八十四畳のコロッセオに二人の剣闘士が向かい合う。
 彼らが扱う武器は、グラディウスでもトライデントでも無く、極限まで鍛え上げた己が五体。
 敗者から奪われるものは命ではなく誇り。
 見守る観衆は血に飢えた市民ではなく、二人と同じ戦士たち。
 二人の戦士は対極的な姿をしていた。

 一人は男で、攻撃的にステップを踏み、筋骨隆々というに相応しい彼の膨れ上がった筋肉に、張り付くような濃緑のタンクトップに黒のアーミーパンツを身につけている。
 握った二つの拳の隙間から相手を覗くような、極端にガードを上げるそのスタイルは、拳の嵐へと突っ込んでいくインファイターであることを示している。

 そしてもう一人は女、それも少女といっていい彼女は胴着に袴を履き、両手はやや手前下に流すように置く。腰を下げ重心を小さくし、前足の踵と後ろ足のつま先が一直線になるような半身を取る。
 盛んにステップを踏む男とは対極的に、上体を殆ど動かさず『すり足』で間合いを詰める彼女は、性別、服装、構え、攻撃のスタイルに至るまで、何もかも男とは正反対だ。

「……行きます」

 美しい容姿を持つ男が、敬意を込めて拳を突き出す。

「渡部奈津、推して参る」

 もう一人の美少女も同じように、その拳に自分の拳を合わせる。
 戦いが始まった。



♯8  two weeks at Blue Note B part


 二週間ほど、時間を遡る。
 桐生春樹と音河釣人が会話を交わし、そこへ彼女、渡部奈津がちょうど現れた直後の事だ。

「デ、デートですか」

 音河から誘いを受けた奈津は、その小さな顔に明らかな戸惑いを浮かべ、音河の言葉を反芻する。
 それを見た音河は予想通りといったニヤついた笑いを顔に浮かべ、言葉を続ける。

「ええ、そうですね、待ち合わせ場所はこの陰陽寮の第二訓練場でどうです? お互いフォーマルな格好で。刀や銃の類を持参していただいても結構ですよ」

 その音河の言葉に、奈津の表情は一変する。

「……つまり、私と模擬戦をしたいと?」

「かいつまんで言えばそうですね」

 それを奈津のすぐ横で聞いていた黒百合が、つまらなそうな表情を浮かべる。
 奈津はそれを無視して言葉を続ける。

「構いませんが、理由を伺ってもよろしいでしょうか?」

「理由が必要ですか?」

「少なくとも私には。渡部の家は武門の家です。そう軽々と他流試合を受けるわけにはいきません」

 場の温度が冷え込んでいくことが、武術に関して心得の無い春樹にも肌で感じられた。
 ぴりぴりとした突き刺さるような空気の中で、音河は軽く笑うと、自嘲気味の調子で喋り始めた。

「渡部さん、闘犬や闘鶏、それからカブトムシの押し相撲でもいい。これらに勝つための強い土佐犬や鶏、カブト虫はどうやって育てるか知っていますか?」

「確か、年老いて引退した老犬と戦わせて勝たせ、自信を付けさせるといったものだったと記憶していますが。カブト虫の方は存じませんが」

 そう冷静に答えている間も、奈津は音河から視線を切らない。
 二週間後とは言ったものの、試合を申し込まれたのだ。音河が不意を打ってくるとも限らない。
 奈津は膝を軽く曲げ、身体にバネを溜めていつでも飛びかかれる、もしくは緊急避難が出来るように身体を準備しておく。

「さすがお詳しい。カブト虫も似たようなもので、カブト虫に似せた模型を操ってカブト虫と戦わせ、わざと勝たせるそうです」

「……それが?」

「フフフ、僕はこれは人間でも同じ事が言えると思っているんですよ。強い人間は、常に勝ち続けることでより強くなると」

「貴方がそうだったから、と?」

 奈津の目がスっと細くなる。
 その冷たい面持ちに、音河は冷たい水に濡れて怪しく光る、日本刀のような場違いな美しさを感じた。

「ええ。『音河釣人』は負けたことってないんです。客観的には如何にせよ、主観的には少なくとも負けを認める、認めざるような状況になったことがない」

 そう言い放つ音河の顔は笑っていたが、奈津は目の端に、彼の肩の三角筋に血管が浮き出たのを捉えていた。
 そして天を仰ぐようにその顔を上げると、何かを思い出しているかのような表情で続ける。

「でも、『僕』は違います。僕は……生まれたその時から、敗北者でした。僕は……勝って、勝って、勝ち続けてようやく『音河釣人』という名前を勝ち取ることができたんです」

「音河さん、あなた……」

 黒百合が、何かに気付いたように呟く。
 それは黙って話を聞いていた春樹も、挑戦を突きつけられた奈津も同様のようだった。
 音河の声色に、隠しきれない震えが混ざる。

「僕の今の名前は、死んだ人間の戸籍を買ったものです……そこまでしてやっと決別できた昔の『僕』に、もう戻るわけにはいかない。戻りたくない、そして、負ければ戻ってしまうんです」

 そういうと、音河は腰を90度に曲げた。

「音河さん、何を!」

「お願いします、僕と戦ってください。このまま負け続ければ、負け続けたままでいれば、もう僕は立ち直ることが出来なくなってしまうかもしれない」

 音河が頭を下げた。高慢でプライドの高い彼が、彼よりも一回り年下の少女の頭よりも低い位置に頭をおいた。
 その様に、逆に頭を下げられた奈津が戸惑いを見せているほどであった。

 音河は10日前に、屈辱的な敗北を、立て続けにした。
 彼が信じていた『仮面ライダー』という偶像に。格下だと思っていた山口十三に。そしてこの、渡部奈津に。
 たった一晩で彼が信じていたもののいくつかは崩れ去り、それを風見志郎に見抜かれた。
 彼の今の自我は、勝ち続けることで確立してきたものだ。
 その高慢な性格も、高級な衣服やアクセサリーも、全てその裏に存在する脆さを隠すためのアイテムに過ぎない。

「だから、僕は、貴女に『果し合い』を申し込みます。もう一度、僕が僕自身に向き合えるようになるために…」

 音河は、頭を下げたまま、奈津に言う。

「渡部さん、貴女にスケープ・ゴートになってもらう」

 そう言い放った音河の身体もまた、小刻みに震えていた。
 あの時、あの夜に奈津によって気絶させられたその瞬間を思い出しているのだろう。

 だが、客観的に見れば、あの時奈津は音河の命を救っている。あのまま戦いに赴けば、間違いなく音河は死んでいただろう。そもそも勝負ですらなかったのだ。
 それに、あの時音河は再起不能になるほどの傷を負っていた。その時の負けなど、音河の『負け』になるのだろうか。
音河には、なるのだ。

「音河さん、頭を上げてください」

 そして奈津は、先ほどとは打って変わった落ち着き払った様子でそう音河へ語りかける。
 その一方で、未だ黒百合が慌てふためいているがそれをやはり無視し、奈津は言葉を続ける。

「分かりました、そこまで言われれば私も断るわけにはいきません。全身全霊をもってお相手します」

 そういわれて、音河は頭を上げる。その顔は、屈辱を隠す氷のように冷たい無表情であった。
 その音河に向かい合うと、彼女もまた冷たい声で淡々と話す。

「但し、ルールは互いにオープンフィンガーグローブを着用の上で素手、武器や附術の使用は禁止。さらに目突きと金的、噛み付きも禁止。これだけは譲れません。本気での『殺し合い』をするわけにはいきませんから」

「……受けていただいて有難う御座います」

 その音河の声もまた、先ほどとは打って変わって氷のように冷たかった。

「それでは、二週間後に」

 それだけ言うと、音河は立ち上がり、裾を翻して奈津達に背を向けて立ち去ろうとした。

「……一言だけよろしいでしょうか」

 その時、今迄黙って口を一文字に結んでいた春樹が口を挟む。

「なんでしょうか?」

 そう声を掛けられた音河は立ち止まるが、振り向くことはない。
 だが、春樹は構わず言葉を続ける。

「貴方は、勝ち続けることで強くなると仰りましたが、それは違う」

「……」

 音河は背を向けて答えない。そして春樹もまた振り向くと、音河に背を向ける。

「負けて初めて得られるものもある。今までの貴方なら、間違いなくなっちゃんに頭を下げるなんてことは出来なかっただろうね」

 それだけ言うと、音河の返答を聞くことも無く、彼は歩き去っていった。




 そして冒頭へと戻る。




 『陰陽寮』が試合場に二人の戦士、音河釣人と渡部奈津がそろい、互いに向かい合い構えたその時だった。観衆は、この模擬戦は自分達が想定していた事態よりもはるかに重大な意味を持つことを理解しあった。

