程度。本格的なSAULをはじめその他防衛組織や高レベルの改造人間等が相手では逃げの一手……その中で高性能な改造人間を正面から打ち倒したとあっては、MtM構成員の士気は最高潮であった。

「やれやれ、一応きちんとした演説の草案を考えておけと言わなかったか?」

 山下は呆れ顔で壇上から降りてきた松本へ話しかける。しかし松本はそんな事も意に介さずおどけて見せる。

「いいじゃん、結果的に皆ノリノリになったんだから。それに長いお話なんて誰も聞きたくないよ」

 そう言うと、松本は壇のすぐ横にある裏口から会場を出て行こうとする。

「待て、パーティの主賓が何処へ行くつもりだ」

 勿論それを山下は引きとめようと肩を掴む。松本は振り返ると、少し厳しい顔をする。

「敵を倒しに」

「敵? 山口十三はお前が倒しただろう? 命までは奪えなかったとは聞いたが、最早戦うことは出来ないといったのはお前だろう」

「あいつじゃないよ」

 そういって松本は首を振る。それに対し、山下は別の敵はいないかと頭を巡らせるが、その他の防衛組織をまさか破壊しに行くとは言い出さないだろうし、風見志郎の居場所はおそらく陰陽寮で、イノベーターチップの解析と技術のフィードバックが行われていない現状では倒すのは難しい。そんな事は松本自身が体で理解しているだろう。まったく思い当たるフシが無く不可解な顔をする。

「もう一人いるじゃないか」

 松本はまるで山下の心の中を読んだかの用に言う。そう言われた山下は一人、確かに明確にMtMと敵対する男を一人思い出したが、すぐさま否定する。

「あの男、たしか音河とか言う捜査官か? ありえん。ただの生身の人間だぞ。そもそもICPOはこれから我々に手を出すことは出来なくなる。懸念事項の一つではあるが、お前が行く意図が分からんな」

 そういわれると、松本はため息をつく。所詮この男は科学者だなと。目に見えるスペックとやらでしか敵を評価しない。最も、こういった隙が存在するからこそ自分が補佐する価値があるし、他のメルヴゲフ達もまた付いてくるのだろうが。

「ま、理解できなきゃそれでいいさ。怪我が治ったばかりで悪いけど、多分また怪我して帰ってくる。受け入れの準備を頼むよ」

 そう言うと、松本は会場を抜け出していったのだった。






 その道場にいる男達の意識が、一人の男に集中していた。その男達は皆、筋骨隆々といった表現が相応しいたくましく鍛えられた肉体を持った男達、まぁこの手の職場にしては珍しく女性も多く、女性達の中には熱の篭った視線を向けるものも相当数居たが、それでも大多数はその他の男達と同じような意識をその男、音河へと向けていた。
 その意識は、敬意や一種の共感、そして畏れ。

「いつからああしてるんだ? あの人……」

 男の一人が、小さな声で同僚に尋ねる。

「多分、今朝俺が来たときはもうやってたからそれからずっとじゃないか? 最低でも四時間はやってると思う」

 質問した男も答えた同僚も顔を青ざめる。その男達の先には、戦車の装甲にも使用されるチタニウム合金クズと砂の混ぜものを大量に麻袋に詰めた、サンドバックと言うよりはチタニウムバックとでも呼称するべきシロモノを素手で殴り続ける音河の姿があった。当然そんなものを素手で殴り続ければ拳の皮が破れ、血が流れ出す。場合によっては骨だって折れるだろう。しかし音河は休むことなく殴り続けている。彼の足元には汗と血液が混ざった水溜りが出来ていた。

(もっとだ……こんな物では足りない……もっとだっ!)

 だが、誰もそれを止めようとしない。その鬼気迫る音河の姿がそうさせぬのだ。
 音河が奈津に取り付けた『デート』、それは二週間後、自分に稽古をつけて欲しい、即ち自分と模擬戦をして欲しいというものだった。無論、奈津は困惑したが音河の真摯に頼み込む姿から断れず、それを承諾した。
 そして奈津が承諾してからと言うもの、音河は本来の捜査任務を放棄しひたすら自身の身体を痛め続けていた。上司には、重傷の負った肉体のリハビリと嘘を付いた。勿論本来ならば10日程度で全快する(してないが)怪我ではなかった為、素直に承諾された。

(十三から摘出されたイノベーターチップとやらが完全に解析されるまで少なくとも半年はかかると見た。それまでに僕は今よりもさらに強くならなければッ!)