 ざわり、ざわりと二人を取り囲む観衆達がどよめき出す。

 二人が構えた瞬間に、音河は奈津へ向けて『殺意』を放った。
 いや、殺意と言うのも若干の語弊が有るかもしれない。音河は奈津を殺したいわけではない。ただこの模擬戦の結果、別段奈津が死んでも関係ないという『気』を解き放ったのだ。
 例え全力を尽くしての戦いであったとしても、『模擬戦』と『果し合い』は違う。『模擬戦』には、組み手の相手に対する思いやりが存在する。模擬戦は互いの技の錬度や上達を確認しあうためのものであり、相手の隙を突くことはあっても不意を打つことはない。そこに厳しさは存在するが、決して相手に対する悪意や敵意は存在しない。
 対して『果し合い』にはそんな優しいカセはない。有るのは今自分の目の前に立つ相手よりも優位で有りたいという欲望のみであり、それを叶えるためには相手の後の人生など興味を持たない。死のうがどうなろうが関係ないのだ。だからこそ相手の不意も撃つし汚い手段も使える。

(音河さん……やはり……)

(もう負けられない、負けたくない。例え殺してでも、殺されても)

 開始の合図が模擬戦場に響いても、二人は互いに見つめあったまま動かない。

 『戦闘』は読み合いだ。相手はどう動くか。掴んでくる? それともローキックか? いやパンチで突いてくるのか?
 突いてくるならどうやって? 順突き? 逆突き? コンビネーションを見越したジャブ? それとも一撃必殺を狙った正拳逆突き?
 それら敵の攻撃を、相手の身長や体重に筋量、使用する格闘技や装備等、さらには彼我の技量差から予測する。
 より実戦に近くなるほどその読む要素は複雑になる。
 そして敵よりも深く読む事が出来たものが勝利者となる。必ずしも相対的に『強い』ものが勝つわけではない。勝ったものが強いのだ。

 動かない二人を見ている観衆達は、じりじりとまるで真夏の太陽に晒されているかのように汗を流していた。流れる粘度の高い、精神性の冷や汗によって喚起される不快感も忘れ、彼らは固唾を呑んで見守る。
 彼らは陰陽寮の職員だ。故に当然、ある程度実戦の心得がある。だからこそ理解できる二人の間に流れる空気が、彼らの汗腺を大きく広げていた。

 一瞬、奈津が音河から視線を切った。
 雨を浴びるように天を仰ぐ。当然、音河はその一瞬を見逃さない。大地を蹴って前へと飛ぼうとする。

 だが、先に動いたのは奈津だった。予備動作なしに跳躍すると、音河の鼻柱まで一気に迫る。
 あえて視線を切ることで、音河が動くよう促す。そしてその動きの頭を制することによって、出鼻をくじく。
 ほんの一秒にも満たない、相手に触れることすらない動きの一つに、ここまで意味がある。

「破っ!」

 発声とともに、音河に手刀を打ち込む。ここでいう手刀とは、よく連想されるような『チョップ』ではなく掌を広げ、掌の側面部を軽いジャブのように打ち込む『手刀打ち』のことだ。

「くっ!」

 鎖骨を狙って放たれたそれを、音河は間一髪スウェーで回避する。
 しかしそこで奈津の攻撃は終わらない。今度はスウェーによって広げられた距離によって、ちょうど打ち出した手刀が音河の手首に近い位置へと移動する。
 そしてその手首を掴む。

(腕を取った……!)

 当然、掴み技の領域となれば柔術家である奈津に分がある。その上、音河はスウェーで避けたことによって、重心が崩れやすい不安定な状況にある。
 ここから固めるか、それとも投げるか、どちらにせよ実際に攻防が始まってからコンマ数秒で、奈津は音河の命運を握る。

(そう簡単に!)

「しっかり掴んでいてくださいよ!」

 音河はそう奈津へと声をかけ、自身はスウェーバックで倒れかけた上体を、奈津が投げるよりも早く、腕をつかまれたまま後ろへとそらし倒れこむ。
 崩れた状態を直すよりも、掴んだ奈津が音河を投げるよりも、その崩れているベクトルへ逆らわずに倒れた方が早い。
 そして両足を奈津の首元へとかけようとする。

(飛びつき逆十字!)

 本来ならばこの体勢からの飛びつき技など不可能だが、音河と奈津の極端なリーチの差がそれを可能にしたのだ。

「ならば!」

 奈津は瞬間的にそのまま踏み込む。
 距離を広げて腕を伸ばし切らなければ、腕十字は成功しない。音河が足を首にかけ倒れこむよりも早く、奈津は一歩早く踏み込む。

「うっ!?」

 音河がその驚異的なスピードに思わず声を上げる。そして奈津の首に足をかけようとし、さらに不安定な姿勢になった音河の、その首を親指と人差し指の間の付け根『のど輪』で挟む。

「あれは!」

 観衆の中の『渡部家』に縁のあるものの数人が焦った様子で声を上げる。その技はまだサムライ達が存在した時代に、彼らが無刀で戦うために、素手で敵を殺すために生み出された技、いや業。

「渡部征鬼流無刀術……」

 奈津が小さく息を吸い込む。そしてその瞬間、音河は首筋にぞわり、と蛇が走ったような感触を覚えた。

「巳極!」

 そして瞬間、不安定の姿勢のままでいた音河の足を払い、その筋肉の鎧に包まれた身体が宙に浮く。奈津はその『のど輪』を首に押し付けたまま、音河を大地へと叩きつける。

(受身!……は取れない!? 片腕が掴まれている! もう片腕で支える? いやこの勢いだと支えれば腕が折れるか関節が外れる! 首が押さえられている気管支が潰れる腕も伸ばされる後頭部を強打する……死!?)

 走馬灯のように音河の脳内に、猛烈な勢いで様々な考えが浮かんでは消える。
そして一秒にも満たない時間の中、彼は弾かれた左足をさらに躍り上がらせた。

「くう!」

「うっ!?」

 音河の身体が大地に叩きつけられた瞬間、音河と奈津は同時に声を上げる。音河は苦悶の声を、奈津は驚きの声を。
 そして『受身を取ることが出来た』音河はすぐさま掴まれた腕を切り抜いて外すと、大地を蹴って飛び起きると同時に距離を取る。
 音河は、投げられる寸前に足払いによって弾かれた足を、更に跳ね上がらせることによって、奈津の背中を蹴ったのだ。無論、体重の乗った蹴りではないからダメージを期待しての蹴りでは無く、彼女の重心を少しでも崩すための蹴りだ。

 投げ技は力学の世界だ。力ではなく、重心の移動を利用して相手を投げる。だからこそ小さな力で相手を投げることが出来、大きなダメージを与えることができるのだ。
 だからこそ、重心がずれればそのずれた分だけホールドは外れやすくなる。そしてここでは、奈津との体重差が彼を救った。いくら筋力が強かったとしても質量が小さいものが大きいものに作用されれば、動くのは小さな方であるのだ。だからこそ、音河は奈津の重心を不安定な体制からの蹴りで崩すことが出来たのだ。

(もし、ここまで極端な体重差がなかったとしたら……)

 音河の気管支は潰され、腕の筋は伸ばされ、後頭部を強打しそのまま目覚めるのは医務室、場合によっては二度と目覚めなかったかもしれない。
 その事実に、奈津もまた本気になっていることを実感する。

「ははっ! いいですね!」

 恐怖とも歓喜ともつかぬ感情に動かされ、思わず音河は声が出る。
 一度仕切りなおすために、彼はバックステップでさらに距離を取ろうとする。
 音河の身長184cm。対して奈津の身長は150cmもないだろう。おおよそ148cmといったところか。
 互いに飛び道具の使用を禁じたこの状況で、身長差はそのまま攻撃の射程の違いに繋がる。ならば当然、距離をとったほうが背の高い音河が有利だ。

「退かせん!」

 そして当然、それは奈津も分かっている。距離を取らせまいと音河を追撃する。
 その瞬間、音河は内心で笑いを浮かべた。

「しまっ……!」

 今度、動きをくじかれたのは奈津の方であった。
 音河はバックステップをしたと見せかけ、その場で大地を蹴る。そして奈津が追いすがってくるのにあわせて、その小さく美しい奈津の顔面目掛けて渾身のストレートを見舞う。

バチン!

 肉と肉が弾けあう音が響く。奈津はかろうじてそのストレートを、広げた掌で受け止め防ぐ。

「つっ…!」

 その時、音河は怪訝な表情を作る。拳の当たった手ごたえに奇妙なものを感じたのだ。

「奈津はん!」

 観衆に混じって見物していた黒百合が声を上げる。
 音河のストレートを受け止めた奈津の小さな身体が、打撃を受けた姿勢のまま大きく、通常の柔道場よりも畳一周分大きいこの模擬戦場の端まで飛ぶ。

(それだけ弾け飛べば、受けた腕はタダでは済まない筈……)

 だが、その奈津は音河の思惑から外れ、何の問題もなかったかのように着地すると、受け止めた左の掌から煙を上げながら構えを戻す。
 その様子に、おお、と小さな感嘆がまたもや上がる。

 奈津が手刀を打ち込んでから、音河がストレートで反撃するまでこの間10秒もたっていない。
 しかしその短いながらも、まるで未精錬の蜂蜜のように濃厚な攻防に、改めて観衆は音をたてて唾を飲み込む。
 そしてその濃厚な空間の中心に位置する二人は、奈津も音河も周囲の熱気とは対照的な、冷水のような冷たい表情を浮かべ今の攻防を反芻していた。

(音河さん、なんというスピードだ……)

 奈津は音河のパンチの威力よりも寧ろ、一瞬で重心移動を行えるスピードと突進力に感嘆していた。
 破壊力で言えば、音河よりもさらに強大なパワーを持つ改造人間や『妖人』と戦い倒してきた。スピードも、直線的な速度で言えば音河など問題にならない速度のものも大勢いた。
 しかし、これほどの速度でウェイトシフトを行う敵と戦った経験は殆どない。それほどに『肉体の使い方』が上手い。
 奈津自身、速度には自信があっただけに、『純粋な生身の人間』で自分と同等の速度を持つ相手が存在することに、少なからず驚愕を覚えていた。

 そしてその音河は、奈津以上の精神的動揺を感じていた。
 奈津が防いだ音河の右ストレート。
 あれは実は、音河にとって最高の技の一つだ。
 音河がバックステップに見せかけたことによって十二分に大地を蹴り、大地からの反作用を得ることが出来ていたし、追いすがってくる奈津に対しては完全なカウンターになっていた。やや不十分な体勢であったとはいえ、腰の回転、腕の振りぬき、どれも十分であったはずだ。
 早い話が『拳を用いた一撃』に限定すれば、音河はあれ以上に威力のある打撃を打つことが出来ないのだ。

(打撃の威力を逃がされた……)

 実際に、十三の『アドリブ』によって打撃の威力が逃げるという現象を、音河は身体で体感したことがある。あの時は、拳が当たっているのにまるですり抜けているような感覚があった。それと同じ感触が、奈津を殴った音河の拳に残っていた。
 あの奈津の身体が極端に吹っ飛んだのも、打撃の威力を殺すために自ら後方へ飛んだのだろう。

(予想はしていましたが……『技』なら向こうが上ですかね)

 そう判断すると、音河はガードを大きく上げるピーカブースタイルから、右手のみを顎付近に残し、左手を下ろして肘を90度曲げて腹部付近に置く構えを取る。そしてその左腕を左右に振りはじめる。

「ヒットマンスタイルか……」

 観衆の一人が呟く。
 五階級制覇を成し遂げた名ボクサー、トーマス・ハーンズが得意としたこのスタイルからは、とある独特なパンチが飛び出す。

「つっ!」

 空気を切り裂く音を上げ、奈津の顎を目掛けて左の『フリッカージャブ』が飛ぶ。
 このフリッカージャブとは、脱力された左右に振る左腕から、通常のジャブとは異なり下段から顎へ向けて死角から飛ぶ。
 しなるムチに形容されるこのパンチは、通常のジャブと混ぜ合わせることで捕らえがたい変幻自在の攻撃と化す。

「クロスレンジでしか戦えない猪だとでも思いました?」

 拳の嵐。
 まるで機関銃の如く連打される音河の左ジャブを、奈津は平然とした顔でそれをパリで叩き落とし、あるいは避ける。
 フリッカージャブの弱点は、体重が乗り切らないこと。つまり威力が小さいのだ。
 しかし、音河のこれは特別だ。彼はこのジャブを対・改造人間用に使用できる威力へと鍛え上げている。
 そしてそれを、音河は手を休めることなく連打を続ける。

(例え技の威力を逃そうと弾こうと、攻め続ければ!)

 この距離では、ジャブに蹴りをあわせても奈津の反撃は音河へと届かない。さらに、鞭のようにしなり、軌道の予測が難しいフリッカーを通常のジャブと混ぜ合わせて放たれれば、掴むこともまた困難だ。故に、一方的に音河が攻撃を続けることになり、受けに回り続ければいつかは奈津も膝をつくことになる。

「……っ」

 奈津はその打撃を受けながら、奥歯を噛み締めた。
 この攻撃から、音河は奈津に対してこういっているのだ。『お前は小さい』と。フリッカージャブは自分よりも身長が小さな相手に対して圧倒的に有利な攻撃スタイルであるからだ。
 さらにもし、一瞬の隙を突いて距離を詰めることが出来ても、そもそものこの男の戦闘スタイルはインファイトだ。懐での強力な攻撃手段もあるだろう。嫌味なほどにシステムとして完成された格闘スタイルだ。
 もし実戦ならば、奈津も符術等による飛び道具や、彼女の身の丈ほどもある妖刀『鬼切』等を使ってリーチの差を埋めることも出来るが、この場ではそうもいかない。

「だが……」

 今の音河のように、距離を開けてのジャブで相手の体力を削りとろうとする戦い方は、奈津のようにリーチを小さい敵と戦う時には鉄板とも言える戦法だ。
 それだけに、リーチの差を頼りにする敵との戦闘経験が奈津には最も多い。だからこそ、そういった敵への有効な戦い方を心得ている。

「その程度!」

 奈津が吼える。
 音河のジャブを大きく弾くと、そのまま倒れこむように音河の懐へと踏み込む。そして音河の顎へ掌打をアッパー気味に叩きこもうとする。

「よく騙されやすいって言われません?」

 音河は卑しい笑いを口元に浮かべ、奈津の頭上から声を浴びせる。
 その瞬間、奈津は背筋に何百匹もの羽虫が蠢くような感覚を覚える。
 彼女は反射的に左手を左即頭部に沿え、防御の構えを取る。そして構え終わるか終わらないかのうちに、防御に備えた左腕に強い衝撃が走る。

 音河の右フックが、奈津の即頭部を防御した腕ごと叩いたのだ。

(手ごたえあり!)

 左ジャブの連打で奈津の意識を激しく動く左手に向けさせて、意識外から弧を描くように飛ぶ右フック。
 音河の思惑通り、意識の死角から放たれた打撃は、威力を殺させることなくガードした腕ごと打ちぬく。

 勝負有り、音河はそう確信した。

 格闘において最も重要なファクター、それは体重だ。当然背丈が大きいほど重くなるし、そして重い方が一般的に言って強い。
 力学的に言えば、運動量は質量×速度で表されるから、同じ力で押し合ったとしても弾かれるのは体重が軽い方であるし、生物学的に言えば、重ければそれだけの量の筋肉を搭載していることになる。
 音河の体重は95kg。一方奈津はいかほどであろうか。女性の体重を推察するという失礼は全く捨て置き、音河は彼女の身体を見る。
 はっきり言って、細い。
 筋肉が脂肪より重たいという事実を差し引いても、重く見積もって彼女の体重はおおよそ40kg程度だろうか。胸に二つ程いささか大きなウェイトがぶら下がっているが、そこまで変わるまい。

 ここで、ボクシングが体重によって厳しく階級が分けられているという事実について言及したい。
 二人をボクシングの階級に当てはめると、奈津は最軽量のミニマム級以下。音河は最重量のヘビー級以上。その差は当然ながらボクシングの階級数と同じ17階級。奈津が音河と対峙し、正面から殴りあうというのははっきり言って自殺行為である。
 そして重要なのが、ボクシングにおいて三階級差があるだけで、『ガード』が意味を為さなくなるという。それだけ体重に差があると、ガードの上からでも十分にダメージを与えうるのだ。
 当然、これだけ体重差があれば、ガードされたとて側頭部に打たれた一撃で、奈津の意識は頭から飛ぶ筈。音河はそう確信する。

「普段騙す方は騙される側に回ると、案外すんなり引っかかるそうですよ」

 だが、奈津は受けながらさらりと音河へ返す。
 そしてその場で倒れこむように踏み込むと、フックを引き戻している最中のがら空きの音河のボディへ掌打を打つ。

「ぐむっ!?」

 それを受けた瞬間、音河は身体の隅々に鉛を詰め込まれたような感覚を覚える。
 自分の両手両足を重く感じ、とても立っていることが出来ない。
 そのまま、無様に膝立ちになり、そして前のめりに崩れ落ちる。

「……渡部流無刀術、子打」

 残心を残したまま、静かに奈津は呟く。

 渡部征鬼流無刀術。
 陰陽師でありそして侍でもあった渡部家に脈々と受け継がれる素手での格闘術。
 12の投・打・極の複合技を骨子とするこの古流格闘術は、全てが一撃必殺の威力を誇る。
 その一つ、子打が音河を襲った。
 この技は、掌打によって相手の肉体内部の水分に波紋を起こし、それにより筋線維を崩してしまう技だ。
 但し、当然ただ打つだけでは効果はなく、相手の筋肉繊維が伸びきった瞬間に打たねば効果は薄い。
 即ち奈津は、音河に敢えて自らの左即頭部を晒すことで隙を作って見せ、自らの肉体をオトリに音河にフックを打たせ、その打った瞬間に合わせて『子打』を打ったというわけだ。