 十数年にわたり十三の一挙手一同に至るまで記録されたメディアだ。それから必要な情報だけ抽出するだけでも相当な時間が掛かるだろう。技術的フィードバックにかかる時間はもっとだ。それに自分以外の、信頼できるICPOの捜査官達も動いている。
 ならば自分が今すべきこと、それは強くなるための鍛錬だ。

「ふぅっ!」

 音河は息を吐きながら、拳を打ち込む。その度にガツン、ガツンととても拳が立てる音とは思えない衝撃音を、飛び散る血液と共に撒き散らす。
 そしてガシン、と一際大きな音を立てた突きが打ち込まれたのを最後に、音河が拳を打ち込むのを止める。それを見ていた人々はホッと胸をなでおろすが、音河が次にとった行動に再び肝を抜かれる。

「粉ッ!」

 音河が今度は額をぶつけ始めたのだ。勿論十数発撃つか撃たないかのあたりで音河の額が割れ血が流れ始める。

「ちょ、ちょっとアンタ!」

 たまらず一人の男が音河を静止しようとする。声をかけられた音河は頭突きをやめ、声をかけた男に優しく微笑む。

「なんでしょうか?」

「いや、なんでしょうかって……」

 この道場に居る音河以外の男たちは皆、陰陽寮の戦闘員達だ。正義感や義侠心の強い彼らである。だからこそ、例え音河の姿が恐ろしいものであったとしても自傷しているとしか思えない行為を見て見ぬフリをすることは出来なかった。

「ああ、これですか。僕達が相手にするのは戦車の主砲にだって耐えるような化け物共ですよ? それを想定した場合、こういった硬いもので身体を鍛えるのは当然でしょう?」

 そういってニッコリ笑って見せる。その狂気を孕んだ笑いに静止した隊員は思わず顔が凍りつく。
 勿論隊員にも言い分は合った。どれだけ肉体を鍛錬したところで実質的な肉体スペックでは改造人間に及ぶことは不可能であるし、それでも生身のまま改造人間に追いつこうとするならば、合気道や中国拳法のように相手の力を利用したり内部から破壊するような技術を習得するか、自分達陰陽寮の戦士達が行うように呪術のようなオカルティックな技術を使うか、もしくは『鬼』のように特殊な鍛錬法で肉体を変化させるか。何れにせよ肉体鍛錬は必要であるが、それでも音河が行っている鍛錬は対・改造人間と言う点でおおよそ実践的ではない。

「悪いですけど、あんまり僕、皆さんがやってるようなオカルト的な技術ですか? あんまり好きになれないっていうか、信用できないんですよ。西洋人的肉体信仰っていうか」

 そう考えているのを見抜いたのか、音河がそう隊員に先手を切る。無論、西洋にもヴァチカンの戦士達が使う法術のようなものもあるが、音河はそれも含めて切って捨てる。

「それに関節技とかみたいなのも好きじゃあないんです。まぁ銃なんかを使えばいいんですけど、それでも銃は弾が切れますから」

 そうさらりと言ってのける。

「ですが、そうも身体を痛めつける必要は無いでしょう!」

 そう隊員は叫ぶ。すると音河は構えを変え、握っていた拳を開いて手刀を作る。そして一閃、その手刀を振るう。

「おお……!」

 その様子を見ていた隊員達から、感嘆の声が上がる。音河の手刀がその麻袋を中のチタン合金ごと切り裂いたのだ。そしてその切り口はまるで磨きぬかれた鏡面のように光り輝いていた。とても人間の手の側面が切ったものとは思えない。
 さらにその麻袋の中に手を突っ込み、握り拳より二周りほど大きいタングステンの塊を取り出すとそれを空中に放り投げる。そして。