「誰か担架を。おそらく2〜3時間は立ち上がることも出来ないだろう」

 音河がとったジャブの連打で体力を削り、焦れて組み技を仕掛けに来た相手にカウンターを撃つ、もしくは対角線気味に右ローを打って体勢を崩す、という戦法は、素手同士の戦いの際、相手よりも大きくリーチにおいて勝っている場合において定石ともいえる戦法だ。
 前述したとおり、そういった戦法を取る相手との戦闘経験は奈津には多い。そしてその対抗策として生み出したものが、自らの肉体をオトリにこの『子打』を撃つこの戦い方だ。
 この小さな肉体と相対し、踏み込めば必ず相手は極め技よりも打撃を取る。その心理的な死角を突いた戦法であった。
 もし、その一撃に耐えることが出来ねば奈津の負け、それほどに彼女は彼女自身が鍛えた肉体に信頼を置いていた。

(か……く……)

 一方、口元から涎を垂れ流し、小刻みに肉体を震わせて畳の上に突っ伏している音河は、改めて奈津の強さを再認識する。

 筋力の強さというのは、筋肉の断面積に比例する。故に、彼女の体型から単純な身体能力は自身よりも下だと音河は推察していたが、どういうわけだか渡部家には体型を大幅に変化させることなく、身体能力を強化する鍛錬法が存在するようだ。
 音河は、奈津が『技』によって身体能力の不利を補い改造人間等相手に立ち回っていると予想していたが、どうやら外れたらしい。彼女は単純な身体能力から既に人間の範疇を超えている。自分と同等かそれ以上に。日本には、ただ自らの体を「鍛え続ける」ことのみによって改造人間と同等かそれ以上の身体能力を獲得した「鬼」と呼ばれる戦士たちがいると聞く。彼女もまた、それと本質的には同じ存在なのだろう。
 いや、この予想が全く外れているというわけではないだろう。おそらく彼女らは、この恐るべき身体能力を駆使した上で、対・改造人間にも通用する『技術』があるのだろう。それらをこの模擬戦で使用された場合、音河に勝機はあるのか? 肉体的にも技術的にも自分を上回る相手に。

(自分よりも強い相手と戦う……か)

 音河は自分でも意識しないまま、何故か笑っていた。
 『音河釣人』は、彼の本名ではない。かつて傭兵をしていたころ、同じ部隊にいた死んだ日系人の隊員の戸籍を買った名だ。

 その名を名乗る以前の彼は、敗北に塗れていた。
 殴られ、蔑まれ、陵辱された。
 『敗北』とは、彼にとって『音河』を名乗る以前の自分の人生そのものなのだ。だからこそ、敗北を受け入れられない。敗北を受け入れれば、他人の顔色を伺って生きてきた惨めな自分に再び戻ることになる。
 もうそれは、音河釣人ではない。

「……け……たくない」

 そう音河は小さく呟くと、両手を大地に突く。

「……ふふふ」

 そしていつものように軽く微笑んで見せると、ファイティングポーズを取る。

「立った……」

 ざわめきが観衆たちに広がる。奈津もまた驚きを隠せない。

「その程度じゃあ僕を倒せませんよ、貴女の攻撃は軽すぎる」

「音河さん……たとえどうであろうと、私の前に立つならば私は貴方を打ち倒します。貴方が背後に何を背負っていようと」

 しかし、それでも奈津の表情は厳しいままだ。
 それが果し合い。そして挑んできたのは音河なのだ。挑んだ音河がそうであるように、受けた奈津にも奈津の覚悟がある。
 彼女の問いかけに答える代わりに、音河は荒く息をするその口元を、少しだけ上げて、いつものように微笑を崩さない。

「……往きます」

 そう一言だけ呟くと、奈津は一直線に音河の懐までもぐりこむ。その速度は音河をはるかに凌駕し、迎撃する隙を与えない。
 そして、そのまま鉄肘を叩き込む。

「破!」

(重い!)

 しかし、音河はそれを両腕を交差させるクロスガードで何とか受け止める。
 受けて初めて分かる、奈津の打撃の重さ。とても自分の半分以下の体重しかない少女の打撃とは思えない。
 そして、懐まで踏み込まれれば音河の優位は減衰する。

(さっきの妙な掌打のせいで、体の弛緩が抜けてない……これではあの『新技』も打てない……!)

 音河は、両腕を高く掲げて防御に専念する。
 たとえ多少のダメージが蓄積しようと、ここはこの肉体の弛緩から回復しなければ話にならないからだ。
 そしてその音河に対し、奈津は容赦なく打ち込む。
 手刀、
 孤拳、
 足刀、
 縦拳、
 踏破、
 肘打。
 次々と打ち込まれるそれらは、古流武術における一撃必殺を狙った打撃を、近代格闘技におけるダメージの蓄積を狙ったコンビネーション風に改良したものだ。
 渡部征鬼流は演舞のみの武道ではないのだ。
 文字通りの死線を潜り抜けて少しずつ、雨水が石を穿つように、時間をかけてより実践的に改良を施されてきている。

(重い! ……そして速い!)

 防御に専念していることを除いても、奈津のコンビネーションは反撃を許さない。
 一撃一撃を受けるたびに、肉体に鉛を詰められていくような感覚が残る。
 それでも音河は息を潜めて、手足を甲羅へ引っ込めた亀のように、あるいは塹壕に潜む兵士のようにその打撃を受け続ける。
 この肉体の弛緩から回復しなければガードを解いた時点でやられるだけだ。

(固い……!)

 一方の奈津もまた、多少の焦りを感じていた。
 音河は一切の攻撃を捨て、防御に専念する。
 『後の先』という言葉があるように、相手が攻撃する瞬間は、最大のチャンスでもある。だからこそ、逆に今の音河のように防御に専念されれば、致命打を与えることは難しい。
 そして奈津は経験上、人間という生き物が存外頑丈であることを知っていた。
 殺せるときはそれこそボールペン一本あれば事足りる。
 しかし、真に相対する覚悟を持ったものならば、何の経験もない一般人ですら改造人間に一矢報いることすらある。今の音河はそういう状態なのだ。

(どうする……!?)

 しかし、そういう状態になった相手に対して有効な攻撃が渡部征鬼流には、というよりも実践的な古武道にはある。
 部位攻撃。
 例えばこの戦いで禁止されている金的や目突きなど。
 だが、それらは決定的な一つの『ライン』でもある。
 これは『果し合い』であると音河は言った。そう言う以上、音河はこの戦いに彼のプライドという重大なものが賭かっているのだろう
 しかし、この戦いに奈津は賭けているものはない。
 殺される危険は、常に覚悟している。しかしこの戦いで殺す必要はない。
 しかし部位攻撃の使用は、その『ライン』を超えることになる。本気での殺し殺しあうラインを踏み越えることになる。
 いつも改造人間相手にしていることを、この『音河釣人』に行うことになる。
 そこまでの理由が、彼女にはあるのだろうか。

「けいっ!」

 奈津は奇妙な発声と共に、小指を立てて音河の唇の端を引っ掛ける。

(!? これは!?)

 音河の身体が、彼の意思とは無関係に、引っかかった彼女の小指にコントロールされる。
 この技は、身体の末端部、例えば耳や、今のように口の端、さらには眼窩などに指を引っ掛けて相手の動きをコントロールする技だ。
 さらに、少し変形させれば内耳や眼球といった、危険な部位に対して重大な障害、最悪死に至る技をかけることも出来る危険な技。

 そう、彼女にもあるのだ。『ライン』を超える理由が。なぜならこれは、唯の模擬戦闘ではない。繰り返すが『果し合い』なのだ。事前に殺さないためのルールを設けていたとしても。
 サムライである彼女は、果し合いに手を抜くことはない。実戦で使用できる技であるならば、例え危険であっても使う。これはそういう戦いなのだ。
 そうしなければ、おそらく命を懸けて挑んでいるのであろう音河に対して、寧ろ失礼にあたると彼女は考える。

「引張落として!」

 奈津は小指で音河の巨体を引き寄せる。このままでは、音河は再び奈津に捕まる。当然、捕まりあいになれば柔術家でもある奈津が圧倒的に有利だ。
 ところでこの技には、唯一の脱出方法がある。それは。

「があああああ!」

 音河が叫びと共に、血と唾液を撒き散らす。
 自分から、小指に引っ掛けられた口の端を引き千切ったのだ。

「らぁっ!」

 そして、引き寄せるために腕を伸ばしていたため、空いた状態になっていた奈津のわき腹にフックを入れる。
 筋肉という柔軟なアクチュエータでもある装甲に守られていないレバーの、柔らかな感触が確かな手ごたえとして音河の拳へ伝わる。

「ぅ!?」

「このっ!」

 だが音河は、そのままコンビネーションのアッパーに続けようとせず、一発撃つとバックステップで距離を取る。

「ふぅー……」

 そしてまた、先ほどまでと同じように防御を固め、じっとして動かない。
 ボクシングや柔道の試合でなら、消極的態度による指導が入っているところだ。

(休むんだ! 情けなかろうと何だろうと、今は痺れが抜けなければ話にならない)

 音河は自信の肉体から、徐々に弛緩による痺れが抜けてきているのを感じている。だが、まだ不十分だ。
 彼女は、強い。とてつもなく。
 音河のレバーへのフックがまともに入れば、あばら骨を砕き、内臓を破裂させ、その破裂した内臓に砕けた骨が混じって再起不能になる、それぐらいの威力はある。にも関わらず、眼前の彼女はけろりとした顔だ。

(少しは辛そうな顔を見せたらどうです? 可愛げのない……やはり、彼女に対しては『アレ』しかない)




 奈津は音河が守りを固める様子を見て、彼が一体何を考えているのか、思案する。
 何の考えもなしに、ただひたすら『負け』を引き伸ばすためにただ逃げている、というものではないだろう。
 その証拠に、音河の目は、まだ戦う気に彼が溢れていることを示していたからだ。
 切れた唇の端が血で濡れて頬まで達し、まるで獣のように見える音河の目は、らんらんと光り輝いていた。

(……何か、隠している技がある?)

 あるいは、彼の性格を考えれば、隠している凶器。
 彼が防御を固め、攻撃に出てこない直接の理由は明白だ。『子打』によって受けたダメージの回復。だが、回復までに当然、その間に打たれ続ける。
 そのために肉体的なダメージが蓄積するのは分かっているはずだ。そのダメージを考慮しても尚、逆転が狙える手段となると、凶器というのは中々に濃厚であるといえる。
 彼は自分とは違う、『勝てばそれでいい』類の人種だ。過程を考慮しない。自分のように、正々堂々戦うことが自分を高めると思っていない。

(いや、この戦いの意義を考えればそれはないか…)

 この戦いは、音河にとって誇りを取り戻すための戦いだ。凶器や卑怯な手段を用いての勝利は意味がない。
 ただの虚勢、もしくは最期まで諦めない姿勢。そういった類のものとも思えない。
 自分ならば兎も角、彼はもっとシニカルだろう。

「コォォォォォォ…」

 奈津は、独特の呼吸音を上げて空気を肺に取り入れる。

(隠しているものがあるならば……)

 そして、膝を軽く曲げ、その小さな身体一杯にバネを溜める。

「暴きだす!」

 矢のように、弾丸のように、光のように。
 渡部奈津が一直線の線となって、防御を固める音河に突き刺さる。

「くぅ!?」

 縦拳の順突きが、音河の身体に突き刺さる。
 だが、その衝撃は受けた腕ではなく、その下の臓腑に感じた。

「な!?んだ!?」

 渡部流無刀術、戌打。
 骨法の秘儀である『通し』に良く似たこの技は、相手のガードの上からその下にある内臓系に直接打撃を送り込む。
 理屈としては、連玉振り子と同じだ。一直線にいくつかに並べた玉のうち、一番端のものを弾くと、その反対側のものが跳ね上がる。
 それを、人間の肉体でやる。それだけだ。

「あがぁぁぁぁぁ!」

 その単純な理屈を、実践することの難しさ、そしてその威力を、音河は身を持って示す。
 彼は、込み上げてくるものを抑えられず、口から大量の血と胃液が混じったものを吐き出す。
 つんとした酸味を帯びた臭いと、鉄さびのような臭いがあたり一面に漂うなか、奈津は音河に再び連撃を加える。
 撃つ。
 打つ。
 討つ。
 先ほどの連撃とは趣向を変え、手数よりも一撃一撃に重きを置いた、連撃というよりは『多数の一撃』。
 敢えて、一撃ごとに一瞬の間隙を開け、音河の『隠し玉』を誘い出す。

 しかし、音河は動かない。一方的に打たれ続ける。防御のための動き以外は一切行わない。
 見る間に彼の男性のものとは思えないほどに白くきめ細かく美しい肌にはアザが刻まれていき、その顔は膨らんでいく。

(まだ……耐えるんだ……この二週間を思い出せ……)

 音河はじっと反芻する。




 重傷を負った音河は、ベッドの上で対イノ・クラッベ用の技の考案に終始していた。
 奴の硬い外殻を貫くにはどうすればよいか。
 クラッベに電磁警防で殴りかかった際に付着した、クラッベの外殻の破片の解析をICPOに依頼したところ、その外殻は戦車砲の一撃をも容易く防ぐだろうとの回答が帰ってきた。
 これを、通常の携行兵器の類で貫くのは難しい。だからといって、ミサイルを持ち歩くわけにもいかない。
 魔術的なガードはかかっていないとの解析結果も返ってきた。故に、そういった技術ならば貫けるかもしれないが、生憎音河にはその心得はない。そしてこれからも習う気はない。

 ならば、自らの拳。音河はこれに、絶対的な信頼を置いていた。
 彼の常人をはるかに凌駕する身体能力は、時に改造人間を正面から圧倒することさえあった。
 しかし、それであっても奴の装甲を貫くことは不可能であると音河自信が結論をつけた。

 突然だがここで、材料力学の初歩について少し言及したい。
 弾性変形と塑性変形。
 弾性変形とは、読んで字の如く弾性のある変形だ。材料に荷重を加えている間は材料が曲がり、荷重を取り除けば曲がっていた材料は元に戻る現象。これが弾性変形。引っ張ればゴムは伸び、手を放せば元の形に縮む。
 一方、塑性変形とは、一度荷重が加わって変形した材料が、荷重が取り除かれても元に戻らずに変形が残る現象。これを塑性変形と呼ぶ。細い針金を曲げれば、手を放しても元の形には戻らない。

 何故、塑性変形した物体は元に戻らないのか、それは加えられた荷重と等量の『応力』が材料の中に残るからだ。この応力が、材料が耐えることが出来る限界を超えれば、物体は破壊される。
 つまり、ここで言及したいのは、荷重を取り除いても加えた『力』は物体の中に残るという事実である。言い換えれば物体を破壊するための力を『貯金』できるということだ。

 そしてもう一つ、肉体的な限界について。
 人間は、戦車を破壊するようなパンチを打つことが出来ない。
 それは筋力等の問題を別にしても、拳を加速させるための距離が、腕の長さしか存在しないからだ。つまり、破壊できるほどの速度は出ない。

 ならば、加速させる距離を腕の長さ以外のものに求めてはどうか? それを音河は『体重移動の距離』に求めた。
 足先から腰、腰から肩、肩から腕への総移動距離は、はるかに腕よりも長い。
 その距離の重心の移動、即ちウェイトシフトの高速化ならばまだ、音河自身の鍛錬の余地が存在する。

 尚、その肉体構造的な限界を『ねじり』という形で超えた男が居るが、それはまた仮面ライダーFAKEの物語とは全く別の話。

 話を戻して、この『物体の塑性変形による破断』、『ウェイトシフトの高速化』の二つの要素から、対イノ・クラッベを考えた際、一つの攻撃が導き出された。
 そしてそれを完成させるための特訓がこの奈津に果し合いを挑んでからの二週間だった。



(肉体の痺れが取れてきた……)

 音河は自身の肉体のコンディションを正確に把握する。
 この『技』を放つには、何をおいてもこの肉体の弛緩から回復する必要がある。そして、その間に受けたダメージ。上から順番に。

 『若干』の呼吸のしにくさ。鼻中隔の軟骨の粉砕骨折。
 舌で触れ時、顎がぐら付く。下顎骨に亀裂骨折。
 肋骨の6番と7番にヒビ、もしかしたら7番は折れているかも。
 血が込みあがってくる。胃が破裂しているようだ。
 右足の中節骨4番が完全骨折。
 全身の細かい打撲、捻挫をダメージには含めない。
 オール・グリーン。問題ない。

(脳内麻薬の分泌の仕方は、この間の戦いで覚えた……! 脳のリミッターを外す!)