「シッ!」

 その塊を空中に浮いたまま拳で打ち抜く。その砂という緩和剤のなくなった塊は、なんと粉々に砕けたのだ。空中と言う物体を固定するものが無い状態でそれを殴れば、その物体は殴られた方向へ飛んでいくのが普通であろう。それを砕く、しかもチタンと言う剛性と強度を兼ね備えた物体をだ。尋常のスピードと威力ではない。

「なんていうかこう、自分の四肢を武器化するんですよ。まぁ普通の人なら限界まで鍛えたってこうはいかないでしょうけど、僕は天才ですから」

 さらりと自分の事を『天才』と音河は言ってのける。訓練の方法自体は天才の名に似つかわしくない泥臭い方法ではあるが、確かに常人がどれほど鍛えたところでこれほどの切れ味やスピードを発揮することは出来ないだろう。

「それで、まだ何かご用件が?」

 それを聞いて固まる隊員に笑顔を崩すことなく問いかける。「いえ、何も…」と返すのが精一杯だった隊員は、新しい麻袋に砂とチタンを詰め始め、頭突きを再開する音河をただ呆然と眺めるのだった。

 そして音河はその後、拳や額だけでなく指先での貫手や怪我が治った(というよりはようやく筋肉が繋がった)両脚、肘、腕刀、踵etc……攻撃部位となる全ての箇所で、同じような鍛錬を続けた。勿論どの箇所からも血液が噴出し、音河の足元に血と汗の水溜りを作った。
 そしてそれだけでなかった。音河は数時間にも及ぶランニング、数千本のダッシュ、隊員達に協力してもらいスパーリング、数時間にも及ぶウェイトトレーニング、食べ物は卵の白身と鶏肉、サプリメントだけで過ごしさらには座禅等の精神鍛錬。当然出る小便は血尿、寝る時間は人間の最低必要時間の3時間。心身ともに身体を痛めつけ続けた。

 そして、あっという間に2週間が過ぎた。
 60枚の緑色に染め抜かれた畳を24枚の赤く染め抜いた畳が覆う、計84枚の畳で構成された柔道で使うそれよりも畳一回り分大きい試合場の中心に、袴を着た奈津が正座していた。その周りにはいつの間にか噂が立ったのか、何人もの陰陽寮職員が取り巻いていた。

「おい、来たぞ……」

 その中の誰かが呟いたのを契機に、奈津以外のその場にいる人々の目が入り口へと向けられた。奈津だけはピクリとも身体を動かすことなく、目を瞑ったまま正座して動かない。

「お待たせしました」

 そこに現れた音河は、トレーニングするときと同じ、タンクトップにアーミーパンツという姿だった。ただし、全身を覆うバンテージの量が増えている。それは実戦を想定して保護する箇所を増やしたのか、それともあの狂気染みた鍛錬で出来た傷を隠すためのものなのか、誰にも分からなかった。

「それでは宜しくお願いします」

 奈津は立ち上がると、振り返り音河を向く。その背筋を真っ直ぐと立てた迷いの無い立ち方に、思わず音河は身震いする。

(おさえろ……今は未だだ……)

 そう自分に言い聞かせると、音河は赤い畳を乗り越えて奈津の前に立つ。何を『抑えているか』それはおそらく、今この場にいる人間で分かるものは居るまい。
 袴に胴着姿の奈津と、タンクトップにアーミーパンツ姿の音河。まさに東西対極の姿の両者であったが、一つだけ共通して身につけているものがあった。

「ルールは互いにオープンフィンガーグローブ着用、顔面への攻撃有り、目突き、金的、符術、武器、それからお互いに使うことはそもそも無かったと思いますが、噛み付きの禁止。時間無制限、決着は戦闘不能か、もしくは降参するまで。良いですね」

 そう音河は奈津へと確認をもう一度取る。一応のルールは存在するものの、音河の希望で可能な限り最も実戦に近い形式での模擬戦であった。

「奈津はん……」

 心配そうに奈津の影から現れた黒百合が呟く。だが奈津はそんな黒百合の様子を気にかけることも無く、真っ直ぐに音河を見据える。

「それでは……時間も勿体ない、はじめましょうか」

 そう奈津が言うのと同時に、二人は構えた。その時だった。
 音河が『抑えていたもの』を解き放ったのは。


つづく


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