 有名な話であるが、人間の筋肉は全力で使われていない。最大出力の7割程度に抑えられている。一般的な成人男性であっても、筋肉の力が最大限に発揮されればコンクリートであっても砕けるし、グランドピアノだって垂直に持ち上げられる。それを音河は、意図的に外す。
 そして同時に過剰分泌されるアドレナリンやエンドルフィンといった脳内麻薬が自身を興奮させているのを感じ取る。
 次いで、それらの肉体の反応によって力む自身の筋肉を、逆に可能な限り軽く脱力させる。

「おおおおっ!」

 音河は叫ぶと、奈津の眼前で防御の構えを解き、なんと脱力された無防備な姿をさらしたのだ。
 そして西部劇に登場する二丁拳銃の早撃ちガンマンのように、両拳を腰貯めに構えた。

「ついに見せたかっ! 正々堂々と受けて立つ!」

 その音河の様子に驚くことなく、奈津も又吼える。
 連撃を止め、両手を開手で前に突き出し、両手で円を描くように動かす。

「破ァッ!」

「……シュ!」

 二人が一瞬で距離を詰める。
 訓練された戦士である筈の観衆たちに見えたのはそこまでだった。

ぱん

 乾いた破裂音が、一つだけ響いたように観衆には『聞こえた』。
 そして気付くと、奈津が先ほど立っていた位置よりも数メートル離れた位置に仰向けで倒れていた。



 その時、その場で音河以外の人間では、奈津にのみ見えていた。聞こえていた!
 突き出した奈津の両手が、音河が攻撃するよりも早く、彼の肉体に突き刺さる。しかし、それでも音河は止まらない。奈津の掌打によって胸骨にヒビが入ったことにも厭わずに、強引に肉体をねじ込んでくる。

(止まらない! 腕も出さない!? 前にまだ出る!?)

 そして、腰貯めに構えていた音河の両手が消えた。

パパパパパパパパン!

 数えられないほどの破裂音と、全身に感じる違和感。

(私は今、何をされているんだ!?)

 奈津は自身の肉体に何かが触れていること感じ取る。そして、それが拳であったことを一瞬送れて把握する。だが、同時に奇妙な違和感に気付く。

(拳!? おかしい! 今音河さんの拳は、二つとも私のみぞおちに触れて……)

 さらに気付く。拳がいくつも様々な箇所で自身の身体に触れている。
 『数え切れないほど』の拳が、まるで壁を作っているかのようにすら見える。
 そして、突き飛ばされた。
 自身の身体が宙に浮き、大地から離れて飛ばされるのをスローで感じる中、遅れて『痛み』がやってくる。そこで初めて奈津は、今の技の正体に気付く。



「高速の連打……」

 息を絶え絶えながら、奈津は口走りながら立つ。

「……名付けて、ノウカウント・ナックル!」

 それに対し、音河は拳を振って答える。
 そしてその一瞬送れて、観衆たちがワッと沸きあがる。
 殴られた痛みが遅れてやってくるほどの、数え切れない高速の連打。それが音河の新技、ノウカウント・ナックル。

「ハッ……ハッ……」

 奈津は肩で息をしながら、立ち上がって構えを直す。
 その様子を見ながら音河は、先ほどまでとは打って変わって余裕な様子で残心を取る。

「恐るべき……実に恐るべき技です……音河さん……」

「その様子だと、今の一回で見抜いたようですね」

 そう言うと、音河は再び両拳を腰貯めに落とし、ノウカウント・ナックルの構えを取る。

「その技の肝要は拳の連打よりも寧ろ、その技の前段階、構えの状態にあります」

 音河の構えを見た奈津は、静かに語りだす。

「その独特の形の拳が、その連打を行う速度を伝えることに成功させた…」

 そう奈津が言い終わると同時に、音河は構えから拳を繰り出す。但し、今度は非常にゆっくりとした速度で。
 そして突き出された拳は、しっかりと握り締められた『握り拳』ではなかった。まるで開きかかったような、軽く握られたような、拳と呼ぶにやや違和感を覚える手の形であった。

「この握らないパンチ、ちょっとばかり苦労しましたよ」

 『パンチ』というものに対して、軽く握ったような状態で打ち出し、相手に接触するインパクトの瞬間に強く握り締めろと、おおよその格闘技は教える。
 少林寺拳法でも、ボクシングでもそうだ。
 何故、軽く握った状態で殴るのか。それは、その方が素早いパンチが打てるからだ。力を込めて硬直した筋肉は速度を伝えない。
 そして、その究極が『握らないパンチ』。パンチと言うのは指の付け根で殴るのが理想とされる。もしそれが出来るのならば握り絞める必要はないのだ。
 最期まで拳を握り締めないのならば、インパクトの後まで加速できる。即ち素早く拳を引き戻すことが出来る。
 事実、超高速の連打を武器とするWBC世界バンダム級チャンピオンの長谷川穂積は、ラッシュを見舞う際拳を握り締めない。

 そして音河は、この拳を鍛えるためにタングステンを殴り続けた。
 綺麗に付け根で殴ることが出来なければ、自身の指を痛める。その背水の陣で特訓を行ったのだ。

「しかしそれ以上に……」

 奈津はさらに続け、その様子を音河は満足そうに見つめる。

「脳のリミッターを外すことによる、身体能力の限界突破によってもたらされる『剛』と、肉体を限界まで脱力させ、そして最期まで脱力させきった拳を作る『柔』のコントロール。それがその『ノウカウント・ナックル』を支える基盤と見ました」

 握らない拳と同様に、肉体の体重移動もまた、全身が脱力された状態の方がスピードを伝えやすい。
 だからこそ音河は身体を緩めたわけであるが、それはそう簡単にはいかない。なぜならば、音河は同時に、身体能力の限界突破を行っているからだ。
 肉体の制限を外せば、当然、自然と肉体は力み始める。

「生理現象によって力む肉体と、意識的に脱力させる肉体。この相反する二つを同時にコントロールする。とても一朝一夕で出来る芸当ではありません。それを貴方は、たった二週間で……」

 そういわれて、音河は、殴り続けられて腫れ上がった顔でにやりと微笑む。

「さすがは若くとも渡部家当主。よくたった一回でそこまで完璧に見抜けたものです。そんな優秀な貴女なら、今のは完成された『ノウカウント・ナックル』ではないことも分かりますよね?」

「……」

 奈津は答えない。
 この技は、音河が対イノ・クラッベ戦を見越して開発した技だ。一撃では貫通させることが出来ないクラッベの装甲を破壊するための技。
 弾性が完全に取り去られる前に、弾性が戻るよりも素早く連打を打ち込む。この『物体の塑性変形による破断』、『ウェイトシフトの高速化』の二つの要素から、対イノ・クラッベを考えた攻撃手段が連打であった。

「今は貴女の全身に打ち込みましたが…本来ならば同一の箇所に全ての連打を打ち込む技です。固い外殻を持った相手に対して使用するこの技を、生身の人間に使えば……どうなるかわかりますよね?」

 音河の問いに対し、奈津はゆっくりと言葉をつむぐ。

「……例えどういう技であろうと、どんな相手であろうと、臆することなく立ち向かう。それが防人の務めであり、意地です。私を屈服させたければ、どうぞその技をお使いください」

 そういって、奈津はその目に揺らぐことのない闘志を宿らせる。その闘志は、先ほどまで奈津の攻撃を受け続けていた音河の目にも宿っていたものだ。
 それを見た音河は、拳を腰貯めに構える。

「ノウカウント・ナックル!」

パァン!

 拳と空気がぶつかる衝撃で、再び乾いた破裂音が響く。
 だが、奈津はその技が放たれる寸前に、大きく後ろへ跳躍してかわしていた。
 ノウカウント・ナックルの弱点は、足を止めて非常に狭い間合いで打つ技であることだ。故に、超接近戦でしか使えず、間合いが前へと伸びこんでくることも無い。

「くぅ!」

「だけど距離を開ければどうなるか……分かっていますよね」

 奈津が交わしたとみるや、音河は構えを瞬時にヒットマンスタイルへと変化させ、奈津が着地すると同時に再びフリッカージャブの連打を見舞う。

(近づけばあのノウカウント・ナックル! 離れればフリッカージャブ! この状況でどうすればいい!?)

 奈津は考えあぐねる。先ほど使った、自らの肉体をオトリとする手はもう使えまい。
 先程は単なる右フックであったが、今度はあの新技だ。あれを耐え切る自信はない。

「つぅ!」

 奈津の左のこめかみを音河の拳が掠め、皮を切る。
 さらに音河は構えの右前と左前を入れ替える『スイッチ』を行おうとする。

(勝機!)

 いくら体重移動の速度が速いとはいえ、奈津もまたスピードに自信がある。スイッチしてから「ノウカウント・ナックル」の体勢に入るまでの時間があれば、懐へ踏み込んで掴み技の攻防へ持ち込むことが出来る。
 打撃ならば兎も角、掴み技であれば自分に勝機がある。そう確信し、奈津は仕掛けるために前に出る。だが、ほんの刹那、人間が思考可能な限界の短い時間で彼女はふとした違和感を覚える。

(距離が……遠い?)

どっ

「……つっ!?」

 その瞬間、奈津は一瞬、息を上手く吸う事が出来なくなり、ついで腹部に鈍い痛みを覚えた。
 音河のサイドキックが、彼女の腹部にめり込んでいたのだ。

(ふん……)

 音河は、この戦いで意図的にまだ一度も足技を使っていなかった。
 故に、奈津は音河の足技の精確な間合いを把握することが出来ていなかったのだ。
 そこに加えて、彼は先にノウカウント・ナックルを披露した。その技を警戒した奈津は、必要以上に間合いを広げて戦っていたのだ。そこが既に、蹴りの間合いであることにも気付かずに、スイッチが囮であると気付かずに、彼女は突っ込んできてしまった。
 だが、このサイドキックが決まった決定的な要因は、音河の巧みな誘導術に依るものではない。

「体格に差がありすぎるぜコイツは……」

 ぼそりと、観衆の一人が呟く。
 ここにいるもの達のほぼ全て、奈津も含めたほぼ全員が忘れていた事実。それは、奈津の方が体格的に不利であるということだ。
 今の今まで、奈津が音河と互角以上に打ち合ってきたせいで忘れていたが、それはどうあっても変わらないのだ。
 筋肉の積載量は同じだとしても、手足の長さによるリーチの差。それもまた、圧倒的な有利不利なのだ。

「こんなもの!」

 鼓舞する言葉を吐きながら、奈津は立ち上がる。
 音河の足が突き刺さった腹部を抑えながらも、それでも彼女は立ち上がる。

「やぁぁぁぁぁぁっ!」

「あかん、奈津はん!」

 叫びながら前に出る奈津を見て、黒百合が悲痛な叫びを上げる。
 そして相対する音河は、突っ込んでくる奈津を冷静に見据え、両拳を腰貯めに構えた。

「……ノウカウント・ナックル」


ぱん


 奈津は思い出していた。
 自分が物心付いたころにはもう、何となく『それ』を言われているのに気付いていた。
 彼女の生まれた退魔の名門『渡部家』は、遡れば平安時代、酒呑童子と共に京都で暴れまわった鬼、茨木童子の腕を切り落とした渡辺綱まで遡る。
 故に、彼女の家系は陰陽師と自称しながらも、その茨木童子の腕を切り落とした刀、鬼切を用いた白兵を得意とする家であった。
 そんな家に当主となるべくして生まれた彼女を、分家の者達は影ながらこう蔑んでいた。

「『猪尾助』の奈津」

 猪尾助とは、身体の小さなものを嘲る言葉だ。
 式神や種々の術を行使する霊力は当然のこと、渡部の当主には鬼切を携えて立ち回る肉体的な頑強さが求められていた。
 その点、奈津はその体格において明らかに不適格であった。また、霊力の行使は兎も角、やはり肉体的な意味では女性であるということも又不利であった。

 しかし、彼女の父は真の意味で強く、そして優しい人間であった。彼はそんな奈津に時に優しく、時に厳しく接し、彼女を鍛え上げた。
だが、そんな父親でさえ、彼女にとって時に重荷になった。
 彼は、雲をつく大男といった形容がまさしく相応しい男であり、あまり奈津とは似ていなかった。
 そこにかこつけた卑しい連中は『あれは亡くなった奥方様の不義の子に違いない』などという根も葉も無い噂も流れた。

 奈津は、悔しかった。自分だけではない、彼女にとって大切な両親までも貶められたのだ。それも、自分の体格が原因で。
 必死で鍛え上げた。自分よりも大きな体格を持つ相手とも戦った。何度も負けた。そしてその度に強くなった。
 渡部の家に相応しい戦士となるべく、いくつもの厳しい訓練にも耐えた。

 もう二度と、誰かに小さいなどとは言わせない。小さいことを、自分が負ける理由にはしない。



「私を小さいと……言うな!」

(起き上がった!?)

 音河のノウカウント・ナックルを受けた彼女は、音河の足元に膝から崩れ落ちた。
 あの倒れ方をすれば、暫くは立つことは出来ない。そういう倒れ方であった。その彼女が音河をつかんで立ち上がった。

「……っく、離れろ!」

 音河は奈津が立ち上がったことに驚愕し、一瞬呆けていたことに気付き、奈津を強引に引き剥がそうとする。

「!?」

 だが、音河は再び彼女に驚愕する。
 ふらふらに、目も焦点定まらない姿で立ち上がった、細身の彼女の小さな身体の何処に、この力が残っていたというのか。
 まるで万力のような力で音河の手首を掴んで離れようとしない。

「シィッ!」

 音河は掛け声とともに、自分に密着する小さな少女の頭頂部に、肘を叩きつけようとする。
 しかし、意識があるのかすら定かではない奈津は、身体を半歩そらしただけでそれを避ける。

「渡部征鬼流無刀術……」

 そして音河の腕を捻り挙げたまま、瞬時に背後に回る。
 そしてその場でくるりと身体を回したまま、背中合わせのように音河を背負う。

「寅投!」

 龍が人に巻きついて締め上げるような体勢のまま、相手をホールドして投げる。
 音河は右腕の関節を極められながら、顔面から大地にたたきつけられる。

 ぐちゃ、とスライムのような軟性の物体が落ちるような音がして、音河はうつぶせに地に伏せる。

「決まっ!?」

 感性が一瞬、上がりかけるが、仰向けから片膝立ちになるまでの動作を一瞬にして行った音河が、奈津に対して足払いで反撃する。
 奈津はそれを、ジャンプして避ける。

「っ!?」

 瞬間、彼女は『何か』に気付く。圧倒的に不利なこの状況を打開しうる一つの事実に。
 そしてその隙に音河は起き上がると、バックステップで距離を取る。その音河の顔は、丹精な鼻が折れ曲がっており、さらには極められた腕がだらしなくぶら下がっていた。

「つぅ……さすがに今のは効いたな……」

 そういうと、音河はまず、折れ曲がった鼻の穴に自分の人差し指を突っ込むと、内側から曲がっていた鼻を直す。外側からつまんで直せば、鼻がつまり呼吸困難に陥る場合があるからだ。
 その過程で大量の鼻血が、ごぼりごぼりと落ち、畳に染みを作る。

「ハァァァァァァァ…………」

 その様子を、独特の呼吸音を上げながら奈津は黙って見ていた。
 別段、呆けているわけではない。渡部流無刀術、亥吹。独特の呼吸法により、自信の肉体の回復力を一時的に高めて、音河と同じようにダメージの回復を図っているのだ。
 音河のノウカウント・ナックルによって、奈津もまた深刻なダメージを負っている。無理をして攻めるよりも、体力の回復を図った方が賢明だと奈津は考えているのだ。

 そして奈津がそう考えていることを、音河もまた承知している。だからこそ、悠々と今度は、外れた右腕の関節をはめ直す。
 ごきり、という音と共に稲妻のような痛みが音河の全身を駆け巡るが、彼は表情を少しも変えることなく、はめた腕をはらはらと動かしてみせる。

「ふぅ、お待たせしました」

 そういって、三度彼はファイティングポーズを取り直す。
 今現在、与えたダメージの量で言うならば互角といったところだろう。どちらも、常人ならば既に立っていられないほどのダメージを受けている。
 だが、音河は新技ノウカウント・ナックルとリーチの有利を利用した戦法で圧倒的に優位に立っている。スピードが勝っていれば音河の懐に奈津が入り込み掴み技を仕掛けることが出来たかもしれないが、生憎スピードは互角といってよい。

(今、私が出来ること、私と音河さんの差異)

 彼女は考える。今現在、自分が相手よりも勝っている部分は何か、今この状況で利用できるのは何か。
 おそらく膂力と掴み技、そしてスタミナは奈津の方が上だろう。だが、膂力は体重差によって詰め寄られ、掴み技は近づかなければ話にならない。
 そしてスタミナ。確かに正面から殴りあって打ち勝つ自信はある、あの『ノウカウント・ナックル』さえなければ。

「来ないのならばこちらから行かせてもらいますよ…」

(私が、私として鍛えてきたこと……)

 だが、奈津には一つだけ決定的に勝っているといえる部分が一つあった。それに彼女は気付いていた。
 認めたくないもの。だが、それも含めて今の自分。

ふわっ……

 奈津の身体が、まるで重力の楔から解放されたかのように宙に舞う。

「ん!?」

 事前の予備動作の殆どない、ノーモーションのジャンプ。そこから彼女は飛び足刀を放つ。

「破ァ!」

「ぬっ!」

 それを音河は腕を組んで受ける。そして奈津は受けた音河の腕を踏み台に、もう一度ジャンプする。
 ふわり、と足場にされた音河自身ですら重さを感じないような軽やかさで、宙に舞う。

「この……」

 その着地直後を狙って、音河は中段回し蹴りを放つ。しかし、それを苦もなく受けると、今度は横飛びに素早く動く。

「逃がさない!」

 同じように音河もまた奈津を追う。音河の『巨体』に似合わずスピードは奈津と同等であるから、置いていかれることなく追随する。

「せいっ!」

 さらにもう一撃。左のロングフックを追随して放つ。
 それをそらすようにして奈津は受け流すと、再びフットワークを駆使して音河から距離を取るように移動する。

「どうしました? 逃げてばかりじゃあ勝てませんよ!」

「……」

 音河の挑発に、奈津は答えない。ならばと音河はヒットマンスタイルをとり、またしてもフリッカージャブを奈津へと見舞う。
 だが、またしても彼女はそれを軽くいなして逃げるように距離をとる。間合いの読みにくいフリッカージャブが二、三まともにヒットしても、それでも足を止めずに動く。

「この……いい加減に……」

 そしてさらに音河はそれを追う。普通の柔道場よりも畳一回り分広いこの競技場を、二人の戦士が縦横無尽に駆け巡る。
 音河は、その足を止めようと奈津へローキックを放つ。

「ふっ!」

 それを彼女は、またしても舞い上がるようなジャンプでそれを避ける。

(くっ、何なんだ?)

 奈津の動きが読めない。確かに、足を止めての打ち合いになるよりは足を使って逃げた方がダメージは小さいだろう。
 だが、それでも音河のジャブは確実に彼女の皮を切り肉を打ち、そしていつかは骨を砕く。
 ダメージは体力を削ぎ、いつかはその足は止まる。だが彼女は動き続ける。

(そろそろか……)

 奈津の目の端が、音河の右足を見る。その音河自身は、彼の右足に起こっている事態に気付かない。
 10分ほどであろうか、音河の攻撃をいなしながら逃げ回っていた奈津が、突然音河に語りかける。

「音河さん、気付きませんか?」

「何がです?」

 跳躍して音河の打撃をかわし、そして着地した奈津は、着地した動きと同時に肉体にバネを貯め、今度は真っ直ぐに音河に突っ込む。

「ふん、自殺願望でもおありですか!」

 当然、音河は件の両手を腰貯めにする構えを取り、奈津を迎撃しようと待ち構える。そして彼女がノウカウント・ナックルの射程に入ろうとしたその時だった。
 視界から、彼女が消えた。

「なっ!?」

「戌打!」

 奈津の縦拳が、音河の腹部に突き刺さる。いつのまにか側面へと回っていた奈津が、音河の内臓を再び揺らす。

(馬鹿な? スピードが上がった!? いや違う?)

 血を吐きながらも、音河はバックハンドブローで奈津を捉えようとするが、それもまた奈津は視界から消えるような動きで避ける。

「気付いていませんか? 私が早くなったのではなく、貴方が遅くなっていることを」

「どういうことでしょう? ……つっ!?」

 突然、音河の足に痙攣が走る。
 まるで、運動不足の人間が準備運動もせずに海へと入り足がつったような、そんな痛みが走る。
 その瞬間、音河ははっとする。

「私と貴方では、私の方が軽いんです。……小さい分だけ」

 スピードが同じでも質量が違えば、当然質量の小さい方が動くのに必要なエネルギーは小さい。
 さらには、持っている筋肉が発揮できる力を体重辺りで割った値が大きくなり、トップスピードは兎も角、初動においては小さな方が速い。
 つまり、奈津の二倍以上の体重を持つ音河が、奈津と同じ速度で動けば当然、スタミナも2倍以上消費する。

「マズったな……それ以上に『疲れていること』に気付かなかったな、まだ改良点はあるってことか」

 頭をかきながら、音河が軽い口調で語る。
 新技『ノウカウント・ナックル』は、脳内麻薬を過剰に分泌させ、それによって身体能力を一時的に向上させることで可能になる技だ。
 過剰に分泌させたそれらが、音河の肉体に疲れを感じさせなかった。故に、奈津と同じ速度で動き続けたことで、音河の筋肉は悲鳴をあげ、骨は限界にまで達しようとしていた。

「全ての物事は表裏一体。長所が短所に、そして短所が長所にもなる。これは、私が敗北から学んだ教訓です」

 そう、静かに奈津は語る。
 奈津の小さな身体が、音河の新技が、それぞれの短所であった部分と長所であった部分が音河の自滅を引き起こしたのだ。
 もう、これで音河はおいそれと『ノウカウント・ナックル』を使うことは出来ない。
 これで状況は五分。

「成程ね……負け続けることで、耐えることで見えてくることもあるということですか……」

 音河は震える足で大地を踏みしめながら、それでも雄雄しく立つ。それは、女性である奈津もまた同様であった。

「でもね、僕はそんなのはもうゴメンですよ。もうそんな辛い思いはしたくない。僕はそういうことをしなくても勝てる、そう自分が選ばれた存在だと信じる。その傲慢が、僕を支えてきた」

「鍛えずに得た力など、ただ才能にかまけて勝利だけを追い求めて、それで得られる力など高が知れます。努力なしで手に入れる栄光などに、何の価値がありましょうか」

 互いの主張は交わらない。他人からはどう見られようと、論理的矛盾が生じていようと、それが彼と彼女が信じてきた道。
 そしてその交わらない主張の溝を埋めるかのように、二人は間合いを詰めていく。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 四歩。
 西部劇、はたまた剣客映画の決闘のように、二人は互いを見据えたまま、互いの制空権を交わらせても尚、二人は動かない。

「渡部奈津ッ!」

「音河釣人!」

 動いたのは同時だった。
 奈津の上段蹴りが、音河の右ストレートがそれぞれの顎を捉えていた。

「があっ!」

「ううううっ!」

 一瞬、脳が揺れて意識が自分の頭の中以外の場所に合っても、二人は止まらない。
 打つ。
 叩く。
 掴む。
 投げる。
 極める。
 貫く。
 弾く。
 最早、そこに戦術や作戦が入り込む隙間はない。
 ただ、音河釣人と渡部奈津という二人の人間が、互いの全てを賭けて殴りあう。


 音河は思う。

(改めて…改めて尊敬します)

 音河が奈津の右の膝の皿を、下段のトーキックで破壊する。
 袴の上からでも分かる、大量の真っ赤な液体が裾から流れ落ちる。それでも奈津は倒れない。

(この小さな身体……女性の身……そのハンデでよくも鍛え上げた!)


 奈津は思う。

(美しい)

 今、自分の身体を破壊するためだけに降り注がれる指拳肘膝足。その動きのどれもが、まるで芸術品の如く完成された精密さで襲い掛かる。
 あくまで『対人』のはずの技術が、自分が扱う『対魔』の技術と同等の威力を持って降り注ぐ。
 二週間の明らかなオーバーワークに耐えうる肉体的資質、二週間で新技を生み出す格闘センス。

(これが……これが天才!)



 奈津の人差し指が音河の目に食い込む。
 一瞬、ぼこりと眼球が飛び出し、出目金のような顔になりながら、音河は後ろへ引くことなく、膝蹴りを既に胸骨が砕けている奈津の胸にぶち当てる。
 もはや、観衆の中で声を上げるものはいなかった。黒百合は流れる火花が弾け飛ぶその場を、じっと凝視する。

「ふっ!」

 どちらが放ったものとも判断のつかぬ前蹴りが、どちらともつかぬ腹部に触れ、二人は離れる。

「もう、これ以上もたない…」

 音河が奈津に聞こえぬよう呟く。

「決着を!」

 そしてそう叫んだ奈津は、自分の右手を左手で覆い隠すようにして構え、身を深くして構えた。
 その構えは、まさに無刀の抜刀術。居合いであった。

「渡部征鬼流無刀術、申打」

 それを見た音河は、当然両手を腰貯めに構え、そして自身の脳のリミットを外す。
 その瞬間、音河の右腕の筋肉がはじけ、真っ赤な彼岸花が咲いた。

「まぁ、限界超えて酷使すればこうなりますよね」

 他人事のように呟く。
 何故、人間の力が制御されているか。それは、一度全力で行使すれば筋肉自体がその力に耐えることが出来ず破裂してしまうからだ。
 それは音河とて例外ではない。加えて、彼の右腕は奈津によって一度脱臼させられている。

「さて、行きましょうか」

 しかし音河は何事もなかったように構える。

 この場にいるものならば、例え子供であっても分かるだろう。
 次の一撃で、決着がつく。

「ごぉおおおおおおおおお!」

「しゃあああああああああ!」

 二匹の獣が吼え、大地を蹴り飛ばす。
 その様子は、まるで威嚇しあうようでも、互いを求め合うようでもあった。

「申打!」

「ナックル!」

 先に解き放ったのは奈津であった。身体をそらせながら、解き放たれた左手の裏拳が弧を描いて音河の脇腹を襲う。
 刹那の後、音河の拳が真っ直ぐの軌道で奈津を狙う。

 閃光、爆音。
 そして数秒前の緊張が嘘のような間延びした時間が流れる。

 そうか。
 これがそういう力なのか。
 なら僕は
 今迄の僕はどうすればいい。
 これからの僕はどうすればいい。
 十三にも負けて、そして。

 ゆっくりと、音河の身体が倒れていく。
 奈津の裏拳が、しっかりと、そして深々と音河の脇腹に突き刺さっており、そして奈津の小さな頭の紙一重上に、音河の拳が通っていた。
彼の膝が崩れ、そして身体が曲がり、そのまま奈津へと倒れこんでいった。


つづく


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